紺屋町 黒獅子考




2009.3.30より

謎の多い紺屋町の黒獅子

ここらでちょっとまとめておきましょう。



 まずは山内薬局の掲示板より
 


はじめまして。 投稿者:みかん 投稿日:2005/11/07(Mon) 18:13 No.313  
子供に、唐津くんちの事を聞かれここにたどり着きました。
唐津くんちのことを書かれたホームページをいろいろ拝見したのですが、
黒獅子について余り詳しくわからず、
子供に”なんでなくなったのか”と聞かれ困っています。
夫婦共に県外出身のため。
小さな子供に、わかりやすい郷土本などあるのでしょうか。
よろしかったら教えてください。


Re: はじめまして。 山内薬局 - 2005/11/07(Mon) 20:33 No.314

みかんさん
はじめまして

黒獅子の謎を尋ねられる子供さん、すっかり唐津っ子ですね。

「神と仏の民俗学」という本の中に、戸川宮司のご親戚の方が済州島から唐津を偲んで書き送った手紙が手がかりになるかと思います。

 黒獅子 紺屋町 
名のみして今は昔の影も見ず深山かくりて思い絶えしか
此獅子は他の三者に比して大に見劣りせるが如し、一つは色の配合当らざるに起因せるならん。余の十二三歳の頃なりしならん其時他の町々と共に引廻り八軒町の東端に於て横倒れとなりどぶの中に陥入りて大に物笑ひとなりし事あり若者等もこれを耻とし夫れよりは祭時に列する事あり列せざる事ありていと冷淡なりしが終に廃絶となりしは若者等に於て遺憾なきか、唐津名物の歴史より見て復活するか他の製作を試みては如何

簡単に言えば、明治初期、お供日の時に八軒町の東端(恐らく現在の大手口交差点辺り(
実はもっと東でしたが)ではないかと?)で倒れてお堀に落っこち、他の町から笑いものにされて、引き上げはしたものの、次の年からは曳山を出す年もあれば出さない年もあり、ついに姿を消してしまったとさ。

こんな感じで良かったでしょうか?



Re: はじめまして。 みかん - 2005/11/07(Mon) 22:45 No.315  

回答ありがとうございます。
子供が、友達から川に落ちたと聞いたと言っていましたが、
本当だったのですね。
すっきりしました。
明日にでも、子供に話してあげようと思います。
また、おじゃまさせてください。


Re: はじめまして。 山内薬局 - 2005/11/08(Tue) 00:28 No.316

川ではなくてお堀のドブです。
恐らく大手門をくぐり、橋を渡ったったところでバランスを崩して横倒しになり、そのままお堀に落ちたのではないかと思います。
曳山コースの変遷
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/hikiyamako-su1.html
ここを見ながら想像してみてください。


Re: はじめまして。 ton - 2005/11/08(Tue) 10:05 No.318  

 通説では、明治20年代に宵ヤマの際に「ちょうちんの火が燃え移って炎上した」とされていました。

 しかし、唐津神社の縁者で故戸川真菅さんが昭和初期に記した「唐津神事思出草」が30数年前に唐津神社社報に発表。「黒獅子はみすぼらしくて、横転してどぶちはまり物笑いになった。以来、町では恥じて曳かなくなった」と書かれていますね。
 また、後日談として、「解体処分業者に売却。町田川に沈められ和紙をはがされ、酒代にされた」との悲しい末路の言い伝えもあります。

 今、原型をながめられるのは「唐津神祭行列図」(唐津市重要有形文化財)の中だけですかね?薬局屋さん。
 唐津市民会館の緞帳がその行列図ですので、伝説の「黒獅子」は、時を超えて唐津市民の前で生き続けているともいえるでしょうね。
 以前、黒獅子復活を望む人々を取材して、毎年行っていた新聞連載の一こまに4度も書いたことがありますので、薬局屋さんの話に付け加えさせていただきました。


Re: はじめまして。 山内薬局 - 2005/11/08(Tue) 23:38 No.322

紺屋町の内野金網屋の古老がそのじいさんから聞かれた話(私はその話を京町の前々取締江頭さんから聞きました。)

宵山で提灯をつけて曳山小屋(旧山口商店・現在は駐車場になっています。山城屋の隣。)から呉服町を通り大手門に差し掛かる時に獅子の毛に提灯の火が燃え移り、消すためにお堀に投げ入れたそうです。と言うことは肥後堀が埋め立てられる前、つまり明治24年以前。大手門は解放されていますので勝手曳き。各町思い思いに曳きだして神社前まで曳いて行っていた頃の話だと思います。

それ以前から紺屋町の黒獅子は評判が良くなく、町内の者は肩身の狭い思いで、その前提があり、提灯の火がついた時、思い切った行動が出来たのだと想像できます。

「唐津神事思出草」ではその後曳山を出す年もあり出さない年もあったと記してあります。引き上げられた黒獅子は恐らく獅子頭は何とか類焼を免れてはいたものの、一度お堀のドブに投げ入れられたので、ますますみすぼらしくなり、とうとう曳かなくなったのではないでしょうか。
紺屋町の太鼓は木綿町に譲られ、今でも使われているそうです。

唐津神社の総行事(神輿飾り・神輿納め)の当番町には紺屋町も入っています。
また、八百屋町も総行事の町です。

黒獅子はtonが書いているように、「唐津神祭行列図」(唐津市重要有形文化財)で見ることが出来ますが、それを元に青龍工房の福本画伯は得意の点描で黒獅子を見事に再現しています。中町角の青龍工房に行ってご覧ください。


Re: はじめまして。 ton - 2005/11/09(Wed) 02:34 No.323  

 ふむふむ。失火説にもやっぱり信憑性もあるかもねえ。
でも、燃えていたら、劇的な大ニュースですから、唐津神事思出草にも、そのあたりの記事は絶対に入れると思うし、唐津っ子のなんらかの文書、誰かの日記に書き記されていてもいいように思うなあ。

 ばってんが、唐津神事思出草だって、昭和初期の記述。事件は40、50年前に起こったことだからなあ。そいでも、やっぱり火は人間誰だって興奮するから、絶対に書き残すっちゃなかろうかねえ。

 日本最初の日刊新聞が明治3年の横浜毎日新聞(今の毎日新聞とは別ものです)。明治10年に西日本新聞の前身の筑紫新聞が創刊。明治13年には福岡日日新聞として報道活動を行っとるとばってん、そんときに唐津に福日の記者がおれば、真実ヴぁ書いっとたろうにねえ。残念ヴぁい。

 それにしても、「黒獅子伝説」は、悲しい末路にしろ、なんか唐津っ子の探究心をくすぐり、ロマンを感じさせますねえ。

 赤獅子のペアが青獅子。金獅子のペアが銀獅子。銀箔が酸化して黒獅子になったという説もありますが、さて、どうでしょうかねえ。
 いずれにしろ、黒獅子は失敗作だった。もしくは、修復費用がなかったのか?(つい最近までは、修復費用は全部町内負担ですけんねえ)


Re: はじめまして。 ton - 2005/11/09(Wed) 02:42 No.324  

 紺屋町の太鼓は練習用で確かに木綿町さんが使っておられます。ちゃんと、太鼓に「紺屋町」って書かれてました。(と、記憶しとります)

Re: はじめまして。 おじゃが - 2005/11/09(Wed) 08:05 No.325  

知り合いのおじいさんの記憶は襖絵のとは微妙に違い『鉢巻は紅白だった』との事。
真っ黒い顔に角があって紅白の鉢巻だった為に置物のコッテ牛に見えていたと。


Re: はじめまして。 山内薬局 - 2005/11/09(Wed) 21:27 No.327

こんな感じかな?


Re: はじめまして。 @神田中村 - 2005/11/11(Fri) 00:44 No.334  

おお。いい感じに紅白だ(^^)。
ちなみに、やはり黒獅子の消失原因は「思出草」にあるとおりだと思われますね。
伝説では、獅子ヤマの中で最も小さくしかも黒かった為に見栄えがせず、更に大きな鼻に似つかわしくない小さな目と
お世辞にも格好のいいヤマとは言えなかったらしいです。
そこへもってきて目の前には最も大きく最も見栄えのする金獅子・・・当時の紺屋町の曳子たちはかなりモチベーションが下った事でしょう。
愛着が無くなってうち捨てられた背景はこんなところだったのかもしれません・・・。

別の文書ですが、実は金獅子も髪に火が燃え移ったボヤ騒ぎを起こしています。この話が黒獅子焼失話にすり替わったのではないのかと自分は睨んでいます。


Re: はじめまして。 ton - 2005/11/11(Fri) 22:57 No.344  

な〜るほど。金獅子の髪の毛出火説ですかあ。これは初耳でしすが、その事件と黒獅子出火説への話のすり替わり方が、いかにもありがちで、ものすごく説得力がありますね。勉強になりました。



注:この時点では八軒町及び常磐屋旅館の場所を確定できていませんでした。


津神社の神祭と曳山に関する抄録

  編著   戸川 鐵

紺屋町曳山
 「黒獅子」の廃止の理由
(昭47.12.7.記)
 明治9年に江川町と水主町の曳山が、時を同じくしてできあがったので、この時点で15台の曳山が揃ったことになります。しかし、残念なことに、明治23年ごろ、9番山の紺屋町曳山「黒獅子」か廃車になり、姿を消してしまいました。この廃車の理由については諸説があります。破損してその維持ができなくなったという説や、山小屋が火災になって曳山の一部も焼損したという説や、ある年に八軒町(注9)の東端のどぶの中に陥ったのを他町から笑われたので廃止したという説などがありますが、いずれが真実であるかは明かではありません。しかし、町内の人たちの間に曳山を維持していこうとする熱意が薄かったことは確かであったようです。
 紺屋町曳山「黒獅子」は安政5〜6年頃に製作されたと言われていますので、明治22年に廃止されたとすれば、その間僅かに30年くらいしか存在していなかった算用になります。そして、曳山が15台とも揃っていた年間は、僅かに13年くらいなのです。「黒獅子」がいかなる理由で廃止したにせよ、その後再び復活しなかったことは、返す返すも残念です。
 戸川真菅翁が昭和8年10月18日、当時の朝鮮済州島の朝天にいたとき、郷土を偲び、往時を懐かしんで綴られた「唐津神事思出草」(真菅翁が城内の戸川宅に送った文であり、真菅翁は当時75歳。「社報第15号」に記載されています。)の文中には、「黒獅子」の廃止のことを次のように書いておられます。翁が少年時代に実際に見たことを書いたものと思われますので、翁の説がもっとも正しいと信じてよいものと思われます。翁の思出草から一部を引用して次に示します。
 「名のみして 今は昔の影も見ず 深山がくりて 思い絶えしか。この獅子は他の三者に比して大いに見劣りせるが如し。一つは色の配合当らざるに起因せるならん。余の12〜3歳の頃なりしならん。其の時他の町々と共に引き廻り、八軒町の東端に於て横倒れとなり、どぶの中に陥りて、大いに物笑いとなりし事あり。若者等もこれ等を恥とし、それよりは祭事に列することあり、列せざることありて、いと冷淡なりしが、終に廃絶となりしは若者等に於て遺憾なきか。唐津名物の歴史より見て復活するか。他の製作を試みては如何。」
 これを読むと、「黒獅子」が姿を消した理由がだいたい判りますが、真菅翁が綴られた「唐津神事思出草」は、彼が安政5年生まれであるだけに、その一言一句に藩政時代当時の神祭の模様がよく書かれており、現代の神祭と比べて時代はちがっても、お祭りに対する心がいつも変わらないことを感じさせてくれます。

注9)八軒町とは、大手口から新大橋までの道筋の一部を指した古い町名です。大原松露饅頭店や佐賀銀行あたりの町名であったそうです。国道が開通する以前は、まだ新大橋はありませんでした。

【付記19】紺屋町曳山「黒獅子」の製作年と廃止年
 (「曳山のはなし」(古舘正石衛門著)69頁を参照)
 「黒獅子」か製作された年は、飯田一郎著の「山笠」では安政5年作と書かれていますが、平松文書の安政6年の曳山順番書には「黒獅子」の記載がありませんので、安政6年から文久2年の間に製作されたものと思われます。仮りに安政5年に製作されたとしても、それは文久2年の4年前のことです。ですから、「黒獅子」は安政年間の末期から文久年間の末期にかけて製作されたと考えるのが妥当でしょう。
 「黒獅子」が消滅した正確な時期は不明ですが、戸川真菅翁の「思出草」によると、最後に巡幸に参加したのは明治22年のくんちであり、翌23年9月9日の初くんちにはすでに解体されています。そして、太鼓と鉦は木綿町の所望により昭和30年代に木綿町に譲られています。(古老談)
 「黒獅子」が明治22年に廃止されたのであれば、「黒獅子」が存在したのは30年足らずということになります。



 

八軒町とは?


失われた町名

幕末まで残る八軒町
城下町−唐津


 富 岡 行 昌 稿

 歴史的地名を残す運動が各地におきている。これも現今の便宜的な町区画整理に対するレジスタンスとして無視できない面を多分に持っていると考えられる。故里を離れていれば自分の生れ育った土地の地名がなくなることは心の寄り処を失うような思いにかられるものであり、故郷の家は消えても残って呉れたらとの願いは無理な注文だと決めつけるわけにはゆくまい。唐津は変らぬと言っても長い歴史から見たら、やっぱり変化が見られるもので地名についても、消失・改廃が見られる。藩政時代規しまれた町名も現在では相当な識者でも比定できることは極めて少くなった。この意味で藩政時代に出てくる町的を列記して見る。

「八軒町、弓野町、鷹匠町、櫨畑町、東裏町、塩屋町、西裏町、柳町、下町、旗町のぽりまち、鉄砲町、船頭町、同心町」以上の町を全部比定できる人は相当な人であろう。
 これらの町の変遷を調べるとなると確かさは極めて弱くなるが、現在地に比定しながら説明を加えてみたい。

八軒町…大久保藩時代にできた町で、現在の佐賀銀行唐津支店あたりにあった柳堀と本町、中町の間に当時八軒の家があり八軒町と呼ばれていたが現存した期間は極めて短期間であったが、町名だけは幕末まで残っていたと言う。


飯田一郎「神と佛の民俗学」では
紺屋町の黒獅子は現在既に存在しない。これがなくなった理由については、ヤマ引きのとき誤って溝の中に落込んでこわれたとも、実は他のヤマに比べて出来が悪くて見劣りするものであったので、わざとそうしてこわしたのだともいうようなことが伝えられている。或はまた火災にあったのだとも伝えられているが、真偽のほどはよくわからない。前述明治九年の十戸長の連署には紺屋町も見えるので、その頃まではヤマに関する発言力があったとすれば、ヤマもまだあったと見るべきであろうが、恐らくはそれから遠からずして消失したものであろう。



 古館正右衛門「曳山のはなし」より
  紺屋町の黒獅子 安政五年作

 飯田一郎氏著「山笠」には安政五年作とあるが、平松文書の安政六年の順番書に記載されていないので、安政六年から文久二年の間の製作かと思う。

 黒獅子は現在は消滅して、その姿は御神祭行列図に見るだけである。消滅した正確な時期は不明だが、戸川真菅氏の「思い出草」によると、神幸に参加した最後は明治二十二年のくんちであり、翌二十三年九月九日初くんちには解体されており、@太鼓は木綿町に譲られている。

 注@ 太鼓と鉦は木綿町の所望により、昭和三十年代、木綿町に譲られている。(古老談)


同じく「曳山のはなし」 曳山小屋では
紺屋町=現在の常盤屋旅館駅前通面、角家三島家の南接地、
          表口二間位奥行二間位、中二階のあった金丸氏家。
 
      常磐屋旅館は廃業。現在は吉冨商会事務所・自宅の場所です。
      
掲示板で 曳山小屋(旧山口商店・現在は駐車場になっています。山城屋の隣。) とあるは間違いです。
    

 昭和30年前半当時の紺屋町です。

ときわや旅館があります。
 
 

紺屋町の黒獅子が姿を消した頃、まだ新大橋は出来ておらず、参道も国道につながっておらず、大手門は取り壊されております。(新大橋完成は明治24年)

社報に依れば、大手口を過ぎた曳山は八軒町から本町に曲がり京町札の辻橋を渡って魚屋町へ向かいます。


推理してみました。

紺屋町の曳山小屋は現在の吉冨商会。
明治22年の10月28日、曳山小屋から引き出された黒獅子は提灯飾りを終え、夜更けに紺屋町〜京町〜本町と順調に曳いて行く。本町の北はちょっと下り坂になっている。
その坂を下るとそこは丁度八軒町の東端。
提灯の火が燃え移ったかどうか定かではないが、坂を下って梶を切り損ね、あららあららと言う間に柳堀に落ちてしまった。
このように考えてみました。

何故宵山か。
根拠:八軒町東端の堀に落ちるためには、大手口から本町角へと曲がって落ちる可能性は極めて低い。梶を切り損ねても決して堀に落ちるはずはない。また、本町の坂を下るコースはくんち本番では考えられない。よって宵山となる。紺屋町から呉服町に曲がって大手口に行けば簡単だが、そこはやはり少しでも長く曳きたい?(紺屋町はそうでもなかったかも。)ということで、京町〜本町〜八軒町〜大手口のコースをとって城内に入っていた。


いかがでしょうか?

ご意見ご感想をしてください。     

明治22年10月28日深夜、紺屋町黒獅子の軌跡

唐津山笠重要文化財指定申請書
唐教委第1250号
昭和28年12月 日
唐津市教育委員会  印
文化財保護委員会 殿
   重要文化財指定申請について
この文書を見ることができ、文化財として始めての申請書に次の様に書き加えてありました。
紺屋町の黒獅子は明治20年誤って破壊した。
 
ここで明治20年10月28日深夜と改めさせて頂きます。(令和5年5月27日記)


黒獅子消失の謎解きはヤマスキの浪漫です。




平成24年7月21日
黒獅子が復活しました。
からつ土曜夜市40周年、実行委員長の熱い思いで実現しました。


佐賀新聞 2012年7月21日更新

幻の「黒獅子」を復元 きょう土曜夜市で披露

 明治時代に消失した唐津くんちの「黒獅子」が“復元”され、21日のからつ土曜夜市の開幕イベントで披露される。それぞれに曳山(やま)を持つ四つの商店街の青年部が、今も曳(ひ)き子たちの心に生き続ける「幻の曳山」を子どもたちに伝えようと、半年がかりで作り上げた。

 復元した「黒獅子」は段ボール製ながらウレタン塗料で仕上げた精巧な作り。高さ4・5メートル、幅2メートルで、「赤獅子(刀町)の8割程度の大きさ」という口伝に基づき「ほぼ原寸大」。ペーパークラフトの展開図を拡大コピーして段ボールに貼り付け、組み立てた。

 「黒獅子」はJR唐津駅北側で商店街入り口の紺屋町が持っていた曳山。明治22(1889)年の巡行を最後に姿を消し、「焼失した」「川に落ちた」という諸説とともに「15番目の曳山」として語り継がれている。

 土曜夜市を主催する唐津中央商店街の中町、京町、呉服町、刀町の各青年部が1月から製作。獅子の毛は毛糸店、飾りは内装店、幕は手芸品店と、家業の技を生かして仕上げた。

 21日午後7時50分に大手口の特設舞台でお披露目。8月4日には募集した子ども曳き子150人が商店街を曳き回す。夜市実行委員長で自らは青獅子を曳く吉田実さん(47)は「同じ曳き子として黒獅子を一度見てみたいと思う。子どもたちが曳くことで生き続けるはず」と話す。



Youtubeより


 by さん

画像をクリックしてください。

  唐津神社の秋祭り『唐津くんち』に登場する曳山は14台。
本来15台あったのだけれど、残念ながら黒獅子は明治20年代に消失してしまい、写真1枚すら残っておらず幻の曳山となってしまいました。

しかしその曳山を復元しようと立ち上がった若者達が居ました。
それは唐津中央商店街に所属する唐津土曜夜市実行委員会を中心とした若者達でした。

この動画は若者達がダンボール製ながらも本物の曳山と見間違うばかりの黒獅子を製作しているところを記録した映像です。
 
 

平成24年7月、唐津中央商店街の青年達の手によって唐津土曜夜市40周年記念の目玉として復元された黒獅子の動画です。

これは本番前日、曳山展示場からアルピノへと仮移動している様子を撮影したものです。

 
 

平成24年7月、唐津中央商店街の青年達の手によって唐津土曜夜市40周年記念の目玉として復元された黒獅子の動画です。

これは7月21日の唐津土曜夜市第1週目、お披露目後にアルピノへと移動している様子を撮影したものです。

実に120年ぶりに紺屋町を黒獅子が駆け抜けていきました。

 



実にアッパレ!

曳山を作るみんなの顔はイキイキと輝き、
まさに石崎嘉兵衛でした。

唐津中央商店街青年部万歳!


註:石崎嘉兵衛:唐津の現在の形の曳山、刀町の赤獅子を文政2年にはじめて作った人。

洋々閣の女将のご挨拶(2012年11月)にも取り上げられました。 ←クリックしてください。

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