唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第24号  昭和47年5月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
唐津市政四十年の歩みと共に
 唐津神社の経過を顧る

 元来戦前までは我日本国は祭政一致の国柄で、我唐津神社にても国家の宗祀として市政と不離一体に発展して参ったのだが、昭和二十年十月占領軍の神道指令にて祭政分離となり市政もこれに関与せざる処となり、特に経済面に於て支援せざる方針となり一宗教法人として発足し、占領後と雖も憲法にその方針は盛込まれているのであるが、何もかも市政と没交渉だというのは神社経営を至難なものとするので、憲法に抵触せざる限り市御当局にお世話になっているのであって、時恰も今年は市政四十年の記念式典が五月二日即ち城まつりの前日に盛大に挙行されることとて我唐津神社にてもその翌日五月三日には城まつりと一緒に春祭を執行するので、唐津神社四十年の経過を市政と係わり深き部分なりともとりあげて顧る次第である。
 昭和六年幾多の波瀾はあったれども兎にも角にも町村合併となり、翌昭和七年一月一日を以て市政執行され初代市長に河村嘉一郎氏が就任され、今までの町制時代とは面目を一新して諸々の大事業を行なった。第一水道の新設、導水堤の埋立、千代田橋架設、青年学校創立、ゴルフ場建設、鏡山開発等を断行して市民の目を驚かした。一方我唐津神社では昭和五年頃より神社裏の隣接地の天理教会の敷地買収に成功して従来の境内地の広さを倍に増加し、社殿を此処に大改築せんと昭和十一年に至り募集趣意書を作成し市御当局に提出して大募集にとりかかったのである。同年西唐津港は第二種港湾に昇格したが河村市長功成りて第一期終了と共に惜まれて西山市長と交替、翌十二年には市政五周年祭、観光祭、水道開通祭等の三大祝典が催うされ、我唐津神社へも其奉告祭が執行され社頭の広場には「この一杯の水の恩」と云う標柱が建てられ、様々な出し物が社頭に繰込み大賑いを呈した間もなく七月には支那事変勃発して武運長久を祈る人々の参拝多く、九月には新殿改築起工祭より間もなく上棟祭となり、十月ともなれば唐津神祭であるが、戦争の為か饗応廃止が叫ばれて一時巷に喧しかったが、神祭ともなればやはり御馳走されてあまり効果はなかったようだ。翌十三年二月には市主催の出征兵士の祈願祭が行なわれ、又九月には唐津神社大改築も略出来上ったので茲に遷座祭を行なうこととなり、西山市長幣帛供進使となり総代外多数参列して、霊代は旧社殿より庭煌の燃盛る夜のしじまを厳かに新本殿に鎮坐して盛大に遷座祭を終ったのである。因に初代雲月奉献の朱の玉垣も見事に竣工した。翌十四年唐津新聞社よりは出征兵士勇姿を写したる大絵馬額の奉献のことあり寄付者多数参列して奉告祭あり。四月二十八日には遷座祭を済したを我唐津神社は社殿竣功してその奉告祭を行ない、参列多数ありて近年希に見るお祭りであった。七月七日は事変第二周年記念祭ありて次第に軍国的となりつつある其中にたまたま勲章事件が出来して西山市長の命とりとなり萩谷市長となる。
 明けて昭和十五年は皇紀二千六百年の式典が各神社で二月十一日の紀元節当日に行なわれ、大いに国威を発揚した。この頃明神松原に武徳殿が建立され又消防組よりは大鳥居が奉建され間もなく先覚者慰霊碑がそれぞれ社頭に建てられて社頭に威容を誇るのである。
 全国的に政党無用となり盛んなりし政友会、民政党も改党して大政翼賛会の新体制とはなったのであるがこれに歩を合せたるが如く萩谷市長退任されて岸川善太郎氏は「天の声に答う」と言いて市長就任された。氏は今までの唐津の大功労者であり市民多数の歓迎する処であった。
 米屋町の大通りは開かれ海員養成所が開設され、翌十六年四月には佐志町を合併して発展して行くのであるが、十二月八日には大東亜戦争勃発社頭愈々参拝者多きを加うる中に唐津新聞社よりは大太鼓の奉納あり叉昇格最後の条件たりし神饌所新築成り、唐津氏子多年の宿望たりし茲に県社昇格の儀昭和十七年十一月二十八日神祇院より通達あり翌昭和十八年三月二十三日佐賀県知事田中省吾氏幣帛供進使となり、岸川市長、牧原、原、木下の各総代、来賓多数参列して昇格奉告大祭を執行、引続き武徳殿に於て奉祝大式典となり各界より次々に祝辞も述べられ、曳山も出して大賑を呈した。唐津氏子民の多年の望が相叶い大喜びであった。翌十九年岸川市長は富永鏗之助氏を破って市長に重任し、そして二十年八月十五日停戦命令に涙を呑み、十二月には占領軍の神道指令に依り祭政分離となったので、神社護持に経営に大変苦慮したのだが、宮司氏子総代以下一体となって大いに頑張ったのである 翌二十一年初めて初供日祭を行ない、そして唐津神祭は戦時中とは言え一度も中止することなく此年の唐津神祭、又七五三祭も大盛況で、又節分祭の豆撒き行事も創めた。翌二十二年虹の松原の招魂祭は廃止された。此年の夏から唐津神社夏祭を行ない、形代を全氏子に配り茅輪くぐりの行事を創めた。さて此の昭和二十二年と言うのは新憲法に依る各議員の初の選挙の年に当り、就中知事、市長村長は初の公選と言うことで清水荘次郎氏は初の公選市長に当選されて早速道路港湾を整備され、二十五年は肥後壕を埋立て、此年陛下初めて唐津行幸なされ、全市民挙げて歓迎申上げ無上の光栄に浴したのである。
 昭和二十六年夕刊フクニチ新聞社行事に参加して三台の曳山を持出し、福博の市中を曳廻し大いに唐津曳山の意気を福岡の地に示したのであるが、一方この曳山の勢揃いすを西ノ浜の明神台の前の広場を市の住宅建設地に使用すをことで両者交渉して、曳山の並ぶ土地は存続したことは慶賀に堪えない。此年初めて絶滅せんとした山囃の中、道囃と言う古典保存の講習会を開き、木下又蔵、市丸一の両氏に指導を煩わし数名の習得者を作り、危く「まぼろしの曲」となる処を免かれた。
 昭和二十七年前記招魂祭も復活され、戦没者慰霊祭として唐津第一中学校々庭にて行なわれ、又市政二十周年を記念して唐津まつりも創められたのであるが、又一方革新陣営よりは市政批判演説会が連日催うされ遂にリコール運動となり一時猖獗を極めたが金子、岸川、馬渡諸氏の斡旋に依って漸く終熄した。此頃より曳山の為に市よりもポスターを作り大々的に宣伝する様になった。二十八年には競艇開始と舞鶴橋開通と云う大事業があり又図書館改築が、更に湊・鬼塚・鏡・久里・大良を合併して愈々発展して行くのである。唐津神社でも七五三、結婚式もだんだん多くなって社頭次第に盛大になって行くのであるが、氏子本町では戦後初めて曳山金獅子を塗替えることとなり、今度よりはその費用を従来の本町一ケ所のみの負担とせず市より補助することとなり、又県の文化財ともなって県費補助もあり、之より十年間に十四台の曳山が見事に塗替えられて従来の様装を一変し、大いに面目をほどこしたのである。
 さて翌昭和三十年は、唐津神社が天平の昔、唐津大明神と詔命を賜わりしより千二百年目に相当するので、十月九日鍋島神社庁長幣帛使となり総代来賓多数出席して千二百年の式年祭の臨時大祭を執り行ない、記念事業として約二百万円の寄付を募り手水舎の新築透塀の修築、参道の補装、神輿の改装、神輿庫を補修する等、又西ノ木尾山内家よりはあの貴重な豪華なる唐津曳山の絵を奉納相成る事あり、その他社殿内外の木石も動かして戦後荒廃した様装を整えた。それでも前記西ノ浜御旅所前の曳山勢揃いの広場の一部なりとも神社に於いて確保して置きたいものだと希望しつつある処へ、茲に金子道雄昭和自動車社長は約三百坪の土地を奉納されて唐津神祭執行の為に大いに協力されて、神社側、曳山側を始め一般唐津人の今以て感謝に堪えざる処である。是より先、昭和三十年には金子氏は市長となり、志道・大成両小学校の分離独立、玄海国定公園の指定、体育館新築、玉島第二期水道工事曳山格納庫新築等大いに事業を起しつつありしも、昭和三十四年の第一中学校の火災は残念なことであった。この年の前年三十三年には氏子八百屋町より西ノ浜御旅所用大幕を寄附され、三十五年には唐津神社々報を発行することとなり今や既に十年余を数えることになった。
 昭和三十六年両陛下再び唐津行幸相成り曳山を御覧に供した。翌三十七年大成小学校運動場の関係上従来の固定した御旅所を撤去して、その費用弁償として組立式の見事なる御旅所を作り今日に至る。此年八月には立派な市庁舎が竣功し曳山も出して祝った。三十八年国民宿舎が出来上り、三十九年曳山四台宝塚「美しき日本博」に出動して関西人を驚かして常時観覧に供すべき曳山会館建設の議が叫ばれて参ったのである。
 昭和三十九年住居表示が城内、東唐津、二夕子に施行され、四十三年婦人会館が出来上り、十二月天守閣起工、翌四十一年唐津地方民の斉しく待望んで止まざる五層七重の大天守閣が出現し、慶長七年築城此方四百年にして唐津人の心の支えを得た次第である。かくて金子市長は幾多の功績を残して瀬戸市長と交替、唐津まつりを復活して市観光協会等城まつりと協賛金を結成して各種催物や出しものありて近年希に見る大賑いを呈した。
 昭和四十一年九月唐津神社神饌所屋根替えを行ない従来の桧皮葺より銅板とし又社殿内に簾幌等をしつらえ、又透塀な補修する等約二百万円を広く氏子より募りて戦後二度目の工事を終えた。
 尚公園内金刀比羅、八坂稲荷の三社を合祀して大改築をなし五月には竣功祭を行なった。
 さて茲十年間の唐津人の要望に答えて昭和四十三年より唐津神祭を十一月二日三日四日に変更して元の十月二十九日には神輿飾りをして本殿祭を行ないこれより唐津神祭始まりとした。
 翌四十四年には大手口の大鳥居、石燈籠、幟杭、社号標を境内に移し道路交通安全協力の一助とはしたものの此の処は先輩氏子民の労力奉仕して作った参道で明神様が町方へ御神威御発揚の意義深い処ではあった。
 先の神祭日変更と云いがこの建造物の撤去と云い、両者相共に神社としては忍び難きところ乍ら断行せざるを得ず、実に時勢の推移世の変革と言うことを我身に振りかえってつくづく味わった次第である。
 昭和四十四生九月テレビ小説「信子とお婆さん」に唐津市も大協力して曳山を出して唐津供日を再現し、この頃より文化会館が幼稚園及唐津神社外苑の両土地に跨って建設されるよう本決りし神社も土地をお譲りし、曳山会館は元の武徳殿の処に建てられることとなり、その解体又神社外苑の高取翁及保生会の記念碑、先覚者顕彰碑、更に幼稚園も移転して文化曳山両会館の起工祭が十月執行され、是より明神社頭俄に騒然となったのであるが、の中にも昭和四十五年の春の城まつりは昨年に変らず大賑いで引続き十月十八日には展示館に曳山を入れる渡座祭を行ない、あのガラス張りの見事なる展示に十四台の曳山が賑わしく納まれば間もなく文化会館の竣功祭が盛大に行なわれ市民の目を驚かし、爾来この両者は唐津文化の中心となり、曩の天守閣と大いに唐津の新名所とはなったのである。この近くには図書館、幼稚園も立派に出来上った。
 そして我唐津神社では元の曳山の格納庫を市より譲り受け貸店舗に改造して明神ピルと名付け、店棚を開き今日益々繁昌しているのである。更に本年五月十日には全九州神職大会がこの文化会館で行われ、神社本庁統理を始め九州各県神社庁長、国学院学大学長神宮皇学館大学長長全九州より神職五百名が集まり、神徳発揚、神社運営其他に関し会議するのであるが、是より先午前九時我唐津神社へ統理以下五百人の神職が正式参拝することに本決して神社としては前例のない此の上なき名誉であり、その用意に今から大童である。
 以上ざっと市政と共に我唐津神社の四十年の歩みを述べたのであるが、何分にも懐古に属することとて特に市政の事については、記憶違いがあったり、書き誌さなければならぬ大事件を逸したりしていることをお詫びつつ、将来とも市御当局の御庇護を乞願う次第である。

唐津神社
  氏子総代改選

 唐津神社の氏子総代は、今年一月二十六日四年間の任期が満了したので改選となり、規則に基き、氏子各町各区よりの推薦により左記の通り決定去る三月二十九日初会合を開き、責任役員三名を互選の上新総代揃って就任奉告祭に参列して参拝の後、宮司より委嘱状を交付した。
 尚併せて名誉氏子総代の推薦も行なわれた。

責任役員
    白 井 新 作
    岸 川 欽 一
    平 田 常 治


氏子総代
本  町
 大西儀三郎 中川 栄一
呉服町
 大橋 喜一
八百屋町
 松村 国行
中 町
 辻村 福蔵
木綿町
 牧原 繁蔵
京 町
 大塚幸二郎 尾崎喜代治
刀 町
 太田 庫造 辻 庚一
紺屋町
 内野勝三郎
魚屋町
 脇山 英治 吉田  至
 前田末之助
平野町
 佐々木安吉
新 町
 中山仁太郎
弓鷹町
 尾島 繁一 金子 則之
高砂町
 飯田猪之十
東城内
 太田尾隆蔵 山口 大司
 近藤  隆 常安 弘通
大名小路
 古舘正右衛門
 石田安智賀 松岡伊三治
西城内
 吉岡 勝行 向  実
 長浜 海造 前田  清
 中野 英敏
南城内
 永富  納 吉田 仁一
 鈴木 従三 豊田 初音
北城内
 蒲原 小一 皆良田伝吉
 九鬼  勉 吉野 小糸
 村島 賢士
坊主町
 井上 鉄司 藤原 藤吉
 後藤 利一 加茂 好吉
 古賀 柾雄 加勢田喜代美
 市丸 タネ 坂本 光雄
 松本 常男 原口 光雄
山下町
 井上 貢  松本政五郎
 渡辺 吉作 戸川  鉄
 山崎 一郎 古賀 立身
 高田 重男 川原喜代司
桜馬場
 西岡 広志 山浦  正
西旗町
 野田 久八 岩隈 啓助
元旗町
 菊地 義国
西浜町
 渕上 儀蔵
富士見町
 荻野 朝陽 井口四雄造
 森 孝二郎
南富士見町
 柴田朝次郎 佐々木常太
 山本 七治 井上幸之助

名誉氏子総代
   金 子 道 雄
   竹 尾 彦 己
   青 木 嘉三治
   永 江 金之助



九州各県神社庁大会
 五月十日 唐津で

 恒例の九州各県神社庁連合会神職大会は二十四回を重ねて、今大会は佐賀県が当番となり、唐津市文化会館を会場として、来る五月十日五百人が出席して開かれることになっている。
 これは戦前から行なわれていたものであるが、戦後一時中断していたが今年は復活第二十四回大会である 今大会は九州各県が順次当番となって開かれるもので、神社関係者が一年に一回一堂に会し、互いに精進して神道昂揚のために努力することを誓い合い、大いに飛躍するための会盟の場ともなるのである。
 当日は神社本庁より統理を始め事務総長、伊勢神宮大官司、国学院大学、皇学館大学総長や地元の佐賀県知事、唐津市長等が出席されて盛会が予想される。

  次  第
一、開会の辞
一、神宮並に皇居遙拝
一、国歌斉唱
一、敬神生活の綱領唱和
一、佐賀県神社庁長挨拶
一、神社本庁統理告辞
一、来賓祝辞
一、祝電披露
一、会  議
 1、議長選挙
 2、議長挨拶
 3、議 事
 4、宣言決議
 5、次期当番県に関する件
一、報  告
 l、九州地区神道青年協議会
 2、九州地区神社保育関係者協議会
一、講 演
一、閉会の辞

 引続き懇談会

 この日は大会に先立ち午前九時より全員唐津神社に正式参拝をなし、宮司の挨拶、神酒、御紋菓の授与の後、この日のために特に曳山取締会の協賛を得て全曳山を杜頭にならべて大会参列者の展覧に供することになっている。


神輿車奉納  花田家より

 昨年秋のおくんちは従来の自動車に替って、華麗な曳車神輿になった。
 これは近年来不評をかっていた自動車を何とかして立派な曳車にしたいものと氏子中が願っていたものであるが、その当の大総代であった花田繁二氏が急逝されてから御遺族の方が御生前の氏の念願を叶えるべく多額の浄財を以って製作し奉納されたものである。この車は黒地の車体に黄金金具を打ったもので、赤塗りの大車輪のいわゆる御所車風のもので、曳山にもよく調和して、神幸行列に精彩を放った。
 これに関連して神輿伴揃いの人々の服装も曳山の曳子風に又供奉の氏子総代の服装も袴着用一文字笠、白扇といづれも新調し面目を一新した。

 
氏子総代
 表彰 永年奉仕の四氏


  古館正右衛門
  岸川 欽一
  常安 弘通
  太田尾 隆蔵
 右の四氏は唐津神社氏子総代として、去る昭和二十七年以来二十年の永きに亘りよく宮司を助け神社の運営発展に尽力せられた功績に対して、五月三日の例大祭の佳日に栄ある表彰を受けられた。

 曳山囃保存功労者表彰
   市丸 一氏
 曳山囃は永い伝統を受けついで来たものであるが、その数曲の中で道ばやしは最も優美優雅な曲目で、従ってその演奏もむつかしく習得は困難とされている。
 明治以後くんちにも演奏することがなくなり、幻の曲となろうとした時、昭和初年只一人の演奏者としてよくこの秘曲を保持していた刀町の高添〇〇〇〇氏から伝受された数名も戦中戦後の混乱期を経て再び絶えんとするその中で、呉服町の市丸一氏が鋭意後継者作りに力をつくされ、今日のような陽の目を見るに至ったわけである。神社ではこの大きな功績に対し五月三日の例大祭の神前で表彰を行なった。