紺屋町 黒獅子考![]() |
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2009.3.30より | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
謎の多い紺屋町の黒獅子 ここらでちょっとまとめておきましょう。 |
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まずは山内薬局の掲示板より |
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注:この時点では八軒町及び常磐屋旅館の場所を確定できていませんでした。
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八軒町とは? |
失われた町名 幕末まで残る八軒町 城下町−唐津 富 岡 行 昌 稿 歴史的地名を残す運動が各地におきている。これも現今の便宜的な町区画整理に対するレジスタンスとして無視できない面を多分に持っていると考えられる。故里を離れていれば自分の生れ育った土地の地名がなくなることは心の寄り処を失うような思いにかられるものであり、故郷の家は消えても残って呉れたらとの願いは無理な注文だと決めつけるわけにはゆくまい。唐津は変らぬと言っても長い歴史から見たら、やっぱり変化が見られるもので地名についても、消失・改廃が見られる。藩政時代規しまれた町名も現在では相当な識者でも比定できることは極めて少くなった。この意味で藩政時代に出てくる町的を列記して見る。 「八軒町、弓野町、鷹匠町、櫨畑町、東裏町、塩屋町、西裏町、柳町、下町、旗町のぽりまち、鉄砲町、船頭町、同心町」以上の町を全部比定できる人は相当な人であろう。 これらの町の変遷を調べるとなると確かさは極めて弱くなるが、現在地に比定しながら説明を加えてみたい。 ◎八軒町…大久保藩時代にできた町で、現在の佐賀銀行唐津支店あたりにあった柳堀と本町、中町の間に当時八軒の家があり八軒町と呼ばれていたが現存した期間は極めて短期間であったが、町名だけは幕末まで残っていたと言う。 |
飯田一郎「神と佛の民俗学」では |
紺屋町の黒獅子は現在既に存在しない。これがなくなった理由については、ヤマ引きのとき誤って溝の中に落込んでこわれたとも、実は他のヤマに比べて出来が悪くて見劣りするものであったので、わざとそうしてこわしたのだともいうようなことが伝えられている。或はまた火災にあったのだとも伝えられているが、真偽のほどはよくわからない。前述明治九年の十戸長の連署には紺屋町も見えるので、その頃まではヤマに関する発言力があったとすれば、ヤマもまだあったと見るべきであろうが、恐らくはそれから遠からずして消失したものであろう。 |
古館正右衛門「曳山のはなし」より |
紺屋町の黒獅子 安政五年作 飯田一郎氏著「山笠」には安政五年作とあるが、平松文書の安政六年の順番書に記載されていないので、安政六年から文久二年の間の製作かと思う。 黒獅子は現在は消滅して、その姿は御神祭行列図に見るだけである。消滅した正確な時期は不明だが、戸川真菅氏の「思い出草」によると、神幸に参加した最後は明治二十二年のくんちであり、翌二十三年九月九日初くんちには解体されており、@太鼓は木綿町に譲られている。 注@ 太鼓と鉦は木綿町の所望により、昭和三十年代、木綿町に譲られている。(古老談) 同じく「曳山のはなし」 曳山小屋では 紺屋町=現在の常盤屋旅館駅前通面、角家三島家の南接地、 表口二間位奥行二間位、中二階のあった金丸氏家。 |
常磐屋旅館は廃業。現在は吉冨商会事務所・自宅の場所です。 掲示板で 曳山小屋(旧山口商店・現在は駐車場になっています。山城屋の隣。) とあるは間違いです。 |
昭和30年前半当時の紺屋町です。 ときわや旅館があります。 |
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紺屋町の黒獅子が姿を消した頃、まだ新大橋は出来ておらず、参道も国道につながっておらず、大手門は取り壊されております。(新大橋完成は明治24年) 社報に依れば、大手口を過ぎた曳山は八軒町から本町に曲がり京町札の辻橋を渡って魚屋町へ向かいます。 |
推理してみました。
紺屋町の曳山小屋は現在の吉冨商会。
明治22年の10月28日、曳山小屋から引き出された黒獅子は提灯飾りを終え、夜更けに紺屋町〜京町〜本町と順調に曳いて行く。本町の北はちょっと下り坂になっている。
その坂を下るとそこは丁度八軒町の東端。
提灯の火が燃え移ったかどうか定かではないが、坂を下って梶を切り損ね、あららあららと言う間に柳堀に落ちてしまった。
このように考えてみました。
何故宵山か。
根拠:八軒町東端の堀に落ちるためには、大手口から本町角へと曲がって落ちる可能性は極めて低い。梶を切り損ねても決して堀に落ちるはずはない。また、本町の坂を下るコースはくんち本番では考えられない。よって宵山となる。紺屋町から呉服町に曲がって大手口に行けば簡単だが、そこはやはり少しでも長く曳きたい?(紺屋町はそうでもなかったかも。)ということで、京町〜本町〜八軒町〜大手口のコースをとって城内に入っていた。
いかがでしょうか?
ご意見ご感想をしてください。
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明治22年10月28日深夜、紺屋町黒獅子の軌跡 |
唐津山笠重要文化財指定申請書 唐教委第1250号 昭和28年12月 日 唐津市教育委員会 印 文化財保護委員会 殿 重要文化財指定申請について |
この文書を見ることができ、文化財として始めての申請書に次の様に書き加えてありました。 紺屋町の黒獅子は明治20年誤って破壊した。 ここで明治20年10月28日深夜と改めさせて頂きます。(令和5年5月27日記) |
平成24年7月21日
黒獅子が復活しました。
からつ土曜夜市40周年、実行委員長の熱い思いで実現しました。
佐賀新聞 2012年7月21日更新
Youtubeより
by ohjaga さん
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実にアッパレ!
曳山を作るみんなの顔はイキイキと輝き、
まさに石崎嘉兵衛でした。
唐津中央商店街青年部万歳!
註:石崎嘉兵衛:唐津の現在の形の曳山、刀町の赤獅子を文政2年にはじめて作った人。
洋々閣の女将のご挨拶(2012年11月)にも取り上げられました。 ←クリックしてください。