唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第17号  昭和43年10月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
神幸祭を
十一月三日・四日に
今年から変る

 〃唐津ぐんち〃で知られる、唐津神社の秋の大祭は古来この神社が、今から千二百年前の天平勝宝七年九月二十九日に唐津大明神″の神号を時の帝、孝謙天皇より賜ったという御縁起にもとづいて行われて来たものであります。
 当時は勿論旧暦によったもので、明治になり一般に新暦がとり入れられても尚明治四十二年までは旧暦のまゝつづけられて来ましたが、翌明治四十三年からは当時の内務省からの勧めなどもあり全国神社の祭礼期日は、旧暦を廃して新暦とすること。但し、一ケ月遅れとして、季節を大体合わせることゝして改められることゝなり、唐津くんちもこの例に做ったものであります。
 爾来五十余年間、唐津人はこの十月二十九日という日は身に、心に泌みついた忘れ難いハレの日として親しんで来たのであります。
 然るに戦後は、世相が急激に変化して、この十月二十九日に、あのような盛大な山曳き行事を伴う神祭りを行うには、これに参加奉仕する氏子の中でも特に曳山関係の町内から次のような理由で神幸祭日の変更をこの六、七年前より検討されはじめたのであります。

 その理由は、
一,今日の商取引は、旧来のような盆暮決済ですむようなノンビリした経済状況ではなく月末決済となり、そのため月末は最も多忙な時期である。このため、特に曳山関係町に於ては、商店経営者及びこれに関連した人が曳子であるので、この月末くんちについては相当の犠牲を払っている。
一,期日を十一月三日と四日に変更すれば、月末の取引多忙な日がさけられること。十一月三日は文化の日で休日のため、帰省者にとっても又特に中小学校生の参加が容易であること。又、この日になれば休日であり、外来の観光客も増加して、市発展の上からも寄与することが大であること。
 以上のような理由で、こゝ数年来言いつゞけられた諸方の声を集約して、去る六月二十二日竹尾商工会議所会頭名を以って神社に変更の要望書が提出されました。
 この間題は数年来の懸案であり、再三要望されていましたが、神社といたしましては、その都度審議を重ねて参りましたが、いづれも変更に踏み切るまでに至らずお断わりをしつゞけて参りました。
 今回こゝに再三に渉る要望に接し、氏子総代会を始め曳山関係その他にも諮り充分審議を重ねましたが、容易に結論を得られぬ状況となりましたので、こゝに神意のあるところを伺いまして、宮司の決心をみたような次第であります。
 それは次のようなものであります。
一,従来の十月二十九日と いう日は明神様の御誕生日であり、これを変えることは出来ませぬので、この御ゆかりの日を祝って本殿祭を執り行うこと叉従来十月二十五日に行っていた、神輿飾りの儀を本殿祭に先立って執り行うこと。
一,宵祭りと宵山曳きを十一月二日に行うこと。
一、神幸祭と曳山行事を十一月三日に行うこと。
一、翌日祭と曳山行事を十一月四日に行うこと。
 以上の諸行事を骨子として詳細にしますと次のようになります。
 ○初供日祭 十月九日 この祭りは二旬余後に迫ったこの日に、曳山各町より神前に山囃しの囃し初めを奉納し、叉曳山の準備をする日とされ、車の具合などを点検して当日不都合のないようにする。
 尚昔は町内毎に実際に山を曳いて廻ったもので、当時のこの日は九月九日の重陽の節句でもあり、町内挙ってお祝いをしたものだそうです。

 ○本殿祭、神輿飾儀
    十月二十九日
 この日は明神様の御誕生日でありますので、これをお祝いして本殿祭を執り行います。
 尚この儀に先立ち、総行司の奉仕のもとに、二基の神輿を庫より出して飾り付けをなし、本殿に奉安します。
 ちなみに、この総行司とは、その昔寺沢公が築城の際、城下町の出来た順序に全町内の世話は勿論、この祭礼の準備万端受持町が当番順に奉仕したものが今日まで続けて行われているものです。
 その町順は決っていて、本、呉、八、中、木、材、京、刀、米、大石、紺屋、魚、平、新、江、水となっています。
 昔の人はこの順番を棒読みにして覚えていて、何の行事の時でもこの順に従い協力してことに当ったといゝます。

 ○宵 祭 十一月二日
 いわゆる前夜祭で、この日深夜に至り、神御を神輿に奉遷して、明日の神幸大祭の無事を祈念するまつりであります。
 この夜、氏子曳山各町は山々に万燈を施したちょうちん山″が市内を曳き廻り社頭へ曳込みます。

 ○神幸祭 十一月三日
 従来十月二十九日に行われていた本殿祭と神幸祭を分けて行うことゝし、本殿祭を十月二十九日、神幸祭をこの十一月三日とすることになりました。
 この祭りは神輿のお出ましがあり、十四の曳山が従い神幸(みゆき)があり、西の浜の御旅所(おたびしょ)で神幸祭が執り行われます。
 今年からこの神幸の巡路が少し変更されます。それは富士見町に歩道橋が出来ましたので、御旅所からの帰りを坊主町へ戻ります。
 ○翌日祭 十一月四日
 この日はおくんち第二日の祭典があります。 山は十時から曳山され、 町々を廻り四時頃社頭へ戻ります。
 〇祈願成就祭      十一月五日
 この日は各町毎に、おくんちの無事に済んだことを神に奉告し、感謝の祭りをなし、併せて来る年の町内の安全を祈願いたします。
 戦前は、この日には各町は境内各所に幕張りをして、町内総出で「おこもり」をなし願成就を祝ったものです。
 古来祭礼の中心の担手は純心な氏子の若者とされておりますが、このおくんちも各町の若者が中心となって祭りに参加します。この祈願文にも〇〇町若者中と記されます。
 〇神輿納めの儀     十一月六日
 この儀は本年奉仕を済ませた総行事と来年奉仕受持ちの総行司とが交替をするものです。
 受取町は神宝、道具等の員数の点検をなし、これを引継ぎ、神輿の飾りを解いて庫に納め新しい総行司となるわけであります。
 以上が今年から改められたおくんち祭の大要ですが行事そのものに特別の変りようはありませんが、期日がずれて多少のとまどいがあるかも知れません。
 何卒皆様方の絶大なる御協力をお願いするものであります。

山ばやしの唄
一、舞鶴城下に 産声あげて
 小舟を ゆりかごに
 虹の松原 松浦あらしを ねんねこ 子守唄
 育った 俺らは 唐津っ児 唐津っ児
二、玄海灘の 逆巻く波に
 身をおどらせて
 潮ふく鯨にまけるものかと
 海できたえた おとこ 俺らは 唐津っ児 唐津っ児
三、明神浜で 十四の山を
 江戸はら パッチで
 三つの囃に かけ声そろえて オィサ オィサと
 曳き出す 俺らは 唐津っ児 唐津っ児

氏子総代異動
 名誉氏子総代松尾貞六郎氏は四月二十日に又同古川安兵衛氏は四月二十八日に責任役員中島太氏は六月一日何れも逝去されました。

 桜馬場よりの氏子総代として山浦正氏が就任されました。

唐津神社手水鉢 奉納の由来
 新町に住む吉村嘉助さんは、朝から机の前に坐りきりで、筆をなめなめしきりに書きものをしていた。
 やがて「これでよかろうか、どうかな」といゝながら、又ぢっと考えこんではプツブツ口の中でつぶやいては想を練っていた。
 明治十四年十月なかばの一日である。
 彼が今考えているのは、来月三日明神様″に奉納する手水鉢を海士町の現場から運ぶについて、先日総町の寄合でその計画が審議され次のように決ったので新町の出しものは一つ奇抜なものにしようというわけである。
 明神様″には従来木綿町から奉納された手水鉢があったが、それは形も少さく貧弱であったので氏子の間で、もう少し大きく立派なものをということで話が持ち上がり、方々さがした末、海士町の松浦川の川沿いに格恰の石を見つけた。
 それは花崗岩で、丁度ミカンの皮をむいたような形で、少し加工すれば立派な手水鉢となるものだった。

 早速、持主の市丸儀兵術さんに掛合ってうまくまとまり、ゆずり受けることゝなった。
 しかしこのような重量物をどんな方法で運ぶかゞ問題となり、先の船町会議となったのである。
 この会議「決ったことはたゞゴロゴロと曳いて行くだけでは面白くないので、各町総出で、思い思いの趣向をこらして参加することこうして賑々しく曳き廻り景気よく奉納しよう」というわけである。
 新町では早速この話を町内にはかり、知慧者といわれる吉村嘉助さんにそのプランを依頼したのである。
 明治十四年十一月三日今日は目出度い天長節の佳き日である。朝から青い澄みきった大空が輝きわたり、この佳き日を寿ぐようである。 町内はそれそれ若者を中心にして編成された仮装隊あり、囃隊ありの賑い部隊である。
 新装の台車に乗せられた大手水鉢は正面に御幣が飾られ、神気あたりをはらっていまや遅しと出発を待っている。
 この行列に参加する町はいわゆる本呉八中の十六ケ町で、台車につけた曳鋼は八百屋町を除く十五ケ町の山の曳綱をつなぎ合わせたもので、その長さは延々として先頭は大石町の天神社の角までもつゞいた。
 やがて時刻ともなれば各町の繰り出す囃につれて賑やかに曳き出された。
 沿道の家々の前には黒山の人だかりで、この賑やかな奉納行列に声援をおくり又酒肴を用意して接待したので、オミキのはいった行列は一段と賑やかに進み、石の重みで車がキシリ何度もビンツケ油をさしながら進んだ。
 各町はそれぞれ特徴ある出しものぞろいであったが中でも新町のは、かの吉村嘉助さんが頭をひねって考えただけあって一きわ光った存在であった。
 嘉助さんが考案したものは、先づ義太夫「三十三間堂棟木の由来」の文句を作り替えたもので、次のようなものであった。
一、松浦潟には名所がござる 一に岸嶽 二に作礼岳 三で鏡山 四で平野岳 ヨイヨイヨ イヤサー
二、もとは松浦の流れの裾に 育ち上りし玉名の石を 唐津総社の社内に贈る ヨイヨイヨ イヤサー
三、頃は明治の十年と四つの月の名残りの天長節も諸国太平世の中良うて ヨイヨイヨ  イヤサー
四、氏子集まり社内に納め水ももらさぬその御神徳 ヨイヨイヨイヤサー
 又彼は自分で独特の竹で三味線を作り、町内一同これを囃しながら練り歩いたが、これがこの日の一番の人気者となった。
 行列は水主町、大石町、魚屋町の札辻橋を渡り、京町、紺屋町、平野町、新町、刀町より大手口から大手門に差しかゝるや、囃しは一段と高潮して賑やかさを加え、やがて城内へと繰り込み大手小路、明神横小路へと進み、目出度く奉納を終えたのである。
 新町の吉村嘉助さんは、このこと以来ニックネームを「竹三味線」とつけられその名でよばれるようになったという。
 ちなみに以上の話は昭和二十四年十月新町の高添与兵衛さんが八十二才で居られましたが、直接おきゝしたものです。
 神社の記録に残っているのは、当時の役所に出した届の控があるだけで、その賑いの有様は高添さんのお話でよくわかったわけでした。

おくんち百年
 明 治 時 代
 おくんちは寛文年中にはじめられたといわれるが、今のような山が曳き出されたのは文政二年に刀町の赤獅子が造られてからのことである。文政六年に作った唐津大明神御幸行行列帳″同御道具帳″というのが違っているが、残念乍らそれは上箱だけで、中身は明治十年の御道具帳と明治十五年の御幸行列帳とである。
 それによると、第一番曳山刀町第二番曳山中町とつゞいて第十番曳山木綿町となり、その次に一の宮神輿二の宮神輿となっている。それから順に行って十四番曳山水主町十五番曳山江川町となり、最後に、但し両町隔年前後に曳くと結んである。
 又第九番には紺屋町があり、その当時はまだ黒獅子が健在であったことが知られる。
 次に御道具帳には、神輿に附随した諸具の員数、必要人員等詳細に記入してあり、総行司の申送りになっていたものである。
 大 正 時 代
 大正時代の十月三十一日は天長節祝日といって、ほんとうは八月三十一日が天長節であったのたが、暑い季節のため十月三十一日を祝日とされていたので、山曳きも二十九、三十、三十一日と三日間に亘って行われていた。
 次の写真はその三十一日市内の外町、内町を廻って大手口に出て勢揃いの後解散となった。その時の大手口の風景である。
     
     
     
令和6年1月20日に絵はがきの画像を更新    

 昭 和 時 代
 昭和になってやがて市政が施行され、市でも観光課が独立課として誕生され、観光事業が大いに推進されるようになった。
 そんな時代に宣伝のためこの絵葉書がつくられた。
 これは文字通りの絵に画いたもので着色してあり、筆者のサインは虹睦″とあるが、どういう人かよくわからない。
 三枚一組で唐津市役所発行著作出版版権所有者小林義和となっている。
 次に戦争下のおくんちを見てみよう。
 いよいよはげしくなった十八年ともなれば、さすがきびしく、二十九日まで防空演習が実施され、このため止むなくおくんちは三十、三十一日に延期された。
 当時の取締会の取決めた事項として次のようなことがきめられている。
 一、山笠曳きは三十日一日のみとし、二日目は飾置山笠もなさず、特に例年の如き供日詣りの慣例を絶対に廃止すること。
 一、今年は唐津神社県杜昇格最初の御幸祭につき大東亜戦必勝祈願祭をも併行す。
 その時代相がうかゞわれる。

 平和がよみがえった戦後は、食糧乏しく生活は困難であったが、おくんちの行事はなごやかにつゞけられ世の中が落着きを取戻すと共に盛んになり、昭和三十六年四月には天皇皇后両陛下の行幸啓に際しては曳山の天覧をいたゞき、叉三十九年には宝塚博に出動する等して全国的にも有名になり、今では曳山会館建設が実現する時代となった。

曳山絵馬
雑誌旅の表紙になったもの

たて山ばやしの唄
一、肥前唐津の 鏡山アーア
 船出の別れに 佐世姫がアー
 涙でひれふる 姿うつし
 た松浦川 狭手彦恋しや
 ねえ 狭手彦恋しや
 ねえ

二、虹の松原 青々とオーオ
 常盤の松に 白い砂アー
 並木を通って願をかけよ
 うお諏訪さま
 豊年万作とね 豊年万作とね

三、唐津神社の秋祭イーイ
 十四の曳山 勢揃いイー
 三つの囃に曳出す氏子の
 意気のよさ
 ドンドンチキチキ
 ドンコチッチドンコチッチ

四、文政二年の赤獅子にイーイ
 明治九年の鯱まではアー
 金銀青丹 形とりどり
 珍らしや
 見事なつくりよねえ
 見事なつくりよねえ

五、鉦や太鼓に笛吹いてエーエ
 神に捧げる山ばやしイ一
 明神様から お加護いた
 だく 唐津児
 目でたい祭りじゃねえ
 目でたい祭りじゃねえ