唐津山笠重要文化財指定申請書
これは唐津の曳山が重要文化財に登録される最初の第一級の貴重な資料なのでこれが基本になる。
唐津山笠重要文化財指定申請書
唐教委第1250号
昭和28年12月 日
唐津市教育委員会 印
文化財保護委員会 殿
重要文化財指定申請について
本市「唐津山笠」を重要文化財として指定相成るよう別紙資料を添えて申請いたします。
内容
1 名称
唐津山笠
2 員数
十四台
3 所在の場所
佐賀県唐津市内
4 所有者の氏名又は名称及び住所
佐賀県唐津市内
十四町 (別記)
5 構造
主要部 紙製漆塗
台 部 木造
6 寸法又は重量
平均 全高 十五尺
台高 三尺五
台横 七尺三
台縦 八尺三
重量 五〇〇貫
7 山笠一覧表
所有町名 | 山笠名称 | 製作年代(西紀) | 製作者 | 製作技術者 |
刀町 | 赤獅子 | 文政二年(1819) | 石崎嘉兵衛 | 大木小助 |
中町 | 青獅子 | 文政七年(1824) | 辻 利吉 | 儀七 |
材木町 | 浦島子に亀 | 天保十二年(1841) | 須賀仲三郎 | 不明 |
呉服町 | 義経の兜 | 天保十五年(1844) | 石崎八郎右衛門 | 脇山卯太郎 |
魚屋町 | 鯛 | 弘化二年(1845) | 不明 | 不明 |
大石町 | 鳳凰丸 | 弘化三年(1846) | 永田勇吉 | 小川次郎兵衛 |
新町 | 飛龍 | 弘化三年(1846) | 中里守衛重広 | 中島良吉春近外五名 |
本町 | 金獅子 | 弘化四年(1847) | 不明 | 原口勘二郎 |
紺屋町 | 黒獅子 | 安政五年(1858) | 不明 | 不明 |
木綿町 | 信玄の兜 | 明治二年(1869) | 近藤藤兵衛 | 畑重兵衛 |
平野町 | 謙信の兜 | 〃 (1869) | 富野武蔵 | 須賀仲三郎 |
米屋町 | 酒呑童子と頼光ノ兜 | 〃 (1869) | 吉村藤右衛門 | 仝人 |
京町 | 珠取獅子 | 明治八年(1875) | 富野淇淵 | 大木卯兵衛 |
江川町 | 蛇宝丸 | 明治九年(1876) | 宮崎和助 | 須賀仲三郎 |
水主町 | 鯱 | 明治九年(1876) | 富野淇淵 | 川崎峰治 |
註 紺屋町の黒獅子は明治二十年誤って破壊した。
8 山笠の由来
文政の初頃唐津の刀町石崎嘉兵衛が伊勢参宮の途次京都で祗園の山笠を見て痛く感動し帰国ののち有志とはかり塗師大木小助等と嗜好をこらし赤塗の大獅子頭一個を作ったが即ち唐津山笠の初めで出来上がったのは文政二年(1819)のことである、
ついで文政七年(1824)中町の辻利吉等がこれに倣つて造ったのが青獅子である。これから次々に十五台の山笠ができたが神聖な祭器の獅子頭が五台、武士の威容を誇示する兜が四台、魚類関係のものが三台舟が二台、浦島子が一台、合計十五台となっている。
思うに昔敬神尚武の思想が盛んな時代にこれとは全く別箇の享楽主義のシンボルともいうべき竜頭(蛇宝丸)けき首(鳳凰丸の豪華船と夢のような浦島子とを採択したことは唐津民衆に優美と平和愛好の情操とを与えたことを明記すべきである。
9 唐津供日(からつくんち)と山笠
唐津神社の祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命、大直日神、大綾日神、海原神とである。
祭日は十月二十九日(昔は陰暦九月二十九日である)この日各町では早朝から神こしの御巡幸に従って山笠を引き出すのでこれを見物しようと近郷近在から老若男女が雲集する。
唐津神祭におけるこの山笠引きお行事は藩政時代に武家に対する町民の意気を象徴して始められたと言われる。
今でいうなら一種のデモンストレーションの如きものであろう。
それが上下をあげて和楽の中に行われた。この日ばかりは城かくの守り厳重な追手の門も町民にむかって開けられたのである。
藩政時代山笠引きの模様は先づ供日の朝未明に各町の山笠は満燈を粧うて追手門前の広場(今の大手口)に集った。
この時城内家中の腕白連は明け四つにならぬと門が明かないので待ちかねて塀の上にまたがり宛は矢間からこの勢揃いした山笠をのぞき見したものである。
やがて秋冷の朝霧を被って時打昔から明け六つの太鼓がとどろき渡ると城門は左右に開かれ山笠はロキロを下ろして順々に門をくぐる。そして城内の神社前広場に整列今の十時頃になると御みこしの発輦で山笠はその前後に従して大名小路を経て追手へ抜け内町外町を廻り西の浜の御旅所へ着夕方おみこしに従って各自の町へ還る。翌三十日は町内だけを引き廻る。 現在でも少し道順が違うのみで大体同様である。
昔はこの御幸には大名行列」の様なこ従があって槍振、挟箱等の手振は藩の仲間が奉仕した。又御みこしの前後に町田のカブカブ獅子が従ったもので社家戸川安藤内山の三家社僧寛正院は駕籠或は馬上にて従った。