唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第15号  昭和42年 10月1日発行
発行人 戸川 顕
編集人 戸川健太郎
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
唐津神事思出草

戸  川  真  菅


 この一文は、戸川真菅(とがわ、ますげ)が、昭和八年十月十八日朝鮮済州島朝天に在って、郷土を偲び、往時を懐んで書いたものである。
 彼は安政五年城内の社家に生れ、少年時代をそこで過したのであるが、唐津に育ったものが誰しも、殊に他郷にあれば一入に感ずる唐津神祭への郷愁を、あわれにも見事に表現したものである。
 彼は当時七十五才の老体で、たゞ往時の思い出を綴っただけであろうから、若干の記憶違もあったようである。例へば、水主町の鯱の竣工した年代や、同時に出来て、何れを先にするかの論争の行われたのを江川町と水主町であるのを、米屋町としたことなどは彼の記憶違いであるにも拘ず、藩政時代当時の神祭の模様が良く書かれており、現代のそれとくらべて、時代は移ってもお祭りに対する心のいつも変らぬことを感じさせる。

 唐津で一年の中、一番楽しみの日はいつかと言わば唐津供日と誰も答うるならん。御一新後は城廓も年々解け頽れて昔の面影次第に変りたれども、例の囃山は今猶一の唐津名物としてもてはやさるると聞けり。
 吾等物心覚えしより十二三才に至る頃は、山とし言えば他を忘れて、うかれたりしものにて、今より之を思うも猶いとゞ壊しさを覚ゆるなり。
 当時は城廓の守り厳重にして、追手の門(大手口に在った城門)明け六つにならざれば開かれず、吾等は床の中に在りて耳を傾け聞けは、城外諸所に鉦や太鼓の笛に和して移動する音を送り来る。直に床を蹴って一散に追手に向う。此の時未だ寅の一刻(午前四時)追手の門は鎖されて内外共に出入りを許さず。家中の腕白は争うて塀の上に跨り、我は失間より覗き見れば、町々の山はいずれも万燈を粧うて門外の広場に集中し来る。
 やがて、時打櫓に於ける明六つの一鼓朝霧を破って轟き渡るや城門始めて左右に開かる。
 この時に於て吾等は先を廻わりて安藤の角に退く。山はいずれもロクロを下して低くなり追手の門をくゞり明神前へと入り来る。
 時少しく移りて、朝陽朝霧を破りて出初むるや、安藤の角より見居れは、長谷川の梅の枝を透して、金光燦然現われ来るものは或は飛竜、或は鯛、その太鼓の太く轟くは本町なるを知りその囃の軽妙なるは刀町なるを予知し、鐘鼓の急噪なるは材木町なりと賭し、手の舞い足の踏むを覚えざりし吾吾なりき。
 かくて山山は宮前に順序を正し、若者等は一旦家に食事を取りたる後、いずれも町々揃いの出立にて再び集り来り、前十一時頃より愈々御輿の発輩とはなれるなり。昔は鹵簿に大名行列様の出立ありて、槍振、挟み箱等の身振りは藩の仲間にて奉仕せしにて行列の珍とせしなりき。他従属の具としては多くの毛槍、弓矢太刀、天狗の面等ありて、町田、神田のカブカブ獅子も七八御輿の前後に従えり社僧には勧松院、社家には戸川、安藤、内山の三家これらは駕又は馬上にて御輿の後につきしなり。かくて大名小路より追手に出で本町を通りて材木町を過ぎ、新堀に少憩し、大石町京町新町を通り、表坊主町より西の浜に着御旅所の献供、三四時間の後、再び表坊主町、新町、刀町を経て還幸となりしなり。
 三つ子の魂百までの諺の如く、今七十五才の老体としても、昔の光景眼前に髣髴たるものあり。
 以下所詠によりて足らざる所を補わん。
    ○
 神事諸詠

  引 初 め

 大神のいでましの日の
 供振を今日はならさん
 初めなりけり
 九月九日即ち菊の節句は栗のこわ飯を家々にしつらう日なりき。この日を以て町々飾山の引き初めとす。吾等家中の腕白は朝より城外に出でて遊び暮せり。家中の婦女はしかく自由ならず、城の矢間より城外の光景をつまだてあこがるゝのみなりき。

  御輿飾

 氏子らが飾る御輿は今日よりや神の心にかよひそむらん 九月二十五日の奉仕にて本呉八中木材京刀米大石紺屋の魚の順にてこれを承わり、番に当りたる町方より出て輿を清掃し、御輿堂に安置し、二十八日宵宮にこれを出し、社の左右に配し夜半人定まりて神体を移す昔は神田村より人を出せり

  宵 宮
 思ひ出をあすにひかゆる宵宮の今こそ神も楽 しからまし

  
 こわ飯の 香らむ頃は山囃し 暁破る 声ぞ賑はふ
 祭日の朝まだきより、家々の前を過ぎれば、こわ飯のむせ上る香りしきりなり吾等は山を見るの心しきりなるや、顧みるいとまもなく遊びまわり、やがて家に帰えりて、朝の膳につくとき一年一度の赤飯に神事の思い出しきりなりき。

  遥 拝

 韓の海を 汐井に汲みて産土の 神の御幸を拝みまつらふ
 身は韓南孤島の一角にあり偶々、祭の当日に当りて望郷の念更に新なり。おもむろに海浜に出てて東方に向い今日の御幸を拝みまつらう。


  幼児の思出
 獅子の毛を うしろにぬきて 肩上げの 袂にひめし昔 をぞ思ふ
 赤獅子、青獅子の毛は守りになるとて、うしろに廻りて、これをぬき、或はガプガプ獅子のあとにしのびてこれをぬき、袂や縫上げの中にひめてほこりいたりき。

  社頭の光景
 小屋小屋のよびものよりも立並ぶ獅子兜こそ見物なりけれ 今は祭の前後宮前の見世物小屋ありて殊の外賑えり参衆の大衆は、佐賀福岡に広がりおれるも、昔は他藩との往来自由ならず、その参集も唐津領分内に止まりしなり。

  門 前
 てんぽこの 梨もざくろも吾が門の 昔ながらに ひさぎおれるかも

 てんぽこ梨というは唐津にては、あまり見受けたることなかりき。たゞ畑島村の道端の某家にその樹ありしを見たりしが今はいかがその他は祭日に七山方面より持来たりて、毎年戸川の前にひさぎおれるを例とし一年唯一回なりき。甘草の如き甘たるき枝様のものにてお祭のしるしに一把は必ず求むるものなりき。

  御発輩
 祝等が心つくしを大神もうずなひましていでたゝすらむ

  西の浜
 清めおける西の浜辺のかり宮に八十氏人の拝みつるらむ

昭和7年の御旅所風景

  カブカブ獅子
 梨柿のならべる方をおのがせにしば口あけて獅子のとう見る。

  鹵 簿
 先供の獅子も兜も大神の道開きして清め行くかも

  御還幸
 元つ宮に 還らひまして今はしも 神の大にえ きこしめすらむ

  赤獅子
 赤獅子の 怒れる鼻を先立てゝ 道開き行く状ぞいさまし

  青獅子 中町
 青こそは 牝御子とぞ知れ二またの 角よりかけて耳たすきせり
 他の獅子はいづれも耳垂れおれるも、これは耳そり上りて、面ざし苦味を帯び角より耳に白と茶の鉢巻をなせり。動くときは上下の金歯の歯切りするを見る。

  亀 材木町
 玉手箱未だ開かず亀の背におさまる君の面かわりなき
 材木町の亀又は浦島太郎といえば、一つの呼物となりて子供等推奨の山なりき。特に材木町は戸数多くして若者等気抜あり、その囃ほ急調にして、西の浜の坂を下る時の如き其の活気あたるべからざるものありき。

  兜 呉服町
 竜頭 前立にせる鍬形の 兜の面はよにもやさしき
 元来竜頭の鍬形は武将の料として頗る威厳あれどもこの面は甚だ柔和にして、他の兜に類なきところ、その囃また緩調にして一般とは区別ありしが、今は果して如何。

 鯛 魚屋町
 味細はし 鯛も交りて大神の けふの大にえ仕え奉らむ
 西の浜の坂を下るとき鰭を揮うて泳ぎ来るは喝采に値せり。

 舟 大石町
 鳳の おへる屋形を船にして 人放たてる中をねり来る。

 飛竜 新町
 天翔る 竜も下り来て大神の けふの御幸に仕へ奉らむ

 金獅子 本町
 黄金色に 足れる面輪を化粧せる これもかはじや牝じしなるなるらむ

 諏訪法性の兜 木綿町
 鹿の角の 兜着けしは昔より 古つわものゝ名に洩れぬかも
 信玄、本多忠勝、山中鹿之助等例多し

  黒獅子 紺屋町
 名のみして 今は昔の影も見ず 深山がくりて思ひ給えしか
 この獅子は他の三者に比して大いに見劣りせるが如し。一つは色の配合当らざるに起因せるならん。余の十二三才の頃なりしならん其の時他の町々と共に引廻り八軒町の東端に於て横倒れとなり、どぶの中に陥りて大に物笑いとなりし事あり、若物等もこれ等を恥とし、それよりは祭事に列することあり、列せざることありていと冷淡なりしが、終に廃絶となりしは若者等に於て遺憾なきか、唐津名物の歴史より見て復活するか、他の製作を拭みては如何。

 獅子鬼 平野町
 この兜 見れば思ほゆ越の国 後したがへし人の形見に
謙信常にこの形の兜を着せしは人の知る処。

 酒顛童子 米屋町
大江山 ありし昔の世がたりを 囃し立ててもひき廻るかな

  蛇宝丸 江川町
 新玉の それならぬども宝舟 足れるを見れば心地よきかな
 蛇宝丸と酒顛童子の出来しは明治十二三年の頃なりしが、二者殆ど同時に竣工して、何れを先列とすべきか決し難く、論争の末遂に隔年先列を勤むることゝなりて経過せしが今は如何なりおれるや。

  玉取獅子 京町
 この獅子は 玉取おふせ今はしも それのり据えて たはれおれるかも
 京町は元一の屋台を出し町家の踊り子をのせて引廻し、辻々にて踊を演じて婦女子を悦ばせ居たりしが、若者等その甚だ活気なきに鑑み、新に製作を試み、年月の順により米屋町の次に列することゝなれり。

  鯱 水主町
 いづれをも 先に打たせてしんがりに 逆立ちおれる鯱の魚かな
 鯱の竣工せしは昭和十四五年の候にして、これを最後として、その後の製作を見ず、以上山と称するもの凡て十五内紺屋町一欠けおれり。ずっと以前にはこの外八百屋町に仁王を出し、塩屋町は張子の鳥居を出せしが、今は如何なりおれるを知らず。

  裏 日
 こゝをせに囃つれても 若者のけふを限りの名残りおしさに
 お祭りも今日にて終るかと思えば、何となく物悲しく、名残惜しかりしは子供心なりき。この日は朝より町を歩き廻り辻々にて山を迎え見るを無上の楽しみとなせり。

 ○いかならむときにあふとも人はみな誠の道をふめとおしへよ

 ○朝ごとむかふ鏡のくもりなくあらまほしきは心なりけり

 ○たらちねのにはの教はせばけれどひろきよにたつもといとぞなる

 ○くもりなき朝日のはたにあまてらす神のみいづをあふげ国民

 ○しろたへの衣のちりははらへどもうきは心の くもりなりけり

境内神社めぐり
 唐津神社の境内には、六つの神社がお祭りしてありますが、今日はそのお宮を順次にお詣りいたしましょう。

  稲荷神社(呉服町)
 先づ本社に向って右手のマキ木とクス木の木立の奥に朱色の社殿が見えます。
 このお宮はお稲荷様で御祭神は宇賀魂命(うがのみたまのみこと)で、呉服町から奉斎されています。慶長の頃、京都伏見よりこの町に飛来されたとされ、その後一時平野町木浦山に鎮座されましたが、やがて明治三十七年に当神社境内に奉遷されたものです。
 それから今日まで、呉服町々内安全の守護神として崇敬愈々加わり、毎月一日十五日には、町内婦人会の手で清掃の上参拝が行われ特に二月の初午祭には、衣食住、商売繁昌、農漁業等の振興の神として福徳を授けられますので、当日は町内のみならず、沢山の参拝があり、年々盛大にになっています。

  寿杜(ことぶきしゃ)
 呉服町のお稲荷さんのお詣りをすませて石段を下るとすぐ隣りに、石垣の上の石祠に鎮座されているのが寿社で、御祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)をお祀りしてあります。又往古神亀顕現の瑞祥を寿きてこの霊をも合祀されました。
 この神様は蜆(しじみ)を好み給うといわれます。首より上の病(目、耳、口咽喉、鼻、頭)に霊顕があらたかで、年中蜆をさゝげてのお詣りが絶えません。 又この神様は理髪業の方々の守護神として崇敬され去る昭和三十七年には唐津市の業者の主催で毛髪祭が盛大に行われました。

  粟島神社
 この神社は古く中町に鎮座されていましたが、明治の末年、熊野原神社へ奉遷されました。その後町内でしきりにその御神徳を追慕して、例年夏越祭を行っていましたが、やがて昭和三十二年熊野原とは別に社殿を唐津神社境内に新築して紀伊国名草郡加太浦の粟島本社から勧請したものです。
 毎月三の日が縁日で、その日には町内婦人会から清掃参拝がなされ、七月二十五日の夏越祭は特に中町へ御出座になり盛大な祭りが行われます。
 このお宮は腰から下の病に霊験があり、賽者が絶えません。

  鳥居天満宮
 寿杜に隣り合って鎮座されるのが天満宮で、御祭神は菅原道真公であります。
 天明の頃、唐津の豪商常安九右衝門が、太宰府天満宮へ唐金の大鳥居を奉献するに当り、木綿町の鋳造場にその成就を祈願して特に太宰府から勧請したものでそれにちなんで鳥居天満宮といわれています。
 (奉献された太宰府の大鳥居は、その参道に堂々としてそびえ建っていましたがこの度の戦争に回収され今は見ることは出来ません。)
 やがて無事に工事が終り目出度く奉納されてからもそのまゝ木綿町の守護神として崇敬せられ今日に至っています。
 その後大正年中こゝに奉遷せられて後も、春秋の祭りは絶えることなく盛んに行われています。

 
 水 天 宮
 今度は本社の参道を横切って西側へまいりましょう高い石垣の台の上に石造りのお宮が鎮座されています御祭神は安徳天皇であります。御鎮座の由来は、唐津在住の筑後地方出身者で結成されている筑後人会の人々が、郷土の氏神様である久留米の水天宮を昭和三十年に勧請されたものでありまして、旧暦四月五日には例年盛大な集りが行われます。去る昭和四十年には金員が浄財を持寄って唐津石の立派な鳥居も出来上り、社頭に景観をそえています このお宮の霊験は水難を救い給うことで、本社より授けられる特殊の護符を授けており、夏の候は特にこの護符を頂く人が沢山あります。

  稲荷神社(本町)
 水天宮の隣りに朱色の社殿が見えます。これは本町がお祀りしている稲荷神社で、御祭神は呉服町と同じです。
 このお宮は文化年中にこの本町が町内安全の守護神として祀ったもので、この時蜆貝に乗って流れつき給うと伝えられ、火除の霊験があるとされ、そのお守りが授けられます。
 二月の初午祭には呉服町と同じく町内総出で盛んなお祭りで賑わいます。

唐津神社に於ける
雨 乞 い 祭 り

 今年は七月の中旬以来二カ月もの間雨らしい雨が降らず、上場地方をはじめ県内各地で、深刻な水不足に悩まされている。
 平常は何とも思っていない水も、一度これが不足するとなると、何といっても毎日の生活の上に欠くことの出来ないものだけに、その困りようは一通りではないわけである。
 そこで今年は各地で、雨乞い祈願が行われているようである。去る九月十日に見借の庚申様では、浮立舞を奉納して祈願をこめたところ、翌日には早速相当量の雨を見たのである。九月の二十日には、県内で最も深刻といわれている武雄市では、市長さんが祈願祭主となって、雨乞い祭りをすることゝなっているとか。必ずや効験があって降雨を見ることであろう。

 現代は宇宙時代などといわれて、人智による業は何一つ不可能なことはないようなことをいうが、人工降雨もさして効果がなく、まだまだ大自然のいとなみを人工によって、意のまゝにするなどという、こざかしさは通らぬことで、やはり神のお助けを願わねばならぬようである。
 ところで、この雨乞祈願は古来全国各地で行われたもので、それには決って神事芸能が奉納されるようである。テレビのふるさとの歌まつりを見ていると地の雨乞いの踊りや、舞や、唄がいつも披露される この雨乞いの歴史は古く「日本書記」皇極天皇元年八月の条に、天皇が親しく自ら雨乞祈願をなされたことが見える。
 又その後中古代には、京都の神泉苑で五竜祭の名の下に祈雨祭が行われ、勅使として蔵人が行向い、挙式の後に雨乞舞が行われた。又「延書式」によると、畿内諸社の神にも舞踊を捧げて祈雨祭を執行したとあり、後世の雨乞踊りは其の民衆化されたもので、胸に鼓をかけ、吹笛の音につれて「あーめーたもれ、うーじがみ」と歌いながら踊るそれが更に後世には複雑な民謡式の雨乞唱を生んだのであるといわれている。
 さて、この唐津神社に於ける雨乞い祭りも古くから行われており、神事は一つの型があり、これによって行われたようである。
 いよいよ、雨乞い祈願をすることに決れは、当年の総行司は神輿飾りを奉仕して、神輿二基を神殿に据える。各町曳山は神前に勢揃いの上山囃を奉納する。こういう中で、神輿の前で、三日間熱烈な雨乞い祈願が行われるのである。
 この雨が降ればよいが、三日経っても降らぬとあれば、いよいよ、神輿のお出ましを願い、西の浜御旅所へ神事となるのである。
 そうなるとこれは、秋の供日そのまゝの巡路を神幸されるわけである。御旅所では連日祈願がなされ、雨が降るまで続けられる。このため各町曳山は各自日覆いの小屋掛けをして持久戦に入るというわけ。
 この例は明治十年の雨乞いでなされたそうである。
 この年は連日の旱天で、皆困り抜き、各地の村々、里々ではそれぞれ祈願がなされたが一向に降らぬので遂に唐津大明神に御祈祷ということになり、神前に曳山を据え並べ、山噺を奉納する中で祈願祭を厳修し三日に及ぶも効験なく、遂に神輿のお立ちとなり、十五の曳山が前後に供奉して神事を行い、西の浜へ繰り込んだのである。各町は山小屋を建てて日覆いをするなど、いつ終るかわからぬ祈願行事に入ったのである。
 神輿の前では連日熱祷が捧げられて三日目ついに待望の雨をみたということである。この時魚屋町は鯛山を海に泳がせて、神意を伺ったといわれている。
 その後も数回行われたそうであるが、中でも大正のはじめの雨乞いには、例の如く山が勢揃いして、祈祷があり、終るやいなや、一天にわかにかき曇って土砂降りとなり、皆その霊験を畏んだということである。
 又最近の例では、昭和六年に雨乞いがあった。この時は、時の町長萩谷勇之助氏が祭主となり、氏子総代区長が参列して、祈願がこめられ、神前の広場に各町曳山が勢揃いして噺しを奉納した。
 この時もその日のうちに雨を見て、一同ホッとしたことである。
 唐津地方はさほど深刻ではないが、武雄などでの水不足が、一日も早い雨でうるおうよう願ってやまない。
唐 津 神 祭
十 月 九 日 午後七時 初供日囃初ノ儀
〃  二十五日 午前九時 神輿飾ノ儀
        総行司一ノ宮 本 町
           二ノ宮 呉服町
〃  二十七日 注連おろし
〃  二十八日 午後九時 前夜祭曳山曳出し
十月二十九日 午前零時 神御奉遷の儀
  〃    午前五時 神田獅子舞奉納
  〃      十時 神輿渡御曳山曳出し
  〃    正  午 御旅所曳山勢揃
  〃    午後三時 還御曳山曳出し
   三十日 午前十時 翌日祭曳山市内曳廻し