御旅所明神台の変遷 |
令和4年11月3日の情景(唐津神社社報126号より) |
唐津神社社報のネット化に着手しましたら、再々登場するのがこの明神台の話題。
そこで資料や写真をもとに、明神台の移り変わりをご紹介してまいります。 |
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唐津神社社報 第63号 平成2年10月1日発行
ここに大凡のことが書かれておりました。
唐津くんちを迎える心 宮司 戸川省吾 より抜粋します。
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次に、御旅所(明神台)についてその沿革を尋ねてみましょう。
社伝によれば往古神功皇后が鎮祭された住吉大神の神鏡を神田宗次公が西の浜の海面から臨御これを御神体として祀られたのが唐津神社御鎮座の由緒であって、その神体顕現の由縁の地へ御旅所を設けて、そこへ神幸されるのが唐津くんち≠ナあります。
神幸祭が始まったのが、寺沢公が築城に際し領内の祈願所と定められた時とされ記録によれば、その場所は「黒船焼打の際砲台を築きし跡なりし。」とあります。
現在地で言へぱ、大成小学校の敷地で、石垣造構造で、御神体が海より臨御されたので北方海面を正面とする。
神輿の据え方は「西に一の宮、東に二の宮を安置すること古来の例なり」とあります。
曳山はその後方に南部を上位として、刀町より新町西側に七台、本町より江川町若しくは水主町は東側に整列するものなり」とあります。
この御旅所は大正十年九月を以って取こわし、新御旅所は、大正十年九月二十日の氏子総代会に於て建設が議決された。
移転の理由として、
一、「旧御旅所は、浜地中最も低地にして、神幸祭中高台地等より衆人俯瞰する等の嫌いあるため。
ニ、参拝者の便をはかるため。
三、軍隊演習及飛行機滑走等の場合活動に便ならしむるため。
次に位置は旧地より南へ四十三間の所とし、当時の県立唐津高専女学校に隣接した高台の海面を一望に臨む景勝の地にあり、その構造は、高さ四尺の花崗岩の石垣に面積六十坪、工費七百余円は氏子の浄財を以って賄われたと記録されています。
この御旅所はその後昭和三十二年まで存在しました。
しかるにこの年、県立唐津高等女学校の運動場拡張のため、海岸寄りの旧地のあたりへ移転を余儀なくされましたが。
やがで又、昭和三十五年には市立大成小学校の建設に伴いその敷地となるため市の要請により、昭和三十七年遂にその施設を全く撤去せざるを得なくなりました。
そして、その時市当局と契約を結び、仮設組立式の御旅所をその都度建設、撤去すること、その費用は市が負担することとなりました。
しかし本来旧儀によれば海面へ向って神輿を安置すべきを、現在は全く逆の方向になっているので、明神さまのお許しを得ているとは言へ誠に心苦しい限りです。
今後、いつの日か時桟到らば、西の浜の海浜の浄地に北面して昔のまゝの固定した御旅所の建設を約束し今日に至っていますが実現の日を夢見ています。
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唐津神祭今昔譚C 唐津神社社報 平成10年10月1日
御旅所・明神台
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御旅所とは神幸(神様が通常の御殿を出られて、氏子の町を廻りながら、それぞれの発展を愛でつつ恩頼(みたまのふゆ)をお授けになるのに際して、ある特定の縁地にとどまられて、最大の祭典を齋行する最重要な聖地を、御旅所といいます。
唐津神祭の場合は、唐津の大神の御顕現の縁地であります。西の浜辺をいいます。又、唐津大明神の神号を賜った神縁により、明神様のおとどまりになるところとして、明神台ともいいます。因に、神輿が神社を出発されるのを、発輿(はつよ)、御旅所までを渡御(とぎょ)、御旅所到着を着御(ちゃくぎょ)、御旅所から神社までを還御(かんぎょ)といい、発輿に際しては、発輿祭があります。
唐津神祭の御旅所(明神台)は、西の浜辺です。
(今は、唐津市立大成小学校の校庭の一部になっていますが、気持としては、正真正銘の西の浜辺だと思っています。)この西の浜辺こそ唐津の大神様が臨御され、祀り創められたという唐津神社御鎮座の聖地です。
さて、御旅所は神社にとりましては、神幸祭(唐津くんち)の最重要の聖地です。軽々に動かしてはならない神域です。ではありますが、残念ながら、世の中の推移と共に、移動せざるを得ず、少なくとも四回の移転を繰り返して、現在に至っております。その間、終戦直後の神社制度の大変革の際には、御旅所は年間のうち、数時間の場所だから、神社にとっては最高の縁地とは言え、境内とは認め難しと判定され、一時は民有地になってしまいました。佐賀郡富士町の所有者と、何回となく交渉を続け、ようやく御旅所、曳山曳込の聖地を認めて貰いました。そして何よりも、この地を御旅所として確固たる聖地にしてもらったのは、篤志者より御旅所付近を境内地として奉納されたことによります。
それでは、時代順に、その移転の歴史を記してみることにします。
◎西の浜辺(最初)
社伝によれば、「この頃御神幸始まる」とあるが寛文年間(西暦一六六一年〜一六七二年の間)と、されています。勿論、これより以前も祭礼は続けられていましたし、賑い的なものもあったのでしょうが、都風の、前後左右整った神幸行列が始められたのが、寛文の頃と伝えられています。
更に記録によれば、御神幸の御旅所は「黒船焼打の際、砲台を築きし跡なりし」とあります。この場所を現在の状況に合わせてみますと、恐らく、大成小学校の校舎付近ではと考えられています。
その構造は、石垣造りで大神様が、海より御臨御された神話にもとづいて「北の方−海の方−を正面とし、神輿は、西側に一の宮、東側に二の宮を安置すること古来の例なり」とあります。曳山は、その後方の広い砂地に、南部より北部へ刀町〜新町が、西側に東向で勢揃いし、本町〜水主町・江川町が、東側に西向で勢揃いするものとなっています。
ちょうど、曳山行列図のような形であったろうと思われます。この御旅所は、大正十年九月を以って閉鎖され、新御旅所へ移転することになりました。
◎南の高台(砂山上)
先の砲台の跡の御旅所は砂浜の低地であり、台地等より衆人俯瞰の地である等々、当時の人々の考えが強く、又、参拝の便なるを図りたいとして、更には、軍隊の演習及び飛行機滑走路等に障害になる等、当時の世相、世論の高まりの中で、神意と民意にかなう最適の地を、ト定して移転することになりました。
その所が、砂山の上の高台の御旅所です。場所は、旧来の御旅所地より南へ四十三間の所となっています。旧、西高校の校庭に隣接した砂山状の高台で、玄界灘を一望に臨める景勝の地でありました。ちょうど、今の大成公民館あたりだと思います。
この高台の御旅所の構造は、高さ四尺の花崗岩の石垣台地で、面積六十坪とあります。その工費、金七百余円は氏子の浄財を以って賄われたと記されています。
この高台の御旅所での神輿の位置は、旧来の御旅所と同様で、海を臨まれて北面され、西に一の宮、東に二の宮でした。しばらくの間は、御旅所の上に覆いをかけて風雅なものでしたが、砂が落ちてきて大変でした。又、奥には臨時の控室もありました。
さて、この頃の曳山は、御旅所の前面の広大な砂地に、海を背に南面して、西側より刀町〜東側へ水主町江川町と弧を描いて勢揃いしていました。曳山の順序は、建制順を侵すべからずが大原則であります。しかし、この頃この広大な西の浜御旅所への曳込みの時だけ、前曳山三台−即ち、刀町・中町・材木町−は、曳き込み競走をしていたように思います。
さて、このころの西の浜御旅所からの曳出しは、曳き込み同様、若しくはそれ以上に力漲る場面がありました。
現在の通称「産業道路」は、完全な道路とは言い難いような道でした。曳山は先ず曳き出されて、この道路上に一旦出てきます。そしてそれから再び砂場へ入ることになります。ちょうど砂山の高台の御旅所の西側真下になる所です。この砂場は、意外に深く、しかも当時の曳子は各町とも、今のように大勢ではありませんでしたので、曳山はこの第二の砂場から動けなくなるほどでした。その時、、采配一振前後の曳山町内から曳子多数が加勢し、曳山は何事もなかったかのように、江川町方向へ進み出すということを、各町が繰り返しなから、力、気合のある見せ場であったように思います。
この御旅所も、やがて移転せざるを得なくなりました。
◎西の浜辺(近年)
最高の場所と思われていた、高台との御旅所でしたが、県立唐津西高等学校の運動場拡張と体育館建設という一大事業のため、昭和三十二年で廃止、移転することになりました。こうして御旅所は、旧来の地に近きあたりに移転しました。 構造は、高台の御旅所を基本的に移設しましたので、花崗岩の石垣造、高さ四尺の立派な御旅所(明神台)でした。
御旅所は曳山勢揃の位置と同列のところになりました。これを機会に、神輿はこれまで海を正面として鎮座していましたが、廻れ右とでもいいましょうか、南面し、西に一の宮、東に二の宮となりました。
そして曳山は、西側に南から刀町〜新町、東側に南から本町〜江川町という古式の姿で勢揃いすることになりました。
更に、曳山の順路(帰り)も変更になり(大成小学校もなければ横断歩道橋もない)産業道路より西進(富士見町通り)して西浜町角から左折南進し、江川町へとなりました。
この御旅所では、昭和天皇陛下が曳山勢揃(臨時祭を奉仕し勢揃する)を、天覧″されるという栄を賜りました。このような一大吉事もあり、御旅所移転三度目にして、ようやく恒久的聖地になったと、関係者一同、大いに安堵したものでした。
◎西の浜辺(現在〜)
さて、恒久的御旅所と安心したのも束の間で、またまた移転(撤去)せざるを得ずということになりました。
昭和三十五年には早くも移転の話がありました。それは、現在の如く、西の浜辺に大成小学校が建設されることになり、その校庭の真中に御旅所があることになることになり、市当局は勿論、神社、総代、曳山、神輿、学校、PTA、地区等々の話し合いの結果、ついに昭和三十七年、石垣造の御旅所を撤去されてしまいました。その石垣の一部が今も境内の一部にありますが、感無量なものを感じます。
幸い、唐津市御当局の御配慮を得て、「毎年、仮設式御旅所を同じ位置に設置撤収すること、その費用は市が支弁する等を約定し現在に至っております。
こうしてみてみますように、御旅所は四度の移転を繰り返しながらも、その場所は、聖地のほど近くであり、神幸そのものの本来の姿を変えることなく、祭は盛大になってきています。
これらは、とりもなおさず、この四度の移転に際して時代時代の関係者の努力の賜物であります。こんなやりとりもありました。
(大成小建設の頃)
係官「…この広場(御旅所のこと)は、たった三時間のことだから、道路上に曳山は…」
氏子「…唐津人は、その三時間のために一年をかけている…(この発言者は曳山町内の人ではない。)…」
このように、御旅所には唐津人の神幸祭に対する一途な思いがこめられています。その時代、その場所を超越して生きつづけている心が「くんち」の源泉なのだと思います。
御旅所の本来の姿は、海を臨まれる海辺に近きあたりです。いつの日かを思いつつ、本年の神祭の安全と盛儀を祈っています。 |
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その1 曳山(囃子ヤマ)以前の明神台(初代) |
唐津神社の縁起によれば、天平勝宝7年(755)に朝廷より「唐津大明神」の神号を賜ったその時から唐津神社の歴史が始まるようです。
果たして御旅所の明神台が出来、ご神幸が始まったのはいつからなのでしょうか?
上にご紹介しました社報63号の中には神幸祭が始まったのが、寺沢公が築城に際し領内の祈願所と定められた時からと言うことのようです。そして明神台は「黒船焼討の際砲台を築きし跡なりし」と表現してあります。
黒船焼討の物語は正保元年(1644)という設定で伝わっているようです。史実に基づくかは疑わしいところですが、私見を述べさせて頂きますと、寺沢公時代、築城と同時にご神幸祭の為に石垣の明神台を築き、有事の際にはそれは唐津藩の砲台としても使うことが考えられていた。ひょっとしたら何度か試し打ちがなされたのかも知れません。それが後世黒船焼討という尾ヒレが付いて「黒船焼討の際砲台を築きし跡なりし」という表現になったと考えられます。 |
「曳山のはなし:古舘正右衛門著」第1章第3節:唐津曳山の歴史に次の記述があります。
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宝暦十三年(1763)の土井、水野両藩の交替に関する覚書と思われる文書の一節に
「一、城内唐津大明神九月二十九日祭礼の節西ノ浜へ神輿の行列御座候故寺社役の内より一人同心……相勤目付並組足軽致出役候、惣町より傘鉾等差出於西の浜角力有之候ニ付代官手代頭組の者立会差出候」
とあるので、曳山ができる以前に神幸に従う作りものがあったことが確められる。「傘鉾など」とは如何なるものか、具体的なことはわからない。 |
これは、刀町一番曳山ができる文政二年(1819)以前の様子です。
唐津神社社報17号には「おくんちは寛文年中にはじめられたといわれる」とあります通り、寛文年間(1661〜1673)ですから330年ほど昔に遡れるようです。天平勝宝7年(755)から数えると寛文年中までは915年経っています。
では寛文年中以前はと申しますと、慶長7年(1607)寺沢志摩守広高が唐津築城に際し、現在地に唐津神社の社地を設定してあります。そのころ果たしてご神幸がなされていたか。
ひょっとすると、それ以前、汐の先に唐津神社があったと言われる頃に、ご神幸が行われていたのか知るすべがありません。 |
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その2 唐津神祭図に描かれている明神台 |
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襖絵にはこのように浜に向かって石垣を築き、明神台が描かれています。正面は浜を向いています。正面には可動式の鳥居が見えます。明神台の上は神輿をお迎えする準備が調っています。明神台正面の西側には手水の桶が見えます。また、張り巡らせた幔幕は唐津神社の神門である左三つ巴が描かれています。しかし、ここでこれを描いた富野淇園のミスを指摘しなければなりません。石垣の南東に面した部分は幕の裏であり、内側である西側は幕の表にならなければなりません。ところが、どちらも左三つ巴になっています。南東に面した部分は幕の裏ですから右三つ巴にならなければおかしい。
神輿の据え方は「西に一の宮、東に二の宮を安置すること古来の例なり」とあります。2基の御神輿を安置するだけのスペースが要る訳ですが、石垣の規模がそれを基に推定出来ます。 |
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大正9年まではこんな感じだったのでしょうか。
一応紺屋町黒獅子も描いてみました。
宮相撲がいつ頃まで奉納されていたか知りませんが、土俵は現在の大成公民館辺りではなかったかと思われます。 |
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しかし、「西側に南から刀町〜新町、東側に南から本町〜江川町という古式の姿で勢揃いすることになりました。」という戸川省吾さんの記述から古式の姿はこのようなものだったのかも知れません。南に東西二基の獅子が陣取り、北は東西を飛龍と鯱、鳳凰丸・七宝丸が明神台を飾ります。
現在のこの配列こそ古式の姿なのでしょう。 |
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正保年間の絵図です。
砲台跡明神台は■の場所。
しかし、この絵図には砲台の石垣は記載されていません。
正保年間とは寺沢家二代堅高の時代です。
築城と同時に明神台(砲台という明目の申請)を作っていればこの絵図にも記載されていてもおかしくありません。
となると、初代明神台はのちの時代に築かれたと考えるべきでしょうか。各時代の絵図を見てみなければなりません。絵図は幕府の命令で作られ、幕府に報告するものであったと考えられます。明神台が砲台であれば、これは書き記さねばご公儀の隠密に知られたら大問題になりかねません。ですから、これはあくまでも明神台として築かれ、絵図には記載する必要はなかった。それほど大規模な石組みでもなかった。そして何度か砲台として活用されたことがあり、それが根拠で砲台跡の明神台という表現に・・・・・。
こんな感じでいかがでしょうか?
気になるのが現在の坊主町一帯の鉄砲町という町名です。その南には弓町があります。現在の弓鷹町はこの弓町と鷹匠町が合併してできた地名です。
鉄砲町には藩の鉄砲組が住まい、ひょっとしたら大砲も備えて、時折御旅所明神台として使われていた砲台で砲撃訓練をしていたのかも知れません。
他に鉄砲町は和多田大土井付近と魚屋町の南にも確認出来ます。
唐津の城下の東西南北を鉄砲組が警護していたのかも知れません。 |
@西の浜辺(最初)
社伝によれば、「この頃御神幸始まる」とあるが寛文年間(西暦一六六一年〜一六七二年の間)と、されています。勿論、これより以前も祭礼は続けられていましたし、賑い的なものもあったのでしょうが、都風の、前後左右整った神幸行列が始められたのが、寛文の頃と伝えられています。
更に記録によれば、御神幸の御旅所は「黒船焼打の際、砲台を築きし跡なりし」とあります。この場所を現在の状況に合わせてみますと、恐らく、大成小学校の校舎付近ではと考えられています。
その構造は、石垣造りで大神様が、海より御臨御された神話にもとづいて「北の方−海の方−を正面とし、神輿は、西側に一の宮、東側に二の宮を安置すること古来の例なり」とあります。曳山は、その後方の広い砂地に、南部より北部へ刀町〜新町が、西側に東向で勢揃いし、本町〜水主町・江川町が、東側に西向で勢揃いするものとなっています。
ちょうど、曳山行列図のような形であったろうと思われます。この御旅所は、大正十年九月を以って閉鎖され、新御旅所へ移転することになりました。(社報77号)
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明治35年出版の「唐津名勝案内」に次の写真がございます。(平成23年2月25日追加) |
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明治35年ですから間違いなく初代明神台時代。
見難くはありますが、ご覧の通り刀町・中町・・・・大石町・新町・本町・木綿町が西に、東側には手前から平野町・米屋町・京町(尻尾が見えます)・水主町(初代鯱の尻尾が見えます。)・江川町が確認できます。
この並び方はどんな意味があるのでしょうか?
下の想像図と見比べると上の写真には明神台の幔幕らしきものが、大島の手前に見えるような気がします。
直会幕は平野町の後方に見えますのでそちらに固まって何枚も張っていたと思われます。
明神台の前(後ろ)にはこの写真では確認できません。
この写真でお気づきのこと、想像できることなどございましたら教えてください。
(平成23年2月25日記す)
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唐津神祭 御旅所(唐津市・大正4年) 唐津くんちの初代明神台は大正10年に取り壊される。その明神台を囲み、14台の曳山が曳き込まれ勢揃いした様子を残した貴重な写真。御旅所の後ろには西の浜を臨む。水主町は初代鯱。明神台の御神輿は海を向かっている。幔幕には唐津神社の左三つ巴ではなく中央に五七桐、左右に菊のご紋が染め抜かれている。大正4年の奉祝御大典であった。
大正10年には明神台は現在の大成公民館辺りの砂山の上に設置される。
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その3 大正10年〜昭和32年(二代目) |
唐津神社社報 第63号 平成2年10月1日発行より |
御旅所は大正10年9月を以って取こわし、新御旅所は、大正10年9月20日の氏子総代会に於て建設が議決された。
移転の理由として、
一、旧御旅所は、浜地中最も低地にして、神幸祭中高台地等より衆人俯瞰する等の嫌いあるため。
ニ、参拝者の便をはかるため。
三、軍隊演習及飛行機滑走等の場合活動に便ならしむるため。
次に位置は旧地より南へ43間の所とし、当時の県立唐津高専女学校に隣接した高台の海面を一望に臨む景勝の地にあり、その構造は、高さ四尺の花崗岩の石垣に面積60坪、工費700余円は氏子の浄財を以って賄われたと記録されています。
この御旅所はその後昭和32年まで存在しました。 |
以上のことからこの時の明神台が現在のどの辺りになるのかと申しますと、大成公民館前のゲートボール場から駐車場にかけて砂山があり、その上に明神台が築かれていたそうです。現在の産業道路は土を固めただけの細い道で、御旅所から曳きだした曳山はその道路でやっと一息ついて、またその後は砂山の明神台西側の砂地を曳いて江川町中央角へと進んでいったそうです。曳き子の数も少なく、曳き込み、曳き出しは、二町曳き、三町曳き。他町の加勢を必要としました。御神輿は北(西の浜)に向かって西に一の宮、東に二の宮を安置しました。 |
◎南の高台(砂山上)
先の砲台の跡の御旅所は砂浜の低地であり、台地等より衆人俯瞰の地である等々、当時の人々の考えが強く、又、参拝の便なるを図りたいとして、更には、軍隊の演習及び飛行機滑走路等に障害になる等、当時の世相、世論の高まりの中で、神意と民意にかなう最適の地を、ト定して移転することになりました。
その所が、砂山の上の高台の御旅所です。場所は、旧来の御旅所地より南へ四十三間の所となっています。旧、西高校の校庭に隣接した砂山状の高台で、玄界灘を一望に臨める景勝の地でありました。ちょうど、今の大成公民館あたりだと思います。
この高台の御旅所の構造は、高さ四尺の花崗岩の石垣台地で、面積六十坪とあります。その工費、金七百余円は氏子の浄財を以って賄われたと記されています。
この高台の御旅所での神輿の位置は、旧来の御旅所と同様で、海を臨まれて北面され、西に一の宮、東に二の宮でした。しばらくの間は、御旅所の上に覆いをかけて風雅なものでしたが、砂が落ちてきて大変でした。又、奥には臨時の控室もありました。
さて、この頃の曳山は、御旅所の前面の広大な砂地に、海を背に南面して、西側より刀町〜東側へ水主町江川町と弧を描いて勢揃いしていました。曳山の順序は、建制順を侵すべからずが大原則であります。しかし、この頃この広大な西の浜御旅所への曳込みの時だけ、前曳山三台−即ち、刀町・中町・材木町−は、曳き込み競走をしていたように思います。
さて、このころの西の浜御旅所からの曳出しは、曳き込み同様、若しくはそれ以上に力漲る場面がありました。
現在の通称「産業道路」は、完全な道路とは言い難いような道でした。曳山は先ず曳き出されて、この道路上に一旦出てきます。そしてそれから再び砂場へ入ることになります。ちょうど砂山の高台の御旅所の西側真下になる所です。この砂場は、意外に深く、しかも当時の曳子は各町とも、今のように大勢ではありませんでしたので、曳山はこの第二の砂場から動けなくなるほどでした。その時、、采配一振前後の曳山町内から曳子多数が加勢し、曳山は何事もなかったかのように、江川町方向へ進み出すということを、各町が繰り返しなから、力、気合のある見せ場であったように思います。
この御旅所も、やがて移転せざるを得なくなりました。(社報77号) |
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大正15年の地図です。
御旅所から唐津高女の西に曲がった道があります。そこが江川町に向かう道。
あまり正確ではなさそうですが、勿論済生会前の道はなく、また、朝日町に抜ける道(藤原外科の道)もありません。
江川町辺りのコースは、産業道路が完成し、済生会前の道が朝日町に繋がる前と後で変わったものと考えます。
近松座と世界館は場所が違います。赤で訂正しました。
世界館:大正2年(唐津初の活動写真館) 近松座:大正3年(劇場・枡席)
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これは明神台が砂山の上にあった時の西の浜の全景である。なにかの理由からか、木綿町が見えない。水主町は、以前の曳山のようである。左上は文化女学校、左端は、お旅所用の鳥居で可動式であった。これがお旅所本来の姿です。いつの日か、再びこのような神祭をと願っています。
社報46号より |
同時期のお旅所風景
現在年代調査中です。 |
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photo by Itiro Egashira |
恐らく昭和10年代と思われます。
二代目御旅所明神台より曳山を眺めた風景です。
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photo by Itiro Egashira |
同じく二代目明神台より曳き出しの風景
御神輿の供揃いの紅白の旗が見えます。
ということは、御神輿はどの時点で動き出したのでしょうか。 |
photo by Itiro Egashira |
昭和15年でしょうか、平野町の曳山の上には日の丸を掲げています。米屋町もいよいよ曳き込み。その奥には唐津高等女学校北の砂山に大勢の見物人の姿があります。 |
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江川町の曳き出し
西高の塀の先に砂山が見える。その上に石垣の明神台があった。西に一ノ宮、東に二ノ宮。砂山の高さがこの写真でよく分かる。
写真提供:平山康雄氏 |
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その4 昭和33年〜37年(三代目) |
唐津神社社報 第63号 平成2年10月1日発行より |
しかるにこの年、県立唐津高等女学校の運動場拡張のため、海岸寄りの旧地のあたりへ移転を余儀なくされましたが。
やがで又、昭和35年には市立大成小学校の建設に伴いその敷地となるため市の要請により、昭和37年遂にその施設を全く撤去せざるを得なくなりました。
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初代から二代目に移行する時の理由として軍隊演習及飛行機滑走等の場合活動に便ならしむるためというのが主たる理由ではなかったでしょうか。そして三代目、再び女学校の運動場拡張の為に、更に四代目の御旅所は、大成小建設の為に仮設の御旅所を作ることになりました。時の流れ、御上には逆らえませんね。 |
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◎西の浜辺(近年)
最高の場所と思われていた、高台との御旅所でしたが、県立唐津西高等学校の運動場拡張と体育館建設と
いう一大事業のため、昭和三十二年で廃止、移転することになりました。こうして御旅所は、旧来の地に近きあたりに移転しました。 構造は、高台の御旅所を基本的に移設しましたので、花崗岩の石垣造、高さ四尺の立派な御旅所(明神台)でした。
御旅所は曳山勢揃の位置と同列のところになりました。これを機会に、神輿はこれまで海を正面として鎮座していましたが、廻れ右とでもいいましょうか、南面し、西に一の宮、東に二の宮となりました。
そして曳山は、西側に南から刀町〜新町、東側に南から本町〜江川町という古式の姿で勢揃いすることになりました。
更に、曳山の順路(帰り)も変更になり(大成小学校もなければ横断歩道橋もない)産業道路より西進(富士見町通り)して西浜町角から左折南進し、江川町へとなりました。
この御旅所では、昭和天皇陛下が曳山勢揃(臨時祭を奉仕し勢揃する)を、天覧″されるという栄を賜りました。このような一大吉事もあり、御旅所移転三度目にして、ようやく恒久的聖地になったと、関係者一同、大いに安堵したものでした。(社報77号) |
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この写真は旧志道小学校の玄関に掲げられていたものです。
学校に行って年代を確認する必要があります。恐らく三代目明神台の時代ではないかと思われます。しかし、このパノラマ写真は中央にあるはずの明神台をカットしてある。
中央の感じが不自然ですよね。
後日大志小学校に行って確認してきます。
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『花崗岩の石垣造、高さ四尺の立派な御旅所(明神台)』の画像です。
TV画面からのキャプチャーですので、不明瞭な部分はご容赦下さい。
背景に高島が見えるので、大体の位置関係が判ると思います。(まだ大成小が無いんですね)
南側(産業道路側)に昇降口の階段があり、御神輿の鎮座状態から正面が判別できますでしょうか。
写真提供:@神田中村
写真は原田晃氏のお父様が撮影された8mmの映像で、当時としては大変貴重で高価なカラーの8mmです。現像は日本ではまだできず、ハワイまで送られたとか。掲載については原田氏の快諾を得ております。
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昭和34年7月6日 一中は全焼しました。
大成小学校建設途中であったが、西側の6教室だけ突貫工事で仕上げ、一中生はこの教室で勉強しました。
この写真は昭和34年度の一中の卒業アルバムです。お供日前に撮影されたもの。御旅所明神台の階段にて記念撮影。
お供日の後にはこの明神台は大成小建設資材置き場となり、校舎完成後は運動場整備のため取り壊されました。
明神台とこの姿の大成小の写真は大変貴重です。 |
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石垣と階段の様子がよく分かります。校舎の先には大島が、校舎の手前に建築資材が見えます。
写真提供:江頭義輝氏
(第一中学校第13回卒業記念アルバムより) |
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昭和35年になると大成小校舎の残りの部分が着工しました。建設途中の校舎の前には石垣明神台が見えます。これで完全に海が見えない御旅所になってしまいました。
写真提供:唐津土建工業(株)様
2006.7.4 ご提供ありがとうございました。 |
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一中全焼の写真です。 |
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この卒業アルバムに曳山キチにとって更に興味深い写真がありました。体育祭の本部席・来賓席です。
前列右から古舘正右衛門(「曳山のはなし」著者)
次は栗山市会議員さんの様でもあり?
3人目は当時の一中の校長だった飯田一郎先生(「神と佛の民俗学」著者)
4人目は恐らく石倉先生?
飯田先生と古舘正右衛門は余り仲が良くなかったと聞きます。著書の中でも先に世に出た「神と佛の民俗学」とはまた違った観点から古舘正右衛門さんはくんちを表現しています。 |
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一中 |
大成小学校 |
昭和33年 |
4/7 |
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開校式(旧唐津小学校舎にそのまま居残) |
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4/29 |
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開校記念祝賀式典 |
昭和34年 |
1/28 |
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大成小学校新校舎起工式 |
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7/6 |
一中全焼 |
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7/7 |
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一中全焼により一中三年生437名及び教師本日より当校に於て午後授業開始、当校は教科授業を午前中にして午後水泳訓練 |
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8/3 |
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新校舎第一期工事竣工 |
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9/15 |
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新校舎第二期工事着工 |
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11/1 |
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一中一年生の為に講堂図書館を開放して授業させる(旧唐津小学校舎) |
昭和35年 |
3/24 |
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新校舎第二期工事竣工 |
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4/1 |
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一中一年・三年の教室提供解消復帰する(一中再建による) |
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9/25 |
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新校舎第三期工事起工 |
昭和36年 |
1/5 |
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第三期工事竣工 |
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1/9 |
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旧唐津小校舎より富士見町新校舎へ移転 |
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1/14 |
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新校舎落成式並びに祝賀会 |
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3/1 |
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旧校舎解体につき「別れを惜しむ会」開催 |
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10/20 |
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運動場赤土入れ整地作業終わる |
昭和37年 |
3/31 |
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西ノ濱御旅所解体祭(社報) |
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参考文献:「母校百年史」・唐津神社社報 |
聞くところに依れば、大成仮校舎の一中の三年生、8クラス(53〜55人クラス)が6クラス(73人クラス)になり、すし詰め状態であったとのこと。一年生は中央公民館を使用?。二年生は調査中です。ご存じの方教えてください。
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その5 昭和38年〜(四代目) |
明神台の撤去について
秋のおくんち″に神輿の御座所となる明神台は、いよいよ撤去することゝなり、三月三十一日氏子総代山笠関係者等が参列して撤去祭を行い名残りを惜しんだ。
これが撤去問題は永い間の懸案とされていたものでこゝが大成小学校の建設に伴い、運動場敷地として必要な所となったためである。
今度市側と交渉の結果、撤去後は組立式の神輿台を造り、位置はほゞ現在地とすること、山笠の曳込みについては従来通りとすること等を取り決めた。
このいわゆる明神台は、神幸祭に於ける御旅所として神輿渡御のための御座所となる所で、当神社御鎮座の由来に基く由緒深い所で実に唐津人の心のふるさととも言うべき聖地として親しまれて来た所である。
今年のおくんち″からは装いも新に立派な御旅所に神輿をお迎えすることになろう。
なお氏子総代、山笠関係者中より委員を選んで、新しい御旅所建設の促進を図ることになった。(社報4号)
◎西の浜辺(現在〜)
さて、恒久的御旅所と安心したのも束の間で、またまた移転(撤去)せざるを得ずということになりました。
昭和三十五年には早くも移転の話がありました。それは、現在の如く、西の浜辺に大成小学校が建設されることになり、その校庭の真中に御旅所があることになることになり、市当局は勿論、神社、総代、曳山、神輿、学校、PTA、地区等々の話し合いの結果、ついに昭和三十七年、石垣造の御旅所を撤去されてしまいました。その石垣の一部が今も境内の一部にありますが、感無量なものを感じます。
幸い、唐津市御当局の御配慮を得て、「毎年、仮設式御旅所を同じ位置に設置撤収すること、その費用は市が支弁する等を約定し現在に至っております。(社報77号)
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photo by Kiyoshi Yamanaka |
平成16年11月3日
御旅所祭
正午に江川町が坊主町交差点を北に曲がり、バイパスに交通規制がひかれ、と同時に御神輿は御旅所明神台へと進みます。
14台の曳山が全て御旅所に勢揃いすると、明神台では御旅所祭が執り行われます。
右は大石神社の直会
その右には高々と桟敷席
仮設の明神台には西に一の宮、東に二の宮が安置され、氏子総代の皆さんがそれを囲み、明神台前には各町の本部・正副取締等が参拝して、御旅所祭は執り行われます。これが唐津神祭の本来のクライマックスであります。 |
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photo by Kiyoshi Yamanaka |
子供の頃、曳山は上から見たらいかんと教えられました。確かに曳山は下から見上げるようにできています。曳山の目は多くは下を見据えているのです。
また、大正10年、初代御旅所が取り壊された時、「一、旧御旅所は、浜地中最も低地にして、神幸祭中高台地等より衆人俯瞰する等の嫌いあるため。」という理由が残っています。
では、この桟敷席はどうでしょう。観光客の為に必要と言うことで設置の許可を業者に与えているのでしょうが、明神台を上からそれも直ぐ真横から見下ろす場所には本来は設置すべきではないと考えます。曳き込む際に、私の子供の頃は先綱まで珠取獅子の後ろ姿を見ながら曳くことができましたが、桟敷席ができてからは子供綱は桟敷の後ろになり可哀想なものです。明神台がセットバックしたので少しは緩和されたとしてもやはり桟敷の後ろになってしまいます。水主町・江川町は尚更のことでしょう。何とかならないものでしょうか。 |
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平成16年明神台設営後、東側に桟敷席を設置する前の様子。
曳き込む際に、綱は桟敷の後ろになってしまい、子供達は勇壮な曳山を確認しながら曳くことすらできない状態で、この年からだと思いますが、京町の要望で明神台を北(浜側)に8mセットバックしてもらいました。また、この年に大成小学校は志道小学校と合併させられ、旧志道小の校舎を使って「大志小学校」がスタートしました。残された旧大成小の校舎はそのまま残され、現在校舎の一部は子育て支援事業の一環として「大志児童クラブ」として利用されているようです。
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令和4年11月3日
旧大成小学校の校舎が解体され、初めての御旅所神幸祭 |
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一番曳山刀町赤獅子が曳き込まれる前を確認しに行く。
仮設明神台の後には旧校舎はなく、大成小学校の子供達が植林した松が大きく育っていた。防風林としては用を為しているが少し間引いて枝振り良く剪定すると良い景色になるだろう。
聞けば校舎の解体費用は(情けない話だが)早稲田が持ったようだ。その後は軟式野球部のグランドとして市の土地は使われるらしい。ネットを張り巡らされるだろう。おくんちの時だけはネットを外して欲しい。もしもネットや部室がそのままの状態で神幸祭が行われたとしたら早稲田に対する唐津っ子の不満は益々増えるだろう。行政もその辺を心して早稲田の動きを監視して欲しい。
お旅所は唐津大明神発祥の地とされ、唐津の魂なのである。
そこに土足で上がり込むようなことは、良識有る大隈公はなさるはずが無かろう。
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喜びもつかの間
早稲田佐賀の第2グランドとして整備される。
北側には背丈を超すブロック塀が築かれた。海の見えるお旅所は令和4年御旅所祭で終わった。
昭和34年に大成小学校の建設工事が始まり、それ以来63年、閉ざされた景色は旧大成小学校校舎の解体で久しぶりに浜風が心地よいお旅所が甦った。
しかし翌令和5年春には松の南に背丈を超すブロック塀があっと言う間に建てられた。校舎の解体費用は早稲田が出したという話も聞く。情けない話である。
軟式野球場になるとも聞く。今から更にポールが立ってネットが張り巡らされるだろう。
御旅所祭の11/3だけはネットを片付けて欲しいものだ。
お旅所に石垣造りの明神台が出来る事は早稲田が唐津に居座る限り無理。仮設明神台の時代が当分続くことになろう。
歩道からタイヤまでが唐津神社の土地で、その北側は唐津市の土地だと聞く。
ここも二の丸御殿後同様、早稲田に無償で明け渡したのだろうか。情けない話である。
昭和40年代生まれの大成小学校卒業生に聞いたことがある。
校舎の北側の松は生徒達が苗を植えたそうだ。だから密集して延びている。昭和30年代の写真を見るとお旅所の西側にも松が植林してある。それを校舎の南側や西ノ浜に植えていったのだろう。 |
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