曳山コースの変遷  平成17年10月制作   管理人:山内薬局 吉冨 寛

唐津神社が城内に移動され、その後寛文年間に神幸祭が始まり、今日までのお供日コースの変遷を様々な資料を交えながら検討してみました。
神幸祭が始まる以前は毎年欠かさず春秋の大祭を天平勝宝七年以来続けてきたと言います。

「曳山のはなし」古舘正右衛門著より
 戸川家の口伝によれば御神事は寛文年間(一六六一〜七二)から始まったという。従って、神輿だけの御神幸は考えられず、現在のような曳山がお供する以前にも、曳山に代わる何物かがあったと考えられる。古老の口伝には、本町は左大臣、右大臣を、塩屋町は天狗の像を、木綿町は仁王様を、江川町は赤鳥居を、京町は「オドリヤマ」を出していたという。そして、これらは「走りヤマ」と呼ばれていたというが、いつ頃からできていたかは明らかでない。

宝暦十三年(一七六三)の土井、水野両藩の交替に関する覚書と思われる文書の一節に

「一、城内唐津大明神九月二十九日祭礼の節西ノ浜へ神輿の行列御座候故寺社役の内より一人同心……相勤目付並組足軽致出役候、惣町より傘鉾等差出於西の浜角力有之候ニ付代官手代頭組の者立会差出候」

 とあるので、曳山ができる以前に神幸に従う作りものがあったことが確められる。「傘鉾など」とは如何なるものか、具体的なことはわからない。

 平松文書によれば、安政六年の神幸に従った引山と順番について、江川町より京町までは仮役、米屋町は不詳、刀町より本町まで本物となっており、順に記すと次のとおりである。

 「江川町(鳥居)・塩屋町(仁王)・木綿町(天狗面)・京町(踊り屋台)・米屋町(不詳)・刀町(赤獅子)・中町(青獅子)・材木町(亀)・呉服町(兜)・魚屋町(鯛)・大石町(鳳凰)・新町(飛竜)・本町(金獅子)」の十三町が記されている。

寛文年間にはすでに唐津の城下は形をなし、下の地図の様であったと思われる。
現在の14台(紺屋町を入れて15台)の曳山が揃う前にも、と言うより、一番曳山刀町の赤獅子が作られる以前から西の浜御旅所へのご神幸は行われていたようである。
 下の地図に記した線は、唐津神社が城内に御鎮座されてから、ご神幸が行われるようになった頃から、肥後堀が埋められる明治24年辺りまでのコースを示している。これはあくまでも私の想像であり、更に文献や資料を掘り起こしてより確かなものにしていきたいと思っている。

神祭今昔譚

「神と仏の民俗学」飯田一郎著より抜粋

時間と道順


 ヤマは廿八日ヤマ小屋から出て各自の町内の然るべきところに鎮座する。若者たちはこの日ヤマ引きの用意をし、子供たちは勝手にヤマに乗って大鼓をたたいたりして楽しい一日を過ごす。夜半過ぎになって多くの提灯をともしたヤマが明神さまの前の広場に集まる。勢揃いをして囃しをはやしながら夜を明かすのが本当なのかも知れないが今は若者たちは一旦帰宅して休養する。そして廿九日朝八時頃再び勢揃して神輿を迎え、刀町の一番ヤマを先頭に、賑かで情緒豊かなヤマ囃しをはやし、エイヤエイヤのかけ声も勇ましく町をまわるのである。昔は明神さまの前の広場から東に明神横小路を通って大名小路に出、それから南に行って大手門を出て内町に入り、本町を通って京町を東に曲り、札之辻橋を渡って魚屋町・大石町・水主町を通り、新堀から材木町を通って塩屋町に入り魚屋町から再び逆に札之辻橋を渡り、京町・紺屋町・平野町から新町を通って浄泰寺前に出、そこから名護屋口の難所を通って近松寺前にゆき、そこの角を曲って坊主町の通りを真直ぐ北に行って西の浜の御旅所に着いたのだという。そして帰りは逆に坊主町を通り名護屋口を過ぎた辺りから各自自由に自分の町内に行ったとのこと。

※京町を曳いている小林君からの助言
 現代の者にも場所が分かるようにとのこと。

私なりに解説をさせて頂きます。
その前に文久2年の神幸行列のコースが分かりましたので線引きしてみました。(令和5年12月29日加筆)
文久2年と言えば幕末、小笠原長行公が徳川幕府の老中格に召し上げられた年で、唐津藩は城主長国でした。
昇格を祝い、通常のコースではなく二の門前まで曳き進み月見櫓から眺める長国公へ上覧したと思われました。
その後唐津藩は大変な幕末を迎える事になりますが、曳山は更に走り山から囃子山へと造り替えられ続けます。

−遺稿−
伝統行事「唐津曳山の歴史」    坂本智生著
 によれば

   ロ、曳山の道順
神輿の御巡幸に供奉する曳山の道筋については、文久二年の大町年寄布達がある。
 御通筋之儀ハ御城内小沢様小路より両御門小路、夫より二ノ御門通り、御月見御矢倉下迄臺引山不残引付、夫より大名小路、大手より本町、京町、魚屋町、大石町、材木町、木綿町、八軒町通り、中町、京町、呉服町、刀町、米屋町、平野町、八百屋町、刀町、江川町、還幸之節新町、平野町、紺屋町、呉服町、夫より大手へ被為入候

このコースを古地図を使って辿ってみた。(吉冨 寛)


 この布達は9月15日付のもので、その内容には、殿様の「御住居」(東高校の校舎敷地)南西角にあった月見櫓の下まで引き込んでおり、通例のくにち″とは様子が逢うが、一般には、宮前から明神横小路を通って大名小路に出、大手口から八軒町通り(辻薬店から佐賀銀行唐津支店辺りの通)で本町に入り、京町から札の辻大橋を渡って魚屋町、塩屋町(浦島通り)を通って材木町、材木町の東詰めから恵比須小路を通って大石町へ。大石町を通り抜け、魚屋町、京町、紺屋町、平野町を経て新町に入り、新町の勢留りから名古屋口門を抜けて町外に出、近松寺の角を廻って裏坊主町の通りを西の浜の御旅所に向うというコースであった。明治になって、水主町、新堀が町方に編入されてからは、水主町、新堀を通るようになる。また明治22年には呼子道の改修が終って、船宮の東橋、町田川の新大橋、鷹匠町から櫨畑、東菜畑を貫通する県道が利用できるようになり、明治26年には、宮前の明神小路から直接に県道に通じる参道が竣工し、近くは、京町筋のアーケード設置などで、現行の順路となった。
 なお、戸川氏の「唐津神事思出草」には、明治初年頃までは曳山とともに大名行列様の供奉が行なはれていたとあるが、これは安政6年からはじまり、白熊が四本、先箱が四ッ調整され、町田、神田辺から二十人余の人が出ていた。この道具一式は明治6年、相知町の熊野神社に譲られた。

その1 大手門時代

ヤマは廿八日ヤマ小屋から出て各自の町内の然るべきところに鎮座する。

まずは当時の曳山小屋の場所をご紹介しましょう。

曳山まにあ・おじゃがの独り言 おまけより

旧曳山小屋は次の通りです。

刀  町:八百屋町通西側 刀町の三つ角より二軒目(旧隈本木工所の隣辺り)
中  町:大手通より南行西側家並の四軒目(マルキョウ・・・の前ですね(誤だぁ!!))
材木町:大石町に南行する西から三番目、三叉路の南西角(既に三叉路は無し、靴屋辺り?)
呉服町:京町境南部、旧於釜屋酒屋の北側(私には解んない・・・)
魚屋町:最東端四つ角の北西角(中島米穀店の隣辺り?)(東の木屋の東隣角では:管理人註)
大石町:天満宮参道の東側、旧舞鶴座の南付近(とり@外町さんの指摘通りです。私の記憶違いだぁ〜(悲))
新  町:中央三叉路八百屋町よりの突き当たり(小松屋旅館辺り?)(銭湯のあった場所?:管理人註)
本  町:高徳寺前(海幸寿司辺り?)
紺屋町:常盤屋旅館駅前通り面(またしても解らない・・・)(現在の吉冨商会事務所:管理人註)
木綿町:不明
平野町:藤松眼科医院敷地内
米屋町:行因寺前
京  町:高砂町(京裏町)吉富裏通り(解らない・・・)(吉冨の裏西隣:管理人註釈)
水主町:大石権現社構内(曳山関係者の人なら解る場所ですか?)
江川町:中央四方交差点東北角(タバコ屋辺り)


江戸時代後期の話

10月28日は各町の曳山小屋(上記参照)から曳山を出して、町内の適当な場所で飾り付けをし、頃を見計らって曳きだし大手門前の広場(大手口)に集結し夜を明かす。翌29日、明け六(寅の刻:午前6時)の大手門が開けられ、堀にかかった橋を渡って城内に入る。橋は現在の辻薬局辺りかバスセンターの前辺りかと思われる。大手門をくぐり大手小路(現在の裁判所から北上)を北上。突き当たりの明神横小路を左折し、神社前の広場に曳山を進める。(戸川省吾前宮司の記述による)社頭勢揃いの配置図も省吾さんは書き記していらっしゃる。

唐津神社社報より

図1

大手門時代

 曳山社頭勢揃・曳出の図

図2


江戸時代〜明治

曳山社頭勢揃位置立図


明神さんの御神輿を迎え、その年の順番に従って曳山を曳き出す。先ほどとは逆コース。明神横小路を東に進み、当時の城内メインストリートである大名小路を南下、大手門をくぐり、大手口広場に出て、お堀を左手にしながら本町に入り、京町で左折し札之辻橋を渡って魚屋町・大石町・水主町を通り、新堀(宮島の手前、恐らく現在恵比寿さんがある場所ではないかと思われます。若しくは宮島の角)から材木町を通って塩屋町(現在のハナミズキ通り。と言ってもピンと来ないかもしれませんが、道路拡張した通りです。かつての親不孝通り)に入り、魚屋町から再び逆に札之辻橋を渡り、京町・紺屋町・平野町から新町を通って浄泰寺前に出、そこから名護屋口(現在の藤井酒屋)の難所(階段に土嚢を積み、その上を曳山が通った)を通る。(恐らく前の曳山が難所を通過するまで現在の新町公園の広場は曳山が列び見物人も多かったと思われる。)名古屋口の難所を通って近松寺前にゆき、そこの角を右に曲って坊主町の通りを真直ぐ北に行って西の浜の御旅所に着いた。

唐津神社社報 戸川省吾前宮司記述です。大変参考になります。


 
大昔のころ
  T、東廻り
 町田川を境に、唐津城下町を東西につなぐ橋は、札の辻橋だけしかなく、新大橋は未だ無い頃。
◎大手口→八軒町(大手通り=左側は唐津城の堀(濠)で、柳堀と呼ばれていた。右側に八軒ほどの民家があり、このため八軒町と呼ばれていたようだ。)→本町通へ右折(南進)→京町通・札辻橋方面へ左折(東進)→札辻橋渡橋→魚屋町→大石町→水主町→
宮島醤油先のX字を左大曲(西進)→材木町通→塩屋町(旧・通称=浦島通り)へ左折(南進)→魚屋町通へ右折(西進)→札辻橋渡橋→京町(西進)へ神幸。

  U、中廻り
◎京町通(今の京町アーケード街・西進)→紺屋町→平野町→新町通へ右折(北進)→浄泰寺前(ここは、唐津城下と西地区−名護屋方面−とをつなぐ交通の要衡で、名護屋口御門があり、
神祭の時は、ここの広場を中心にして、サーカス、出店があり大賑いだった。ここから近松寺方面へは階段があり、神祭の時はこの石段に土嚢を積んで曳山道を作った。)を左折(西進)→近松寺前角右折(北進)→坊主町通(北進)へ進み、神幸祭日はお旅所へ、翌日祭日は江川町へ神幸していた。この頃県道二〇四号線(市役所前→西行→朝日町通り)はまだ開通していない。又、済生会病院前から朝日町通りへの道も開通していなかった。

  V、西廻り
◎@神幸祭
 坊主町通(北進)→西浜のお旅所へ(この頃、西浜お旅所の周辺は民家等は全く無く、大砂原であった。最初の三台(刀町・中町・材木町)は曳込競争をしていたようだ。お旅所での休憩は、各町それぞれに砂浜に幕を張り、曳山行列絵図にあるように『浜弁当』のお篭りをしていた。)
 さて、休憩の後、西の浜お旅所曳出→砂山の上にあった明神台(このことは次号へ)の西側真下を通り、今の福本税理士事務所前の通りを(南進)→江川町中央付近の変則五叉路より左折(東進)→江川町→坊主町通へ右折(南進)→近松寺角左折(東進)→浄泰寺前→各町へ帰る。神輿は大手口より大手門を経て神社へ帰る。(尚、お旅所から各町へ帰る時は、提灯曳山で曳いた。)

 ◎翌日祭
 お旅所へは行かず、坊主町角左折(西進)→
江川町中央付近五叉路の道路上で大回転をし、後向きで藤生酒店方面の江川町西詰角まで一番曳山が西進し、二番曳山以降も、順次後ろ向きで(西進)=休憩=建制逆順で町内へ帰る。(この順路説明の概要は、田中冨三郎氏談を参考にした。)

ということは、翌日祭、江川町の休憩後は水主町若しくは江川町が先頭に。
江川町の場合だと、ほんの僅かで曳山小屋。



文久2年の平松文書に次の様な記述があった。


明治に入って
大手門は解放され、「神と仏の民俗学」の記述になろう。
つまり、28日、各町飾り付けが終わって、夜が更けた頃まちまちに大手門をくぐり先ほどの行程で明神前広場に集結。囃子をしながら夜を明かし、29日朝8時頃に神輿を迎え曳山を出す。コースは上記と同様。
江戸時代:宵山は開け六の大手門開門まで、大手口広場に集結し、開門と同時に橋を渡り大手門をくぐり、大名小路・明神横小路を通って神社前に整列。29日神輿とともに神社から明神横小路、大名小路、大手門をくぐって内町へ。
かつての大手門は現在のバスセンターあたりかと
神社前に整列した曳山は明神横小路を通る。
明神横小路は大名小路に繋がり、そこを南下し、
まいづる前を大手門へ向かう。
大名小路を通って商工会議所の角を大手門へ向かう。
大手門に向かう
現在の商工会議所前
大手門を出た曳山は、左手に柳堀を望みながら東へ進む。本町角で南下。京町筋より札の辻へ。
新大橋が出来て本町へは曲がらず直進。
*註 戸川省吾前宮司の記述によれば、江戸時代から明治にかけては、宮島角は三角角まで進んで曲がったようであるが、正保城絵図、明治初年の古地図2種では、材木町から東に進んだ場合、環濠で行き止まり、南下して水主町に抜ける道しかない。橋がないので三角角まで行ったというのは橋が出来てからの話であろうと思われる。
唐津神社社報 戸川省吾前宮司
大昔のころ
 T、東廻り
 町田川を境に、唐津城下町を東西につなぐ橋は、札の辻橋だけしかなく、新大橋は未だ無い頃。
◎大手口→八軒町(大手通り=左側は唐津城の堀(濠)で、柳堀と呼ばれていた。右側に八軒ほどの民家があり、このため八軒町と呼ばれていたようだ。)→本町通へ右折(南進)→京町通・札辻橋方面へ左折(東進)→札辻橋渡橋→魚屋町→大石町→水主町→
宮島醤油先のX字を左大曲(西進)→材木町通→塩屋町(旧・通称=浦島通り)へ左折(南進)→魚屋町通へ右折(西進)→札辻橋渡橋→京町(西進)へ神幸。

水主町の方、この辺の情報お持ちでしたらよろしくお願い致します。
新堀角(水主町側)
新堀角(船宮側)
札の辻

 正保城絵図
 長谷川雪塘画 唐津城下俯瞰図より
正保城絵図によると、札の辻の門は南向き。札の辻公園前に門があり、それをくぐって札の辻橋を渡ったようだ。
また、札の辻には内町にはいるための番所があった。
 しかし、果たして刀町の赤獅子が出来た頃、屋根付きの門があったかどうか?
 寺沢志摩守が城下を形成された頃は外敵の防御に堀を廻らし限られた三ヶ所(札の辻・名護屋口・町田口)から城下にはいることが出来た。
 曳山が通る箇所は札の辻と名護屋口。私の勝手な想像だが、最初は屋根付きの門だったが、老朽化して立て直そうということになり、屋根を取り払い木戸の門とした。
 それ以来大手門をくぐれるだけの高さがあれば大丈夫となり、滑車を使って曳山を上下させ大手門をくぐる囃子曳山が登場した。

正保城絵図

よく見ると京町ではなく、横町と記載してある。同じくこの絵図には刀町の名がない。しかし、この時には両町とも存在している。


下の長谷川雪塘の図にも屋根付き門が描かれているが、雪塘は幕末から明治にかけて作品を手掛けている。この絵は果たして当時を忠実に描いているのだろうか。色々と夢がふくらむ。
現在の札の辻橋

手前左の入り江は外堀(通称:猫川)
 

正保城絵図には、案内板の通り名護屋口は南向きである。

現在の新町公園から藤井酒店〜力山整骨院辺りまでが広場になっていたようで、この地図通りであるならば、現在の地形を考えて階段の下に名護屋口があったのかもしれない。名護屋口の門が南向きとすれば、現在の藤井酒屋を門の西、浄泰寺の西隅手前を門の東と考えられる。門をくぐるため、勢溜まりの広場で太鼓をはずす町もあり、曳山を下げ、順番を待つ。階段に土嚢を積み、その上を曳山がゆっくりと下り、梶を切りながら名護屋口の門をくぐっていったと考えられる。くぐり終えた曳山は再び太鼓をくびり直し、曳山を上げ、外堀を渡って近松寺前へと進む。
案内板の地図では更に西側、力山整骨院辺りに名護屋口を設定してあるようだが、坂の上に南向きに門があり、その下に石段があったのではないか。
   
 札の辻でも推理したが、屋根付きの門は取り払われ、木戸の門に姿を変え、高さを気にせずに通ることが可能になったのではないかと。 
屋根付きの門時代は傘鉾山、走り山時代。これらは高さ制限があったと考えられる。 (2009.6.3)
 
 
近松寺

その2 肥後堀が埋められる頃

古舘翁の「曳山のはなし」では明治24年にお堀が埋められた、更に新大橋ができたと記載してあるが、「佐賀県の地名」によれば新大橋の架橋は明治33年である。また、「唐津市史」によれば佐賀〜呼子の県道は明治23年竣工、完成は何年なのか書いてない。さらなる確認が必要であるが、新大橋架橋を明治24年として解説したい。また、下記の石井忠夫氏の記述に依ればお堀の埋め立て完成は明治26年のようである。

明治24年 明神小路の南端の肥後堀・柳堀を埋立て材木町の新大橋ができ、鷹匠町北側の道幅が拡張され、西寺町の道路が新設され県道が坊主町を貫通するに及んで神社所有地の明神小路東側の宅地を借用して内町及び魚屋町の曳山小屋を新築するに及んで、暁の曳山の各町から神社前集合をやめて、曳山小屋前に並列するようになった。刀町の曳山を南端に、西面して順次並べることとなった。従って大手小路の北進もなくなり、社前広場の並列もなくなった。

29日の早暁、提灯をつけて曳き込み、曳山を並べて提灯の火を消して曳子は一日帰宅し朝風呂に入り斎戒沐浴したうえ、改めて正装して定刻前に曳山についたものである。
 右のように並列の場所が変ったため、巡幸の順路も変り、明神小路から真直ぐ大手口に出て材木町まで東進、新堀船宮の境の四ツ角を南折、水主町を西進、大石町・魚屋町・京町・紺屋町・平野町と進み、平野町の西端で新町へ北進、浄泰寺前から刀町の方へ東進し大手口の広場で曲って県道を西進、鷹匠町・西寺町を経て表坊主町の四ツ角を北進して西の浜の御旅所に着くように変っている。
 帰路は前述のとおり、江川町を東進して表坊主町を南進して県道を東進、大手口広場、明神小路入口の県道まで御神輿に供奉し、ここで各自の町内へ曳き帰ることに変った。

(古舘正右衛門著「曳山のはなし」引用)

旧木造曳山小屋
刀町、中町、呉服町、魚屋町、新町、本町、木綿町、平野町、米屋町、京町

この曳山小屋の順番をご存じの方、どうか教えてください。




新大橋架橋の後

明治24年、新大橋架橋後は、大手門をくぐった後、内町に入り、本町に曲がらずに、新大橋を渡り、外町へ。材木町・新堀・水主町・大石町・魚屋町・札の辻橋・京町・紺屋町・平野町・・新町へと続く。

(松浦文化連盟編の写真集・明治大正昭和唐津によれば、新大橋架橋は明治23年である。23年説・24年説・33年説。どれを採るかで曳山のコースは決まってこよう。(現在調査中)

佐賀呼子県道の開通に伴い、新大橋架橋(明治24年)
この木橋を渡っている材木町の曳山の写真を見たことがあります。
ふるさとの想い出 写真集明治大正昭和唐津より
昭和初期の新大橋を渡る曳山です。
木橋から石橋に変わっています。
橋の上には軌道が見えます。

唐津遊覧写真集より
現在の新大橋


明治26年、お堀埋め立てにより明神横小路を通らずに明神さんの参道を真っ直ぐに南下し、大手口に出るようになる。その後は明治24年のコース。新大橋を渡り外町へ。


浄泰寺前を刀町に曲がったのはいつからかは調査中

名護屋口へ向かわずに浄泰寺前から刀町に曲がった年代は古舘翁の記載から明治24年辺りとすべきであろうか?
 上記、石井忠夫氏の記述に依れば、明治24年に佐賀・呼子県道が出来ている。つまり旧唐津銀行→大手口→大手口広場から刀町の北裏を肥後堀に沿うて開道。 この時に名護屋口に向かわずに刀町へ進んだとも考えられる。また、明治26年に明神小路の道幅が広くなり、肥後堀の埋め立てにより参道と現在の県道が繋がって、大手門をくぐらないようになった。

名護屋口に向かわずに刀町に曲がったのは佐賀・呼子県道が通じた明治24年にしたいところである。

商工会議所ニュース「思い出トピック」より
変遷著しい大手口一帯


 われわれの生活環境は、時々刻々と変ってゆく。現に最近大手口にあった唐津神社の大鳥居や石灯籠が、神社境内に移されて、明神小路は路幅まで広くなった感じがする。ここで昔にあこがれる老人の記憶をたどってみる。
 今の市役所、前の唐津小学校前に堀があって、西に迂回し城内と町家とを区劃していたことは、大概の人が知っていようがその堀の東の方、俗に大手口という唐津の中心地域がどんな状態であったかを知っている人は少なくなってゆく。
 はじめ寺沢公が唐津築城の時、城内と民家街とは確然と区劃され、城内外の交通連絡は、一は西の門、今の志道小学校裏通り西方の石垣のところ、一は大手門今の裁判所前ロータリーのあたりの二カ所に限られ、両所とも小楼門があって門番が看視していた。そしてこの大手門から西の門までの堀は肥後藩の受持土工であったため肥後堀といわれていた。それから東の方はまいづるデパート、バスターミナルの敷地が全部堀であって、ロータリーの西辺で右折、そこに大手門があり、それから東は柳堀といって大越デパート辺から左折し、唐津信用金庫、福岡銀行支店、佐賀銀行支店を始め今の大手通り北側総帯が堀の水面で町田川に続いていた。

 そして明神小路は神社前から今の商工会議所前四つ角までで行詰まり、道幅も二間足らず西側は士族屋敷と草むらが点々して寂しい通りであった。そして唐津神祭には神輿行列は社前横小路を東へ大名小路に出て右折大手門から町に出ていたが、道が狭いので参詣人も少なく、浄泰寺前の勢溜り広場札の辻の高札場に見世物小屋や露店が出て賑わったそうである。
 ところで当時数年に亘って懸案であった佐賀〜呼子県道が実現することとなり今の佐賀銀行前の通りを西へ刀町から近松寺角を曲り江川町を通る計画であったが、刀町、江川町では家並みに軒先を切られるというので大反対となり、計画変更して大手口広場から刀町の北裏を肥後堀に沿うて開道、二十四年に呼子県道が出来上った。そこでこれを期として唐津神社氏子惣代前川仁兵衛他四名から、明神小路南端から呼子県道に結ぶ道路開通のため、肥後堀七十余坪の埋立を県に出願、許可が出たので同時に明神小路路幅を五間半に拡大することとして私有土地八百余坪を買収して、八百屋町佐々木吉治が監督となり、工事の大半は氏子有志の奉仕によって、二十六年早々完工した。此の時石灯籠を木綿町から記念として献納されたのである。
 そして明神新道路以西の肥後堀は、防火用水、暴雨洪水緩和の為に、堀そのままとして今のまいづる、昭和の地点全部埋立て、公私夫々に売払ってしまった。
 又西側は大正年間に三ケ島通義、吉村福太郎の二人から払下げ出願があったが許可なく其儘になっていたが、市の中心部が東西に分断されて何かと不都合だと昭和二十四年度に失業救済事業として現状のように埋立てた。之れはまだ新しいことで人もよく知っているから、此のくらいにしておこう。
 尚、今度移転した石の大鳥居は昭和六年八月一日に刀町宮崎清太郎氏によって献納されたものであった。

(唐津商工会議所ニュース「思い出のトピック」 昭和44年11月15日より)
ペンネーム山中海太郎(石井忠夫)

商工会議所ニュース「思い出トピック」寄稿をまとめて、昭和52年に「明治・大正の唐津」として発刊される。

石井忠夫
【著者略歴】
∇出生 明治二十年七月十八日、出生地旧神埼郡蓮池町(現佐賀市)
∇学歴 旧制佐賀中学卒明治三十八年三月、早稲田大学卒明治四十三年三月
∇職歴 佐賀市西海新聞支局入社明治四十四年、同社唐津本社勤務、唐津へ転住明治四十五年、同社
在勤大正八年まで、その後、松浦毎日新聞発行、同廃刊後、電気企業所創設経営、唐津近松座、湊劇
場電気工事請負、有浦発電所同上、のち鉄工業経営、航空普及会主宰(自昭和六年、至同十二年)、
唐津市図書館長(自昭和十五年、至同三十年)、以後自適
 (後記昭和四十九年十二月十七日逝去)
参道が整備され、現在の県道と繋がったのは、明治26年。

明治43年9月28日(水) 新聞記事

神祭日変更
  本郡各町村の神祭(俗に供日)は、本年より陰暦廃止の結果、
  従来執行し来れる陰暦日を1ヶ月充繰延べたるを以って、
  唐津神祭は、来る10月29日に変更したり


明治5年11月9日新政府は、太陰暦から太陽暦に変更します。
しかし、一般社会は、公式行事を除いて、依然太陰暦の社会です。
そこで、四国出身の某前代議士が熱心に、日露戦争の戦勝国になった日本にふさわしく、太陽暦にすべてを統一するよう提言します。
これにより、明治43年1月から暦に記載してあった陰暦が削除されます。
これが「陰暦廃止」で、庶民生活は、いやおうなしに太陽暦に移行してゆきます。
 県内の社寺の祭日は、単に陰暦の日を太陽暦の日に変更する例が多いようです。
唐津は陰暦9月29日により近い10月29日を神祭日と定めました。

唐津神社社報17号(昭和43年10月1日発行)より
 〃唐津ぐんち〃で知られる、唐津神社の秋の大祭は古来この神社が、今から千二百年前の天平勝宝七年九月二十九日に唐津大明神″の神号を時の帝、孝謙天皇より賜ったという御縁起にもとづいて行われて来たものであります。
 当時は勿論旧暦によったもので、明治になり一般に新暦がとり入れられても尚明治四十二年までは旧暦のまゝつづけられて来ましたが、翌明治四十三年からは当時の内務省からの勧めなどもあり全国神社の祭礼期日は、旧暦を廃して新暦とすること。但し、一ケ月遅れとして、季節を大体合わせることゝして改められることゝなり、唐津くんちもこの例に做ったものであります。
 爾来五十余年間、唐津人はこの十月二十九日という日は身に、心に泌みついた忘れ難いハレの日として親しんで来たのであります。

その3 昭和初期あたりまで

この地図ではまだ済生会の前の道がつながっていません。
大正15年10月5日発行の地図を使用しました。
日本交通分県地図其二十九佐賀県より抜粋
佐世保要塞司令部認可 東宮御成婚記念
 

平成25年10月12日
東町松下氏より、松下家の日記に貴重な記述ありとのこと。

大正13年10月29日
山笠曳廻し本年より以後我が町の橋側を廻る

それまではその手前なのかもう一つ前の新堀角を右折南下して水主町に入っていったのか調査中。
また、その後いつから三角角まで行かずに手前の宮島角を曲がるようになったかも調べなければなりません。
そして再び三角角まで進み鋭角に曲がるようになったのは昭和57年からです。


10月28日宵山
各町曳山小屋から曳山を出し、それぞれの町に持って行く。
飾り付けを済ませ、夜中に各町バラバラに神社前に曳山を曳いていく。

10月29日御旅所巡幸
神社を出て大手口・材木町・宮島角(三角カドの手前)を水主町に入る。
大石町・魚屋町・札の辻橋を渡り京町・紺屋町・平野町・新町・刀町・大手口
坊主町角から西ノ濱御旅所へ曳き込み。
曳き出し:御旅所(唐津高等女学校脇の砂山にあり、その後西高の体育館建設に伴い現在の位置に石垣をついて御旅所を作る。大成小学校が出来るとともに石垣は撤去)を出た曳山は現在の産業道路を横切り、唐津高等女学校(西高)の西側の砂地を通る。他町の加勢を要した。
南下し江川町の長野板金横に出て江川町を東へ進み、長谷川御茶屋から路地を右に折れ田辺産婦人科前を通り坊主町県道に出、大手口へ、その後は各町に曳いていく。

10月30日
神社・大手口・材木町・水主町・大石町・魚屋町・札の辻・京町(アーケードが出来るまで京町に14台の曳山が勢揃いして昼休み)・紺屋町・平野町・新町・刀町・大手口・坊主町?恐らく現在の坊主町郵便局で左折、次を左折して田辺産婦人科前を通り坊主町県道に出て大手口・神社というコースではなかったか?誰か教えてください。
大正15年の地図です。
御旅所から唐津高女の西に曲がった道があります。そこが江川町に向かう道。
あまり正確ではなさそうですが、勿論済生会前の道はなく、また、朝日町に抜ける道(藤原外科の道)もありません。

江川町辺りのコースは、産業道路が完成し、済生会前の道が朝日町に繋がる前と後で変わったものと考えます。

近松座と世界館は場所が違います。赤で訂正しました。

世界館:大正2年(唐津初の活動写真館)
近松座:大正3年(劇場・枡席)






唐津神社社報より


図3

参道に木造の曳山小屋ができ、10台はここに格納した。
この時の曳山小屋の順番をご存じの方、いらっしゃいませんか?
メールでお知らせください。



 曳山社頭勢揃はこの場所になる。



まいづる百貨店横の大鳥居、大灯籠は昭和44年8月に撤去、唐津神社境内に移築される。
御旅所を出て西福久前の道を南下。
江川町角に向かう
砂地を過ぎ、福本税理事務所前を通る。
江川町に出て東に向かう。

江川町角を右折、田辺歯科前を通り、坊主町の県道に出る。
坊主町県道出口(裏坊主町角)

その4 戦後(古い言い回しかな?)
昭和20年代
戸川省吾さんの記述

@神幸祭
 →西の浜(お旅所)へ曳込み。(この頃より浜には建物が建ち始めている。)
休憩の後=お旅所曳出し→明神台砂山の真下(斜め南進)現在の福本税理士事務所前通(南進)↓江川町五叉路左折(東進)→江川町(東進)坊主町へ右折(南進)→県道へ左折(東進)→大手口→各町へ帰る。
 その後、済生会−朝日町道路開通により、江川町五叉路を右折(西進)→江川町西詰角を朝日町方面へ左折(南進)→県道へ左折(東進)→朝日町通(東進)→大手口から各町へ帰るとなった。
 又、富士見町通開通の後数年間は、何台かの曳山が砂場に入るだけで、あとの曳山は道路上に据曳山だったこともある。
 更には、富士見通開通及び、砂山上の明神台移転等により、お旅所から江川町五叉路への神幸が不可能となり、 お旅所曳出→富士見町(通称・産業道路へ(西進)→西浜町入口角左折(南進)→済生会病院前通りを南進し→江川町西詰角左折(東進)→江川町(東進)→坊主町角右折(南進)→この時、田辺産婦人科病院前を通る曳山もあった。→県道へ左折(東進)→大手口→各町へ帰る。

◎翌日祭
 現・坊主町郵便局角左折(西進)→江川町(西進)=江川町西通で休憩=曳出→江川町西詰角左折(南進)→県道へ左折(東進)→朝日町通(東進)→坊主町信号機直進→大手口→各町へ帰る。

後に済生会前の道が通じ、朝日町に抜けれるようになってからは、29日は江川町角(長野板金)から西に折れて江川町を西に進み、30日は大手口→裏坊主町(旧田辺産婦人科前)→江川町→朝日町→坊主町→と続く


西ノ濱の明神台
この頃は唐津高女北西の砂山に明神台を設置した。
現在の産業道路はなく、森本病院辺りから砂地で、現在の産業道路は道路らしきものがあった。
刀町・中町はその道路の南側、つまり砂山の明神台の下に曳き込み、材木町からは道路の北側に曳山の順に弧を描いて整列した。
 1953.10.29江川町曳き出し

タイトル「長い砂地」

現在の大成公民館辺り、砂山の明神台の西側の砂地を江川町へと曳き出す。
水主町が加勢をする二町曳きの様子がよく分かる写真。
産業道路はまだ砂地でした。

(平山康雄氏より)
昭和32年頃
御旅所を出て産業道路を西へ、福島肉屋から済生会病院の前の砂利道を通り、朝日町県道に出て、現在のコースをとる。

また、明神台の場所であるが、西高の体育館建設に伴い、西ノ濱に石垣をついて明神台を復元していたが、昭和32年、大成小学校建設により石垣が崩され、それ以来神祭当日の仮設の明神台となった。
御旅所明神台の変遷を参考にされたし
 
1957.10.29
平山康雄さんから送られてきた画像

昭和32年神幸祭より、砂山〜江川町ではなく、産業道路〜済生会前と変わる。
産業道路を進む珠取獅子、先に米屋町・平野町が見える。

歩道橋が出来る前の昭和42年まで産業道路を西進した。


   大成小前の歩道橋が出来るまでは
済生会病院前の砂利道を通る。
   済生会病院へ
   宮島角
   宮島角を右折し、水主町へ
ここは各町見せ場で、一気に曲がっていた。
左には結構大きな溝があり、子ども達はそこに落ちないように必死。年少者は手前で綱からはずされ、新堀角から先回りし、綱に着いた。
  宮島角を一気に曲がる金獅子
あれ?角がない!

本町の方にお聞きしました。
その当時、宮島の角あたりにパイプが通ったアーチがあり、それを避けるために角をはずしていたそうです。
また、大手口の大鳥居も角をはずして通ったそうです。
その昔、大手門をくぐる時にも角をはずしていたんでしょうね。

また、平成9年の総塗り替えの時に二本角の長い方の角が上の方だけはずせるように作られたそうです。
よく見れば長い方の角の中程(短い角の高さ)に線が見えますよね。
 
   現在の三角角




昭和40年 宵山
刀町の曳山の曳き出しをくんちの暁でなく、前日の夜九時と決め、東行する間に各町が曳き順通りに各町から一番近い場所で参加することとし、材木町から水主町・大石町と通り、新町から刀町・大手口を経て曳山小屋前に勢揃いすることにしていた。(「曳山のはなし」引用)
昭和42年  神輿の担ぎ手が少なくなり、この年から昭和45年まで丸通のトラックの荷台に神輿を載せて神幸が行われる。
42年10月29日は次のコース。

 △二十九日 午前九時を期し刀町を先頭に曳き出し例年のコースを辿って大手口に引き返し、坊主町郵便局角から西の浜に入り大成校前の明神台御着休憩後、還幸は三時に出発し、西の浜屠畜場前から江川町通りに出で、往路の坊主町通りから郵便局横−県道に出て、唐津神社前に着いて第一日を終る。(昭和42年10月24日唐津新聞記事による)
   
昭和43年 11月2.3.4日に変更。

【S43・3・16 産業道路に通学専用の
歩道橋完成し大成橋と命名さる】@ネ寸さん情報提供


唐津新聞 昭和43年10月28日

曳山順路変わる
「歩道橋」初の迂回コース
江川町を二往復

 唐津市では明十月二十九日から市における最大年中行事の唐津くんち¥T間に入り、明二十九日はことしから行事を変更して唐津くんち第一日の唐津神社秋祭りの本殿祭りを厳修し、午前九時から八百屋町と中町との総行事町内の奉仕者により、同神社二台のおみこし≠拝殿に遷座してみこし飾りを行ない、十一時から戸川宮司が斎主となり、戸川副宮司ほか七十人の氏子総代参列のもとに本殿祭りを執行。おみこしはそのまゝ十一月三日朝西の兵への遷幸祭まで拝殿内に安置することになっている。
 なお十一月二日の前夜祭から三、四日両日の曳山行事は次の通り

▲前夜祭 唐津くんちの名物曳山十四台は、二日の午後四時ごろまでに唐津神社前通り、明神小路の曳山格納庫からおのおのの町に届けられ、同夜九時から一番やまの刀町(赤獅子)を先頭に、三つはやしもにぎやかに曳き出し、大手通り、新大橋、材木町、船宮関外科角から水主町を曲り、大石町、魚屋町、京町、平野町から新町 さらに刀町町折れ大手口から十時半までには明神小路に整列することになっているが、この間に呉服町、中町、本町、木綿町、材木町、水主町、大石町、魚屋町、京町、平野町、新町、江川町、材木町が刀町を先頭とするひき山の列に入ることになっている。

▲遷幸祭ひき山 明くる十一月三日(文化の日)はことしから変更したひき山本番の遷幸祭行列で、唐津神社における遷幸の神事が終るとともに刀町を先頭に神社前をひき出し、中町、呉服町、材木町のひき山の後に唐津神社のみこし二台に戸川宮司、神氏子総代がつゞき次いで魚屋町、大石大神杜のみこし八島宮司、氏子総代に、ひき山がつゞいて、大手通り、材木町から船宮々島醤油前に曲り、水主町 大石町通り、平野町、新町、刀町、大手ロ、弓鷹町県道、西寺町、坊主町、西朝日町から藤原外科横通りに折れ更らに江川町に曲り表坊主町通りから西の浜、大成小学校前明神台のお旅所着は午後一時の予定で同所で秋祭りを執行し、午後四時お旅所発、裏坊主町通りを経て坊主町交差点から県道に出て各町へ

▲町まわりひき山 各町のひき山は翌日午前十時唐津神社前の明神小路に整列し、十時半ひき出しにより例年通りのコースで市内を一巡する。

ことし三日のコースを変更したのは大成校前の歩道橋下が通れないことになったためである。
 
 
 
 昭和45年京町アーケードが出来た年から2〜3年間何度かコースが変わった。
  旧唐津駅には緑の陸橋が架けられていた。貯炭場の横には緑の大きな起重機。
その前はデコボコ道。商店街から駅の突き当たりには枕木の柵がしてあり丸通の馬車馬が繋がれていた。
運動会前には足が速くなると言うことでその馬糞を踏みに行っていた。
京町・高砂町・中町の子ども達の遊び場は猫川。銭湯のボイラー室横を通り抜けるとイチジクの木、更に土手を滑り降りると猫川に達する。飛び石があり向こう岸に渡る。枝振りの良い楠にロープが掛けられ、ターザンごっこをして向こう岸に飛び移ることも出来た。向こう岸は丸通の倉庫群。猫川を倉庫縁に下り、廃車になったトラックの運転台が放置してあり、そこもまた子ども達の格好の遊び場だった。
貯炭場には怖い犬がいた。東西に別れて石炭を投げ合って遊ぶこともあった。(遊びの事ばかりで失礼しました。)
 
  唐津駅東の起重機
その向こうの建物は衛生社、
遙か彼方に鏡山
   


昭和45年 宵山
文化会館ができた昭和45年から刀町を先頭に東面して北へ並列することになった。
(曳山の話」引用)
44年までは宵山ではシャッター格納庫前に西面して北へ並列していた。

京町アーケード完成に伴い、札の辻から文化写真館角を左折し、衛生社前を右折、左手には貯炭場、右手には丸通の倉庫が立ち並ぶデコボコ道(鉄道用地)を通る。夜来の雨で水溜まりが至る所にでき、曳き子を悩ませた。(昭和45年曳山巡行図にて確認:祝開館曳山展示場・文化会館)



また、京町に限って申せば、京町アーケードが出来るまで、昭和44年までは、曳き出し後、京町に帰る際には、大手口→刀町→米屋町→紺屋町を通って京町に西側から入り、京町の西組・中組・東組を通り、東の端、札の辻まで曳いて帰っていた。

   
昭和46年 前年の丸通倉庫前のデコボコ道を避けて、札の辻から文化写真館角を左折せず、直進し、アーケード入り口より右折し本町に入り、竹屋前を通って刀町・米屋町・平野町のコースをとる。4日の昼は米屋町通り西側に東面して北から整列。その後数年そのように止まることになる。東側に西面で止めだしたのがいつからかは調査中
(ふるさとの想い出 写真集明治大正昭和唐津より)
写真は11月4日昼
米屋町通りに整列した様子。
なぜか新町が最後尾に北面している。


報告:この写真はくんちの写真ではありませんでした。
昭和45年10月18日
曳山渡座祭

 新曳山展示館に曳山を納める儀には先づその名称を種々考慮中であったが、昔は落成式のことを「わたま」と言ったので、その由来を探ってみると、新しく御殿が出来上り神様又高貴なお方がそこへお入りになることを「わたりまし」と言う意味らしく、漢字としては移徒又は渡座とあてはめてあることから考え出し、曳山も貴いものとして展示館も御殿にぞらえ移従をとらず、渡座祭とは名付けた次第である。
 その期日も十月十八日と決め、当日一旦山を各町内へ持参して顔見世をなし、午後一時米屋町の広小路に集まり文化会館前に勢揃いする。是れより先、新展示館玄閏前に祭場を舗設して市長議長外氏子総代、曳山総取締以下曳山関係者全員の参列の上、先づ修祓、戸川宮司祝詞を奏し玉串を捧げて祭典を終れは、直ちに餅撒きをして、又祭場には四斗樽の鏡割をなし、威勢よく景気をつければ、刀町赤獅子は早くもお囃しをして勇ましく曳出せば、各町もこれに続き次々に見事に無事展示館に納まった。その壮観なること各町が競合いつつその囃も高調にて展示館に入る様は思いの外の見世場となり、神祭の最後を飾るに相応しいものとなること疑いなし。
 納め終りて各町場内のよき所に伸取り祝宴を開き、大いに気勢を揚げた。
 この日夜来の雨も上りて絶好の渡座日和に曳山は文化会館と相和して照映え、参観者又予想外に多く、唐津神祭の前奏曲の様で大賑いを呈した。


唐津神社社報より


更にこの年、花田家より神輿車の奉納により、それまで不評だったトラックによる巡行から神輿車に替わった。
唐津神社社報第24号  昭和47年5月1日発行
神輿車奉納  花田家より
 昨年秋のおくんちは従来の自動車に替って、華麗な曳車神輿になった。
 これは近年来不評をかっていた自動車を何とかして立派な曳車にしたいものと氏子中が願っていたものであるが、その当の大総代であった花田繁二氏が急逝されてから御遺族の方が御生前の氏の念願を叶えるべく多額の浄財を以って製作し奉納されたものである。この車は黒地の車体に黄金金具を打ったもので、赤塗りの大車輪のいわゆる御所車風のもので、曳山にもよく調和して、神幸行列に精彩を放った。
 これに関連して神輿伴揃いの人々の服装も曳山の曳子風に又供奉の氏子総代の服装も袴着用一文字笠、白扇といづれも新調し面目を一新した。

昭和47年
  猫川の上に道路が出来、その年から猫川上の新しい道路を通り京町→中町→大手口→刀町→米屋町の現在のコースになる。
(福本画伯のコレクションより、昭和47年の曳山巡行図を見せて頂きました。)


 昭和47年、猫川の上に道路が出来、その上を曳山は通り京町のアーケードをくぐって中町へと進む。
貯炭場跡は国鉄管理の駐車場となる。確か月極5000円じゃなかったかな。もちろん丸通の倉庫も解体。猫川の上の道はまだ行き止まり。その後再び猫川の工事が進み、旧玉屋旅館が崩され駅へと続く道が出来る。
 

昭和57年 宮島角を、先の三角屋(陶器店)角を鋭角に曲がるようになる。
昭和59年 宵山コースが江川町まで延びた。
令和3年   令和2年は新型コロナの影響で春季例大祭、及び秋季例大祭は曳山を出せず。11月3日神輿の渡御もない。神事は挙行。拝殿前で神田カブカブ獅子の奉納有り。
令和3年は神輿の渡御の代わりに唐櫃にご神体の鏡をお納めしての神幸行列であった。
アルピノを出立する訳だが、刀町赤獅子のみが参道に入り、唐樋を先導して大手口に出てくる。刀町〜米屋町通りに待機した曳山が続く。三番曳山の後に空櫃の順。コースは例年通りだが、仮設明神台は組まずに御旅所祭を行う。曳山は歩道に並ぶ。江川町が並んだところで刀町が出発という段取り。翌日祭は中止なので大手口から中町を南下。再びアルピノの仮展示場へ納める。16:00には全てが終わる。

14台の曳山は浜を向かって西から東の方向に整列する。
江川町が整列すると同時に刀町が出立する。
コロナ禍での神幸祭ならではのお旅所風景だった。
(写真提供:藤田直記氏)
令和4年  


現在のコースです。(2004年曳山巡行コースより)

番外編
 
出動編

情報をお待ちします。


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