そもそも、曳山が唐津市外に出るのを「出動」と言うのはナゼなのかご存じだろうか?これは昭和二十六年、初めて唐津の曳山が他所(この時は福岡県)へ出ると言うことで、そのことを何と呼ぶのか、「派遣」にするのか「遠征」にするのか等々、いろいろな案が出てきた中、曳山取締会の会議の席上で「出動でよかっちゃなか」という声が上がり、一同納得して、曳山が唐津市を出ることを「出動」と呼ぶようになったのである。これについて先代の宮司(戸川省吾)は、『曳山の組織が、元々は火消し組の組織を元にしたところから、消防用語でよく使われる「出動」で、みんな納得したのだろう。』と話していたことを今も記憶している。 (唐津神社社報 第95号 平成19年10月1日発行より)
出動一覧
昭和26年
4月
九州観光祭り(福岡)
米屋町曳山の前にステッキをついた紳士は古舘正右衛門
まいづる横大鳥居前にて。米屋町の横の建物は唐津小学校の二階建て図書館
唐津神社社報 平成12年10月1日より

昭和二十六年春
 曳山の初出動

 唐津曳山は、これまで幾度か他所へ出動しています。
この写真は、他所へ出動した初の時のものです。

 昭和二十六年四月七日(土)から八日(日)までの二日間、福岡市の夕刊フクニチ新聞社創立五周年記念事業「オール九州観光まつり」という大会に出動したものです。長崎県からは「蛇踊り」・熊本県からは「おてもやん踊り」の名がみえます。
 出動した曳山は、写真の三台(刀町・新町・米屋町)で、この写真の中には、当時の花田総取締を始め、唐津市役所の司人、出動町内の人々の、お若い、なつかしいお顔がみえます。
 ここで、夕刊フクニチの昭和二十六年四月八日号の切り抜き記事を、原文のまま紹介し、当時の様子を伝えてみます。(尚、夕刊フクニチ新聞は、数年前廃刊となりました。)
 ☆大見出し 「くり展ぐ春の饗宴″」
 ◎小見出し @「GIさんもワンダフル」・A「ねり歩く巨大な怪物」
 ※尚、当時曳山を「山笠」と呼んでいました。
 ◎記事=観光まつりに勢ぞろいの唐津山笠は、虹の松原での松払いに手間どった以外は順調にゆき予定より早く午後二時四十分、笛、太鼓、鐘の三つばやし勇ましく到着したが、豪華古典の偉容に初めて見る市民や観光客に目を見はらせた。山笠おろしのため万町に特に設けられた濠でトラックから引きおろし飾りつけをしたうえハッピ姿の各町引子によって夫々新天町に頼光のカブト″博多五町に赤御子天神町廣場に飛龍を配置しおらが国さのお国自慢第一の偉観をほこった。
 一行は夜闇山笠に飾り提灯をともし三ツはやしをたたいて人を寄せたが八日は早朝からさらに繰りこんで来た百数十名のひき子にひかれて天神町松屋前廣場に勢ぞろいしたうえ福岡縣廳を訪問し川端町、博多五町を一巡、会議所前から春吉大通り、柳橋、本庄町本社前などをひきまわして岩田屋廣場に帰ったが、お国情緒豊かな三ツばやしとかけ声勇ましいひき子連に引かれ眼を怒らし歯をむき出してユラユラひきまわされる愛すべき怪物の偉容に占領軍の兵隊さんたちも「ワンダフル!ワンダフル!」と驚いていた。


 ◎曳山の唐津出発には、唐津駅の貨物用プラットホームの段差を利用して、曳山をトラックに積み込んだという話がある。博多に着いたら、いつの間にか曳山は地上にいた。地面を斜めに掘って積み降しを便利にしたとのこと。そこで早速唐津へ長距離電話をして、同じような穴を掘らせたとのことだが…。
 ◎曳山は栓木を降ろし、幕をかけ、そのままの状態でトラックに積み込んだ。その曳山の上に係員が乗り記事の如く、障害となる松の枝等を取り除きつつ、トラックには囃子隊も乗り込み、途中囃子をしながら進行した。
 ◎博多の市内電車の袈線のところに新町曳山が進行し、架線にかかると見るやアゴ取りの手さばきよろしく無事過ぎ行けば、拍手なり止まずと聞く。

 いろんな土産噺を残して、最初の曳山出動は、大成功裡に終了した。

刀町
新町
米屋町

昭和39年
3月
美わしの日本博(宝塚)
曳山をトラックに積み込み町の役員はトラックの荷台に乗り同行した。写真は当時の京町取締牧川寛三郎氏(通称カンちゃん・市会議員・牧川書店)です。松浦橋を渡っています。橋の向こうには「松浦漬」「糧友のパン」手前には「マツキン醤油」「ヤンマーディーゼル」の看板が見える。
出発に先立ち、鯛ヤマの計量が中山計量所にて行われた。計り終えて帰る鯛ヤマ。産業道路を曳いていった。
いよいよトレーラーに積み込み作業が始まった。
神社前広場でクレーンに吊り上げられようとしている珠取獅子。
広報建物は中央公民館(刀道館道場)。左は図書館。
電柱には今里写真館の文字
 唐津の曳山に人気
浪花つ子の目をうばう


勇壯なはやしも他を圧倒

 宝塚歌劇団創立五十周年記念の美しき日本博は、去る二十日宝塚ファミリーランド全域に特設舘を設け七十日間にわたる幕をあけたなかでも第五会場の“お祭り日本館”に唐津から出品された曳山、七宝丸、義経のかぶと 珠取り獅子、鯛の四台の山笠は、九州代表にふさわしく勇壮豪華さは浪花つ子の目を見張らせた。
 開会式は二十日午前十時から約三百名(唐津からは曳山総取締花田繁二氏をはじめ関係者十名が出席)が出席して開らかれた。この開会式に出席した、山笠出動委員脇山英治氏の話によると
 お祭日本館には全国から集められたダシ十三台が出品されていたが、その中でも唐津山笠は、他の品物に比較すると、作りは単調ではあるが、形がととのい珍宝されて人気を集め、写真機を向める客は一段と多く、興味をそそっていた。また唐津のハヤシは豪壮な唐津っ子″の意気を現わし他のはやしを圧した、また実際に浪花っ子に引いて見せてやりたいのだが、それが出来ないのが残念だ、しかし観光唐津の宣伝には大きた役割を果した。
と現地の模様を語った。

昭和39年3月22日 唐津新聞
 被害状況
塗り替えたばかりだった京町だったが、聞くところに依れば、大阪の埠頭に暫く雨ざらし日ざらしで放置されていたという。それが原因かは分からないがその後みるみる退色していき、昭和58年塗替までには深い緑が全く別の色に変わってしまう。

呉服町
魚屋町
京町
江川町
昭和41年
10月
市政記念商工祭 柳井まつり(山口県柳井市)
 唐津新聞 昭和41年10月13日の記事
 あす柳井市に遠征
  米屋町の曳山壮途につく

 唐津市11番曳山、米屋町の「頼光の兜」が、山口県柳井市の招聘、唐津市の推選により、郷土名物の曳山を代表して、来る15,16の両日開催される"柳井まつり”に派遣することは既報の通りであるが、同曳山は明14日松浦通運の特別製のトラックにより、同通運の福井部長らが付き添い同夜7時唐津市を出発し、15日朝柳井市着のうえ直ちに、同市大丸前に展示して同市民一般の鑑賞に供し、翌16日は同市内を曳きまわして唐津曳山の神髄を披露することになっている。
 なお曳山の柳井着に先行して尾花曳山取締会事務局員は、14日夜東唐津発で柳井に向い、曳山の柳井到着をまって飾り付けを行うが、平田曳山総取締一行曳子の青年達は、15日朝柳井に向かうことになっている。
 
 
 唐津新聞 昭和41年10月15日の記事
 柳井市民に公開
  堂々と米屋町の曳山


 唐津市米屋町の曳山「頼光の兜」は今15日から明16日まで山口県柳井市で挙行される"柳井まつり"の招待を受けて出動することとなり、14日午前10時から唐津神社前広場でその準備に取りかかり、松浦通運の専門家で、曳山の兜と台、車輪を分離してトラックに積み、予定より2時間遅れて午後8時、福井部長ら同通運の係員8名が付き添い唐津を出発し、現物が県の文化財であるだけに途中の損傷を惧れて、トラックも普通の二倍もかかるノロノロ運転で柳井に向かい、今15日午前7時には柳井につき、曳山に先行して柳井に待機していた尾花曳山取締事務局員らにより飾り付けて、同市大丸前に展示して柳井市民に公開した。
 なお曳山総取締の平田常治氏ほか、米屋町の曳子(青年組)は、明16日の東唐津発一番で柳井に向い、揃いのハッピに太鼓、鐘、笛の三つ囃子で「唐津ぐんち」そのままで柳井市内を練ることになっている。


米屋町
昭和49年
8月
日本のまつり(東京・明治神宮外苑)
唐津新聞 昭和49年8月3日の記事 
 東京の檜舞台へ 唐津曳山
「鯛」「金獅子」の2台
 近く梱包して輸送 取締会、5日に壮行会


今月15日から18日まで東京神宮外苑で開かれる「日本の祭り」に唐津市から曳山二台(鯛=魚屋町、金獅子=本町)が選抜されて出場する。唐津曳山が関西以東に進出するのはこれが初めて、曳山取締会(脇山英治会長)は主催者(電通)の強力を受け7日頃から梱包にかかりトレーラー二台で長距離輸送をする。
 石崎曳山取締会副会長ら関係者11人が先発して準備をするが、脇山総取締以下本隊51人は14日出発する予定。なお出発を前に曳山取締会は5日午前10時から唐津神社前に出発する二台の曳山をならべて関係者が神前で祈願神事を行い、同日午後6時から市文化会館4階大会議室で瀬戸市長ら関係者、市民が集まって壮行会を催すことにしている。

唐津新聞 昭和49年8月5日の記事 
いざ行け東京へ
出発前に曳山祈願


今年16日から東京の神宮外苑で開かれる「日本の祭り」に唐津から曳山を代表して「鯛」(魚屋町)「金獅子」(本町)の二台を派遣する曳山取締会(脇山英治総取締)は出発を前に今5日午前10時から唐津神社前で壮行祈願をして無事を祈った。
 祈願式には瀬戸市長をはじめ、岩田市教育長、脇山総取締ら関係者約50名が列席して、展示場から曳き出され、真夏の太陽にさん然と輝く二台の曳山は戸川宮司からお祓いを受け桧舞台へと出陣にふさわしく勢いづいていた。なお曳山曳山取締会はひきつづいて午後6時から市文化会館4階会議室で壮行会を開き随行員60余人がはなむけのことばをうけ打つ立ちの祝盃をあげる。
 なお二台の曳山はあす6日から梱包にかかりトレーラー二台で東京に向かうが輸送費はざっと往復で500万円。

 
唐津新聞 昭和49年8月6日の記事 
曳山ムードいっぱい
 東京山陣の壮行会

東京で開かれる「日本のまつり」に曳山二台を派遣する唐津曳山取締会は5日午前中の修祓祈願にひきつづいて午後6時から市文化会館(4階)で壮行会を開いた。壮行会には瀬戸市長金子勝商市観光協会会長、岸川商工会議所専務理事ら各階から約百人が出席、席上瀬戸市長が「ふるさと唐津の祭りのよさを十分に発揮してください」と激励の言葉をのべ、脇山総取締が「市民のかけがえのない宝である曳山を預かって、無事大任を果たしてきます」とあいさつをして拍手を受けて打つ立ちの乾杯をした。っすてー時では上京する魚屋町本町の囃子方若衆が勇壮なヤマばやしを披露したり、花柳三祐社中の花柳貴三直祐日奈両名取りの日舞に会場を曳山ムード一色に壮途をさかんにして盛会であった。

唐津新聞 昭和49年8月9日の記事
曳山の解体はじまる
11日午前3時に出発 

14日から18日まで東京都の神宮外苑で開かれる日本の祭りに出演する唐津曳山2台(鯛、金獅子)の解体作業が9日午前8時から曳山展示場裏広場ではじまった。
 曳山の解体荷造り作業は松浦通運KKが大型クレーン車を使って、作業員15人がかりで金獅子の解体から始めた。作業は付属部分を取り金獅子をクレーンで釣り揚げて準備していた木箱に静かに下ろして綿や毛布で二重三重に巻き振動で動いたり傷がつかないよう厳重な注意をしての作業で馬渡社長も現場で陣頭指揮していた。作業は10日までに金獅子と鯛の二台を買いたい荷造りを終わり、大型トレーラーを含むトラック三台に分乗作業を終わる予定。
 曳山を積んだトラック三台は11日道路の混雑をさけて午前3時に曳山展示場を出発、同7時ごろには小倉のフェリー基地に到着、同日午後10時フェリーに乗船し、13日午前5時東京港の青海埠頭に着き、神宮外苑に運んで組み立て作業を終わることにしている。
 日本の祭りには14日の前夜祭から幕開けし、唐津曳山は15日から18日まで毎日午後8時から約20分間、250メートルの会場内1周コースを威勢よく曳き廻る。コースは唐津曳山の見せ所を十分発揮できるようコースにもカーブなど多く盛り込んでいる。なお16日はテレビのビデオ収録があり、このビデオは27日午後8時から金曜スペシャル(TNC.STSなど)番組で全国25ネットで放映される。


ここで特筆すべき記事をご紹介します 
唐津新聞 昭和49年8月12日の記事 
呼び名を「ヤマ」に
 唐津曳山の呼称を統一

唐津神社と曳山取締会は唐津供日に引き出す15台の曳山の呼称を「ヤマ」に統一することを決めた。
 曳山取締会の古舘正右エ門、溝上靖郎の両氏は12日午前記者室に来室して呼称統一について次のように説明した。
 文献によると曳山は江戸時代はヤマを文字で引山と表示されていたが明治8年には「曳山」として建造申請をしていた。
 昨年7月重要民族資料として県に「曳山」と申請しているが唐津地方では「山笠」と呼んだり、単に「ヤマ」と呼ばれている。「曳山」は昔から単に「ヤマ」という素朴な言葉で語り継がれており、唐津独特の事情や事実からして曳山を単に「ヤマ」と呼称を統一するのが至当であると決めたもの。


 
 唐津新聞 昭和49年8月19日の記事
東京で唐津っ子の意気
日本の祭りで唐津のヤマ
観衆の度肝をぬく

東京・明治神宮外苑で15日から開いた「日本の祭り」は大人気を集めて18日におわった。
 唐津の曳山を代表して出演した「タイ」(魚屋町)「金ジシ」(本町)はねぶた(秋田)しし舞(沖縄)など日本の代表的な祭りとともに会場の絵画館を埋めた五万人の観衆に最大の魅力をよび、毎夜東京の夜空に勇壮なヤマ囃子と唐津っ子の掛け声に乗って神宮の森を駆け回り江戸っ子達の度肝を抜いた。日本の祭りには脇山英治曳山総取締以下六十人が上京して出場、昨18日まで連日”唐津くんち”の模様を再現して全国にPRした。
 上京部隊は20日から続々帰郷するがその実況は27日午後8時からTBSで(唐津地方はSTS佐賀テレビ)全国放送される。 

魚屋町
本町
昭和52年
3月6日
第1回日本芸能の祭典(NHKホール)
確かこの時花柳三祐さんの曳山踊りが演じられたと記憶しています。
舞台の中央のセリから上がって来ました。


『飛竜』九日に帰唐
郷土芸能祭で大拍手受く


 さる六日東京NHKホールで行われた第一回郷土芸能祭典の桧舞台に出演して大喝さいをうけた唐津曳山七番ヤマの「飛竜」は祭典終了後七日に分解荷造りをして往路コースを松浦通運のトレーラーで九日中には帰着する予定。また、これに随行の上京組の脇山英治総取締り以下囃し方や花柳三祐師匠や同社中五十人は七日夜、東京発の特急列車八日夕方か九日午前中には帰唐する。
 なお公開録画された郷土芸能祭典の模様は二十一日午後七時半からNHKが全国に実況を放送する。
 
昭和52年3月8日 唐津新聞
曳山展示場に展示してある色紙です。

新町
昭和53年
10月22日
日本商工会議所百周年記念
「全国郷土祭」
国立競技場、銀座〜日本橋

日本橋三越前
保利茂さん・山口淑子さんも駆けつけてくださったと聞く。


下の集合写真は議員会館前にて、保利茂・山口淑子両氏を囲んで記念撮影。戸川健太郎・瀬戸市長・脇山英治総取締・田中富三郎・古賀日出男・中野陶痴・大西・畑津・池田・他・栗山市会議員?

保利さんは確かこの時は衆議院議長だった?
 高まる曳山ばやし

 藤原時代全盛期の美しくきらびやかな屋形船を表した勇壮な曳山で、十四台中、最も重畳がある。先日までの東京遠征では、町内からも延べ七十人以上の引き子が上京し、花の東京に唐津っ子≠フ心意気を印象づけた。豪華な曳山だけに細部にわたって入念な技巧が加えられており、当時の製作費は千七百五十両とも伝えられていて、現在に換算すると五千万円以上の巨額になろう−と駐在員の江口金治郎さんは話す。重量があるだけにせん木その他の造りも頑丈で、前後での梶取り操作をするのが他町には見られない特徴の一つ。この度の東京出陣″は、さらに町内の結束と供日の気運を盛り上げている。

昭和53年10月23日 唐津新聞


大石町
米屋町
昭和54年
2月25日
ニースカーニバル 
フランスニース
唐津神社社報37号をご覧ください。 曳山展示場に展示してあるニース出動の祭の記念ペナント
唐津神社社報95号より

 そもそも、曳山が唐津市外に出るのを「出動」と言うのはナゼなのかご存じだろうか?これは昭和二十六年、初めて唐津の曳山が他所(この時は福岡県)へ出ると言うことで、そのことを何と呼ぶのか、「派遣」にするのか「遠征」にするのか等々、いろいろな案が出てきた中、曳山取締会の会議の席上で「出動でよかっちゃなか」という声が上がり、一同納得して、曳山が唐津市を出ることを「出動」と呼ぶようになったのである。これについて先代の宮司(戸川省吾)は、『曳山の組織が、元々は火消し組の組織を元にしたところから、消防用語でよく使われる「出動」で、みんな納得したのだろう。』と話ていたことを今も記憶している。
 その先代の宮司がよくしていた話の中に「初の曳山海外出動」の話がある。これは言わずとしれた、昭和五十四年、五番曳山「鯛」がニースのカーニバルへ出動した時の話しである。
 戸川省吾は『カーニバルに曳山ん出発する前に、安全祈願祭ばニースの街角で唐津から持って行った祭壇ば組み立て、祭典したばってん。その時唐津から玉串(たまぐし…神様にお参りする時に使う常緑の枝。主に榊を使用する。)ば持って行ったとばってん、移動中枯れたらいかんけん、地元で「ミモザ」の木の枝か何かば準備してもらったとよ。結局は唐津から持って行った榊で玉串奉奠できたとばってんね。』 と語る。
 このように曳山の話には、その一つひとつに面白いドラマがあるのだが、それを一つひとつ今ここに書いていくとなると、残念ながら話の前に紙面が尽きてしまう。そこで、今回はこの「ニースのカーニパルへの出動の話」から、「カーニバル実行委員会と曳山関係者の事前の話し合いの記録」をご紹介したい。この記録は、戸川惟継宮司(当時は権禰宜、ちなみに私は四歳)が、フランスの地に事前調査に行ったおり、地元のカーニバル実行委員会と曳山関係者とのやりとりを記録したメモで、それぞれの想い(こだわり)が詰まった記録である。

※以下、メモより抜粋
  一月二十六日(金)
 ニース着。ホテルに荷物を預けてハレビーという旅行会社に行く。ここのM.ビトウ氏の案内にてカーニバル委員会Med.ルミーを訪問し、詳細打ち合わせを始めた。しかしM.ビトウ氏のフランス式イングリッシュの通訳ではラチがあかないので、明日日本人通訳と改めて出直すと回答して別れた。この時、Med.ルミーより連絡を受けていたニースの運送会社ゼネラル・コーポレイト社の社長が現れ、彼の事務所へ行き、こちらの要望を伝える。


【曳山からの要望】
 @四キロ離れたメゾンドカルナパル(保管庫)からの出入には、当方として納得しかねる。
 A保管庫に代わる物件をパレード会場近くに設定されたい。
 B日本通運パリ駐在所と連絡をとられたし。
 C十屯クレーン車等の手配を日通パリと連絡を願いたし。
以上、四点を要望して別れる。尚、第二点については露天でも一夜なれば可能であるとの要望は付加した。
 この日にパレードコースを歩く。三十分〜四十分かかる。工事中のビルが右手にある附近から若干登り坂になっている。ほとんど感じない程度であるが、教会あたりから見るとパレード広場を見下ろす感じがする。

一月二十七日(土)
 午前九時、現地通訳の若林氏と会見し、本日のMed.ルミーとの会談の打ち合わせをする。午前十時、委員会Med.ルミーと面談。昨日M.ビトウ氏との会見で得た感触の通り
 @四キロ離れたメゾンド カルナパル(保管庫)へは、曳山を入れなければならない。
 A保管庫が潜在的パレード出発点であること。
以上二点を確認させられた

 こちらの要望を伝える。
 @保管庫まで往復八キロは負担になるので、近くに(パレード会場)確保されたい。
(回答)それでは自動車で引っぱってやる。
(返答)それは人力が頼りの曳山であり、ハンドルもブレーキもない構造だから不可能である。
(回答)それでも保管庫に入れてもらわねば、ニースカーニバル委員会として全く責任が持てぬし、潜在的な出発点を考慮されたい。
(返答)話しは判るが、往復八キロについては、納得できない点がある。露天(注@)に一夜であればおいても良い。
(回答)当日は酔客等も多く、ポリスの手配もつかないし、貴曳山関係者で警備するとしても、もし現地人とのトラブルがあれば、両市両国間に良くない結果を招くとも限らないので承知できない。

等の問答を繰り返し、絵を措いて曳山の構造を説明しても、ニース作成の出し物の感じしかなく、全く理解されなかった。そこで運輸関係を改めて考慮することにして、委員会の指示通り四キロ離れた倉庫をしぶしぶ承認した。尚、この日の会見で、国情の相違、国民性の違いを痛感した。
 (注@) カーニバル会場中心部に鯛曳山が収納できるぐらいの高さの上屋根付き(夜露がしのげるほどの)建造物があり、その下へ保管できぬかと問答した。しかし、その場所はカーニバルにとって大事な場所だから「ダメだー」と言われた。


 さて、まだまだメモは続くのだが、紙面がつきそうなので今日はここまでとしたい。しかしながらメモの中で「絵を描いて曳山の構造を説明」とあるが、おそらく四角を描き、その前に長い線、後ろに短い線を描いて、それを指し示しながら、綱を引く身振りや、梶棒を押す手振りをしながらフランス人に曳山の構造を必死で説明している姿が眼に浮かんできて大変おもしろい。
 戸川惟継宮司はその時を振り返ってこう語る
 「うんにゃ、あいどん(フランス人)達の山車(カーニバルに使用する車両のこと)は自動車に花飾りして、ソイの上かい手ば振るだけやっけんが、曳山ばソイと同じぐらいに思うちょるっちゃんねー・やっけんプル!プル!(「プル」は英語で「引く」)て言うてん分からんとさい!ほんなごて!」
 で、この話は、結局どうなったのかと言いますと、この「曳山格納庫並びに移動手段問題」は、専用のトレーラーに曳山を積み込み、格納庫とパレード会場を移動することによって解決したらしい。
 この海外出動については多くの話や伝説(?)を聴いてきたが、実は、こんな隠れたエピソードもあったのである。     Fin

ニースの新聞です

魚屋町
昭和56年
3月28日
第5回ディズニーランド日本祭(アメリカ)
太平洋を越えて  「唐津曳山米国派遣団」同行記  唐津新聞

唐津新聞記事
米の空にエンヤ、エンヤ
唐津曳山突っ走る
ディズニーの人気独占

 【ロサンゼルスにて鳥飼特派員三十日発】アメリカ・ロサンゼルスの南五十キロのディズニーランド、第五回日本祭に出場した曳山米国派遣団(上杉謙信の兜)は、二十八、九の両日(現地時間)、パレードに参加、エンヤ、エンヤとかけ声も勇ましくメインストリート五百bを、曳山ばやしのメロディーに乗せて猛スピードで突っ走り、大観衆の歓声に答え人気を独占した。
 初日の二十八月は、朝からからりと晴れあがったが気温は唐津と大差なく、コンディションも上々、会場に飾られた曳山は、曳山ばやしのメロディーに引き寄せられて続々と見物人が集まり、午後三時からのパレードには最後をかざって行進した。
 コースはカープなどが多く入園者に危険というので、はじめはゆっくりと行進、折り返して最後の直線コースを突っ走った。
 翌二十九日は、パレードの先頭を切り、昨日と同じように猛スピードで突っ走った。
 一方花柳三祐さんら十二人の曳山踊りも「ワンダフル」と大きな拍手がわいた。
 田中常雄ロサンゼルス総領事も「大変な人気ですね感激しました」と激賞した。脇山英治団長も「大成功、大成功」と大喜びだった。
 なお一行は三十日夜ロサンゼルスをたち、ホノルルに立ち寄り四月四日午後帰唐する。
 なお午後一時二分(現地時間)バスがディズニーランドホテルを出発るとき、レーガン大統領がそ撃されたというニュースが車内につたえられた。


 唐津新聞 昭和56年4月6日版

世界の「唐津曳山」
ディズニーランド 晴れの舞台で披露
 三月二十八、二十九の面日、第五回ディズニーランド日本祭に出場した「からつ曳山」は、お世辞抜きにして日本祭の"超目玉″であった。第五回日本祭だけをトップで飾ったものではなく過去最高の人気という評判だった。見事な曳山の偉容とダイナミックな動きは集まったアメリカ国民にとって驚嘆のマトとなった。初めて太平洋を渡った「唐津曳山」。明治二年、平野町の人たちが建造、残してくれた宝物"を誇示しながら派遣団員たちは脇山団長を先頭にして「エンヤ、エンヤ」の掛け声も勇ましく突っ走った。スピードをあげた直線距離は約五百bと短いものではあったか、一昨年のフランスのニースに引き続き、世界のヒノキ舞台で披露した唐津っ子≠フ意気は、まさに天を突く勢いであった。
祭りのハイライト

 第一回日本祭は五十二年三月二十八、九両日開かれ六団体が参加した。岩手県北上市の鹿踊りや旭川市の民謡舞踏会など。第二回は五十三年四月七、八同日で十一団体が出場。主なものは盛岡山車推進会、長野県大町鏑馬太鼓ぐらいのもので、児童舞踊とか、着物着つけ学院など。第三回は五十四年三月三十一日、四月一日の二日間で九団体。これも神楽とか万オ、御子舞いが主なもの。昨年が三月二十二、三両日でやはり舞踊、高校のトランペット、ハーモニカクラブなどで、いわゆる"動き"のあまいもの、全くないもの八団体。そして今回も唐津の曳山を除いてめぼしいものはほどんどなく、山梨の「甲州遠光太鼓」(二十三人)宮城の「気仙七夕ばやし」(二十人)「横浜学園高校バトンクラブ」(三十五人)など日本からは十二団体四百五十人の参加だった。このほか南カリフォルニア在住の日系アメリカ人二十団体、千二百人も出演するため、パレードは壮観なものとなり、日本色に塗りつぶされた。

 ヤマひき姿で出発
 二十八日朝、ヤマひき姿に身を固めた一行は、ロサンゼルスヒルトンホテルロビーに集合した。色とりどり小学生を交えた八十人の姿に同宿の外人たちは目をパテクリ。同八時半同ホテルをバス二台に分乗して出発、四車線のハイウェーを南下、約五十`のロサンゼルス郡アナハイム市のディズニーランドに到着した。団員たちは前日組み立てを終わり、格納庫に納められた曳山「上杉謙信の兜」の前で戸川省吾唐津神社宮司により、お祓いをすませた。このあと脇山英治団長の注意があってめいめい紙コップの日本酒で成功を祈って乾杯、会場へ移動させた。
「小さな世界(スモール・ワールド)」のお城の前の広場に展示され、午後三時から開始されるパレードを待った。パレード開始の時間まで平野町の一部の人たちは、笛、太鼓、鐘の曳山ばやし≠フ演奏や警備にあたり、ほかは園内見物に散った。

 トラブル起きる

 牛後三時、いよいよパレードの開始。沿道には人垣。全日本鼓笛バンド隊を先頭に、つぎつぎと出演団体がスタートした。
 ところで曳山の行進についてトラブルが起きた。曳山を走らせないようにというのである.一つはアスファルトに車の傷跡がつくということ。もう一つはカーブなど多く、見る人たちにケガをさせては大変という理由。アスファルトは濃紺色の優雅なものであったしアメリカでは入園者にケガでもさせると莫大な補償金か必要だったからだ。要所要所にベニヤ板が敷かれた。ノロノロ行進では、せっかくの曳山の雰囲気は盛り上がらない。それでも沿道は沸いた。サムライを象徴する曳山と火消し姿≠フ一団は、バレードのハイライトだった。折り返し点の正門付近でいったん休憩、花柳三祐さんら十二人による踊りが始まった。曳山ばやしの演奏のメロディーに乗せて−。
 二十一歳のとき唐津からカリフォルニアに移住したという石井実きん(五三)は「懐かしさに胸が熱い」と目をうるませた。九州出身の人たちも大勢「唐津曳山がくる」というテレビや新聞の報道でやってきていた。
 さて出発点まで再びパレード開始、そしてゴールまであと五百bの地点まできたとき、ハプニングか起きた。突撃開始であった。「エンヤ、エンヤ」の大声をあげて、曳山が猛スピードで突っ走る.沿道の人たちはびっくり。大きな拍手が沸き起こった。ゴールイン.「エークソバラで引いたパイ」みんな晴れ晴れとした顔で笑った。

 再び同じコースで
 翌日二十九日、午前十時から脇山団長とディズニー側責任者との詰し合いの結果、昨日のコース五百b往複の"早走り"がOKとなった。午後三時のスタートだ。「さあ走るぞ」脇山団長、中野陶痴、瀬戸利一両副団長以下、全員鉢巻きを締め直した。この日はパレードの先頭を切っての往復である。日曜日の牛後とあって、きのうよりも多い十万人近い観衆が入場していた。
 「出発!」脇山団長が采配を大きく振った。Tエンヤ、エンヤ」、さあ、スタートだ。走る!.走る!平野町の「上杉謙信の兜」。大観衆のどよめきの中を懸命に。
 「こんなに速く、こんなに長く、ヤマが走ったのはおそらく初めてパイ」。
 息をはずませる平野町や応援で引いた人たち。
 三祐師匠以下十二人の踊りが始まる。鮮やかな手さばきを見守る脇山団長の玉の汗の顔がほころぶ。ぶじ大任を果たした喜びを、いっぱいにあふれさせて −。



平野町
昭和59年
8月25日
日蘭通商375年記念日本祭
(オランダ・ロッテルダム)
唐津曳山
オランダの空に「エンヤ、エンヤ」

「曳山おどり」を披露する花柳三祐師匠と門下生 「上杉謙信の兜」の前に勢揃いした唐津曳山派遣団
(ロッテルダム市の会場で)


風車とチューリップとチーズで知られるオランダ・昭和十四年に長崎もののトップを切って全国的に大流行した「長崎物語」。赤い花ならマンジュシャゲ、オランダ屋敷に雨が降る   が一番の歌い出しだ。長崎の出島は寛永十一年(一六三四)始めポルトガル商人か住んだが、後追放され、平戸からオランダ商館が移されて、ここが開国までの二百年間、唯一の海外貿易所となった。オランダのロッテルダム市では日本とオランダの通商三百七十五周年を記念して今年七月十日から八月二十六日まで「ジャパン.イン.ロッテルダム」を開いた。日本の江戸時代からの文化を紹介するもので、オランダ政府観光局から、「フィナーレを盛り上げるために、ぜひ派遣を」と、唐津曳山取締会に要請があった。同取締会は、五十六年三月にアメリカのディズニーランドでの日本祭に出場した唐津市平野町の「上杉謙信の兜」を再び派遣、瀬戸利一総取締を団長に総勢六十九人が八月二十五、二十六の両日、「エンヤ・エンヤ」の掛け声も高らかにロッテルダム市の会場踊近くの目抜き通りを練った。曳山は遠藤の観衆をすっかり魅了、飛び出してきて綱を引く市民も多く、フランス、アメリカに続き三度目の世界のヒノキ舞台でまたもや「唐津曳山」は祭の人気をひとり占めにした。

 タイムトンネル
 「ジャパン・イン・ロッテルダム」はロッテルダム市中央駅前広場がメイン会場、ここに日本城下町が再現、日本調の門をくぐったとたん、タイムトンネルも間時にくぐって、そこはもう日本の江戸時代。ずらりと並ぶ瓦屋根の木造家屋は芝居小屋、茶屋、居酒屋、神社、倉など。広場の中央には、シンボルの高い灯明台が造られ、異国情緒満点。

 8月23日に出発.
 八月二十三日、唐津神社前に集合した一行は午前六時、貸し切りバスで福岡に向かい、同十時三十分、福岡発のキャセイ航空五一一便で、香港経由、西ドイツのフランクフルトへ出発、二十四日午前七時三十分(現地時間)に到着、約五時間のライン川下りを遊覧船で楽しんだあと、バスでロッテルダム入りした。
 二十五日は午前七時から曳山の組み立てを開始、終わって首都のアムステルダムに行き、木靴工場やチーズ工場を見学した。木をくり抜いて次々に美しく作られる靴に目をみはり、またチーズの匂いはオランダの旅情を漂わせていた。

エンヤ、エンヤ
 ロッテルダムに戻った一行は、元気に午後五時から「エンヤ・エンヤ」とデモンストレーション。会場の周辺をにぎやかに引いた。
オランダは白夜の国、九時ごろまで本が読めた。
 約百人の外人たちが、曳山を引きたいと仲間に入った。ハイヒールの婦人や子供も多く、曳山の関係者たちは、けがをさせないようにハラハラっしどおしだった。
 翌二十六日の日曜日は正午と午後四時からの二回、また「エンヤ・エンヤ」の掛け声も勇ましく、笛・太鼓・鐘のリズムに合わせて引き、オランダの市民に披露した。

曳山踊りも披露
 一行の中には、ディズニーランドに行った花柳三祐師匠が五人の門下生と共に今回も参加、曳山踊りを見せたが、なかなかの人気を呼んだ。
 同日夜、一行は会場で開かれた同市主催のレセプションにも招待された。
 ペーパー・ロッテルダム市長は病気のため、代理のヴァン・ドウ・ハフ市総務部長から「唐津曳山は大変すばらしく、この総合展のフィナーレを飾るのに最もふさわしいものだった。」と瀬戸団長らに最大の感謝とねぎらいの辞を送られた。

唐津新聞記事
資料提供者:てるりんさん


平野町
昭和61年
10月12日
杜の賑い(武雄市)
唐津新聞記事
人気を集めた鳳凰丸

武雄の「森の賑わい」に出場

 県内各地の郷土芸能などを集めた「森の賑わい」が十二日、武雄市文化会館で聞かれ、昨年塗り替えたばかりの唐津くんち六番曳山、大石町の「鳳凰丸」が駐車場広場に特別展示され、一方舞台での郷土芸能公演でも曳山ばやしなどが披露され、県外から訪れた二千五百人の観光客を魅了した。
 日本交通公社が、日本各地の伝統行事や郷土芸能を掘り起こして、市民や旅行者に見てもらおうと、五十七年から企画、主催しているもので、今年は全国五カ所の主要観光地で開かれたが、九州では武雄市が会場に選ばれた。
 舞台では、曳山ばやしと花柳三祐社中の曳山踊りほか、佐賀タンス長持唄、今寺の面浮立、葉隠太鼓、岳の新太郎さんなど、県内各地の芸能や民謡が次々と上演され、館内は華やかな祭り気分が盛りあがった。
 また唐津曳山「鳳凰丸」は、午前と午後二回に分けての芸能公演の前に、牧川洋二取締、小官弘資副取締ら約五十人の大石町の曳子らが会場内を「エンヤ、エンヤ」の掛け声も勇しく走らせて人気を集めた。
佐賀新聞記事 昭和61年10月13日
 佐賀の祭りたんのう

武雄で「杜の賑わい」

17種目熱演
県外から2500人


 唐津くんちの曳山(やま)が揺れ、勇壮な太鼓のリズムが響き、ムラ祭りの大競演−。県外の観光客二千五百人を招いての旅行イベント『杜(もり)の脹(にぎ)わい』が十二日、武雄市文化会館で華やかに繰り広げられた。県内に古くから伝わる代表的郷土芸能十七種目を一堂に紹介、訪れた観光客は素朴で味わいのある佐賀のふるさと祭り″をたっぷりたんのう、県観光PRに一役果たした。
 この企画は『よみがえるふる里の伝承』をキャッチフレーズに、日本交通公社が主催した。杜の賑わいは、日本各地に埋もれている伝統行事や郷土芸能などを掘り起こし、旅先で鑑賞してもらうのが狙い。五十七年の能登(石川県)を皮切りに全国各地の主要観光地で開いているが、今年は全国五カ所で計画され、九州では武雄だけ。
 ツアー客は関東、関西をはじめ全国各地から、国鉄臨時列車やバスで続々訪れ、午前十時と午後二時からの二回に分け公演が行われた。会場前広場では、昨年、二十四年ぶりに化粧直しをした唐津くんちの六番山『鳳凰丸』が出迎え。鉦(かね)、笛などの山ばやしに乗って広場を走り雰囲気を盛り上げる。
 出し物は、国指定の重要無形民俗文化財の武雄の荒踊りや、府招の浮立(伊万里市)、今寺の面浮立(嬉野町)、柄崎太鼓(武雄市)、葉隠太鼓(佐賀市)、白石のすすり餅(白石町)など十七種目、四百人が出演。音と光の趣向を凝らしたステージで、出演者たちは伝統の衣装姿で民踊や歌に熱演。観客席からも手拍子を合わせ、出演者と観客が一体となり、満員の会場がムラ祭り一色に盛り上がった。
 菱(ひし)売り姿で娘さんたちが菱をプレゼント。会場前広場では、ミニ有田陶器市、伝統工芸即売、玄海と有明の幸コーナーなどが店開きし県内の味覚と物産のPRも行った。
 

大石町
昭和62年
10月11日
御堂筋パレード(大阪)
あす大阪へ「鯱」出発
御堂筋パレードに参加
けさ唐津神社で安全祈願


十一日に開催される「大阪二十一世紀計画・'87御堂筋パレード」に参加する唐津市水主町の曳山関係者と十三番山「鯱」の安全祈願祭が八日午前八時半から唐津神社で行われた。
 祈願祭には高田照男・水主町本部取締、輸送を担当する松浦通運の福本東起也取締役部長、町内会長の田中富三郎さんら関係者二十人が参列した。

 一行に同行する戸川省吾宮司によって神事、続いて高田本部取締と福本部長が玉串を捧げ、参列者一同、お神酒を頂いて式を終了した。

 このあと鳥居の前に置かれた「鯱」のお払いをした。同九時から解体を開始、荷造りされた。「鯱」は十日午前九時、同神社で出発式を行ったあと、松浦通運のトレーラーで中国自動車道を経由して大阪へ運ばれる。

 また参加する曳山関係者約百人は同日午後一時に貸し切りパスに分乗して同神社前を出発、北九州市からフェリーで大阪へ向かう。
 瀬戸利一総取締、花鳥一夫副総取締、高田本部取締の三人は現地打ち合わせのため同日、空路、大阪入り する。
 曳山のパレードには大阪市と付近在住の唐津出身者が応援出場するが、すでに渋谷厳・京都大学教授を協力隊長に大人二百人と子供三十人の人選を終わり、唐津から、そろいの肉じゅばんが送られている。

 総出場者は百十四組、一万三千四百人。見物客は約百二十万人という一大イベント。ソ連のラトビア共和国の民族舞踊、フランスのニース市のミス・ニース≠窿}カオのドラゴンズタンス、アメリカの本年靡全米パドントワリングチャンピオンによるバトントワリング≠ネども披露される。
 
 開始宣言セレモニーは午前十一時、大阪市役所前で行われる。

昭和62年10月9日 唐津新聞
「鯱」御堂筋立草匹堂筋を華麗にパレード
見守る観衆120万
唐津くんちのFR上々


 大阪21世紀協会主催「'87御堂筋パレード」は、十一日、大阪市の中心街・御堂筋を会場として盛大に開催された。参加者約一万三千四百人が大江町を起点につぎつぎに出発、ナンパの終点まで約三・三キロを華やかにパレードした。唐津からは初めて十三番「鯱」が出場、三百余人の曳手によって「エンヤ、エンヤ」の掛け声も勇ましく突っ走り目玉≠フ役目を果たし、百二十万人(主催者側発表)の観衆を魅了した。

 参加したのはマーチングバンド部門三十八隊、フロート部門が花車など三十八隊、芸能・スポーツ部門が四十五隊で全都で百二十一隊。このうち全国郷土芸能は十八隊。

 フロートは豪華なものばかりで、珍しいものには、タイ国政府の「曰・タイ修好百周年、タイ観光年」があり、タイから空輸した蘭の花でフロートを飾り、ステージでは楽団とダンサーによる民族音楽と民族舞踊を披露した。

「世界の祭り・踊り」はアメリカ、フランス、オーストリア、ソ連などから国際色豊かに'87ローズクィーン」、「'88ミネアポリス水上祭クィーン」、「ミス・ニース」、「'87ピスマーク・フォ−クフェスト・クィーン」などの美女たちも登
場した。

 郷土芸能は昭和五十五年に国の重要無形民俗文化財に指定された青森市の「ねぶた」、岩手県水沢市に伝わる「水沢の鹿踊」、福井県小浜市の「雲浜獅子」、四国・宇和島市の「牛鬼」など。

 唐津市の「唐津くんち・曳山行事」で出番を待つ十三番「鯱」と、三百人を超す内じゅばん、法被姿の大集団には、つぎつぎに通り過ぎて行く先発組も横目で見ながら「すごい、すごい」。

 唐津からの約百人は前日十日午後一時、貸し切りバスで唐津神社前を出発。同五時に名門大洋フェリー「おりおん」に新門司港から乗船して、十一日午前七時十分に大阪南港に到着、朝食をとったあと同十一時前に会場出発古だ勢ぞろい到着した曳山の組み立てなどを行った。

 午後一時半から「鯱」の前で戸川省吾唐津神社宮司により神事、瀬戸利一総取締、野副豊市長、村山健吾市議会議長、大阪在住参加者二百三十人を代表して渋谷巌京都大教授が玉串を捧げた。

 瀬戸総取締は「郷土愛に燃える大阪の皆様方の温かいご支援に対して厚くお礼を申し上げます。きょう一日、古里に帰ったつもりで唐津っ子≠フ意気を高らかに示して下さい」とあいさつした。

 渋谷教授も「大阪で、からつくんちをやれて、こんなうれしいことはありません。ケガ人を出さないように“唐津≠ニいう合言葉のもとに結集すれば、二世、三世もいますが、うまくいくででしょう」とあいさつした。

 午後二時十五分、百十一番目に、いよいよ曳山が、スタート、三百人を超す曳手は広い道路いっぱいに広がり、衣装も華やかだけに壮観。

 要所、要所ではアナウンスで「曳山」について紹介される。

 「唐津くんちは毎年十一月二目から四日にかけて行われる代表的な郷土芸能です。唐津市には十四台のヤマがあり、県の重要文化財“唐津くんちの曳山行事”として昭和五十五年、国の重要無形民俗文化財の指定を受けています。今回参加した鯱は、明治九年に地元の絵師・富野淇園により作られた芸術品です」。

 「鯱」の前き行くのが、東急グループの「オズの魔法使い」の車。停車しては、沿道の人たちはキャラクターたちが実演、花火まで上げる。終わると車なので、スーツと百bほど走って停まる。そのあとを「エンヤ、エンヤ」で走るので威勢はよいが相当きつい。それでも前の車が停車している間に花祐全主宰の花柳三祐師匠以下十人が、曳山踊りを沿道の人たちに披露した。

 大群衆の見守るなかを、人気を集めた曳山パレードは柏手を受けながら無事、全員、ナンパの終着ゲートにゴールインした。
 親子で参加した藤井寺市西古室ニ−八−一四、印刷業田中悟さん(三七)と長男の大介ちゃん(五〇)はゴールで「最高にうれしい」、高槻市東上牧三−八−五、山口典子さん(二五)、雅子さん(二二)も、肉じゅばんの下はスカート姿だったが「最高です」。また関西唐津会長脇山功さん(七一)=高槻市塚原六−一四−一八=、同事務局長下田平隆さん(四八)=明石市二見町西二見九一五−二、同じメンバーの渡辺満男さん(六七)=大阪市平野長吉東原三ノ九ノ二四ノ五〇三=らも「もう言うことはありません」と大喜びだった。

 パレードを終わり、瀬戸総取締があいさつ、大阪組全員に宮田の松露饅頭が配られた。一行が宿泊する大阪市大国町の大野屋旅館で打上を行った。

 瀬戸総取締、高田水主町本部取締のお礼のあいさつに続き、野副市長、村山市議会議長、脇山関西唐津会長、渋谷京都大教授が祝辞を述べた。
 このあと唐津市菜畑、グラフィックデザイナー、飯盛幸男さん(四七)が描いた鯱の絵六枚が株式会社リッセー代表取締役立藤康夫さん=大阪市天王寺区四天王寺一−六−一五=を通じて在阪の主なメンバーに贈られた。

昭和62年10月12日 唐津新聞

昭和62年10月12日を中心に開催された、大阪御堂筋パレードに招かれ、商都大路を勇壮華麗に曳き渡った。今回のこの曳山出動には、唐津からの出動組に加え、在阪唐津人が多数奉曳に参加し、一味違った賑々しさが感じられ、商都に唐津人の心意気を示した。

唐津神社社報より
鉢巻画像提供:ハミチン王子様
大阪21世紀計画”87御堂筋パレード参加記念

水主町
平成1年
5月1日〜3日
よかトピア(福岡)
博多どんたく
これはいつの間にかうちのアイロンのあて布になっていました。これを期に曳山関係の箪笥に大切に保存!

よかトピア会場を曳き回る中町・材木町

写真提供:かっちゃん
同じく木綿町
よかトピア会場

写真提供:かっちゃん
博多どんたく
どんたくパレード待機中
京町は木綿町の加勢をしました。生まれて初めてよその曳山を曳き、妙な感じでした。

写真提供:かっちゃん

博多の街をエンヤ、エンヤ

曳山3台パレード
「どんたく」に彩り添える

 福岡市民の祭り「博多どんたく港まつり」は三日開幕。どんたく初日に雨が降らなかったのは四年ぶりという珍しい好天に恵まれ、福岡市内の各会場は過去最高の約百五十万人(主催者推定)が繰り出し、終日にぎわった。最終日の四日も好天に恵まれ、百四十五万人(主催者発表)の人出でにぎわった。三、四両日とも“好天どんたく”となったのは十年ぶりのことで、両日の人出は二百九十五万人と、五十五年の二百六十万人を上回る過去最高を記録した。
 三日はどんたく隊には.市制百周年を祝って唐津くんちの曳山三台や百人による沖縄舞踊、九州各県のミスらが参加し、祭りを盛り上げた。三、四日とも市内三十カ所には大小の舞台が設けられ町は祭り一色となった。

人出150万の3日に

 三日、福岡市のメーンストリート国道202号一.二キロを歩行者天国にした「どんたく広場」では、市民団体、企業、子供たちのどんたく隊四十団体、六千人が趣向を凝らした山車や踊りでパフォーマンス。沿道は全国から訪れた観光客や家族連れで身動きができないほどぎっしり埋め尽くされた。
 午後一時.花火を合図に桑原敬一福岡市長らが呉服町の出発点でテープカット、博多松ばやし保存会、市制百周年記念福岡二千年の歴史大行列などが天神のゴール目ざして出発した。
 花自動車「ひみつのアッコちゃん」など三台編成の花自動車二組が出発、同二時十分から特別参加どんたく隊の出発開始、まず奈良天理高校吹奏楽部が見事な行進を始めた。津市の唐人おどりどんたく隊は面をかぶった特異な姿での踊りで見物客を魅了、長崎市の長崎くんち龍(じゃ)踊りどんたく隊も中国人の昔の服装でエキゾチックな龍踊りを披露した。また佐賀市からは納涼さがまつりどんたく隊が参加、気球をあげて吉野ヶ里をアピールした。沖縄からの太鼓を叩いての「エイサー」の踊りも人気があった。
 特別参加のラストを飾ったのが唐津市の唐津曳山どんたく隊。「青獅子」「浦島太郎と亀」「武田信玄の兜」が総勢七百人を超す曳き手で登場。同二時半から戸川惟継唐津神社禰宜により神事、瀬戸理一総取締ら本部役員もコップのお神酒で気勢をあげた。野副豊市長も一升ぴんを曳子から渡され天を仰いで一飲み.同五十三分、福岡市城南区片江中学一年生福山希美重さんのプラカードを先頭に出発した。

 「エンヤー、エンヤー」の掛声は笛、太鼓、鉦の曳山ばやしのリズムにのり、休憩をとりなから釣五十メートルずつを突っ走った。
 各所に設置したマイクから流れる唐津くんちの紹介アナウンスは「四十年ぶり唐津曳山の参加でーす。曳山は十四台のうち三台の参加でーす。唐津くんちは十一月二日から四日まで。皆さん、唐津へお出かけ下さーい」。
 博多山笠をもつ博多っ子たちも、勇壮、華麗な曳山パレードに大きな柏手と声援をおくっていた。
 同四時ごろゴールイン、瀬戸総取締から桑原福岡市長に釆配が贈られた。瀬戸総取締は「この采配は私たちの指揮棒です。これを唐津へ唐津へと振って福岡市民の流れを唐津へ向けてください」と協力方を要請した。
 このあと万歳を三唱して解散となったが野副市長は「一日の“よかトピア”から三日まで大変ご苦労さまでした」と参加した皆をねぎらった。
 曳山パレードを見た若桐同窓会福岡支部長浦田辰蔵さんは「どんたく隊パレードでも曳山は異色です。お祭り気分にマッチして非常によかった」と語った。
 四日夜、どんたくのフィナーレは、旧県庁舎跡地広場で二千人が参加したどんたく総踊り。花火も夜空に響き、十年ぶりの夜間どんたく≠ヘ最高潮に達した。

  唐津新聞記事 (平成元年5月6日)



中町
材木町
木綿町
平成2年
5月3日〜4日
博多どんたく 福岡


博多どんたくに唐津曳山


今年も3台出場
福岡、唐津両市長の要請で

 昨年五月三,四日の福岡市民の祭り「博多どんたく港まつり」は二百九十五万人の人出でにぎわい、初日の三日に唐津曳山三台が市制百周年を祝って出場したが、今年の「博多どんたく」にも桑原福岡市長と野副唐津市長の要請で、曳山三台が出場することが決まった。

 今回出場する唐津曳山どんたく隊は刀町の一番山「赤獅子」、大石町の六番山「鳳凰丸」、米屋町の十一番山「酒呑童子と源頼光の兜」S牝二御、獅子、船、兜の中から一台ずつ選ばれた。十四日に開いた唐津曳山取締会の総会で、瀬戸利一総取締らが出席して本決まりしたもの、出場は三,四日のうち初日の三日だけで人員は六百人。
 昨年特別参加のラストを飾って最高の人気を集めたことから「今年もぜひ」と桑原市長から野副市長に要請、両市長から唐津曳山取締会への要請となった。
 なお昨年は「青獅子」「浦島太郎と亀」「武田信玄の兜」が出場した。

   唐津新聞記事  平成2年2月22日


刀町
大石町
米屋町
平成3年
5月3日
博多どんたく福岡
勇壮に曳山絵巻
どんたくで人気集める


 福岡市民の祭り・第三十回記念「博多どんたく港まつり」=福岡市民の祭り振興会主催=は三、四の両日繰り広げられたが、雨のどんたくを覆して今年は二日間ともさわやかな五月晴れの好天に恵まれ、二日間の人出は当初予想の二百五十万人を大きく上回る三日百三十五万人、四日百四十五万人の計二百八十万人(主催者調べ)と昨年を七十万人の増。 これは一昨年に記録したアジア太平洋博「「よかトピア」開催時の二百九十五万人に次ぐ、どんたく史上二位、全国的にもゴールデンウィーク期間中のイペントとしては全国一の大にぎわいの祭りとなった。
 このどんたくに、唐津からも招待どんたく隊として唐津曳山が参加(三日のみ二百団体約二万人のパレードの中で、八番山・本町の「金獅子」、十番山・平野町の「上杉謙信の兜」、十三番山・水主町の「鯱」の三台が、歩行者天国となった福岡市明治通りの国道202号線の呉服町から天神までの約一、二キロ区間を、野副豊唐津市長、瀬戸利一曳山総取締ら曳山関係者六百人によって勇壮に引き回わされ、どんたく広場の見物人から一番の人気を集めた。唐津曳山が福岡市に派遣されたのは、昭和二十六
年、平成元年、伺二年に続いて四回目。
 このほかパレート隊には花車やミス福岡、博多仁和加、三十三羽I、陸上自衛隊音楽隊、中村学園高バトン部、ユニバーシアード福岡大会PR隊などが出場。
また市内二十九カ所に設けられた舞台での舞踊などの演技、花火大会もあった

平成3年5月6日 唐津新聞
 

どんたくパレード待機中

写真提供:かっちゃん
提供:dkさん

本町
平野町
水主町
平成4年
5月4日
博多どんたく福岡

6:10
福岡国際センター前にて神事

6:30
福岡国際センター前曳山出発

7:15
呉服町よりパレード出発

8:10
市役所前ゴール
写真提供:@神田中村さん

どんたくに曳山五台

4日夕明治通りで
   祭りの人気を一人占めか

 三、四の両日福岡市で開催される博多どんたく港まつりに、唐津曳山五台が出場し、博多どんたく最後の四日夕福岡市中心街の明治通り約一・二キロで唐津くんちを再現し、博多どんたくを盛り上げ最後を飾る。
 博多どんたくに出場するのは、四番山=源義経の兜(呉服町)五番山=鯛(魚屋町)七番山=飛龍(新町)十二番山=珠取獅子(京町〉十四番山=七宝九(江川町)五台で、瀬戸利一曳山総取締役ほか役員らを含め、曳山町内から約千人が唐津っ子の意気を見せる。唐津曳山が福岡市に出場するのは平成元年に開かれたよかトピア(アジア太平洋博)の博多どんたくに三台が出場して毎年出場しており、今年の五台を含めると十四台全部が参加することになる。
 出場する五台の曳山は解体など準備が進められておリ、四日午前七時トラックで出発し、福岡国際センターで組み立てをして神事を行い、曳子隊が集合してから呉服町交差点に移動し、午後七時十五分呉服町交差点から国道202号線の明治通りの天神までの約一・二キロを約二時間かけてパレードする。途中は休憩を含め、唐津くんち本番と同じく威勢のよい勇壮な曳山を繰り広げる。
 博多どんたくは、ゴールデンウィーク期間中では、九州では最高、全国でも一〜二位の人出を記録する祭りで、二日間多彩な催しがあるが、これまでも曳山が最高の人気を集めており、今年は夕刻からのスタートで、唐津宵ヤマ   と五台の出場で博多どんたくに来た人を足止めして最後のフィナーレ  人気を独占するものと予想されている。


   唐津新聞記事 平成4年5月2日

曳山五台が勇壮に
 博多ん町で人気集める


福岡市民の祭り・第三十一回博多どんたく港まつりは三、四の両日繰り広げられたが、今年は二日間ともさわやかな五月晴れに恵まれ、二日間の人出は昨年を五万人上回る二百八十五万人。これは三年前記録したアジア太平洋博「よかトピア」開催時の二百九十五万人に次ぐ、どんたく史上二位の記録となった。
 このどんたくに、唐津市から招待どんたく隊として唐津曳山が今年も参加。四日夜、四番山「源義経の兜」(呉服町)五番山「鯛」(魚屋町)七番山「飛龍」(新町)十二番山「珠取獅子」(京町)十四番山「七宝丸」(江川町)の五台が、歩行者天国となった福岡市明治通りの国道202号線の呉服町から天神までの約一.二キロ区間を、野副豊唐津市長ら約千人の曳き子によって勇壮に引き回わされた。
 唐津曳山の福岡市派遣は昭和二十六年、平成元年、同二年、同三年に続いて五回目。今回は宵ヤマを再現と港まつりの最後を飾っての登場。飾りちょうちんを明々とともし、ヤマばやしにのって「エンヤ・エンヤ」の大合唱、見物客の人気を独占した。
 このほかパレード隊には花自動車やマーチングフェスティバル、一般どんたく隊、また市内各所に設けられた舞台では歌謡ショーや舞踊などの演技、夜は花火大会もあった。

     唐津新聞記事 平成4年5月5日

被害状況
国際センター前に下ろされた江川町の首のトゲが折れていた。
帰路急いだのか、5月5日早朝着。京町の両脇腹などに数カ所亀裂が走った。 京町はその時の取締の英断で「以後門外不出」と決定した。




呉服町
魚屋町
新町
京町
江川町
平成7年
8月5日
第23回「栄の国まつり」(佐賀県庁前〜佐賀銀行)

佐賀県庁横駐車場にて待機していた鳳凰丸と鯛、夕方近くに県庁前へ移動開始。気温は35°オーバーの猛暑の中の巡行でした。
写真提供:@神田中村さん
佐賀新聞より
「唐津の曳山 
   佐賀を走る」

「エンヤー、エンヤー」の掛け声を響かせながら、佐賀市内を初めて走った唐津くんちの鯛と鳳凰丸の曳山(やま)。この日の「栄の国まつり」は24万8000人の人出でにぎわった。

鯛ヤマ、鳳凰丸に人気

栄の国まつり
佐賀市を練る唐津曳山

佐賀市の夏祭り・第二十三回「栄の国まつり」は五日、同市唐人町中央通り(県庁前〜佐賀銀行間約一キロ)で、世界炎の博覧会の一年前プレイベントとして開催される「ふるさとまつり交流フェスティバル」と合同で開催され、唐津市から参加した唐浄くんちの曳山二台がラストを飾って登場、「エンヤ、エンヤ」と威勢のよい掛け声で練り歩き、人気を集めた。
 出場したのは五番山(魚屋町)の「鯛」と六番山(大石町)の「鳳凰丸」の二台。瀬戸理一取締、福島善三郎市長ら総勢四百五十人が出動し、往復二キロを唐津くんちをアピールしながら練り歩き、唐津っ子の意気を示した。
 なお、まつりには他に、栄の国まつり(佐賀市)多久山笠(多久市)トンテントンまつり(伊万里市)まつり鳥栖山笠(鳥栖市)相知くんち山車(相知町)山ひき祇園(小城町)三重の獅子舞(諸富町)など計十八台の山車が参加。炎天下でそれぞれに勇壮さをアピールしていた。夜は約三千人による総踊りもあり、二十四万八千人の人出だった。


   唐津新聞記事 平成7年8月7日



魚屋町
大石町
平成8年
3月11日
第2回ホノルルフェスティバル(ハワイ・オアフ島)

平成8年3月11日 第2回ホノルルフェスティバル(ハワイ・オアフ島)
金獅子はカラカウア通りを宵ヤマ飾りの上、夕刻まで巡行。
ツノの両端にはスピーカーが装備され、セリ囃子が大きく流れます。
色とりどりの各町の肉襦袢がワイキキビーチの観客に大うけでした。

写真提供:@神田中村さん
「金獅子」をハワイへ
曳山取締会が派遣を決める

 唐津曳山取締会はこのほど臨時総会を開き、来年三月八日に米国ハワイ州で開かれる「第二回ホノルルフェスティバル」に、唐津市本町の八番山「金獅子」を派遣することを決めた。曳山の海外遠征は、昭和五十四年の魚屋町の「鯛」が初めてフランス・ニースへ。五十六年に平野町「上杉謙信の兜」が米国ディズニーランドへ、続いて五十九年には同曳山がオランダ・ロッテルダムへ遠征している。
今回で四回目の海外派遣となる。
 同フェスティバルは、日本と関係の深いハワイから日本との文化・歴史の交流と理解、そして愛と信頼を深めようと昨年から開催しているもので、今年九月フェスティバル実行委員会から曳山取締会へ出場依頼があった。
 臨時総会で協議の結果、本町の金獅子が選ばれた。金獅子は昭和四十年代、神宮外苑で開かれた「日本の夏まつり」に出場しており、二回目の市外遠征だが、国外は初めて。ハワイでの曳き子は約百人を予定。曳き子らへの旅費の一部助成として市は開催中の十二月定例市議会には、出演助成金六百九十万円を計上している。このほか民間から百人程度の観光団も募集する計画がある。また曳山は、二月中旬に神戸港から船便で現地へ輸送する。
 瀬戸利一曳山総取締は「沈滞気味の唐津観光のPR、また、炎博キャンペーンにもつなげ盛り上げたい」と話している。
 第一回の同フェスティバルには、御輿等では、浅草御輿、二本松ちょうちん祭など十九団体が出場。伝統芸能では札幌よさこいソーラン、日本民謡連合会、大正琴全国普及会、全国古今流雅太鼓、なまはげ伝承会など二十七団体。このほか茶道、華道、凧揚げ、相撲、武道なども参加。同フェスティバルの日本人観光客は四千人だった。
 今回の開催期間は三月八日から十三日までの六日間が予定されている。

  唐津新聞記事 (平成7年12月14日)



本町
平成9年
4/25〜5/5
第4回食博覧会(大阪国際見本市会場)
出動期間は、4月18日の積み込み作業開始から、5月12日の帰着収納までで、その間の4月25日から5月5日まで会場に展示された。奉曳神事はなし。囃子あり。町より囃子方及び保守要員として多数上阪。
唐津曳山「鯛」大阪へ

食博会場で展示
 期問中唐津観光をPR

 唐津曳山の五番ヤマ「鯛ヤマ」(魚屋町)が、二十五日から五月五日まで、インデックス大阪(大阪国際見本市会場)で開催される「”97第4回食博覧会・大阪」に参加、ヤマばやしでファンファーレを告げる。
 食博は昭和六十年から四年ごとに開いており、前回の平成四年は五十八万人が入場した。今回の食博は、「世界お国自慢・味自慢」がテーマ。実行委員会が、日本の食材の象徴ともされる鯛をデザインした唐津の「鯛ヤマ」にぜひ参加をと呼び掛けた。
 「鯛ヤマ」は食博期間中、メインの西ゲート前のテーマプラザに展示される。開幕の二十五日は、オープニング式典で、勇壮なヤマばやしを打ち鳴らし、食博の開幕を告げる。また二十七日までは魚屋町の曳子たちが合計十回のヤマばやし演奏を行なう。また唐津観光をPRして曳山ビデオの映写もする予定だ。
 唐津くんちの曳山が他所へ出るのは昨年三月のハワイ・ホノルルフェスティバル出場など、合計十七回日だが、「鯛ヤマ」の遠征は昭和五十四年のフランス・ニースカーニバルなど六回目となる。瀬戸理一曳山総取締は「連休で、訪れる子どもたちにも喜ばれることでしょう」と話していた。また曳山の輸送費やはやし   博実行委員会が負担する。
 食博は、日本村、アジア村、アメリカ村、ヨーロッパ村     料理や食に関する文化を紹介する。入場料は大人千八百円、子供千円となっている。
 なお「鯛ヤマ」は二十二日午前中に解体され、陸送で会場へ運ばれる。

   唐津新聞記事 平成9年4月18日


魚屋町
平成10年
10月18日
第13回国民文化祭おおいた大会大分

唐津新聞 平成10年10月17日

亀と浦島太郎大分へ
18日の国民文化祭に参加


 十八日から大分県で開催される「第十三回国民文化祭・おおいた98」のオープニングパレードに出場するため、唐津曳山の三番曳山「亀と浦島太郎」(材木町、天保十二年作)が十七日午前、山笠と台車の部分に分割されて、陸送で大分市に送られた。十八日午後一時半から、大分市の中心通りを曳く。町内の曳き子百八十人と唐津曳山本部や関係者八十人は、十八日朝に出発する。 

唐津新聞 平成10年10月20日

大分のメーン通り走る
曳山「亀と浦島太郎」
国民文化祭パレードに参加

 第十三回国民文化祭「おおいた'98」が十八日幕開け。大分市のメーン通りではオープニングパレードが盛大に行われ、二十八団体、二千三百人が華麗な踊りや囃し、マーチ、パフォーマンスで通りを彩り、沿道の十九万六千人がまつりムードに酔った。
 パレードは、「交流の風」「九州の風」「未来の風」「豊の風」の四部から構成。このうち唐津曳山の三番山「亀と浦島太郎」(材木町)は、「九州の風」で、佐賀県代表のまつりとして参加、勇壮な囃しと「エンヤ、エンヤ」の掛け声で観客を魅了した。
 「九州の風」は、まず「竜踊り」(長崎代表)がドラやホーンでにぎやかに出発。赤い着物の「ひょっとこ踊り」(宮崎代表)の行列が軽妙な腰振りで続く。花笠の婦人らがしゃもじを打ち鳴らしで博多どんたく」(福岡代表)も華やかだ。金銀の灯寵を頭に付けた娘たちが練り歩く「山鹿灯籠踊り」(熊本代表)は、あでやか。足を大きく振り上げて、腰に抱えた太鼓を打ち鳴らしての行列は「エイサー・琉球国祭り太鼓」(沖縄代表)。直径が、人間の身長より大きい太鼓を、竿のようなばちさばきで、盛んに響かせたのは「霧島九面太鼓」(鹿児島代表)。最後に出場団体中、最大の二百五十人の曳き子を動員した唐津曳山「亀と浦島太郎」が登場、激しい「競りばやし」と「エンヤ、エンヤ」の大合唱で通りを駆け抜けて、唐津っ子の熱気を発散。元気の良さに、沿道からは、ひときわ大きな拍手と、注目を浴びていた。子供達も昔話の絵本で見た「亀と浦島太郎」に大喜びだった。このあと「豊の風」では、二〇〇二年のサッカーワールドカップの.PR隊などが登場、にぎやかなパレードが続き、駅前のメーン通り七百bの両側には、見物人がびっしりと張りついて絢爛なパレードを堪能していた。
 一方、通りの中心部にはロイヤルボックスが設けられ、皇太子ご夫妻も全てのパレードをご見学、笑顔と拍手で応えられていた。
 なお、国民文化祭は、二十六日まで、大分県内三十二市町でさまざまなイベントが繰り広げらていれる。
 

材木町
平成11年
大晦日
NHK紅白歌合戦のトリ   東京のNHKホール
(北島三郎の「まつり」のバックに)


唐津曳山の飛龍が紅白へ

大トリに勇壮に登場
 北島三郎のまつりのバックに

大晦日(三十一日)恒例の紅白歌合戦(東京のNHKホール)に、唐津曳山の七番ヤマ・新町の「飛龍」(弘化三年制作=一八四六)が出場することが決まった。紅白の大トリを務める北島三郎さんの歌の中で登場するもので、曳子や囃し手二十七人も出演する。
 北島さんは紅白の最後で「まつり」を歌うが、歌をバックアップするために「唐津くんち」が、そして来年の干支の辰(たつ)にちなんで「飛龍」が選ばれた。
 今年の紅白は、午後七時半からスタート、男女二十七組、五十四曲が歌われる。北島さんの登場は午後十一時四十分ぐらいになりそうだ。具体的な演出はどうなるのか、まだ確定していないが、テロップで唐津くんちや曳山の説明ほか、ヤマを曳いての登場となりそうだ。
宮田一男唐津曳山総取締は「二〇〇〇年のミレニアムと紅白五十周年の晴れ舞台に出場できるのは、またとない機会。囃し道具のほか、宵ヤマの提灯ももっていきたい」、また吉光和義・新町正取締(45)も「すばらしい舞台を与えていただいた。全国に唐津っ子の意気をアピールしたい」と、張り切っている。
 飛龍は二十五日に解体され、二十七日に新門司港から海上輸送され、二十九日朝に現地に着。三十日のリハーサルから出場する。
 なお飛龍は、平成十二年の年賀切手の図案にもなっている。また昭和五十二年(一九七七)二月には「第一回日本の伝統芸能の祭典」で、NHKホールに出ており、二度日のNHK出場となる。

  唐津新聞記事(平成11年12月22日)


新町
平成13年
8/4
名古屋城夏まつり(8/3〜8/16)名古屋
上杉謙信の兜がメーン

名古屋城夏まつりへ

唐津曳山が城下町通り走る

 唐津曳山十番ヤマ平野町の「上杉謙信の兜」が、八月三日からはじまる名古屋城夏まつり″に出場する。十六日までにさまざまなイベントが予定されているが、同曳山がメーンとなっている。
 名古屋城夏まつりは、名古屋市などからなる実行委員会の主催で、天守閣夜間公開、ジャンボツリー展示、薪能・狂言上演、ロックやダンスチームのライブ、芸能ショー、子供を対象のプレイランドやキャラクターショーなどが連日繰り広げられる。にぎやかな城下町夜店通りや野外大ビアガーデンも開催する。
 このうち唐津くんち曳山巡行は四日夕方に行われ、大手門から城内へ続く城下町夜店通りの三百bを二回往復して、唐津くんちの勇壮さを披露する。また曳山は提灯を飾った宵曳山で、美しさもアピールする。
 唐津からは平野町の曳子を中心に各曳山町内からの曳子も含めて六十人が遠征。さらに名古屋地区の唐津地方出身者数十人も曳山巡行に加わる予定だという。宮田一男総取締は「一度は断ったが、主催者が直接足を運んでくださったので参加を決めた。素人も加わるので、事故の無いのを第一に考えている」。平野町の瀬戸利嗣本部取締は、「しっかり伝統の宣伝をしたい」と話した
 曳山は、四日のほかは会場の特設展示場に飾り、ビデオブースで、唐津くんちのビデオを上映する。

唐津新聞記事(平成13年7月7日)


平野町
平成17年  大阪御堂筋パレード 辞退 
16年の暮れ、大阪御堂筋パレードに出動要請あり。次に総塗替を控えている京町に白羽の矢が。
京町は町内会長・会計・監事・氏子総代・各班長による役員会を開き、絶対反対3:条件次第では出動4に意見が割れ、その旨総取締に報告。京町は平成4年の博多どんたく出動で両脇に亀裂が入り、以後門外不出と決めている。そこを理解していただき出動は無しとなる。
 
平成20年  香港出動辞退
19年暮れ、香港から鯛山出動依頼在り。曳山取締会初寄りで、総取締から鯛山香港出動辞退の報告がありました。
出動依頼があったのが昨年暮れ。年明けて検討したが、準備日数不足と言うことで今回は無しと。

その関連で同じく香港だったと思うが、数年前に江川町七宝丸出動要請があった年もあったが、どんな理由か不明だが実現しなかった。はっきりした年代が分かる方は教えてください。

 
平成24年
1月23.24日 
佐賀新聞  2011年05月26日   香港

唐津くんちの曳山「鯛」 香港からパレード参加要請

 唐津くんちの5番曳山、魚屋町の「鯛」が来年1月、香港で開かれる「チャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレード」に参加要請を受けている。香港政府観光局が「色合いがめでたい」とラブコール。市は6月定例議会に遠征費などを計上する予定で、唐津曳山取締会が了承すれば、1995年に米国ホノルルへ渡った本町の「金獅子」以来、17年ぶり5回目の海外遠征となる。 

 今年1月、同局から「鯛の赤と縁取りの金がめでたい。ぜひ祝典に参加を」と要請があった。4年前と3年前にも指名を受けたが、日程や予算の関係で断っていた。 

 パレードは旧正月の23日と24日、香港の繁華街で開催。世界各国から50団体が参加し、20万人の人出が見込まれている。鯛曳山は23日夜、約2キロを曳(ひ)き子や囃子(はやし)とともに練り歩き、24日は会場のブースで唐津の観光グッズや物産品のPRを予定する。 

 市は曳山の輸送費や曳き子ら100〜150人の遠征費として、2100万円を定例議会に計上。唐津曳山取締会と協議を進め、参加を目指す。坂井俊之市長は「『アジアに一番近い場所』として、唐津をアピールできれば」と期待する。


佐賀新聞 2011年12月25日
唐津くんち5番曳山「鯛」を解体 香港パレードに出場

来年1月、香港で旧正月を祝うパレードに参加する唐津くんちの5番曳山(やま)「鯛」が25日、解体された。丁寧に荷造りされ、年明けに船便で現地に送られる予定。16年ぶりの曳山の“海外遠征”に向け、関係者の意気込みも盛り上がりつつある。 

 同日朝、保管先の唐津市曳山展示場から出された高さ約7メートルの鯛曳山は、地元魚屋町の曳き子らによって、台車や目、胸びれ、尾びれが順に取り外された。繊細な漆塗りの本体を傷つけないよう慎重な作業が続いた。 

 同町香港出動実行委員長の山口雄三さん(62)は「世界中に唐津をアピールするチャンス。唐津に来てもらえれば他の素晴らしい13台も見られると伝えたい」と意気込む。作業終了後、同市民会館でパレードに参加する曳山関係者の結団式もあった。 

 パレードは1月23、24の両日、香港の繁華街を舞台に行われ、世界各国から50団体が参加する。鯛曳山は23日夜、約2キロを練り歩き、24日は会場ブースで唐津観光をPRする。市内からは曳き子約150人のほか、ツアー参加の市民ら総勢約200人が駆け付ける予定。



西日本新聞2011年12月26日

香港パレード参加へ 唐津くんちの鯛を解体

ヒレや目玉が取り外され、クレーンでつり上げられる唐津くんちの5番曳山「鯛」

 来年1月23日に中国・香港で開かれる「インターナショナル・チャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレード」に参加する唐津市の唐津神社の秋祭り・唐津くんちの5番曳山(やま)「鯛(たい)」が25日、搬出に向けて解体された。

 唐津市によると、パレードは旧正月を祝う祭りで、来年が17回目。世界約15カ国50団体がパレードに加わり、約20万人の見物客が沿道を埋めるという。曳山(ひきやま)の海外遠征は、1996年の米国・ハワイ以来16年ぶり。

 この日は朝から、同市魚屋町の関係者ら約60人が曳山展示場(同市西城内)に集まり、本体と目玉、ヒレ、しっぽなど10の部分ごとに分解。木箱に丁寧に詰め込んで10トントラック2台で市内の運送会社に運んだ。来年1月8日に博多港(福岡市)から香港に向けて出発する予定。魚屋町香港出動実行委員会の山口雄三委員長(62)は「いよいよです。本番では鯛の魅力を存分にアピールしたい」と話した。

 解体後は、香港遠征に参加する「鯛曳山香港訪問団」の結団式が市民会館(同市西城内)で開かれ、約150人が参加。団長に任命された坂井俊之市長は「香港で赤い鯛は幸福の象徴。佐賀の存在を世界にしらしめましょう」とあいさつした。



西日本新聞2012年1月22日

唐津くんち訪問団、22日に香港へ出発

 中国・香港で23日夜に開催される「インターナショナル・チャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレード」に出演する唐津くんち(唐津市)の関係者らでつくる「鯛曳山(たいやま)香港訪問団」(団長・坂井俊之唐津市長)が22日朝、同市を出発する。

 香港政府観光局によると、パレードは旧正月を祝う祭りで、今年で17回目。世界10カ国計35団体が参加し、約20万人の見物客が会場を埋めるという。日本からは唐津くんちの5番曳山「鯛」(魚屋町)のみが出演する。

 パレードは23日午後8時(日本時間同9時)にスタート。香港中心部の約2キロのコースを歩く。「鯛」の出番は30番目、午後9時ごろ(日本時間同10時ごろ)の予定。

 訪問団はくんちの曳(ひ)き子や囃子方(はやしがた)ら約160人。このうち先発隊19人が21日に現地入りし、同日夜に「鯛」を組み立て。残りのメンバーは22日早朝に出発、同日夕に現地の会場でリハーサルを行い、本番に備える。唐津曳山取締会の牧川洋二総取締は「威勢良く曳いて普段のくんちを再現したい」。坂井市長は「日本から唯一の参加。存在感を示して、香港からの観光客増につなげたい」と意気込んでいる。

■香港遠征は世代交代の好機 魚屋町の山口さん語る
 「それはもう、尋常じゃない人気だったんですよ。曳山(ひきやま)が世界に受け入れられた歴史的瞬間。全身に鳥肌が立ちました」。唐津くんち(唐津市)の5番曳山(やま)「鯛(たい)」を擁す魚屋町の正取締、山口雄三さん(62)は高揚気味に振り返る。

 1979年2月、フランス・ニース。地中海に面する国際的観光都市で繰り広げられたカーニバルで、総勢約100人の曳(ひ)き子が「鯛」を曳いて街中をパレード。フィナーレで広場を1周しても観客からアンコールが鳴りやまず、3周した。それでも熱狂は収まらず、観客からはちまきや法被をせがまれたという。

 山口さんは当時、同町の若者組織・鯛若会(たいわかかい)の一員だった。あれから約30年。中国・香港で23日夜にある「インターナショナル・チャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレード」に「鯛」が招かれる。山口さんは「魚屋町香港出動実行委員会」の委員長として準備に奔走してきた。

   ◆   ◆

 唐津くんちの14台の曳山は一級の工芸品でもあり、長年門外不出とされてきた。ニースのカーニバル参加は初めての海外遠征だった。以来、国内外に遠征を繰り返してきた。海外遠征は16年ぶりとなる。

 香港や県から出演依頼を受けた魚屋町は昨年6月、委員会を立ち上げた。山口さんは鯛若会の若者とともに月3、4回のペースで会合を開き、曳山の運搬方法や遠征費用などを細かく決めてきた。香港では曳山の組み立てや解体だけでなく、夜間警備も担当する。

 「ニースの時も同じように、若者が遠征準備を進めた」と語る山口さんは、今回の香港遠征を曳山組織の「世代交代の機会」と捉える。「ニース遠征を経験し、自分も含め若者に“曳山や町を動かす”という責任感が芽生えた。鯛若会の多くは30代。これからの曳山と町を支える若者に、同じ経験をさせたいんです」

   ◆   ◆

 昨年末の会合。町公民館に集まった鯛若会のメンバーは、パレードの演出法で激しく意見をぶつけ合った。「鯛を元気よく見せるにはどうしたら良いか」「14台の曳山の代表。香港で恥はかけない」

 山口さんは若者たちにニース遠征時の自分を重ね、目を細めた。「僕らも真剣に議論を重ね、全力で曳山を曳いた。その熱意があったからこそ、フランスで受け入れられたのだと思う。こうやって歴史は繰り返されるんですね」

 山口さんと鯛若会のメンバーら19人は先発隊として21日、香港に発った。「やれることはすべて精いっぱいやった。本番では唐津の、そして佐賀の代表として、鯛曳山を元気よく泳がせます」



西日本新聞2012年1月23日

唐津くんち訪問団 香港入り リハーサルに熱

 【香港・岩谷瞬】中国・香港で23日夜に開かれる「インターナショナル・チャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレード」に出演する唐津市の唐津くんちの関係者らでつくる「鯛曳山(たいやま)香港訪問団」が22日、現地入り。早速、本番に向けてリハーサルした。

 曳(ひ)き子約160人はパレードスタート地点の香港カルチャーセンター前の広場で本番の立ち位置などを確認。実際に囃子(はやし)を響かせ、「エンヤ」の掛け声を上げながら、5番曳山「鯛」(魚屋町)を30メートルほど曳いた。

 同町の山口雄三正取締(62)は「いよいよ本番。明日は佐賀代表の名に恥じぬよう、元気に鯛を曳きたい」と意気込みを語った。

 パレードは23日午後8時(日本時間同9時)から香港の中心街を舞台に行われる。



西日本新聞2012年1月24日

唐津の「鯛」香港を泳ぐ 曳山、旧正月パレード

 【香港・岩谷瞬】中国・香港の旧正月を祝う「インターナショナル・チャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレード」が23日夜、九龍半島の尖沙咀(チムサアチョイ)地区であり、佐賀県唐津市の国重要無形民俗文化財「唐津くんち」の5番曳山(やま)「鯛(たい)」が日本国内から唯一参加した。曳山(ひきやま)が海外で披露されるのは1996年の米国ハワイ以来16年ぶり。

 香港政府の出演依頼に応じた。同地区は高層ビルが林立する香港最大の繁華街。重さ約1・6トンの「鯛」は、法被姿の曳(ひ)き子約160人の「エンヤ、エンヤ」の掛け声とともに登場。頭やひれを動かしながら約2キロを練り歩き、大歓声を浴びた。



朝日新聞 2012年1月24日

香港で「エンヤ、エンヤ」 パレードに唐津くんちの曳山

 香港の夜空に「エンヤ、エンヤ」のかけ声が響いた。国の重要無形民俗文化財、佐賀県唐津市の唐津くんちの曳山(ひきやま)が23日夜、旧正月を祝う香港のチャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレードにお目見えした。過去に米仏などへ遠征したが、アジアは初めて。

 曳山囃子(はやし)の音色も響かせ、唐津っ子の約150人で5番曳山「鯛(たい)」を曳いた。目玉やヒレ、あごを上下左右に動かすパフォーマンスを織り交ぜ、中心街の目抜き通りを駆け、観光客約10万人を引き付けた。

 江戸時代からの伝統を持つ鯛山の朱塗りの体は「幸運」、金箔(きんぱく)の鱗(うろこ)は「富」を表す。大きな目玉など愛嬌(あいきょう)のある姿は海外でも人気で、香港政府観光局の3年越しの要請で実現。唐津市の曳山展示場から6分割して船で運んだ。パレードは今年で17回目で、タイ、イタリア、米国など世界12カ国・地域から35団体が参加した。(香港=田中良和)


読売新聞2012年1月24日

唐津くんち曳山、香港パレードで喝采浴びる

 【香港=山田和男】佐賀県唐津市の国重要無形民俗文化財「唐津くんち」の曳山(やま)(たい)」が23日夜、香港・九龍半島の目抜き通りで開かれたインターナショナル・ナイトパレードに登場した。曳山の海外遠征は1996年以来16年ぶり5回目。

 鯛は全体が赤色で、うろこなどの線が金色。香港では赤色が幸運、金色が富と幸福のシンボルとされ、「縁起が良い」として旧正月を祝うパレードへの参加を要請されたという。

 この日は、12の国・地域から参加した35団体のうち28番目に登場。白や朱の法被姿の男衆は囃子(はやし)に合わせて「エンヤ、エンヤー」と掛け声を上げながら、約2キロのコースを練り歩いた。約10万人の観光客で埋まった沿道からは広東語で「非常に素晴らしい」を意味する「ホゥレイ」という声が飛んだ。



朝日新聞2012年1月25日

くんち「鯛」佐賀PR
  香港でグッズ配布

 約10万人の観客が沿道を埋めた香港の旧正月を祝う「チャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレード」から一夜明けた24日、主会場近くで県主催の「佐賀デー」が開かれた。人気を集めた唐津市の唐津くんちの曳山「鯛」が展示され、ミニ采配と鉢巻きの「唐津くんちグッズ」が配られるなど、市民や海外からの観光客らとの交流を深めた。
 佐賀デー会場となった「1881年ヘリテージ」は、水上警察本部として使われた由緒あるビクトリア建築風の建物。現在は改装され、高級ブランド店やホテルなどが入る複合施設になっている。
 鯛山は正面の広場に展示され、唐津くんちの曳山囃子の笛の演奏が3回にわたって披露。地元・魚屋町の曳子たちが「エンヤ、エンヤ」と気勢を上げた。
 唐津市の坂井俊之市長があいさつし、「曳山囃子に合わせて旧城下町を勇壮華麗に練り歩く、動く日本の芸術品」と紹介。県と唐津市への訪問を呼びかけた。
 台湾・台南市から夫と子供2人連れで訪れた陳梓韻さん(44)は「鯛山の赤や金色は、中国の正月の印象とぴったり」と笑顔で話していた。 (香港=田中良和)

西日本新聞 2012年1月27日

唐津市が国際戦略室

 唐津市の坂井俊之市長は26日の記者会見で、新年度に「国際戦略室」(仮称)を設置すると発表した。アジア市場の拡大傾向を踏まえ、これまで親睦が中心だった韓国・麗水市などの友好・姉妹都市について、産業や観光を含めた総合的な関係への転換を図る方針。

 2月に、商工観光部など産業関連4部の部課長級で構成する国際戦略検討会議をつくり、室設置へ向け、調査、分析に乗り出す。坂井市長は「国際戦略に力を入れる県とも連携し、外資系企業の誘致や唐津くんちや唐津焼など文化発信にも取り組みたい」と述べた。

 また、坂井市長は25日に終えた唐津くんち鯛曳山(たいやま)香港訪問を振り返り、「県、唐津市のPRが大いにできた」と成果を報告。現地で解体、梱包(こんぽう)された5番曳山「鯛」は2月11日に唐津に戻ってくるという。


唐津くんち 5番曳山 鯛
 香港パレード出動の新聞記事まとめ





 
 
朝日新聞 平成24年2月14日

 「鯛」の曳山お帰り
    唐津に再び展示
 香港で1月下旬に開かれた「チャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレード」に参加した唐津くんちの5番曳山「鯛」が唐津市に戻った。12日には再び組み立てられ、曳山展示場に納められた。
 パレード後に解休された鯛山はコンテナ船で運ばれ、今月5日に博多港に到着。12日は魚屋町若手の「鯛若会」の約20人が作業をした。香港で解体時に雨が降ったため、胴の金箔の一部がはげ落ちたほか、何カ所か傷が見られるという。
 香港派遣の地元の責任者だった魚屋町の山口雄三正取締(62)は「香港で佐賀県の名を広めることができてよかった」と話した。
 被害状況
2月12日に帰ってくる。現地で雨に打たれたのがいけなかったのか、金箔が相当剥げている。鰭の先はすれて下地が見えている。背びれの蝶番周辺、尻尾の根本の蓋周辺の亀裂が酷い。雨だれの筋が目立つ。等々、相当なダメージを受けて帰ってきた。

魚屋町
平成24年
6月2日 
 西日本新聞2012年2月7日    韓国・麗水市
唐津くんち「飛龍」6月に韓国遠征へ 世界博に出演依頼

 唐津市の国重要無形民俗文化財「唐津くんち」の7番曳山(やま)「飛龍」(新町)が、5月に世界博覧会が開幕する韓国・麗水市から出演を依頼されていることが6日、分かった。1月には中国・香港のパレードに5番曳山「鯛」(魚屋町)が参加しており、実現すれば、初の年2度の海外遠征となる。

 韓国・全羅南道を訪れている県の友好訪問団には、唐津市の世戸政明副市長が参加。関係者によると、訪問団が5日、麗水市を訪れた際、金忠錫(キムチュンソク)市長から世戸副市長に、期間中に開催される「ジャパンデー(6月2日)」への飛龍出演を要請する文書が手渡されたという。韓国も今年のえとは「辰(たつ)」で、日本と同様に「龍」は縁起が良いとされている。

 麗水市の要請を受け、唐津市は6日、唐津くんちを運営する唐津曳山取締会に報告。取締会は今後、派遣するかどうか協議に入る。同取締会の牧川洋二総取締(77)は取材に「前向きに検討したい」と話した。市は、遠征費用の補助を検討している。

 麗水世界博は「生きている海、息づく沿岸」をテーマに5月12日−8月12日に開催。100カ国以上が参加し、800万人の来場者が見込まれる。唐津市は、日本国内で唯一、麗水市と姉妹都市を結んでおり、今年締結30年の節目を迎える。


毎日新聞2012年2月8日
唐津くんち:曳山「飛龍」派遣へ 5月開幕、韓国・麗水世界博が出演要請 

 国の重要無形民俗文化財に指定されている唐津くんちの7番曳山(やま)「飛龍」(新町)が、同市の姉妹都市、韓国・麗水市で5月に開幕する「麗水世界博覧会」に出演要請された。唐津市は派遣へ向け曳山関係者と調整に入り、来年度予算に事業費計上を検討している。

 1月に中国・香港で開かれた「チャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレード」に5番曳山「鯛」(魚屋町)が参加したばかり。実現すれば初の年2度の曳山海外派遣となる。

 市によると、7日まで韓国を訪問した県友好訪問団の世戸政明副市長に5日、麗水市の金忠錫市長から6月2日の「ジャパンデー」への出演を要請する文書が手渡された。今年のえと辰(たつ)にちなんで「飛龍」の要請になったという。

 市は6日に唐津曳山取締会に報告。牧川洋二総取締は「条件さえ整えば派遣したい」と前向きだ。

 麗水世界博は「生きている海と息づく沿岸」をテーマに5月12日〜8月12日開催。100カ国以上が参加し、来場者は800万人(うち日本から20万人)を見込む。【原田哲郎】



朝日新聞2012年2月21日
「飛龍」韓国派遣に
 地元が了解の意向

   唐津くんち曳山
 唐津市の「唐津くんち」の7番曳山「飛龍」の韓国麗水世界博派遣について、地元の新町から市に対して「派遣を了解した」との意向が伝えられたことが20日、わかった。これを受けて市は2012年度一般会計当初予算案に派遣費用の補助を計上する方針。
 県は新年度当初予算案に、6月2日の麗水博「ジャパンデー」への飛龍派遣を含む参加事業費約3300万円を計上している。

朝日新聞 2012年05月18日
曳山「飛龍」 韓国・麗水の世界博へ

 唐津市の国指定重要無形民俗文化財「唐津くんち」の7番曳山(ひきやま)「飛龍(ひりゅう)」が、韓国・麗水(ヨス)市の世界博覧会で6月2日に催される「ジャパンデー」に参加し、パレードをする。飛龍の海外での披露は初めて。
 世界博覧会は12日に開幕し、8月12日までの3カ月間開かれる。唐津市と麗水市は今年が姉妹都市30周年で、干支(えと)にちなみ、飛龍が招待を受けたという。
 今月19日は午前9時から神事などの出発式があり、唐津神社そばの曳山展示場で展示中の飛龍が外に出され、解体される。午後3時からは大手口センタービルで結団式などもある。
 出動実行委によると、飛龍は幅2・2メートル、高さ6・8メートル、重さ1・75トン。江戸時代後期の1846(弘化3)年制作とされ、1999年にはNHKの紅白歌合戦で、大トリだった北島三郎さんの「まつり」に登場した。新町正取締の梶山栄一さんは「博覧会では、唐津っ子の心意気を存分に発揮したい」と話している。(石田一光)



佐賀新聞 2012年05月19日更新

唐津くんちの熱気届け 曳き子ら70人解体作業

 唐津市の姉妹都市、韓国・麗水(ヨス)市の「麗水世界博」に出演する唐津くんち7番曳山「飛龍」(新町)が19日、唐津曳山展示場で解体され、同博へ出発した。曳き子や運送業者ら約70人が慎重に各部位を取り外して梱包(こんぽう)、トラックに積み込んだ。23日に博多港をたち、28日に麗水市北の光陽(カンヤン)港に到着する。
 曳き子らが飛龍の幕や綱を外し、本体を胴と舌、ひげ、尻尾に分解した。防護シートで丁寧にくるみ、手やクレーンで荷台に乗せていった。
 新町曳山正取締の梶山栄一さん(50)は「曳山の素晴らしさ、唐津っ子の熱い思いで世界を魅了し、曳山14台がそろう唐津くんちに来てもらえたら。町と唐津の宝物なので無事故で終えたい」と抱負。
 輸送を担当する日本通運は事前に3度視察し、重機、美術品、国際輸送各部門の「エース」計10人体制で解体、梱包にあたった。佐賀支店の秋枝豊雄・総合営業センター所長(43)は「芸術品で絶対に失敗は許されないので特別体制を組んだ。皆さんの情熱に応えたい」と語った。
 新町や市の関係者らによる結団式も市内であった。飛龍は6月2日のジャパンデーで世界博会場内を1・2キロ練り歩き、市内を2度パレードする。


毎日新聞2012年5月20日
唐津くんち:「飛龍」韓国へ
 来月2日、麗水世界博に参加 唐津をアピール
 /佐賀

 唐津市に伝わる国の重要無形民俗文化財・唐津くんちの7番曳山(やま)「飛龍」(新町)が、姉妹都市の韓国・麗水(ヨス)市で開かれている麗水世界博覧会に参加するため、同市の曳山(ひきやま)展示場駐車場で19日、輸送のため解体された。
 飛龍会のメンバーらが飛龍(約1・75トン)のしっぽやヒゲ、舌を取り外し、本体をクレーンでつり上げて木枠に固定した。新町曳山正取締(せいとりしまり)の梶山栄一さん(50)は「唐津をアピールしてきたい。無事故、無傷で帰ってくることを祈っている」と話した。
 韓国側から今年の干支(えと)「辰(たつ)」にちなんで飛龍の参加が要請された。6月2日の「ジャパンデー」のオールジャパンパレードなど三つのパレードに参加する。【原田哲郎】


読売新聞 2012年5月20日
くんち「飛龍」 韓国・世界博へ 出発式
来月の日本デー参加

 韓国・麗水市で開催中の世界博の日本デー(6月2日)に参加する国重要無形民俗文化財・唐津くんちの7番曳山(やま)「飛龍」(新町)の出発式が19日、唐津市の曳山展示場で行われた。

 曳山の海外遠征は1月の香港に次いで今年2回目。通算で1979年のフランス・ニースから6回目となる。「飛龍」は初めて。
 当日、世界博会場で行われるパレードに日本から参加する6団体の一つとして、会場内の1・2キロを約150人で練り歩く。このあと、唐津と麗水の姉妹都市締結30周年を記念して麗水側の郷土芸能団体と一緒に市内をパレードする。
 出発式には、新町や曳山関係者ら約100人が出席。くんちを取り仕切る唐津曳山取締会の牧川洋二総取締(77)が「麗水へは日本を代表していく。曳山に負けないように」と激励した。新町正取締の梶山栄一さん(50)は「曳山のよさと唐津っ子の熱い気持ちを存分に発揮して、唐津をアピールしてきたい」と心意気を語った。
 このあと、飛龍は尻尾、ヒゲ、ベロと本体の4部分に解体され、和紙や毛布などで慎重に荷造りされた。23日に博多港から韓国へ向かう。



西日本新聞 2012年5月20日
曳山「飛龍」が麗水万博参加

 唐津市の姉妹都市、韓国・麗水(ヨス)市で開催中の国際博覧会(麗水万博)で日本文化を紹介するジャパンデーイベント(6月2日)に参加する唐津くんちの7番曳山(やま)「飛龍」(新町)の出発式が19日、同市西城内の曳山(ひきやま)展示場であった。曳山の海外遠征は1月の中国・香港に続き今年2回目。姉妹都市締結30周年を迎えた麗水市からの参加要請を受けて実現した。
 県指定重要有形民俗文化財でもある飛龍は神事の後、尻尾やヒゲなどを取り外され、丁寧に梱包(こんぽう)されてトラックに積み込まれた。23日に福岡市の博多港から出港し、イベント当日は万博会場と麗水市街地で3度のパレードに参加する予定。
 新町の梶山栄一正取締(50)は「えとの辰(たつ)年にちなんだ飛龍遠征は縁起も良い。麗水との友好関係をしっかり深めてきたい」と話している。麗水訪問団の結団式も19日に行われた。





佐賀新聞 2012年6月2日
唐津くんちの飛龍躍動 麗水世界博に「エンヤ」の声

 韓国麗水(ヨス)市で開かれている麗水世界博は2日、「ジャパンデー」として日本文化が紹介され、国の重要無形民俗文化財「唐津くんち」の7番曳山(やま)・新町の「飛龍」がパレードに登場した。150人の曳き子が朱色の曳山を披露し、唐津を世界にアピールした。両市は姉妹都市交流を始めて30年の節目を迎え、記念の市内パレードでは麗水の山車と共演。麗水市民からも「エンヤ」の声が上がり、友好を深めた。

 ジャパンデーでは、三養基郡基山町のよさこいチーム「美勝女隊(びしょうじょたい)」に続いて登場した。曳き子らは軽妙なはやしに合わせ、高さ7メートル、重さ2トンの曳山を力強く引き、約1時間かけて600メートルのメーン通りを往復。勇壮な曳山と曳き子たちの「エンヤ、エンヤ」の大合唱に、「モシッダ(かっこいい)」「ヒムチャンギウン(勢いがある)」と声が掛かった。

 飛龍は、龍の飾りが付いた麗水の山車とともに市内もパレード。麗水市民から盛んな拍手を受けた。新町曳山正取締の梶山栄一さん(50)は「いいものには国境がないんだと確信した。これからも一歩一歩、しっかりと親睦を深めていきたい」と話した。

 飛龍は今年のえと「辰」にちなみ、麗水市から招請を受けて出演。曳山が海外で披露されたのは、1月の香港ニューイヤーパレードに参加した5番曳山「鯛」(魚屋町)に続き6回目となった。




西日本新聞2012年6月2日
唐津くんちなど麗水万博を彩る ジャパンデー、予定通り開催

 【麗水(韓国南部)神屋由紀子】韓国麗水(ヨス)市で開催中の国際博覧会(麗水万博)で、日本の文化を紹介するジャパンデーとなった2日、同市の姉妹都市、佐賀県唐津市の唐津くんち曳山(ひきやま)など九州から3団体が参加し、伝統芸能や華麗な舞を披露した。日本政府は、領有権をめぐり日韓が対立する島根県・竹島に関する韓国の主張を反映した展示などを理由に高官派遣を見送ったが、行事は予定通り行われた。

 ジャパンデーの式典では、経済産業省博覧会推進室の岩田泰室長が東日本大震災後の韓国の支援に謝意を表し、「日本は万博参加を真っ先に表明し成功に協力してきた」とあいさつ。韓国側も日本の参加に謝辞を述べ、互いに竹島問題など外交上の懸案には触れなかった。

 日本の伝統芸能などを紹介するパレードや舞台には唐津くんち曳山のほか、佐賀県基山町のよさこい踊りチーム「美勝女(びしょうじょ)隊」、長崎県対馬市の和太鼓ユニット「佐須響心会」などが出演した。

 パレードに参加した唐津市の坂井俊之市長は「麗水で初めて曳山をお見せでき、感激した。国同士はいろいろな問題が起きるが、地方間の地道な交流の積み重ねが必要と再認識した」と語った。


 
新町
 平成29年5月13日(土曜日)と14日(日曜日)の2日間  ユネスコ無形文化遺産登録イベント「祭 with the kyushu」が開催されました。福岡
ユネスコ無形文化遺産に登録された九州5都市の「山・鉾・屋台行事」が一堂に会し、両日ともに晴天に恵まれ、特別巡行では見物客による歓声や拍手、手拍子なので大きな盛り上がりを見せました。
https://www.city.karatsu.lg.jp/kankou/event/yunesukomukeibunkaisan.html(唐津市のサイト)

  九州5団体とは

 「博多祇園山笠行事」

「戸畑祇園大山笠行事」

「唐津くんちの曳山行事」

「日田祇園祭の曳山行事」

「八代妙見祭の神幸行事」

 米屋町
 令和5年
6月4日(日曜)
 SAGAアリーナオープン記念      佐賀
With You!佐賀県文化芸術祭

迫力の曳山 熱気あふれ 県文化芸術祭
 SAGAアリーナオープン記念


 SAGAアリーナのオープンを記念する「With You! 県文化芸術祭」が4日、佐賀市日の出2丁目の同アリーナであった。SAGAアリーナでの文化・芸術関係の演目を体感してもらうイベント。伝承芸能、ミュージカルとライブ、オーケストラ音楽とバレエといった3幕構成で上演され、約5千人が楽しんだ。
 総勢約900人が出演した。第1幕「Seasons.of SAGA」は、県内各地の季節を彩る伝承芸能を紹介。「佐嘉神社巫女舞」(佐賀市)や「曽根崎の獅子舞」(鳥栖市)、「母ケ浦の面浮立」(鹿島市)が登場。「多久山笠」(多久市)は祭り本番さながらに、ちょうちん山を組み立て会場を盛り上げた。
 第1幕のフィナーレは、ユネスコの無形文化遺産に登録されている唐津くんち(唐津神社秋季例大祭)。壇上では14台ある曳山の各内から代表の曳子を4人ずつ紹介。鯛、上杉謙信の兜、青獅子の3台の曳山が、「えんや」 「えんや」のかけ声をあげて巡行し、会場は熱気に包まれた。
 唐津曳山取締会の副総取締、力武晃さん(67)は「室内なので音が響き過ぎるのではと思ったが、会場が音を吸収してくれて3町内のはやしがきちんと聞こえた。よそでやる機会はなかなかない。アピールする大きな場をいただいてありがたかった」と話した。
                           (三ツ木勝巳)     朝日新聞
おじゃがさんの動画はこちら 22分27秒

   
   
   
   
画像提供:多久島修氏
   画像提供:渡辺恵美氏
   
 被害状況

中町

魚屋町

平野町
     

私は京町出動の時の被害しか分かりません。
出動での
被害情報をお待ちします。

被害状況を明記することにより実情を理解して欲しいという思いで続けます。

出動要請を安易に考えて欲しくない。
間違いなく曳山は傷んで帰ってきます。表面だけの傷みではなく曳山本体(内部)の紙胎の部分がトレーラーの震動で相当なダメージを受けているはずです。
唐津くんちを維持する為に文化財指定をした行政(国・県・市)から多額の補助が毎年つぎ込まれています。
だから出動要請を断れないのでしょうが、
本末転倒
輸送で傷めば保険で治して貰えると言う問題ではありません。見えない深部の傷みが劣化を早めます。今後50年100年先も定期的な総塗替を続けながらでも本物で唐津くんちを続けていきたいと思います。
これ以上曳山を痛めつけないで欲しい。
早く気付いて欲しいという一心で被害状況を把握している分かるだけでも書き加えて行こうと思っています。

観光PR用なら出動の為のレプリカを作るべきではないかと思います。

文責 吉冨 寛