唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第63号  平成2年10月1日発行
発行人 戸川 省吾
編集人 戸川 惟継
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
 神輿二基
 御鎮座一二三〇年祭(昭和六十年)記念事業として、七十年振りに塗替えられた。
    向って 左 一ノ宮神輿
         右 二ノ宮神輿
総代異動
西城内 岡田 末義 退任
呉服町 前田 政美 帰幽
坊主町 後藤 利典 就任
神祭と総行司
 唐津神祭には、総行司と呼ばれる役を務める町内がある。現在では、全く形骸化してしまって、神祭の際の唐津神社神輿奉仕のみがその主たる任務として続けられている。これには順序があり、古来一定して変ることはない。この順番は、曳山の順番とは全く関係がなく、独特の順を今日まで続けている。これは、唐津の城下町形成時に由来するものと言われている。
 即ち、本町・呉服町・八百屋町・中町・木綿町・材木町・京町・刀町・米屋町・大石町・紺屋町・魚屋町・平野町・新町・江川町・水主町の十六ケ町である。このうち、水主町だけは神祭神輿当番が御役御免となっている。これは、大石大神社御役があるからとされている。
 総行司というのは、本来、先の十六ケ町が組織する、唐津藩主公認の自治組織だとされている。これには、前記した独特の順番により当番町(惣町)が、廻ってきて、城下町の行事を全て取り仕切っていた。そのうちの一つの重要な役目が、神祭行事の神輿当番であり、総行司町は、現在の曳山取締会を始め、消防団、商店街、自治会等あらゆる組織を束ねた権限が、藩主から公認されており、唐津町々の誇りであった。
 この誇りは町々だけの特権として、神祭の栄華を現在も支えている。

唐 津 神 祭
十月九日(水)
  ◎午後七時 初供日奉告祭
十月二十九日(火)
 ◎午前九時 神輿飾ノ儀
   一ノ宮 中 町
   二ノ宮 木綿町
 ◎午前十一時 本殿祭
十一月二日(土)
 ◎午後八時 宵曳山曳出 各町曳山万灯をともして社頭勢揃(牛後十時過ぎ)
十一月三日(G)
 ◎午前五時 神田獅子舞奉納
 ◎午前九時 発 輿 祭
 ◎午前九時三十分 ☆御神事発與 (煙火五発合図−市内一巡)
 ◎正 午 御旅所祭
 ◎午後三時 遷 御 ☆御旅所発輿 (煙火五発合図−曳山は町内へ)
十一月四日(月)
 ◎午前十時三十分 翌日祭  曳山社頭勢揃の後曳出
 ◎午後二時三十分 米屋町通曳出
 ◎午後四時 江川町通曳出  (いづれも煙火三発合図)
 ◎午後五時頃 曳き納め  (曳山展示場へ)
十一月五日(火)
 ◎午後三時 神輿納ノ儀
   一ノ宮 材木町
   二ノ宮 京 町
唐津くんちを迎える心

    宮 司 戸川省吾
 暑い夏が過ぎて秋風がたちはじめると唐津の人はそろそろくんち≠迎える心になります。
 凡そ祭りは、多くの人々の心を奮い起し、結び付け和める働きをもっている。この力が地域の振興と融和の源泉ともなり、ひいては国家、世界の和平、安定にも繋がる。祭り中で培われた和やかな心が世の賑わいを産み、生成発展をもたらしでゆくところに、祭りを基盤とするわが国風があり、この国の姿を修理固成してゆくのもまた祭りであります。
 唐津くんち≠フ持っている意味と心も正にこの通りであります。
 しかし、現代の社会には、祭りを継承するのにさまざまの課題が存することは誰もが認めざるを得ません。
 都市部でも、過疎地域でもそれぞれの問題を抱えながら、より満足のゆく祭りのために、氏子の人々の努力が重ねられています。
 唐津くんち≠フ場合も目に見えない色々の問題を曳山各町や、氏子のみなさんは抱えておられるのでしょう。
 いつの時代でもそうした問題点や、新らしい世の中の変化に応じて祭りも又変化してきました。祭りは正に生きているのであります。生きているからこそ変化を重ねて祭りの地分色や特色が生まれるのでしょう。
 そして、さまざまな特殊性が強調されますが、いずれも確固たる伝統を受け継いで年月を重ね、神社という神社、家という家で祭りが行われているのであります。
 今年もまた、永い伝統を護りづゝ、盛大な唐津くんち≠ェ奉仕出来ますよう氏子崇敬者みなさまの御協力をお願い申し上げます。

       ◇
 さて、ここで唐津くんち≠ノ二基の神輿(みこし)がお出ましになりますので、神幸祭の意味についで述べてみましょう。
 一般に神幸祭というのは神社に常住せられる神さまが、氏子崇敬者の家々を見まわり、氏子のみなさまに神の恩頼(みたまのふゆ)つまり神の祝福を授けられこれを戴くのであります。
 日程、順路、お乗物、供奉者など神社によりいろいろ違いがありますか、神幸の祭典をとり行う所を御旅所(おたびしょ)といゝ、往かれることを神幸または渡御、婦えられることを還御と言います。
 唐津神社の神輿は一の宮が往吉大神、二の宮が神田宗次公の御神体で、十一月二日の宵祭りの深夜お宮移しの儀を奉仕して御神体を神輿に移御いたします。
 日程は十一月二日宵祭りで午後八時から曳山が万燈をつけて華麗な宵山曳きの順行があります。
 三日が本祭りで神幸祭です。順路は内町、外町、郭外を視り、西の浜の御旅所で御旅所祭が行われます。
 曳山は順次御旅所前に曳込み、曳山祭りの最高頂に達します。
 四日は翌日祭で曳山は町内を順行していわゆるくんちまいり≠して帰り三日間の賑わいをしめくくって賑やかに展示場に納めます。
 神幸行列の順序は、頭上に大御幣を戴いた第一番刀町曳山を先頭に三番材木町曳山の次に二基の神輿を奉護してしんがりの江川町曳山まで一キロ余の行列となります。

       ◇
 次に、御旅所(明神台)についてその沿革を尋ねてみましょう。
 社伝によれば往古神功皇后が鎮祭された住吉大神の神鏡を神田宗次公が西の浜の海面から臨御これを御神体として祀られたのが唐津神社御鎮座の由緒であって、その神体顕現の由縁の地へ御旅所を設けて、そこへ神幸されるのが唐津くんち≠ナあります。
 神幸祭が始まったのが、寺沢公が築城に際し領内の祈願所と定められた時とされ記録によれば、その場所は「黒船焼打の際砲台を築きし跡なりし。」とあります。
 現在地で言へぱ、大成小学校の敷地で、石垣造構造で、御神体が海より臨御されたので北方海面を正面とする。
 神輿の据え方は「西に一の宮、東に二の宮を安置すること古来の例なり」とあります。
 曳山はその後方に南部を上位として、刀町より新町西側に七台、本町より江川町若しくは水主町は東側に整列するものなり」とあります。
 この御旅所は大正十年九月を以って取こわし、新御旅所は、大正十年九月二十日の氏子総代会に於て建設が議決された。

移転の理由として、
一、旧御旅所は、浜地中最も 低地にして、神幸祭中高 台地等より衆人俯瞰する 等の嫌いあるため。
ニ、参拝者の便をはかるため。
三、軍隊演習及飛行機滑走等の場合活動に便ならしむるため。

 次に位置は旧地より南へ四十三間の所とし、当時の県立唐津高専女学校に隣接した高台の海面を一望に臨む景勝の地にあり、その構造は、高さ四尺の花崗岩の石垣に面積六十坪、工費七百余円は氏子の浄財を以って賄われたと記録されています。
 この御旅所はその後昭和三十二年まで存在しました。
 しかるにこの年、県立唐津高等女学校の運動場拡張のため、海岸寄りの旧地のあたりへ移転を余儀なくされましたが。
 やがで又、昭和三十五年には市立大成小学校の建設に伴いその敷地となるため市の要請により、昭和三十七年遂にその施設を全く撤去せざるを得なくなりました。
 そして、その時市当局と契約を結び、仮設組立式の御旅所をその都度建設、撤去すること、その費用は市が負担することとなりました。
 しかし本来旧儀によれば海面へ向って神輿を安置すべきを、現在は全く逆の方向になっているので、明神さまのお許しを得ているとは言へ誠に心苦しい限りです。
 今後、いつの日か時桟到らば、西の浜の海浜の浄地に北面して昔のまゝの固定した御旅所の建設を約束し今日に至っていますが実現の日を夢見ています。

曳山情報
  ◎どんたく出動

 一昨年、昨年に続き、どんたくへ出動。好天に恵まれくんち日和=@の中、福博の街に「エンヤ、エンヤ」の声が、元気にこだました。
 尚、出動町は次の三町。
第八番曳山本町(金獅子)
第十番曳山平野町(上杉謙信の兜)
第十三番曳山水主町(鯱)
 
 ◎修繕
 第五番曳山魚屋町「鯛」の台車(車輪)は、大正十三年に製作されたもので、傷みがひどく、今年取り換え工事をする。
 設計監理は、(財)文化財建造物保存技術協会で、材料や工法も旧来のものに倣って製作されるとのこと。
  
◎幕洗い行事
 今年も、囃子保存会の主催で、松浦川・町田川に曳山囃子が響いた。(七月二十五日の潮に合わせて開催された。)
 尚、各曳山町内でも、夫々幕洗いが行われ、高島まで行った町もあるとか…。
  
◎囃子講習会
 八月五日から九日までの五日間、囃子講習会が開催された。今回は、前回以来十年振りの開催であった。全員笛科の講習生で、上級者より初心者まで計二十一名が熱心に受講した。
 最終日の九日は、総取締を始め曳山役員の見守る中神前で、受講生による囃子奉納が行われ、修了証が授与された。
 尚、受講生は次の通り。
◆道囃子修了者‥石田裕宣・岸田高典・岸田和久・古賀友和・冨田裕樹・長島亮太・平山慶介
◆曳山囃子修了者…松川文雄・田中俊輔・井上雅勝・鈴木健太郎・幸島健・佐藤英人・戸田眞由子・野添竜二・田中健雄・高田雅憲・石橋雅人・築山明弘・築山知生・三根正治(計21名)
 今後とも、練習を重ねられ、技術の保存、囃子の伝承、くんちの興隆に貢献されるよう祈ります。
  
◎曳山ソフト大会
 今年で第八回になる、曳山各町対抗親善ソフトボール大会は、本来の開催日の五月十二日早朝、突然の降雨で延期となり、改めて八月十九日、昨年と同じ河畔グランドで開催された。
 年々盛大な大会となり、グランド一ぱいに、曳山人の元気なプレーが続いた。優勝は大石町、二位は江川町、三位は米屋町だった。