番外編   
神祭以外にも曳山を出しました。そのときのコースを思い出してみます。
また、新に資料が出て来たら追加していきます。
明治6年
6月 
 宮崎雅彦氏の日記
明治6年6月
8日
 本日より二夜三日黒崎濱に於て祈雨
10日
 本日結願に付き一区中の者参集徹夜
 本年は春以来降雨なく山林草木葉色を変じ人は水渇に及ぶ所もありて実に百年以来の大干魃なりと云う
11日
 沖ノ瀬にて祈雨
13日
 衣干山并塩屋古城に於て祈雨
 唐津は西の濱にて仝断大賑
16日
 菖蒲村常安原にて仝断
 唐津も仝断西の濱へ神幸神事仝様
17日
 常安原に総寄
22日
 唐津志道舎へ入塾
 当時筑前には百姓一寄あり其勢凡そ二五万人なりと云う
27日
 本日より三日三夜祈雨此度は縣廰よりの事にて一区内一社宛之を祈う依て予は田島神社へ出張 仝所は大賑
29日
 仝所より退散の農民野中原に集り何事をか議す依て呼子の町は大騒動然も其夜退散す
30日
 昨夜退散の農民又菖蒲村に集る
7月
1日
 本日より二夜三日一区中の祈雨を佐志に於てす
16日
 伊万里行として・・・・・・・

これで解るように明治六年六月の大干魃は明らか。

明治六年までに完成した囃子ヤマは米屋町まで。京町は踊り屋台、江川町は赤鳥居。水主町はまだ唐津神祭に参加していたかどうか不明。
明治10年
雨乞い

この年は連日の旱天で、皆困り抜き、各地の村々、里々ではそれぞれ祈願がなされたが一向に降らぬので遂に唐津大明神に御祈祷ということになり、神前に曳山を据え並べ、山噺を奉納する中で祈願祭を厳修し三日に及ぶも効験なく、遂に神輿のお立ちとなり、十五の曳山が前後に供奉して神事を行い、西の浜へ繰り込んだのである。各町は山小屋を建てて日覆いをするなど、いつ終るかわからぬ祈願行事に入ったのである。
 神輿の前では連日熱祷が捧げられて三日目ついに待望の雨をみたということである。この時魚屋町は鯛山を海に泳がせて、神意を伺ったといわれている。(唐津神社社報15号より


先の宮崎雅彦氏の明治10年の日記を見るが5月に大雨、その後の旱魃に記載無し。
社報には明治10年と記載してあるが間違いだろう。後日唐津神社に確認しておこう。
明治13年9月23日   午後三時太神宮御分霊御着輩 鬼塚に出で奉迎 市民は船宮まで引山にて奉迎 本日より一週間昼夜祭典 并説教 毎日晴天人手最多し
宮崎雅彦氏日記より
明治29年10月5日  10月3日 港湾決定の電報郡衛に来る 奥村へは前日来る。

10月5日  晴 港湾許可に付き祝として山引

10月6日 晴 同断 山引濱へ引出
宮崎雅彦氏日記より
明治32年8月4日 大島小太郎らが強力に運動した唐津港の特別輸出港の指定が実現し、開港祝賀会を開催します。

明治32年8月4日
唐津港開港と条約改正祝賀会を盛大に開催。関知事、県高官、各郡市長、九州各県新聞社員など来賓一般会員計約600人が参会、唐津町内は休業し、
曳山が出る

資料提供:やまめのたよりさん

宮崎雅彦日記に依れば
8月4日金曜晴 新条約実施 唐津開校(開港の間違いと思われる)祝典 
唐津校(港)新築敷地に於いて執行 市中引山やつし昼夜掲火
8月5日土曜晴 本日は大嶌にて祝典 余興としては市中は前日仝断   
 
                
明治35年 
10月10日
金曜 晴 乕疫解禁に付き市中山引 旧重九に当たる   (宮崎雅彦氏日記より)
明治40年
10月19.20日 
 9月25日より流行りだしたコレラ、金谷・中町・同心町などに一気に感染が広がり死者を出す。
10月中旬に収束して、10月19日曇、市中は乕烈剌(コレラ)鎮定祝賀として曳山笠を催せり


ところが、その後10月28日に大石町・鍛冶屋町に乕烈剌新患発生     (宮崎雅彦氏日記より)
明治40年
12月13日 
 小笠原長生公御弟野村壬午郎殿御来唐に付き本日より市中山車引
(宮崎雅彦氏日記より)
大正初期
宮崎雅彦氏の日記により大正2年8月18日と判明する。
大正2年
8月15日晴 本日よりやつし山笠引大賑
8月17日晴 本日まで三日間山笠やつし大賑
8月18日晴 本日より唐津神社で祈雨神事 山笠引揃  深夜雨
8月19日晴 同祈雨 夜唐津神社へ参拝 引やまは残らず通夜せり
        同夜近松座敷地に行き御大葬の模型陳列を拝観せり
8月20日曇 深夜大雨雷鳴
8月21日朝雨後晴 各村笛太鼓にて唐津神社へ礼参り     
(宮崎雅彦氏日記より) 
雨乞い
大正のはじめの雨乞いには、例の如く山が勢揃いして、祈祷があり、終るやいなや、一天にわかにかき曇って土砂降りとなり、皆その霊験を畏んだということである。(唐津神社社報15号より
大正2年10月28,29.30
31日 
28日晴 軍人六十人来唐 宅には宿泊なし
29日神祭晴 神祭 来唐軍隊本日は休息
    玉城を連れ唐津神社に参拝西の濱へ
30日晴 今朝軍隊出発 本日山笠引回し例年通り
     夜神社に参拝
31日晴 天長節
   今上天皇御即位後第御一回の天長節に付き官民一同公会堂にて挙式 予は病気に付き宅にて遙拝祝杯を挙ぐ
   市中は神事より引続き山車を引回す   宮崎雅彦氏日記より
 
大正2年
11月13日 
曇午後雨
午後4時12分大隈伯御夫婦来唐停車場に歓迎 高取邸に御着 菊池へ御一泊
歓迎の為大名小路に山車引出す        宮崎雅彦氏日記より

 菊池家に残された当日のスケジュールを元に想像してみました。
大正2年11月13日午後4時13分に唐津駅に着いた大隈伯夫妻
出迎えを受く
各町4時までに大名小路に曳山を整列させる。
ご夫妻を乗せた人力車が唐津駅を出立、呉服町を抜けて大手口〜曳山が待つ大名小路を滑るようにして一路高取邸へ。4時40分着。
(茶室でお茶を頂く。)
6:00〜7:30歓迎宴

高取邸を後にした人力車はご宴会中に提灯飾りがなされた曳山を眺めながら大名小路を大手口〜呉服町〜京町〜町田橋を渡り、
宿泊地である菊池龍太郎家に到着。

翌朝
写真撮影を終え、一行は8:00に菊池家を出立
町田橋〜京町〜呉服町〜大手口より唐津呼子線を西に向かい8:40三菱着 9:00に立ち
9:10芳谷唐津鉄工場着 9:20立ち、
9:50唐津尋常高等小学校着 講堂にて9:50〜10:50講演会
終了後大手口〜呉服町〜停車場通りを通り唐津駅へ
11:14列車は夫妻を乗せて久保田へ向かう。
         
大正9年
11月5日

朝香宮様来唐
、京町、緑が薄くなっており、それをご覧の宮様曰く「カエルか?」
それで大正10年の第一回目の総塗り替えにて朱獅子となった。との口伝有り。
これは神祭当日ご覧になったのか、それとも宮様のために曳山を出したのか調査中

佐賀新聞によれば
神功皇后御遺蹟及名護屋城趾御見学の御目的を以て福岡市より自動車にて午前10時唐津御着、一旦高取伊好邸へ入らせられ唐津中学校舞鶴城趾御覧正午仝邸にて午餐午後1時仝邸裏より三菱唐津出張所の汽艇に御搭乗湊村字屋形石なる玄武洞七ツ釜御覧の上進みて名護屋城趾へ御登攀
夫より加部島田島神社御参拝御帰航の途中神集島御通過の際唐津町佐藤林賀氏は其調査になる神功皇后御偉業の遺趾及名護屋城趾に関する史実考証調査書を奉呈の由なるが仝夜は高取邸に御一泊明6日午前8時50分福岡市へ向け御帰還の筈なるが一切御微行の由にて猶ほ往復とも佐賀市は御通過相成らざる趣なり右に就き本県より間野内務部長は多分福岡佐賀両県境なる包石に出張奉迎扈従し御帰還の際も同じく仝地まで奉送すべしと因に・・・・・
つまりこの記事では曳山の拝謁は確認できませんでした。しかし山口写真館が残してくれた絵はがきに間違いなく上覧前の曳山が大名小路に勢揃いしておりました。

唐津名物山笠 朝香宮殿下御来唐奉迎記念 唐津町山口写真館発行の二枚
高取邸に向かわれる途中に山笠上覧だったのではなかろうか。(吉冨)
   
大正12年 9月13日  ある町の記録に「小笠原子爵来唐の節山笠を出し其の際各町へ酒肴料として下渡金不分町取調件を云々」とあります。
大正12年9月1日は関東大震災で子爵もご苦労されたと思います。そのお礼に各町に酒肴料をお配りになったということです。
大正12年には参道の曳山小屋も出来ていて、おそらく参道に勢ぞろいしたのだと思います。
もしかしたら朝香宮の時のように大名小路だったかもしれません。
昭和5年5月21日 国際観光委員来唐につき、曳山出し、大名小路に整列したり。
曳山出しに対し、役場より金拾円也受取(京町永代帳より)
昭和6年 雨乞い
昭和六年に雨乞いがあった。この時は、時の町長萩谷勇之助氏が祭主となり、氏子総代区長が参列して、祈願がこめられ、神前の広場に各町曳山が勢揃いして噺しを奉納した。
 この時もその日のうちに雨を見て、一同ホッとしたことである。(唐津神社社報15号より
昭和11年10月4日

昭和11年の10/5付
唐津日日新聞の切り抜き

梨本宮殿下、唐津小学校前、道筋に並べられたる
唐津名物、山笠をご台覧。

写真情報提供:唐松の名無しさん
昭和25年5月2日
5月3日 
 ミナト唐津祭り 中央商店街でも便乗して祭り  曳山の出番は無し
 昭和26年5月6日7日 唐津まつり

名物「山笠」も繰出す


踊りあるく芸能隊 唐津まつり 全市空前の賑い 
“唐津まつり”第5日目の6日は気遣われた天気もカラリと晴れ日本晴れの日和にめぐまれ午前10時過ぎから前日同様の山笠や仮装行列がぞくぞく唐津小学校前埋立地に乗り込み順路をおうて市中を練り出し、仮設舞台では早くも数十組の芸能隊が得意のおどりでにぎやかし、おどりぬき前日のゆううつな降雨気分をとりもどし大手口一帯は観衆で埋め尽くして“唐津まつり”の空前の雑踏を呈しこの仮装行列隊や芸能隊の活躍にたまりかねた魚屋町、水主町、江川町では青年団の名物の山笠をひき出し三つばやしで全市を練るというさすがは唐津ッ子らしい風景を展開し夜間までにぎわった、なお夜は大手口広場で煙火大会をひらいた。

掉尾を飾る山笠  きょうも市中を練る
唐津まつり第6日目の7日は朝来の霧雨をついて刀町、中町、木綿町、本町の名物山笠が市中をねってエイヤエイヤの掛け声もにぎやかに唐津まつりの掉尾を飾った。

唐津新聞より
 昭和27年5月5日  唐津まつり

罷り出た山笠、面浮立
「唐津まつり」最終日の賑い


「唐津まつり」最終日第三日目の五日は雨もあがり、唐津くんち以外は出ないという十四台の山笠全部がいっせいに市内をねりまわり、威勢のよいまつり風景をみせ、強い風をついて集まった多数の見物人をよろこばせた。このほか唐津校では唐津はじめてのドッグ・レース、小城郡三日月村からは柳川県議に引率された面浮立の飛び入りもあり、夜は同校講堂でクイズ、演芸があって三日間にわたるまつりの幕を閉じた。
(西日本新聞昭和27年5月6日)

     この二枚は2023.10.31に見せてもらった写真です。
左は場所が特定できません。
右は済生会前の坂だそうです。
   昭和27年5月6日 唐津新聞
もんだい
唐津まつり終る
(文化的な進歩のあと)

〇・・唐津市の市制二十周年をことほぐ「唐津まつり」もすんだ。こにの三日間が生憎、悪天候だっただけに、にぎわいも大したものではなかったが、名物の山笠曳きがとう尾を飾ったことは市制施行の御祝いであったことから、大いに意義があったと思う。そしてそれは「唐津ぐんちだけ年に一回曳くことを改正し、観光からつのためこの文化財を大いに活用すべきだ」である。十四台の山笠がそろって「唐津ぐんち」以外の日に曳きまわされたことは、けだしはじめてのことだろう。今まで観覧のため出されたこともあり、各町まちまちにひかれたことはあるが‥。

〇・・小雨の中の仮装行列は大いに同情されたが、大人子供あげての熱情さには頭がさがる思いとは衣装が揃ったことである。 :.これは衣料の出まわりがよくなったことでもあろうしまた値段が安くなった関係もあるであろうが、対の衣装が多かったことは特筆すべきであり、それに趣向そのものが文化的に格段の進歩をしていることが目立っていた。数年前のようないらゆる「どろ臭さ」がしだいになくなっていくのは、唐津市自体の文うれしいことだ。なかんずく特選に入賞した大島の仮装行列「唐津の昔と今」は趣向からいっても統制からいっても、抜群のものとして衆人のみとめたところである。

〇・・しかし毎年のことだが、こうした行事に市の中央部である内町地区の参加が少いことは淋しいことである。今年の「唐津まつり」は市政施行記念という意味で港湾ということも、観光と言う事も大きくは打ち出されていなかった。これに対し間には幾分不満もあったらしいが、今年は市政施行二十周年記念としてこれでいいと思う。しかし不満であった西唐津、大島、佐志各地区からの、この催しに対する協力が強かったことは大いに買ってやらなくてはならぬし、外町町区も今年はほとんど参加していた。市政施行記念という意味から内町町区にもっとでてもらいたかったということは、決して「もんだい」子個人の意見ばかりではないだろう。
   
昭和28年5月16日 舞鶴橋完成 渡り初め 14台
(ふるさとの想い出 写真集明治大正昭和唐津より)
写真提供:かっちゃん
写真提供:林 照之様

橋に掛かった費用は当時、1億1千2百万円と4か年の歳月をかえて完成したそうです。
それまでは満島山(唐津城)まで渡し船で交通手段をしてたそうです。
昭和28年4月24日 唐津新聞記事

唐津まつり


名物山笠も
 渡り初め
  舞鶴橋落成開通式


 唐津市の山笠取締会は別項の通り昨二十四日夜八時から明神小路唐津神社彰敬館で開催し来たる五月十六日挙行さるゝ舞鶴橋の落成開通式を皮切りに当日から「唐津まつり」の山笠曳出しについて打合せを行い、第一日の十六日には各町の山笠は午前十時までに明神社前に集合して直ちに曳き出し、大手口通りから市役所前に曲がり、大名小路−二ノ門−城内東を経て舞鶴橋袂で同橋落成式に参列し渡り初めと同時に同橋を渡って東唐津に引き込み川口町−大正町−、松浦町−松浦橋−東町−船宮の関病院横から新道に出て栄町通り−中央橋−大手口に出て解散の予定であるが、第二日目の十七日は自由行動をとることになっている。


 
昭和28年5月15日 唐津新聞記事 
あす舞鶴橋落成式
名物の山笠も渡る きょうの渡り初め
「唐津まつり」いよいよ開幕

唐津市では明十六日午前十一時から、来賓多数参列のもとに待望の松浦川口舞鶴橋落成式を挙行するが、恒例の「唐津まつり」はいよいよこの落成式を皮切りに次の行事で展開する

一、舞鶴橋開通式(午前十一時)
一、幸運の寶玉(落成式終了をまって唐津高校運動場で景品券入り)
一、仮装行列(午前九時西唐津埋立地集合、審査出発、途中再審査)
一、広告行列(右に同じ)
一、山笠曳き(午前九時唐津神社前集合、十時すぎ出発公園下へ、十一時過ぎ落成式終了後、舞鶴橋を渡って東唐津へ


関係方面に深甚の感謝
◇水唐津市長談
県下随一の長流松浦の河口にその昔寺澤志摩守が難攻不落の築城をするに当たり一大土木事業を起こしその河口を変更して現在の河口を開いて以来四百年の間その交通は十年一日の如く渡船により辛うじて一般交通の便を保ち得て今日に至ったのであります。その間舞鶴橋梁の架設は常に世人の要請切なるものがあったにも拘わらず実現するに至らず只に夢の橋と謂われていたのであります。然るに昭和二十三年九月の豪雨災害により満島橋の一部が流失し交通杜絶の事態発生を契期と致しましてこれが根本的対策に迫られたのでありますが、本市百年の計画として都市計画に基づき産業道路として架橋変更を企画決定いたした次第であります。
当時終戦後日尚浅く国家財政も混沌としてこれが起工にすくなからず困難を極めたのでありますが県御当局の格別なる御高配によりまして二十五年度より起工のしよつ光を見、且つは建設省計画局、道路局、河川局は申すに及ばす県御当局の四ヶ年に渉る格別なる御後援により完成致した次第でありました。市民の等しく感激措く能わざる所であります。尚本工事を担当されました株式会社間組におかれましては諸種の困難な事情を克服されて終始献身的な御努力に対して謹んで深甚なる謝意を表す次第であります。

落成式順
一、開式の辞
二、神事
三、市長挨拶
四、工事報告
五、祝辞、祝電披露
六、感謝状贈呈
七、渡初め

渡初め 三夫婦  光栄の三世帯
舞鶴橋落成式における光栄の渡り初めの三夫婦はその候補者七世帯について抽選の結果次の通りに決定した。
一、大谷好太郎さん一家(佐志)
一、勝山銀太郎さん一家(竹木場)
一、横山初治さん一家(唐房)

 


昭和28年5月16日 唐津新聞記事
唐津まつり始まる

城跡の翠らんに映え
 名橋、舞鶴橋開通
  きょう盛大に挙行さる


 初夏の観光唐津を飾る恒例の「唐津まつり」の今十六日は朝来の花ぐもりで、絶好のお祭り日和に恵まれて蓋をあけた。この日の行事は午前十一時から松浦川口西川岸における舞鶴橋の落成式にはじまり、延々二百五十米におよぶ紺碧の水に浮かぶ新装成った白亜の新橋は名橋の名に恥じず舊城跡の翠らんに映えて景勝松浦潟に一段の景趣を添え津々見収入助役の開式の辞を冒頭に戸川唐津神社宮司による神事、清水市長の式辞、諸岡建設課長の工事報告があって、戸塚建設大臣、鍋島知事、安永県議会議長、岩沢全国道路協会長、宮崎市議会議員、金子商工会議所会頭、大庭東松浦町村会長、諸岡庄次郎諸氏の祝辞、佐藤、益谷前建設大臣、保利元官房長官、館林代議士、松岡参議らの祝電の披露があり、続いて清水市長から工事担当者間組(代表者=江藤福岡支店次長)に対し感謝状の贈呈があって、勝山、横山、大谷三家各三夫婦につづく参列者一同による嘉例の渡り初めが行われて式を閉じ祝宴に移った。

絢爛豪華な 祭典絵巻  二万人の人出で賑わう
舞鶴橋開通と躍進唐津を祝う唐津まつり第一日は絶好のお天気に恵まれた十五日(16日の誤植か)。唐津ッ子の粋と意気象徴の名物十四台の山笠をはじめ各町からの各商店の広告行列および飾り山車、仮装隊や、また券番姐さんたちのしゃぎり行列など公園落成式会場一帯にくり出し、二万余の人出のうちに、絢爛豪華な祭典絵巻をくりひろげ、落成式参列者の渡り初めに続いて刀町の赤獅子を先頭に山笠の渡り初め行進に移り金銀朱へきサンと舞鶴公園の新緑に映えて未曾有の壮観を呈した。なお唐津まつりは夜にかけて提灯行列をはじめ、いろとりどりの催しものでにぎわった、なお二日目の明十七日も前日同様広告行列や仮装行列がくり出されることになっている。
 
昭和29年5月2日
西唐津港祭り
(築港まつり?) 二タ子の踏切を渡り、魚市場まで14台曳いていった。魚市場はまだ手前にありました。(江頭さん談)

唐津新聞に記事がありました。(おじゃがさんのお手柄です。)


唐津新聞昭和29年5月2日
唐津まつり2日開幕
壮美豪華な絵巻
仮装・広告行列・のど自慢等
二.三両日に亘り展開


躍進途上にある「みなと唐津」「観光唐津」を讃える「唐津まつり」はいよいよ今二日から三日まで二日間に亘って盛大に開催せられ、六万市民が参加し、山笠曳き、郷土俚謡発表会のど自慢大会、仮装行列および広告行列のコンクール、三つの唄など絢爛豪華なおまつり絵巻をくり展げることになっているが、今二日第一日目の行事は次の通り。


第一日

一、期日及び行事
五月二日(日)(第一日)
山笠、郷土民ようの夕、打上花火、NHK唐津まつりのど自慢大会、畜産品評

五月三日(月)(第二日)
幸運の寶玉、広告行列コンクール、仮装行列コンクール、唐津まつり演芸会

二、行事構想の概要
五月二日
△唐津まつり執行の合図、当日の天候により唐津まつり執行の合図花火を午前七時唐津小学校前埋立地及び西唐津築港において打ち上げる。
△山笠:午前十時唐津小学校前道路(先頭の位置佐々木商店前)に集合し午前十時半西唐津築港に向かって出発、唐津まつり十一時半築港到着、中食会の後、午後二時大手口に向かって出発、四時大手口にて解散する。  後略


トップを切る 名物山笠ひき
次々に諸催し展開
「唐津まつり」第一日目の今二日は唐津名物の山笠ひきに行事の幕を切っておとすが、山笠は定刻までに唐津小学校前広場に集結し、ひき出しを合図にまず西唐津に向かうがこれを皮切りに次々の行事を展開することになっている。

 


唐津新聞昭和29年5月3日
賑合う唐津まつり

初夏の陽光に映え 西唐津を練る山笠
 唐津まつり未曾有の盛況

六萬市民待望の「唐津まつり」はきのう二日第一日の蓋を開けた。この日気ずかわれた夜来の驟雨もカラリと晴れてまことに絶好のレクレーション日和となり唐津市内各駅及び市役所の内外、大手口広場など装飾用「祝唐津まつり」の三角旗をくもの巣のようにはりめぐらし、町内には戸毎に造花をかかげて美しく飾り付けをほどこし、「みなと唐津」「観光唐津」の前途をことほぐうちに、絢爛豪華な「唐津まつり」の行事が展開された。

第一日目の行事は三百年の伝統をほこる山笠曳きにはじまり、名物の山笠は唐津くんちと同じ對の衣装の青少年のひき子によって、午前十時までに唐津小学校前広場に集結を終え、同十時半打ちあぐる煙火を合図に一番曳山笠刀町からひき出し中町、材木町の順で十四台の山笠はサンサンと降りそそぐ初夏の陽光を浴び衣干山の翠らんに映えながら三つ囃子もにぎやかに西唐津に向かった。

十四台の山笠が勢揃いして西唐津にひき入れることは、山笠の歴史にとってはじめてであるだけに地元民のものすごい歓迎に応えて十一時半築港に着き、昼食をとり休憩ののち午後二時から帰途についた。

一方恒例の「唐津まつり」協賛第四回畜産品評会は唐津小学校校外運動場で開催、出場頭数は牛、馬、山羊、豚など百二十四頭に上り、県から阿部技師らが審査員として来唐した。

なお当日は午後六時から唐津神社前仮設やぐらのまわりで各町自慢の郷土民謡を発表し、同七時から唐津小学校前ひろ場の昭和バス提供仮設舞台で、NHKのど自慢コンクールを催し第一日の幕を閉じたが、この日快晴にめぐまれたため、大手口、唐津神社通り唐津校々外運動場付近、西唐津など唐津ぐんちのような「唐津まつり」未曾有の賑合いを呈した。

仮装・広告 行列、芸能会  今日三日の催し物
唐津まつり「第二日目」である今三日の行事詳綱目は次の通り。
五月三日
◎唐津まつり第二日執行の合図は前日同様天候による合図花火を午前七時唐津小学校前埋立地及び西唐津築港において打ち上げる。
◎仮装行列コンクール−午前九時唐津築港に集合して第一審査を受け午前十一時まで同行列参加者その他による演芸会を同地仮設舞台において開催、昼食の後午前十一時半幸運の寶玉の披露の終了をまって大手口に向かって出発、午後一時半唐津小学校校外運動場に到着、同地において第二審査を受け休憩し二時、幸運の寶玉の披露後出発、船宮で第三審査を受け午後四時半大手口において解散する。行進順路は次の通り西唐津築港(中食)−西唐津駅前−二タ子朝日町−大手口唐津小学校校外運動場−大手口−大名小路−舞鶴橋−大正町−松浦町−船宮−水主町−大石町−魚屋町−京町-呉服町−大手口(解散)
◎広告行列コンクール集合出発順路、審査、解散は仮装行列と同様にして、自動車、オート三輪車等による機動斑を先頭に、歩行斑がこれに続き、これに仮装行列が続くものとする。
◎幸運の寶玉市内協賛商店から割引券、商品引換券及び市長賞、商工会議所会頭賞の商品券を寶としこれに日の丸、万国旗及び「祝唐津まつり」の旗そのチラシを竹籠内に入れ、三発の煙火合図により市長の引く幸運の紐により封を切るもので、午前十一時半西唐津築港午後二時唐津小学校校外運動場にて行う。
◎唐津まつり演芸会午後四時半から午後七時まで唐津小学校前埋立地仮設舞台において、仮装行列参加者その他希望者により随時演芸会を開催する。午後七時から午後九時まで同仮設舞台において職域対抗三つの歌を唐津まつりの最後を飾って賑やかに開催する。

仮装行列で練る  一日早い西唐津区
唐津まつりの幕を明けた二日の西唐津方面は三日の仮装行列コンクールを控え全くのお祭り気分で、紅や白粉で化粧した子供達は早朝から戸外に飛び出し、揃いのハッピを誇らし気に見せ合っていたが、九時ごろには大人たちも勢揃い丹精こめてつくりあげた山笠を前に祝酒をくみかわして「よい天気で結構でしたね」を連発、はやるよい子達は引き綱を握りしめて九時半には西唐津一丁目の「舞鶴城とモーターボート」の山笠をひき始め、続いて海岸の「えびす鯛」藤崎の「モーターボート」二タ子の「ずいほう鯛」など西唐津駅前に集結し築港に向かって第一日目の気勢を上げた。
   
   
   photo by 平山正雄
   


昭和33年7月29日

江利チエミ主演「サザエさんの婚約旅行」撮影

夏の暑いとき期日はハツキリしませんが 映画のロケ撮影に協力するため、西の浜=お旅所まで曳山が出動し何回も砂地に引き込みを繰り返しました。

現地に最後まで参加せず 曳子一同は長時間待機させられて、大いに立腹し西の浜から曳山格納庫に戻りました。
後日 映画を見たらお旅所曳込み場面に 江利チエミも合成で組合わせてありました。
(某氏情報)

映画のポスターには数種類あるようで、このポスターには曳山が載っています。
しかし、中町の青獅子が何故か赤獅子になっていました。

1958.08.26封切り
撮影が終わってどたばたしての編集、そして封切りだったのではないでしょうか。

唐津新聞記事 昭和33年7月
山笠13台が参加
 サザエさんの婚約旅行の現地ロケへ

唐津山笠取締会では一昨二十五日午後七時から唐津神社社務所彰敬舘で、東宝映画「サザエさんの婚約旅行」現地ロケのため、名物の山笠を引き出すことについて各町取締の連絡協議会を開催した結果次の通り決定したが、これに参加する山笠は目下塗替修理中の新町(飛竜)を除く十三台になる予定である。
 二十八日午前九時まで唐津神社前集合、九時半同所引き出し、、十時から十一時の間に西の浜の引出し情景を撮影、西の浜の 引き出しを撮影する山笠は一、二台で、撮影中の曳子は神祭衣裳とすること。
なお西の浜のロケに当っては観光協会から六十名が警察、市役所などの取締りに協力することになった。
唐津新聞記事 昭和33年7月9日
サザエさんの婚約旅行
「景色が印象的だ」
7日 青柳監督らロケハンに来唐

東宝映画ではシリーズもの第四部「サザエさんの婚約旅行」−原作長谷川町子−の製作に着手、若松、博多、雲仙、長崎、佐世保、唐津などの九州ロケを行うことに決定しているがプロデューサー杉江貞雄、監督青柳信雄両氏をはじめ製作関係者一行七名はロケハンのため七日午後五時半すぎ佐世保から来唐、市役所で野副市商工観光課長、岸川唐津商工会議所専務理事、山笠取締代表者と唐津ロケについて打ち合わせを行い市役所で十六ミリ映画「美るわしき唐津」をみたのち一行は明神小路山小屋前に引き出した四台の山笠のつくりにうなずき自動車で鏡山に登山、虹ノ松原周辺の風景を検討同夜八時半ごろ福岡へ向かったロケハンを終わった杉江、青柳両氏は唐津ロケはかねてからずっと計画していた、景色に特質性があり印象的でわれわれの構想によくマッチする、きてみて非常によかった」と語った。なおロケは今月の二十五.二十六の両日主演女優の江利チエミをはじめ小泉博、安西卿子らのスターに関係者が乗り込み@鏡山A虹ノ松原B明神台の山笠曳き出し撮影などを中心に約一千呎(一巻)におさめる予定で地元では久しぶりの唐津ロケで海水浴を兼ねるロケ見物客の混雑が予想されている。

唐津新聞記事 昭和33年7月29日
山に海にロケ一色
唐津 現地は見物客でゴツタ返し

東宝映画「サザエさんの婚約旅行」唐津ロケは絶好の撮影日和に恵まれ名勝鏡山山頂や西の浜における山笠引出しの場などを好調にクランク、沢山の見物客で大賑合いだった。
鏡山頂では女主人公サザエさんこと江利チエミを始め婚約者の小泉博、安西郷子など一流スターが午前十時に登場、旧ひれふり松のかたわらに備えられたカメラは先ず虹ノ松原を通して玄海国定公園を納めたのちチエミ、小泉、安西らの後姿を流し撮ってOK、アップではかつを君「虹の松原っていうが虹がないじゃないか」
サゞエさん「そりゃそうよ、名前じゃないの」
かつを君「あゝ、そうかさゞえ姉ちゃんがさざえでもおしゃべりと同じことだね」
安西「お姉さん一本やられたわね」
チエミ奮然として安西に詰めより「私おしゃべりじゃないわよ」
と、チエミ特有のユーモアたっぷりな芝居を見せて、折柄の観光旅行団や見物客を喜ばせた。
 一方唐津市内ロケは俳優を使わずファンをがっかりさせたが、十時から明神台に勢揃いした山笠十三台を撮り了え、唐津ッ子の血を湧かす引出し場など白熱のロケを展開、詰めかけた約二万の群衆の波でしばし交通も壮絶するという有様だった。


 写 真
 上は鏡山頂のロケ班、
 中は江利チエミと小泉博、
 下は西の浜の山笠ロケ班


*13台出動し、御旅所曳き込みは1〜2台の予定
(新町は修理中)
*浜へは木綿町と平野町もしくは中町と呉服町
佐賀新聞では
山笠見るサザエさん
唐津ロケ ドツと一万五千のフアン

東宝映画『サザエさんの婚約旅行』のロケが二十八日唐津で行われた。青柳監督以下主役の江利チエミ、小泉博、安西郷子、白田肇らキャスト・スタッフ五十余人が来唐、鏡山山頂から松浦潟を挑めるサザエさん一行と西ノ浜で名物唐津山笠の引出し風景を撮影したが、約一万五千人のフアンが押しよせ大騒ぎだった。
 この日総天然色映画になる山笠十三台が朝から引出されてときならぬ唐津山笠風景をえがいたが、各町山笠組はこの暑さに秋の神祭のときと同じ紺の手甲、ハッピ、江戸腹掛け、紺タビにあさ裏ゾーリ、山引きハンテンの衣しようだから全くの汗ダク。西ノ浜には十三台の山笠が勢揃い、唐津クンチを再現したが、撮影は山笠引出しのワンカットだけ、チエミ一行の山笠見物はセット撮影となった。
 浜に押しよせたフアンは何も知らず炎天下に三時間余も待ちポウケ、地元とロケ班の話合いでチエミがフアンにあいさつすることになった。シビレをきらした山笠組は列を乱して引きはじめ、唐津署のパトカーがチエミの車を護衛して昼すぎ山笠と人垣を分けて浜についたが、こんどは熱狂したフアンが車をとりかこんで身動きできず、あいさつもとりやめ、結局チエミは車から降りずに引揚げた。

写真は山笠ロケに押し寄せたフアン
    キャスト一行
(向って右から白田肇、江別チエミ、小泉博、安西郷子)

昭和33年
曳山小屋老朽化
に伴い、曳山は一旦大土井の旧玄海興業の仮格納庫に引っ越す。

恐らく33年のおくんちが終わってから移動したと思われます。
現在の市民体育館、市民グラウンドの敷地が玄海興業と軍の施設だったそうで、
ここに大きな倉庫がいくつかあり、そこに格納されていた模様です。(@ネ寸さん情報)
下記京町のエピソードを踏まえて考えると、旧曳山小屋から曳山を出し、明神横小路・大名小路・(若しくは志道小横・北城内)二の門・舞鶴公園前・舞鶴橋・満島・松浦橋・海士町・和多田大土井のコースだったのかも知れない。

京町は5〜6人でエッチラホッチラ・ゴロゴロと押していった。途中舞鶴橋に差し掛かった時、京町は余りのきつさに「もう松浦川に捨てようか」と口にする者もいたという。当時お供日の際にも町内では出不足料を徴収するほどであった。恐らく囃子方合わせて総勢50人足らずで曳いていたものと考えられる。囃子方は見借から2人加勢人を頼んでいた。昭和43年位までは見借の笛吹の酒飲みおじちゃんは来ていたと思う。
昭和34年
7月26日

参道の曳山シャッター格納庫完成に伴い、7月25日までに大土井の仮格納庫より曳きだし、各町清掃飾り付けをし、26日の格納庫落成式に臨んだ。

シャッター格納庫の順番です
神社側(北側)より、江川町・新町|大石町・材木町・水主町|魚屋町・木綿町・京町|呉服町・本町・中町|刀町・米屋町・平野町の順です。|は全く上から下までコンクリの壁、他は子供では乗り越えられない高さの壁でした。シャッターが少しでも開いていると、潜り込んで暗がりで曳山に登ったり、隣の格納庫に飛び移ったりしていました。

新聞切り抜きより

格納庫落成式々順
唐津市山笠取締会で決まる
唐津市山笠取締会では一昨二十一日午後七時から城内西大名小路唐津神社彰敬館で本部役員と各町正副取蹄の連絡会を開催し、来る二十六日午前十時から大名小路の改築成った山笠格納庫前で挙行される同格納庫の落成式にあたり、次の順序を決定した。
一、格納庫改築のため、一時大土井旧玄海興業の仮格納庫におさめている山笠を、二十五日の夕方までに引き出して各町内で清掃飾り付けすること。
二、落成式当日(二十六日)は、山笠を各町内から曳き出して、午前九時までに米屋町通り(唐津駅〜大成校前)に集結し、刀町、大手口を経て開式時刻までに各町格納庫前に整列すること。

「山笠格納庫落成式」昭和34年7月26日


その2

夏の唐津
日曜日の表情
山笠の勢揃い
盛大な格納庫落成式

 唐津市は昨二十六日午前十時から、唐津神社通り明神小路に改築成った山笠格納庫前で、市会議員、山笠取締、各町有志など百余名が参列し盛大な落成式を挙行した。
 この日挙式にさき立って各町の山笠十三台(中町は修理中欠)は、午前九時までに唐津駅前米屋町通りに集結し、九カ月ぶりの山笠見物にドットおしよせた観衆で雑踏する中を、金銀青赤のきらびやかに飾られた山笠を、盛夏の陽光に輝やかせながら、三つ囃子もにぎやかに刀町を先頭に刀町通りから大手口を経て落成式の定刻までに明神小路に整列直ちに開式、式は野副観光商工課長の開式の辞にはじまり おわって、戸川唐津神社宮司による神事を厳修、修祓、祝詞奏上に次いで満場柏手のうちに金子市長は、格納庫鉄扉前紅白のテープを切って開扉の式を行い、引きつゞき金子市長、工事請負人田久保重治、宮崎市議会議長、花田山笠総取締諸氏の玉串奉奠があって神事を閉じぢ落成式に移り大平建設課長の工事報告、金子市長の式辞、宮崎議長、小林商議会頭両氏の祝辞、花田総取締の謝辞を最後に閉式大成小学校々庭における祝賀会に移り、金子市長発唱の山笠落成式万才を三唱して散会した。
 なお山笠は落成式の終るのをまって、一旦唐津神社々頭に整列してのち北から、江川町、新町、大石町、材木町、水主町、魚屋町、木綿町、京町、呉服町、本町、中町(欠)、刀町、米屋町、平野町の順で新しい格納庫におさめられた。ちなみにこの山笠格納庫は、鉄筋コンクリート平家建陸屋根の二三六、六七平米(七一、七一坪)一棟で、山笠十四台の各室にそれぞれ電灯設備もあり、建設費は、格納庫工事が三〇一万九千円、鋼鉄製扉建具など工事が一三二万円、電灯設備が七万円の四四〇万九千円である。

唐津新聞 昭和34年7月27日


昭和36年4月21日
昭和天皇ご来唐
、ヤマを浜に並べてご台覧賜る。小雨そぼ降る中、お車をお降りになり、御覧になられました。

以下は唐津市史より
 昭和三十六年はわが唐津市にとって永久に記念すべき年であった。四月二十日午後二時二十五分、佐賀県ご巡幸中の天皇、皇后両陛下が唐津駅に御到着、第二中学、浜崎中学校のブラスバンドによる君が代奏楽のなかを山口門司鉄道管理局長の先導で、駅前の広場におたちになり、駅頭をうずめつくした奉迎の一万市民にお応えになり、お車を召して人垣つづく沿道の中を鏡山に向かわれた。鏡山の頂上では、佐伯助役の説明で御機嫌うるわしく玄海国定公園松浦潟の風光と春の松浦路を楽しまれ、三時五十五分、市長の出迎えの中に、御泊所である金子市長私邸に御入りになった。御泊所のなかで金子市長夫妻、宮崎議長は拝閲の光栄に浴した。翌二十一日午前九時十五分、市長邸をお発ちになり、小雨けむる西の浜明神台に整列した郷土唐津の誇る文化財十四台の山笠をごらんになり、九時三十分唐津鉄工所にお着、竹尾社長の先導で工場内を御一巡、御視察されたのち唐津駅に向われた。十時五分、小豆色の車輌に金色さんぜんたる大菊花の御紋章をつけたお召列車に御乗車になり、金子市長の発声で、一万にのぼる駅頭市民の万歳のこだまするなかを列車は静かにすべり出し、つぎのご巡幸地肥前白石へと向かわれた。行幸啓の両日沿道をうずめつくした市民および近郷町村民の数は約十万人余と数えられた。ご宿泊所であった市長私邸は、市職員および昭和バス社員が整理にあたり一週間にわたって一般公開、参観人は数千人にのぼったといわれている。
(唐津市史より)
   
これらの写真は陶山洋一氏撮影のものです。   
昭和37年
8月18日
 
 盛大に記念式典     昭和37年8月18日 唐津新聞記事  (またしてもおじゃがさんのお手柄)
金子市長”市民の協力に感謝する”
唐津市の市政施行三十周年ならびに市庁舎落成式は今18日午前10時から新築成った新庁舎前広場の式場に篠田自治大臣代理、保利茂代議士、池田本県知事ほか、中央地方来賓700名を迎えて挙行された。
式は定刻、佐伯助役の開会辞に次いで戸川唐津神社宮司による修祓、祝詞奏上、四方固めおよび金子市長、市庁舎設計者岡田的場、工事請負者松尾組、宮崎唐津市議会議長の玉串奉奠で神事を閉じ、終わって山口市建設課長の工事報告に次いで金子市長は岡田的場設計事務所、松尾組、西日本地下KKに感謝状及び記念品を贈り、金子市長の式辞に移り市長はその中で「唐津市の今日ある先輩諸賢と市民の協力」に感謝の意を述べると共に、住みよい郷土建設と市民の福祉ならびに唐津市の発展を祈念する旨を述べ、終わって金子市長から満場拍手のうちに新庁舎前に張られたテープにはさみを入れて「唐津市役所」の表札の除幕を行い、引き続き篠田自治大臣(山崎秘書官代理)、池田知事、保利代議士、全国市長会長(阿部福岡市長代理)、宮崎唐津市会議長祝辞の後池田首相そのほかから寄せられた祝電を披露し、最後に佐伯助役(市史編纂委員長)から市史を披露して閉式し、市議会棟一階の祝賀会に移り、金子市長の挨拶があって、池田本県知事の発声で唐津市の万歳を三唱し、唐津市の前途を祝福して参会した。

国際色も織り交ぜ
記念式典行事に湧く唐津市内
唐津市政施行三十周年と新庁舎落成記念行事に唐津市大手口新庁舎付近は多数の市民が押しかけた。それに唐津名物十四台の山笠が陳列され、唐津っ子の山笠囃子にお祭り気分を盛り上げ折から唐津港に停泊中の英上陸用艇のセーラー姿の水兵さんも見物にかけつけ国際色も豊かに賑わった。
朝の市内三中学校合同ブラスバンドの行進に日赤から大手口までの沿道市民が拍手を送れば見物に来た市民はそのまま式典を見守り新庁舎を囲んだ。そして続々とつめかけた市民は明神小路の山笠が絢爛たる美と雄壮な囃子を奏でるのを眺め、舞鶴デパート横や新庁舎入り口本社前佐賀銀行付近では自動車の花パレードを見ようと待機していた人出に交通整理にお巡りさんまで汗だくでホイッスルを鳴らしていた。

昭和37年11月24日  青年会議所認証書伝達式  舞鶴公園前の体育館前に4台出動

唐津新聞記事(おじゃがさんのお手柄です)
昭和37年11月24日
盛大に認承式典
唐津青年会議所輝やく第一歩
”友情””奉仕””修練”等モツトーのもと、若い情熱と実践力を経済活動に傾むけて、明かるい社会−郷土の建設を目ざして立ち上った、唐津青年会議所の認承証伝達式は、今二十四日午前(午後の誤りか?)一時から、城内体育館に保利代議士、金子市長、宮崎市議会議長、竹尾会議所会頭、松尾唐津ローターリークラブ会長など顧問のほか、全国各都市青年会議所会員等、等四百名が参加し、全国第二百二十八番目の団体として唐澤市にとっては未曾有ともいうぺく盛大に挙行された。
 これに先きたち会員五十余名は、大村駐屯自衛隊音楽隊を先頭に、正午市役所玄関前から体育館まで、それぞれ二十台に上る自家用車を連ねて華やかな市中パレードを展開した。
この日栄の会場である市立体育舘大広間は、天床から吊した万国旗で飾られ、正画左右には「修練、奉仕、友情」のスローガンをかゝげ、玄関に迎える唐津青年会議所会員、令嬢達の拍手の裡を来賓、全国各都市会員が入席場し定まるをまって午后一時開会。式は竹下玲児理事司会のもとに久保正敏副理事長の開会の辞にはじまり、満場に流るゝ荘厳な君が代奏楽のうちに国歌斉唱に次いでJCソングの終るのをまって、亀井健一副理事長の歓迎の辞があり、竹下理事から来賓および来訪JCの紹介のゝち、日本JC会頭代理秋山政彦副会頭(倉敷JC理事長)挨拶があり、再たびおこる奏楽の裡に秋山会頭代理から満場急霰の拍手裡に、古賀日出男理事長に対して全国第二百二十八番の晴れの日本JC認承証を伝達し、古賀理事長の答辞があり、唐津JC会員を壇上に迎えて紹介ののち、金子唐津市長、宮崎同市議会議長、竹尾同商工会議所全頭、松尾同ロータリークラブ会長、保利代議士諸氏の来賓祝辞九州地区協議会長北村辰男氏ならびに、スポンサー佐賀JC理事長高倉秀允氏の挨拶があって全国から寄せられた祝電披露後若い我等の歌を合唱し、金子市長の発声によるJC万才を三唱し、久保副理事の閉会の辞を最後に厳粛盛会裡に式をおわり記念撮影ののちエキスカーシヨンに移り、参列者一同は市役所横で唐津名物の山笠観覧ののちバスで鏡山、虹の松原 舞鶴公園観光のゝち五時から体育館で懇親会を関らき、そのモツトーに示す友情をあたためて散会したが、明二十五日は午前九時から馬場野ゴルフ場でゴルフ大会をひらく。


昭和39年 松浦橋を渡る
松浦文化連盟の写真集によれば、明治29年、奥村五百子・草場猪之吉等の尽力で船宮から満島に木製の橋が架けられ、明治33年には軌道がその上を走った。
 昭和14年に現在の場所に新松浦橋が架けられ、それまでの木製の松浦橋は満島橋と改称され歩道専用として利用された。しかし、昭和23年の豪雨で満島橋は流され、再建されなかった。

昭和39年の春祭りには77年ぶりに引き出された曳山がめづらしく松浦橋をわたった。
昭和39年4月29日 唐津新聞記事

唐津神社春季大祭

曳山も登場し市中を練る
 唐津市城内西元県社唐津神社(戸川顕宮司)では、今二十九日午前十一時から既報の通り春季例大会を、県神社庁から鍋島庁長の奉幣使参向を迎え、戸川宮司、氏子総代など三十名が参列し、春祭りおよび五穀豊穣、諸産業繁栄祈願を厳修し、朝来降りみ降らずみの天候もこのごろになって霽れ境内は参詣人が踵を接し、社頭には郷土名物の曳山九台をはじめ、池の坊社中の生花などが奉納せられ、やまばやしや曳山の曳き子、生花見物客で午下りの神社附近は賑合った。
 なお同社頭に整列した曳山は、祭典終了をまち戸川宮司の修祓をうけてのち午後一時を期し社頭を曳き出され、例の三つばやしのなつかしいリズムに乗り、大手口−材木町−東町−松浦橋を経て、この日開業したばかりのシーサイド,ヘルスセンターを訪問した。因に唐津神社境内では午後七時から舞踊の奉納がある。







西から中町・材木町・大石町・刀町と並んでいるが、ランダムに並んだのだろうか。
昭和39年4月30日 唐津新聞記事

曳山と開館で賑う

春まつりにごった返す人出

唐津神社の春季例大祭は咋二十九日盛大に執行された
この日の呼びものは郷土の名物唐津曳山の登場で、午前十一時唐津神社前に九台(四台は美しき日本博に出陳中)の曳山が勢揃いし、神事奉納のあと、午後一時から約三万の人出の沿道を大手口、材木町、東町、松浦橋、ヘルスセンターまで”エンヤエンヤ”のかけ声も威勢よく街をねり廻し、開店したばかりのへルスセンター前に集結した。
 開店祝賀の花輪や万国旗に飾られた唐津新名所のヘルスセンターは、この曳山の訪門で錦上更に華を添えた観があり、この日ヘルスセンター入場者と曳山見物の客で、東唐津はごった返すありさまだった。

この時、呉服町・魚屋町・京町・江川町が宝塚「美しき日本博」に出動
また、本町は塗り替え中 シーサイドヘルスセンター前には確かに9台しか列んでいません。

昭和41年4月17日

唐津東ロータリークラブ認証状伝達式
唐津神社から大手門時代の明神横小路を通り、大名小路を北進。二の門を経て舞鶴橋を渡り東唐津へ。舞鶴橋を渡って満島に並べました。
唐津新聞 昭和41年4月18日記事
曳山13台も出動して歓迎

 此の認証状伝達式を挙行した唐津東ロータリークラブでは、これを機会に全国から出席した三百七十名におよぶロータリアンに、唐津の名物として誇る古典味豊かな県文化財“曳山”を観覧に供することゝなり、新町を除く十三台の曳山は午後三時までに、舞鶴橋の東袂から東へ県道東唐津一丁目通りに整列し、鏡山観光から引き返したロータリアン一行は東唐津駅前附近で下車し、曳山取締り本部役員田中富三郎氏の曳山の由来を聞き、その精巧豊華な文化財に驚異の目をかゞやかしながら市立体育館に入って少憩中、東唐津から引き出して東城内通りを行く、勇ましいよいさよいさ≠フやまひき〃の壮観に盛んな拍手をおくっていた。
 
確かに新町の姿がない。
中町は公園の木立の影になっている。


写真提供:唐津信用金庫様

昭和41年4月29日
唐津新聞記事より
日米親善に一役
 ヘルスセンター 二周年記念行事

 唐津シーサイド・ヘルスセンター開舘二周年記念行事に参加するため来唐した、、ミス・ペース(板付)のベッキー・ジャンスンさん(一八)は、準ミスのペリー・ゴーメンスさん(一八)ら五名と板付基地のハイスクールのバトンガール隊、コーラス隊は同日午前十一時から、唐津神社春の大祭に引き出された曳山を見学したたあと 市役所前から大手口、佐賀銀行、唐津支店前 警察署前、東宝大劇前を日米親善の市中パレードを行い市民からさかんな柏手を受けた。
 一行はこのあと正午からヘルス前広場でのトワーリング(バトンガールの演舞)や午後一時から三階ステージでのコーラス発表、またプールサイド、海岸、松原、噴水前などで、ミス・ベースなどの撮影会にモデルとして出場。同センターを訪れた観光客や市民からさかんな拍手を受け日米親善のつとめを果たした。


この2枚の写真はこの時のものと思われます。
後ろの建物は当時の商工会議所(現在市役所福祉課)。京町はその奥に。

同じ時の大手口まいづるデパート横
江川町は肥後堀埋め立ての場所に。ここには日頃は屋台が列んでいた。確か江川町が止まっている場所は屋台「きみがよ」だったと思う。
昭和41年10月 唐津城落成記念
唐津新聞記事 昭和41年10月28日
落成の式典挙行
前夜来の雨もからりと晴れて

 唐津城落成式は、前夜来の雨も幸わいに霽れ、このよき日を寿ほぐかのように明るい陽ざしのうちに、舞鶴公園天守前で、晴れ姿の金子市長など市執行部、同城建設監理指導者 東京工大教授藤岡道夫教授、池田知事、小原県議会議長(瀬戸尚県議)、保利前代議士、宮崎市議会議長、各町村長地元官公衙、市政関係各委員会、市議 駐在員、婦人会など各種団体代表者百五十名が出席して、秋空のもと聳え立つ白亜の天守閣広場で挙行の式は佐伯助役の開式の辞に次いで、戸川唐津神社宮司による修祓、祝詞奏上に次いで四方固めの儀があり、市長、知事、藤岡博士、施工者藤田組社長、県議長らの玉串奉奠で落成式神事を終わり、天守閣開館の式に移り、金子市長の鋏入れの儀があってこれを合図に大太鼓がなりひゞくうちを天守閣の扉は静かに開かれ、市長を先頭に入城した。

趣向こらした仮装行列
 唐津城完成祝賀の市民のアトラクションとして行なわれた小、中学校児童生徒による鼓笛隊 ブラスバンド、各事業所、団体の仮装行列は、午後一時半舞鶴公園を出発し市中パレードした。パレードする沿道には数万の観衆がつめかけ大混雑するにぎわいを呈した。
 パレードは、市内の一中、二中、五中のプラスバンドに続き、志道、大成、西唐津、外町、鬼塚各小学校の鼓笛隊が曲のみだれもみせず整然とパレードし、数万の観衆からさかんな拍手を受けた。これに続いて香蘭女子学園のバトンガール、自衛隊第四特科連隊音楽隊に続いで市消防団、大名行列、市民待望の本場阿波おどりと面浮立、糧友パン、昭和バス、魚市場、青年団、婦人会、宮島醤油、見借浮立など職場、団体が思い思いの趣向をこらした仮装行列が続き見借の浮立を最後に市民を沸かせた。

仮装行列特賞に昭和
 △特賞 ハワイの秋祭り(昭和グループ)
 △準特賞 伸びゆく水産唐津 (唐津魚市場)
 △努力賞@唐津城警備火消隊 (唐津糧友製パン)
     A名月唐津城 (宮島醤油KK)
 △アイデア賞@唐津城を祝う七福神(唐津〔は〕会)
     A電化は楽し(九州電力唐津営業所)
 △入選=町を練る唐津城(唐津市消防団) 両陛下御来唐 (婦人会)七福神(浦地区)


七百余名の祝賀会
唐津城落成式がおわってもに市立体育館における成祝賀会に移り七百余名参加 式は佐伯助役の開の辞に次いで金子市長の辞、おわつて藤岡博土、県議会議長、県下七市々長、会長宮田佐賀市長 宮崎市議会議長 竹尾商工会議所会頭らの祝辞があって祝宴に移り、池田知事の提唱で乾盃し盛会裡に散会した。
 なお唐津城落成を祝って仕舞、浦安の舞、唐津城音頭の舞踊などで興を添えた。



唐津城落成
の時に唐津城の前に曳山が整列したこともありました。そのときのコースは思い出せません。

昭和42年5月5日  唐津まつり
 
唐津新聞記事  昭和42年5月5日
唐津祭り最高潮
唐津くんちしのぐ人出
圧巻、仮装行列や大名行列


 唐津まつり最終日の今日五日は、朝来ドンヨリした花ぐもりのもと、自衛隊音楽隊のパレードを皮切りに、各種催しのパレードが長蛇の列をなしてくり展げられ、沿道は数万という秋の唐津ぐんちの人手をしのぐ見物人で賑わった。
 まず自衛隊の音楽隊は午前十時すぎ西唐津海岸通り玄海漁連前をスタートし、西唐津−二タ子−朝日町−弓鷹町を経て十一時すぎ会議所前につき、そのまま合同パレードに参加のため市立体育館に向かい、午後一時すぎ合同パレードは、福岡香蘭女学院学生のあでやかなバトンガールを先頭に、大洋漁連KK女子従業員の一団から成るペンギンシスターズのバンドがこれにつづき、米軍海兵隊の鼓笛隊唐津商業音楽隊に次いで可愛いい稚児行列、絢爛たる大名行列につづく二十一団体の徒歩車両仮装行列をしんがりに、唐津城下−二の門−大名小路−唐津警察−大手口ロータリー−中町通−京町通り−呉服町通りを経て大手口から沿道万雷の拍手に送迎されて市役所前に入った。

記念演奏会賑う
山ばやし踊り発表も
 唐津まつりの記念演奏会は、昨四日午後六時から東城内の市立体育館でにぎやかに行なわれた。
 演奏会の第一部が唐津商高、昭和バスバンドのみごとな演奏に続いて、唐津民芸保存会のメンバーによる“山囃子おどり”の新作発表があり、民謡調の舞いに山囃子の勇壮さを加えた踊りに会場を埋めた約千五百人の市民からさかんな拍手を受けた。第二部に入る前ミス唐津の選彰式があり、続いて陸上自衛隊西部方面音楽隊による吹奏楽器による、マーチや歌謡曲など約三十分にわたりみごとな演奏が行なわれた。
 また終了後は唐津城から数千の花火が打ち上げられ春の夜空を花火の七色で飾り、美しい唐津城の夜景を描き出し市民の拍手を受けた。たまたま唐津まつりを見物に来た外人客も、演奏会や花火大会を楽しむという国際色も見られた。

唐津神社春季大祭賑う
 唐津市元県杜唐津神社の春季例大祭は既報の通り、春まつりの最終日である五日午前十一時から、佐賀県神社庁長三橋一郎氏を奉幣使に迎え、戸川健太郎同神社宮司をはじめ多数の神職をはじめ、神社総代 崇敬者など参列のもとに厳修され、当日は唐津名物の絢爛豪華な十三台の曳山を、明神小路に曳き出して奉納したほか池ノ坊の生花展を奉納し、沿道は曳山見物や参詣客でゴツタ返しの賑合いを展げ、夜は神社前に設けた仮設舞台で舞踊や民踊、歌謡曲などで賑合うことになっている。


  よく見ると建成順に並んでおらず、シャッター格納庫の順番にそのまま並んでいるのが分かります。
 
シャッター格納庫の順番です
神社側(北側)より、江川町・新町|大石町・材木町・水主町|魚屋町・木綿町・京町|呉服町・本町・中町|刀町・米屋町・平野町の順です。|は全く上から下までコンクリの壁、他は子供では乗り越えられない高さの壁でした。シャッターが少しでも開いていると、潜り込んで暗がりで曳山に登ったり、隣の格納庫に飛び移ったりしていました。

13台が並んだと書かれております。総塗替をしている町はありません。米屋町から並んでいるようで、隣の平野町が出したか否か。(吉冨 寛)


   
名護屋口の話をしていたら、だがし屋さんのご主人。「近松寺の前ば曳いたことのあるですよね。」 う〜ん。そういわれてみれば何か特別の行事か何かで、あそこを通ったような気もする。嗚呼思い出せない!

近松座の前辺りに勢揃いしたような記憶があります。
昭和42年頃?坂本小児科の前あたりに京町は止まっていました。私はお昼の休憩時間に京町の台車に乗って遊んでいました。
情報をお待ちしております
昭和44年4月20日


この画像、
昭和44年の城まつりと判明しました。

おじゃがさんありがとうございました。
新緑の《城》祭り17万人の人出
圧巻!四キロの大パレード
国際色豊かに

青い目の供侍も



 第三回唐津城まつりの二十日は、人気番組仮装大パレード、郷土芸能大会など新緑に映える全市内で多彩な催しが繰り広げられ、唐津市内はよい天気も手伝って県内外から約六万人(唐津署推定)の見物客が繰り出し、パレードが通る沿道は観光客や見物客でごった返した。
 この日の最大の人気番組千五百人からなる仮装、広告を繰り込んだ大パレードは、午後一時、市体育館前を福岡の米軍ハイスクールのバトンガールを先頭にスタート、ペンギンシスターズ、唐津商高、中村学園、香蘭女子学院、自衛隊音楽隊などのバトンガールやブラスバンドが約六万人の観衆で埋まる沿道に次々に繰り出し、見物客を魅了させた。中でも“三億円強奪事件の犯人登場”と名うったバイクが走り観衆は笑いのうず、お祭りは最高潮に達した。青い目を交じえた稚児行列、大名行列と続き、特別出演した菊池竜踊り、伊万里府招の浮立など各地の郷土民芸も沿道の要所で見事な芸能を披露し、さかんな柏手を受けた。また唐津曳山百五十年を迎えた一番山「赤獅子」(刀町)と「青獅子」(中町)も百五十年祭を記念してお祝のもちをまきながらパレードに加わり、見物客たちを喜ばせた。沿道には外人客の姿も多く、一般見物客はこの二日間に延べおよそ十七万人を記録、露店なども出て主催者側は、観光からつの対外宣伝にも大きな役割りをはたし成功をおさめたとよろこんでいる。
昭和44年4月21日 唐津新聞
昭和44年4月07日〜
NHK連続テレビ小説
「信子とおばあちゃん」

信子とおばあちゃん 大谷直子・渡辺篤史の姿が見える
下の新聞記事によりロケのために曳山を出したことが判明。





一足さきにおくんち?
NHK“信子とおばあちゃん”
 24日から
二万五千人動員の大ロケ

 NHKテレビ連続ドラマ「信子とおばあちゃん」の唐津現地ロケが本決まりした。
 NHK同ドラマ制作担当の石島デスクらが十一日唐津市を訪れてロケハンをして具体的なスケジュールを決めた。それによるとロケは九月二十三、四日の両日市内十余か所で曳山シーンを中心に収録、これに呼子町や鎮西町、波戸岬もカメラにおさめる。
 ドラマは勝(渡辺篤史)が唐津で旅館を経営する父親の正吉(河野秋武)が病気になったので直子(大谷直子)と一緒に唐津に帰省する。その日は丁度唐津供日の十一月三日で市内は曳山で賑わっていた。入院しなければならない正吉は曳山が見おさめになるかも知れないと翌日誰にも告げないで町に出た。心配した勝と直子がお祭りの人混みをわけて正吉を探しまわるというシーン。
 撮影場所は次の通り。括孤内はシーン)
【二十三日】佐銀唐津支店前街中を行く曳山、正吉を探す信子と勝)▽新大橋と札の辻僑(橋を渡る曳山、橋の上で会う信子と勝)▽市役所前の石垣(露店や晴衣の子供)▽曳山格納庫前(曳山勢揃い、家に急ぐ信子と勝)▽脇山英治氏宅前〜魚屋町(正吉を探す信子と勝、勝か友人と会う)▽刀町(商店街を行く曳山)【二十四日】▽バスターミナル、信用金庫付近(バスから降りる信子と勝、曳山出発)▽塩屋町通り(正吉を探す信子と勝)▽西十人町(勝、高校の恩師に逢う)▽中野陶痴店内(正吉を探す信子と勝)
 なおこんどのロケにはほとんどの曳山が出て瀬戸市長らもエキストラとして唐津、東松浦郡内から福岡県糸島方面から群衆二万五千人を動員し唐津供日を再現する大掛かりなもので唐津市、商工会議所、観光協会、曳山関係者は昨十一日午後七時から唐津市役所会議室に参集してNHKの石島制作デスクから計画内容の説明をうけ全面的な協力をすることを決めた。なお市、観光協会はロケのポスターおよそ六百枚をつくり市内をはじめ郡内に配布し一般の協力をもとめる。
なお大谷信子、渡辺篤史、河野秋武らのタレントや撮影スタッフ十五人は二十二日に来唐する。

  昭和44年9月12日 唐津新聞より


管理人が志道小学校6年。中町の同級生が市役所前の石垣の上に座っている場面がこの日に撮影されたと感慨深くこの記事を読みました。
(吉冨 寛 2013.1.31記す) 
昭和44年9月23日 唐津新聞より

信子ブームにわく
 一唐津ロケー
曳山くんちを再現
黒山の人だかり

 主演タレント立往生

 NHKが連続テレビ小説 「信子とおばあちゃん」の後半を唐津で盛り上げる現地ロケは秋分の日の二十三日午前九時からはじまり好天に恵まれ全市に曳山供日のにぎわいを再現、曳山を中心に延べ二万人のロケ見物人が押かけるなかで予定のシーンをカメラにおきめた。
 夜半の雨も朝方からあがって秋の青空がのぞくロケ日和、曳山格納庫前には早朝から一番山、刀町の赤獅子を先頭に十四台の曳山がズラリと勢揃い勇壮な山ばやしが流れ、市役所前には仮設の露店がつくられるなどロケ気分を盛りあげた。
撮影は父親の病気見舞のため唐津に帰った信子(大谷直子)と勝(渡辺篤史)が曳山を見物するシーンからはじまった。茶の間の画面でおなじみの主演タレント大谷直子や渡辺篤史は黒山のように集まったファンに取囲まれて身動きも出来ずにしばしば立往生をしながらメガホンをとる石島制作デスクの演出で汗ダクになって演技を繰り返しながら本番シーンと取組んだ。
 撮影は午後も市内魚屋町、刀町、大手口一帯で曳山行進をバックに行なわれ、この日唐津市内は信子ブーム≠ノわきかえった。
 ロケは明二十四日も午前十時から午前中に昭和バスターミナルから唐津信用金庫一帯から西十人町旅館「生駒」前、京町の唐津焼中野陶痴氏店内で父親の正吉(河野秋武)を探がす正吉と信子のシーンを撮影する。

唐津神社社報19号昭和44年10月1日

 テレビ「信子とおばあちゃん」の
唐津供日ロケ

 おなじみテレビの信子とおばあちゃんの勝ちゃん″が唐津供日に帰省する場面を九月二十三日に供日を再現してロケを行った。
 これより先NHKより石島デレクター外五人が来唐して町々の模様曳山の順路役者の行動等審に打合せて九日、十一日と再度に亘り大会議を開いて万遺漏なきを期した。
 当日は心配された天気も朝パラパラで止み絶好の秋日和となり早朝より曳山を曳出し魚屋町や新大橋や刀町から大手口への走り山にて「信子」「勝ちゃん」や父親「正吉さん」等が演技を行ったが二万の大観衆の為に立往生する場面もあり石島製作デスクも汗だくで午後五時予定通り無事大盛況裡に終了した。

 昭和44年10月19日


 “赤獅子”ヘルスへ
刀町曳山
19日に百五十年祭
 唐津市曳山の一番山刀町「赤獅子」はつくられてから今年で丁度満百五十年を迎えので同町内では十九日午後一時から虹の松原ヘルスセンターで記念式をあげる。当日は飾りつけた赤獅子が式場まで行進する。
 記録侍承によると刀町の曳山は文政二年(1819)年同町の石崎嘉兵ヱさんがお伊勢詣りの帰途、京都の祗園まつりの山車(だし)をみて作らせ唐津神社の秋祭りに奉納したのがはじまりでつづいて中町の「青獅子」など六十年の間に十四の町内が曳山をつくって現在の唐津曳山になった。
 赤獅子の製作費は現在の価格にすると二千万円もかかったといわれ三十年に一度うるしを塗り替えこの費用も二百万円かかる。
 十四曳山は県の文化財で市はこれを保有するため目下唐津神社前に文化会館と併設して曳山会館を建設中である。

    昭和44年10月14日 唐津新聞より
 




一番山に栄光あれ
刀町曳山“赤獅子”百五十年記念祭
創始者 石崎翁のセンス偲ぶ

 唐津の一番曳山“赤獅子”がはじめて製作されてから百五十年を迎え、大安吉日のきのう十九日盛大な記念祭が行なわれ“赤獅子”が唐津城下から舞鶴橋を渡り虹の松原まで記念パレードした。
 今から百五十年前の文政二年(1819)刀町の豪商石崎嘉兵衛が伊勢詣りの帰途京都祗園祭を見物、山車(だし)にヒントを得て赤獅子の山笠を製作して唐津神社に奉納したのがはじまりで十四の町内もこれを奉納、今日の曳山くんちになった県の文化財に指定され全国的にも紹介され唐津の観光資源として売出している。
 記念祭は午前十一時から唐津神社前に曳出して修祓後一たん町内に帰り正午すぎから虹の松原ヘルスセンターまで記念パレードをした。
 式典はヘルスセンター五階広場におよそ三百人が出席するなかで、辻庚一曳山本部取締りの開式の辞ではじまり.町内代表花田浩氏が赤獅子の由来を説明してあいさつ、永い間曳山と哀歓をともにした物故者に黙祷を捧げた。つづいて石崎嘉兵衛翁の末孫にあたる川崎渉助氏(現県立虹の松原学園教諭)に花束を贈り戸川顕、木下吉六、宮原宮三郎、大津力蔵、花田繁二、山岡善右衛門、林棊_、花田浩、花田明治、宮崎武の諸氏と書道コンクール入選者を表彰した。このあと内閣官房長官代理、池田知事代理、瀬戸唐津市長、殿川市議会議長、竹尾唐津商工会議所会頭、脇山曳山総取締など来賓がそれぞれ祝辞を述べて式を閉じ、出席者一同乾杯会場では曳山囃保存会の正調山ばやL、花柳三祐社中の曳山舞踊が披露され町内若衆全員による祝歌合唱など創始者石崎翁の偉業をしのんで曳山ムードがあふれるなかで瀬戸市長の音頭で万才を唱和して盛大であった。

  昭和44年10月20日唐津新聞より 

  シーサイドヘルスセンターからどのようなコースで帰ってきたか不明だが、京町にアーケードがなく、フクスケの前辺りに赤獅子があり左先綱に冨田・野田両氏、右には花田氏が写る写真がある。これは恐らく150年祭と思われる。
(撮影:吉冨 寛)


 
昭和44年11月11日
午後3時、皇太子殿下、唐津市役所到着
シャッター格納庫の前に整然と列んだ曳山を、当時の商工会議所2階のベランダよりご覧になり、瀬戸市長の説明を熱心にお聞きになった。

志道小の生徒は旧消防署前にて旗振り。確か美智子妃殿下は来られなかった。殿下を載せた黒塗りの大きな車は子ども達の前をす〜っと通り過ぎ、その後は名護屋城に向かわれた。


唐津神社社報20号
皇太子殿下唐津へ行啓 曳山を台覧

 皇太子殿下には長崎県で開かれたパラリンピックに御臨席の後、十一月十日から四日間、佐賀県内の民生・産業を御視察になられたが、唐津市には十一月十一日午後三時御到着、瀬戸市長の御案内で商工会議所ポーチのお立台に立たれ曳山を御覧になった。
 この日は秋情れのさわやかな天気に恵まれ、折からの陽光に輝く曳山を背に各町よりの曳子が法被姿で勢揃いして、栄えある台覧をお待ち申し上げるうちやがてお立台に立たれるや静かに道囃しの笛の音が流れ、太鼓の音がとどろく中で、市長の御説明にうなづかれながら、非常に興味深く御覧になられた。
 最後脇山総取締の音頭で皇太子殿下の万才を奉唱、各町の曳子百五十名が一斉に唱和して奉祝申し上ぐるや、殿下には親しく手をふってお応えになり、やがて次の行啓地名護屋へ向われた。
昭和45年10月
曳山渡座祭

 新曳山展示館に曳山を納める儀には先づその名称を種々考慮中であったが、昔は落成式のことを「わたま」と言ったので、その由来を探ってみると、新しく御殿が出来上り神様又高貴なお方がそこへお入りになることを「わたりまし」と言う意味らしく、漢字としては移徒又は渡座とあてはめてあることから考え出し、曳山も貴いものとして展示館も御殿になぞらえ移徒をとらず、渡座祭とは名付けた次第である。
 その期日も十月十八日と決め、当日一旦山を各町内へ持参して顔見世をなし、午後一時米屋町の広小路に集まり文化会館前に勢揃いする。是れより先、新展示館玄関前に祭場を舗設して市長議長外氏子総代、曳山総取締以下曳山関係者全員の参列の上、先づ修祓、戸川宮司祝詞を奏し玉串を捧げて祭典を終れは、直ちに餅撒きをして、又祭場には四斗樽の鏡割をなし、威勢よく景気をつければ、刀町赤獅子は早くもお囃しをして勇ましく曳出せば、各町もこれに続き次々に見事に無事展示館に納まった。その壮観なること各町が競合いつつその囃も高調にて展示館に入る様は思いの外の見世場となり、神祭の最後を飾るに相応しいものとなること疑いなし。
納め終りて各町場内のよき所に陣取り祝宴を開き、大いに気勢を揚げた。
この日夜来の雨も上りて絶好の渡座日和に曳山は文化会館と相和して照映え、参観者又予想外に多く、唐津神祭の前奏曲の様で大賑いを呈した。

唐津神社社報22号より

米屋町の西側に東向きで勢揃いし、確か昼から神社前に持って行き、神事があった後展示場に曳き込む 展示場の展示物 渡座祭の時の采配

昭和47年
10月22日
 
 唐津に”日本の心”
国際RC地区大会成功

評価された部門討議

     全日程をおわる

 二十一日から唐津市で開かれた国際ロータリークラブ第三七〇区(福岡、佐賀長崎)年次大会は二十二日大会全部のスケジュールをおわって閉会した。同大会には三県のロータリーアンとその家族約千七百人が松本兼二郎RI会長代理.立花和雄ガバナーを迎えて開いた。二十二日は前日行なわれた部門別討報告や大会決議などが行なわれ次年度ガバナーに清島省三氏(長崎十八銀行頭取)を選任次期開催地を福岡市に決め立花ガバナーがあいさつしてすべての大会行事をおわってアトラクション(曳山舞踊)や作曲家黛敏郎氏の特訓講演「日本の心」を聞き、午後五時から唐津曳山八台の勇壮な行進を見学、同夜市体育館での懇親会をひらいた。


″題名のない音楽″に
 黛敏郎氏 曳山芸能にウッとり


 またとくに大会がアトラクションとして披露した曳山ばやしや花柳三裕社一門と神田青年有志による郷土舞踊の演出をはじめから鑑賞し勇壮な曳山行進を見学した大会ゲスト講師の黛敏郎氏が祗園調の山はやしといい、振りつけられた曳山踊りは全く素晴らしい。私が講演テーマに用意したテーマ「日本の心」を唐津の人たちがよくもジカに立証してくれてうれしい。テレビの題名のない音楽≠ノも取り入れたい」と激賞し会員たちも感銘していた。
 なお会見は二十三日、ゴルフや市内観光で松浦湾の秋色を満喫した。
 こんどの大会では全国初めてというべき生産、流通サービス、職業ABの五部門について分科討議が行なわれロータリークラブの新らしい奉仕の指標をかかげとくに公害問題など環境問題が取り上げられ大会自体が大きな評価された。出席会員は地元クラブの万全の受け入れに好感をもち市の観光にも大きな認議を深めた。 (唐津新聞 昭和47年10月23日)
昭和49年
5月5日

京町珠取獅子100年祭
 
市民会館大会議室にて祝宴
その後、曳山は大手口〜中町〜京町〜札の辻橋〜魚屋町〜大石町〜恵比寿角より十人町〜法蓮寺(富野淇園の墓前にて100年祭報告供養)帰路は逆コース。
夜は木綿町中道屋大広間にて祝宴。
昭和54年5月5日
刀町160年祭
で獅子の曳山だけ巡行。コースは神社から大手口を経て、昔の宵ヤマコースでした。


唐津新聞記事 

盛大に160周年式
刀 町 赤獅子
昔の衣装でパレード


 お祭り好きの唐津っ子の血を湧きだたせる秋の唐津神祭最大の呼ぶもの県文化財・唐津曳山の一番ヤマ「赤獅子」百六十周年を祝う記念式典、市中パレードが唐津城まつりの五日、盛大に行われ、明神小路やコースの沿道は"くんち″さながらの人垣で埋まり、にぎわった。
 赤獅子百六十周年祭は、新調のハッピ、カツラで創作当時をしのぶ"町人姿″の地元刀町の曳山関係者釣百人が、午前九時すぎ、曳山会館から赤獅子を曳き出し、同十一時、唐津神社で記念祭の神事のあと、テープカットや餅まきをして、正午すぎ市内パレードに出発した。またこれに供奉して、四、四(獅子)十六(百六十年)の縁起をかつぎ青獅子(中町)金獅子(本町)珠取獅子(京町)も賛助出演したほか、市内の三幼稚園児約二百人が曳く、ミニ曳山五台(唐津東高、唐津西高美術部製作)が加わり、子供の日″パレードにふさわしい元気な歓声を上げ、はなをそえた。
 パレードは、唐津神社〜大手口〜本町〜高砂町〜大越前〜米屋町〜平野町〜新町〜刀町〜大手口〜唐津神社のコースで行われ、地元市民や城まつり観光客の声援やカメラの放礼に会い、約一時間半の巡行でまつりムードはさらに盛り上った。
またこの日は、赤獅子杯小中学生柔剣道大会、スケッチ大会作品展などのほか、パレード終了後、唐津神社境内では、記念式典や祝宴が行なわれた。

 資料提供:野田顕嗣氏
 
昭和54年7月12日
ある方からのメールです。

NHKの“ひるのプレゼント”という番組だったと思います。材木町と本町が海をバックに曳山を曳いているシーンがあり(西の浜?風景に見覚えがありません)、その中で和田アキ子が「笑って許して」を歌っていました。ちなみに和田アキ子も(半ば強引に綱を奪い!?)曳山を曳いていました。番組の終わりで旧筑肥線の東唐津駅から電車に乗っていたので、かなり昔かと思います。

私の記憶が正しければ、番組に出演していた際の亀の頭部は緑色をしていました。材木町さんが前回塗り替えをしたのが昭和52年だったので、それ以降かと思います。


昭和54年10月の唐津神社社報に詳しく載っておりました。

曳山二台出場
NHK“ひるぷれ”
 和田アキ子の西九州の旅

NHKでは去る8月10日全国放映の「ひるのプレゼント和田アキ子の西九州の旅」に曳山材木町と本町が協力することとなり、7月12日午後2時から西の浜辺の海とお城を背景に勇壮な山曳きと彼女の得意な歌いぶりを2時間に亘って録画した。
 この日は好天に恵まれ、久しぶりに海の見える美しい砂浜に山を曳き入れ存分に曳き回り昔の神祭の御旅所風景を再現した。
唐津新聞  昭和54年7月13日記事

唐津の観光地を紹介
 NHKひるのプレゼント

 NHK総合テレビ番組のひるのプレセント″八月六日〜十日放映の唐津ロケが、十二日出演の歌手和田アキ子らが来唐して虹の松原や西の浜、唐津城で行われた。
 唐津ロケは「海」=アキ子の西九州の旅=シリーズで、番組では和田アキ子が唐津市内の各観光地を回って、唐津城や、城下町の風景、虹の松原などを自転車で回りながら紹介するもので、途中に唐津くんちの曳山に出合い、城の見える城下町で勇壮に曳き回る曳山をアキ子がハッビ姿で曳く場面や西の浜などが紹介される。


本町の方にお聞きしました。
角ははずさずに歩道橋をくぐったそうです。牛庵から浜に出したが、全くの砂浜で、曳山は中々動かなかったとのこと。
 
 
 

この番組の出演者がビデオに収めていらっしゃいました。お借りしてそれをデジカメで撮影しましたので鮮明ではありませんが浜の雰囲気は味わえると思います。
番組では和田アキ子とアナウンサーが虹ノ松原を自転車で通り、その後いきなり西ノ濱の映像となり、不自然ですが、ヤマ囃子が聞こえたらそんなことはどうでも良い。和田アキ子は本町の綱につきました。成人女性は綱に着けないというジンクスをどさくさで傷ってしまいました。材木町の曳山の前で「笑って許して」を歌いました。

情報お待ち致します。
昭和55年5月5日
国重要無形民俗文化財指定記念
の曳山巡行。コースは町廻りコースでした。

唐津新聞  昭和55年5月6日記事
城まつり盛大に
花そえる曳山14台
多彩な催しで終日賑わう

 第十四回唐津城まつりは五月晴れの五日、多彩なプログラムを繰り広げ約十万人(唐津まつり振興会調べ)の人出でにぎわった。ことしはとくに唐津くんちの曳山行事″が国重要無形民俗文化財に指定されたのを記念して曳山十四台がいっせいに引き出され「エンヤ、エンヤ」の掛け声も勇ましく街を練り、いっそう祭りの気分を盛り上げた。

五月晴れに人波
 歴代城主慰霊祭は午前十時から唐津城上段で、瀬戸市長、保利衆議院議員、脇山唐津まつり振興会長、金子商工会議所会頭らが出席して開かれた。
 同所では表千家同門会による茶会が開かれ永富静子さんら約五十人が接待役を務め、市長たちも一服のお茶を楽しんだ。中段では生田流の門下生たちによる琴の演奏会が開かれ、満開の紫藤を賞でる観光客も耳と目でうっとり。
 市体育館では少年柔剣道大会、東高運動場では唐津弓道連盟による弓道大会、また陸上競技場でも唐津ラグビークラブ主催の大会が開かれ、スポーツ日和に心よい汗を流した。
 曳山は脇山総取締ら関係者が参列して唐津神社で午前十一時半から神事、このあと同神社前に展示された、十四台は午後一時つぎつぎに出発、大勢の市民、観光客、アマチュアカメラマンの歓声や拍手を浴びながら「エンヤ、エンヤ」の掛け声、笛、太鼓のまつりばやしの音もにぎやかに春の町を練った。
 一方多彩な道行パレードや、こどもミニ曳山も、沿道の人気を集めた。
 唐津神社では池坊生け花二十六点が展示され、唐津子ども劇場主催のチビっ子まつり、また地酒振興会の地酒まつりには佐賀県酒造組合会長の宮島博記氏も姿を見せていた。
 この日は好天に恵まれたこともあって唐津神社、大手口付近、舞鶴公園を中心に、植木市、めじろ大会、チャボ・キジ品評会など開かれ終日人波であふれた。
 また鏡山、波戸岬、七ツ釜などの行楽地もドッと観光客や地元の人たちが押しかけ、夕方の国道202号線などは車が渋帯、午後五時半大手口を出発した特急パスは約一時間も遅れて福岡市天神に着く混雑ぶりをみせていた。
昭和57年5月3日
唐津市制50周年記念
で六台の曳山巡行。
(刀町・材木町・魚屋町・大石町・木綿町・水主町?かっちゃん情報)


にぎやかに唐津城まつり

曳山巡幸が目玉
  
巡幸とは天皇が各地を廻られること。正しくは巡行である。唐津新聞社の勘違い。管理人吉冨) 
 市政50周年 
あす5日も盛大に
 唐津市政50周年を記念する第16回唐津城まつりは2日、華麗な幕を開けた。この日は朝、ぐずつくあいにくのお天気だったが、午前10時には雨もあがり、呼びものの祝賀曳山巡行は予定通り一番山“赤獅子”を先頭に6台が唐津神社前を出発、唐津っ子たちの血を沸かせた。市文化会館では同11時から記念フェスティバルが開催、文化会館と唐津神社周辺ではいろいろな行事が行われ終日にぎわった。5日の城まつり第2日目は唐津神社春祭り、歴代城主慰霊祭をはじめ各種スポーツ行事、お茶会、琴演奏などが多彩に催される。

 二日、特別参加の曳山巡行は6台が町に繰り出したが、唐津市政50周年式典参加のため唐津を訪れていた韓国麗水市の金宣圭市長も、これを見上げて感嘆の声、瀬戸市長とカメラに納まって記念撮影をした。
 今年は、これまで5日だけだったメーン行事を2日と5日に分けて盛りだくさんの行事とした。
 二日は曇天にもかかわらず約三万人(城まつり事務局調べ)の人出が、唐津神社を中心に列をつくった。
 一方、記念フェスティバル会場の市文化会館は大勢の市民で埋まった。
 まず唐津西高出身の大学一年生、北島治幸さん(19)がフォークソングで弾き歌い、ついで唐津アンサンブルバンドの出演、ついで唐津工高吹奏楽部と唐津一中ステージバンドの合同出演、次は華やかな踊りで竹木場婦人会の中尾みち子さんら4人が「夕鶴の舞い」、唐津市婦人連絡会の佐伯千代子さんら13人が「東京音頭」などを披露した。
 次は初参加の「竹木場浮立」、明治5年から始まったと伝えられ、戦時中鐘が供出されてしまったた、え中断していたが松本
松治さんらの肝いりで復活したもの。*太鼓や三番叟などが30数人によって、30分ステージを飾った。
 また「鏡ヤマバヤシ」は3回目の出演、終わると観客席から幟を押し立てた裸の出演者たちがステージに駆け上がり、勇壮な「唐房**大漁祝い唄」を歌い大きな拍手を受けた。
 次は勇壮
豪華なはやしと派手な長じゅばん姿の男女が出演する「見借浮立」。総勢70人が伝統の「手踊り浮立」を見せ、観客をたんのうさせた。
 このあとは、かわいらしい「後川内浮立」、寛永年間の伝統を持つ。博多駅前のステージで披露して好評を得たという。
 このあと瀬戸市長があいさつ、引き続き「めづら会」の出演で、藤間千勢さんの祝舞い「高砂の浦」、ついで20人による「唐津よいとこ」と「桜音頭」の日本舞踊には満場うっとり。
「脇山唐津まつり振興会長があいさつ、ラストを飾って海上自衛隊佐世保音楽隊の関口賀正一等
尉以下45人による「軍艦マーチ」などの演奏があった。
 最後に瀬戸市長ら振興会役員がステージに立って紅白のモチを観客席にまき、午後4時、楽しい幕を閉じた。

唐津新聞記事

唐津神社前を市内巡行に出発する一番山「赤獅子」 曳山の前で記念撮影をする瀬戸市長や金麗水市長たち
資料提供者:てるりんさん

昭和57年10月8日   唐津線高架開通

平野町総塗替披露

昭和58年10月8日
京町総塗替完成
式典:文化会館(来賓81名の盛会)
11:00神事 12:00〜14:00式典・祝宴 15:00餅まき後曳きだし 大手口・材木町・ラッキー靴南下・十人町法蓮寺で富野淇園の墓参り 帰路は大石町恵比寿角・魚屋町・札の辻・猫川上・京町(餅まき)・中町・大手口・曳山会館格納 記念奉曳には一般参加多数(記念の鉢巻きを渡す)


塗り替え記念
京町商店街のチラシです。

提供者:てるりんさん

ピカピカの珠取獅子
 唐津神社に塗り替え完成報告

 唐津曳山十二番山「珠取御子」=京町=の塗替事業完成の神事と記念式典が、八日午前十一時から唐津神社で神事を行い、正午から文化会館大会議室で成大に行われた。
 神事は午前十一時から、塗替えか終わり新しいうるしの香と色もあざやかな珠取獅子が神社前に引き出し藤野本部取締、大塚正取締、古賀町内会長ら曳山関係者多数が出席して戸川宮司による神事が行われ、曳山の安全を祈願して各代表が玉串を奉げ神事を終わり、会場を文化会館大会議室に移して盛大に記念式典を行った。式典には.曳山各町内の曳山関係者ら多数が出席した。
 曳山珠取獅子は、このあと午後三時から、神社前から大手ロを通って京町まで塗替え完成の初パレードを行った。
 京町商店街では、珠取獅子の塗替え完成記念セールを八日かち十二日までの五日間開催、各店舗ともアーケードにワゴン車を出してのワゴンセールや、全商品とも特別価格でサービスしている。このセールではお買い上げのお客に抽せんで特賞に唐津焼ぎの珠取獅子立体壁掛けが当るお楽しみ賞品を贈る。特賞のほか各種の景品を準備している。

   唐津新聞 昭和58年10月8日

   
昭和59年10月6日 木綿町総塗り替え披露


「武田信玄の兜」あす披露

もちまきやパレード
 ピカピカ姿 商工会館で祝賀会

 このほど塗り替えを終わった木綿町の九番山「武田信玄の兜」の塗替落成祝賀は六日正午から唐津市大名小路の唐津商工会館五階ホール (昨報、文化会館は誤り)で招待者や正田諒一郎本部取締ら町内、曳山関係者約百三十人か出席して開く。
 また同日、曳山は午前九時、唐津神社前で、おはらい、曳山の前で記念撮影をして同十時十分から引き回わしのため出発、木綿町で第一回目のモチまきを行い唐津商工会館前に午前十一時から午後三時まで展示する。曳山は同時刻ごろ出発してラッキー靴店前−大石町−魚屋町−本町のコースで回って曳山展示場に帰る。
 途中、札の辻公園で同三時半から二回目のもちまきをする。
 木綿町町世話人の正田歳夫さんは「塗り替えの費用は初め七百五十九万円の予定だったが、ひもや幕なども新調したため九百万円近くかかった。しかし、おかげでこのように立派になりました」と、五日、展示場から引き出された色鮮やかな「武田信玄の兜」を見て満足そうだった。

  唐津新聞記事 昭和59年10月5日

このとおり立派になりました
秋の日差し浴びて


武田信玄の兜 一般市民に披露

 製作百二十周年を記念して総塗り替えを終えた唐津曳山・九番山「武田信玄の兜」(木綿町)の落成神事と祝賀行事が六日盛大に行われた。
 午前九時から町世話人の正田蔵夫さん、長野雅計本部取締、正田諒一郎木綿町正取締ら町内関係者約百人が参列して唐津神社で百二十周年祭と落成神事、続いて曳山の前で記念撮影をしたあと引き回しのため出発、木綿町でモチまきをした。
 正午からは唐津商工会館五階ホールで落成祝賀会を開いた。正田世話人が「皆さん方のおかげで立派になりました」とあいさつした。
 曳山は、午前十一時から午後三時まで唐津商工会館前に展示され、その後のパレードは、チビっ子たちも加わって東材木町−大石町−魚屋町−本町のコースを回って曳山展示場に帰ったが、途中、札の辻公園前で二回目のモチまきをした。

   唐津新聞記事 昭和59年10月6日

資料提供者:てるりんさん

昭和59年10月21日 中町総塗替披露

盛大に落成祝賀会
 生まれ変わった青獅子
 二十五年ぶり七回目の塗り替えをしていた唐津くんちの二番山「青獅子」=唐津市中町=の曳山百六十年祭と塗り替え落成祝賀会が二十一日、関係者多数が出席して盛大に行われた。
 青獅子は、一番山の赤獅子に五年遅れの文政七年=一八二四年=に製作され、十四台の曳山の中で二番目に古く、ことしで百六十年を迎えた。中町では百六十年祭をするのに合わせ、二十五年ぶり七回目の塗り替えを福岡県八女市の仏具店=近松岩吉商店=で、今年二月から行っていた。塗り替えが終わった青獅子は、長年の風雪で縁褐色の黒獅子と見間違うほど変色していたが、製作初期をしのばせる鮮やかな濃緑色に生まれ変わった。
 この日は、午前八時半から唐津神社で古川軫三中町の駐在員、桑野安二曳山本部取締、藤川末義中町取締ら中町曳山関係者が出席して完成報告をした後、会場を唐津商工会館五階大ホールに移して百六十年祭と塗替落成祝賀会に入った。
 祝賀会には保利耕輔衆議院議員、知事代理の田中耕作県観光課長、野副豊唐津市長ら来賓約百人が出席した。
 藤川取締の開会のことばで幕開けし、古川駐在員が「伝統ある曳山の歴史を伝えて行くのは私たちの責任です。今回の塗り替えで青獅子が製作初期の色に生まれ変わられたのは、皆さまのおかげでございます」とあいさつ。続いて保利衆議院議員、田中県観光課長、野副市長らが祝辞を述べ、近松岩吉商店へ感謝状が贈られた。
 このあと祝典に移り、藤間勘艶さんの祝舞や鏡割りなどが披露され、瀬口勝利唐津商工会議所副会頭の音頭で万歳三唱をして幕を閉じた。
 青御子はこのあと、中町まで引き込まれ、町内の人たちに鮮やかな濃緑色に生まれ変わった姿のお披落目をした。

 唐津新聞 昭和59年10月22日

その後暫く唐津商工会議所前にクロからミドリに変わった青獅子が展示され、市民の目を釘付けにした記憶がある。(吉冨 寛)
昭和60年4月29日
唐津神社1230年祭祝賀奉曳
。コースは神社から大手口を経て、昔の宵ヤマコースでした。(この時は大石町は塗り替え中で出ていません)

唐津くんちの曳山練り歩く
秋以外では3年ぶり
 にぎわう沿道、5万人

 連休二日目の二十九日、唐津市では秋の名物になっている唐津くんちの曳(ひき)山が街を練り歩いた。
 唐津神社の千二百三十年祭を記念、塗り替え中の六番山「鳳凰丸」=大石町=を除く十三台が同神社前に勢ぞろいした。秋のくんち以外で曳山が巡行するのは五十七年五月の市制五十周年以来で、連休で唐津を訪れた観光客の目を楽しませていた。
 この日の唐津市は、カラッと晴れ上がった絶好のヤマ引き日和。曳山ばやしが鳴り響き、秋の祭りを再現、午後一時半には一番山「赤獅子」=刀町=を先頭に街へくり出していった。
 参道や巡行コースの沿道は曳山をみる人でごったがえし、この日約五万人の人出。
「エンヤー、エンヤー」の掛け声で曳山を引く男たちの額に汗がにじんでいた。

   唐津新聞記事 昭和60年4月30日


資料提供者:てるりんさん
午前中に神社前に並んでいる曳山たち 神社の鳥居が古いです

写真提供:かっちゃん
赤獅子は御幣をつけていますね

写真提供:かっちゃん
この時は大石町は塗り替え中で出ていません。
鯛ヤマの後から飛龍が来ています 

写真提供:かっちゃん
昭和62年10月18日 新町飛龍総塗り替えお披露目巡行。
昭和63年
第22回城まつり
平成元年
刀町赤獅子百七十年祭
総塗替記念
平成4年10月11日
唐津くんち400年祭
(名護屋城築城400年・市政60周年の好材料の元、強行挙行)
京町の永代帖に「賛否両論の中挙行」と書き残す。
旧宵山コース(昭和58年以前)を曳く。

午前中、曳山社頭勢揃
午後1:30 曳山巡行出発 3:30巡行終了
その後京町は文化会館前にてテントを張り仕舞祝いの予定が、急遽曳山展示場京町の扉の外にテントを移動して直会が始まる。
上写真:400年祭の鉢巻用手拭い

左写真提供:かっちゃん
 
 
式典の為に作られたと思われる手提げ袋が、出てきました。貴重な負の遺産です。
提供:@ネ寸
 


 
平成5年
米屋町 総塗り替え記念
平成6年10月16日
呉服町 百五十年祭
平成7年10月1日
平成7年10月1日 魚屋町150年祭
唐津神社前にて神事の後、記念撮影。


写真提供:@神田中村さん
魚屋町150年祭
 記念鉢巻


写真提供:@神田中村さん
平成8年9月28日 新町飛龍150年祭  神社から大手口を経て、市役所前から刀町に入り、新町のヤマ止めへ。一時間の休憩後、曳き出し新町を往復して刀町・市役所前から米屋町に出て駅前・猫川道よりアルピノ駐車場へ。そこで餅まきをして、帰路は逆コースで市役所前の坂道に出て下り、大手口から曳山展示場へ。
平成8年10月13日

世界炎博覧会
最終日
12:30曳山会館出発・大手口・池田屋角・刀町・米屋町・駅前・アルピノ会館前(旧猫川)に南向き西から刀町、14台整列。

アルピノ前の道路に並べ、京町は古賀家具店の裏の駐車場に直会幕を張り、簡単な直会をしました。途中で小雨がぱらつき、早めに片付けました。

15:30曳きだし 京町アーケードをくぐり、中町・大手口を経て格納。
世界炎博の閉幕飾る
 13日にイベント
くんち以外では43年ぶり

 七月十九日から開催されてきた「世界炎の博覧会」もいよいよ十三日で閉幕となるが、この唐津サテライト会場となった唐津市のふるさと会館"アルピノ≠ナは同日、フィナーレセレモニー(消灯式)を午後零時三十分から実施する。昭和二十八年に竣工した舞鶴橋の渡り初め以来四十三年ぶりという曳山十四台そろっての巡行も計画されており、有終の美を飾るにふさわしい市を挙げての市民参加セレモニーとなる。
 唐津市と市炎博推進協議会が、曳山取締会、曳山囃子保存会、韓国優良製品振興協会の後援を受けて行う。
 開幕の火矢を合図に曳山巡行がスタート、唐津神社前から大手口、刀町、市役所・駅前通りを曳いてアルビノ前(北側市道)に勢ぞろいする。同二時から消灯式典が始まり、各あいさつがあって、ハワイ旅行などが当たる旅館組合サービス・チケットの抽選会が炎博アテンダントによって行われ、さらに唐津焼アマチュア陶芸展の表彰、アリラン民芸団(五人)による舞踊、曳山囃子演奏、最後に「唐津会場の火」が炬火台から舞台上に移され、市長らによって消灯される。曳山はこのあと高砂町から中町、大手ロを通って曳山展示場に戻る。雨天の場合は曳山巡行は中止。

   唐津新聞記事(平成8年10月11日)

平成9年7月19日 第25回からつ土曜夜市に刀町・中町・呉服町・大石町・新町・木綿町・平野町・京町が出動。参道を南下、まいづるデパートの北路地に入り、大手口ロータリー(古い言い回しか?)を南下し、牟田たばこ屋より左折。本町通りに曳山を整列させる。帰路は逆コース

土曜夜市に曳山登場
  19日から4週に多彩な催し

 第二十五回からつ土曜夜市は、今年も十九日からスタート、八月九日までの四週に渡って繰り広げられるが、オープニングパレードでは初めて曳山が登場、一般の小中学生から希望者を募り、中央商店街を曳き歩く。昨年は雨などのため期間中の人出は二万五千人だったが、今年は曳山効果などで倍増の五万人を目指している。
 商店街と消費者のふれあいをもとめて始まった夜市も二十五周年。紀念事業として、より唐津らしさを演出、またより多くの来客をと、唐津観光の目玉、曳山のパレードと展示を打ち出した。まず初日の十九日は、中町の青獅子がオープニングパレードに加わり曳山展示館から米屋町通り、中町通りを曳き歩く。さらに大手口広場から本町の大原松露饅頭前までの間に、赤獅子、義経の兜、鳳凰丸、青獅子、飛竜、武田信玄の兜、上杉謙信の兜、珠取獅子の八台の曳山が、提灯や笹竹などの宵曳山の飾り付けで展示される。またほか三日間は二台が展示される。
 イベント舞台は、大手ロと、京町の二カ所に設けられ唐津港太鼓や相知の大名行列などの郷土芸能やプロ・アマの演芸ショー、カラオケ大会などが予定されている。また二十六日と八月二日は、紺屋町通りでミニ四駆大会も(受付は午後五時から)。最終日の八月九日は牛後七時から、大手口舞台で唐津新聞社主催の納涼盆踊り大会が予定、めづら会の師匠らの音頭で踊りの輪を広げる。
 一方、販売では二十五周年を妃念して、各店舗ごとに二五%引きや、二百五十円セールなどを行なう。また昨年に続いてハンマープライスが、十九日午後八時半から大手口舞台で行なわれ、テレビや大型家具などのオークションが人気を呼びそうだ。
 曳山の曳き子募集は、小学二年生以上〜中学三年生までが対象。大手口の池田呉服店ではちまきの購入者(一本千円)で先着二百人となる。はちまきの販売は、十七、十八、十九日の午前十一時から午後三時までの間。

   唐津新聞記事(平成9年7月7日)

平成10年5月10日 朝日写真団撮影につき市民会館前に江川町出動
平成11年
刀町百八十年祭
平成10年7月18日 第26回からつ土曜夜市オープニングパレード
中町出動、その後町内に展示



H10.7.19 佐賀新聞記事

景気浮上へエンヤーエンヤー
青獅子力づけ
からつ土曜夜市を練り歩く


 唐津市の中央商店街恒例の「からつ土曜夜市」が十八日、同商店街で開幕、国の重要無形文化財・唐津くんちの二番曳山(やま)青獅子(あおじし)が登場した。不況と大型店進出で沈滞ムードの商店街。「エンヤー、エンヤー」の掛け声に景気回復の願いを込めた。
 開幕パレードのしんがりを務めた青獅子は、カラー舗装が完成した地元の中町など歩行者天国になった商店街を練り歩き、中町通りに展示された。曳山ばやしが聞こえると見物客が繰り出し、くんち気分の親子連れでにぎわった。商店街活性化の救世主に、と昨年の土曜夜市から唐津のシンボルの曳山を引き出した。
 夜市は八月八日までの毎土曜日、大手口と京町に設けたステージなどで多彩なイベントがあり、商店も目玉商品などを用意して盛り上げる。
平成13年3月25日 京町の父Aーケードリニューアルを祝い珠取獅子出動
古賀家具前にて子ども達約200名、アルピノ前を通り、西銀角にて東西に餅まき。再びアルピノ前を通り古賀家具前に。大盛況!
帰路は本町〜ロータリー〜まいづる裏〜参道



300人がくんち気分

京町アーケード完成で曳山

唐津市の京町商店街(大坂康泰理事長、三十三店)周辺で二十五日、唐津くんちの十二番曳山「珠取獅子」の巡行があった。曳山を所有する京町以外の唐津市東松浦郡の幼児・小学生など約三百人が手綱を握って「エンヤ、エンヤ」と勇ましい掛け声をこだまさせ、一足早いくんち気分を満喫した。
 曳山巡行は十年ぶりに改修したアーケードの完成記念キャンペーン最終日のイベントの一つで、くんち本番では巡行に加われない市郡の子どもたちを対象に参加を呼びかけたところ、同商店街の準備した二百二十本の鉢巻きは午後一時半の集合時間前になくなる人気ぶりを見せた。
 京町の囃子方が勇壮なくんち囃子を奏でると、台車の上では泣き出す幼児もいたが、鉢巻き姿の子どもたちは喜び勇んで手綱を引き、中川茶園・アルピノ前・珠取獅子像の約三百b間をゆっくり巡行。紅白もち三千個とお菓子をまくもちまきもあり、商店街は人波であふれ活気づいた。
 唐津市菜畑の平山純也君(6つ)は初めて曳山を引いて「綱は重たかったけど、掛け声を思いっきり出しておもしろかった。また引きたい」と喜んだ。

     唐津新聞記事 平成13年3月27日


平成13年10月14日 材木町160年祭・総塗替記念奉曳  塗替:はせがわ美術工芸

曳山展示場→くんち通りの道順で材木町の東側の交差点→Uターン→西材木町交差点左折→ハナミズキ通りを南下→アルピノ→昼食→中町商店街北上→大手口→展示場。   by材若さん情報

写真提供:亀子さん

情報をお寄せ下さい
平成15年7月19日 淡嶋様中町青獅子出動 (土曜夜市初日)
平成15年10月19日 魚屋町「鯛」総塗替お披露目 唐津神社にて神事、記念撮影。  塗替:梅谷
その後、曳山は大手口〜中町〜材木町〜焼鳥又兵衛四つ角を右折〜魚屋町〜札の辻〜アルピノ(塗替記念式典)
帰路は アルピノ〜京町アーケード通過〜中町〜大手口〜展示場へ
西ノ木屋前駐車場にて記念の餅まき
平成16年3月7日 “NHK おーい、ニッポン 私の・好きな・佐賀県 鯛ヤマ出動”
生中継!本当に、本当に寒かったです。当日の夕方の気温はなんと2℃!!
こめかみがズキズキしてくる程でした。

『志道小をバックの鯛』
3月31日をもって志道小学校は閉校。
大成小学校と合併し、大志小学校となる。

写真提供:@神田中村さん
平成17年4月29日 唐津神社御鎮座1250年祭 (祝 新「唐津市」誕生)

10:00〜13:00社頭勢揃
13:00曳き出し。宮島三角角を曲がり、札の辻、アルピノ前→駅前→平野町、新町、大手口、江川町、朝日町、坊主町、曳山展示場(15:15刀町納め始め、16:30江川町納め完了)

唐津駅の前に差し掛かる珠取獅子。とにかく暑かった。
正副取締は法被を、曳き子は諸肌にならないようにとのお達しで、京町はここまでは持ちこたえたが、とうとう新町の休憩で全員諸肌になる。

写真提供:@神田中村さん
平成17年10月23日 中町180年祭
10/22.23と中町商店街では通り寺中央にテントを張り、唐津地区水産物消費拡大協議会主催の「お魚まつり」が挙行。その中、中町は午前10時過ぎより曳山を中町北(青龍工房前)まで曳きだす。、イベントが終わる午後2時にて終了。3時より神事。神事終了と同時にセリ出す中町の正調崩し!派手に盛り上がって中町通りを京町アーケードへ進行。アーケード通過後、Uターンして玉置横へ鎮座。餅撒きから直会となりました。
180年祭おめでとうございました。
平成18年10月22日
平野町総塗替落成記念式典

   塗替:はせがわ美術工芸

正午よりアルピノにて披露祝賀会が挙行さる。
第4の曳山囃子「町田囃子」の披露もあり。
平成18年10月30日



天皇皇后両陛下 唐津訪問

ブログより

天皇皇后両陛下行幸啓 唐津市役所御訪問

9時に大石町曳きだし(曳山囃子付き:大石町は曳山を動かす時は必ず囃子をします。)最後に魚屋町。
市役所東館の脇、段差にはゴム板を敷き、その上を曳山が通った。
駐輪場の屋根の出っ張りに注意。難なく通過。
市役所玄関前には大石町以降の曳山が西側に列んでいる。意外とゆっくりとした間隔で一安心。
東側(フェニックス側)には刀町・中町・材木町!(フェニックス)呉服町!(フェニックス)。江川町が入ったあと、しんがりは魚屋町。

10時過ぎには曳山は勢揃い。
その後彰敬館にて待機。市民会館前には神戸ナンバーの警察のバスが2台、消防車も待機する。

11時市役所前にてお迎えの最終打ち合わせ。
囃子に合わせて采配を振る練習。

駅の方から白バイが。
暫くして(打ち合わせでは、御料車が佐賀銀行を通過した頃)保存会によるセリ囃子が始まる。
お車が止まったら、囃子も止める。

両陛下がお乗りの御料車がゆっくりと市役所に入ってくる。後部座席左は美知子さま。
市役所前西側に整列したので、優しいお姿を拝することが出来た。

正門前にお車は止まり、市長がお出迎え、両陛下を曳山の方へ御案内。
総取締が曳山をご紹介。再び囃子が始まり、曳山の前に整列した各町の正・副・本部取締はエンヤエンヤの掛け声を掛け、采配を掲げる。(振らない)

囃子が終わり、両陛下は市役所にて御昼食。

吾々も彰敬館にてお弁当。
1時前に再びお見送りの為、市役所へ。
1時20分辺りから、動き有り。白バイが出動。先導車待機。玄関前には菊の紋章のナンバープレートに錦の旗の御料車が待機。
両陛下おでましになり、何度も何度もにこやかに挨拶なさる。

もう少し曳山をゆっくり御覧いただければよかったが、秒刻みのご移動、仕方ない。

お帰りは後部座席右の天皇陛下を拝することができた。光栄の至り。

市役所をお発ちになったあとは、準備ができ次第、と言っても魚屋町が動かないと、次は動かせない。
帰りは意外とスムーズに。

京町は行きも帰りも尻尾をつけて曳いてみた。
これがちょっと格好いい。
なんとかならんもんだろか。

おくんちも今日のような好天気に恵まれます様に。
平成19年8月11日
土曜夜市に出動
平成20年10月5日 京町総塗替披露  塗替:はせがわ美術工芸
小雨の中決行
アルピノ会館ホールにて式典・披露宴。その後雨の中を十人町法蓮寺まで曳いて行き、富野淇園の墓前に塗替の報告をする。

平成20年10月26日
京町商店街 珠取獅子総塗替記念イベント
またまた小雨降る中、約150人の子供さん達が展示場から京町まで曳いてくる。
古賀家具店前に展示。商店街ではペーパークラフトを印刷してお客様にお渡しする。

平成22年10月10日   木綿町総塗替披露  塗替:はせがわ美術工芸
西の門館に修理場ができ初めての総塗替。

平成24年10月7日   中町総塗替披露  塗替:はせがわ美術工芸
中町通りで祝いの餅撒きに湧く
photo by Yoshitomi
平成25年3月9日 
  この配列は昭和46年5月2日城まつり以来と思われます。

唐津神社の氏子一同お祝いを申し上げます。と言っているような曳山社頭勢揃いでした。
これ以上の祝意はありません。
(吉冨 寛)

photo by Yoshitomi
曳山勢ぞろいで宮司の結婚式祝う 唐津市

 唐津神社の秋季例大祭・唐津くんちの曳山(やま)14台が9日、戸川忠俊宮司(37)の結婚式に合わせ神社に勢ぞろいし、曳山関係者や市民数百人とともに晴れの日を祝福した。

 通常14台が全てそろうのは春と秋の例大祭の時だけ。今回は各町の曳山関係者から、日ごろの感謝の意を込め祝典に花を添えようという声が上がり、“出席”することに。関係者によると、宮司は代々、既婚で就任していたため、宮司の結婚式で曳山がそろうのは初めてという。

 神社に隣接する曳山展示場から出された曳山は鳥居裏の砂地に一列に並び、午前10時過ぎ、参道を歩く戸川宮司と十二単(ひとえ)姿の妻清美さん(32)や、親族ら約100人を出迎えた。

 本殿での式の後、戸川夫妻は唐津曳山取締会幹部や14台の曳山と記念撮影した。戸川宮司は「深く感謝しています。唐津っ子として最高の栄誉」と感激した様子で話した。

 神社周辺には市民ら数百人も訪れた。一眼レフカメラを手に訪れた同市大石町の宮崎孝志さん(70)は「町人の心意気ですね。普段は曳く側だから今日はたくさん写真を撮りました」と笑顔で話した。


2013年03月10日 佐賀新聞
 
 
 平成26年10月12日 大石町鳳凰丸総塗替 披露  アルピノホールで祝宴  塗替:はせがわ美術工藝 於:曳山の蔵
 
平成28年3月12日  呉服町商店街落成記念イベント  呉服町に展示 
平成28年10月16日  江川町七宝丸総塗替 披露 アルピノホールで祝宴 塗替:小西美術工藝社 於:曳山の蔵 
平成28年
10月2.3.7.17日
 
 ふるさと映画「花筐」ロケ 於:御旅所  大林宣彦監督


平成30年3月17日  肥前さが幕末維新博覧会 唐津サテライト館オープニングセレモニー
8番曳山本町金獅子の巡行・サテライト館横に展示 

平成30年10月14日  新町飛龍総塗替 披露 アルピノホールで祝宴  塗替:小西美術工藝社  於:曳山の蔵 

令和元年5月5日  奉祝改元・一番曳山刀町赤獅子生誕200年祭 正午より翌日祭のコースを巡行する。
先だって十四台の曳山を前に神田カブカブ獅子の奉納舞があった。
奉曳(ほうえいと読むべきだが、唐津では皆ホウビキと呼んでいた。)
唐津神社社報119号
 
令和3年
9月19日
 新型コロナ感染中、展示場改修にあたりアルピノホールへ曳山引っ越し。
詳細は社報にあります。
唐津神社社報123号
 令和4年
5月1日
 
令和3年の秋季例大祭は11月3日だけの御旅所神幸祭でした。
通常では総塗替を終えた曳山は10月に披露して曳く習わしですが、生憎のコロナの勢いに水主町鯱の披露は行われないまま11月3日だけの神幸祭(御神輿は出ず唐櫃にご神体を納めての行列)でした。
くんちが終わり日延べし続けて年を越して5月1日晴れて披露が為されました。
アルピノホールに展示場が移っており、ここを出発して駅前を通り米屋町刀町中町と通って新大橋を渡り水主町へ向かい、町に着いた曳山からいつまでも太鼓の音が松浦川の川面を渡り舞鶴橋まで響いておりました。

塗替:田谷漆器店  於:曳山の蔵
YOUTUBE 2022年鯱お披露目巡行
     

松浦橋を渡ったこともありましたが、年代が分かりません。
他にもお供日以外に唐津の町を曳山が走った記録(記憶)がありましたら教えてください。

旧唐津駅のお供日飾り
歴代城主の家紋入り。


(ただし、ここではあくまでも唐津市内のヤマ曳きに限り、出動は記載致しません。別に出動一覧にて記録します。)


出動編へ


追補として唐津くんちが登場する

銀幕編(TVドラマを含む)を作ってみました。

 昭和33年7月29日  
    江利チエミ主演
サザエさんの婚約旅行」撮影  東宝

夏の暑いとき期日はハツキリしませんが 映画のロケ撮影に協力するため、西の浜=お旅所まで曳山が出動し何回も砂地に引き込みを繰り返しました。

現地に最後まで参加せず 曳子一同は長時間待機させられて、大いに立腹し西の浜から曳山格納庫に戻りました。
後日 映画を見たらお旅所曳込み場面に 江利チエミも合成で組合わせてありました。
(某氏情報)

映画のポスターには数種類あるようで、このポスターには曳山が載っています。
しかし、中町の青獅子が何故か赤獅子になっていました。

1958.08.26封切り
撮影が終わってどたばたしての編集、そして封切りだったのではないでしょうか。
 昭和44年  社長えんま帳 東宝
『社長えんま帖』(1969年、東宝)を鑑賞しました。33作上映された社長シリーズの30作目です。当時のポスターにも“30本製作記念”と印刷されています。私が印象に残るシーンとして第一に挙げたいのは、佐賀・唐津のお祭りである唐津くんちのシーン。本物の曳山のド迫力、巡行のスピード感などがリアルに撮れています。

シーサイドホテルや緑の線が入った昭和バスなど記帳が映像満載。
東宝大劇前で曳山を見物。瀬戸市長の姿が確認できる。
昭和49年  男はつらいよ 寅次郎子守唄  松竹

寅さんの撮影があるようだとは知らされていた。
唐津のシーンは市役所の屋上から撮影された参道
場面は一転して京町珠取獅子が中町通を北上するシーンから始まった。
数分間曳山が流れて、最後は新大橋を渡る京町珠取獅子。太鼓の後で笛を吹くのは高校2年の管理人吉冨です。
鯛山か赤獅子しか取り上げられない唐津くんちの映像に、珠取獅子で最初と最後を占めてくれた山田洋次監督に
京町のものは放映されてから始めて感じ入ったのだった。
唐津神社二の鳥居脇での寅さんの撮影は11/5に行われたとそこに登場する材木町の役者さんから聞いた。
 昭和52年  

トラック野郎・男一匹桃次郎  東映

材木町の曳山の上に桃次郎(菅原文太)が乗る。小早川雅子(夏目雅子)は大手口田代食堂角で曳山見物。

平成4年1月5日
TV放送
 裸の大将(52) 母子おくんち太鼓(母子くんち太鼓) 唐津編花王ファミリースペシャル
主な出演 芦屋雁之助小柳ルミ子目黒 祐樹島田  豊(子役)、南  美江正司 花江矢野  宣安部  潮今村 廣則杉谷なつみ森田 美奈大穂 真紀清田  舞名木 康訓劇団東俳米屋町頼光会唐津市のみなさん

 平成29年 花筐
撮影は平成28年10月2.3.7.17日