失われた町名

幕末まで残る八軒町
城下町−唐津


 富 岡 行 昌 稿

 歴史的地名を残す運動が各地におきている。これも現今の便宜的な町区画整理に対するレジスタンスとして無視できない面を多分に持っていると考えられる。故里を離れていれば自分の生れ育った土地の地名がなくなることは心の寄り処を失うような思いにかられるものであり、故郷の家は消えても残って呉れたらとの願いは無理な注文だと決めつけるわけにはゆくまい。唐津は変らぬと言っても長い歴史から見たら、やっぱり変化が見られるもので地名についても、消失・改廃が見られる。藩政時代規しまれた町名も現在では相当な識者でも比定できることは極めて少くなった。この意味で藩政時代に出てくる町的を列記して見る。

「八軒町、弓野町、鷹匠町、櫨畑町、東裏町、塩屋町、西裏町、柳町、下町、旗町のぽりまち、鉄砲町、船頭町、同心町」以上の町を全部比定できる人は相当な人であろう。
 これらの町の変遷を調べるとなると確かさは極めて弱くなるが、現在地に比定しながら説明を加えてみたい。

◎八軒町…大久保藩時代にできた町で、現在の佐賀銀行唐津支店あたりにあった柳堀と本町、中町の間に当時八軒の家があり八軒町と呼ばれていたが現存した期間は極めて短期間であったが、町名だけは幕末まで残っていたと言う。

◎櫨畑町…現在は西寺町になっているが、近松寺と濠堀の間、現在国道の通っている一帯にこの町はあり藩の薬園もあったと言う。

◎弓野町・鷹匠町…城下町の十二か町に属さぬ町で、江戸期は下級武士の居住地で町方支配を受けぬ町であった。明治中期両町は合併して弓鷹町となった。合併年月は確かでない。幕末期の絵図に依れば鷹匠町は刀町の北側、内濠に面する地区であり、弓野町は城下町城廓の西側石垣に面している地区で、両町の間には新町があり、離れ離れの地区である。これは両者が武家町であり町人町に対抗する立場から、この離れ離れの不便さをしのんでも合併した歴史的理由が存在していたのではなかろうか。

◎東裏町…唐津地方の民話「かんね話」の勘右衛門(かんね)は裏町に住んでいたことになっている。かんね話を推敲すると、勘右衛門の住んだ裏町は東裏町にならざるを得ない。
 これまで唐津で裏町と呼ばれる所は江川町南側の西裏町と京町の南側の京裏町と大石町南側の東裏町の三か所である。京裏町は明治以降の裏町であるので、話の内容からして東裏町となる。東裏町は大石町と十人町にはさまれた袋小路の町で不便であったので、江戸末期には廃町の願さえ出されている。しかし明治四年の文書には、まだその町名が残されているのでこの名が消えたのは明治の早い時期に大石町に合併された。
 
◎塩屋しおん町…材木町と大石町との間、魚屋町の俗称親不幸通のほぼ中ほどの現在スナックみどりより入る小路すじを塩屋町と称した。江戸期には二十三軒の民家があり、現在西唐津にある福成寺もこの町中にあり大正八年頃移転したと言う。福成寺と言えば女傑奥村五百子がこの寺に嫁入りした事実がある。この町も東裏町と同じ頃、材木町に合併して町名は消えている。
 昭和五十一年七月一日から唐人町は町田五丁目と呼称されるようになった。唐人町と言う呼び方は唐津ン者にとっては唐津焼と共になじみの深い町名であり、私たち年輩にとってはピンとこない。
 唐人町は公称名ではないが、朝鮮渡来の流れを持つ焼物師が、ここに住み唐津焼を始めたから唐人町と言うのだと聞かされて来た。然し実際には焼物師が住みつく以前から唐人町と呼ばれていたのであり、焼物と町名の起原には直接には関係がない。
 西日本の大きな城下町を見ると、たいてい唐人町が見受けられる。例えば博多の唐人町、佐賀の唐人町などすぐ気付く。唐津の唐人町は秀吉の朝鮮出兵の折大陸人を連れて来て、ここに住ませ家臣鬼平に監督させて晒布を作らせたのに始まると言う。「同所居住の滝下姓はその帰化人の子孫である」と唐津村史にも誌されている。
 天明四年(一七八四)に完成した木崎悠軒の肥前国産物図考には「布晒」の項があり、町田川にて木綿布、麻布、江戸苧を晒す専門の人々が渡世とし、年貢として年に晒布三反を上納したと言う。
 次に唐津焼との結び付きは享保十九年(一七三四)で土井大炊頭利実の時坊主町にあった御用窯を現在地に移した時からである。以来今日に至るまで御茶碗窯として唐津焼の伝統を守っている。
 文化年中の記録に依れば唐人町は家数十七軒、人数六十七人である。それが現在は世帯数一六七軒、住民五四九人で約十倍の人々が住んでいる。明治初年廃藩となり、それまで藩の保護を受けて、安定していた御用窯も廃止され焼物は極度に衰微の道をたどり、御用焼物師三家の大島家は大工となり、福本家も転業し、僅かに中里家のみが焼物窯を守るだけになった。第十一代中里家の祐太郎も貧しく子供に飴玉を与えてモデルになってもらったと言う。現在も御茶碗窯の上の丘には椿が繁り毎年赤い花を咲かせているが、その樹の下に赤い鳥居の稲荷様が祭られている。明治から大正にかけては、その稲荷様も修理が行き届かず相当に傷み雨漏りがするようになった。大正の終り頃、大風が吹き、丘の松の大木が倒れ、祠を壊わしてしまった。その翌日、近くの百姓が田の畦に坐わっている白孤を見た。それから数か月後、その百姓のお母さんが急に変りお稲荷のお告げを叫び出した。
 「松の大木が人家や高い煙突に倒れかかると、人間が死んだり、傷をする者が出ると思うので、自分の頭の上に倒れるようにしたのだ。そのわしは今は住む家も困っている」
 この話を聞いた焼物師が早速伺うと、
 「このまま祠を放ったらかしにするとは何事だ」と猛烈に叱りつけたと言う。その席にいた古老は今でも、その時の農婦の恐ろしい声を覚えているそうです。
 そこで焼物師は急いで祠を建てなおしたと言います。
 中里家では今でも、この伝統を守り、稲荷様の祠りは絶やさぬと言います。
 唐津の城内と呼ばれる処は藩政時代唐津城の中核をなす場所で、慶長年間寺沢志摩守が城の縄張りをするにあたり、当時満島山と呼ばれた処を本丸にし、それに連なる処を二の丸に定め、旧波多川の流れに濠を掘り三の丸と区切りをした。この三か所はすべて石垣で因まれ、その外側は濠堀があり、出入口は城下町に面した南側には大手門、西北隅には西の門があり松浦川側には船手門があり三の丸北側の西の浜には埋門が設けられていた。そしてその出入は厳重を極め、武士以外は門札なしには出入は許されなかった。然し十月二十八日から三十日の唐津神祭だけは町人も門札なしに出入が許されている。唐津供日の曳山行列が無礼講であると言うことは、このことを指すのであろう。
 この城内は昭和の初期まで、道筋は、それぞれふさわしい小路名で呼ばれている。現在東城は、北城内、南城内、西城内、大名小路の町名で呼ばれているが、藩政期から現在に至る間、町名も幾多の変遷を経ている。その経過をたどって見る。明治四年、藩政が終り唐津県が誕生した時、明治政府が最初に着手したのは戸籍の編成である。その時の戸籍のとりまとめは現在の地区ごとでなく、身分によるとりまとめであった。唐津城下については、一区は藩士の居住する本丸、二の丸、三の丸で、二区は城下の西方の下級藩士の居住地や寺社奉行管轄の神社仏閣の多い西ノ門外、名古屋口外、西寺町、江川町で、三区は大手門外、名古屋口内、札の辻内、十人町などに居住する藩士が対象とされ四区が城下町の町民が対象とされている。この分方けは後世の土地台帳作成にも影響を及ぼし、城下は大字として廓内、廓外、唐津町に分けられた。大字としての廓内は城の本丸、二の丸、三の丸で、その折各小路の藩政期の通称名が、そのまま使われている。
 明治維新直後製作された城下絵図がお茶の水窯山岡家に保存されている。その絵図には、昔なつかしい各小路が記されている。

◎大名小路(現在大名小路) この道筋には藩政時活躍した小笠原長光公の屋敷が現在の電々公社裏あたりにあり、当時の藩士の石河家も現在の位置に画かれている。又先覚者山久知文次郎の名もある。
藩政期にはこの小路の南は柳堀に突当っていたが、明治十五年頃本町との間橋がかかり、その後柳堀は埋められ、現在のは佐賀銀行あたりになっている。

◎大手小路(現在南城内)裁判所西側の小路、現在大手口のロータリーあたりは広場になっており、藩主が城内を出る時この広場を右手に折れて大手門があり、橋によって町並に続いていた。現在の辻薬店あたりになる。

◎明神小路(現在西城内)唐津神社正面から南への小路で、この小路の突当りの濠堀は肥後堀と呼ばれ、築城の折肥後の加藤清正の加勢により造られたと言う。文化会館前は藩政時一面の竹薮で、その薮を背にして曳山が勢揃いをしたと聞く。

◎明神横小路(現在南城内)唐津神社前広場から大名小路へ出る小路で、神社前に勢揃いした曳山行列はこの小路を通り、大名小路に出て、大手門から橋を渡り町並へ向ったと言う。

◎埋門小路(現在南城内・北城内)明神小路から西の浜の埋門へ向う小路で、埋門は非常時以外は開ずの門であった。この小路筋には現在駐車場になっている高取屋敷の一角に藩政時、時刻をつげる大鼓の時大鼓があり、明治期には大鼓の代りに大砲がおかれて空砲で時を告げていた。

◎松原小路(現在西城内)松原小路は肥後堀の石垣に平行にある小路と唐津神社西横の小路二つが記されている。神社横の小路筋には藩政期藩校の志道館があり、現在志道小学校となっている。

◎西の門小路(現在北城内)産業道路と呼ばれる道筋で、西は西ノ門に通ずる。この小路は藩主が転出する時、入封する新藩主が大手門より入城するのに対して、旧藩主は、この西ノ門から退場し、新堀の渡し場に向っている。又この西ノ門は「とわずかたらずの門」とも言われている。その由来は領民の嘱望を受けて若くして藩主となった土井利延公が僅か数年で亡くなり、神田の墓地に向った折家老は、この門外で棺を止め、一人語りで殿の亡骸に対して「只今城門を出ております」と告げ、従っていた家臣一同が、涙をながしたと伝えられるによると言う。なおこの小路の北側は御見馬場と言い藩政期は馬場であった。

◎西の門横小路(現在西城内)城内西側の石垣にそうた小路で、中級武士の屋敷が多かった。この小路の中程から坊主町への坂道を有礼坂と言うがここには藩政期には道はなく、明治になって造られている。当時この小路に学塾があり、この塾生が、この坂にさしかかる時衣服を匡したので有礼坂と呼ぶようになったとも伝えるが、淋しく薄暗い坂道なので、幽霊坂の異名さえある。

 二の丸地区には小路の通称名は記されていない。高校入口と道をへだてた一帯は江戸屋敷といって江戸在勤の藩士が一時帰国の折り滞在した長屋があった。現在は屋敷の石垣がその名残をとどめている。高校グラウンドの南西の隅には土井藩時代の藩校盈科堂があったが、そのあとを示す標柱さえないのは観光と歴史の街としては寂しい限りである。


「末廬國」第21年第81号より