大島家文書目録 大島邸保存の活動経緯メモあり 大島邸に関するうちのぼちぼちブログはこちらです。 大島邸・大島家に関する掲示板はこちらです。 大島邸保存に関する新聞記事はこちらです。 (このサイトは唐津の大島邸保存運動が始まった頃に作りました。 ) |
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このまま黙っていては、 唐津の大切な遺産を なくしてしまいます。 平成22年度大志小学校建て替えに伴い、この大島邸を取り壊し、そこに新たに小学校を建てるということを行政は決めています。 立て替えるには仮校舎が必要になりますが、現在の校舎を使いながら、隣接する大島邸のお屋敷を崩して、そこに新校舎を建てる計画です。 仮校舎を建てる為には5000万円ほどの費用がかかるそうで、それがこの計画では節約できるという計算です。 7年前の小学校合併で使わなくなった大成小学校が目と鼻の先にあります。ここを仮校舎として利用すれば、何も仮校舎を建てる必要もありません。ただ移動の手間が一つ増えることになります。それにかかる費用がどれほどかは分かりませんが、その手間と費用と子供達の安全と唐津の文化のこと等を考えると、安易に大島邸を取り壊してしまわずに、手間を惜しまずに一旦旧大成小学校に移って、現在の校舎を崩してその場所に新校舎を建てていただくと全く問題ないと思います。 何とかしてこの計画の変更を訴え、文化遺産を残しながら小学校の建て替えをしていただきたいという一念で、「大島邸を残す会」が発足しました。 |
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大島邸を残す会 私たちは唐津に生活して、唐津をこよなく愛している、ごくごく普通の市民の集まりです。 2010年に西城内の大島邸が大志小の校舎改築の為取り壊される計画と聞き、大島邸の存続の為、この会を立ち上げました。 唐津の城下町の佇まいを残すはずの城内地区ですが、近年古い屋敷の取り壊しが進み、非常に無残な状態です。 特に、西城内はマンションの建設が進み、大島邸のみが唯一のお屋敷として残っている状態です。 この大島邸が大志小になり、屋敷とこんもりとした庭の木が無くなるともはや、城内とは言えない状態です。 大島邸を存続させる必要性としては、 ①大島邸が唐津に残っている唯一の武家屋敷であり、江戸の建築様式を残す、全国的に見ても非常に貴重な建造物である事 ②大島邸が無くなる事により、西城内の景観が著しく悪くなる事 唐津は、意外に緑が少なく大島邸の庭は貴重な緑です。 ③大島小太郎の業績、幕末に唐津藩の財政を守った父興義、唐津の現在の礎、鉄道、電気、港、銀行を作った小太郎氏父子二代に渡る、唐津市への貢献度 ④観光ルートとして、唐津銀行、高取邸、大島邸、と回遊出来、唐津神社、曳山会館にも近く格調の高い散策ルートとして最高です 又、三流派の茶会、華展、唐津焼の展示、俳句の会、ミニコンサート等色々な活用が考えられます。 ⑤ 稀に見る大島邸の茶室の様式など、この江戸時代のタイムカプセルでもある貴重な建造物を取り壊すことは、唐津の人の良識の無さを世界中の人に疑われる事になりかね無いと思います。 以上5つのポイントを考えると、やはり大島邸の存続は必要と考えますので、私達にどれ程の事が出来るか解りませんが、皆様のご協力を頂いて貴重な歴史上の建造物である大島邸の存続に努力したいと思います。どうぞ、お力をお貸し頂きたく存じます。 大島邸を残す会 代表 辻いく子 |
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大島邸保存要望書 大島邸を残す会 代表 辻 いく子 旧大島邸は、春には大志小学校の建て替えの為に取り壊される事になるとの事でございます。旧大島邸は明治12年頃に建てられた珠玉の近代和風建築物で、唐津の百年の足取りを振り返るような木造タイムマシンでございます。 特に茶室は稀に見る遊び心溢れた貴重な建造物で嘗て京都の相国寺の有馬頼邸様が相国寺に引き取りたいと申し出られた程の物で御座います。 書院のあつらえも、檜の一枚板、美しい欄間、節一つ無い選りすぐりの材料、又匠の仕事の美しさ等、全国的に見ましても何処に出しても恥ずかしくない建造物で御座います。豊かな緑の庭は樹齢100年を越す樹木や素晴らしいつくばい、五輪塔、手水鉢、灯篭等があり、今の西城内にとっては非常に貴重な城下町の景観でございます。唐津が観光の目玉として、高取邸、唐津銀行を整備したのであれば、大島邸はまさしく、観光の目玉になる貴重な唐津の宝であると思います。本物の価値と誇りを見出し質の高い観光ルートとして整備して頂きたいと思います。尚、大島小太郎は唐津銀行の創始者であり、明治の疲弊した唐津に鉄道を轢き道路を作り、港を整備した唐津の偉人です。どうぞ、城内の景観保存、観光唐津、又、大志小の子供達の情操教育の為にも大島邸を壊す事は止めて頂きたく存じます。大島邸の保存運動を昨年より始めましたが、唐津以外の多くの方々も非常に感心を寄せて頂いています、全国的に今は歴史的な良い物を見直し、大事にしようと言う流れの中で、何ゆえ唐津だけが、このように無謀で見識の無い事をするのかと憤慨なさっていらっしゃいます。又、佐賀市は市民1人1本の木を植えると言う運動をして26万本の木を植えようとしているのに、唐津は美しい樹木の庭を事も無げに更地にしてしまうお考えで、悲しく恥ずかしい限りで御座います。どうぞ、もう一度ご検討頂きたく存じます。 |
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署名運動を行ってまいりました。 小学校の建て替えという公共工事の中止を訴えているのではありません。
大島邸を保存したうえの小学校建て替えに変更していただくための訴えです。
それぞれのお立場でなかなか署名が難しい方もいらっしゃると思いますが、唐津の誇りを捨てないためにも是非勇気を出して大島邸を崩してはダメと言ってください。
とこのように訴えてきました。 大島邸を残す会の署名、ネットによる署名に多くの方々のご賛同を頂き、数多くの署名を頂戴しまして誠にありがとうございました。 (ネット署名は6月30日をもちまして終了いたしました。) |
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また、要望書ならびに署名用紙をPDFファイルにしてご覧いただけます。 ここをクリックしていただき印刷してください。 ご賛同いただける方々のさらなるお声かけをよろしくお願いいたします。 こちらの署名も終了いたしました。 |
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大島家のゆかりの方からのメッセージです。 |
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はじめまして、私は今広島に在住していますが、大島家縁のものでございます。 大島小太郎の嫡男・裕の甥で、小太郎は大伯父にあたります。大島家に子どもがいなかったため、私が大島家の資産管理にあたりました。大島家について調べることがあり、インターネットを開いておりましたら、皆様の「大島家保存運動」を知り、筆を取らせていただきました。 大島家の資産整理にあたり、私のスタンスは「大島家の歴史と現在は、決して大島家のものではなく、私ども相続権者のものでもない唐津市と市民のものである」というものでした。 当時、瀬戸市長さんに御眼にかかった折、「私の相続分を唐津市に寄付したい」と申しし出たところ瀬戸市長さんは「史跡として保存したいと思うが、あなたの分だけ寄付してもらっても埒があかない。他の相続権者の分も、寄付してもらえるようまとめてもらえませんか」といわれました。当時資産相続権者は20人におよび、その整理に10年余という長年を要しましたが、「寄付」について私の力不足で権者の意思をまとめることができませんでした。 あの屋敷には歴史が詰まっています。裏庭にあった倉庫が崩れ今は土に埋まりましたが、20数年前、私はその跡地から「高橋是清」差出の封書を見つけました。もはや倉庫あとは朽ち果て汚泥化しているかもしれませんが、あれでも長持がみつかり、その中から歴史のおもわぬ証言が見つかるかもしれません。 茶室ですが、京都の相国寺の住職、有馬頼底師に見ていただいたことがあります。師は「当寺でひきとりたい」とその価値を認めてくださいました。黒檀の床柱をご覧ください。刃物を受け付けないという堅固な黒檀に、職人が数年がかりでいどんで完成させたすばらしいものです。 このような話は歴史の片隅の一端でしかありません。大島家の歴史は、唐津とともにあり今地域がどのように歴史が引き継ぐかが問われる時にあると思います。 資産の整理後、幾度かあの屋敷あとにたたずみ、哀しみにくれたことがありました。ゆかりの私どもが、歴史の重みと地域の想いを顧みず、何もして差し上げられなかったことを恥ずかしく思います。 繰り返しますが、大島家は、唐津の歴史と共にあり、その形が無残にブルドーザーで打ち壊されることにいたたまれない気持ちでおります。 市長様、市議会の皆様、市当局のご担当者の方々、そして唐津市民の皆様、小さな地域社会ですから互いに傷つけあわず、知恵を尽くして地域の歴史と遺産を守り継ぐ方策を探っていただきたいと心底から願っています。 PDFファイルはこちらです |
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平成21年9月20日 大島邸にて「さようなら 大島邸 ありがとう 茶会」が(社)茶道裏千家淡交会唐津支部の主催で行われました。 その時の記念誌をネット化してしまいました。 後日支部長さんにご挨拶いたしたいと思います。 |
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茶道宗偏(ギョウニンベン)流の歴史と唐津・佐賀の門人たち 唐津市史編纂委員 岩下 忠正 一.小笠原藩と宗偏(ギョウニンベン)流佐賀藩の門人 唐津藩主小笠原氏は、清和源氏の流れで、新羅三郎義光を祖とする小笠原忠光は、三州吉田4万5千石の領主のとき、侘茶の興隆を志し、千宗旦の推挙により、宗旦の四天王の1人山田宗偏(ギョウニンベン)(不審庵 力囲斎周学)を茶頭として召し抱えた。 時に明暦元年(1855)宗偏(ギョウニンベン)29歳の春であった。文政元年(1818)忠知の曾孫、主殿頭長昌は唐津6万石の領主転封され、唐津城主小笠原氏の祖となった。 小笠原家の茶席、宗偏(ギョウニンベン)流5世宗俊も唐津に移り住んだ。これが唐津における宗偏(ギョウニンベン)流茶風の芽生えであり、源流となった。以来宗俊は茶頭として、2代長泰・3代長会に仕え、天保6年(1835)に逝去した。 その後唐津の宗偏(ギョウニンベン)流茶道にも栄枯盛衰があったが家老西脇東左衛門らの尽力により6世宗学・7世宗寿尼が茶頭として仕えた。このころ、名器の「献上唐津」が生まれ、外威の小笠原長輝らが月を見、花を楽しみ、茶を嗜んだのが下屋敷の「江月楼」であった。その後明治維新の人心荒廃期となり、茶道も地に落ちた。 しかし旧藩士で茶人の大島輿義や茶坊主の中村宗珉が宗寿尼を助け、茶道宗偏(ギョウニンベン)流の復興に努めた。明治13年(1880)、宗寿尼は、大島興義と茶坊主の中村宗珉へねんごろに後事を託して上京した。 大島興義は初代城主長昌に従い勘定方として奥州棚倉より唐津に移って来た家柄の人である。彼は茶道を5世宗俊に学んだ大茶人であった。又宗寿尼は、深山幽谷の様な大庭園を通り、幽*(スイ)なる古木の路地の奥にある大島家の茶室を「敬日庵」と名づけ、宗寿の名と花押を添書きした盆点の「松ノ木盆」を贈っている。 又献上唐津の茶碗に、藩の御用絵師長谷川雪塘が初日を描いた「日の出茶碗」が秘蔵されている。又、杵島炭鉱社長高取伊好とその養子高取盛も中村宗珉を応援し、伊好の妻昌子、盛の妻静子、その娘綾は共に宗珉の門に入り、茶道に勉め、昌子は松風庵宗音と号し、師範代を允許され、綾も宗珉に入門して、唐津小学校裏の伊沢家の茶室で小学生の頃から宗珉に茶の湯を学んでいた。 今日茶道宗偏(ギョウニンベン)流佐賀支部長の重責にある微笑庵宗幽その人である。佐賀に於ては、肥前公鍋島信濃直公は、終身斎と号しその夫人楽只亭も共に水谷義閑の門でいずれも皆伝を受けている。 藩士志波四郎次は、文政の頃4世宗也の門人となり、廊雪庵と号し皆伝の茶人であった。侍医久保文斎は嘉永6年、6世宗学の門人となり皆伝を授与されている。 二. 中村宗珉 今日の唐津宗偏(ギョウニンベン)流の基礎を築き隆昌に貢献した。心外庵宗珉中村義宝は、天保14年3月晦日唐津城内大名小路にて生まれた。父は信州の人で中村甚五兵衛の3男で中村忠吾といい、小笠原の分家(長行の季父)修理頭長光(朱門公)の御膳職を務めていた。安政六年8月宗珉17歳の時、主君長光の命により、家老高畠勘解由に随い、江戸に出府し、茶道宗偏(ギョウニンベン)流6世山田宗学の門に入った。 修行勉励7ヶ年遂に皆伝を許されて、慶応元年旧11月唐津に帰った。翌2年正月27日長国に召抱えられ御役部屋坊主御雇を仰せつけられた。元治元年正月27日すでに兄唯之助より分家していたので坊主町(現坊主町郵便局辺り)に居宅を賜った。同年12月25日御役部屋坊主茶道見習を命じられ知行高5石2人扶持となり明治元年12月26日には、列座末席となり六石2人扶持の知行となった。明治3年12月に現米36俵の知行となったが廃藩置県で失禄した。 かくて世は幕末、明治維新と動乱期が続き、茶道は顧みる人もない状況であった。然し宗珉は節を屈せず門流を守り通した。7世宗寿尼が唐津を去って上京して以来、流派は愈々衰微に陥ったが、旧藩士大島興義始め、僅かに残った門人の太田橘衛、南大鑑、寺沢大典(近松寺元住職)等と復興に努めた。そして唐津町は勿論佐賀・伊万里・相知・武雄・鹿島・浜・久留米・広島まで出向いて流派の普及発展に献身努力した。 この姿に感銘した高取伊好は、積極的に援助の手を伸ばし、武雄宗叙、小関宗代、多久島宗仲等の門人も宗珉を助けて宗偏(ギョウニンベン)流の興隆に努めた。然し門人中に確執を生じ、宗珉も宗偏(ギョウニンベン)流の祖式に反するとして家元8世宗有に意見書を提出し、門弟の反省を促した事もあった。 家元8世宗有はトルコから帰朝後宗珉の功労を賞して師範代の栄誉を贈った。 又宗偏(ギョウニンベン)流門人譜の中に6世宗学の直門として明記されている。然し大正9年2月13日陰居し家督を長男の宗亀に譲ったが、宗亀は茶道に志す意志がなく、遂に宗珉夫妻は宗亀の勤務先の福岡県飯塚町鯰田三菱炭鉱の社宅に移り、妻マツは大正9年7月31日その社宅で死去した。 宗珉は再び唐津に帰り親戚の本町大西猪之太郎の家で大正13年12月11日、82歳の天寿を全うして人生を終っている。 墓所は近松寺にあるが、恵まれざる晩年であったようだ。宗珉の門弟は各地に広がりその数300人を越えるほどであった。 宗珉より後事を托された高弟の武雄宗叙は功績を不朽に讃えんと、その碑の建立を発起した。偶々高取伊好はこの美挙に賛同され、大正15年7月27日近松寺にて建碑除幕式が行われた。 碑面の文字は8世宗有の筆であり、碑の裏側には このめにる かほり高しも とこしえに くらせぬ御名を あふく石文 門弟 さい子 いつ来ても 静かなるかな 松の風 門弟 志づ子 武雄宗叙 高取品子 建立 と書かれている。 除幕式は観月庵宗叙の献茶で始まり、高取綾の手で除幕が行われた。 終り。 |
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宮島醤油さんのホームページにも大島小太郎に関してUPしていらっしゃいます。
唐津市近代図書館は平成8年に出版した「郷土史料目録Ⅱ」には江戸末期から昭和に至るまでの莫大な数の大島家文書が納められておりました。これらを見ると現代唐津の産業・文化の礎は大島家が全てにおいて拘わってきたことが明らかです。 |
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次は大島邸に関する私のブログを載せてみました。 また、書き込んでいただきましたコメントも皆様の生の声として載せさせていただきました。 ご了承下さい。 クリック! |
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中里紀元先生の史料をご紹介します。 大島家の歴史と功績 1、大島小六(太政衛門、興義)小笠原長昌-文化14年(1817)奥州棚倉より入部 役職-勘定方、紙方組頭(文政年間) ・北方代官、御金奉行、山奉行(天保9年10月厳木幕領一揆) ・紙方奉行(天保13年6月) ・御金奉行(天保14年4月) ・御勘定目付(安政6年9月)-1859 江戸時代の唐津藩の重要産業-紙、捕鯨、木ろう、石炭、(酒)藩の御用商人の強大化 明治時代-1868年9月8日 ・小笠原長国東京への退去、長行の北海道逃亡 ・重臣も唐津を去る(城内の空き家)明治5年の藩札処分不正事件 ・御用商人の倒産、藩の莫大な御用金の未払い ・大島興義の産業復興-御金奉行 ・明治3年「司計大属」-藩政改革 残務整理 ・紙方専売事業、浦方会所の魚会舎組合、明治6年 2、大島小太郎(興義の長男1859年安政6年~1947年昭和22年) 藩学校(耐恒寮)で高橋是清に英語を習う ・東京、三菱商業学校、二松学舎 ・唐津銀行の設立、明治18年10月 大島親子の尽力、大石町商人の協力 ・唐津興業鉄道株式会社、明治29年10月-唐津線の起工式 妙見、厳木開通-明治32年-石炭-高取伊好 ・唐津港(西唐津港)の開港-松浦川口の船運から鉄道 ・唐津銀行新本店、明治45年4月15日(1912)移転新築 辰野金吾監督、田中実設計(1年7ケ月余の竣工) ・呼子県道、浜崎福吉間海岸道路 ・九州鉄道、北九州鉄道 ・特設電話、唐津電灯1885年~5年間県会議員 ※参考文献 佐賀県銀行史(佐賀銀行)佐賀大百科事典(佐賀新聞社) 大島家の歴史と功績 1、大島小六(太政衛門、興義)小笠原長昌-文化14年(1817)奥州棚倉より入部 役職-勘定方、紙方組頭(文政年間) ・北方代官、御金奉行、山奉行(天保9年10月厳木幕領一揆) ・紙方奉行(天保13年6月) ・御金奉行(天保14年4月) ・御勘定目付(安政6年9月)-1859 江戸時代の唐津藩の重要産業-紙、捕鯨、木ろう、石炭、(酒)藩の御用商人の強大化 明治時代-1868年9月8日 ・小笠原長国東京への退去、長行の北海道逃亡 ・重臣も唐津を去る(城内の空き家)明治5年の藩札処分不正事件 ・御用商人の倒産、藩の莫大な御用金の未払い ・大島興義の産業復興-御金奉行 ・明治3年「司計大属」-藩政改革 残務整理 ・紙方専売事業、浦方会所の魚会舎組合、明治6年 2、大島小太郎(興義の長男1859年安政6年~1947年昭和22年) 藩学校(耐恒寮)で高橋是清に英語を習う ・東京、三菱商業学校、二松学舎 ・唐津銀行の設立、明治18年10月 大島親子の尽力、大石町商人の協力 ・唐津興業鉄道株式会社、明治29年10月-唐津線の起工式 妙見、厳木開通-明治32年-石炭-高取伊好 ・唐津港(西唐津港)の開港-松浦川口の船運から鉄道 ・唐津銀行新本店、明治45年4月15日(1912)移転新築 辰野金吾監督、田中実設計(1年7ケ月余の竣工) ・呼子県道、浜崎福吉間海岸道路 ・九州鉄道、北九州鉄道 ・特設電話、唐津電灯1885年~5年間県会議員 ※参考文献 佐賀県銀行史(佐賀銀行)佐賀大百科事典(佐賀新聞社) 唐津茶道宗ヘン流と大島家及び後援の人々 1、小笠原家と宗ヘン流 小笠原忠知(三州吉田の藩主)の茶頭 1世 山田宗ヘン(宗旦四天王の一人)- 3代千宗且の推挙 1小笠原長昌(唐津藩主) 2代 長泰 5世 山田宗俊--娘婿(磯野)宗弥 3代 長会 家元断絶 4代 長和(よし) 6世 山田宗学(義明)-支流吉田宗竜門弟 5代 長国 唐津在住 養子宗叔(離縁) 長行(江戸幕府家老) 宗寿尼(宗学の妻)唐津 長久(大名小路、茶室「高月楼」) 外戚 長光(長久の祖父)朱門公 2、大島家と宗ヘン流 ・ 中村宗珉(義宝) 17歳宗学の門に入る、朱門公推挙 慶応元年帰唐(茶坊主) -明治初年宗ヘン流衰微- ・大島興義の援助-大島邸「敬日庵」茶室 -宗寿 上京(明治13年) 大田橘衛 南 大鑑(光孝寺)多久島宗仲 宗珉の弟子 300人 寺沢大典(近松寺) 相知 武雄、蔵宿、 大島小太郎 妹 大島宗叙(武雄) 鹿島、浜、久留米、 妻 鎮子(敬日庵) 弟子 溝上宗栄 熊本、広島 ・ 高取伊好の援助---(大島家と宗珉門人の援助に感銘して) 妻 品子 高取盛 (松風庵宗音 妻 静子(翠松庵宗静)---娘 綾(微笑庵宗幽) 伊沢家の茶室で習う (佐賀県宗ヘン流会長) ※参考文献 「末廬国」(松浦史談会) 「茶道宗ヘン流の歴史と唐津、佐賀の門人たち」(岩下忠正) 「宗ヘン流」(光村推古書院) |
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大島邸の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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オンライン署名のコメントだけを載せてみます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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大志小学校建て替えに伴い、唐津の遺産とも言うべき大島邸が行政の手によって今取り壊されようとしています。 大島邸は明治から昭和にかけて唐津の産業経済文化の基礎を作った大島小太郎の邸宅です。明治12年に建てられたこの屋敷と森は時を経て風格を増し、マンションや駐車場に姿を変えていく城内地区にあって本当の意味での唐津の最後のお屋敷になりました。取り壊しを反対すればシロアリの被害大との一辺倒の行政の返答です。3月の議会を通過すれば来年度早々には解体工事が始まります。解体した部材は資料として保管し記録保存すると言っていますが、解体したものは二度と復元することはできません。 行政が取り返しのつかない過ちを犯さないために、大島邸を残す会が発足し署名活動で行政に訴えています。決して小学校の建て替えに反対するものではありません。旧唐津銀行や旧高取邸以上の文化遺産でもあり、観光資源にも成り得るものです。唐津の品格を保つために大島邸をこのまま残したいと訴えています。 |
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平成23年1月4日 坂井俊之市長は4日の年頭記者会見で、移築保存の決まった旧大島邸の活用方法などを話し合う基本構想検討委員会を3月にも立ち上げる方針を明らかにされました。 今後の大島邸に関することは次のサイトをご覧ください。 |
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大島家文書目録 大島邸保存の活動経緯メモあり 大島邸に関するうちのぼちぼちブログはこちらです。 大島邸・大島家に関する掲示板はこちらです。 大島邸保存に関する新聞記事はこちらです。 |
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