曳山小屋の変遷
令和3年に曳山展示場が解体され、建て直す工事が始まります。
それを機に曳山小屋の変遷を纏めてみたいと思います。
赤獅子が完成する文政2年以前はと言うと、走り山、それ以前は担ぎヤマと呼ばれるものが神輿に供奉していました。
各町の所有する場所で担ぎヤマや走り山を保管する小屋があったのかも知れません。
文政2年以降囃子ヤマが作られていくと、担ぎヤマ走り山は小屋を追い出され、どこかで処分されたのかも知れません。そして新しい曳山をその場所に格納すべく建て替えられたのかも知れません。
各町は火消し組があり、その火消しの道具の小屋が必要でした。
そこには纏や梯子や龍吐水、玄蕃桶、刺又、鳶口など火消し道具が備えてあったと思われます。
そこに曳山を格納していたと考えられます。
「曳山のはなし」(古舘正右衛門著)と「唐津曳山の歴史」(坂本智生著)に曳山小屋の記録があるが、その後戸川鐵氏により纏められました。
以下見てみましょう。
曳山保管場所の変遷
(昭47.11.12.記)
木造曳山小屋から明神ビルへの変遷を含む
1 町内山小屋時代
その昔は、各町ごとに山小屋を建てて自分の町の曳山を格納していました。
文政2年に刀町曳山「赤獅子」ができて以来、各町に曳山ができるたびに、各町は適当な格納庫を町内に建てて曳山を格納していました。これを「山小屋」と称し、直射日光をできるだけ遮断し、雨漏れはもちろん、多湿を防ぐよう工夫されていました。
町内山小屋時代が非常に長かったのは、文政年間にできた刀町と中町、そして曳山が作られた当初から昭和34年まで自分の町内に保管していた材木町、大石町、水主町、江川町の6町でした。逆に、町内山小屋時代が短かった町の数は不詳ですが、その期間は20〜30年くらいだと思われます。
なお、各町の町内山小屋の位置についての詳細は、「曳山のはなし」(古舘正石衛門著)の156〜157頁、および「唐津曳山の歴史」(坂本智生著)の38〜39頁によると、次のとおりです。
(町名) | (「曳山のはなし」 古舘正右衛門著) | (「唐津曳山の歴史」 坂本智生遺稿集) | |||||||||
刀 町 | 八百屋町通西側、刀町の三ツ角より2軒目東向。![]() |
八百屋、右側東向。 | |||||||||
中 町 | 大手通より南行西側家並の4軒目、東向。![]() |
高徳寺前南向。![]() |
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材木町 | 大石町に南行する西から3番目(材木町の中心部辺り)、三叉路の南西の角、北向き。 2021.6調査により戦前はラッキー靴屋、戦時中は東ノ木屋の酒屋、その後は集会所鳥居の南瀬戸酒屋があった場所に小屋があったとのこと
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中央大石町に入る西角北向。![]() |
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呉服町 | 京町境南郭、旧於釜屋酒屋の北側。![]() |
南詰め西向。 | |||||||||
魚屋町 | 最東端四ツ角の西北の角、南向。![]() |
東詰め南向。 | |||||||||
大石町 | 天満宮参道の東側、旧舞鶴座の南付近。![]() |
寺町通り中央西向。 | |||||||||
新 町 | 中央三叉路八百屋町よりの突き当たり、東向。![]() |
中央東向。 | |||||||||
本 町 | 高徳寺前、今の本町倶楽部あたり、南向。 (坂本智生本の中町に既出 正右衛門さんの勘違いと思われます。) ![]() |
旧お使者屋東向。(現在本町倶楽部) こちらが正解だと思います。 ![]() |
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木綿町 | 不明。 | ||||||||||
平野町 | 現在の藤松眼科医院敷地内、南向。 (藤松眼科の敷地なら北向と思うのだが) |
町田道辺北向。 (長島精肉店?) |
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米屋町 | 行因寺前、東向。 ![]() |
行因寺前東向。 | |||||||||
京 町 | 高砂町(京裏町)吉冨裏辺り、南向。![]() 令和5年6月に家は解体され空き地になっている。 嘗ては大泉坊という宿坊があったようだ。 |
中町行当り高砂町北向。![]() 猫川の上の道路が開通するまではここは行き止まりだった。 昭和38年の塗り替えはここに小屋を建てて行われた。 (塗師は京町の本城仏具店) |
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水主町 | 大石権現社構内 |
須賀天神社南、東向き。![]() |
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江川町 | 中央四方交差点角東北(神輿路の曲がり角の四ツ角)、南向。![]() |
中央冨士見町に入る東角南向。 | |||||||||
紺屋町 | 現在の常磐屋旅館駅前通面、角屋三島家の南接地、表口2間位奥行2間位、中2階のあった金丸氏家。 |
画像はgoogleストリートビュー
市が建設した格納庫ができるまで曳山を町内で保管していた町
昭和34年に14台のすべての曳山は、市か建設したコンクリー卜造りの格納庫に納められましたが、材木町、大石町、水主町、江川町の4町の曳山は、それぞれ自分の町内の山小屋に保管されていました。その年数は、曳山が造られた年から昭和34年までですから、明らかです。その間、山小屋の場所が変わった町もありますが、町内で長年保管しつづけられたことはまちかいありません。ですから、これらの4町は、次に述べる明神小路の木造山小屋時代がなかったことになります。
材木町………天保12年から昭和34年まで………118年間
大石町……弘化3年から昭和34年まで………113年間
水主町………明治9年から昭和34年まで……‥83年間
江川町……‥明治9年から昭和34年まで………83年間
2 明神小路木造山小屋時代
明治26年に明神小路の参道が開通し、一般の氏子たちが自由に神社に出入りできるようになりました。そして、明治28年からは、その参道に沿った東側の大手口に近い場所にある宮地(明治26年の明神小路の参道開通のときに、民地を買収した残りの細長い土地で戸川家の所有地)、すなわち昭和46年に完成した明神ビルの位置に、各町の曳山小屋が思い思いに次々に建てられるようになりました。
それまでのように各町内で山小屋を設けて曳山を保管しておくと、その管理には便利ですが、火災の危険性も多く、不用心だということで、この宮地にそれぞれの町内負担で次々に木造の山小屋を建てることになり、大正6年頃までに10町つまり10台分の山小屋が建てられました。
「曳山のはなし」(古舘正石衛門著)には、次のような著述があります。「明治28年、肥後堀の一部を埋めて架橋し、現在の国道と明神小路を連結して明神小路の道幅を拡張したとき、現在の明神ビル建設用地になっている余地が出てきた。それで曳山小屋を神社に近いところに移すことにより、各町内のヤマゴヤをなくすることかでき、商業地の繁栄にもつながるという理由と、神社近くに常時ヤマを置くことは神社奉納の趣旨にも叶うということで、商店街が先達となって、神社通りの同地に、刀町、中町、呉服町、魚屋町、新町、本町、木綿町、平野町、米屋町、京町等、町域の狭い町と商店街の町が、自分の町の曳山に似合うヤマゴヤを建てて曳山を格納した。」
いずれにしても、これらの10台の山小屋のうち、最後にできた山小屋でも、少なくとも40年以上の長きにわたって明神前の山小屋として、唐津人にとっては片時も忘れられることなく親しまれてきました。その山小屋の前を通るときは、山小屋の戸の隙間や節穴から曳山を覗き見したものでありました。このようにして、市がこの貴重な文化財である曳山を災害から保護するために、近代的建設の曳山格納庫を造るまで、10台分の木造山小屋か存続したのです。
昭和初期の絵端書に観音開きの山小屋が写っていました。(吉冨 寛) | |
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![]() 扉を開けた状態が良く解る一枚 平野町は頬面を外し、曳山を降ろして格納している。扉は大手門をくぐる高さなのか? 扉を開けると下に板が填められ、水が曳山小屋の中に入らないようにしてあるようだ。 上には横に棒を渡し扉を制御している。 写真提供:神馬龍二氏 |
3 明神小路近代的格納庫時代(1959.7〜1970.10)
他郷に類比を見ないこの神祭曳山は、昭和33年に県の文化財になりました。
市としても、この貴重な文化財をこれまでのような古い不用心な山小屋に保管しておくことが、心もとないと懸念しました。以前から曳山所有町内からの要望も出ていたので、市は昭和34年にこの曳山を災害から保護するという見解で、鉄筋コンクリー卜造りの厳重な格納庫を建設しました。その際、それまで自分の町内の山小屋に格納されていた曳山も、市が建設したコンクリート造りの格納庫に保管されることになり、ここに14台のすべての曳山が明神社前に格納されることになりました。
このようにして、明神社前の木造山小屋として長年親しまれてきた10台の山小屋は、昭和34年に近代的なコンクリート造りの格納庫に建てかえられて、同年8月に14台のすべての曳山を格納するようになりました。そしてその後、この格納庫は、昭和45年10月までの11年と2カ月間、その役を果たしてきました。
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【付記14】明神小路開通のときの略抄図
および買収した宮地の使用状況の変遷
左の略抄図は、明治26年に明神小路が大手口に通じたときの様子を示すもで、筆者が昭和47年11月こ唐津神社の社務所に保存されている図面を参照したものです。
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明神小路の参道か開通したとき、神社が民地を買収した土地(木造山小屋か建っていたところ、すなわち現在の明神ビルの土地)は、幅が南方に狭く、北方に僅かに広くなっていました。そのために、この土地に次々と建てられた山小屋は、奥行きの短い曳山の小屋が南に、奥行きの長い曳山の小屋が北に建てられていたと記憶しています。
つまり、この土地の利用状況の変遷はつぎのとおりです。
1 空地時代
明治26年に明神小路が大手口に通じ、この土地に各町の木造山小屋が建てはじめられるまでの期間は空地でした。その年数は明らかではありませんが、明治26年以後から大正年間になるまでの年数以内と思われます。
2 木造山小屋時代
昭和34年に市がコンクリート造りの近代的な曳山格納庫を建設するまでの期間は、各町の木造の山小屋か建てられていました。その年数は明かではありませんが、50年内外ではないかと思われます。
3 曳山格納庫時代
市がコンクリート造りの近代的曳山格納庫を建設した昭和34年8月から、昭和45年10月までの11年2カ月の間です。
4 明神ビル時代
近代的な曳山格納庫が昭和46年3月に明神ビル(唐津神社所有の貸店舗)になってから今日までの期間です。
4 曳山展示館時代(1970.10〜2022.3)
曳山は年を追うに従って、観光の面でも大きくクローズアップされるようになり、また昭和41年の唐津城の建設と相俟って、唐津観光の二大ポイントとされるようになりました。曳山の観覧希望者が増加して、常時観覧できるような施設の必要性に迫られたため、文化会館の一郭として曳山展示場が建設されるに至りました。昭和45年10月18日に曳山展示場の落成式が執り行われ、曳山を展示場に納める曳山渡坐祭というお祭りが執り行われました。それ以来、14台のすべての曳山は、この曳山展示場(注6)に格納展示されています。
このようにして、市が建設したコンクリー卜造りの格納庫に11年2ヵ月こわたって格納されていた曳山は、曳山展示場に移されました。その後、神社としては、コンクリー卜造りの格納庫であった建物を市から買収して、神社の所有物としました。そして、氏子総代の協議の結果、この建物は8店舗に仕切って内装改装工事をして、客種業者に貸与することになりました。名称も「明神ビル」と改称して、昭和46年3月17日にその落成式が執り行われました。
注6)曳山展示場の各曳山を格納する扉は、高さ5.5メートル(18尺1寸5分) 幅3.8メートル(12尺5寸4分)あります。(昭48.7..「毎日新聞」より)
シャッター格納庫から展示場に移動する時の様子は番外編に記載していました。
昭和45年10月 | 曳山渡座祭 新曳山展示館に曳山を納める儀には先づその名称を種々考慮中であったが、昔は落成式のことを「わたま」と言ったので、その由来を探ってみると、新しく御殿が出来上り神様又高貴なお方がそこへお入りになることを「わたりまし」と言う意味らしく、漢字としては移徒又は渡座とあてはめてあることから考え出し、曳山も貴いものとして展示館も御殿にぞらえ移従をとらず、渡座祭とは名付けた次第である。 その期日も十月十八日と決め、当日一旦山を各町内へ持参して顔見世をなし、午後一時米屋町の広小路に集まり文化会館前に勢揃いする。是れより先、新展示館玄閏前に祭場を舗設して市長議長外氏子総代、曳山総取締以下曳山関係者全員の参列の上、先づ修祓、戸川宮司祝詞を奏し玉串を捧げて祭典を終れは、直ちに餅撒きをして、又祭場には四斗樽の鏡割をなし、威勢よく景気をつければ、刀町赤獅子は早くもお囃しをして勇ましく曳出せば、各町もこれに続き次々に見事に無事展示館に納まった。その壮観なること各町が競合いつつその囃も高調にて展示館に入る様は思いの外の見世場となり、神祭の最後を飾るに相応しいものとなること疑いなし。 納め終りて各町場内のよき所に伸取り祝宴を開き、大いに気勢を揚げた。 この日夜来の雨も上りて絶好の渡座日和に曳山は文化会館と相和して照映え、参観者又予想外に多く、唐津神祭の前奏曲の様で大賑いを呈した。 唐津神社社報より
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![]() 前列左より古舘正右衛門・*・脇山英治*・戸川省吾 後列に牧川寛三郎の姿も見える |
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![]() 均一氏は正右衛門の従弟だが、二の門で育った均一は曳山のことを何も知らないと正右衛門さんは語っておられた。 曳山の保存環境を正右衛門さんは心配されていた。 案の定、夏には扉が焼けて中が高温になる。一時期はその対策として葦簀を立てかけていたが。後に扉の構造が改善された。 |
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![]() 画像は平成27年1月12日 |
令和3年9月19日〜 | 西城内の展示場からアルピノホールに展示場を移す。 |
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