唐津神社社報に先々代の宮司さん戸川省吾さんが書かれたもの、大変重要な資料なので「唐津曳山 四大資料」としてネット化してしまいました。(戸川惟継先代宮司さんには平成17年10月22日にお許しをいただきました。)


神祭今昔譚
                     唐津神社社報 平成8年10月1日

 唐津神祭(からつくんち)は、唐津地方の総氏神様である唐津神社の秋季例大祭です。唐津くんちは、唐津神社御鎮座につながる重用な祭礼ですし、収穫を感謝し祝い合う祭礼という民俗的伝統神事でもありますので、御鎮座以来ずっと祭り続けられてきた祭礼と言えます。
 この祭礼が、どの時代から何がどのように変化し、だからどのように発展してきて、今日見られるような賑やかで勇壮華麗で、地方随一の祭礼といわれるようになったのか等については、残念ながら多くを知るべき資料がありませんので、断定できません。
 神輿渡御に昇きヤマ、走りヤマ、飾りヤマ等が供奉していた時代を経て、文政二年(一八一九年)刀町『赤獅子』が始めて、囃子曳山として神幸神事に供奉してより、町々から年々囃子曳山が奉納され、そこに新しいヤマ曳きの秩序も整備されつつ、今日の隆盛を見るに至ったのですが、特に旧藩制時代の町方の大変な勢いが結実して、その勢いが曳山を創り、祭りを振興してきた源泉であることは間違いありません。
 さて、唐津くんちは、長い伝統の中にあって、今も氏子民の心を一つにして年々賑やかに祭り続けられていますが、私共が物心つきましてからでも、祭礼曰・お旅所(明神台)・ヤマ小屋・神幸巡路・勢揃場所・休憩所・ひき込みの姿等々が、その時代の変化に合わせ、合わせられ、時代を先取りしたりしつつ変化が見られます。変っても良いもの・変えざるを得ないもの・変えてはならぬものを先人達の智恵で、上手く調整してきた結果が、今日のくんちの隆盛につながっているものだと思います。
 そこで、この社報の古いものと内容が重複するものもありますが、くんちの中で見られるものを、思いつくまま、今様神祭今昔譚として記し、くんちと共に生きている我々の生活の証しにしたいと思います。


 
一、御祭礼日
 御祭礼日は、唐津神社創祀の神話の中にありますように、御鎮座の旧暦九月二十九日が本来の姿です。旧暦(太陰暦)ですから、新暦(太陽暦)に置きかえますと、祭日は毎年変りまして、早い時は残暑を感じる頃であったり、遅い時は霰が降ったこともあったそうです。
 九月二十九日という日は、民俗学的に見ましても、重陽につながるような、祭礼には最良の日でした。
 明治の御維新で新しい御代が開かれ、新政府も旧暦から新暦への移行を積極的に進めました。都市部を中心に早々と祭日を新暦に改めた神社もあったということですが、地方はそうはいきません。稲作のことも、漁業のことも、すべての生活習慣は、旧暦(特に漁は月の動きが重要)主体でしたので、新暦移行は遅れ気味でした。
 そのような中で、唐津神祭は、明治〜大正と旧暦で執行されていましたが、いよいよ氏子民の新暦への慣れ、利便性、勧奨等もあり、種々協議(九月二十九日その日か、一ケ月遅らせて十月二十九日か)して、ようやく、大正二年(一九一三年)のくんちより、新暦十月二十九日を祭日と定めて執行することとなりました。この十月二十九日の祭日はその後五十五年続き、新時代の祭日へ引きつがれましたが、初心を大切にと、十月二十九日は本殿祭として今日も祭り続けられているのは御承知の通りです。
 さて、昭和三十年代に入りますと、生活が少しは豊かになってきたのでしょう、神祭の賽者も多くなり始めたように思います。又、この頃から戦後の曳山塗り替えが県重文の指定のこともあって、各町曳山の塗り替えが毎年のように行われ、曳山全体が大変綺麗になりました。戦時中から戦後の初期にかけては、それぞれが自分のことに精一杯でしたので仕方のないことですが、この頃より、曳子の数も多くなり、くんちに新しい勢いが感じられるようになりました。
 こうした中で、これまで親しましてきております、十月二十九日の祭礼日を移動しようという声が、市内のいろいろな方々や団体等から起こってきました。最初はささやき程度でしたが、いつしか大きな声となって、昭和四十年代に入りますと、本格的に新しい時代を感じざるを得ないほど大きな運動になりました。
 神社としましては、正式に申し入れがあったという時点よりも前から、このことにはしかるべく関係者と協議をしてはおりましたが、基本的には、神社の例祭日は気安く変更すべきものではないということで、特に慎重に事態の推移を見つめておりました。やがて、昭和四十三年、例祭日変更の声は具体的行動となり、神社・取締会を始め関係者は何回となく会議をし、変更しても、人々のくんちによせる思いは変らない・種種の分野で良い影響が期待できる・観客動員も期待できる・曳山、観客の安全にも支障はない等々の良い影響の方が多いとの見通しがつきましたので、例祭日の変更について、旧暦九月二十九日に近い祝祭日であるところの文化の日(旧・明治節)の十一月三日を神定しました。 さてこの年の唐津くんちは、変更後初めてのくんちということで、関係一同御神意にかなうか否やと、大変な緊張をして迎えましたところ、意天に通ずと申しましょうか、すこぶる好天の中、賽者も倍増といえるくらいの人、無事めでたく納めることができまして、新しい神恩奉謝のくんちとなりました。
 こうして、十一月三日の新しい祭礼が定まりましてより、時代の勢いがあったのだと思います。参拝者も年々増加し、種々報道も多くなり、国中の『からつくんち』になった感さえいたします。これからも、御神意御神恩に奉謝の誠を捧げつつ、唐津人の心を大切に守り伝えて行かねばと思っています。

唐津神祭今昔譚2
               唐津神社社報 平成9年10月1日

ニ、宵曳山のことなど

 宵曳山が、今日見られるように統一奉曳されるようになって、約四十年くらいになると思います。ここで、約とか、くらいとか、思うとか不確実な言葉を使っていますが、残念ながら判然としない部分がありますので、このような表現になります。
 宵曳山は、翌朝からの神幸祭にそなえて、それぞれの曳山を町内から、社頭に勢揃いさせるのが目的です。その昔、曳山はそれぞれの町内に曳山小屋があり(町内の曳山小屋の位置については、昭和六十年発行・古舘正右衛門著『曳山のはなし』に詳しく紹介されています。)、そこから社頭まで、曳山を勢揃させるため、多くの町々では曳山に提灯飾りを整えて、町々で思い思いの時間(午前零時過ぎ〜)を目途に出発し、各町とも伝統の順路を廻り(勝手曳き)社頭へ集まっていました。
 祭礼日の変更(前号)等もありましたが、世情の激変の中で、宵曳山も種々変化してきています。藩制時代・明治〜大正〜昭和・現代という時代区分をして、宵曳山の変遷を見ることにします。

 
◎藩制時代
 明治時代以前、つまり徳川時代です。曳山十四台はまだ全部揃っていない頃です。曳山は、町内それぞれの曳山小屋に納められていた時代です。旧暦九月二十九日が神事祭でした。(旧暦九月九日が初供日で、この日に曳山の試し曳きをしていた町内もあったそうです。)
 さて神幸祭前日の昼から夕にかけて、提灯曳山の飾り付けをして、曳山は町内所定のところで、宵曳山出発の時を待っています。二十九日午前零時を過ぎてから、各町は思い思いの時間に宵曳山行事に出発します。材木町は、毎年午前零時と同時に出発していました。各町の曳山は、各町それぞれ伝統の道順を廻って大手口へ到着します。ここからが、「現在と大きく違った順路になります。現在のように参道は大手口に直結しておらず、しかも曳山が通れるかどうかという道でした。又、お堀があって、曳山は大手門をくぐって社頭勢揃をしていました。(図T参照−財団法人久敬社・大正十四年八月廿五日発行「東松浦郡史所載の城下町図を使用」)
 大手門をくぐってからの道順は、大手小路(裁判所横の通り)北進→明神横小路へ左折西進という順路で、大広前−その当時は、神社の直ぐ前の広場(春−植木市・秋−お化け屋敷等の広場)で、江戸時代末、明治初めの頃は図Uのようだったと伝えられています。
 大手門は、曳山が自由に往来できる高さではなかったので、その都度、センギを上下させていたそうです。
 尚、神幸祭当日の曳出の順路は、明神横小路を東進し、綿屋の所より大名小路へ右折し、商工会館角辺りを右折(西進)し、大手門より大手口−町へと曳き出して行きました。この時、城内部分を曳山が動く時だけ、刀町曳山だけが道囃子を奏しつつ奉曳していました。

 
◎明治〜大正〜昭和
 この時期は、曳山にとっては勿論、世情が激変した時代です。
 先づ挙げねばならない一大事は、参道の開設です。@でも触れましたが、それまでの参道は狭く、しかもお城の堀の手前で行き止まりでした。そこで御一新(明治維新)を期に、氏子の人々が協議し、先づ参道を唐津の中心たるべき道路に直結し、更に拡幅するという大事業が行われました。県より公有水面埋立許可を得て、氏子民の労力奉仕により、大通りと参道が直接結ばれました。(埋立て部分と参道の拡幅した部分は唐津町へ上地しています。)
 勿論、明治になってからのことですので、大手門は解体され、新しい時代と共に曳山順路も新しくなりました。新しい参道を通って曳山勢揃いが始まりました。
 さて世の中は、どんどん発展して、これまで各町内にあった曳山小屋は、いろいろな理由で町の発展の負の要因(年中扉が締っているので商店街としての街並が止切れるとか、防災上出し入れが困難等々)のこともあって、移転して集団で管理することとなりました。つまりこれが、昭和三十六年頃まであった、明神小路の曳山小屋で十ケ町の曳山が納められていました。この敷地は、参道拡幅に際しこのような事態に備えるべく神社が神社の境内地として確保していた縁地で、曳山町内へ貸与されていました。ですから、ここに曳山を格納していた町内は、この時から、神祭の際はここから曳山を町内へ曳き帰るという行動が一つ増えたことになります。ここに曳山小屋が出来てから、曳山勢揃はこの曳山小屋の前になりました。(図V)
 このころの宵曳山は勿論勝手曳きで、灯りは蝋燭提灯、曳子は法被の町内もありましたが、ドテラに下駄履きも多かったと聞いています。又、夜遅くまでくんち用品を扱う町内の曳山は、さしたる宵曳山はせずに、神事祭の朝を迎える町もあったそうです。

 
◎現代
 さていよいよ現代です。最初のところでも言いましたように、宵曳山が現在のような統一奉曳になった時期については、はっきりとしない部分があります。そのきっかけとなったのは次のようなことです。
 ある年の翌日祭は朝から雨でした。関係者種々協議しつつ時を待っておりました処、雨も小降りとなりました。そこで結局、午後から曳出と決し、所定の曳山全順路を曳き廻り、江川町休憩の頃は、夕闇が迫りつつありました。この時、いくつかの町内では急遽「提灯曳山」の飾りをして、曳き納めたことがありました。
 宵曳山は、午前零時以降のことですので、知る人ぞ知るというように、一般的ではありませんでした。ですから多くの人が、始めて提灯曳山を見て、これまでとは違う曳山を見て、これまでとは違う曳山の風情を再認識され、やがてそのことが、何とか皆んなで楽しめる宵曳山にしようということになりました。最初の頃の宵曳山出発は午後十時で、順路も東半分というものでした。その後四〜五年試行錯誤的宵曳山行事を経て、安全面、神幸祭等々に配慮して、午後九時発、更に午後八時出発、蝋燭からバッテリー方式へと提灯の中身も変り、幽玄の中にも華やかさを加えながら、唐津神祭曳山行事の開幕を飾るに相応しい賑やかな宵曳山になっています。
図T

江戸時代

 曳山社頭勢揃・曳出の図
図U

江戸時代〜明治

曳山社頭勢揃位置立図

神祭今昔譚B
            唐津神社社報 平成10年4月1日

 神幸順路
 唐津神祭は、伝統的なものを守りながらも、時代時代の変化・発展と共に、少しづつ変化しながら今日に至っています。特に神幸の順路は、神祭の根幹をなす重要なものですが、道路事情等のために、修正・変更を繰り返しつつ、しかも祭礼の本質を失うことなく、現在のように曳き続けられています。
 前号で、藩政時代(江戸時代)からの曳山社頭勢揃と社頭曳出しについて、順路・場所等を紹介しましたので、今回は、それから先の町々での神幸順路を紹介します。と申しましても、時代的には相当前後していたり、一時的なものかどうか等々判然としない部分も多々あります。
 神幸順路を現順路に従って、(T、東廻り・U、中廻り・V、西廻り) と三分割して話を進めることにします。又、大まかな時代区分として大昔、少し昔、近年としました。文中、西進東進とか右折左折は、すべて曳山の進行方向です。

 
大昔のころ
  T、東廻り
 町田川を境に、唐津城下町を東西につなぐ橋は、札の辻橋だけしかなく、新大橋は未だ無い頃。
◎大手口→八軒町(大手通り=左側は唐津城の堀(濠)で、柳堀と呼ばれていた。右側に八軒ほどの民家があり、このため八軒町と呼ばれていたようだ。)→本町通へ右折(南進)→京町通・札辻橋方面へ左折(東進)→札辻橋渡橋→魚屋町→大石町→水主町→宮島醤油先のX字を左大曲(西進)→材木町通→塩屋町(旧・通称=浦島通り)へ左折(南進)→魚屋町通へ右折(西進)→札辻橋渡橋→京町(西進)へ神幸。
  U、中廻り
◎京町通(今の京町アーケード街・西進)→紺屋町→平野町→新町通へ右折(北進)→浄泰寺前(ここは、唐津城下と西地区−名護屋方面−とをつなぐ交通の要衡で、名護屋口御門があり、神祭の時は、ここの広場を中心にして、サーカス、出店があり大賑いだった。ここから近松寺方面へは階段があり、神祭の時はこの石段に土嚢を積んで曳山道を作った。)を左折(西進)→近松寺前角右折(北進)→坊主町通(北進)へ進み、神幸祭日はお旅所へ、翌日祭日は江川町へ神幸していた。この頃国道二〇四号線(市役所前→西行→朝日町通り)はまだ開通していない。又、済生会病院前から朝日町通りへの道も開通していなかった。
  V、西廻り
◎@神幸祭
 坊主町通(北進)→西浜のお旅所へ(この頃、西浜お旅所の周辺は民家等は全く無く、大砂原であった。最初の三台(刀町・中町・材木町)は曳込競争をしていたようだ。お旅所での休憩は、各町それぞれに砂浜に幕を張り、曳山行列絵図にあるように『浜弁当』のお篭りをしていた。)
 さて、休憩の後、西の浜お旅所曳出→砂山の上にあった明神台(このことは次号へ)の西側真下を通り、今の福本税理士事務所前の通りを(南進)→江川町中央付近の変則五叉路より左折(東進)→江川町→坊主町通へ右折(南進)→近松寺角左折(東進)→浄泰寺前→各町へ帰る。神輿は大手口より大手門を経て神社へ帰る。(尚、お旅所から各町へ帰る時は、提灯曳山で曳いた。)
 ◎翌日祭
 お旅所へは行かず、坊主町角左折(西進)→江川町中央付近五叉路の道路上で大回転をし、後向きで藤生酒店方面の江川町西詰角まで一番曳山が西進し、二番曳山以降も、順次後ろ向きで(西進)=休憩=建制逆順で町内へ帰る。(この順路説明の概要は、田中冨三郎氏談を参考にした。)

 
少し昔のころ
 新大橋開通・国道二〇四号線(市役所前−朝日町方面へ)開通・富士見町通(通称−産業道路)開通・済生会病院前通り開通(産業道路と国道二〇四号線の朝日町との連絡道路)等々
  T、東廻り
 大手口→大手通(東進)→新大橋渡橋→材木町(東進)→宮島醤油の先のX字角右大曲(西進)→水主町→大石町→魚屋町(西進)→札辻橋渡橋→
 というように、現在の順幸順路になった。
 尚、しばらくの間、宮島広場(宮島醤油の駐車場)を大曲りしていた時代が続いたが、旧来に復している。
  U、中廻り
 札辻橋渡橋→京町(西進)→紺屋町→平野町(西進)→新町へ右折(北進)→浄泰寺前角右折(東進)→刀町通(東進)→大手口広場左大曲→国道二〇四号線(西進)…
  V、西廻り
 国道二〇四号線坊主町角を右折(北進)→
 @神幸祭
 →西の浜(お旅所)へ曳込み。(この頃より浜には建物が建ち始めている。)
休憩の後=お旅所曳出し→明神台砂山の真下(斜め南進)現在の福本税理士事務所前通(南進)↓江川町五叉路左折(東進)→江川町(東進)坊主町へ右折(南進)→国道二〇四号線へ左折(東進)→大手口→各町へ帰る。
 その後、済生会−朝日町道路開通により、江川町五叉路を右折(西進)→江川町西詰角を朝日町方面へ左折(南進)→国道二〇四号線へ左折(東進)→朝日町通(東進)→大手口から各町へ帰るとなった。
 又、富士見町通開通の後数年間は、何台かの曳山が砂場に入るだけで、あとの曳山は道路上に据曳山だったこともある。
 更には、富士見通開通及び、砂山上の明神台移転等により、お旅所から江川町五叉路への神幸が不可能となり、 お旅所曳出→富士見町(通称・産業道路へ(西進)→西浜町入口角左折(南進)→済生会病院前通りを南進し→江川町西詰角左折(東進)→江川町(東進)→坊主町角右折(南進)→この時、田辺産婦人科病院前を通る曳山もあった。→国道二〇四号線へ左折(東進)→大手口→各町へ帰る。
 この頃、西浜町入口両角には、町内より大幟一対が建てられていた。又、神田区入口にも区より大幟一対が建てられている。

 ◎翌日祭
 現・坊主町郵便局角左折(西進)→江川町(西進)=江川町西通で休憩=曳出→江川町西詰角左折(南進)→国道二〇四号線へ左折(東進)→朝日町通(東進)→坊主町信号機直進→大手口→各町へ帰る。

 
近 年
 大手口ネオン・京町アーケード・同カラー舗装・歩道橋・猫川架橋等々
 大手口に、広告ネオンサインが建設されることとなり、曳山通行に支障なきやと種々検討されたが、関係者の協議が整い、神幸に支障なきようになった。
  T、東廻り
 現在とほとんど同じ。宮島醤油先のX字角大曲が、しばらくは、宮島醤油広場(駐車場)U字型右大曲となっていたが、近年再び、旧来の、X字角大曲に復している。
  U、中廻り
 呉服町に続いて、京町にアーケードが建設されるにより、京町通の曳山通行が不可能になった。
 札辻橋→京町から町田方面への角左折(南進)→唐津駅前→平野町へ左折(西進)→新町へ右折(北進)→この先は、現在の通り。
 さて、猫川上に橋状が建設され、中町とつながったので現在のように、
 町田方面へ(南進)→京町方面へ右折(西進)→中央交番前通過→中町へ右折(北進)→中町通→中町北詰角左折(西進)→大手通→刀町→米屋町へ左折(南進)→米屋町→平野町へ右折(西進)→新町へ右折(北進)→浄泰寺前角右折(東進)→刀町(米屋町への角まで)=ここで、全曳山の米屋町入りの後、再曳出→刀町(東進)→大手口広場左大曲(西進)→国道二〇四号線(西進)となった。
 尚、京町通り、カラー舗装により、路盤維持のため初年だけ通行出来ず、札の辻橋→京町→本町へ右折(北進)→大手通りへ左折(西進)→現在のようにした年があった。
  V、西廻り
 国道二〇四号線→坊主町へ右折(北進)→
 @神幸祭
 西の浜お旅所曳込み(休憩)の後、曳出。
 大成小児童のためを主目的として、歩道橋が建設された。曳山の高さだけの空間がなく、曳出し後、富士見町→西浜町入口→への神幸が不可能となった。
 曳出→産業道路へ左折(東進)→直近の角を坊主町へ右折(南進)→坊主町郵便局角右折(西進)→江川町(西進)→江川町西詰角左折(南進)→国道二〇四号線へ(東進)→坊主町信号機直進(東進)→大手口→各町へという、現在の神幸順路になった。

 ◎翌日祭
 国道二〇四号線を坊主町へ右折(北進)→坊主町郵便局角左折(西進)→江川町(西進)=休憩=曳出→神幸祭と同じ神幸順路で大手口へ。
 さて、昔は各町内にそれぞれ曳山小屋があり、大手口より、曳山は各町へ帰っていた。しかし、種々の事情で統一曳山小屋、さらには、現在の曳山展示場が建設されて、曳山が各町へ帰るのは、神祭前日(宵曳山出発まで)と、神祭当日の夕刻〜翌朝までとなり、翌日祭の夕刻の、曳山展示場への曳山の曳き納めで、唐津神祭の全ての曳山行事が終了する。
 このように、神幸順路は時代の変化や町の発展を見届けながら、少しづつ変化してきています。しかし、その中でも変わらぬものがあります。それは、曳山十四ケ町(総行司町であれば十六ケ町)の町々を、いずれかの方法でではありますが、すべて神幸するということと、西の浜お族所への神幸があるという二点です。
 これからも、神幸祭の本質を大事に守りながら、唐津の人々の心意気を唐津神祭に託して守り伝えて参ります。

唐津神祭今昔譚C
        唐津神社社報 平成10年10月1日



 御旅所・明神台

 御旅所とは神幸(神様が通常の御殿を出られて、氏子の町を廻りながら、それぞれの発展を愛でつつ恩頼(みたまのふゆ)をお授けになるのに際して、ある特定の縁地にとどまられて、最大の祭典を齋行する最重要な聖地を、御旅所といいます。
 唐津神祭の場合は、唐津の大神の御顕現の縁地であります。西の浜辺をいいます。又、唐津大明神の神号を賜った神縁により、明神様のおとどまりになるところとして、明神台ともいいます。因に、神輿が神社を出発されるのを、発輿(はつよ)、御旅所までを渡御(とぎょ)、御旅所到着を着御(ちゃくぎょ)、御旅所から神社までを還御(かんぎょ)といい、発輿に際しては、発輿祭があります。
 唐津神祭の御旅所(明神台)は、西の浜辺です。
(今は、唐津市立大成小学校の校庭の一部になっていますが、気持としては、正真正銘の西の浜辺だと思っています。)この西の浜辺こそ唐津の大神様が臨御され、祀り創められたという唐津神社御鎮座の聖地です。
 さて、御旅所は神社にとりましては、神幸祭(唐津くんち)の最重要の聖地です。軽々に動かしてはならない神域です。ではありますが、残念ながら、世の中の推移と共に、移動せざるを得ず、少なくとも四回の移転を繰り返して、現在に至っております。その間、終戦直後の神社制度の大変革の際には、御旅所は年間のうち、数時間の場所だから、神社にとっては最高の縁地とは言え、境内とは認め難しと判定され、一時は民有地になってしまいました。佐賀郡富士町の所有者と、何回となく交渉を続け、ようやく御旅所、曳山曳込の聖地を認めて貰いました。そして何よりも、この地を御旅所として確固たる聖地にしてもらったのは、篤志者より御旋所付近を境内地として奉納されたことによります。
 それでは、時代順に、その移転の歴史を記してみることにします。

 @西の浜辺(最初)
 社伝によれば、「この頃御神幸始まる」とあるが寛文年間(西暦一六六一年〜
一六七二年の間)と、されています。勿論、これより以前も祭礼は続けられていましたし、賑い的なものも
あったのでしょうが、都風の、前後左右整った神幸行列が始められたのが、寛文の頃と伝えられています。
 更に記録によれば、御神幸の御旅所は「黒船焼打の際、砲台を築きし跡なりし」とあります。この場所を現在の状況に合わせてみますと、恐らく、大成小学校の校舎付近ではと考えられています。
 その構造は、石垣造りで大神様が、海より御臨御された神話にもとづいて「北の方−海の方−を正面とし、神輿は、西側に一の宮、東側に二の宮を安置すること古来の例なり」とあります。曳山は、その後方の広い砂地に、南部より北部へ刀町〜新町が、西側に東向で勢揃いし、本町〜水主町・江川町が、東側に西向で勢揃いするものとなっています。
 ちょうど、曳山行列図のような形であったろうと思われます。この御旅所は、大正十年九月を以って閉鎖され、新御旅所へ移転することになりました。

 ◎南の高台(砂山上)
 先の砲台の跡の御旅所は砂浜の低地であり、台地等より衆人俯瞰の地である等々、当時の人々の考えが強く、又、参拝の便なるを図りたいとして、更には、軍隊の演習及び飛行機滑走路等に障害になる等、当時の世相、世論の高まりの中で、神意と民意にかなう最適の地を、ト定して移転することになりました。
 その所が、砂山の上の高台の御旅所です。場所は、旧来の御旅所地より南へ四十三間の所となっています。旧、西高校の校庭に隣接した砂山状の高台で、玄界灘を一望に臨める景勝の地でありました。ちょうど、今の大成公民館あたりだと思います。
 この高台の御旅所の構造は、高さ四尺の花崗岩の石垣台地で、面積六十坪とあります。その工費、金七百余円は氏子の浄財を以って賄われたと記されています。
 この高台の御旅所での神輿の位置は、旧来の御旅所と同様で、海を臨まれて北面され、西に一の宮、東に二の宮でした。しばらくの間は、御旅所の上に覆いをかけて風雅なものでしたが、砂が落ちてきて大変でした。又、奥には臨時の控室もありました。
 さて、この頃の曳山は、御旅所の前面の広大な砂地に、海を背に南面して、西側より刀町〜東側へ水主町江川町と弧を描いて勢揃いしていました。曳山の順序は、建制順を侵すべからずが大原則であります。しかし、この頃この広大な西の浜御旅所への曳込みの時だけ、前曳山三台−即ち、刀町・中町・材木町−は、曳き込み競走をしていたように思います。
 さて、このころの西の浜御旅所からの曳出しは、曳き込み同様、若しくはそれ以上に力漲る場面がありました。
 現在の通称「産業道路」は、完全な道路とは言い難いような道でした。曳山は先ず曳き出されて、この道路上に一旦出てきます。そしてそれから再び砂場へ入ることになります。ちょうど砂山の高台の御旅所の西側真下になる所です。この砂場は、意外に深く、しかも当時の曳子は各町とも、今のように大勢ではありませんでしたので、曳山はこの第二の砂場から動けなくなるほどでした。その時、、采配一振前後の曳山町内から曳子多数が加勢し、曳山は何事もなかったかのように、江川町方向へ進み出すということを、各町が繰り返しなから、力、気合のある見せ場であったように思います。
 この御旅所も、やがて移転せざるを得なくなりました。

 ◎西の浜辺(近年)
 最高の場所と思われていた、高台との御旅所でしたが、県立唐津西高等学校の運動場拡張と体育館建設と
いう一大事業のため、昭和三十二年で廃止、移転することになりました。こうして御旅所は、旧来の地に近きあたりに移転しました。 構造は、高台の御旅所を基本的に移設しましたので、花崗岩の石垣造、高さ四尺の立派な御旅所(明神台)でした。
 御旅所は曳山勢揃の位置と同列のところになりました。これを機会に、神輿はこれまで海を正面として鎮座していましたが、廻れ右とでもいいましょうか、南面し、西に一の宮、東に二の宮となりました。
 そして曳山は、西側に南から刀町〜新町、東側に南から本町〜江川町という古式の姿で勢揃いすることになりました。
 更に、曳山の順路(帰り)も変更になり(大成小学校もなければ横断歩道橋もない)産業道路より西進(富士見町通り)して西浜町角から左折南進し、江川町へとなりました。
 この御旅所では、昭和天皇陛下が曳山勢揃(臨時祭を奉仕し勢揃する)を、天覧″されるという栄を賜りました。このような一大吉事もあり、御旅所移転三度目にして、ようやく恒久的聖地になったと、関係者一同、大いに安堵したものでした。

 ◎西の浜辺(現在〜)
 さて、恒久的御旅所と安心したのも束の間で、またまた移転(撤去)せざるを得ずということになりました。
 昭和三十五年には早くも移転の話がありました。それは、現在の如く、西の浜辺に大成小学校が建設されることになり、その校庭の真中に御旅所があることになることになり、市当局は勿論、神社、総代、曳山、神輿、学校、PTA、地区等々の話し合いの結果、ついに昭和三十七年、石垣造の御旅所を撤去されてしまいました。その石垣の一部が今も境内の一部にありますが、感無量なものを感じます。
 幸い、唐津市御当局の御配慮を得て、「毎年、仮設式御旅所を同じ位置に設置撤収すること、その費用は市が支弁する等を約定し現在に至っております。


 こうしてみてみますように、御旅所は四度の移転を繰り返しながらも、その場所は、聖地のほど近くであり、神幸そのものの本来の姿を変えることなく、祭は盛大になってきています。
 これらは、とりもなおさず、この四度の移転に際して時代時代の関係者の努力の賜物であります。こんなやりとりもありました。
 (大成小建設の頃)
係官「…この広場(御旅所のこと)は、たった三時間のことだから、道路上に曳山は…」
氏子「…唐津人は、その三時間のために一年をかけている…(この発言者は曳山町内の人ではない。)…」
 このように、御旅所には唐津人の神幸祭に対する一途な思いがこめられています。その時代、その場所を超越して生きつづけている心が「くんち」の源泉なのだと思います。


 御旅所の本来の姿は、海を臨まれる海辺に近きあたりです。いつの日かを思いつつ、本年の神祭の安全と盛儀を祈っています。


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