大島家文書目録

 大島邸保存の活動経緯メモあり

 大島邸に関するうちのぼちぼちブログはこちらです。

 大島邸保存に関する新聞記事はこちらです。


大島興義・大島小太郎・大島邸・大島家に関する資料など未整理でアトランダムに貼り付けます。

大島小太郎

幕末唐津藩の財政を一手に受けた大島興義の長男として安政6年8月唐津に生まれ、明治16年7月に家督を相続す。藩英語学校耐恒寮で高橋是清の薫陶を受け上京、中村敬岸の二松学舎で学ぶ。明治18年唐津銀行の頭取になる。同年、県会議員となりその間呼子県道や浜玉、渕上から鹿家、福吉の海岸道路の開削に奔走。
九州鉄道、唐津鉄道、筑肥線の発起に参画。唐津電灯会社設立、唐津港開港の基礎を築いた。唐津魚会舎、肥前漁業の2会社社長。唐津貯蓄銀行、唐津土地建物、深川製磁その他数会社の重役として九州実業家の重鎮たり。
(郷土先覚者列伝より)

 山内薬局の掲示板より
題名:お尋ね  名前:ふじ2009/10/13(火) 07:39No.1182 
はじめまして。長崎市在住の大島小太郎のゆかりのモノです。
先日唐津の親戚筋より昭和10年に撮影されたビデオをいただきました。その中に大島小太郎翁の銅像除幕式の模様が写されておりました。一度その場所へ行ってみたいと思っているのですが、
もしご存知でしたら場所を教えてください。よろしくお願いいたします。

題名:Re: お尋ね  名前:山内薬局2009/10/13(火) 16:10No.1183 
はじめまして
昭和10年の映像。私は見たことがありませんので、何とも申し上げられません。もしよろしかったら、見せていただけませんでしょうか。
題名:Re: お尋ね  名前:ふじ2009/10/20(火) 20:23No.1184 
その後こちらでも調べましたところ、銅像除幕式映像の場所は唐津市鏡山だそうです。その後一族で神社(場所不明)に参拝する風景、石灯籠の感じから大島邸の庭園が映っているようです。

大島邸解体前にぜひ訪れたいと思っております。
 
題名:支局時代に書いたのですが・・・  名前:ton2010/02/16(火) 01:41No.1194 

 大島小太郎について、11年前に唐津時代に私が書いた記事があります。佐賀県の偉人を取り上げた年次企画で、県版で毎週日曜日掲載された「疾風人伝」の中で5回目の登場人物として掲載されました。確か30人を超える人物を取り上げました。なんであれ出版しなかったんだろう。残念です。
 小太郎さんの人物像に迫る資料も、つきあいのある生き証人もとにかく少なく取材には苦労しました。かすかに知っておられて取材した方々も、いまや他界されてしまわれました。したがって、想像力を働かせて読み物風に仕立てました。
 重要人物の証言、言葉を後世のために残すことは、記者としてとっても大切なことだと、そのとき痛感しました。余談ですが、昨年出版した「虫庭の宿」の溝口薫平さんの聞き書きも、由布院の町づくりの歴史を今のうちに語っておこうと思われた、薫平さんと私の思いが一致して実現したものです。

以下、長文ですが、「疾風人伝」を掲載させてもらいます。

1999年8月29日付紙面 
◎佐賀県/疾風人伝<5>庭石の配置 大島小太郎 近代唐津つくった是清の生徒−連載 「貿易港」を銀行で支える

■20世紀から21世紀へ 佐賀を読む■
 「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」
 巷(ちまた)にこんな歌が流れていた、一八七一(明治四)年。唐津城大手門前に現れた青年の異形に、唐津っ子が目をむいた。
 ざんぎり頭にフェルト帽、洋服に赤のネクタイ、手にはステッキ。唐津藩が設立した県内最初の洋学校「耐恒寮」の英語教師として招かれたこの男こそ、後の首相、「財政の神様」とうたわれる高橋是清の若き日の姿だった。
 「異人かぶれの若造が。唐津が汚れる」と、大人たち。だが、生徒の五十人の少年たちは、次々とちょんまげを切った。
 中に、唐津銀行頭取として明治以降の唐津の産業経済の基盤づくりに奔走した大島小太郎(一八五九―一九四七年)がいた。「オイたちが変わらんと、唐津は時代から取り残さるっばい」。小太郎、十二歳の夏。玄界灘にまばゆい太陽が照りつけていた。
 ▼原点
 小太郎は是清の授業に驚いた。会話は一切が英語。唐津湾に入った黒船に乗船し、船員相手に英会話の特訓。徹底した英才教育を受け、次第に世界に目を開く。
 幕末の唐津の町は人口約八千人。商人の町として栄え、唐津くんちの豪華けんらんな曳山(ひきやま)を競って建造した。しかし、廃藩置県で譜代藩主の小笠原長国や重臣が東京に移ると、豪商は没落する。この激動期の地方にあって、小太郎は西洋文化の新知識をむさぼるように吸収する。
 「西洋人に負けん建築家になる」「オイは化学者や」。同窓の少年たちは大志を描いた。後に日本近代建築の礎を築く辰野金吾。さらに曽祢達蔵(建築家)、掛下重次郎(裁判官)、渡辺栄次郎(化学者)、天野為之(経済学者、早稲田大二代目学長)…。小太郎は誓った。「じゃ、オイは唐津ば良か町にする」
 ▼拠点
 十四年後の一八八五年、小太郎の自宅を唐津の商人たちが訪れる。「オイたちにも意地がある。どうか、銀行設立に力ば貸してほしか」。これより三年早く、伊万里に地元の資本としては県内最初の銀行が誕生していた。
 小太郎は東京の三菱商業学校・二松学舎を卒業して帰郷。唐津藩御金奉行だった父興義が漁民の資金、販売援助のために設立し、倒産寸前だった「漁会舎」を再建させたばかり。その手腕を見込まれ、唐津銀行設立への協力と初代頭取就任を要請されたのである。
 小太郎も、大陸との交流拠点として栄えた唐津の将来性を見据えていた。「これからの日本は海外貿易が命。唐津も貿易に備えて産業基盤の整備が急務です。唐津銀行をそのための拠点としたい」
 商人たちに異論はなかった。小太郎、このとき二十六歳。
 ▼繁栄
 小太郎は唐津銀行の資金力を背景に、猛烈な勢いで走り出す。
 まず、唐津の後背地の相知、厳木の良質の炭坑に着目。倒幕運動にも参加した女性運動家、奥村五百子(愛国婦人会創設者)とともに唐津港開港運動に乗り出す。
 当時、国内の貿易港は横浜、兵庫、長崎など、わずかに六港。小太郎は、佐賀出身の官僚や、榎本武揚らの政府首脳を相手に粘り強い開港工作を展開する。
 一八八九年、石炭の特別輸出港の資格を獲得。十年後、数十のライバル港を抑えて貿易港への昇格を果たす。唐津町民は喝さいした。唐津城本丸跡での祝賀会で、旧佐賀藩主・鍋島家や旧唐津藩主・小笠原家から贈られた豪華な衣装をまとった五百子は、舞いを披露しながら感涙にむせた。「これで唐津は繁栄する」。小太郎は自慢の口ひげを満足そうになでた。
 小太郎の予感は的中する。一九一四(大正三)年、第一次世界大戦ぼっ発。石炭市場は最盛期を迎える。この年開通したパナマ運河を通り、日本に来る外国船の三分の一が唐津港に入港する。三井、三菱の大商社が湾岸に事務所を連ね、英国領事も駐在した。
 ▼継承
 唐津興業鉄道が炭坑と港を結ぶ唐津線を敷設。唐津電灯社が工場や家庭に電気を供給する。唐津から糸島半島への海岸道路が開通。北九州鉄道(現・筑肥線)の着工が急ピッチで進む。これらの事業の経営者として、出資者として、小太郎は深くかかわった。
 「おじはよく私の父(小関世男雄・唐津電灯社支配人)に仕事の指示をしていた。金なら心配するなって」。小太郎のめい・西村初枝(88)=横浜市在住=は小太郎の陣頭指揮ぶりをこう述懐する。
 「唐津の基礎になる財産を残してもらった」と、唐津商工会議所会頭の金子勝商(81)。しかし、小太郎が死去して五十二年。肉親は既に亡く、人間・小太郎を今に伝える資料は皆無に近い。
 小太郎はかつて、唐津鉄工所会長の竹尾彦己(88)にこう語った。「庭木はね、目には楽しいが永遠じゃない。枯れるだろ。でも庭石は残る。古くなればコケもつき、味わい深くなるんだよ」
 この一枚のパズルで、あえて推論するならば、小太郎は唐津の町を庭に例えたかったのではないか。そして、自らは唐津の産業基盤を永遠に残る「庭石」として配置しようと考えたのではないか。
    ◇    ◇
 じりじりと肌を焼くような晩夏の日差しの下で、唐津港は眠たげだった。堤防に釣り人の影、遠くヨットが波を切る。
 貿易港指定からちょうど百年。かつての石炭港の面影はなく、今、観光交流基地を目指すウオーターフロント計画が進行中だ。
 唐津銀行はその後、吸収合併を繰り返し、一九五五年の最後の合併で佐賀銀行となり、県経済界を支える。市中心部に立つ赤レンガの旧本店は国の登録文化財に登録された。小太郎が暮らした「大島邸」(同市西城内)は、市土地開発公社が今春購入し、保存活用方法が検討されている。
 百年前、小太郎が配置した「庭石」は、現在も唐津の街のあちらこちらに残る。二十一世紀も小太郎の「庭石」を利用して、唐津の「庭づくり」は続く。 (敬称略) 
     ◇
 ▼高橋是清と唐津 幕府の御用絵師の息子だった高橋是清は、十二歳で家出し、横浜でホテルのボーイをしながら英語を勉強。仙台藩の留学生として渡米。帰国後、花街に入りびたり、東京でぶらぶらしているところを、唐津藩に見いだされて雇われた。
 知事の月給が三十円だった当時、是清は百円という破格の高給。しかし、東京時代の二百五十円の借金を返済した後は、自ら六十円に減給し、残りは学校の維持費に繰り入れた。
 是清の在唐期間は一年数カ月だったが、多くの逸材を育てた。後に日銀総裁、大蔵大臣を歴任。一九二二(大正十一)年、首相。一九三六(昭和十一)年、「二・二六事件」で暗殺された。
    ×      ×
 ●大島小太郎がかかわった唐津開発史
1859年 小太郎誕生
  71年 高橋是清の「耐恒寮」で学ぶ
  83年 「漁会舎」の再建に小太郎乗り出す
  85年 唐津銀行設立。頭取に就任。県会議員になる
  89年 松浦川河口の満島港が石炭の特別輸出港に指定
  90年 唐津物産設立。石炭の海外輸出始める
  96年 唐津興業鉄道設立。唐津線の着工
  99年 唐房湾(現在の唐津港)が貿易港に指定
1903年 唐津線全線開通
  09年 唐津電灯社設立
  12年 唐津銀行本店を新築
  14年 第一次世界大戦ぼっ発。パナマ運河開通
  19年 北九州鉄道設立
  26年 北九州鉄道、東唐津―博多間開通
  31年 佐賀中央銀行誕生。小太郎が頭取就任
  41年 太平洋戦争
  42年 小太郎、佐賀中央銀行の会長就任
  44年 小太郎、同銀行会長を退任
  45年 終戦
  47年 小太郎、死去
  55年 佐賀中央と佐賀興業の両行が合併、佐賀銀行誕生
題名:資料に「生命」を!  名前:ton2010/02/16(火) 02:31No.1195 
 11年前に「資料は皆無に近い」とか書いてますが、資料はたくさんあったんですねえ。当時は1回分のたち切り記事ということもあって、努力不足で発掘できませんでした。
 ただ、資料は生資料のままでは眠ったまま。誰かが資料に「生命」を与えて、小太郎の人物像を今の時代に蘇らせないといけませんね。

題名:Re: 支局時代に書いたのですが・・・  名前:やまめのたより2010/02/16(火) 09:24No.1196 
 初対面です。

「佐賀近代史年表 明治編 下巻」の編集を担当いたしております。
   元本は、佐賀新聞典拠のため、当然お膝元の記事が多いですが、唐津の記事もかなり多く、記事と大島小太郎文書の合致点が多く、感激しています。内容が豊富で原資料としては、最高ですね。
 佐賀は工業団地造成計画を途中で取りやめて、吉野ヶ里公園、赤松小学校、城南中学校を玉突き状態で移転して、佐賀城本丸を復元、いまや観光の重要な目玉。
 これだけの資料があれば、赤レンガの唐津銀行、大島小太郎邸と、建物と歴史資料を組み合わせて、保存活用を検討すべきでしょうね。

題名:Re: 支局時代に書いたのですが・・・  名前:山内薬局2010/02/16(火) 13:46No.1197 
ton
ありがとうね。
こいつをうちのブログにそのままそっくり転載してもよかだろか。
こっちの掲示板よりも今ではブログの方が人気があるようで。いかんだったら言うてね。
書評を見たよ「虫庭の宿」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0926&f=column_0926_001.shtml
 
題名:大島小太郎邸見学会  名前:やまめのたより2010/02/11(木) 22:45No.1188 
 今日は、見学会、お世話になりました。
今、「佐賀近代史年表 明治編 下巻」の編集を担当し、
対象期間の明31年〜45年7月明治天皇崩御のうち、あと残り2年分の整理まできました。

 大島小太郎は、唐津・東松浦地方の経済界の代表として、重要な局面にはいつも登場する人物です。しっこくウォッチングしています。
経済人でありますから、政治的発言はほとんど登場しません。
しかし、今日は拝見させていただいた文献に記事を裏付ける物がたくさんありました。一瞬小躍りし高揚感に包まれました。
 このため、全般の講師の話は頭に入っておりません。
 
 大島小太郎は文献が豊富に保存されており、邸宅と資料を組み合わせれば、近接の曳山展示館、唐津神社と組み合わせて、立派な観光施設にもなると思います。保存と活用策を組み合わせて提案されたらいかがでしょうか。

 以前、瀬戸市長からお聞きした話を思い出しています。
「唐津小学校は、辰野金吾博士による設計で、是非残しておくべきものであったが、これが消滅してしまい、辰野博士の生誕地に記念物が残っていない。残念だ。大島邸も何とかせんば、気がかりだ。・・」

 明治の新聞に現在の舞鶴城(当時唐津公園の名称)の樹木が払い下げられ、丸裸の寸前、市民運動で保存されたことが登場しています。
 また、今日「郭内」という名称で登場しましたが、当時はかなり国有林でしたが、この払い下げの際、当時の矢田町長は、払い下げに反対し、保安林として残すよう、運動をいたしております。
 
 なお、舞鶴公園の樹木払い下げ1件は、大島家文書目録にも掲載されていました。
 
 
題名:大島小太郎  新聞記事と文献、実物  名前:やまめのたより2010/02/13(土) 07:09No.1189 

 新聞記事を中心に、年表を整理していると、この記事が果たして事実を報道しているか、不安になる。

 先日は、政治問題で武富時敏の伝記と照合、一致して一安心。

 一昨日は、記事に登場する大島小太郎の邸宅が破却されると聞いたので、見学会に出席。
 倒壊した倉庫から救出された文献が非常に歴史的価値が高く、新聞記事と一致するものがたくさんあり、改めて、感謝と内容への高揚感が高まる。

 大島邸の一室で何が語られたのか、改めて思い浮かべる。

 唐津地方はもともと進歩党の地盤。
大島小太郎は、銀行家として高橋是清につながる人物。
日銀総裁は岩崎弥太郎=三菱財閥の総帥、そして三菱は大隈重信の有力な後援者。
芳谷、相知炭坑はのち三菱に買収されて当時のドル箱。
岩崎弥太郎も再三唐津に来る。

 政友会の伸長により、唐津地方も政友会の有力な地盤に塗り替えられてゆく。
大島も政友会への傾斜を強める。
この政治的つながりを元に、唐津港の整備、唐津鉄道の開通に尽力。
発電事業にも進出、これは石炭火力のため、市民の猛反対に遭い、「水火の争い」で撤退。トロール漁業に進出。これは一応成功する。
その他幾多の事業に出資、融資する。

 銀行家として唐津銀行は堅実な経営を続け、確か戦中の県内1行統合方針による銀行統合により、県内2行成立の際。一方の佐賀興業銀行の中核銀行として参加したと思う。これは、佐賀銀行史で確認してみよう。
 
 昭和初期の金融恐慌により、佐賀財閥が崩壊し、代わって県内銀行の主体が唐津銀行と伊万里銀行に移り、この重責を担っている。 
 ちなみに佐賀地方に残った有力銀行の佐賀百六銀行は、佐賀鍋島家の私的銀行で、住友銀行の傘下に収まっている。
 
 この大島が活動、生活の拠点とした邸宅が破却されることは、大変残念。

題名:Re: 大島小太郎  新聞記事と文献、実物  名前:やまめのたより2010/02/13(土) 08:05No.1190 
 すみません、岩崎弥太郎の唐津訪問は、弟の久弥です。
題名:Re: 大島小太郎  新聞記事と文献、実物  名前:山内薬局2010/02/13(土) 14:13No.1191 
おはようございます。
先日は大荒れの中、遠路お越し頂きましてありがとうございました。

唐津んもんのなんばしよっとか!との檄。身にしみております。

あれから「大島家文書の目録」ネット化の作業に入りました。
三菱の出張所
あそこも大島小太郎が埋め立てた土地。それを三菱に買って貰ったんですよね。


土地売渡証書
 明治四十一年二月十日
 差出 大島小太郎
 宛名 三菱合資会社業務担当社員 岩崎久彌
 金七千百三十二円、妙見又七千百八十一番の二ほか2筆(控)
             一紙  387−21−4

この土日でネット化を終わらせたいと思います。
どうぞご利用下さい。
https://tamatori.sakura.ne.jp/news/oosimakemonjyo.html

大島家、大島小太郎の偉業を唐津市民は忘れています。
文書目録で少しでも意識づけられたら幸いです。

そして唐津の大切な歴史を刻んだあの場所をあの建物を消し去ろうとするとんでもない過ちを行政がしないことを切望するだけです。
これからどのようにして訴えていけばよいのか。どうぞ皆さんの声を大きくしていって下さい。よろしくお願いします。

題名:Re: 大島小太郎  新聞記事と文献、実物  名前:やまめのたより2010/02/13(土) 19:45No.1192 
 目録、ネットで拝見させていただきました。
改めて、唐津地方のみならず、佐賀県についても、大島小太郎の関与の深さが感じられます。
私が関係している「近代史年表 明治編 下巻」に大変良く登場する項目が非常に多いようです。
立場上重要な役割だったでしょうね。

 電力会社は、最近九州電力が「九州地方電気事業史」を出版し、この中に唐津火力、七山水力電気、唐津電気軌道、九州電気、東邦電力などの関係が詳しく掲載されていますよ。

 福澤諭吉の娘婿の福沢桃介と壱岐出身の松永安左衛門が組んだ唐津電気軌道、九州電気、さらには東邦電力への発展過程などです。このなかに良く登場する伊丹弥太郎も。
 
 すこし、知り合いの方あたりを大島邸の見学にお誘いしてみます。

題名:Re: 大島小太郎  新聞記事と文献、実物  名前:やまめのたより2010/02/13(土) 19:51No.1193 
 追伸、芳谷炭坑の社長竹内綱は、岩崎弥太郎とおなじ
土佐藩出身、この関係で芳谷炭坑は三菱に売却、芳谷炭坑の鉱山機械部門が唐津鉄工所。

 三菱との関係がとても深いですね。
 
題名:明治34年  名前:やまめのたより2010/02/16(火) 20:12No.1199 
 これが先日掲載した岩崎久弥の唐津視察の記事です。
おそらく、これは大島が一役かっていたでしょうね。
 この頃、唐津鉄道は資金難に悩み、三菱に泣き込みます。
○ 唐津鉄道は三菱(資)に10万円の借り入れを交渉するが、利子年7分が低いため、三菱は人を派遣し実地調査中 2・24<2>
○ 熊本の共進会の県売店で横尾峯吉郎らの丸房露や佐賀桜羊羹(ようかん)、カステーラの売り上げが好調 2・24<2>

27 三菱の岩崎久弥が三菱相知炭坑と唐津港を視察 
                       2・24,3・3<2>
 
題名:明治28年頃の唐津町の地図  名前:やまめのたより2010/02/27(土) 19:35No.1200 
 今日の研究会で、明治28年頃の地図が配布されました。
このなかで唐津町には松浦橋が架かっていません。
渡船場の表示です。廓内の外側のお濠は、完全に残っています。
裁判所は唐津実科中学校のそばに所在。
唐津線は免許線として表示され、起点は唐津駅から小城〜牛津です。
 全体として、この地図は、誤りが多く、参考程度の扱い。
参謀本部作成を改めて探すことにしました。
 
題名:唐津というものを醸してきた過去なるものは?、  名前:むずかしいことわからんが2010/03/01(月) 22:41No.1201 
♪♪たまに唐津にお出でになったお客様をおもてなしの意にて、あちこちといわゆる名所などにお連れすることがあるのですが、鏡山や、唐津城などは眼下の眺めのすばらしさからどなたにも愉しんでいただける、いわば、鉄板の場所です。
安心してお連れできるのですが、ただ、皆さん口を揃えておっしゃるのは、「なぜ、こんな素晴らしい風景なのに、煙突、、、、、、、(以下皆さんの想像通り)」あの大島付近の二本の煙突、昨今は薄い色に塗りなおされていて前ほど目立たないように配慮されているのかも?知れませんが、前は、赤白のかなり目立つものでしたね、

真相はよく存じませんが、石炭によって明治以来殷賑を誇っていた唐津港もエネルギー革命なる黒船が襲来し、昭和後期、まだまだ付近には優良炭が残っているというに、どうにも売れないという仕儀になってきたそうです、その頃、唐津のお偉いさんたちは、唐津炭を使った発電所を作ってそれを稼働させれば、一石二鳥と現発電所、誘致計画を打ち上げ地元経済界も諸手を挙げて、だい賛同。

しかし、当時、大名小路にお住まいであった市原源之助さんは、その住友鉱山勤務時代に実見した、公害の地元に及ぼす影響と、風光明媚な愛すべき松浦潟を子孫のために護らねばという見地より孤軍、反対運動を展開、しかし、理解は広がりを見せず現在、煙突はにょっきりと立っているわけです、その後、玄海原発の誘致があり、ほとんどその存在価値は失われているのに、にょっきりと、です。

唐津城は、(私は奇しくも唐津城天守落成年の生まれなのですが)その美しい姿と、旧市街何処からでも折に触れ仰ぎ見る事のできる点で唐津市民誰もが、愛してやまぬ素晴らしいお城であると私は想います、実際、商用などで他出して、車で、電車で、博多より帰ってくる夕暮れ時、松浦潟にそびえるその白亜の姿が見えてくるとなんともほっとする、そういう実感は共感いただける向きも多いと想像します、ただ、残念ではありますが、現在唐津市街に展開されている城郭遺構はそのほとんどは後世(いいかえれば現代)の鉄筋によって建設されたいわば、イメージです。

現在の唐津という町を醸成した歴史を俯瞰するとき、唐津くんちに代表され象徴される【町方文化】とその重みを共有するものとして【城内(武家)文化】というものもあわせ考えなければならないと私は常々考えています、

従来、その二つはなんだか、対立するもののごとく語られる事が多かったように想うのですが、(よくくんちは、町人の武士に対するレジスタンス、、、、なんという意味づけありましたが)そうではなく、農漁業者も含めた地のものども、と、為政者の武家は(利害による対立はまま、あったとは想いますが)各々がその違いを認めつつ、互いが響きあい、車の両輪のように唐津という町を創ってきたのでしょう。

今回、この保存運動を遠くから眺めながら、その素材として大島小太郎さんの生涯をいたって簡単ながら知る機会を得ました。
彼は、いわば、財界人として(旧唐津藩の借財などを含んだ形で明治維新後の理財を担ったというスタンスは旧土佐藩の三菱、岩崎家をちょっと思い起こさせますが)自身の利殖という事をまったく考えていなかったとは思えませんが、しかし、地元経済、多くの人々の民福を図るという視点が彼の行動の中には色濃く見られます。また、それは、炭鉱事業で集積した富を地元の教育などに大きく散じた高取伊好や、一身を捧げて鉄道敷設事業を進めるべく金策中に異土にて帰らぬ人となった草場猪之吉など私を滅しても公のことを考えて行動するという明冶の先人に共有する気概であったと考えますし、その気概は儒教的教養を基とする城内(武士)の文化そのもののように想います。

町方の気概、を象徴するものとして【ヤマ】があるということにはおおよそ異論はないのでは、とおもいますが翻って、はて、城内を後世の唐津の人々に考えていただくものとして一体、ナニがあるのでしょうか?

ぜひとも、大島邸は、現在より未来へと唐津を俯瞰する重要な装置としてなんとか、残していただきたい、残すように衆知を集めなければ、と想います、
城内の文化、を感じるためにも、あの庭森に鎮まる、あの佇まいのお宅が必要なのです、一部を移転して芝居の書割のような部屋を作っても意味はありません。
その時々の利害を超えて、今一度、ご一考いただきたいと書き込んでみました。
 
題名:大島小太郎の記事  名前:やまめのたより2010/03/02(火) 14:42No.1203 
唐津鉄道の株主の大島小太郎の記事が登場しました。
明治32年4月
28 唐津鉄道鰍ヘ定期、臨時総会を唐津町の浄泰寺で開催し取締役を選挙。大阪の今西林三郎と前川槙造は新選、兵庫県の建野郷三は再選、福岡県の守永久吉は再選。県関係は西英太郎、大島小太郎、相浦秀剛の3人でいずれも再選。社債40万円の発行を提案、前社長加藤海蔵に対する慰労金の支出は否決する。笹原トンネル工事は下旬に貫通の見込み  4・16,30,5.4<2>
 
 
題名:市原源之助氏の思い出  名前:やまめのたより2010/03/02(火) 14:11No.1202 
 市原源之助氏の思い出
 昔、石炭史を調査していた頃、ある書類の中から市原さんのお手紙を数通発見した。
多分、石炭火力の公害を指摘する内容だったと思う。
 石炭産業の斜陽化の中、政・官・労挙げての誘致運動、唐津の1等地に立地し、操業してまもなく、石炭産業は終息してしまった。
 その前後だったかな、市原翁の悲報が紙上に掲載され、公害に関する記事が掲載されていた。
当時は、マスコミが存在を無視した市原翁に対するお詫びの記事であったと理解した。

題名:Re: 市原源之助氏の思い出  名前:山内薬局2010/03/02(火) 15:11No.1204 
郷土先覚者列伝より

184 市原源之助 鉱山技師 (唐津)−昭和四十七年 79
  素晴らしい景色の唐津湾に九州電力が唐津発電所を計画した。美景を損傷するべら棒に高い煙突三本が建ったのは昭和四十二年秋。唐津市が発電所誘致に凱歌をあげたのは昭和三十七年春、その頃以来二年に及んで勇敢に反対の警鐘を打ち鳴らし、煙害の恐怖、毒害を訴えたのは生粋の唐津人市原源之助であった。心ある市民は一斉に市原に支援を惜しまなかったが、当時の政治的支配勢力を覆えすほどの力には成り得なかった。市原源之助は名ある旧唐津藩士の裔。唐津中学校から熊本高工採鉱冶金科を卒え住友の別子銅山に永年勤務、昭和三十二年以来帰郷、城内埋門小路に住んでいた。

むずかしいことわからんがさん。そしてやまめのたよりさん。書き込みありがとうございました。

題名:Re: 市原源之助氏の思い出  名前:やまめのたより2010/03/02(火) 19:53No.1205 
 市原さんが顕彰されていてよかったですね。
 住友勤務の経歴からすると、四国の新居浜か、四阪島精錬所の煙毒事件に何等かのかかわりがあったのでしょうね。
 明治期の新聞には足尾鉱山、住友別子鉱山精錬所の煙毒事件が再三登場します。
題名:史跡と新しい公共需要  名前:やまめのたより2010/03/11(木) 21:36No.1213 
 うーん、難しい問題ですね。
佐賀市の場合、昔の佐賀城の復元のため、城南中学校を移転し、その後に赤松小学校を移し、赤松小学校の跡地の佐賀城本丸跡に、今人気の本丸御殿を復元しました。
 さらに、今のNHK佐賀放送局の東の民地を購入した、ところに昔埋め立てたお堀を復元しようとしています。
 また、今の県立病院好生館が移転しますと、さらに大きな空間が生まれ、新たな魅力を増すと思います。
 これに、多大の税金を投入しています。佐賀市民が反対ということはありません。そして、今、年間何十万のお客が訪れ、また周辺は佐賀市民の憩いの場です。

 今の時代の流れは、史跡を現代に生かして、保存活用を図ることです。
 大島邸の保存の問題は、この大きな時代の流れと申しますか、大きな視点の認識が弱いことでしょう。

題名:Re: 史跡と新しい公共需要  名前:むずかしいことわからんが2010/03/11(木) 22:22No.1214 
難しい議論は出来ないのですが、たしかに佐賀城本丸歴史館は画期的な建築構想といえるものなのだと思います。
本来、あのような形のものでは当初の予定ではなかったのですが建築前の基礎調査段階において旧佐賀城の埋蔵遺構が思わぬ良い状態で発見されたことによって、埋蔵遺構を保存できるような歴史資料館という観点より建造物はいわゆるコンクリの箱ものでなく、あのような形態となったと記憶しております、
(ただ、そのおかげで当初構想にあった文書館機能は併用できなくなってしまったことは残念ですが)

本丸御殿復元の成功事例は、(前後関係ははっきりしないのです、間違っていたらすみません)長崎奉行所や、熊本城などの同様の形態をもつ建造物を
招来し、新たなムーブメント?となりつつありますね、

ただ、あまり文化財などに興味を持たなかった人々も招きよせ、歴史、文化に対する理解、啓蒙に寄与するという面は非常に重要だとは思いますが、
入場者数が確保できたからすべて好いとは(もちろん、そういうようなお考えは誰も持っていらっしゃらないのはわかってあえて、そういってみるのですが)
おもえません、

いずれにも言えることですが、既に姿を消していた遺構が新たに復興されるのも良いことですが、現物があるに越した事はないのは異論のないところだと思います、たとえば、観光客の誘致に(くだけていわせてもらえば、ウケルようにですな)近代和風建築という点では、高取邸と印象がかぶる(武家文化の象徴建築という点でそれは違うのですが)大島邸を、からくり忍者屋敷に改造したら唐津の目玉になるのでは?というような射利を主眼とした議論にはそれがたとえ公共の利益となっても私個人の感情としては組したくありません。

あくまで、文化財はその後世まで残すべき価値という点で論じるべきであり、その活用という点は副次的なものであってほしいと思いますが、ちょっと自分ながら論だてが変?かも
すみません。
 
題名:大島の功績  名前:やまめのたより2010/03/12(金) 09:16No.1216 
また、書いてすみません。
 
 風光明媚な唐津に住まいを構えた高取伊好と、実業界の中心となって産業基盤の元を築いた大島小太郎。
資料がほとんどない高取伊好と文献資料の豊富な大島小太郎。
 大島の評価が欲しいところですね。

下記は、明治32年、大島が大株主となって開通にこぎつけた唐津鉄道の開通と唐津西港の輸出船第一船の記事 
 その後、高取は相知炭坑を芳谷炭坑に売却し、杵島に本拠を移します。

13 唐津鉄道の山本〜厳木駅間がようやく完成し開通式を挙行。既成線の妙見〜山本間を合わせた沿線は13哩68鎖となり、全線計画の2分の1に達す。最大の顧客は石炭輸送で石炭を積み込む炭坑は38坑、1日平均出炭高は133万4580斤、石炭の年間運賃収入は6万8588円が見込まれている。各駅からの石炭積み込み坑は山本から牟田部、芳谷など17坑、相知4坑、厳木4坑                      6・15<2>
14 唐津西港に入港の三井物産会社の勝立丸(4000トン)へ石炭の船積み完了、西港の輸出開始祝賀と勝立丸歓迎会を同船で行い、300余人が出席。唐津鉄道の延長で石炭輸送の主力が鉄道になり、西港の大島貯炭場が整備されて石炭輸出港が東港から西港に移る                    6・18<2>
題名:Re: 大島の功績  名前:むずかしいことわからんが2010/03/13(土) 12:03No.1217 

まだお会いしたことはございませんが、大島邸保存運動に関してさまざまにお心にかけていただきまして、ありがとうございます。
昨日、市議会にて山下議員による質疑をテレビにて傍観しておりましたが、なるほど、と自分の考えとまったく異なる意見もありまたそれが、世間一般の良識というものかもしれない、と自問しておりました、ただ、こざかしくうるさい連中だと思われようが声は声としてあげていくことも必要なことと想い定めて
あきらめる事なく邸の後世への意義を訴えたいと思います、

高取家の文書資料につきまして資料がない、というお嘆きがあるようですが、高取合資、また、杵島炭鉱、関連、また高取家の私的な文書
、おおよそにつきましては秀島選三先生のお骨折りによりましてトラック数台分が九大石炭研(だったかエネルギー研だったか)に寄贈されています。
同所には麻生本家などの旧炭鉱主よりも資料が寄託、寄贈で収集されていますが、(仄聞するところでは、麻生本家分などは数十年の間は
公開しないという付帯条件つきとか)研究機関に予算がほどんどついていないと(近年)という現状より、膨大な資料群は未整理のままに置かれるのだとおもいます。
文書資料にしろ、諸資料にせよ公共による文化財保存ということがすべて後世への最上の保存手法なのかしら?と先日の唐津市民俗資料館などの件も併せて一考させられることであります。
写影はうちの書架にあった大正9年刊の「佐賀県銀行会社要覧」記事中の大島さん、お、!お若い!!

題名:Re: 大島の功績  名前:むずかしいことわからんが2010/03/13(土) 18:29No.1218 
秀島選三先生、うっかり書き違えておりました。
秀村選三先生です。どなたさまもすみませんでした。

題名:Re: 大島の功績  名前:むずかしいことわからんが2010/03/13(土) 21:04No.1219 
大島邸とは無関係ですが、さきほどネットサーフィン中に見つけたものです。
やまめのたよりさんの、ご研究の一助となれば幸いです。
また、唐津史の新たな切り口とも考えます。

http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/fulltext/09kz.html

題名:Re: 大島の功績  名前:やまめのたより2010/03/15(月) 20:16No.1220 
 山田晴道さんの論文ありがとうございました。

 明治文化資料叢書以上の詳しいデータです。
いま、日刊紙だけしか追っていませんが、これだけ詳しく掲載されてあれば、楽しいですね。
早速、研究仲間にも知らせします。

 先日、昭和7年の佐賀日々新聞を1号だけ、骨董市で手に入れました。
 
 杵島炭坑の資料、九大に保存されたということは、初耳です。
昔、高取合資会社にお伺いしたときは、ほとんどありませんという回答。閉山事務所のものは、離職者、精算、鉱害関係で、創業期のものはあまりなかったのですが・・
これも日本大学に持ってゆかれたとお聞きしていました。

題名:Re: 大島の功績  名前:むずかしいことわからんが2010/03/16(火) 10:36No.1222 
唐津新聞の消長より唐津の経済状況を見通すという視点はとてもユニークだなあ、と拝見していました。
十五年ほど前、建物は解体されたようですが、大島邸の近所、産業道路沿いの武家屋敷風、土壁が長く続くお屋敷跡のなかに旧高取合資所有の建築物がありそこにかなりの文書類が保管されていたと聞きます、おもにその分が九大に行ったのだとおもいます、あの塀も高取家の皆さんの想いでまだ、あの状態で保存されていますが、永久にあの姿があるとは思えないのですけれどもね。


題名:Re: 大島の功績  名前:やまめのたより2010/03/16(火) 12:08No.1223 
 杵島炭坑96日ストの頃、緊迫した労働情勢の中、閑静な長く細い石塀の細道を通学していました。
争議のためか、邸内は、ひっそりと静まり返っていました。
 高齢のため、石炭史に取り組むエネルギーも、残された僅かの時間も残りが少なくなりました。。
 若い熱心な研究家の出現を期待し、僅かの残さいの中から玉を見つけていただき、井手以誠さん著の「佐賀県石炭史」をしのぐ名著を期待するしかありません。
 
題名:大島小太郎の父、興義の死亡記事  名前:やまめのたより2010/03/15(月) 21:14No.1221 
 以前、新聞記事に登場した大島小太郎の父、興義の死亡記事をメモしていた。
 この文章の中の「一代の閲歴は一編の唐津近代史を物語るの意味を当時追跡せず、そのままにしていた。
 今回の大島邸の保存問題で功績がわかったので、紙面にスペースを作り、追補しよう。
これが先人に対するせめての罪滅ぼしかもしれない。

 記事は明治41年12月
 3 大島興義が死去、80歳。大島小太郎の父。一代の閲歴は一編の唐津近代史を物語るとの由 12・6<3>

題名:Re: 大島小太郎の父、興義の死亡記事  名前:むずかしいことわからんが2010/03/16(火) 23:48No.1226 

ええと、最近暗い話題(と大島邸のことを言うと掲示板主に叱られそうではありますが)ばかりなので閑話休題、

今年の大河ドラマは、「竜馬伝」
長崎生まれの好男子、福山某による阪本竜馬である。
別に、好男子に劣等感があるわけでも、いけ好かない感情があるわけでも(いつぞや、偶然聞いた福山某のパーソナリティによるラヂオはエロ話ばかりで
  愉しいおっとこ振りであった、好漢ですね、男の目より見ても)ないのだが、なにかココロにフィットしない、

視聴率は良好のようなので、私だけなのかもしれないけれど、なんだか、かっこいい竜馬のメロドラマという現在までの印象でのめりこめないのである。
(まあ、じゃ、見なきゃいいわけだが、そういってしまうと話がおわっちゃいまんがな)やはり、アチキの青春のバイブル、司馬遼センセの「竜馬がゆく」が拭い去る事ができないほど自分の中に竜馬像を成形しているんだろうな、と、自己分析してみる、あの、司馬遼センセの龍馬像もかなり史実とはかけ離れたものであるのだけれど、華麗に散りばめられた史実の断片がなにやら、全編をまるで史実というかセンセ、タイムマシンにでも乗って見てきたように書いてますね、(笑)てな感じですか?

まあ、その司馬遼の竜馬観を始めとして、現在流布している阪本竜馬像というものはどうやら、明治期の政治力学も関連する土佐閥の思惑から作り出されたという言説もあって(汗血千里駒なる一種の政治小説風のものが、竜馬の伝記の草分けだそうでまた、伝説の祖形となっているらし)本来の竜馬像はまだ検討の余地が多くあるそうな、現在放映中の青年期などはまったく不明のことどもばかりともいえようね。

しかし、明治維新期陸続として登場する志士、のなかでやはり異彩を放つという点ではだれも異論はないほど変わってますよね、
特に司馬史観で語られることだが、他の志士が理想とか思想などを重視する(というか絶対視?)することと、竜馬の中にある理財とか、経済といったものに対する理解という点が回天の偉業に大きく寄与した関連性といったことは大変私は面白いと思うのですよ。
それは、竜馬の生家の阪本家が高知城下においても有数の富を有する商家であり、郷士の株を購入して士分でありつつ商家でもあるという特殊な生育状態が強く作用しているのだろうと考えます。

翻って、(ああ、またか)
大島小太郎さん、

父君の大島興義(小三太だったっけ)は、御金奉行の要職にあり、まあ、武家でありながらいわば、商業には深く関わらざるを(本人の好悪は知りえないが)得ぬ立場であった。
これは、市の資料目録にはあまり見かけないようだが、以前あるところで興義の手になる長崎での藩の交易関連の手控え(たしか横帖体のもので慶応の記録であった)を一見したことがあった。
小太郎も幼少時より父君の日々の話や、藩の苦しい財政の繕いに苦労する後姿を仰ぎ見ながら成長していったのだろうことは容易に想像できるところである。

論語?だったっけ?

「父在らばその志を観(み)、父没すればその行ないを観る」

父の行いやその人生を理解して、敬い、没されたのちはその歩まれた道を振り返ってまた、己の行動の規範とする。
明冶の人々にはごく、自然な感情であったことなのであろうが、小太郎の唐津への一種異常なほどの想いもなんとなくこの一文で、理解できるようにもおもえる。

写真は、昭和14年刊の「唐津開港五十年誌」巻頭、
【明冶31年唐津興業鉄道が大島沿線まで延長工事中の西港と西唐津】大島さんの偉業のひとつとしてご紹介してみます。

 
題名:3/21ブログ、唐津銀行西支店参考@  名前:むずかしいことわからんが2010/03/21(日) 21:38No.1228 

唐津銀行諸資料、本来別の用事で取り出していたのですが、
ちょうど良かった。(もう、面倒なので、これに付随した書き込みはお蔵入りとしましょう、ヒャッホー、)

 
題名:唐津銀行西支店参考資料A  名前:むずかしいことわからんが2010/03/21(日) 21:44No.1229 

大正4年刊、【佐賀県官民肖像録】これは当時の官民の知名士や
商店写真などが豊富で便利な本なのですが(辻薬店や、みのやさんの当時の写真など興味深い)これによると、どうも、西唐津支店くさい、うーむ。どうだろう?なお、明冶の営業報告にはなぜか、本店と相知支店しか記載がない、なぜだろう?

題名:唐津銀行西支店参考資料Aについて  名前:やまめのたより2010/03/23(火) 05:03No.1231 
 浅学菲才の身ですが、
唐津銀行は、明治32年頃、相知村に支店を開設します。
この頃、相知村は高取の相知炭坑、三井の鹿子炭坑、牟田部炭坑、隣の芳谷炭坑などの炭坑が隆盛期を迎えており、この頃、県内一の鉱業町村となります。
資金需要が高まり、取引先の需要にこたえるためのものでしょう。
 その後、西唐津に支店を設置します。
これは唐津港の石炭積み出しが、満島の沖積みから西港に移っていったためです。

題名:Re: 唐津銀行西支店参考資料Aについて  名前:やまめのたより2010/03/23(火) 05:06No.1232 
 西唐津支店の営業報告がないのは、実質が代理店であったかもしれませんね。
題名:Re: 唐津銀行西支店参考資料Aについて  名前:むずかしいことわからんが2010/03/23(火) 05:49No.1233 
早速のご教導、ありがとうございます!
ブログ、拝見いたしました。熊本城本丸御殿、いかがでしたか?
昔、ある古本屋さんの店頭で、【大佐賀市論】という戦前の本を見つけまして(欲しかったのですが、持ち合わせが足りませんでした、買っとけば良かったと後悔しきりです)
その本の中で、或る論者が(在地の識者、多数による意見集なのです)
「佐賀といえば、良くも悪くも思い出す風景は、県庁前のお堀端と、大楠だろう」というような事を書いておりまあ、今も昔も同じなのね、と、ほほえましく思った記憶があります。
佐賀県人にとって、県庁前の風景や、鯱の門が県をイメージする代表的風景であるように、おおよそ、何処の町でもやはりお城とその付随物というのは、格別の風景といえるのかもしれませんね。(熊本のヒトは何かあると、熊本城だもんな)

さて、西唐津と相知についてご教導、恐縮です。
西唐津は、私の幼い頃の故地でありまして、子供ながら寂れた感じの町並みを記憶しています。
小さなまちなのに、結構官庁があって不思議な感じだったのですが、(市史によると、西支店と同時期に松浦座なる芝居小屋も出現しているようです)昔の殷賑を残す風景だったのだな、と今になって膝を叩くお粗末さです。
そういえば、佐原の国立民博の展示が完成したと先日、知人に聞きました。開館よりずいぶんたつのに、!とびっくりでしたが近代の部分について検証が続いていたらしく、やっと昭和後期分の展示内容と、展示物が公開されたようです、上野英信ご夫妻とご子息の写真など(私淑しています)炭鉱関連資料も取り入れられていると聞きます、。佐賀は筑豊に較べると、(特に唐津)経済、鉱業史より見た炭業といった研究が多く、従事者の生活や、営みといった事を著したものがあまり見出せないように思いますが、知見不足なのでしょうか?
「にあんちゃん」があまりにも有名ですけども、

題名:Re: 唐津銀行西支店参考資料Aについて  名前:やまめのたより2010/03/23(火) 15:53No.1236 
 唐津銀行相知支店は明治32年10月16日設置です。
住所 相知村相知178番地
支配人 小林春正
 となっています。
 取締役は大島小太郎、平松定兵衛、草場猪之吉、山崎常蔵、山内久助の顔ぶれとなっていますね。

 西唐津が寂れた感があるのは、石炭荷役が沖積みから陸上からの直接積み込みに変化していったこと等、それに定期船の乗客の上客は唐津町内、下客は西唐津であったことも一因ではないでしょうか。

題名:Re: 唐津銀行西支店参考資料Aについて  名前:山内薬局2010/03/24(水) 00:16No.1238 
西唐津支店は、現在の佐賀銀行西唐津支店の道路を挟んで北側に建っていたという情報を得ました。
題名:佐賀までつながらない唐津線  名前:やまめのたより2010/04/01(木) 04:58No.1252 

 唐津〜多久〜牛津〜佐賀を結ぶ唐津興業鉄道。
資金難、裁判続き、工事の遅延続きの前途、やっと明治32年12月25日厳木〜多久間が開通。
増資問題がこじれ、重役が総退陣。
妙見〜山本〜北多久間の全面開通のお祝いも、餅くばり程度で質素。

 33年1月の元原稿を覗くと、松方正義大蔵大臣が斡旋に乗り出し、やっと経営陣の建て直しがなされている。
さらに、多久〜牛津間の工事は無期延期のようだ。

 この会社の資力では無理のようである。さてさて、どうなるか。

 次は身売り話のようだ。
これも九州鉄道による買収の際のトラブル劇が出現。 これは既に調査済み。
焦点は九州鉄道による買収後の多久〜北方、多久〜小城〜久保田、多久〜牛津、多久〜小城〜大和〜佐賀の4線の敷設の誘致争い。
 多久〜小城〜久保田の路線が決まってからも用地買収が中々進まない。最後までトラブル続きの会社。
それに比較し、伊万里鉄道は開通と同時に、いとも鮮やかに九州鉄道に身売りしている。

題名:Re: 佐賀までつながらない唐津線  名前:むずかしいことわからんが2010/04/01(木) 18:06No.1253 
掲示板主さんは、大島邸を諦めないというご決意のご様子、
まるで、鉄道敷設に血の小便が出たという明治のもろもろの方のようだ。

やまめのたより様は明冶がご専門でいらっしゃるのでしょうか?
私は、明冶は(も?か?)わからないことだらけです。諸処、ご教導賜りますと、幸いです。よろしくお願いいたします。

さて、明冶の唐津、
炭鉱関係に限定して眺めてみると、明冶初年よりしばらくは地元資本(有力商人、豪農など)の投機的色彩も若干付帯した感じの開発、営業参画がほとんどのように見受けられますが、(宮島、相知の池田一族、など)この地方資本は明冶後期になると急速に衰えをみせ、県内の有力炭山はほとんど財閥系資本の経営下に組み込まれていきます。(例外は高取でしょうが、まあ、あれは特例ですかね)
国の指針でもあったのでしょうが、鉄道についても、同様の例が多く見られますよね、
唐津の場合は、やはり良くも悪しくも、政官界に有力なパイプが細かったという点も影響したのでしょうか。
現在、の民主政権下の、唐津の、、、、、

あ、だれか、玄関にきたようだ。

題名:Re: 佐賀までつながらない唐津線  名前:やまめのたより2010/04/01(木) 19:54No.1254 
 本当に大島邸は、惜しいことになりましたね。
坂井さんに対抗して出馬した大草氏であれば、どうなったかなと、しばし沈思黙考中。
嬉野では、いったん取り壊した温泉館を観光資源に復活中なのに・・ あの市長は、商売人ですね・・

 マア、最後は市民の代表である議会が決めたことですからと諦めることにしています。・・・
もっと、観光に活用すればよいのに・・・

 唐津と石炭との関係ですが、唐津地方の石炭資源は、埋蔵地域が非常に狭く、炭層がほとんど3尺層、筑豊みたいに多層を形成していないそうです。
しかし、比較的地層が浅く、松浦川の舟運に恵まれ、日本の近代化の初期の発展期に貢献したということが一般的な評価ではないでしょうか。

 高取も、相知炭坑を開発するものの、早期に見切りをつけ、優良炭田である杵島に本拠を移します。

 大島、宮島、平松、草場ら地元資本家は、政友会の佐賀の大物長谷川敬一郎、或いは川原茂輔と手を組み唐津東松浦郡の振興に努力します。
 あの手、この手、韓国航路を開いたり、製塩会社、満島馬鉄、汽船トロール、松永安左衛門や福沢桃介と手を組んだり、ここらあたりの群像の評価が少し低いところかな。2代目宮島伝兵衛ももっと評価が欲しいところです。

 本業が忙しくなりましたので、しばらく投稿をお休みします。

題名:Re: 佐賀までつながらない唐津線  名前:山内薬局2010/04/02(金) 14:42No.1256 
やまめのたよりさん
まだまだ諦めたらいけませんよ。まだまだ訴えて行きます。

このままでは今の唐津の行政は貴重な文化遺産を破壊したという汚点を残すことになります。唐津の為です。皆さん、声を上げましょう。

4月5日から16日まで、佐賀銀行唐津支店二階で大島邸の写真展を開催します。「見て、知ってください。」がテーマです。
一人でも多くの方に見ていただきたいと思います。


題名:無題  名前:やまめのたより2010/04/02(金) 21:41No.1257 
 皆さん、大島邸の保存のため、最後までがんばるとの決意に改めて、敬意を表します。
 それでは、大島を理解していただくため、出来上がった原稿をあせくって、大島小太郎の本拠地、唐津銀行の建設の新聞記事を探してみますね。何本かあったような気がします。
  索引もエクセルで作ってもらっていますが、この抽出の方法がまだわからなく使用できません。
  大島邸の記事は全く出てこないですよ。・・・・・高取邸は、能の関係でよく登場しますが、・・・・

題名:「水火の争い」、  名前:やまめのたより2010/04/02(金) 21:49No.1258 
 まだ、まだありました。
大島小太郎と火力発電所、
 世に言う「水火の争い」、これが一番面白い、探しますね。

題名:唐津築港会社  名前:やまめのたより2010/04/02(金) 22:27No.1259 
これは、大島が関係した会社です。
 唐津港が明治32年特別輸出港に指定されます。
これが唐津港の貿易港としての発展の起点です。大島もこの指定に奔走しています。
 そして、これにあわせて、いよいよ唐房湾の埋め立てが始まります。
明治32年3月16日 唐津築港会社の総会を開く。
唐房湾に築港を目的として資金 100万円の会社設立をめざしていたが、事業は一時停滞、株式申込者の総会を開き、善後策を協議 3・18<2>

 大島家文書に登場します。

題名:Re: 唐津築港会社  名前:やまめのたより2010/04/03(土) 05:07No.1260 
 特別輸出港の指定 出てきました。
 
 唐津町、唐津村の町民達の喜びが手に取るようですね。明治32年7月です。

 12 新条約実施に伴い唐津港は横浜、神戸と並ぶ特別輸出港となる。
下関、博多など22港が同時に新指定を受け、関税実施日の8月4日から施行(勅令)。
 祝賀会を計画し、準備協議会で会費1000円、唐津小学校敷地に数百坪の小屋掛けをして式場及び園遊会場を設営することなどを決める。唐津港の30年貿易額は32万2357円、31年は40万0285円        7・14,18,22<3,2>
題名:大島小太郎、郡会議長選挙で敗れる  名前:やまめのたより2010/04/04(日) 22:20No.1262 
 大島小太郎は政治にも意欲を示します。

 明治32年9月、府県制、郡制の改正後初の選挙が実施されます。
大島は実業派から東松浦郡会議員選挙に立候補し、当選します。
 
 11月6日、選挙後の臨時郡会が開催され、正副議長選挙が行なわれ、議長選挙では実業派大島小太郎11票、次点自由派大川内敬10票、と1位になるも過半数に達していなかったため、決選投票を行った結果、大川内13票、大島12票で惜しくも議長のポストを逃がします。実業派は少数のため進歩派と提携しますが、多数の自由派が強く、涙を呑みます。
 その後行われた参事会員選挙でも敗れます。

 (注) この頃、県内では多数派の大隈重信率いる憲政本党=進歩派が退潮し、板垣退助が率いる憲政党=自由派が大きく伸びます。
 この過渡期に、大島らは両党の中間勢力として実業派を結成し、選挙に臨んだようです。その後、大島は憲政党→政友会に傾いて行きます。
題名:唐津港が開港  名前:やまめのたより2010/04/23(金) 12:12No.1265 
大島小太郎らが協力に運動した唐津港の特別輸出港の指定が実現し、開港祝賀会を開催します。

明治32年8月4日
唐津港開港と条約改正祝賀会を盛大に開催。関知事、県高官、各郡市長、九州各県新聞社員など来賓一般会員計約600人が参会、唐津町内は休業し、曳山が出る     8・1,2,5,6,8<2,3>

題名:Re: 唐津港が開港  名前:山内薬局2010/04/23(金) 13:03No.1268 
貴重な情報ですね。

唐津くんち 番外編に追加させていただきます。これは何という新聞の記事でしょうか?
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/bangaihen.html
題名:Re: 唐津港が開港  名前:山内薬局2010/04/23(金) 13:12No.1269 
大島小太郎らが協力に運動した唐津港の特別輸出港の指定
大島小太郎らが強力に運動した唐津港の特別輸出港の指定
さてどちらでしょうか?
題名:Re: 唐津港が開港  名前:やまめのたより2010/05/03(月) 20:04No.1270 
典拠は、佐賀新聞です。

 正確には、下記の通りです。
なお、当時東松浦郡には、県政界の大物長谷川敬一郎が存在し、彼の力も大きく働いたでしょう。長谷川の記念碑は、旧久里村の彼の生家に設置されています。大島と並ぶ大物です。
「大島小太郎らが強力に運動した唐津港の特別輸出港の指定」
 ただ、九州全体からすれば、筑豊炭を扱う若松港、三池炭を扱う長崎県口之津の取扱量のせいぜい10分の1です。

題名:Re: 唐津港が開港  名前:山内薬局2010/05/03(月) 22:27No.1272 
郷土先覚者列伝に次のように記載あり。

長谷川敬一郎 実業家 弘化二年−大正七年  73
  久里村の生れ。十五才で平野組の庄屋、累進して久里村庄屋。県会議員を経て大正二年五月に衆議院議員に当選。大正三年十二月には「三十四年間県会議員を勤め公共の為に尽せり」ということで三っ組金盃を受けた。その間、唐津石炭合併社社長、郡町村組合議長、西海商業銀行役員、唐津製塩社長などを歴任。その他久里村住民に施したる施策は厚く、住民は頌徳碑を建設して功績を称えた。(長谷川庫治)
唐津は何かあれば曳山を出します。ですから塗替はしていますが曳山の目には唐津の変遷が焼き付いているのです。

題名:唐津銀行株主総会  名前:やまめのたより2010/04/22(木) 04:45No.1264 
 私事が忙しくなってきたので、
アトランダンで、大島の記事を提供しますね。
当時の唐津財界の顔ぶれです。日清戦争後の不景気の中、高配当です。

明治32年9月
9 唐津銀行椛拷を東松浦郡唐津町公会堂で開く。頭取に大島小太郎、取締役に山内久助、平松定兵衛、山崎常蔵、草場猪之吉を再選。監査役には吉村儀三郎、池田市五郎を再選し、河村藤四郎を新しく選出。配当は年1割2分       7・6.12<2>

題名:Re: 唐津銀行株主総会  名前:山内薬局2010/04/23(金) 12:55No.1266 

いつも貴重な記事をありがとうございます。
ブログの方に載せておりましたが、改めて唐津銀行西支店の落成の写真をUPします。

佐賀銀行百年史に西支店のことが書かれていました。
唐津線の開通で,従来,松浦川口で船積みされていた石炭がほとんど西唐津から積み出されるようになると,妙見地区の商業はいよいよ盛んになっていった。そして40年7月に唐津興業鉄道が日本国有鉄道に合体,これと同時に,妙見駅が西唐津駅と改称され,当地区は文字どおり大唐津の一画を占めるに至った。この商況に促され,同行は41年3月25日,2番目の支店である西支店を東松浦郡唐津村大字唐津7182番地5に開設した。

新本店(本町)の完成は明治45年4月15日です。

題名:Re: 唐津銀行株主総会  名前:山内薬局2010/04/23(金) 12:59No.1267 

中央にはひげの大島小太郎、その向かって右は草場猪之吉。その隣は山崎常蔵。大島小太郎の左は平松定兵衞と山内久助(私の曾祖父・白髭じいさんと呼んでいます。)です。

題名:Re: 唐津銀行株主総会  名前:やまめのたより2010/05/03(月) 20:10No.1271 
ブログのご主人の祖先は、山内久助ですか。その後登場する山内小兵衛は、祖父ですか。
題名:Re: 唐津銀行株主総会  名前:山内薬局2010/05/03(月) 22:34No.1273 
山内久助は分家東の木屋です。
本家西の木屋8代目均安蔵六さんの長女が東の木屋に嫁ぎました。
西の木屋9代目均幸さんが21歳で亡くなり、分家東の木屋の長男(私の祖父)が本家西の木屋の9代目となります。西の木屋は代々小兵衞を名乗ります。

西の木屋に関してはこちらをご覧下さい。
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/nisinokiya.htm

「その後登場する山内小兵衞」は私の祖父です。

題名:Re: 唐津銀行株主総会  名前:やまめのたより2010/05/04(火) 03:27No.1274 
 明治40年代になると、佐賀新聞に「山内小兵衛」が唐津の代表的企業人として、盛んに登場します。
かなり貪欲に集録しています。古館正右衛門も。
 特に日露戦争後の社会不安の中で、社会福祉、慈善事業にも熱心でした。どんな人物かと興味がありました。
 今秋出版予定の本には、索引を付けることにしており、40年台はエクセルで入力済みです。
まだ、並べ替えしていませんが、関数で抽出する方法をご存知の方は、今でも抽出できるようになっていますが・・・
題名:唐津銀行本店の落成  名前:やまめのたより2010/05/04(火) 03:41No.1275 
 念のため、唐津銀行本店、現在のレンガ作りの建物の完成日を調べてみました。
佐賀銀行史は4月15日とありますが、これは商法上の移転登記日か、営業開始の日のようですね。
明治45年4月の佐賀新聞から

 7 唐津銀行は43年 8月起工、3月末竣工したので落成式を行なう。辰野金吾の監督の下に田中工学士が設計、総建坪は138坪、来賓700人。創立当時の資本金35,000円、年間取扱高130万円、明治45年の資本金は50万円、年間取扱高は6500万円       4・3,8<2>

題名:唐津鉄道株主総会  名前:やまめのたより2010/05/24(月) 16:17No.1282 
32年4月です。
この後、唐津鉄道の株主間に、経営方針を巡って内紛が発生、
大島は翌年辞任します。

28 唐津鉄道鰍ヘ定期、臨時総会を唐津町の浄泰寺で開催し取締役を選挙。大阪の今西林三郎と前川槙造は新選、兵庫県の建野郷三、福岡県の守永久吉は再選。県関係は西英太郎、大島小太郎、相浦秀剛の3人でいずれも再選。社債40万円の発行を提案、前社長加藤海蔵に対する慰労金の支出は否決する。笹原トンネル工事は下旬に貫通の見込み    4・16,30,5.4<2>
題名:またまた、唐津鉄道に災難  名前:やまめのたより2010/05/31(月) 20:06No.1283 
 唐津線は本当に苦難続きの鉄道ですね。
資金難、用地買収難、裁判所の工事差し止め、経営方針の対立、経営陣の交代、資金難から従業員の解雇。
今度は人夫の破壊活動、なかなか長崎線につながりません。
最後まで続きます。

 33年3月4日
唐津鉄道笹原トンネル付近の多久側の側壁が夜間に、破壊され、不通となる。賃金未払いに立腹した人夫数十人が犯行に及ぶ。
巡査約20人が出動、80人を逮捕、11人を検事局に送る。       3・6,7,11,16<2,3>

題名:唐津人の心意気  名前:やまめのたより2010/06/24(木) 10:22No.1286 
明治32年9月の佐賀新聞です。
11 唐津町の実業家は、唐津港を東洋のマンチェスターやマルセーユを目指して唐津実業同志会結成を準備。政党・政派とは無関係で、主なる人は河村藤四郎、宮島伝兵衛、大島小太郎、山内久助ら13人。創立主意書案を唐津新報に掲載
            9・15<2>
題名:木下 助六  名前:やまめのたより2010/06/27(日) 07:02No.1287 
 昨日、研究会があり、その席上、大島邸について発言があった。
これに付随して、下記の記事を報告する。
 佐賀新聞の死亡記事 明治33年2月4日2面
「肥後国権党の木下助六が死去。熊本県会議長、衆議院議員を歴任。壮年の頃、唐津藩の財政顧問を勤める」
 を付随して報告したら、
これは、肥後熊本藩の横井小楠の実学党と唐津藩や大島興義との接点を示す記事です。と解説があった。

題名:Re: 木下 助六  名前:山内薬局2010/07/09(金) 15:29No.1289 


私の祖父、少年期は唐津ですが、その後東京の旧細川藩家老の屋敷に預けられています。祖父の父、東の木屋山内久助の長男です。この山内久助は大島小太郎が唐津銀行頭取だったときの支配人です。祖父は家老のその屋敷から大倉高商に通い、加納治五郎の講道館にも稽古に通いました。大倉高商では熊本出身の田尻宗彦先生にお世話になっていたと聞いています。

写真には前列中央に板垣退助が写っています。
前列向かって左端に田尻先生。三列目向かって右から5人目の学生が私の祖父です。帰京後本家西の木屋10代目となります。

熊本と木屋山内家とのつながりが分かりませんでしたが、もしかしたら木下助六との関係があったのかとも思えます。

題名:唐津曳山  名前:やまめのたより2010/07/09(金) 05:36No.1288 
 明治33年11月の佐賀新聞に、唐津曳山が登場しました。衣干山に伝染病院ができた年です。
20 東松浦郡唐津町で明神社秋季祭、各町の山車を引き回す、21日は西の浜に1万人の人出  11・24<2>
題名:Re: 唐津曳山  名前:山内薬局2010/07/09(金) 19:40No.1290 
明治32年8月4日
唐津港開港を祝して曳山を出したという記事を以前頂戴しましたが、翌33年の記事。11月21日とは一体どんな日だったんでしょうか?明神社秋季祭はそんな日ではなかった筈なんですが。
題名:唐津興業鉄道株式会社  名前:やまめのたより2010/07/19(月) 06:53No.1291 
この会社は、明治30年代の佐賀新聞の常連登場会社。
経営状態が悪く、最後までもめにもめ抜いた会社。

 この会社の名称が途中から、唐津鉄道株式会社に変更する。名優だけに、会社の名前が変更した時期を特定したい。
脳裏から離れず、ウオッチング、やっと広告の中から見つけた。

 変更した日付が調べた史書のすべてが同じ日付、しかも、その後も唐津興行鉄道株式会社名でさかんに登場する。

 どうも、最初の著者が株主総会で決定した日付を用い、その後これが定着したらしい。この著者は、会社法とか戸籍法を知らなかったようだ。すべては登記とか戸籍に登載したときから始まることを・・・・その後の史家も・・・・

 地域振興の期待を担って、「興業」をつけた会社、旗を降さざる得なかった事情に万感の想い。
題名:無題  名前:やまめのたより2010/08/07(土) 14:33No.1294 
 大島小太郎は水産業にも意欲を燃やします。
明治35年4月の佐賀新聞3面の会社登記から
 ○ 唐津魚(資)は、資本金を6万円に増資、大島小太郎は9500円を出資(公告)     4・9<3>
題名:Re: 無題  名前:山内薬局2010/08/10(火) 21:46No.1295 
いつも貴重な資料をありがとうございます。

魚会舎は今のdocomoで後大名小路に移ったんでしたっけ。
父の子供の時分には大名小路時代だと思います。
父と祖父(山内小兵衞)は弓を抱えて魚屋町を出て本町を抜け大名小路の魚会社に顔を出して、二の門の古舘九一さんちに弓を引きに行っていたと聞いています。以前の掲示板に魚会舎の屋根にあった鯛の鬼瓦の写真をUPして貰ったことがありました。