唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第77号  平成10年10月1日発行
発行人 戸川 省吾
編集人 戸川 惟継
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
唐津神祭今昔譚C 

 御旅所・明神台
 御旅所とは神幸(神様が通常の御殿を出られて、氏子の町を廻りながら、それぞれの発展を愛でつつ恩頼(みたまのふゆ)をお授けになるのに際して、ある特定の縁地にとどまられて、最大の祭典を齋行する最重要な聖地を、御旅所といいます。
 唐津神祭の場合は、唐津の大神の御顕現の縁地であります。西の浜辺をいいます。又、唐津大明神の神号を賜った神縁により、明神様のおとどまりになるところとして、明神台ともいいます。因に、神輿が神社を出発されるのを、発輿(はつよ)、御旅所までを渡御(とぎょ)、御旅所到着を着御(ちゃくぎょ)、御旅所から神社までを還御(かんぎょ)といい、発輿に際しては、発輿祭があります。
 唐津神祭の御旅所(明神台)は、西の浜辺です。
(今は、唐津市立大成小学校の校庭の一部になっていますが、気持としては、正真正銘の西の浜辺だと思っています。)この西の浜辺こそ唐津の大神様が臨御され、祀り創められたという唐津神社御鎮座の聖地です。
 さて、御旅所は神社にとりましては、神幸祭(唐津くんち)の最重要の聖地です。軽々に動かしてはならない神域です。ではありますが、残念ながら、世の中の推移と共に、移動せざるを得ず、少なくとも四回の移転を繰り返して、現在に至っております。その間、終戦直後の神社制度の大変革の際には、御旅所は年間のうち、数時間の場所だから、神社にとっては最高の縁地とは言え、境内とは認め難しと判定され、一時は民有地になってしまいました。佐賀郡富士町の所有者と、何回となく交渉を続け、ようやく御旅所、曳山曳込の聖地を認めて貰いました。そして何よりも、この地を御旅所として確固たる聖地にしてもらったのは、篤志者より御旅所付近を境内地として奉納されたことによります。
 それでは、時代順に、その移転の歴史を記してみることにします。
 @西の浜辺(最初)
 社伝によれば、「この頃御神幸始まる」とあるが寛文年間(西暦一六六一年〜
一六七二年の間)と、されています。勿論、これより以前も祭礼は続けられていましたし、賑い的なものも
あったのでしょうが、都風の、前後左右整った神幸行列が始められたのが、寛文の頃と伝えられています。
 更に記録によれば、御神幸の御旅所は「黒船焼打の際、砲台を築きし跡なりし」とあります。この場所を現在の状況に合わせてみますと、恐らく、大成小学校の校舎付近ではと考えられています。
 その構造は、石垣造りで大神様が、海より御臨御された神話にもとづいて「北の方−海の方−を正面とし、神輿は、西側に一の宮、東側に二の宮を安置すること古来の例なり」とあります。曳山は、その後方の広い砂地に、南部より北部へ刀町〜新町が、西側に東向で勢揃いし、本町〜水主町・江川町が、東側に西向で勢揃いするものとなっています。
 ちょうど、曳山行列図のような形であったろうと思われます。この御旅所は、大正十年九月を以って閉鎖され、新御旅所へ移転することになりました。
 ◎南の高台(砂山上)
 先の砲台の跡の御旅所は砂浜の低地であり、台地等より衆人俯瞰の地である等々、当時の人々の考えが強く、又、参拝の便なるを図りたいとして、更には、軍隊の演習及び飛行機滑走路等に障害になる等、当時の世相、世論の高まりの中で、神意と民意にかなう最適の地を、ト定して移転することになりました。
 その所が、砂山の上の高台の御旅所です。場所は、旧来の御旅所地より南へ四十三間の所となっています。旧、西高校の校庭に隣接した砂山状の高台で、玄界灘を一望に臨める景勝の地でありました。ちょうど、今の大成公民館あたりだと思います。
 この高台の御旅所の構造は、高さ四尺の花崗岩の石垣台地で、面積六十坪とあります。その工費、金七百余円は氏子の浄財を以って賄われたと記されています。
 この高台の御旅所での神輿の位置は、旧来の御旅所と同様で、海を臨まれて北面され、西に一の宮、東に二の宮でした。しばらくの間は、御旅所の上に覆いをかけて風雅なものでしたが、砂が落ちてきて大変でした。又、奥には臨時の控室もありました。
 さて、この頃の曳山は、御旅所の前面の広大な砂地に、海を背に南面して、西側より刀町〜東側へ水主町江川町と弧を描いて勢揃いしていました。曳山の順序は、建制順を侵すべからずが大原則であります。しかし、この頃この広大な西の浜御旅所への曳込みの時だけ、前曳山三台−即ち、刀町・中町・材木町−は、曳き込み競走をしていたように思います。
 さて、このころの西の浜御旅所からの曳出しは、曳き込み同様、若しくはそれ以上に力漲る場面がありました。
 現在の通称「産業道路」は、完全な道路とは言い難いような道でした。曳山は先ず曳き出されて、この道路上に一旦出てきます。そしてそれから再び砂場へ入ることになります。ちょうど砂山の高台の御旅所の西側真下になる所です。この砂場は、意外に深く、しかも当時の曳子は各町とも、今のように大勢ではありませんでしたので、曳山はこの第二の砂場から動けなくなるほどでした。その時、、采配一振前後の曳山町内から曳子多数が加勢し、曳山は何事もなかったかのように、江川町方向へ進み出すということを、各町が繰り返しなから、力、気合のある見せ場であったように思います。
 この御旅所も、やがて移転せざるを得なくなりました。
 ◎西の浜辺(近年)
 最高の場所と思われていた、高台との御旅所でしたが、県立唐津西高等学校の運動場拡張と体育館建設と
いう一大事業のため、昭和三十二年で廃止、移転することになりました。こうして御旅所は、旧来の地に近きあたりに移転しました。 構造は、高台の御旅所を基本的に移設しましたので、花崗岩の石垣造、高さ四尺の立派な御旅所(明神台)でした。
 御旅所は曳山勢揃の位置と同列のところになりました。これを機会に、神輿はこれまで海を正面として鎮座していましたが、廻れ右とでもいいましょうか、南面し、西に一の宮、東に二の宮となりました。
 そして曳山は、西側に南から刀町〜新町、東側に南から本町〜江川町という古式の姿で勢揃いすることになりました。
 更に、曳山の順路(帰り)も変更になり(大成小学校もなければ横断歩道橋もない)産業道路より西進(富士見町通り)して西浜町角から左折南進し、江川町へとなりました。
 この御旅所では、昭和天皇陛下が曳山勢揃(臨時祭を奉仕し勢揃する)を、天覧″されるという栄を賜りました。このような一大吉事もあり、御旅所移転三度目にして、ようやく恒久的聖地になったと、関係者一同、大いに安堵したものでした。
 ◎西の浜辺(現在〜)
 さて、恒久的御旅所と安心したのも束の間で、またまた移転(撤去)せざるを得ずということになりました。
 昭和三十五年には早くも移転の話がありました。それは、現在の如く、西の浜辺に大成小学校が建設されることになり、その校庭の真中に御旅所があることになることになり、市当局は勿論、神社、総代、曳山、神輿、学校、PTA、地区等々の話し合いの結果、ついに昭和三十七年、石垣造の御旅所を撤去されてしまいました。その石垣の一部が今も境内の一部にありますが、感無量なものを感じます。
 幸い、唐津市御当局の御配慮を得て、「毎年、仮設式御旅所を同じ位置に設置撤収すること、その費用は市が支弁する等を約定し現在に至っております。

 こうしてみてみますように、御旅所は四度の移転を繰り返しながらも、その場所は、聖地のほど近くであり、神幸そのものの本来の姿を変えることなく、祭は盛大になってきています。
 これらは、とりもなおさず、この四度の移転に際して時代時代の関係者の努力の賜物であります。こんなやりとりもありました。
 (大成小建設の頃)
係官「…この広場(御旅所のこと)は、たった三時間のことだから、道路上に曳山は…」
氏子「…唐津人は、その三時間のために一年をかけている…(この発言者は曳山町内の人ではない。)…」
 このように、御旅所には唐津人の神幸祭に対する一途な思いがこめられています。その時代、その場所を超越して生きつづけている心が「くんち」の源泉なのだと思います。

 御旅所の本来の姿は、海を臨まれる海辺に近きあたりです。いつの日かを思いつつ、本年の神祭の安全と盛儀を祈っています。

総代異動
元旗町 賀長 仁一 新任
西旗町 江口 達吉 新任
 曳山役員異動
◎退任
材木町副取締 浦田 利夫
◎新任
副総取締 大西康雄 本町
本町本部取締 中川 邦彦
材木町副取締 米倉  茂


唐 津 神 祭
十月九日 (金)
 ◎午後七時 初供日奉告祭
十月二十九日(木)
 ◎午前九時 神輿飾りの儀
   一ノ宮 八百屋町
   二ノ宮 中町
 ◎午前十一時 本殿祭
十一月二日(月)
 ◎午後七時三十分 宵曳山曳出
  各町万灯をともして社頭勢揃(午後十時頃〜)
十一月三日(火)
 ◎午前五時 神田獅子舞奉納
 ◎午前九時 発輿祭
 ◎午前九時三十分 ☆御神幸発輿(煙火五発合図 市内一巡)
 ◎正  午 御旅所祭
 ◎午後三時 還 御  ☆御神幸発輿(煙火五発合図 曳山は町内へ)
十一月四日(水)
 ◎午前十時三十分 翌日祭
  曳山社頭勢揃の後曳出
 ◎午後二時三十分 米屋町通曳出
 ◎午後四時 江川町通曳出
 ◎午後五時頃 曳き納め
      (いづれも煙火三発合図)(曳山展示場へ)
十一月五日(木)
 ◎神輿納めの儀
  一ノ宮 木綿町
  二ノ宮 材木町
神社庁情報
 @神社関係者大会−五月十四日(木) 鹿島市民会館で開催。唐津より三十四名参加。祐徳神社を参拝。
 A神職総会…九月四日(金)佐賀県神社庁で開催。県内神職五十四名出席。神社本庁より遠藤恭久奉賛部長来佐。
 神宮大麻増頒布について会合。
 B国民精神昂揚運動合同研修会−九月二十八日〜二十九日(月〜火)−佐賀市の市村記念体育館と大和町の龍登園で開催。講師は、藤岡信勝氏「戦後教育を見直す」と、出雲井晶女史「日本の神話と親の使命」
 C全国神社総代会大会…十月二十一日(水)宮崎市シーガイア(ワールトコンベンションセンターサミットホール)で開催。唐津市地区支部より三名参加。

 曳山情報
 ◎出動‥・第三番曳山材木町「浦島と亀」−平成十年十月十八目(日)大分市へ出動−第十三回国民文化祭おおいたのオープニングパレードへ。
 ◎会議…全国屋台山鉾連合会福岡大会(七月十一日〜十二日)−唐津より約十五名出席。
 ◎出動…第二番曳山中町「青獅子」〜からつ土曜夜市のオープニングパレードに出動。その後、町内に展示す。(七月十八日)
 ◎親睦…曳山各町親睦ソフトボール大会(六月七日・於=松浦河畔運動広場・当番=中町)
 優 勝−新 町
 準優勝−中 町
 三 位
 ◎囃子…各種大参に出動。七月二十六日(日)幕洗い行事。小雨につき、中町の麦畑に会場を移動して開催。

 社務日誌
 (自・五月一日 至・九月三十日)
 〔五月〕一日、十五日−月次祭・五日−春季例大祭(晴、約七十名参列、祭典奉仕十一名、献幣使=笠原充博副庁長、奉納=曳山勢揃、池坊生花、浦安舞、植木市)・八日−九州各県神社庁連合会神職総会・十一日−曳山本部会議・十四日−佐賀県神社関係者大会・十八日曳山総会・二十日〜二十二日−神社本庁会議・二十三日−水天宮祭
 〔六月〕一日、十五日−月次祭・一日−神社庁会議・七日−曳山ソフト・十五日−八幡宮祭・曳山本部会議・十八日−氏子総代研修旅行(志賀海神社)・さかえ大黒天祭・二十三日−神社庁長参拝
 〔七月〕一日、十五日−月次祭・一日−海開式・十五日−熊野原神社祇園祭・十八日−中町曳山出動(土曜夜市)・十九日−満島八幡宮夏越祭・二十三日−神社庁会議・二十九日−夏祭(茅の輪くくり神事)・三十日−神社庁会議・曳山委員長会議
 〔八月〕一日、十五日−月次祭・六日〜七日−神職研修会(宗像大社)・八日−神社庁会議・神青会創立五十周年式典・二十日、二十二日−囃子出動・二十九日−曳山本部会議・三十一日−海閉式
 〔九月〕一日、十五日−月次祭・二日〜三日−神社庁会議・四日−神職総会・十四日−神社庁会議・十五日−木綿町鳥居天満宮祭・十八日−満島八幡宮祭・二十一日−下神田天神社祭・二十三日−和多田天満宮祭・二十五日−曳山総会・二十八日〜二十九日−国民精神昂揚運動合同研修会

 行事予定
◎唐津神祭は別掲
十月
   五日 大麻頒布始式(神社庁)
  十三日 神祭会議
  十八日 曳山出動 (材木町−大分市へ)
   〃  ふるさと茶会
十一月
   九日 新嘗祭
 七日〜八日
 十四日〜十五日
       七五三祭
 下旬 支部大麻頒布式
十二月
 初旬 大麻頒布式
 二十三日 天長祭
 三十一日 除夜祭
 ◎平成十一年
一月
   元日 歳旦祭
   六日 新年祭
二月
   三日 節分祭
  十一日 建国祭
三月
 二十一日 春季皇霊祭
   中旬 祖霊祭
月次祭=毎月一日・十五日
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