唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第4号  昭和37年 4月27日発行
発行人 戸川 顕
編集人 戸川健太郎
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
祈年祭と春祭
 祈年祭は風雨旱虫害の災無く五穀豊饒ならむことを祈り尚宝祚の隆昌国力の充実を祈願する祭祀である。
 我日本国は農を以て本としているので、古く豊葦原千五百秋の瑞穂の国と言われる程の優しい豊かな国柄である。既に皇祖天照大神は天下蒼生の食ひて活(い)くべきものぞと仰せられ、更に天係降臨には手づから三種の神器に齋庭の稲穂を添えられた程である。八束穂の茂穂(いかしほ)は我国民生活の本源と言うべく国民士気に係り国家富力の本をなす故に豊年を願わないものはない。誠に農業は民族生存上必須の大事業であることは言を俟たない。由来我国は皇祖天照大神が一方ならぬ御心を農事に注がれたことや、須佐男命、大国主命其他の神々が農業を重ぜられたことは記紀に明かなことで祈年祭が重い儀典であることを思い泛べねはならない。
 天武天皇の頃から毎年二月四日に神祇官に於て全国の諸神明に幣帛をお頒ちになる儀式が行われ、先ず神祗官に於て礼年条を執行、諸国の重なる神職は上京し神祗官の齋庭にて幣を頂き帰国の上各自の神社にて荘重に祈年祭を行った。伊勢皇大神宮へは特別に使を差遣されて行わせられたことは言うまでもない。
 其後瑳峨天皇の頃からは遠国、交通不便、怠慢等又種々弊害も出来して諸国の神職も上京せず次第に少くなったけれども、延喜の制度の確立さるるや全国神社の内、三千一百三十二座を式内社と定め、七百三十二座の神々には官幣を奉り、残り一千三百九十座の神々には国司が奉幣することとなった。官社の方は前と変りなく神職上京するも、国幣の方は諸国の神職は上京せず地方長官たる国司が其政庁に於て神祇官の式に準じ班幣を行ったのであるが兎に角祈年祭は国家の重い祭祀として執行されたのであったが、中世国乱れてこの祈年祭も廃絶してしまった。
 祈年祭は「トシゴヒノマツリ」と訓み「トシ」の意味については種々説あるも其一つは迅速(とし)の義で歳月の経つのは河水の流るるが如く、又光陰矢の如しと言う工合に早いと言う意味、其二は稲を蒔いて収穫するまでの一年間を費す処から稲を「トシ」と言い、其三は「田寄し」の約りで田穀を神に寄せ奉ると言う意味で「コヒ」は令の義解に「祈るは猶祷るの如し、災作(おこら)ず時令をして順度ならしめんと欲して即ち神祇官に於て之を祭るが故に祈年と曰ふ」とある通り神祇に「コヒノミ」奉る義で、以上要するに稲の豊作を春の初めに当り神々に祈ると言う意味で又此の祭を二月四日に行ったことは天武天皇の四年甲申の日に始めて行われ、甲申の日が四月に相当したので此様に定められ、明治以後は二月十七日に行う様に定められた。何れにせよ此季節は春の初めで萬物は冬眠より覚めて愈生育を始めんとする時で稲にとりては先ず蒔く為に水に浸し、発芽せんとする時である。又春とは古く萬葉古今等にもある通り「春の張れる柳の云々」「霞立つ木々の芽も張る云々」等の如く稲種の芽の張る時なるが故に春とは呼ぶのであって又二月を「キサラギ」と言うのも此時季に稲種を蒔く為に鋤鍬をとりて地を刻ぎ(きさらぎ)耕すと言う処から「キサラギ」と言う工合に稲と言うものを基本として季節の名称が由来する訳で此祭も春の初の二月十七日行われる様になったのであろう。
 国家の祭祀としての祈年祭は中世以後廃絶の憂目はみたものの民衆の中に春に祈る心の現れは祭りとなり鎮火祭、田の神祭、奉射祭、粥行事、春祈祷等と其他色んな形で行れ、町々村々の鎮守の森には氏子の民衆等が一重瓢を携えお寵りをして神賑の催しも添え、其時季も二月四日や十七日に限らず春暖の候を選び之等の祭を春祭と総称して盛に行い来った。
 唐津神社でも四月二十九日には五穀成就を祈願して春祭を行い町々の氏子中より又御頒分の村々よりも夫々の催し物をして盛に行われたのである。
 明治御一新にて王政復古の精神に則り、祈年祭も明治二年再興さるるに至り天皇賢所、神殿、皇霊殿の宮中三殿に於て祈年祭を行わせられ、伊勢皇大神及官国弊社へも奉弊せしめられ後大正時代となり、府県以下神社へも知事、郡長、地方事務所長、市町村長が幣帛供進使となって参向し、氏子総代有志多数参列して、新嘗祭、例祭と共に神社の三大祭の一つとして厳かに執行されて来たのであった。
 終戦後は政教分離の建前から国家制度の面を一新して日本民族の願である前述の春祭として行われる様になった。これは神社神道の祭が昭和二十年を契機として忽然と誕生したものでなく日本民族大衆と共に古くより発生したものであるからその国家統制の面はとり除かれても民衆の豊年を祈る心や、祭を行う為の不断の勤労意欲は日本民族の尊い伝統として持続せねばならない。此祭の祝詞(のりと)の一節には「手肱(たなひじ)に水泡画垂り(みなわかきたり)、向股に泥画(ひぢかき)寄せて取作らむ奥津御年を」とあり、総てを神に依頼することなく、出来得る限りの労苦を先ず神に誓い人事を尽した後に神に祈ると言う両方面に現れた日本大衆の精神も大いに注目しなければならないであろう。
 祈年祭は前述の通り稲の豊饒を祈ると言うことから稲に限らず五穀となり、最近では、諸産業に携わるものの繁栄を祈ることとなり代表的な農工商から炭林漁蚕と言った広範囲に亘るものに発展して考えられる様になったのであるが、こうなると現代は稲を主とする農産が他の産業より不振の様に見える。農以外の他の産業が進展して年間の農業生産は低下し農業人口も少くなって行く為に農業の重大なる意義も見失われたかに見えるが之は大いに反省を要する処で、如何に商工業等の文明が進んでも農業こそは人間生活の基本であることに変りはない。テレビやカメラは米の二十俵三十俵にも相当する貨幣を要するのでそれは一つの文化生活の指標とも言い得る。しかし大切なことは、米と言うものの支給が先ず基本的になされて其上でカメラやテレビが役立つのであってその逆は成立し得ない。そこに明白なる本末の存することを見失ってはなるまい。農産品が工商産品よりも、もっと基本的だと言うばかりでなく自然の生産力たる神々の産霊の御恵を仰ぎつつ労く農民生活こそは広く大衆の勤労生活の基本となるものである。
 さて唐津神社も五穀成就の奉祭を古くより明治御一新後も行って参ったのであるが前申した通り国家の神社制度も次第に整って大正三年よりは此の春祭とは別に国の祭典として新に祈年祭を創むることとなり、郷社たりし時は東松浦郡長或は唐津町長市長が、又県社昇格後は佐賀県知事が幣帛供進使となり参向厳粛盛大に執行し来ったのであった。
 終戦後は之を廃して春祭と共に行い以上述べた祈年祭の意義も忘るることなく今日まで執り行って来ているのである。

明神小路の話
 唐津明神の二の鳥居から一の鳥居まで長さ二丁幅五間の道路を明神小路と称す道の両側には豊かなる人家整然と立並び木立ちの繁みもあり路面は最近舗装され其南へ尽くる処国道に面して大燈籠あり、社号標もありて此処より只一筋に社殿を拝すべく、又社殿に座して此の道を望めば浩洋たる中にも真直なる心を養うに足るのであって、参道として誠に格好なる道すじではある。加うるに山笠格納庫は改築され、市役所新築の暁には輪奐美又一入り見るべきものがあるであろう。
 此様な参道も昔から存在するのではなく、幾多先人の労力によってかくも立派なものとなったのであるから其由来をたずねて見るのもあながち無意味なことでもあるまい。
 藩政時代から明治初年までの唐津城内と言う処は頗る不便な処であった。城郭に囲まれて出入口は大手門と西の門と只二つのみ。道路も文字通り小路で狭い。大体城下町と言うものが軍事的要因にて成立したものだから敵を欺く為には、わざと見透しを悪くしたり、敵を追い込む袋小路を作ったりした処がいくらもある。
 大名小路や二の門内は別として他の西ノ門小路、埋門小路、松原小路等は諸所に歪もあれば道幅も漸く三間と言う工合で、我明神小路の如きも道幅も二間半なら、しかも先の方は行詰りで只今の松崎病院と天野家迄しかなく、その前方には囲郭と肥後壕にて塞がれ言わば袋小路の様なもので、賑かな市街地とは遮断された狭苦い道路ではあった。参詣するにも、歩くにも此の城内程不便な処はなかった様である。
 十月二十九日の唐津神祭にした処が宵山笠が社頭に勢揃して正午にお神輿がお立ちになるまでは参拝の人出もあって賑かであったがお神輿がおでましになり、賑やかな山囃で山笠もお伴をして社前から出てしまうと急に淋しくなってお宮の前には猫の子一匹さえ居ないと言う有様であった。当時は祭りの賑いの中心は勢溜りと札の辻であった。新町の浄泰寺の前の広場を勢溜りと言い昔事ある時は軍勢が勢揃いをしたと言う処で札の辻とは高札場の只今の郵便局の前の広場で、此の二つの広場には高物や露店も見世物も立ち並んで大層賑ったが、社頭は頗る閑散であると言う奇妙なことであった次第である。これではいけないと御一新この方神社関係者氏子総代の間で社頭の興隆策が計画されはじめた。
 所で明治の文明開化の風は我唐津にも訪れて、封建的幕府的のものを一掃するかの如く明治二十一年唐津の町を東西に貫通する国道か開通した。当時としては余程進んだ事だっただけにその工事も劇しく又必要以上に広大なものとされて、世に此の国道は極道とさえ言わるゝ程であった。しかし之が唐津の町の発達に大いに役立ったことは言うまでもない。
 我唐津神社に於いてもこの国道開設に刺戟されて、明神小路を延長し道幅も広め、この国道に連絡させて
社頭の殷賑をはかるべく明治二十五年十月に其の計画も具体化し、石垣の取毀し、肥後壕の公有水面の埋立てて土橋の新設等其の筋の許可を得て之等の工事に要する人員は氏子各町より労力奉仕と言うことになった。この氏子の労力奉仕と言うことこそは氏神氏子の美わしい関係を如実に現わす参道開設工事に相応しい見栄えのするものである。氏子各町即ち内町、魚屋町、郭内外に外町の大石町、材木町も参加して働ける者は皆、土運びに石担いにと言う工合に奉仕した。尤も土橋を作ること等は業者に委せたことは言うまでもない。そして今日は何町、明日は何町と言う工合に日割をきめて、又食事や休憩時間には太鼓を打鳴らして一糸乱れぬ統制ある行動をとり、現場の監督には氏子総代である八百屋町佐々木吉治氏が当った。
 氏は之を大役と引受けて一生懸命に氏子を督励し又氏子銘々も之に対えて努力したので大いに工事も進捗したのであった。
 之に反して明神小路道路拡張の方は人家買収と言うことがあるので思うに委せず、氏子総代も大分心配している最中に顧問である大島小太郎氏は早くから道幅は五間でなければいけないと強く提唱されていたのであったが、総代会の席上初めて五間説を発表さるるや総代の一人はビックリして「へゝ五間とは何と又法外な」と後ろにのけぞり返ったと言う程であるから皆取り合わなかった。之が当時の常識である。今でこそ五間でも狭くなっているが当時としては全く法外な言うべくして行われざることであった。大島氏の先覚者たりしことは普く人の知る処乍ら今更乍ら氏は先見の明ある人なりと其の感を深うする次第である。
 大島氏は氏子総代が取合わずも熱心に説得された。総代も氏の熱心にほだされてとうとう其気になって人家買収の難事を取りさばき又若干の空地も道路の外に取得して、明神小路開鑿事業と同時にこの拡張事業も完成を見たのである。
 時に明治二十六年四月十八日のことであった。そしてこの落成祝いのお祭りには御輿様も親しくこの新地新道をお通りになって大手口までおでましになり、又氏子各町よりは。思い思いの趣向を凝してお祝い申し上げる中にも刀町は大国旗を十文字に飾り立て、魚屋町は三俵餅一重ねを五尺角の三方にお供えし、又新町は大提灯を中にランプをともして飾ったのであるが、之は新町の正円寺の本堂で作り出来上って本堂から出すのに大変困ったと言う話が残っている程である。
 こうして開通拡張のお祭を祝う氏子の人々は自分等の手によって出来上った道を歩き互に喜び合い相続いて参拝したのであった。
 翌明治二十七年の唐津神祭よりは此の明神小路に露店も高物も立並び、参拝者の便利も大層よくなり社頭は空前の賑いを呈したのである。
 それからここには神社としての威厳を表示しなくてはならぬと言うことになり逸早く木綿町よりは石の大燈籠を寄進し、刀町よりは大幟を奉献し、同じく刀町の宮崎家よりは大鳥居を奉献し、国民学校、青年学校よりは社号標を奉献し、又前記の通り若干の空地には次第に各町の山笠小舎が建設され最近見事なる格納庫となった。こうして此の辺りは神社の景観に一段の光彩を放つこととなったのであるが、此の処こそ唐津神社氏子の敬神と労力奉仕と言う尊い心と汗と油によって出来上ったものであって後上地して町道から市道とはなったが、氏子先人の残して呉れた御蔭を忘れてはなるまい。
 此事業に与って大いに尽力された氏子総代各位の御尊名は左の通りである。
 明神小路 松沢庚太郎
 埋門小路 鈴木 利生
 坊主町  桑原 躬直
 新 町  前川仁兵衛
 郭 外  木下 辰治
 刀 町  山岡 善助
 紺屋町  山口治兵衛
 米屋町  古舘正右衛門
 本 町  富永仁兵衛
 平野町  神原 民衛
 八百屋町 佐々木吉治
 呉服町  深見徳兵衛
 中 町  横山彦兵衛
 京 町  松田 嘉助
 魚屋町  中島甚兵衛
 木綿町  脇山徳兵衛
 顧 問  大島小太郎
今一の鳥居の前から明神小路を通してはるかに社殿を拝して七十年前を偲びつつ書き誌した次第である。

明神台の撤去について
 秋のおくんち″に神輿の御座所となる明神台は、いよいよ撤去することゝなり、三月三十一日氏子総代山笠関係者等が参列して撤去祭を行い名残りを惜しんだ。
 これが撤去問題は永い間の懸案とされていたものでこゝが大成小学校の建設に伴い、運動場敷地として必要な所となったためである。
 今度市側と交渉の結果、撤去後は組立式の神輿台を造り、位置はほゞ現在地とすること、山笠の曳込みについては従来通りとすること等を取り決めた。
 このいわゆる明神台は、神幸祭に於ける御旅所として神輿渡御のための御座所となる所で、当神社御鎮座の由来に基く由緒深い所で実に唐津人の心のふるさととも言うべき聖地として親しまれて来た所である。
 今年のおくんち″からは装いも新に立派な御旅所に神輿をお迎えすることになろう。
 なお氏子総代、山笠関係者中より委員を選んで、新しい御旅所建設の促進を図ることになった。

祭典行事報告
自昭和三十六年十月一日
至昭和三十七年三月三十一日

十月一日 月首祭
 一日八日山笠囃子講習会
  四日 鳥居天満宮秋祭
  九日 初供日祭
  十日 金刀比羅神社秋祭(公園)
 十五日 月次祭
  〃  大石町山笠塗替落成奉告祭
二十五日 神輿飾付ノ儀 総行司中町木綿町
二十九日 神幸祭
三十日 翌日祭

十一月一日 月首祭
  〃  神輿納儀 総行事交替材木町京町
  八日 山笠供覧 全国ホテル協会
  十日 新嘗祭、大麻頒布式
 十二日 坊主町金刀比羅神社秋祭
 十五日 七五三祈請祭

十二月一日 月首祭
 十五日 月次祭
三十一日 大祓、古神札焼納祭除夜祭

昭和三十七年
一月一日 歳旦祭
  六日 新年祭
 十五日 月次祭

二月一日 月首祭
  三日 節分祭
 十一日 紀元節祭
 十五日 月次祭

三月一日 月首祭
  九日 境内稲荷社初午祭
二十五日 小笠原家祖霊祭
  〃  鳥居天満宮春祭
二十八日 氏子総代会(予算その他)
三十一日 西ノ浜御旅所解体祭

 氏子総代就任
 今回八百屋町総代隈本芳太郎氏退任につき、後任とし山崎富雄氏が就任した。

献幣使参向
五穀豊穣
産業繁栄
唐津神社春祭
四月二十九日午前十時
奉納生花池ノ坊唐津支部
奉納演芸雲井演芸団
午後七時開演 於 外苑仮設舞台
           (雨天の時は市民館)


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