昭和42年10月24日の唐津新聞に次の記事を見いだしました。 (2013.2.6) | ||||||
神輿 トラックで巡幸(正しくは巡行) 唐津神祭に人手不足の嘆き 唐津曳山会では昨二十三日唐津神社彰敬舘で総会を開らき、来る二十八日夜の唐津くんち前夜祭および、二十九、三十両日の唐津くんち本番のやまひきの順序を次の通り決定した。なお当日唐津神社等の神輿(おみこし)は、奉仕員の都合によりことしはトラックで御巡幸(正しくは巡行)の予定である。 △前夜祭 二十八日夜の曳山は午後九時を期し、一番曳山刀町から大手通りの順路をたどって曳き出し、途中で呉服町、中町、木綿町、材木町がこれにしたがい、東町角から水主町通りに折れて、大石町、魚屋町、京町、平野町、新町を一巡し、各町曳山と合せて唐津神社前に勢揃いする。 △二十九日 午前九時を期し刀町を先頭に曳き出し例年のコースを辿って大手口に引き返し、坊主町郵便局角から西の浜に入り大成校前の明神台御着休憩後、還幸は三時に出発し、西の浜屠畜場前から江川町通りに出で、往路の坊主町通りから郵便局横−県道に出て、唐津神社前に着いて第一日を終る。 △三十日 午前十時唐津神社前を曳き出し、前日同様のコースで坊主町郵便局横通りに折れ、江川町通りに出て休憩し、午後三時すぎ出発し県道朝日町通りを唐津神社前に向い第二日目を終る予定。 |
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手持ちの昔の絵はがきには表紙にそのトラックが写っておりました。 |
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写真提供 小崎 克哉様 |
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以下写真提供は唐津神社
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唐津神社の神輿について
神輿に関する資料を抜萃してみました。
唐津神社の神祭と曳山に関する抄録 戸川鐵著 | |
10 神幸祭神輿渡御のしかたの変遷 (昭47.11.23.記) 唐津神祭は遠く寛文年中に始まりましたが、当時より神輿が氏子中を神幸され、藩主もかならずこれに供奉してお祭りへの奉仕を怠らなかった、と言われています。その神輿の渡御のしかた、つまりどのようにしてお運び奉ってきたかというと、それは次のように変遷しています。 1 お舁(かつ)ぎしてお運びした……………(当初寛文3年から昭和41年まで) 2 自動車に奉載しての御巡幸(ここは御神幸が正しいかも、巡幸は間違い)………(昭和42年から昭和45年まで) 3 神輿台車に奉載しての御巡幸(ここは御神幸が正しいかも、巡幸は間違い)…‥(昭和46年から現在まで) 御渡御はこのような移り変わりをして行われてきました。御神幸の祭の神輿(おみこし)奉舁(かつぎ)は、古くから神田の氏子たちが受けもち、昭和41年までそれをつづけてきました。また、御神幸に必要な神具やお祭りの御道具のお持ち運びは、今日でも神田区でお仕えいたしつづけています。このように、神輿の御渡御にお仕え勤める人を、神輿伴(とも)揃いと言います。 神田区で神輿伴揃いを勤めるのは、申すまでもなく、古(いにしえ)の地頭豪族の神田五郎宗次公が唐津神社の二の宮に合祀されている由縁によるものです。いつまでも宗次公の功を追慕しまつらねばという考えには変わりはありませんが、かつては農村一色であった神田も、第二次世界大戦以後はしだいに時世の推移や要請に伴って、生活状態も生業内容も変化してきました。農業はつづけられていても農具や運搬作業それに交通手段などは、ほとんど近代的機械化に頼ることになり、若者であっても、それまでに比べて、肉体労働力や持久力が目立って低下してきました。そのようなわけで、重いものを長時間舁いで作業をすることもほとんどなくなり、若者のそのような体力が著しく低下しているのです。 神田地区は他地方からの転入者のために戸数は増加しつづけていますが、農家は減少しつづける一方の状態なのです。そこで、神田の敬神長老のかたがたから、毎年神輿奉舁の伴揃いを集めるのに苦心の度合いか重なるとの声か出るようになり、ついに昭和41年に、本年限りで神輿お舁ぎを終わらせていただきたい、との申し届けが提出されました(当時の神田区の代表者は岡本嘉市氏)。 神社側としても氏子総代としても、前々から神輿の御運びについては何とか方法を変えなければならない、と考えていた矢先のことでした。誰しも神輿車のことは第一に考えたのですが、まず予算の問題で直ちに新調はできませんでした。そこで、神輿車ができるまでの当面の策として協議の結果、神輿車としては些(いささ)か不似合いではありますが、松浦通運会社(略称、まるつう)から借りた2台の貨物自動車に適当な幕を掛け、それに神輿を奉載しての御神幸が、昭和42年から昭和45年までの神祭に4年間つづけられました。 ところが、昭和46年4月1日に、唐津神社筆頭氏子総代の花田繁二氏か80歳で急逝されました。御遺族のかたは、氏の御生前からの念願を叶えるために、多額の浄財(注8)をもって製作されたみごとな神輿車2台を奉納されました。氏子一同はもとより、平素から何とかして神輿車を立派な曳車にしたいものだと願っていましたから、そのありがたさは一入でした。 この神輿車は黒地の車体に黄金の金具を打ったものであり、赤塗りの大車輪のいわゆる御所車風のものです。ですから、曳山にもよく調和して、御神幸の行列に精彩を放っています。これに関連して、神田の神輿伴揃いの人たちの服装も曳山の曳子風に、また供奉の氏子総代の服装も裃を着用して一文字笠と白扇と白足袋と白緒の草履といずれも新調し、面目を一新しました。 このようにして、唐津神祭初日の御神幸は、昭和46年から古式ゆかしく、かつ華やかに行われるようになりました。 注8)浄財とは、慈善のために義捐した金銭のことです。 【付記16】進藤幸太郎氏への伴揃いに対する表彰 神田区山口の進藤幸太郎氏は、昭和47年までの67年間、神輿伴揃いを勤められ、それも子ども時代の神様の御旗持ち時代から1年の怠りもなくつづけ奉られたとのことで、昭和47年11月9日(神社の新嘗祭の日)にお宮より感謝状が贈られました。 |
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17 唐津神社神輿のはなし (昭48.1.15.記) (昭40.10.1.「社報第11号」より) 唐津神社神輿の渡御のしかた(神幸祭)の変遷については、29〜30頁に述べたとおりです。 おくんちの曳山は明神様のお供をして、華やかに曳き出されます。この明神様は2基の神輿に鎮座され、神田から選ばれた若者の肩に乗られて神幸されることが、昭和41年までつづけられてきました。現在では、漆塗りの立派な神輿車に乗られて神幸されますが、神田から伴揃いを勤めることには変わりありません。 この神輿は、一体いつ頃造られたものでありましょうか。記録によると、寛文年間と言いますから、昭和45年から逆算しても300年くらいまえになります。この神輿は鳳輦(ほうれん)型と言われ、簡素な中に気品の高い風格を備えており、見るからに神々しく、胴回りが6尺で高さが1丈余りもので、神輿としては大型の部類です。その当時、大阪の住吉大社の注文で造られたものを譲り受けたものであると言われ、その立派さもうなずかれます。重量がどのくらいあるかはわかりませんが、相当の重さであり、以前は16人で担いでいたと言われています。当時、棒があまりにも長すぎて、街角を廻るのが困難であったために短くされて、8人がかりになったそうです。 この神輿は、毎年、総行司の2カ町の奉仕によって飾りつけが行われます。その飾りつけは、昭和42年までは10月25日に行われていましたが、昭和43年からは神祭の日取りの変更によって、10月29日の本殿祭に先だって行われることになりました。神輿の上のほうは、鳳凰から錦戸帳、鏡、鈴、力綱、締布などの付属品か多く、なかなか手間がかかります。 また、行列の伴揃いともなれば、さらに人事を要することになります。行列の順序は、先頭が太鼓、次に大榊、紅白旗、鉾面一対、大弓、大傘、そして一の宮神輿がつづき、その後に同様に二の宮の伴揃いが行列を作るわけです。奉仕の総人員は70名の多きを数えます。伴揃いの人員は、古くから神田区からの奉仕とされ、今日でも変わることなくつづいています。これは二の宮の御祭神である神田宗次公の由縁の地である神田の氏子から奉仕されるものであり、その信仰の深さが知られます。 神輿も長い年月の間には、たびたびの修理も施されていますが、中でも大正年間には全面的な塗替えが行われ、また最近では昭和30年に1200年祭を期して、金具その他の修理を行い、面目を一新しました。 【付記22】現在の神輿 (昭59.4.1.「社報第47号」より) 現在の鳳輦(ほうれん)型の神輿は明治2年に新調したもので、大阪住吉大社のものと同形ではありますが、二級品とのことです。(「唐津市史」による) 追録中の「神輿物語」には天明2年となっています。 |
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13 唐津神社神輿物語 (昭63.2.29.記) (昭59.4,1.「社報第47号」より) 神輿は、「シンヨ」または「ミコシ」と称し、神幸の祭に神霊が乗り坐す輿のことである。通常は木製黒塗りで台と胴と屋根との3部から成り、その形は4角形、6角形、8角形などがある。屋根の中央には鳳凰を置き、台には2本の棒を縦に貫き取りつける。その起源は不明であるが、奈良時代には用いられたと考えられる。 さて、唐津神社の神幸祭に出て座す2基の神輿は、昭和59年より見て198年前の天明6年の作で、古い型の凰輦(ほうれん)型と呼ばれるもので、大阪の住吉神社の御用品であったものを譲り受けたものと言われていて、当時の一流品と思われる。造りは簡素の中にも品格のあるもので、その時期のどういう経緯でこんなものが手に入ったものか、記録も全くなく詳しいことは皆目わからぬが、当時のこととて、はるばる上方から舟使で送られたものであろう。 材木町の大年寄りの平松家の文書の中に、この神輿の塗替えや金具の取り付けなどについて、安政6年の記録が断片的に記されているくらいである。73年後のことです。当時は供日のみならず、世の中の不景気や凶作の年や雨乞いなどの時は、御祈祷のため神輿を出したり曳山を曳いたりしてお祭りが行われていたようだ。 この神輿を飾りつけるには、色々の付属品がある。神鏡、鳳凰、力綱、締布、鈴縄、擬宝珠、几帳、瓔珞(ようらく)燕などがあり、その他威儀物として大榊、社名旗、紅白旗、赤青鉾面、胡録、薙刀(なぎなた)、大傘、槍、剣、太鼓、賽銭箱などがある。この中で、薙刀、槍、剣は、終戦のときにアメリカ進駐軍の命令で接収され、今は欠けたままになっていて、歴史を物語っている。 毎年供日前10月29日は本殿祭が行われるが、それに先だって当白朝、神輿飾りの儀がある。旧城下町の16町より年番順(町ができた順)で2町が総行司となり、一の宮、二の宮の飾付けを奉仕し、当年の神幸の責任町になるのである。 総行司というのは、藩政時代に城下町の世話をする当番町のことで、当時は只に供日のみならず、世俗的な一切を取り仕切っていたものである。こういう古い習慣がこのような進んだ世の中に連綿として受け継がれて、生きて残っているのは珍しく、神事伝統として尊いものと言えよう。 因みに、16町とは、本、呉、八、中、木、材、京、刀、米、大石、紺屋、魚、平、新、江、水(ほん ご はっ ちゅう もく ざい きょう とうべい たいせき こんやの うお へい しん こう すい)の順で、これは築城当時城下町ができた順と言われて、16町各町の頭文字を取り、口拍子で呼び覚えていたものである。 神祭当日この神輿を担いで実際に奉仕する“伴揃い”は、昔から神田区からこれに当たることになっている。総勢60名で、これは神田が唐津のルーツであり、二の宮の御祭神神田五郎宗次公の子孫が即ち神田の佳人であるということから、現在でも全神田を挙げて奉仕される。 従来は1基に8人の肩によって神幸か行われたが、去る昭和46年からは、元氏子総代、曳山総取締であった花田繁二氏の華麗な御所車の奉納によって行列の様も整い、面目を一新した。 唐津神社御鎮座1230年式年祭(昭和60年)の記念事業での塗替えは、前回大正2年より70年ぶりの総塗替えになる。 神輿庫 神輿は神霊を乗御するものであるので、神聖な専用の庫に納めるのが本儀である。 唐津神社では、藩政時代の古文書に「御輿蔵三間に三間、但産子普請」としてあるように、境内東北隅現在の中町粟島神社の敷地に在ったが、土蔵造りの建物も老巧化して昭和13年神殿改築の際取りこわしとなり、旧拝殿の一部に他の雑用品と同居の止むなき有様が畏れ多く40年も続いた。 1230年式年大祭の記念行事として、現在の拝殿の西側に立派な神輿庫が新築された。1230年の式年大祭は昭和60年4月29日に斉行された。 |
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(二) 昔の神祭 右に言う神輿は二つながら明和二年(一七六五)の作で、戸川家の口碑によれば、御神幸は寛文年間(一六六一−七二)から始まったということである。寛文以前のことはともかく、寛文頃から御神幸が行われたとすれば、現在のようなヤマが作られる以前にも、そうした御神幸には必ず何物かがおともをしていたであろうと思われる。古老の口伝には、本町は左大臣右大臣を、塩屋町は天狗の像を、木綿町は仁王様を、江川町は赤鳥居を、京町は「オドリヤマ」(舞台を拵えてその上で人間がおどるもの)を出していたという。それらは「走りヤマ」と呼ばれていたというが、いつの頃のことであるか、確かなことはよくわからない。 文献の徴すべきものを探求した結果、一二求め得たものは次の如くである。其の一はもと県庁の社寺兵事課の田中治八氏(現に久保田駅近くに居住せられ、六十七歳になられるだろう−戸川老宮司談)が、佐賀の内庫所で得られた史料で、もと唐津藩の庄屋福本氏(当主素太郎氏は唐津市新築町に居住、七十七歳位)から出たと推察される文書を戸川健太郎氏が写されたもので、末尾に 末五月 土井大炒頭内 大森治郎兵衛 とあって、恐らく宝暦十三年(一七六三)土井水野両藩公の交替に関する覚書と推定されるものの一節に 一、城内唐津大明神九月廿九日祭祀の節西ノ浜へ神輿の行列御座候故事社役の内より一人同心(四字不明)相勤目付並組足軽致出役候惣町より傘鉾等差出於西の浜角力有之候ニ付代官手代頭組の者立会差出候 とある。宝暦十三年は大約二百年前、現存の神輿が新調される直前、神輿の行列があり、惣町より傘鉾など差出したということが注目されるがそれは当然ありそうなことと想像される。「傘鉾など」とは如何なるものであったか、これだけでは具体的なことはわからない。けれども、一般的に言って、傘とは恐らくヤマの粗朴な原初形態に近いもの、鉾とは古く神社の祭り、近くは大名行列などに立てた鉾の類で、それらに適当な装飾が施されたものを言うので、いずれも広義のヤマに含まれる。併し、それらが変形を遂げる過程に於て中間的形態のものも生ずる筈だから、「傘鉾」は「傘と鉾」との二種でなく、「傘鉾」という一つのものであったろう。いずれにしてもやはりヤマの一種であることは同じである。なお惣町とは場下の町々を一括して言うときに使う言葉で、惣町という一つのものがあるのではないから、「傘鉾等」は言うまでもなく複数で、最も普通に考えて、十五六の町々が夫々工夫をこらしたものを造って出したのだと解すべきである。 |
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曳山のはなし 古館正右衛門著 | |
(7)神輿と曳山の順列 (一) 唐津神社の神輿の西の浜への御巡行は寛文年代から行われていたようであるから、供奉者はいたと思うが記録がなく内容は不明である。しかし、最近宝暦十三年の御巡幸(ここは御神幸がふさわしいかも、御巡幸は間違い)の記録が見つかり、傘鉾を担いだ火消装束の火消粗の供奉と藩役人の参加が記されているので、仲間程度の武士も参加していたのであろう。其の後、車輪のついた走り曳山となったが、その順序等は全く不明である。文政二年赤獅子が奉納されてから順次各町から曳山の奉納が続くとともに行列等も定まったことと思うが、材木町の年寄平松儀右衛門が遺した「唐津御触書御願書諸記録控」と題をつけた記録に初めて行列に関する記録がある。 安政六年九月二十七日大年寄から各町の年寄に配布された神祭関係の文書が記述されている。 その文面に、 引山順番=一の宮・江川町・塩屋町・木綿町・京町・米屋町・二の宮・刀町・中町・材木町・呉服町・魚屋町・大石町・新町・本町 注意書の中に年寄・組頭中は麻上下着用にて御付添可相成と、あるが、神社総代の服装については一言も記入されていない。これは年寄組頭等が当然氏子総代に任じられ曳山とともにお伴することになっていたためではなかろうか。神祭行列図には上下を着けた十数人の参列者が画かれているが、これが氏子総代神社総代であろう。 三年後の文久二年九月二十八日付の文書に当年引山順左の通りと記す。 江・塩・刀・中・材・呉・米・一の宮・魚・大・新・本・紺・木・京・二の宮 右のように安政六年の順序と可成り違っている。従って、曳山の順は、その年、その年によって決められていたようである。西の浜の神祭行列図に描かれた順序は魚屋町を主題に画いたものだから、作為のある順序になっていると想像できる。 元治元年信玄の兜ができ一閑張漆塗の曳山が十台揃った機会に十台の中間、五台目と六台目の間、即ち、鯛ヤマと鳳凰丸曳山の間に一の宮・二ノ宮の輿をおき、江・刀・中・材・呉・魚・一の宮・二の宮・大・新・本・紺・木・塩・米・京と順序を決め、さらに明治二年、平野町・米屋町の一閑張の曳山ができた折に、江・刀・中・材・呉・魚・一の宮・二ノ宮・大・新・本・紺・木・平・米・塩・京と順序を定め、明治八年京町の珠取獅子ヤマができ、翌明治九年江川町・水主町の曳山が加わり、江川町と水主町の紛争の結果、大石神社の神輿が行列に加わるようになってから、神輿に先駆するとされる獅子舞の獅子頭二台が先頭に並び、つヾいて神を運んだと伝えられる亀(当時は宝珠を負っていた)という因縁のある製作年代順に並び、つヾいて守護の武将源義経の兜というように、奉納順に永久的に決定した。 つまり、刀・中・材・一の宮・二ノ宮・呉・魚・大・新・本・大石神社神輿・紺・木・平・米・京・江・水となった。ただし、紺屋町ヤマは明治二十二年まで、また、江川町と水主町は隔年順序交代となっている。 注 曳山の順序=走り山・塗り山併用の時代はそれぞれに変っていたが、刀町曳山より江川町・水主町の曳山の完成後は現在のように一定している。(古老談) @平松文書によれば、安政六年の神幸に従った引山順番の町名に「江川町(鳥居)・塩屋町(仁王)・木綿町(天狗ノ面)・京町(踊り屋台)・米屋町(不詳)・刀町(赤獅子)・中町(青獅子)・材木町(亀)・呉服町(兜)・魚屋町(鯛)・大石町(鳳凰丸)・新町(飛龍)・本町(金獅子)」の十三町が記され、三年後の文久二年の引山順書に「江(鳥居)・塩(仁王)・刀・中・材・呉・米(不詳)・魚(鯛)・大(鳳凰丸)・新(飛龍)・本(金獅子)・紺(黒獅子)・木(天狗の面)・京(おどり屋台)」 の十四町があげられている。 この町の中で当時現在の曳山があるのは九町で、文久二年の時でも、「江・塩.・木・京・米」の各町には現在のヤマはないにかかわらず、引山をしたとすれば、類似のヤマがあったと考えねばならない。 また、文政六年の記事にA、祭に出た作りものについて 本 十一日鯉の滝登り之着物並夏帯にて造物 呉 扇之地形二灯余計之由 八 中 古田打之由最上との事 木 兎の腕に金羽之形のよし 材 始終山之儘灯し物脇並より減し取〆方並役中差閊旁遠慮歟 注@ 平松文書によれば、安政六年の神事に従った引山と順番について、江川町より京町までは仮役、米屋町は不詳、刀町より本町まで本物。文久二年には仮の鳥居と仁王を先に、本物と仮の天狗とおどり屋台がでている。 A この作りものは神祭だけのものでなく、賑いごとに随時に即座に作られたものではなかったかとも思う。(古老談) (8)神輿と曳山の順列 (二) 平松文書の引山順序書の中の米屋町のヤマについて、飯田一郎氏は米屋町のヤマの名がないと指摘されている。このことについて戸川眞菅氏の「思出草」の文書に注目したい。文中に「ずっと以前には、この外八百屋町は仁王を出し、塩屋町は張り子の鳥居を出せしが、今は如何になり居れるやを知らず」とある。思出草は眞菅氏の九才から十才頃の記憶を喚び起して書いたと思われるので、明治初年頃の事であるが、記憶に混乱があるようである。 八百屋町の仁王は誤りであり、塩屋町の鳥居とあるのは江川町の鳥居の誤りであろう。また、古老の話として、昔は本町は左大臣右大臣、塩屋町は天狗の面、木綿町は仁王、江川町は赤鳥居、京町は踊りヤマを出したと、飯田一郎氏が記しているが、信玄の兜ヤマから酒呑童子と源頼光の兜ヤマのできた間のヤマとして木綿町のヤマは仁王となっている。しかし、そうすると、或る期間木綿町は信玄の兜と仁王の二つを曳くことになり、それは無理であり、思出草に戸川眞菅の見た仁王ヤマは、飯田氏が問題にしている米屋町のヤマではなかったかと思う。 注 この項に関しては若者の感違いもあるようだから、読者は他の関係書とつき合せて読む必要があろう。(古老談) (9)神輿と供揃い 神輿は明和二年、大阪住吉神社の神輿と同時に、今日の鳳輦型のものが造られて分けられたものである。御巡幸(正しくは巡行)の際は神田の人たちによって担がれ、担ぐ人たちは神祭行列図によれば奴たちに劣らぬ華麗なハッピを着ているが、しばらくは神社の財政面の負担もあって@白衣に変っていたこともあるが昭和四十六年から現在の姿になっている。しかも、奉仕する神田の若者の減少もあって担ぎ手が減って昭和四十年から現在の御所車に載せ、神主が神輿前に腰掛けて車の上で神輿とともに進むようになった。大石神社の神輿は旧態のまゝ行列に加わっている。神社総代・氏子総代の人々の衣装は藩時代は麻上下であったが、武家消滅とともに上下着も廃り、紋付羽織に袴で従うようになり、染抜きの紋付が縫紋になり袴も段々減って衣装も乱れ始めた。加えて戦後の乱れは甚だしく洋服姿が混在するようになったので、御所車の新調による神輿の運行の姿を変えると同時に藩政時代にかえって道中笠に上下姿に統一することになった。 神田若者たちの仕事は御所車を曳く牛を扱うことと、神社の宝物の諸什器を奉持し、賽銭箱を二人で担い歩くこと。神輿を社殿から御所車まで運び、帰還後社殿へ納める仕事もその任務の一つとなっている。 注@ 担ぎ手の衣は元は白丁・のち・軽袗(かるさん)となっている。(古老談) |
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唐津神社社報 第24号 昭和47年5月1日発行 | |
神輿車奉納 花田家より 昨年秋のおくんちは従来の自動車に替って、華麗な曳車神輿になった。 これは近年来不評をかっていた自動車を何とかして立派な曳車にしたいものと氏子中が願っていたものであるが、その当の大総代であった花田繁二氏が急逝されてから御遺族の方が御生前の氏の念願を叶えるべく多額の浄財を以って製作し奉納されたものである。この車は黒地の車体に黄金金具を打ったもので、赤塗りの大車輪のいわゆる御所車風のもので、曳山にもよく調和して、神幸行列に精彩を放った。 これに関連して神輿伴揃いの人々の服装も曳山の曳子風に又供奉の氏子総代の服装も袴着用一文字笠、白扇といづれも新調し面目を一新した。 |
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