序文に代えて 古 舘 曹 人
中村君は唐津中学校(昭和一三年卒)の親友である。この時代は「次郎物語」の下村虎六郎(湖人)先生が転出された直後のことであった。名前の「和正カズマサ」を捩って、彼のことを吾々は「和尚オショウさん」と呼んだ。
大佛、馬、ぼっちゃん、兄アンちゃん、おこぜ、ゴリラ、中学時代の先生の渾名の中でこれなどはその体形、容貌、年令、などで誰が見ても歴然としていたが「七面」になると説明を要する。それは七面鳥の意味で、毎日ネクタイを取り替えるお洒落な英語教師である。
中村君もかって東京都立大学附属高等学校や、武蔵野市立の中学校長であったから、悪童連からさぞ適切な渾名を頂戴していたに違いない。
その彼が「唐津城の殿様たち」を脱稿した。寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原の六代にわたる唐津藩の治政が克明に記述された。
抑々日本古代史に関する最古の資料である『魏志倭人伝』の末盧の昔から、神功皇后新羅征、太宰師として筑紫に下った山上憶良と大伴旅人の萬葉時代を経て、倭寇の密貿易に秀吉の禁止令が下され、安土桃山時代を含めた封建制後期(即ち西洋史のルネッサンス以降)が始まり、唐津ははじめて城下町として近世に生まれ替ろうとしていた。
『唐津城の殿様たち』は、秀吉の島津征伐、朝鮮出兵披多三河守の追放、寺沢広高の関ケ原参戦から唐津城築城の慶長七年(一六〇二)を起点として書かれている。島津征伐から秀吉の死没までの十一年間は、日本歴史の中ではじめて唐津が天下の頂点に立つ瞬間であった。その間秀吉自ら名護屋城に二回出陣し、
博多の豪商神屋宗湛ソウタンは唐津から上洛して秀吉の寵愛を受ける茶頭サドウ(格)となって、名護屋城には 五大老、五奉行が秀吉を取り囲んだ。この時、泉州堺の大船頭、木屋利右衛門が秀吉に従って名護屋に出陣する件について私は取材を開始した。
私には、郷里の先輩として三人の教師に恵まれた。その一人は「小笠原長行」の著者である岩井弘融先生、郷土史研究家の「末廬国」の編集長富岡行昌先生、唐津焼の中里無庵さんの甥にあたる中里紀元先生の三人である。
五十年にわたる俳句の筆を折って「物書き」になった初心者にとって有難い指導者であった。その時、私の傍らに中村和正君と吉村次男君の中学校の二人の親友が、いつの間にか私に手を差し伸べていることに驚いた。
中村君は歴史の教師、吉村君は優秀な電気技術者であるが、現在は古文書の研究家なのである。私は早速有力な強力者に甘えることにした。
中村君は『唐津城の殿様たち』の取材のために墓石を隈無く探して自分の足で確かめるうちに面白いことを発見した。それは唐津の雄獄山に水野忠光の碑が子の忠邦によって建てられたが、誤って祖父忠鼎の法号を彫んでしまった。中村君はこの新発見の事実を書こうと思ったが、殿様に対する悪口となることに悩んだ挙句、私にどうしようか、と尋ねたことがあった。波多三河守や小笠原長行の傑物と同じく水野忠邦の失敗は書き残さねばならぬ。「忠邦は笑って許すで御座ろう」と私は答えた。
幕閣入りを願うあまりの失策で忠邦は頭を掻くところだ。中村君は「それにしても、孝子忠邦どころか、不孝の極みです」と軽くたしなめた。
「唐津城の殿様たち」を書いた中村君は、二年前唐津神社の隣に新築して引越した。そこは唐津城三の丸。おそらく、やがて同期生たちの巣窟になるであろう。
序
私が郷里唐津に移り住んだ平成六年は「唐津築城四百年祭」でした。平安時代後期から約四百年に亘ってこの地で栄えていた松浦党が豊臣秀吉に亡ぼされ、寺沢志摩守広高がこの地の城主として君臨してから 江戸幕府が亡び明治二年(一八六九)六月、最後の藩主小笠原長国が版籍奉還するまで二七五年間に、六氏、二十人の大名たちが唐津城に君臨しました。
初代藩主寺沢氏以外は全て譜代大名で、これら二十人の大名の中には名君もあったが時には暴君もあったようです。又一度も唐津の地を踏んだことのない殿様もあり唐津に骨を埋めた殿様もありました。寺沢広高、堅高父子、土井大炊頭利延、小笠原佐渡守長和の四人の殿様は唐津の土になりました。
寺沢志摩守広高(一五六三-一六三三)は鏡神社東側に、兵庫守堅高(一六〇八-一六四七)は近松寺に、土井氏三代大炊頭利延(一七二〇-一七四四)は神田山に小笠原氏四代佐渡守長和(一八二一-一八四〇)は近松寺に眠っていますが、他の十六人の殿様たちの墓は全部江戸か、その周辺にあります。
殿様の歴史を調べているうちに、金石文を含めて従来伝えられる郷土史に、いくつかの「誤り」が発見されました。江戸と唐津、三百余里(一二二八・三二km)を隔てた西の果て、情報に乏しかった時代のこと、止む得なかったかも知れません。即ち
1和多田の大久保忠職の碑に「葬於第南立行寺」とありますが、誤りで立行寺には大久保氏の墓はなく、世田谷の天台宗竹園山教学院最勝寺で茶毘に付し後期大久保氏の墓所となりました。
2水野氏の墓所、萬松寺は今は寺はなく、結城市の字地名で、雄獄山の水野忠光の碑に刻まれた
「徳照院叡嶽宗俊大居士」の法号は二代忠鼎の法号です。
「孝子忠邦」は、祖父の法号を父忠光の碑に刻んでいます。幕閣への夢に、心ここにあらざる「殿様」であったようです。不孝の極みです。
3小笠原氏初代長昌、二代長泰、三代長會の墓所は、「駒込龍興寺」ではなく、「本駒込龍光寺」です。長昌の墓碑の法号は「霊源院殿前肥州唐津大守廊厳宗徹大居士」とあり、没年月日も「文政六年九月二十六日」と刻まれています。(九月二十九日ではない)
4江戸が東京になり、殿様たちもビルの谷間では住みにくくなってか、松平家の墓所は国許の西尾市に、土井氏は古河の正定寺に改葬されています。
唐津藩は、外様大名の寺沢氏時代は十二万三千石でしたが、その後の譜代大名になると、転封、上地、幕閣入り、で最後の小笠原長昌が入部した時は半分以下の六万石でした。外様大名の領国とは異なった風土が、譜代大名と領民の間には培われてきたようです。″おらが国の殿様″という意識は転勤大名と人々の間には芽生えなかったようです。
本書は 唐津城の殿様たち 二十人の生きざまとそれぞれの時代背景を記してみました。
著 者
唐津城の殿様たち
はじめに
私どもの故郷松浦の地は、平安時代の後期から約400年にわたって上松浦を中心に松浦党十数氏の武将たちが、或は合従し、時には連衡を試みながら家運の隆昌を賭けて山野を血に染めた戦に明け暮れていました。
その武勇は都にまでもきこえ、京の貴族たちはこれらの諸豪族を総称して「松浦党」と呼び、時には武力を頼りにもし、ある時は恐れてもいました。
天正十五年(一五八七)三月、豊臣秀吉は島津征伐のために九州に軍を進めました。北部九州の諸将たちは秀吉の下に伺候して協力しましたが、波多三河守親は実父有馬晴純が曽て竜造寺氏と対立した時島津氏が厚意的であったことから参加せず、秀吉の不興を蒙りました。
玉島鬼ケ城主草野氏、筑前高祖城主原田氏らは参戦しなかったので所領は没収されました。五月八日島津義久は秀吉に降り、七月十四日秀吉は大坂に凱旋しました。
さらに秀吉は、天正十九年(一五九一)九月、朝鮮出兵に際しても三河守は消極的でした。翌天正二十年秀吉は三月二十六日京都を発ち、四月二十五日名護屋に到着していますが、この時九州諸大名は博多に秀吉を出迎えましたが、三河守は遅参してきました。
文禄の役では、波多氏は兵七五〇人を率いて加藤清正の軍に編成されてそれなりの活躍をしていますが、三河守出陣中の文禄二年(一五九三)九月十八日には、波多氏の所領は没収されて総軍艦御船奉行寺沢志摩守広高に与えられています。(有浦家文書)
三河守は凱旋しても、松浦の地には既に所領はありませんでした。
文禄三年(一五九四)二月、三河守は名護屋への凱旋の船中で、「上陸は許さず、所領没収、常陸国筑波山へ配流」との秀吉の沙汰をうけました。
このようにして、波多氏は初代源久より十七代、三河守親を最後に松浦党は亡び、家臣たちの多くは無念のうちに四散し、その殆んどは帰農し、ある者は寺沢氏に、或は鍋島氏に仕えるなど、松浦の地は中世から近世に向って大きく歩み出しました。
第一章 寺沢氏時代
(文緑四年一五九五~正保四年一六四七) 五十三年間
寺沢氏は、尾張の出で寺沢越中守広正は、尾張の織田信長に仕えていましたが、天正十年(一五八二)六月二日、本能寺の変のあと豊臣秀吉に従い大和国に六万石を領していました。
文禄の役で、子広高は肥前名護屋城に出陣、広正も西下して広高の陣を訪ねていましたが、たまたま病になり文禄四年(一五九五)一月十四日、この地で没しました。墓は名護屋村の専稱寺にあり、のち嗣子広高が唐津城主になり清涼山浄泰寺を唐津に移建し寺沢家礼拝所とし、碑を建てました。浄泰寺の名は広正の法号「浄泰居士」によるものといわれます。
越中守広正の法号は 巌浄院殿看譽浄泰禅定門
越中守夫人の法号は 華璽院殿春譽慶円大姉
です。
なお、唐津浄泰寺の山門は肥前名護屋城の門を移建したものといわれます。
寺沢氏系譜
- | 忠清(元和八年、宇木村来雲寺の配所で没) | |||
- | 堅高(正保四年十一月十八日江戸浅草海禅寺で自刃) | |||
広正 | - | 広高 | - | 女 (備中松山藩主 水谷伊勢守勝隆の室) |
- | 女 (松平式部大輔忠次の室) | |||
- | 女 (戸川土佐守正女の室) | |||
- | 女 (榊原遠江守康勝の室) |
初代 志摩守 広高 (一五六三-一六三三)
広高は、越中守広正の子として永禄六年(一五六三)生まれ、織田信長に従い、天正十年(一五八二)本能寺の変の後、豊臣秀吉の側近として仕え大和国六万石を領していました。朝鮮出兵の際は総軍艦御船奉行として名護屋で輸送の最高責任者として活躍しました。
松浦党没落のあと、波多氏の遺領、草野氏の知行地六万三千石を引継ぎ、波多氏の遺臣たちの処遇に意を用いながら、新しい時代に相応しい改革を進めて大きな治績をあげました。
広高は、初め波多氏の遺領松浦郡六万三千石、薩摩国出水郡二万石を領していましたが、慶長十九年(一六一四)出水郡の二万石と筑前黒田藩の怡土郡二万石とを交換し、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦で東軍に属しその軍功により旧小西行長の領地天草四万石が加増され合計十二万三千石の大大名となりました。時に広高三十八才でした。
○ 広高の主な治績
広高は、唐津初代藩主として大きな治績を残しました。
1、唐津城の構築
広高は、はじめ波多氏の故地、田中村の仮城にいましたが、十二万三千石の大名の城下町としては狭隘のため、慶長七年(一六〇二)から七年の歳月をかけて唐津城を構築して拠点としました。完成したのは慶長十三年(一六〇八)広高四十六才でした。
唐津城の地は、もと満鳥山(海抜四三m)で今の東唐津に接続していましたが、山の東麓を切り開いて松浦川を流し現在のような城としました。築城に伴って松浦川の改修工事、防風林としての虹の松原の造成、或は和多田村の鬼塚新田、大渡新田、対岸の鏡村の新田開発など多くの治績を残しました。
2、虹の松原
唐津の地は、北に玄界灘を控え風潮害がひどかったので、広高は、鏡、砂子、横田、浜崎、鹿家など沿海の諸部落に命じて数千本の黒松を植えさせて防風林としました。この松林はその後長く防風林としての役割はもとより、名勝「虹の松原」として全国にその名が知られ、私どもの〝心のふるさと″として今日に生き続けています。私どもが中学生の頃までは地域の人々が 〝松葉かき″などして管理していたので有名な〝松露″堀りなどして楽しんだものでした。
今の虹の松原は、総面積二三八ha、(内、国有林が二一七ha)で百万本の松の木が繁っていますが、近年松喰虫の被害が多いようです。平成五年には二三三四本、平成六年には二一八一本、平成七年には一八三七本が松喰虫の被害で枯れたようです。心細いことです。
3、新田開発
広高は、松浦川の改修に伴って新田開発をしました。元和二年(一六一六)九月に完成した
イ、和多田新田 鬼塚-先石間に九百余間の堤防を築いて造成したもので総面積は十町歩に及んでいます。
ロ、鏡村新田 和多田村の新田と並んで松浦川の対岸に開発されたのが鏡新田です。この新田は石垣の堤防が七百八十間余りで大へんな難工事だったようです、総面積は四拾参町余りで当時の新田中、最も規模が大きいものでした。
ハ、有浦新田 仮屋湾を埋立てた干拓新田で二十八町歩余りです。
ニ、黒川新田 同じく干拓新田で、慶長六年に工事が始まり慶長十年(一六〇五)七月十四日に完成したもので、総面積は二十五町歩です。堤防の長さは六十三間ですが潮の流れが急で難工事だったようです。
ホ、その他 怡土郡に五十五町歩、松浦郡に唐津村、佐志村、相賀村、湊村、馬部村、大川野村、山本村、などでも新田開発を行いました。
ヘ、塩田 これらの水田開発と並行して塩田も開発し特に怡土郡では二十町歩の塩田を開発した。
元和二年(一六一六)に完了した「元和検地」によれば、
松浦郡 八万二千四百十六石四斗一升六合
怡土郡 二万八千三百六十石参斗四升三合
天草郡 四万石
で、合計十五万七百七十六石七斗五升九合で、知行高十二万三千石より二万七千石余り増えています。
これはその多くが新田開発によるものです。
4、郷足軽
寺沢氏の家臣は、尾張時代以来のもの、他藩や浪人を召抱えたもの、唐津に来て波多氏なき後その家臣たちを召抱えたものに大別されますが、広高は波多氏の遺臣たちとの融和に心をつかったようです。
この松浦党の地侍たちを家臣として、或は庄屋として、或は郷足軽として取りたてました。これらの人々は士分の扱いをうけましたが、藩境や要地に常駐して変に備えたり、給田として五反歩の土地を貰って開墾に従事したり、藩主の交替には関係なく、それらの地方に土着して地方警備の任に当りました。即ち
大川野村 四十人
広瀬村 十人
鏡 村 四十人
和多田村 四十人 を常駐させました。これらの郷士たちは地方警備上、或は新田開発に大へん効果があったので、その後さらに
鏡 村 二十人
小麦原村(南波多) 十四人
中原村(久里) 七人
堂ノ元村(怡土郡) 十一人
一貴山村小松崎 十 人 を配置しました。
特に鏡村の郷士の六十人の末裔たちは今に至るまで、「志摩さま」と尊敬して志摩守の墓守をしているとか。
5、松浦川の改修
広高は、唐津築城にあたって、唐津城防禦と洪水の防止、水運の便、などから松浦川の改修工事を行ないました。現在私どもが知る松浦川とは全く異った流れをしていました。町田川と松浦川との合流する河口付近は非常に帽の広いところで、江戸時代には材木町の新堀渡しから満島に渡るのが唯一の交通機関であったようです。
広高は、治世三十二年、多くの治績を残しましたが、寛永二年(一六二五)十二月、家督を二子堅高(十八才)に譲って隠居、八年後の寛永十年(一六三三) 四月十一日病没。享年七十一才。
墓は広高の希望により鏡神社の一隅にあり、広さ約五〇〇㎡、墓碑は花崗岩で、宝珠をもつ笠石(三・四m四方)つき、二重の礎台の上に建てられ、総高七・〇五mの堂々たるものです。唐津歴代藩主の墓碑では最大のものです。 碑銘には
前志州太守休甫宗可居士 正面
寛永第十癸酉年 左面
孟夏四月十一日 石面
と刻まれています。
○ 京都大徳寺の墓
志摩守広高の墓は、京都大徳寺山内三玄院墓地にもあります。高さ約一間半。墓誌に「文禄五年(一五九六)この寺に参禅入室し和尚から〝休甫宗可″の号を授かった、云々」とあります。
○ 志摩守の妻室の碑
志摩守妻室の墓碑は、唐津近松寺兆域にあり、高さ約三・六〇m、礎石一・五八m四方、高さ一八cmの上に建てられた立派な墓碑です。 法号は
瑞泉院殿月渓宗清大姉
寛永十七年六月二十一日
と刻まれています。寛永十七年は一六四〇年ですから、夫志摩守に後れること七年のことです。
○ 志摩守広高の没年の頃
寛永十年(一六三三)広高が没した頃は、三代将軍家光の治世で、幕府は奉書船(朱印船)の他は海外渡航を禁止し、在外五年以上の邦人の帰国を禁止、筑前藩主黒田忠之の家老栗山大膳を南部藩にお預けとなった 〝黒田騒動〟、後の若年寄(六人衆)の設置、或は十二月には将軍家光の弟、徳川忠長が改易され配所高崎で自刃(二十八才)させられるなど多事な年でした。
二代 兵庫守 堅高 (一六〇八-一六四七)
堅高は、慶長十三年(一六〇八)廣高の第二子として生まれ、寛永二年(一六二五)十二月、父広高の隠居の後をうけて襲封、時に十八才でした。
堅高は、父の志を継いで家老熊沢三郎右衛門をして領内の庄屋、惣庄屋を指導して年貢の納入、耕作の奨励など農民政策の基盤を確立しました。
然しその頃、キリスト教に対する弾圧が次第に強化され、不幸にも寛永十四年(一六三七)十月二十五日には所領天草で所謂「天草・島原の乱」がおこり、偶々藩主兵庫守は参覲在府中で、老臣たちが相談して唐津からは家老岡島次郎左衛門が一五〇〇人(一読には七五七五人とか)を率いて天草に出兵して鎮圧に当り、戦死者二十三名、負傷者三百十五名の犠牲者を出し、江戸参覲中の堅高も急いで帰国して天草まで兵を率いて出陣しました。
天草四郎時貞の率いる一軍は富岡城を攻めたが唐津藩の守りは堅く、ついに十二月天草四郎は三万七千人の凶徒と原城に立てこもりましたが、翌寛永十五年(一六三八)二月二十八日、原城は落城しました。
乱平定後、寛永十五年(一六三八)四月十二日幕府は唐津藩領天草四万石を没収、藩主堅高に蟄居を命じました。(翌年六月十二日、堅高の蟄居は許された)
堅高は、天草領四万石が没収され、知行八万三千石に減ったことに自責を感じてか、さまざまな心労が重なってか、正保四年(一六四七)十一月十八日、江戸浅草の海禅寺で自刃しました。享年四十才。
堅高の生卒については、河出書房の日本歴史辞典、角川書店の日本史辞典により、慶長十三年 (一六〇八)戊申の生れ説を採りました。
墓は唐津近松寺にあり、墓碑は花崗岩の自然石で、高さ二・六m、帽一・〇m、で正面には
狐峰院殿白室宗不居士 の法号、裏面には
正保四年十一月十八日 と刻まれています。
墓碑の構造など大名の墓としては全くお粗末です。
兵庫守堅高の舎利壷
堅高は、江戸浅草の海禅寺で自刃しましたが、遺骨は近松寺に埋葬されていました。近松寺では納骨堂建設のために墓地を改葬し、兵庫守の墓碑も移転することになりました。昭和三十五年(一九六〇)一月八日、墓碑の地下約一mの所から舎利壷が無疵で発掘されました。
この骨壷(三彩壷)は、蓋つきの楕円形のもので、蓋の直径が一一cm、高さ二・四cm、壷の身は高さ八・六cm、胴は一番大きい所が直径一五・五cm、口径九cm、底径八・六cmのもので黄、青、黒紫の三彩壷です。
肥前陶磁器に詳しい永竹威教授の説では、寛政年間頃の薩摩平佐窯が、長崎の長与窯の作品ではないか、とか。
二代堅高の治世は二十三年、内室岡都氏は夫に先立って他界していたので嗣子はなく、寺沢氏は二代五十三年でお家断絶、又もや家臣たちは路頭に迷うことになりました。
唐津藩は、その後一年ばかり幕府の直轄地となりました。この時の城明け渡しには、幕府の使者として津田平左衛門、斎藤左源太の二名が下向して唐津城に入り、受渡には
備中松山(高梁)城主 水谷伊予守勝隆
豊後岡城主 中川内膳正久盛 の両名が命ぜられ寺沢家の遺臣との間に無事引渡しが終りましたが、転封とは違い家門断絶の城の受渡しは誠に悲痛です。
特に、備中松山城主(五万三千石)水谷伊予守勝隆にとっては、唐津城は妻の実家で、この城を築いた志摩守広高は岳父です。心中誠に哀れです。
慶安二年(一六四九)大久保氏が唐津藩主となり、爾来幕末まで二一六年間、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏など譜代大名の転封支配が続きました。
参考(一)黒船事件-天守閣の大砲
寛永二十一年(一六四四)六月八日早朝のことです。唐津湾の高島と姫島の間に大きな異国船を発見し、唐津藩では大慌て、藩主寺沢堅高(三七才)は直ちに戦闘準備を命じ五五〇〇人の兵を海陸の防備につかせました。
筑前黒田藩も出兵し、平戸の松浦藩、小倉の小笠原藩、長州の毛利藩までが、それぞれの海岸に兵を出して備えました。
唐津藩、筑前藩は数百隻の船でこの異国船をとり囲み、草船に火をつけて風かみから流して火攻めにしたので、黒船は船火事をおこし、火薬庫が爆発して沈没し、約五〇〇人の乗組員は海中に沈み一人の生存者もなかったとか。
事件後、寺沢、黒田の両藩士によってこの異国船の大砲が引き上げられ、寺沢氏が八門、黒田氏が六門引き上げた、とか。その大砲の一門が唐津城趾に保存されています。
この大砲は、砲身が長さ三m、口径二〇cm、で大へんな代物です。私どもが中学生の頃は本丸の一番上に海の方を向けて備えてありました。
又、黒船が沈んだ辺りの海面には、乗組員の幽霊が出るとか、その付近を船が通ると突風や、大波がおこり沈没したとか、の噂で、藩主は近松寺で三日三晩犠牲者の供養をさせた、とか伝えられます。
真偽のほどはわかりませんが、当時は島原の乱の後で前年の寛永二十年(一六四三) 十月には諸大名に命じて沿海の異国船に備えさせた事と、唐津城本丸(舞鶴公園) からは高島と姫島は重ってその間には船は見えないこと、だけは事実です。
参考(二) 寺沢忠清( -一六二三)
寺沢志摩守広高(一五六三-一六三三)には長子忠清(一説では高清)があり、忠清は慶長十六年(一六一一)従五位下式部大輔に叙せられていましたが不幸、父広高の勘気に触れ配流の身となりました。このことに心を痛めていた家老たちは、早く父子が和解して赦免の日のくるのを願っていました。
そのために、近くの字木村(浮き島)に遷し、忠清も亦、配流の身を弁えて謹慎の日々を送っていましたが、父に先立つこと十一年、元和八年(一六二三)宇木村の配所で没しました。
終焉の地に建てられた墓碑は高さ一丈もあり
来雲堅従大居士 正面
寺沢式部 と側面に刻まれています。
墓碑の正面には二本の桧の大木が聳え四〇〇年近い時の流れを感じさせます。墓所の側には、弟兵庫守堅高によって寺が建てられ寺領五十石が与えられていました。天鼓山来雲寺です。
参考(三) 日本史のできごと
寺沢氏二代五十三年治世の間は、秀吉、家康、秀忠家光の頃で、歴史の大きな激動の時代でした。
(イ)慶長の役終わる
慶長三年(一五九八)八月十八日、豊臣秀吉(63才)が没し、遺命により朝鮮から撤兵、慶長の役が終わりました。
(ロ)家康任征夷大将軍
慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ケ原戦で東軍が勝ち、事実上天下は徳川家康のものとなり、慶長八年(一六〇三)二月十二日、家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府政治が始まりました。
(ハ)豊臣氏滅亡-大坂夏の陣
慶長二十年(一六一五)五月八日、大坂夏の陣で豊臣秀頼(23才)淀君(49才) 母子が自刃して大坂城落城、豊臣氏は滅亡しました。
この年(慶長二十年)七月十三日、元和改元。
(ニ)島原の乱
1 島原(城主松倉長門守)天草(唐津藩領、富岡番台三宅藤兵衛)地方は、キリシタン信仰が強く、幕府の禁教政策に従って弾圧し、さらに松倉氏による苛酷な政治が行なわれたので、寛永十四年(一六三七)十月、島原の農民が蜂起したのに続いて天草島の農民も呼応、十二月にはキリシタン大名小西行長の浪人も加わり、豪農益田氏の子四郎時貞(十六才)を押したてて原城に立てこもりました。島原の二万三千百人天草から渡った者一万三千九百人が原城に籠城しました。幕府は板倉重昌を派遣し、近隣諸藩の兵を指揮して闘わせたが重政は戦死、更に松平信綱がこれを鎮圧し寛永十五年(一六三八)二月二十八日原城は陥落して乱は平定しました。
第二章 大久保氏時代
(慶安二年 一六四九~延宝六年 一六七八) 二十九年間
大久保氏は、下野国宇都宮氏の裔で、初代大久保忠茂に始まり、天正十八年(一五九〇)四月の豊臣秀吉の小田原北条氏政攻めに家康の先鋒として功績があり、家康の関東移封に伴い、三代忠世は小田原四万石に封ぜられ四代忠隣・五代忠常を経て六代忠職に至りました。
四代忠隣の時、慶長十九年(一六一四)一月十九日、佐渡金山奉行大久保長安事件に連座して改易となり、近江に配流されました。後、大久保氏代々の功績が評価されて許され、五代忠常は武蔵国騎西藩主(二万石)に取立てられました。
大久保氏系譜 ○印は唐津藩主
忠茂1 | -忠員2 | -忠世3 | -忠隣4 | -忠常5 信昌女 |
-忠職⑥ | =忠朝⑦ | -忠増8 | |
-忠教(彦左衛門) | -教隆 | - * | ||||||
- 忠朝 |
※忠職は家康のひ孫
徳川氏系譜
-信康(母築山殿、のち自刃) | |||||||||
-亀姫(母築山殿、奥平信昌室。女は大久保忠常室、忠職の母) | |||||||||
-督姫(北条氏直室) | |||||||||
家康- | -秀康 | ||||||||
|
|||||||||
-忠告 | |||||||||
-以下実子十名、養女五名 |
初代 加賀守 忠職(タダモト) (一六〇四-一六七〇)
忠職は、武蔵騎西藩主忠常の長子で、母は家康の長女亀姫と奥平信昌の女で家康の曽孫です。
慶長九年(一六〇四)生まれ、寛永三年(一六二六)二十三才の時、従五位下加賀守に叙せられ、寛永九年(一六三二)騎西藩主(二万石)から美濃加納藩主(五万石)に、さらに寛永十六年(一六三九)播磨明石藩主(七万石)を経て、慶安二年(一六四九)肥前唐津藩主(八万三千石)に封ぜられました。時に忠職四十六才。
忠職は、唐津転封に際しては、明石から舟手の者や、町人たちを伴っての入城でした。さらに唐津で沢山の家臣たちの補充をしました。
前述のように、大久保氏は忠隣の時に改易となり、家臣たちも四散していたので、禄高が上がるにつれてそれぞれの転封先で補充しています。唐津での補充が一番多かったようです。
唐津藩八万三千石の知行高に相応しい家臣の補充が必要でしたが、幸い唐津には、曽ての松浦党の武将たちや改易になった寺沢氏の遺臣たちが沢山いたのでそれは容易でした。
松浦党の武将有浦氏は、波多氏滅亡の後、寺沢氏に仕えていましたが寺沢氏も僅か二代で改易、大久保氏に仕え、今小田原の有浦家(当主章氏)にある「有浦家文書」は、同じ松浦党の「鶴田家文書」「石志家文書」「斑島家文書」など共に中世の上松浦の研究には欠かせない貴重な資料です。現在小田原では旧大久保氏の家臣の子孫たちの会「有信会」というものがあり、祖先の地唐津に郷愁をもつ人たちも多いとか。
大久保氏は、後に下総国佐倉藩主に、さらに祖先の地小田原藩主(十一万三千石) に移封、幕末までこの地で栄えました。
忠職は、唐津藩主として治世二十一年、その間に明暦三年(一六五七)一月の明暦の大火で江戸藩邸も焼失したので、その再建に伊岐佐の材木を江戸に運ばせたり、村役人に〝名頭″の制を設けて農民の中から選ばせて庄屋の補助の仕事をさせたり、庄屋の転村制度を確立するなど、藩体制の基礎を確立しました。
忠職は非常に実直な性格の人であったようで、寛文七年(一六六七)十二月には、将軍家綱が叙位を奏請して従四位下に昇叙しています。更に翌年帰藩するに臨んでは、西海九州の鎮護職(探題職)に任ぜられています。寛文九年(一六六九)病気を押して参覲交代のために無理して出府して将軍に謁見しましたが、その無理がたたって翌寛文十年(一六七〇)四月十九日江戸麻布の藩邸で没。享年六十七才。
唐津市和多田の丸宗公園の丘の上には、忠職の稗があり、碑は三段の台石の上に建てられ、笠付で総高五・三七mの堂々たるものです。碑の正面には
本源院殿前加州太守日禅大居士
と刻まれ、さらに碑石には、
肥前国唐津城主中大夫大久保君碑銘、二千八百字が刻まれていますが、三百余年を経た今は判読が困難です。幸い久敬社発行「東松浦郡史」(大正十四年版)にはその全文が掲載されています。「略、九年起居快カラズ、然レドモ参府ノ期ニ当リタレバ、病ヲ輿シテ海陸ノ遠キヲ辞セズ、途ヲ発シテ府ニ於テ弥々篤ク薬餌験セズ、藹末少聞ヲ得タレバ強イテ登営シ台顔ヲ拝シ、其ノ志ヲ逐ゲタリ。然レドモ復本スルコト能ハズシテ十年四月十九日城西麻布ノ第二易簀ス、享年六十七、第ノ南立行寺ニ葬ル、遺骨ハ京師本禅寺蔵ス、奕世ノ旧縁ニ因リテナリ、塔ヲ建テ本源院日禅大居士卜号ス、云々」
(原文は漢文)
寛文十二年壬子四月十九日
孝子唐津城主従五位下出羽守 大久保忠朝 立
とありますから忠職の三回忌に建てられたようです。
この碑の石材は怡土郡片山(現二丈町深江)産のものとか。
碑文に記された「葬於第南立行寺」は日蓮宗の智光山立行寺で、現在東京都港区白金二丁目二ノ六(住職鈴木正巌師)で、小田原大久保家の墓はなく、分家大久保彦左衛門忠敬一族の菩薩寺です。
(参考一参照)
小田原藩主大久保氏の菩提寺は、小田原市城山四丁目二四ノ七にある日連宗のtakara 寳聚山随心院大久寺で、忠職の父、忠常まではこの寺に眠っています。(前期大久保氏)
貞享三年(一六八六)小田原に再入国した忠朝以降の後期大久保氏の墓所は、主として東京都世田谷区太子堂四ノ一五ノ一、天台宗竹園山教学院最勝寺(住職林静寛師)にあります。
この教学院には、小田原藩主大久保氏一族の墓所が一段高い木立の中に忠朝以下二十九基の墓所があります。一番奥に「日禅茶毘處」の碑があります。碑の右側には「寛文庚戌年」左側には「四月十九日」と記されています。忠職は、ここで茶毘に付されて分骨されて京都本禅寺に埋葬されたものと思われます。
忠職に後れること二十二年、元禄五年(一六九二)九月二十四日に没した室慶光院殿と共に菩堤寺が本禅寺であることが、教学院の記録にも記されています。
○和多田の丸宗公園の坂の途中右側に由緒ありげなお墓があります。
墓誌の判読は困難ですが「明暦元乙未」が読み取れました。
墓地の隅に「墓参記念樹」「房州産椿」「館山市文化財保護委員会」「平成三年」 の立て札があります。
あとで浦部和博氏の「唐津にゆかりの城物語」を読んで、房州館山藩主里見忠義の妻(東丸)が弟忠職の所に身を寄せ、唐津で没した、とか。
明暦元年(一六五五)のことで忠職が唐津藩主になって六年目の事です。
それにしても、わざわざ、房州産の椿の苗木を持って墓参に訪れた館山市の文化財委員の先生方に頭がさがります。
二代 加賀守 忠朝 (一六三二-一七二一)
忠職には子がなかったので、末期養子として寛文十年(一六七〇)四月、従弟忠朝を嗣子としました。
忠朝は、忠常の弟右京亮教隆の第二子で、寛永九年(一六三二)生まれで時既に三十九歳、慶安四年(一六五ー)二十歳の時、出羽守に任ぜられていました。
唐津藩主となった忠朝は、延宝五年(一六七七)には加賀守と改め、その年十二月従四位に叙せられました。忠朝の唐津藩主としての治世は僅かに八年、父忠職の意を継いで「庄屋の転村剃」を確立しました。
これは庄屋を藩政の末端機構として農民から切離して取立役人化することに大きな目標があったようです。
庄屋の勤務成績によっては庄屋から大庄屋に抜擢したり、或は左遷したりなどしたようです。この制度はその後も長く唐津藩制の特色として引き継がれました。
忠朝は、延宝五年(一六七七)七月二十五日、老中に任ぜられ翌延宝六年(一六七八)一月二十三日下総国佐倉藩主に転封し、更に八年後の貞享三年(一六八六)相模国小田原藩主(十一万三千石)として故地に転封し、爾来大久保氏は幕末まで十代、百八十余年にわたり小田原で繁栄しました。
忠朝は、元禄十一年(一六九八) 二月十五日まで老中として幕閣にあること前後九年、四代家綱、五代綱吉を輔けて幕政に励みました。特に綱吉の時代は将軍の権威確立のために、諸大名・旗本の改易や減封などが相次いだが、忠朝の律儀さは将軍の信頼厚く、一万石を加増された程です。
小田原藩主としての忠朝は、元禄十年(一六九七)十月十六日、家督を嫡子隠岐守忠増に譲って隠居、念願の小田原城にはじめて入ったのは、隠居後の元禄十六年(一七〇三)四月のことで、実に小田原転封後十七年目のことでした。
忠朝は、隠居後十五年、正徳二年(一七二一)九月二十五日没。享年八十一歳。
墓所は 東京都世田谷区太子堂四-一五-一
天台宗 竹園山・教学院 最勝寺
法号は 松慶院殿四品拾遺實邦良圓大居士
教学院の記録には
忠朝、「出羽守、加賀守、杢之助、松慶院、寛永九、正徳二、九、二五、八十一歳。唐津・佐倉・小田原城主、忠隣三男教隆二男」とあり、住職の林静寛師が指で墓碑を撫でながら、法号を判読してくださいました。
参考(一) 立行寺と大久保彦左衛門
智光山立行寺は日蓮宗の寺で、東京都港区白金二-二-六にあり、住職は鈴木正厳師です。
山門を入ると左側に「史跡。大久保彦左衛門」の碑が目につき、碑には「大久保彦左衛門藤原忠備、行年五十三才、
東雲院殿日周霊位、延享元甲子暦八月七日」と記されています。
この思備(マサ)は、初代大久保彦左衛門忠教(タカ)から五代の孫です。初代大久保彦左衛門忠教(一五六〇~一六三九)は、大久保氏二代忠員の子で、忠世の末弟です。
忠教は、江戸初期の幕臣(旗本)で幼名を忠雄、のち平助、彦左衛門を称しました。天正四年(一五七六)十七才の時、兄忠世に従って遠江国乾の戦に出たのが初陣で、その後高天神の戦、小諸岩尾城の戦、信濃相木の戦、信州上田城の攻略などで軍功をたて、武蔵国埼玉郡に二千石の知行をもらいました。
大坂の両陣では、槍奉行として家康に供奉した戦国武将の生き残りです。大久保家の出身であることも併せて旗本たちの間では尊敬されていたようです。
然し講談などで伝えられる逸話は、殆どが事実ではなく、幕府の中枢に影響を与えるほどの人物でも立場でもなく、ましてや将軍に意見するような地位でもなかったようです。家康より十八才も年下でしたし。
初代彦左衛門忠教は、寛永十年(一六三九)二月晦日没。享年八十才。墓は立行寺です。
画像あり
忠朝の墓碑
大久保氏は初代忠教、忠名、忠隆、忠直、忠備、忠恒、忠順、忠良と八代までは「大久保彦左衛門○○」を名乗り、忠明、豊彦、忠恭(現当主)と続いています。
参考(二) 一心太助の墓碑
立行寺の大久保家の墓の側に「一心太助」の石碑があります。昭和六十年(一九八五)十月吉日、施主内田みゑ子建之、と記された卒塔婆が建っています。
一心太助は、江戸初期の魚屋で、生没年は不詳ですが、初代彦左衛門がその勇気と仁侠を愛したと伝えられる市井の英雄の一人で歌舞伎や講談、浪花節の主人公として広く人々に知られています。
参考(三) 大久保長安事件
大久保長安(一五四五-一六二二)は、もと能役者大蔵藤十郎として猿楽師でしたが、後徳川家康に可愛がられ、大久保忠隣に託され大久保十兵衛長安と名乗りました。
長安は鉱山開発の才能があり、佐渡、伊豆、石見、南部などの金銀山を開発し、慶長八年(一六〇三)から十八年まで佐渡金山奉行を勤め、その間に身分不相応な私財を蓄えたことから幕府の疑惑を受け、
慶長十八年(一六一三)長安が六十九才で病死すると、遺産は没収、七人の子は切腹させられ、更に多くの連座者がでました。大久保忠隣も改易となりました。
参考(四) 末期養子
唐津藩二代藩主忠朝は、忠職の末期養子として宗家を継ぎました。江戸時代には大名に嗣子がない場合は、予め養子願いを出して幕府の許可をうけなければなりませんでした。若しその手続きをしないで藩主が急死すれば改易になり、多くの浪人が出て社会不安の原因にもなりました。
そこで幕府は、四代家綱の時、慶安四年(一六五一)十二月十一日、養父が十七才以上、五十才以下であることを条件に、主人が危篤に際して急に願い出る養子制度を定めました。
参考(五) 江戸時代の大名勢力一覧
|
5万石以下の内訳 (1868)
大名 | ||||
石高 | 親 | 譜 | 外 | 計 |
3万石以上 | 4 | 27 | 12 | 43 |
2万石以上 | 3 | 21 | 18 | 42 |
1万石以上 | 5 | 57 | 39 | 101 |
計 | 12 | 105 | 67 | 186 |
参考(六) 日本史のできごと
大久保氏の政治、二代二十九年間は四代将軍家綱の頃で、幕藩体制がほぼ完成した時代です。
(イ)明暦の大火=振り袖火事
明暦三年(一六五七)一月十八日、本郷丸山の本妙寺から出火し翌十九日にかけて江戸を焼き尽くしました。焼失した町は八〇〇余町、焼死者十万人、麻布の唐津藩邸も焼失し、その再建に伊岐佐の材木が運ばれています。
(ロ)大日本史の編纂はじまる
明暦三年(一六五七)二月二十七日、水戸の徳川光圀は江戸神田邸に修史局を設けて「大日本史」の編纂に着手し、二五〇年後の明治三十九年(一九〇六)全三九七巻が完成しました。
(ハ)黄檗宗伝来
万治二年(一六五九)六月、明末の僧隠元(一六五四年七月五目長崎に来る)は、将軍家綱の上旨で山城国宇治に黄檗山万福寺を開いて黄檗宗を伝えました。
寺領四百石。
(ニ)関孝和「発微(ハッピ)算法」を著わす
延宝二年(一六七四)和算の創始者関孝和は、筆算の創始、行列式の発見、円の計算などの業績をあげたことで知られる。
第三章 松平氏時代
(延歳六年 一六七八~元禄四年 一六九一) 十三年間
桧平氏は、徳川氏と祖を同じくする蔵人親忠の長子、加賀守乘元に始まり、三河国萩生の出で、萩生の松平とも言われ、唐津藩主和泉守乘久は乘元八世の孫です。
父乘寿は、大坂の陣に活躍して寛永十五年(一六三八)浜松藩主(三万五千石)となり、正保二年(一六四五)上野国館林藩主(六万石)となりました。
乘久は、家督を継ぎ弟乘政に五千石を分与しましたが寛文元年(一六六一)下総国佐倉藩主(六万石)に転封さらに延宝六年(一六七八)肥前唐津藩主(七万三千石)として入城しました。
○ 大久保氏上地
前藩主大久保氏は、転封に伴い怡土郡一万石を上地、幕領(天領)となり、乘久は三千石を二男好乘に分知して七万石を保有しています。
初代 和泉守 乘久(ノリヒサ)(一六三三~ー六八六)
乘久は、美濃国岩村で乘寿の嫡子として、寛永十年(一六三三)出生、正保三年(一六四六)従五位下に叙せられ、承応三年(一六五四)正月、父乘寿病死の後をうけて館林藩主(六万石)となり、治世七年。
寛文元年(一六六一)八月、下総佐倉藩主(六万石)に転封、治世十七年。
延宝六年(一六七八)肥前唐津藩主(七万三千石)に転封され、時に乘久四十六才でした。
松平氏の唐津転封に際しては「延宝六年七月十日、午前十時、和泉守乘久の家臣たちは、大手門から堂々と入城し、前任の加賀守忠朝の家臣たちは、西の門より名残り惜しげに三十年の想い出を胸に粛々と立ち去った」と後世まで語り伝えられています。
乘久は唐津藩主として治世九年。唐津入城二年目の延宝七年(一六七九)には、代々世襲制であった庄屋を任命制度に改めました。この制度はその後の藩主の入封の際の先例ともなりました。
貞享三年(一六八六)七月十七日、江戸で没。享年五十四才。墓は港区虎ノ門天徳寺に葬り、法号は
源正院前泉州刺史太誉英徳大居士
藩主の江戸での死去を知った唐津の領民たちは、その年八月十七日、竜源寺で焼香して一カ月遅れの供養をし、亡君を偲んだ、と伝えられます。
松平氏の菩提寺天徳寺は東京都港区虎ノ門三-一三-六にあり、住職は藤本泰弘氏、電話〇三-三四三一-一〇三九、虎ノ門NHKビルの裏手です。松平家歴代の墓は昭和三十九年(一九六二)三月に当主松平乘光氏によって愛知県西尾の国もとに移され、岡崎市細川町の浄土宗松明院でお祀りしています。
天徳寺には乘光氏によって「東京礼拝所」として「松平家之墓」が建てられ、墓所の入口には葵紋の灯籠一対が残されており、お盆には天徳寺の住職が西尾の墓にお詣りしているとか。
二代 和泉守 乘春(ノリハル)(ー六五四~一六九〇)
乘春は、承応三年(ー六五四)乘久の二男として生まれ、はじめ主水正と称していたが、貞享三年(一六八六)父乘久の死去により襲封、和泉守と改称しました。
貞享四年(一六八七)五月二十五日、初めて唐津入城、時に乘春三十四才でした。
藩主の唐津入城に際しては、下関から船で浜崎に上陸し先例に倣い、五月二十四日浜崎村で休憩、出迎えの大小庄屋を引見、この目は鏡村まで行き一泊。翌五月二十五日、威儀を正して唐津城に入城しました。
乘春は、藩主としての治世僅かに四年。元禄三年(一六九〇)九月五日江戸で没。享年三十七才。
法号は
愛光院殿前泉州快誉廓白撤心大居士
墓所は港区虎ノ門 天徳寺。のち国もと西尾に移されています。
三代 和泉守 乘邑(ノリサト) (一六八六~一七四六)
乘邑は、貞享三年(一六八六)乘春の嫡子として江戸に生まれ、元禄三年(一六九〇)五才の時、父乘春の死の後をうけて襲封、五カ月後の元禄四年(一六九一)二月、一度も唐津の地を踏むことなく、志摩国鳥羽城主に転封しました。
鳥羽城主に転封した乘邑は、元禄八年(一六九五)四月、十才の時初めて将軍綱吉に謁見し、元禄十三年(一七〇〇)和泉守に叙せられ、宝永七年(一七一〇)伊勢国亀山藩主に転封。更に享保二年(一七一七)山城国淀藩主に転封、僅か七年で又も享保八年(一七二三)下総国佐倉藩主に転封しました。
佐倉は、祖父乘久以来二度目の勤めでした。
佐倉藩主となった乘邑は、享保八年(一七二三)老中として幕閣に入り、延享二年(一七四五)まで二十余年に亘って、八代将軍吉宗を輔けて〝享保の治″を成功させましたが、延享二年(一七四五)九月、吉宗が隠居すると、将軍継嗣問題をめぐってか、この年十月九日老中を罷免、封を削除され失意の中に翌延享三年(一七四六)四月十六日、江戸で没。享年六十一才。 法号は
源壽院殿故口誉月心英忠大居士
墓所は松平家菩提寺港区虎ノ門 天徳寺、のち西尾に改葬されました。
乘邑は、元禄十四年(一七〇一)三月十四日、殿中松の廊下で赤穂藩主浅野長矩の刃傷事件があり、諸侯が紛擾して席が乱れた時、僅か十六才の若侍乘邑は一人泰然として座を離れず、衆を別して「皆さん、何を騒いでいますか、譜代大名の出仕はこのような時にこそ備えるためです。速やかに席にお着きなさい」とその器量のほどを示した、と伝えられます。
又、文才にも勝れ、数多くの和歌を詠んでいますが、老中を罷免された頃の歌に、
詠み人知らず
もみじ色 しかけて落つる 蔦の葉は
たれとりあげる人もなし
が有名です。
松平氏は、乘邑の子乘祐が山形藩主(六万石)に移封さらに明和元年(一七六四)三河西尾藩主(六万石)に、西尾藩五代乘秩(ツネ)の時、明治維新を迎えました。
参考(一) 松平氏系譜 ①②③は唐津藩主
親忠- | -乘元-乘正-乘勝-親乘-真乘-家乘-乘寿-乘久①-乘春②-乘邑③-乘祐……乘秩(西尾藩主) (現当主乘光氏) |
-長親-信忠-清康-広忠-家康(将軍家) |
参考(二) 日本史のできごと
延宝六年(一六七八)から元禄四年(一六九一)に及ぶ松平氏三代十三年間は、五代将軍綱吉の初期です。
(イ)元禄文化の芽生え
延宝、天和、貞享から元禄にかけての頃で、上方文化が江戸で花開く元禄文化の芽生えの頃で、文学では井原西鶴(一六四二~一六九三)松尾芭蕉(一六四四~一六九四)が活躍した時代でした。
西鶴の「好色一代男」は天和二年(一六八三)「好色一代女」は貞享三年(一六八六)に。芭蕉の「野ざらし紀行」は貞享二年(一六八五)奥の細道への旅立ちは、元禄二年(一六八九)三月のことでした。
(ロ)生類憐みの令
将軍綱吉は、前後三十六回にわたって「生類憐令」を出し不評でしたが、その最初のものが将軍になって八年目の貞享四年(一六八七)一月二十七日「生類憐令」でした。
(ハ)八百屋お七の火事
江戸本郷の八百屋の娘お七(一六六八~一六八三)は、天和二年(一六八二)暮れの火事で檀那寺に避難した時、寺小姓の吉三郎と恋におち、翌年放火して処刑されました。西鶴はこの事件を「好色一代女」として刊行しました。
(ニ)湯島の聖堂完成
五代将軍綱吉(一六四六~一七〇九)は、元禄四年〈一六九ー)二月十一日、湯島に聖堂を建て自ら儒学の講義をしました。
第四章 土井氏時代
元禄 四年一六九一~宝暦十二年一七六二 七十二年間
土井氏は、清和源氏土岐氏の庶流で、土居遠江守貞秀の裔で、家康の従弟利勝(一五七三~一六四四)頃に栄え、土居を土井と改めました。
利勝は、幼少の頃から家康の近侍となり、六才年下の秀忠の傅となるなど信頼が厚く、慶長七年(一六〇二)三十才で下総国小見川藩主(一万石)に任ぜられ、慶長十五年(一六一〇)には下総国佐倉藩主(三万二千石)に移封、度々の加増により十四万石となり、寛永十年(一六三三)下総国古河藩主となり、寛永十五年(一六三八)十一月七日、酒井忠勝と共に大老になったが、大老の稱はこの利勝に始まるとされます。
利勝は、寛永二十一年(一六四四)七月十三日没、享年七十二才。
利隆、利重、利久、を経て五代利益は、延宝二年(一六七二)宗家を継ぎ古河藩主(七万石)となり、天和元年(一六八一)二月、志摩国鳥羽藩主に、元禄四年(一六九一)二月九日、肥前唐津藩主(七万石)に転封。
唐津藩主としての土井氏は、初代利益、利實、利延、利里、と四代七十二年間、歴代藩主では一番長く在城した殿様でした。宝暦十二年(一七六二)九月三十日、四代の利里の時、先祖の旧領下総古河藩主(八万石)に転封、十四代利与の時、明治椎新を迎えました。
十五代利孝を経て十六代利哉(現在)に至っています。
初代 周防守 利益(トシマス) (一六五〇~一七一三)
利益は、慶安三年(一六五〇)利隆の二男として生まれ、兄利重が早世したので宗家を継ぎ、寛文二年(一六六二)従五位下、周防守に叙せられ、延宝二年(一六七四)下総国古河藩主(七万石)となった。時に利益二十五才でした。
天和元年(一六八一) 二月二十五日、志摩国鳥羽藩主に転封、十年後の元禄四年(一六九一)二月九日、唐津藩主(七万石)として入部、唐津入城に際しては、同年八月八日、先例に従って鏡村に一泊、翌九日威儀を正して唐津城にはいりました。
利益は、民政、産業の外に学問、教育にも力を入れ、鳥羽藩主時代に近江国の学者奥東江を招聘していましたが、転封に際しても唐津に同行して学問の奨励に力を入れたので、領内の庄屋を中心に家塾が栄え、向学の風潮が旺んになりました。
十八世紀の中頃、唐津藩には、習化堂(玉島村)思順亭(吉井村)疆亭(平原村)信斎(相知村)買珠亭(徳居村)新々斎(双水村)時習亭(仮志村)など七校の閭塾があり、その下に多くの寺子屋があって初等教育を盛んにしました。
利益は、四十三才で唐津藩主として入部し、坊主町に御用窯を開き、献上唐津の名を高からしめ、宝永五年(一七〇八)十二月十八日従四位下に叙せられました。
唐津藩主としての治世二十三年。正徳三年(一七一三)閏五月二十五日、江戸で没。 享年六十四才。
墓所は江戸浅草請願寺に葬られたが、後下総国古河の土井家の菩提寺證誠山正走寺(別名、利勝山正走寺)に改葬されました。 法号は
諦然院殿従四位下前防州廓誉高岸徳雄居士
證誠山(別名利勝山)正走寺は、浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来で、初代古河城主土井大炊頭利勝が寛永十年(ー六三三)建立した寺で、利勝山の名が有名である。
古河市大手町七-一(電話〇二八〇-二二-一二七三)にあり、本堂の南にある赤門は安永四年(一七七五)に八代土井利里が建立したもので、東側の黒門は江戸の土井邸の表門を昭和八年(一九三三)に移築したものです。
鐘楼は二代利隆が正保二年(ー六四五)建立したものです。
二代 大炊頭 利實(トンザネ) (一六九〇~一七三六)
利實は、元禄三年(一六九〇)利益の長子として生まれ、元禄十三年(一七〇〇)十一月十五日、初めて将軍綱吉に謁見、はじめ出雲守に叙せられていたが、後に大炊頭と改め、正徳三年(一七一三)七月十二日、父利益の後をうけて襲封、時に利實二十四才。
翌正徳四年(一七一四)四月二十七日、先例により鏡村に一泊し、翌二十八日唐津城に入城しました。
利實は、父の意をうけ、学問を奨励し、享保八年(一七二三)には藩校盈科堂を建てて藩士の教育に励みました。
享保十七年(一七三二)には、長雨と蝗の大発生により西国一帯は大飢饉(享保の飢饉)に見舞われ、飢民は天領だけで六十五万人、各藩の合計は百九十七万人に及び、作柄は半分以下の藩が四十六藩、米価は四~五倍に高騰し、食料難のために、百両の金を抱いて餓死した、と言われる程でした。
唐津藩も被害が大きく『殊に当藩はその惨害他の比に非ずして、飢饉迫りて蒼生餓死する者甚だ多し』
と記されています。
享保の大飢饉の様子は、享保六年(一七二一)から享保十年(一七二五)にかけては連年の旱害、享保十一年の大洪水、十三年、十四年、十五年は旱害と水害、十六年は大旱害と蝗の害などで、松浦川や玉島川下流域は水害、上場台地は水がなく大旱害、享保十七年(一七三二)は六月に虫が大発生し肥前、筑前を中心に大凶作でした。この時の飢饉を「子年の飢饉」と伝えられています。
この子年の飢饉では多くの餓死者が出、佐賀藩では「田舎の食物は蕎麦の花、葛根の糖、栗の簸糖、つちの粉茄子の葉、檀特の根などを食す」とあり、粥場を設けて施されたが、餓死者が多く「粗粥小屋の前には、日々五、六十人、死躰山を築き、男女露形赤く、野外に堀込時は、同穴に二十人、三十人、誠に目も当てられぬ有様也」と記されています。
享保十六年(一七三一)の佐賀藩の人口は三十七万人でしたが、翌十七年には二十九万人で飢饉のために一年間で八万人も減っている訳です。牛馬も約八千頭が死んだ、と記されています。
唐津藩でもこれに近い被害があったが、幸い海産物が豊富であった事と、藩が食料の確保に努力したことなどで、犠牲者が比較的少なかったようです。それでも餓死者を五百人も出しています。
利實は、治世二十四年、元文元年(一七三六)十一月二十四日、江戸藩邸で没。享年四十七才。
墓所は父利益と同じく江戸浅草請願寺に葬り、のち古河の正定寺に改葬しました。
法号は
宝眞院殿前大倉令穏蓮社明誉勇仁崇和居士
三代 大炊頭 利延 (一七二〇~一七四四)
利害は嫡子利武(従五位下出雲守)が享保十八年(一七三三)二十才で、父に先立って早世したので、一族の利延を養嗣子として家督を継がせました。
利延は、土井利勝の孫、利清の長子として、享保五年(一七二〇)生まれ、利實の養子となり元文元年(一七三六)十二月十七日襲封、翌二年正月、将軍吉宗に謁見、同年十二月十六日、従五位下に叙せられ、大炊頭と称し、翌元文三年(一七三八)四月十八日、初めて唐津に入部、時に利延十九才。
藩主利延が若年のため藩政は一族の家老土井内蔵丞が代行していました。
延享元年(一七四四)参覲交代で江戸からの帰途、利延一行が大坂から海路をとり、途中播磨高砂浦で、船中で家老土井内蔵丞が急病で斃れたので、四月八日、同地の正定寺に葬るなどのハプニングがあり、藩主一行は四月十八日、無事唐津に帰城したが、利延は藩政を一任していた家老の急死に心を痛めてか、帰城後間もなく病に臥し、その年七月十六日没。享年二十五才。
墓は唐津神田山に葬る。
墓碑は、総高四・五m、正面の巾一・二m、側面巾一・一四m、で石材は和多田村先石(崎石)産で、運搬に二年半を要して延享三年(一七四六)完成しました。
碑の正面に
故唐津城主 土井源公之墓
碑の左側に法号
諦了院殿前大倉令眞誉寂照湛然居士
と、更に、延享元甲子年七月十六日 と刻まれています。
又位碑は唐津西十人町来迎寺でお祭りしています。
〇土井利延の生卒について
利延の生卒については、墓碑の記録と藩翰譜の記録とに異あり、墓碑には「享保癸卯十一月十七日武蔵江戸に生まれる」「延享甲子七月十六日以病卒、享年二十有二」とあるが、享保癸卯は享保八年(一七二三)です。
藩翰譜には「延享元年(一七四四)七月十六日卒、享年二十五才」と記されており、四代利里が利延の弟で、享保七年(一七二二)生まれであることから、ここでは藩翰譜の記に従いました。
四代 大炊頭 利里 (一七二二~一七七七)
利里は、利延の弟で、享保七年(一七二二)利清の第二子として生まれ、延享元年二七四四)九月二十三日襲封、大炊頭に任ず。時に二十三才。
翌延事二年(一七四五)四月一日、初めて唐津城入りをしたが、従来の慣例、士農工商の序列を軽視して、町人代表を大庄屋の前列にしたため農民たちは納まらず不穏な状態になったが、結局は謁見の時、農民代表を先にする、と云うことで一応は納まりました。
町人の経済力が次第に大きくなり、藩財政への協力を求めての処置であったが、のちに利里は首謀者の庄屋を転村させるなど、庄屋の統制を強化しました。
利里の唐津藩主としての治世は(一七四四~一七六二)十八年間は多端でした。
○ 延享の大洪水
利里唐津入城の翌年、延享三年(一七四六)四月二十二日、領内に大洪水があり「大川野御茶屋、宿駅など水底に没し、流失家屋十六棟、久里村の大堤防は増水三尺余に及び、希有の天災、惨状言語に絶す」と記されている程です。
利里は、唐津藩主として十八年間に二度の巡見使を迎えましたが、宝暦十二年(一七六二)九月三十日、先祖の故地下総古河藩主(七万石)に転封、同年十二月二十八日唐津を出発しました。この時、大庄屋二人、人足三十二人が小倉まで見送りました。
翌宝暦十三年(一七六三)二月十八日寺社奉行として七年。明和六年(一七六九)八月十八日京都所司代に任ぜられ従四位下に叙せられましたが、念願の老中にはなれず、安永六年(一七七七)八月三日京都の地で没。享年五十六才。墓所は古河正定寺です。法号は
廣智院殿拾遺勇誉仁翁理玄居士
○土井利里の没年月日については、河出書房版日本歴史大辞典、その他には「八月十四日没」説をとっていますが、菩提寺正定寺の過去帳の記録「八月三日」に従いました。
○ 土井氏の治世と上地
土井氏は、四代七十二年間唐津藩主としては一番長くこの地の殿様でした。その間、奥東江を中心に藩校「盈科堂」や閭塾を興して学問、教育を盛んにし或は産業の発展を計りました。唐津和紙、ハゼの増産、或は呼子小川島の捕鯨など、土井氏の頃から発展しました。唐津焼の「献上唐津」の名を有名にもしました。
一方、土井利里は、宝暦十二年(一七六二)古河への転封に際して怡土郡の福井村、吉井村、鹿家村、の三ケ村、松浦郡のうち、浜崎村、谷口村、五反田村、など合計一万石を上地したので、次の水野氏が入部した時は、唐津藩は松浦郡二二四ケ村、知行六万石となりました。
参考(一) 土井氏の系譜(⑤⑥⑦⑧は唐津藩主)
利昌 | -利勝 | -利隆 | -利重-利久 | ||||||
-利益⑤-利實⑥-利武(享保八年没) | |||||||||
-利久(利垂の養子、十六才で没) | |||||||||
-利長 | |||||||||
-利房 | |||||||||
-利直 |
|
参考(二) 幕府の巡見使
江戸幕府は、原則として将軍の代替りごとに各地に巡見使を派遣して、治世の状態や、民情を視察し、幕政の正常化を期しました。各藩では非常に緊張してこの使節を迎えたようです。一行は使番一人に小姓組番、書院番の者二人を差し添え定員三十五人。老中松平定信の寛政の改革(一七八七~九三)頃までは成果を見たが、次第に形式化しました。
六代将軍家宣が将軍になった翌宝永七年(一七一〇)に唐津藩(土井利益)に派遣された巡見使の一行に松尾芭蕉(一六四四~九四)の門弟河合曽良(一六四九~一七一〇)が随行していました。
一行は船で浜崎村に到着、虹の松原、唐津、を経て呼子に向かい、船で壱岐を訪れ勝本の宿所中藤家で病気になり、手厚い看護も空しく客死しました。享年六十二才。墓はこの地能満寺にあります。
九代家重が将軍になった翌延享三年(一七四六)四月十日(藩主土井利里)に唐津を訪ねた巡見使一行は、使者徳永平兵衛昌寛、大御所付小姓組夏目藤右衛門保信、書院番小笠原内匠信甫など従者一七〇人を伴って浜崎村に到着、二泊して藩内を視察、十二日に呼子浦で二泊して十四日に壱岐に渡っています。
巡見そのものは形式的なものでしたが、巡見使に対する接待は大変なことで領民は土下座して迎え、巡見使警固のために唐津、壱岐、福岡などから一八六八艘の船が呼子港にひしめいていたようです。
幕府の権威の程が知らされます。
巡見使は十五年後の宝暦十一年(一七六一)十代家治の時(藩主土井利里)にも再び唐津を訪れています。使番青山七右衛門成存、西の丸小姓組神保帯刀、西の丸書院番花房兵右衛門正路、外九十九人が来藩しました。四月三日に浜崎村に入り、四日に呼子浦に二泊、藩政の状況などを監察して四月六日に壱岐に渡りました。
更に、寛政元年(一七八九)四月、十一代家斉が将軍になった翌々年、巡見使として竹田吉十郎、土屋息次郎、小笠原主膳らが来唐しています。藩主水野忠鼎の頃でした。長く続いた天明の飢饉の後の大変な時でした。
参考(三) 日本史のできごと
元禄四年(一六九ー)から宝暦十二年(ー七六二)までの土井氏の治世七十二年間は、五代将軍綱吉、家宣、家継、吉宗、家重、家治の初期で、元禄文化が花を開き、それに伴って幕府財政は窮乏し、新井白石の「正徳の治」や、八代将軍吉宗の「享保の改革」が行われた頃でした。
(イ)赤穂浪士、討ち入り
元禄十四年(一七〇一)一二月十四日、浅野長矩吉良義央を殿中に傷け自刃を命ぜられる(三十五才)
翌十五日、赤穂城を収め、長座の弟長廣を閉門に処す。翌元禄十五年(一七〇二)十二月十五日、大石良雄ら吉良義央の第を襲い、義央を討ち、諸大名に預けられ、翌元禄十六年(一七〇三)二月四日、
切腹。大石良雄ら十六人は細川家下屋敷(港区高輪一-一四)で切腹。大石主税以下一〇人は、松山藩主久松家の中屋敷(港区三田ニ-五、現イタリア大使館内)で切腹しました。
(ロ)富士宝永山ができる
宝永四年(一七〇七)十一月二十三日、富士山大噴火し、山腹に宝永山ができました。
その時の降灰で、酒匂川が埋まり、小田原一帯が大洪水となりました。
(ハ)足高の制を定める
将軍吉宗は、享保の改革の一、として享保六年(一七二一)八月二日、評定所門前に目安箱を設けて庶民の声を聞いたが、さらに享保八年(一七二三)六月十八日、足高の制を定めて、財政の膨脹を防ぎ、人材登用の途を開きました。
(ニ)八代将軍吉宗没
将軍としての治世三十年、吉宗は延享二年(一七四五)九月二十五日、職を家重に譲り、寛延四年(一七五一)六月二十日没。享年六十八才でした。
第五章 水野氏時代
(宝暦十二年 一七六二~文化十四年 一八一七)五十六年間
水野氏は、戦国大名尾張小河城主、忠守を祖とし、忠守はその妹、於大の方を松平広忠に嫁がせ、その子が徳川家康で、忠守は家康の伯父です。
子忠元は、大坂夏の陣の戦功により、元和元年(一六一五)九月、下総山川城主(三万石)に取り立てられました。
三代忠善は、寛永十二年(一六三五)駿河田中藩主(四万石)に、さらに寛永十九年(一六四二)三河吉田藩主(四万五千石)に、正保二年(一六四五)三河岡崎藩主(五万石)になり、忠春、忠盈、となり忠盈には嗣子がなく、弟忠之が襲封して四万石に減封されたが、忠之は京都所司代、老中などの功により享保十年(一七二五)五万石に加増されました。
七代忠輝、八代忠辰を経て、九代忠任の時、宝暦十二年(一七六二)九月晦日、肥前唐津藩主(六万石)として入部しました。
初代 和泉守 忠任(一七三五~一八一一)
忠任は、享保二十年(一七三五)一族水野守満の第二子として生まれ、宝暦元年(一七五二)十二月、岡崎藩主忠辰(トキ)(一七二四~一七五二)の養子となり、九代将軍家重に謁見、従五位下織部正に任じ、宝暦二年(一七五二)三月襲封、宝暦九年(一七五九)七月、和泉守と称しました。
宝暦十二年(一七六二)九月晦日、三河岡崎藩主(五万石)から肥前唐津藩主(六万石)に転封しました。
転封に際しては、前述のように、土井氏は一万石を上地していたので、転封に際して幕府は、宝暦十三年(一七六三)五月十五日、安倍平吉、松平藤十郎、及び日田代官揖斐十太夫を唐津城に派遣し、一方岡崎城からは拝郷源左衛門、松本仲、水野伊左衛門、高宮伊兵衛、水野藤五郎、剣持嘉兵衛、小瀧六郎などが来唐して城の受渡をしました。
この日、日田代官揖斐十太夫は、藩中の大小庄屋、町年寄などを高徳寺に集め、領内の怡土郡福井村、鹿家村、松浦郡の渕ノ上村、谷口村、五反田村、南山村、横田組中の黒須田分栗木、など約一万石は天領に編入する、と申渡しました。
これにより唐津藩は六万石となり、寺沢民時代の半分以下になりました。
忠任は、安永四年(一七七五)五月、隠居するまで治世十三年間は他事多難の時代でした。
○ 財政難と明和の大飢饉
水野氏は、岡崎時代から財政が苦しかったのに、この度の転封費用、さらには一万石の天領召し上げ、など、水野財政は益々苦しくなりました。
一方、唐津藩では、忠任着任の翌年、明和元年(一七六四)には旱害、明和三年(一七六六)の大洪水、翌明和四年の蝗害、明和五年の旱害、明和七年の大洪水、と連年の凶作続きでした。
然し、藩の役人たちは、農民の苦境を無視して藩財政の立て直しだけを考えてことに当たりました。
従来、寺沢氏以来の不輸租地を輸租地とし、百姓に付与した用捨地を回収するなどして一万五千俵の増収を計りました。
又、草野地方(玉島村)の百姓に命じて楮三万株の植付けを強制し、農民たちは本業の家業ができず、藩政に不満の声が起きるようになりました。ただ楮の植付けは、その後の玉島地方で紙漉きが発達し、農家の副業となりました。
○ 鏡神社炎上
明和七年(一七七〇)五月十三日、鏡神社が焼失。鏡神社の祭神は神功皇后で一千年の歴史をもつ名社です。金銀珠玉を鏤めた豪華な社殿、宝物が灰燼に帰しました。記録によれば、
一、朝鮮国王奉納の「紺紙金泥の法華経」 一巻
(横八尺、縦一丈四尺)
一、 天国の太刀 二、
一、正宗の太刀 一、
など二百余点が焼失しました。
○ 虹の松原一揆
抑圧された農漁民の不満は遂に「虹の松原一揆」となって現われました。
明和八年(一七七一)七月十二日夜から二万五千六百四十九人の農漁民たちが、見事な統制ある指導のもとで虹の松原に立てこもり、数々の要求を藩に突きつけました。その指導者は平原村の庄屋富田才治、半田村の常楽寺住職智月和尚、半田村名頭麻生又兵衛、同市丸藤兵衛らの四人でした。
藩では全く不意をつかれた形で周章狼狽し、はじめは強硬姿勢で臨んだが次第に藩側が折れて、八月九日に農民側の要求が殆んど容れられて終結をみました。
農漁民たちの要求は次の九項目でした。
1、永川、砂押、水洗田のこと
2、御用捨高の取下げのこと
3、年貢米の計量方法と差抜米のこと
4、楮の買上値段のこと
5、五分の一蛸網漁立値段のこと
6、諸浦蛸綱二分五厘のこと
7、千賀運上のこと
8、同屋のこと
9、長崎稲部新左衛門二分五厘掛りのこと
虹の松原農漁民一揆は、農漁民側の要求の殆んどが叶えられて終結を見たので首謀者富田才治が自首し、続いて智月和尚、麻生又兵衛、市丸藤兵衛も自首し、この四人は明和九年(一七七二)三月十一日、西ノ浜の刑場で処刑されました。この四人の首級は縁者たちによって暗夜に持ち去られ玉島南山の終南山正念寺(浄土宗)で密葬され本堂前の大蘇鉄の下に埋葬されたと伝えられ、今でもこの地の人々に「才治様」として尊敬されています。
忠任は、安永四年(一七七五)九月、四十一才で隠居唐津藩主としての治世は十三年間、まことに波乱の歳月でした。
隠居して三十六年後、文化八年(一八一一)辛未十二月二十七日、江戸で没。享年七十七才。墓は下総国山川新宿村高松寺の水野家歴代墓所にあります。
法号は
寛齢院殿賢質良穩大居士
右面に 文化八年辛未
左面に 十二月二十七日 とあります。
○水野家菩提寺
下総国山川新宿村(現茨城県結城市山川新宿)には昔、水野家菩提寺萬松寺があり、水野氏二代忠元、から忠善、忠春、忠盈、忠之、忠輝、忠辰、忠任、忠鼎、忠光、十二代忠邦まで十一基の大名墓が夏草に埋もれています。
今は既に寺はなく、広々とした関東平野の畑の中にポツンと水野家の墓だけがあり、側に萬松寺の住職たちの墓とおぼしき坊主墓が、遥か東の方筑波の山を見上げています。墓所の入口には石の門柱がありそばに、史跡、茨城県指定文化財
昭和三十三年三月十二日 結城市教育委員会
の立て札があるのが、ほっとさせられます。
二代 左近将監 忠鼎(タダカネ) (一七四四~一八一四)
忠鼎は、延享元年(一七四四)松平宗恒の第二子として生まれ、明和四年(一七六七)二十四才の時、忠任の養嗣子となり、安永四年(一七七五)九月、忠任隠居の後をうけて襲封、時に三十二才でした。
忠鼎は、虹の松原一揆の後の財政難と、連年の飢饉や凶作の続く混乱の中での治世でした。藩政を家老二本松大炊義廉に任ね、藩政改革、藩財政の立直しに力めましたが、結局は失敗に終わりました。
天明三年(一七八三)から天明七年(一七八七)にかけての蝗害や大風による打ち続く大飢饉、寛政十一年(一七九九) の旱魃による大凶作など、藩財政窮乏の中で享和二年(一八〇二)藩校「経誼館」を開設して教育を奨励したことは、暗中の一灯でした。
○ 天明の飢饉
天明三年(一七八三)は霜害、大雨、さらには浅間山の大噴火による熱泥流、降灰などの被害で全国的に凶作、飢饉となり、翌天明四年(一七八四)、天明六年(一七八六)、同七年(一七八七)と連年の霜害、大雨、冷害、水害が続き、仙台藩だけでも天明三年~四年にかけての餓死者は三十万人、津軽藩では二十万人、全国では餓死者、疫病による死者は九十二万人を数え、天明七年の飢饉では米価騰貴、売惜しみ、などのため全国各地で「打ちこわし」や「百姓一揆」がおこりました。
忠鼎は、そうした中での治世三十年、文化二年(一八〇五)九月、家督を嫡子忠光に譲って隠居、時に六十二才でした。文化十一年(一八一四)甲戌三月三十日没。享年七十一才。下総国山川新宿村萬松寺水野家墓所に葬り、法号は
徳照院殿叡獄宗俊大居士
右面に 文化十一年甲戌
左面に 三月三十日
と刻まれています。
三代 織部正 忠光(タダアキラ) (一七七一-一八一四)
忠光は、明和八年(一七七一)八月二十日、忠鼎の嫡子として江戸三田の藩邸で生まれ、十代将軍家治に謁見従五位下に叙せられ、式部少輔に任じ、後に和泉守に、襲封して織部正と改めました。
文化二年(一八〇五)九月、父の隠居の後をうけて襲封、時に三十五才。父忠鼎の時、藩政改革に取り
くんだ家老二本松大炊を退けたので、大炊の「検見の改革」「定免制」による藩財政の改革も中途半端に終りました。
忠光は、治世僅かに七年、文化九年(一八二一)五月封を子忠邦に譲って隠居、時に四十二才。
忠光隠居の理由は、健康に勝れなかったようで、京師で厳門先生に師事して、文化八年(一八一一)白木村に帰郷していた青年医師中村忠良礼作を、しばしば城中に招き、或る時は愛用の唐津焼の茶盌を与えたりもしています。自らの健康に不安があったものと考えられます。
忠光は、隠居後二年、文化十一年(一八一四)四月四日、江戸青山の邸で没。然もこの年、三月三十日に没した父忠鼎に後れること僅か五日のことでした。
享年四十四才。墓は山川新宿村、水野家墓所に父忠鼎と並んで西面して、墓碑は亀の背の上に建てられています。墓碑には、 故唐津侯亀遊斎水野公之墓 と刻まれ法号も、没年月日も記されていません。
又、唐津市雄獄山(おたけやま)の丘上には忠光の碑、があり、これは忠光の遺言によって「衣と剣」を埋葬してあります。墓碑は、翌文化十三年(一八一五)乙亥三月に子忠邦によって建てられたものです。
碑の総高は六・〇四m、塔身は上に笠石と宝珠を備えた位牌型の墓碑です。碑の正面には
故唐津城主水野織部正諱忠光公之位
と刻まれ、右側に「先孝幼ニシテ織之助卜稱シ、叙爵シテ式部少輔卜稱ス、後和泉守卜改称ス、致仕シテ織部正卜改称ス、浮屠追號シテ曰ク「徳照院叡獄宗俊大居士」ト」とあり、左側には「明和八年辛卯八月二十日江戸三田賜邸ニ生マレ、文化十一年甲戌四月四日江戸青山ノ別墅ニ終ル、享年四十四歳、四月十六日ヲ以テ下總山川新宿村萬松寺ノ塋次ニ葬ル、今遺命ヲ奉ジテ衣剣ヲ肥前唐津城ノ南、雄獄ニ座シ以テ石ニ表ス」
文化十二年乙亥三月 孝子忠邦 謹記
と、漢文で書かれています。花崗石造りの堂々たる墓碑で、萬松寺の墓碑を遥かに凌ぐものです。
ただ碑文の中に、「徳照院叡獄宗像大居士」とあるのは、水野氏二代思鼎の法号
徳照院殿叡獄宗俊大居士
の誤りか、と考えます。僅か五日違いで死んだ祖父忠鼎と父忠光との法号を間違えたもののようです。それにしても「孝子忠邦」どころか、不孝の極みです。
○中村忠良、令策(一七八九-一八二一)
中村氏は、その先は松浦党日在城主鶴田源太夫前の第三子重が、筑前国吉井村「中村の里」に拠り、「中村源六重」と称し、吉井村、白木村に栄え上松浦最東部の松浦党の武将として活躍せし、とか。
中村忠良は、専助(一七六四-一八四五)の二男として寛政元年(一七八九)白木村に生まれ、少年の頃、しばしば父専助を訪ねた博多、聖福寺の住職仙崖和尚(一七五〇-一八三七)の話に啓発されたのか、人柄に傾倒されしか、長じて医学を学ばん、と志し京師に上りて、医学と蘭学を修め既に一家を成せしが、文化八年(一八一一)長兄の死により白木村に呼び戻された、とか。時に忠良二十三才。
蔵書、著書、は殆ど散逸しているが、次の自筆の三篇だけが現存しています。
1、痘瘡書 その奥書に「本出園田和平蔵書末永氏大坂写来。此伝自宮城氏本、京師末永公之蔵書池田門人所記乎不分明于時文化十星宿発酉閏十一月下旬於致遠亭寫之終
中邑質夫忠良 と。
2、恵美丸 全十六頁、表紙に「中村忠良」と自署してある。
3、手藉全 表紙別七十八頁、外余白四頁の和とじで、その六十頁に「以上厳門先生所秘余夜発書櫃而寫之、先生者海内之国手也。多施奇術余今随先生而学医也先生常緝奇方為與全部一巻余復窃取先生之方為助蒼生也。 と記されている。
忠良は、忠光に後るること七年、文政四年(一八二一)辛巳二月十六日、白木村で没している、享年三十三才。
基誌に曰く「中村忠良令策墓、故人中村姓諱忠良字質夫一字令策、父名専助母名美也。幼予之父久山長学醫於波多江氏。又学京師之香河翁既帰。娶吉富氏産一男而卒。男重人亦夭、中君天資簡静存心於経籍然以生業未立不得専恵、文政四辛巳二月十六日逝、馬令三十有三。嗟哉可惜焉。
片峯千之謹誌 と。
尚仙崖和尚は、白木村に専助を訪ねては「禅の道」を語り、酒をくみ交わし、興到らは、彼独特の戯画を描いている。専助とは「飲み友達」であったようでその一巻が中村家に残されています。
四代 和泉守 忠邦 (一七九四-一八五一)
忠邦は、寛政六年(一七九四)六月二十三日、忠光の第二子(生母は側室恂)として芝西久保の唐津藩上屋敷で生まれ、幼名を於兎五郎と稱しました。正室勝子には嫡子芳丸がいましたが、寛政八年(一七九六)夭折したので、忠邦を勝子の養子として文化二年(一八〇五)正式に幕府に忠光の世子として認められました。時に忠邦は十二才。
文化九年(一八二一)五月、父忠光の隠居の後をうけて襲封、時に十九才の若い藩主でした。
忠邦は、さきに藩政改革の失敗の責を負い失脚した家老、二本松大炊義廉を再起用して藩財政改革を計りましたが、莫大な赤字財政の立直しはできませんでした。
忠邦は、政治的手腕には勝れていたようですが、その野望も亦強く、幕閣に入り、老中になりたい、との念願から幕府に働きかけて、大川野、厳木、浜崎、玉島、七山、など四十四ケ村、一万石を上地の条件に、文化十四年(一八一七)九月、遠江国浜松藩主(六万石)に転封しました。忠邦二十四才、襲封して僅かに五年の事でした。
忠邦は、唐津藩の財政窮乏の中で人となり、家臣たちにも俸禄が十分に支払えず、襲封の翌文化十年(一八二二)には、「これ以上の俸禄削減は行わない」と約束しています。その対策としては出費を極端に押え、屋敷や長屋の修理、畳替も忠邦の居間以外は行わず、中間のうち三十名の人月整理をしたり、忠邦自身も食事の倹約をするなど、しています。
更には、文化十一年(一八一四)二月には、家臣たちの髪型、衣服についても流行を戒めていますが、後の天保の改革の風俗取締りへの祖型を窺うことができます。忠邦の天保の改革の素地は既に唐津藩主の頃から窺えたようです。
○ 忠邦の上地
水野氏二代目忠鼎の天明六年(一七八六)の調べでは唐津藩の藩債が六万両もあったようで、六万石の大名としては重荷ではありましたが、唐津は「隠し田」がある、といわれ、内高は二十万石とも言われていました。その唐津藩を捨て、家臣たちの諌言をも退けて忠邦は文化十二年(一八一五)には奏者番となり、さらに文化十四年には遠州浜松藩主に転封したのは、ただに幕閣入りの野望を満たさんがためだけのことでした。
唐津藩は、寺沢氏時代は十二万三千名でしたが、水野氏の上地で半分以下の小藩になりました。上地された四十四ケ村は次の通りです。
(1)東川筋(二十ケ村)
千束、横枕、湯屋、長部田、田頭、楠、本山、岩屋、町切、平山下、平山上、瀬戸木場、浪(波)源、箞木、厳木、牧瀬、中島、広瀬、浦河内、高取、
(2)山内筋(十五ケ村)
平原村、仁部山、木浦山、白木山、藤川山、馬川山、天川山、鳥巣山、星領山、広川山、平之、鳥越、山瀬、荒川山、瀧川山、
(3)大川野筋(九ケ村)
笠椎、古川、大川野、山口、田代、立川、駒啼、川西、川原、 などの村々です。
忠邦は、文化十四年(一八一七)浜松藩主(六万石)に転封し、文政八年(一八二五)大坂城代に、更に翌文政九年(一八二六)十一月二十三日には京都所司代になり侍従、越前寺に任ぜられ、天保五年(一八三四)三月一日には念願の老中に昇進しました。天保十年(一八三九)には一万石が加増され、天保十二年(一八四一)一月三十日、十一代将軍家斉の没後は、首席老中として活躍しました。
○ 天保の改革
天保十二年(一八四一)五月十五日、老中水野忠邦は幕府政治の刷新を期して〝天保の改革〟に着手しました。忠邦は、享保、寛政の改革をお手本に、物価高騰の原因が奢奢侈贅沢にある、として同年十月には「奢侈禁止令」を出し、風俗粛正などをして物価引下げを計りました。然し、その改革はあまりにも苛酷で、特に天保十四年(一八四三)九月十四日には、上地令を発令、江戸は十里四方、大坂は五里四方の大名たちの私領を収めて幕府の直轄領としたことは、御三家の紀州藩主をはじめ大名、旗本の不評をかい、失脚の原因となり、二年余りで失敗しました。
忠邦は、その責を負をって天保十四年(一八四三)閏九月十三日失脚し、翌天保十五年(一八四四)六月二十一日再び老中になりましたが、在職中に登用した江戸町奉行鳥居忠耀(耀蔵、一八〇四-一八七四)の不正事件に連座して弘化二年(一八四五)九月二日、二万石を没収され、隠居、謹慎を命ぜられました。
なお、嫡子忠精は、弘化二年(一八四五)九月十三日出羽山形藩主(五万石)に転封、孫忠弘の時に明治維新を迎えました。
忠邦は、失意のうちに嘉永四年(一八五一)辛亥二月十日江戸で没。享年五十八才。墓所は、下総国山川新宿村万松寺(現結城市)の水野家墓地にあり、昭和三十三年(一九五八)茨城県の〝史跡″に指定されています。 忠邦の墓は、父忠光の前に南面して建てられ、正面には、浜松城主従四位下付従越前守源削臣之墓
左面には 朝臣諱忠邦少名於兎五郎叙爵為従五位下式部少輔又更和泉守又更近衛将監後叙従四位下任侍従更越前守、嘉永四年辛亥二月十日卒、浮圖謚曰
英烈院忠亮考文大居士 さらに辞世の歌
くみてこそ むかしもしのべ ゆく川の
かへらぬ水に うかぶ月かげ
と刻まれています。
参考(一) 忠邦の死について
忠邦の死については、黒板勝美の国史研究年表(岩波書店)には、「嘉永四年辛亥、二月十五日幕府水野忠邦の蟄居を免ず、翌日卒、五九」とあり、久敬社発行の東松浦郡史には「四年二月十六日其病危篤に及ぶや、幕府其の譴を解く、同日卒去せり、其の実既に十日に易簀せしものであった云々」と。
私は墓誌に従って嘉永四年二月十日没としました。
忠邦について「東松浦郡史」は「越州の末年哀むべきものあり(中略)こと当落に関せずと錐も其の前身は此の地の出である」と理解を示しています。
天保の改革は、失敗でしたが、この改革に際して砲術家高島秋帆(一七九八-一八六六)農政家二宮尊徳(一七八七-一八五六)を起用し、或は農政学者佐藤信渕(一七六九-一八五〇)の説に耳を傾けたことは日本の次の世代のために慧眼でした。
参考(二) 二本松大炊義廉
水野氏家老二本松大炊義廉は、積年の財政赤字の立て直しに尽力したが、打ち続く災害や飢饉のために非常に困難でした。
加えて藩主忠邦は、幕閣入りの野望から転封を希望藩財政の赤字、虹の松原一揆での農漁民との約束、転封に要する莫大な経費のこと、など家臣や藩民の意に沿うものでなく、大炊は転封に反対する家臣たちの総意を代表して藩主忠邦に再考を求めましたが、その諌言は却って忠邦の叱責をうけたので、文化十四年(一八一七)十月自刃しました。忠邦は文化十四年(一八一七)九月、浜松藩主に移封、そのしらせが、同年九月二十九日、当時唐津神社の祭礼の人々に伝えられ、参詣人たちは〝熱湯に水を入れたる如く″引き払ってしまったと言われます。今では唐津龍源寺の裏山に二本松大炊とその一族の墓が百八十余年の歴史と共に夏草に埋もれ往時を語っています。
忠政- |
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参考(四) 日本史のできごと
宝暦十二年(一七六二)から文化十六年二八一七)にかけての水野氏の治世五十六年間は、将軍家は、家斉の時代で、連年に亘る天明の大飢饉は全国的に大被害で、餓死者九十二万人と言われ、一方では「化政文化」の花開き、幕政では田沼親子の悪政から松平定信の「寛政の改革」北辺ではロシアの船が、或はアメリカやイギリスの船が、日本の近海を窺う、そんな時代でした。
(イ)解体新書できる
安永三年(一七七四)八月、蘭学者杉田玄白、前野良沢、桂川甫周ら七名により「解体新書」四巻、「解体図一巻」ができた。
(ロ)寛政の改革はじまる
田沼意次を退け、天明七年(一七八七)松平定信が老中となり幕政の刷新に着手し、寛政五年(一七九三)にかけて「寛政の改革」を行った。
(ハ)伊能忠敬、唐津を測量
下総国佐原の伊能忠敬は、寛政十二年(一八〇〇)四月蝦夷地を測量したのに続いて、南は屋久島、種子島、伊豆七島まで測量行脚し、文化十一年 (一八一四)「沿海実測全図」を完成。文化十五年(一八一八)四月十三日、忠敬は七十四才で没したが、没後三年、文政四年(一八二一) 七月「大日本沿海実測全図」及び「同実測録」が完成しました。
伊能忠敬が、唐津を測量したのは文化九年(一八一二)から翌年にかけてのことでした。その様子が佐倉の記念館の測量日記によると、文化九年(一八三)八月十七日、船から唐津湾の海岸や島々を測量し、怡土郡から陸路浜崎に来て、浜崎村の本陣、庄屋恒五郎の家に着いたのが午後三時、唐津村大庄屋桜井庄蔵、鏡村大庄屋竹田彦左衛門、大町年寄草場太郎左衛門らの出迎えをうけました。
幕府の巡見使などと同様「御用測量方」と紺地に白く染め抜いた旗と沢山の測量用具を持っての旅です。この日は浜崎村で一泊、時に忠敬は六十八才でした。
翌八月十八日、六つ時(午前六時)浜崎村を出発、唐津街道を測量しながら虹の松原を通って刀町に着いたのが午後一時過ぎでした。虹の松原の景観を賞讃しています。
唐津の本陣は刀町の米屋文吉の家で、代官吉原九兵衛、八嶋団平が付添い、大町年寄小牧太四郎、草場太郎左衛門、石崎嘉左衛門、名護屋村大庄屋世戸與一、平原村大庄屋宗田信左衛門などが接待に出向いています。
翌八月十九日は、六つ時(午前六時)から測量を始めるなど、六十八才とは思えないほど精力的に、又学問探究に意欲的な測量ぶりでした。京町の日野屋(常安九右衛門)や浄泰寺、近松寺の記録など、里、丁、間、尺単位で測量し、更に呼子方面に向って測量行脚を続けました。
第六章 小笠原氏時代
文化十四年一八一七~明治二年一八六九 五十二年
小笠原氏は、甲斐源氏加賀美遠元の第二子長清の裔で長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に住んで小笠原長清と称したのに始まり、九代長基の長子長秀は深志家を、次子政康は松尾家(勝山藩主の祖)を興しています。
深志小笠原氏は、七代長時の頃、武田信玄に敗れて天文二十二年(一五五三)深志城を捨て上杉謙信のもとに走ったが、八代貞慶、九代秀政は、織田信長、徳川家康に仕え、天正十八年(一五九〇)秀政は下総国古河城主(三万石)に封ぜられました。
後、信濃国伊奈松本に移り、大坂夏の陣、茶臼山の合戦で秀政の長子忠修は戦死、第二子忠政(忠眞)が宗家を継ぎ、播磨明石藩主(十万石)に、のち寛永九年(一六三二)十代忠政は、豊前小倉藩主(十七万石、のち十五万石)となり、深志家十九代忠忱(ノブ)の時、明治となりました。
(一)杵築藩時代
唐津小笠原氏は、秀政の第三子忠知を祖とし、忠知が寛永九年(一六三二)豊後杵築藩主(四万石)に封ぜられたのに始まります。
杵築藩主忠知は、寛永十三年(一六三六)日向から松苗を取りよせて領内海辺の街道に植えさせたが、その老松が後世まで美観を誇り、国東半島の所々に今でもその名残りを留めています。
忠知は杵築在城十三年、正保二年(一六四五)三河国吉田藩主(豊橋)に転封しました。
(二)吉田藩時代
吉田藩主に転封した小笠原氏は、忠知、長頼、長祐、長重と続き、元禄十年(一六九七)岩槻藩主に転封するまで四代五十二年間の居城でした。
吉田城下(豊橋市)の萬年山臨済寺は、初代忠知が父秀政(小笠原宗家十八代)の菩提を弔うために、前任地杵築に建てていたものをこの地に移したもので、小笠原家の菩提寺です。初代忠知、二代長頼、三代長祐の墓所です。
宗徧流の祖、山田宗徧の墓もここにありましたが、後浅草願竜寺に移されました。
(三)岩槻藩時代
元禄十年(ー六九七)四代長重の時、武蔵国岩槻藩主に転封、五代長熈が正徳元年(一七一一)遠江国掛川藩主に転封するまで十五年間の居城でしたが、特筆するべき治績はありませんでした。
(四)掛川藩時代
長徳元年(一七一一)五代長熈は、遠江国掛川藩主に転封、六代長康、七代長恭、と三代三十三年間の居城でしたが、長恭の時、義賊「日本左衛門」の事件がおこり藩の取締まり不十分、の件で延享元年(一七四四)陸奥国棚倉藩主に転封させられました。
(五)棚倉藩時代
延享元年(一七四四)七代長恭が、掛川から棚倉藩主に転封して、八代長堯、九代長昌と三代七十四年間の居城でした。九代長昌が、文化十四年(一八一七)肥前国唐津藩主に転封するまでの棚倉時代は小笠原氏にとっては一番長かったし、歴史の関りも多かったようです。
今でも唐津の旧士族の子孫たちは、棚倉は先祖の地、としての郷愁があるようです。
初代 主殿頭 長昌(ナガマサ) (一七九六-一八二三)
長昌は、棚倉藩主長堯の第二子として寛政八年(一七九六)棚倉に生まれ、兄夭折のため宗家を継ぎ、文化九年(一八一二)襲封、時に十七才でした。
文化十四年(一八一七)九月、長昌二十二才の時、唐津藩主(六万石)として入部しましたが、前任の水野忠邦が一万石を上地しており、棚倉時代の借金、転封に伴う費用なども重なり、藩の累計借金は三十万両とも言われ、唐津藩の年間総収入の十倍以上にもなっていました。
長昌は、そうした財政難の中での治世、苦労の多い「殿様」でした。櫨や、楮などの和紙原料の植付けを奨励して財政再建に努力しましたが、治世僅か六年では実績は上らず、却って農民の負担が増したばかりでした。
その名残りが水のきれいな玉島川の流域では紙漉きが発達し、農家の副収入として栄えました。大正七年(一九一八)玉島村の和紙生産は二七八戸の農家が従事し、生産高は五五万五千円にも達しています。これは村の養蚕(一万八千余円)蜜柑(五万円)を凌ぐ主要副業でした。又、玉島川や横田川のほとりや山あいで、秋になると真赤な櫨の紅葉が道行く人の目を惹きますが、その頃の名残りです。
こうした財政再建策は、唐津藩だけではなく各藩で行われ、各地の「名産」を産みました。長崎に旅した国語学者の今泉忠義博士は
夕映えのはせのもみぢの木の間ゆも
うんぜん岳を地のはてに見つ
と詠んでいます。
長昌が入部した翌文政元年(一八一八)には唐津藩の庄屋の代表三人が「天領」の返還運動をして江戸に行き当番奉行の水野忠邦に越訴したり、十月二十六、七日には鏡村と山田村に農民千余人が集って「上地反対運動」をしたり、庄屋たちは全員、幕領の仁部村(七山村)清願寺に集まって協議したり、十一月六日には和多田村の蓮光寺に集まって、梅峰村の庄屋藤左衛門、大野村の庄屋良太郎の二人を代表として再び江戸に上り天領返還願を出すなど、を決めましたが一揆には発展しなかったことは幸いでした。
長昌は、唐津藩主としての治世僅かに六年、文政六年(ー八二三)九月二十六日、江戸で没、享年二十八才。
墓所は、東京都文京区本駒込一丁目五ノ二二
臨済宗 天澤山 龍 光 寺
法号は、
霊源院殿前肥州唐津大守廓巌崇徹大居土
龍光寺は、小笠原家の祖、真流院華雲宗香大姉(貞享元甲子八月九日没)と丸亀城主京極氏夫人とで建立された寺です。貞享元年は一六八四年で小笠原氏が吉田藩主時代のことです。
龍光寺の墓所には唐津藩二代壱岐守長泰、三代能登守長會の墓のほか小笠原家のものと思われる「佐渡守」とか「壱岐守」とかの大名墓があり荒れはてています。
前住職夫人の話では戦争中住職は出征、昭和二十年三月十日の東京空襲で寺は焼失したが幸い過去帳は銀行の貸金庫に預けていたので焼けなかったとか。幸いでした。のち七代小笠原長生は、長昌の墓を世田谷区鳥山の日蓮宗妙祐山幸龍寺に改葬し、法号を
霊源院殿智水曰徹大居士 と改めています。
○なお長昌の没年月日は、東松浦郡史等には「九月二十九日」と記すも、墓碑に従って 「九月二十六日」としました。
○日本歴史大辞典には
長昌のことを、
「小笠原長昌、人徳高く善政の聞こえあり、文化十四年奥州棚倉より肥前唐津藩主(六万石)となる。
前に製陶を指導した経験があったので、鋭意唐津焼の改良に努力した。当城下坊主町の藩窯で、唐津藩が高麗焼を模した白紋雲鶴の茶器を作らせて幕府に献上する例は彼がはじめたという。いわゆる献上唐津と称するものはこれである」。と。(河出書房)
○嫡子行若(ミチワカ)(長行)ナガミチ
藩主長昌が没した時、嫡子行若(生母松倉氏)は僅かに一年四ケ月、長昌の弟長光は十三才でした。
唐津藩主は、当時肥前島原藩主と一年交代で長崎港の警備監督の任務があり、十七才未満の幼主の襲封はできなかったようです。襲封すれば転封しなければならなかったようです。
○小笠原長光(ナガテル)(修理) (一八二-一八七九)
長昌の弟長光は、棚倉藩主の長堯の第十三子として、文化八年(一八一一)六月七日江戸に生まれ、兄長昌の唐津転封に従って唐津入り、文政十一年(一八二八)九月、十八才の時禄高一千石で分家しました。常に兄長昌遺子、長行の後盾となり、幕末に唐津藩が大殿派(長国)と若殿派(長行)とに対立した時にもこれを収め藩の運命を保ち得た功績は大きい。長光は、国学に造詣が深く、国学の四大人のひとり本居宣長(一七三〇-一八〇一)に傾倒していました、又長光の門に学ぶ学徒も多かったようです。
晩年は、失明していたが、唐津城内三の丸(大名小路)の自邸で悠々自適。明治十二年(一八七九)一月三日没。享年七十才。
墓所は唐津市近松寺にあり、 法名は
盛*(宜の下に心)院殿高巌道栄大居士
墓碑の両面には、小笠原長行の撰文、書、で銘が刻まれています。
二代 壱岐守 長泰(ナガヤス) (一八〇六-一八六一)
長泰は、出羽鶴岡藩主酒井忠得(タダアリ)の八男として文化三年(一八〇六)生まれ、兄忠器(タダタカ)は鶴岡藩主。長泰は文政六年(一八二三)十一月、初代藩主長昌の養嗣子となり襲封、佐渡守、のち壱岐守と改めました。
長泰は、藩の財政立直しのために領民に人頭税を課するなど苛酷な徴税をしたり、家臣の俸禄の切り下げなどをして不評でした。それでも唐津藩の積年の借金は文政九年(一八二六)には三十三万三千九百六十八両余で年収入は二万五千両で返済の見込みは立ちませんでした。
さらに文政十一年(一八二八)の台風による大洪水、凶作、天然痘の流行、さらには天保の飢饉(一八三〇-三六)で全国作柄は平均四分二厘と言う凶作でした。
天保の飢饉は、冷害、水害、旱害で、天保元年(一八三〇)、二年、四年、六年、七年(一八三六)と次第に激しくなり、奥州の作柄は二歩八里(全国平均四歩二厘)という有様で、犬猫は勿論、垣根の縄まで食べ尽くして、自殺するなど悲惨を極めたようです。
そうした飢饉の最中、長泰は天保四年(一八三三)健康に勝れず、病弱を理由に隠居しました。唐津藩主としての治世十年、時に長泰二十八才でした。
長泰は、隠居の二十八年後、文久元年(一八六一)十二月十四日、江戸桜田の邸に没。享年五十六才。
墓所は、本駒込(地下鉄三田線白山下車)
臨済宗 天澤山 龍 光 寺
法号は、
文久元年辛酉年
天休院殿故壱州大守共寧崇儉大居士
十二月十四日
○長泰には、文政十年(ー八二七)生まれの長子兵部(当時七才)がいましたが襲封せず、嘉永元年(一八四八)三十七才の時父の生家鶴岡城主酒井忠徳の孫、主税の養子となり、戊申戦争では佐幕派として活躍しました。
三代 能登守 長會(ナガオ) (一八一〇-一八三六)
長會は、旗本小笠原弾正少弼長保の二男で、母は唐津藩主長昌の姉で、初代長昌の甥です。文化七年(一八一〇)生まれで、天保四年(一八三三)長泰の養子となり襲封、能登守に叙せられました。時に二十四才。
長會は、襲封の翌天保五年(一八三四)唐津に入城しましたが、天保の飢饉の最中で米価は高騰し、各地に一揆や打ちこわしが続出し、幕府は各地に「救小屋」を設けて飢民を収容し、奥羽地方では餓死者十万人とも言われました。
天保四年(一八三三)秋には、江戸町会所で窮民三十二万人に、二度に亘って施米を行い、翌天保五年六月にも江戸の窮民三十二万四千人に施米を行った、との記録があります。
唐津藩でも、天保七年(一八三六)の飢饉では、冷害による大凶作で、山間部の農村では特にひどく「弼の炊き出し」をして救済しました。
○ 間引禁止令
連年の凶作続きで、農民たちの生活は苦しく、領内の人口は減少したので、天保四年(一八三三)唐津藩でも「割引禁止令」を出しました。
それによると、
①赤子養育の歌、を作って間引の罪悪観を強調する 教化政策。
②懐胎届を出させ、出産には村役人を立ち合わせる。
③生活困窮者に対する赤子養育米の支給。
などを定めましたが、財政的裏付けが不十分で、必ずしも効果はあがりませんでした。
この間引の風習は、江戸中期以降に農民経済の窮乏につれて増え、佐藤信渕の「経済要録」(文政十年)によれば「往々其児を養ふこと能はずして(中略)奥羽、関東諸国には殊に多し、中国、四国、九州等も子を殺す者云々」とあり、出羽、陸奥両国にて赤子を殺すこと年々六、七万人を下らず。」とあります。
対象となる赤子は二児、三児以上に多く、男児よりも女児が多かったようです。男児は将来の労働力として育てられたようです。
日本の人口が、享保(一七一六-三五)以降二八〇〇万ないし三〇〇〇万の間を上下して増加しなかったことはそのためです。
長会は、唐津藩主としての治世僅かに三年余り、天保七年(一八三六)二月十九日江戸藩邸で没。享年二十七才。
墓所は、本駒込一ノ五ノ二二
臨済宗 天澤山 龍 光 寺
法号は
天保七丙申年
東光院殿前能州太守華獄崇栄大居士
二月十有九日
初代主殿頭の墓の前に、主殿頭の方を向いて建てられている。叔父主頭頭の没後13年2代壱岐守より25年も前に没しています。夏草の繁るに任せているが、墓前の梅の古木に大きな実がついている。せめて花の頃はお供えになれば、と念じて。
四代 佐渡守 長和(ナガヨシ)(一八二一-一八四〇)
長和は、文政四年(一八二一)大和郡山藩主柳澤甲斐守保泰の九男として生まれ、三代藩主長会の末期養子として天保七年(一八三六)三月襲封しました。時に十六才でした。
長和は聡明の誉れ高く、藩政の刷新に努めたが、時恰も天保の大飢饉で農民は疲弊し、多難な時代でした。
○ 越訴事件
天保九年(一八三八)曽て水野忠邦によって上地されて天領になり、唐津藩に支配が委ねられていたが転村庄屋の制度廃止に伴い、庄屋の役宅、役地の所有権をめぐって庄屋と村民の対立が続いていました。
それが、偶々幕府巡見使の来藩を機に直訴ということになりました。
(1)庄屋の経済的特権に関する農民の負担撤廃、
(2)村方諸帳簿の公開、 などを要求して対立遂に翌天保十年厳木一揆へと発展しました。
○ 厳木一揆
天保十年(一八三九)大川野、厳木地区の農民たちは庄屋の役宅所有権をめぐり、隣りの佐賀藩領の多久村への逃散の態度を見せて藩境の広瀬村金比羅山に小屋掛けして立寵りました。
その動静が、佐賀藩から時の老中水野忠邦に達したので幕府の勘定奉行深谷益房は、天保十年二月二十二日唐津藩に一揆の鎮圧を命じました。
藩では直ちに、家老雨森惣兵衛、高畑隼人が鉄砲隊を先頭に兵五百人を卒いて鎮圧に出動しました。
その結果は
(1)唐津藩預けとなっていた厳木、大川野などの幕領は日田代官所の直轄地とする、
(2)唐津藩の奉行(二人)は羅免する、
(3)庄屋、村民は喧嘩両成敗で、遠島、中追放、過科など、二九五〇名余が処罰されました。
このような多事多難の中で、藩主長和は、治世僅かに五年、天保十一年(一八四〇)十一月二十三日、唐津城で没。享年二十才。墓所は唐津市近松寺、
法号は
祥鳳院殿前佐州大守瑞巌崇輝大居士
近松寺の墓域は、巾三・七三m奥行五、二九m、に亘り石造りの玉垣が巡らされ、正面には冠木門風の石門があり、紋章(三階菱)が刻まれている。墓碑は高さ三・〇二m、巾〇・七m。小笠原氏の最後の「大名墓」の形式を残しています。
五代 佐渡守 長国 (一八一二-一八七八)
長国は、信濃国松本藩主松平丹波守光庸(ツネ)の第二子として文化九年(一八一二)生まれ、天保十二年(一八四一)二月、長和の養嗣子となり、五月襲封、時に三十才。
長国は、藩財政の刷新を図り、小川島の捕鯨を藩営とし、或は楮百万本を植え付けて唐津和紙の増産を図るなど産業の育成に力めました。
明治二年(一八六九)六月十七日の版籍奉還まで二十九年間、然も最後の藩主として、幕末維新の困難な時に際し、更に養嗣子小笠原長行は老中として幕閣の中枢にある中で、藩政の指導宜しきを得たことは幸いでした。
唐津藩主としての治世二十九年、小笠原氏歴代藩主の中で最も長く君臨した人です。
明治二年(一八六九)六月十七日、版籍奉還の後、旧藩主長国は、唐津藩知事となり、石高六万石、士族千九百十四人、で家老が大参事、大庄屋が大里正、庄屋が里正などと職制が改められ、大小参事をはじめの諸官吏は旧藩士で構成されていました。
明治政府は、知行一万石につき二千五百両の献金を命じたが、当時の唐津藩は借金が二十一万千六十七両、整理しなければならない藩札が二十万両もあり、借金は二十年年賦、藩札は五十年賦返済、という状態でしたから町人に四千両、村方に一万一千両を割当てて納めた状態で旧領民の不評をかいました。
明治四年(一八七一)七月十四日、廃藩置県が行われ長国は、その年の九月から東京に住むことになるが、明治四年(一八七二八月家臣たちに書状を送って別離を惜んでいます。その状に曰く、
昨今迅速ニ廃藩仰せ出サレ、吾等本官ヲ免ゼラレ来月中帰京ノ命ヲ蒙り候
一旦東行候へバ、更二再会覚束ナク候 三百年来 君臣ノ情熱此度ヲ永離ト存ゼラレ候(中略)
此期ニ臨ミ生別ハ死別ヨリ悲歎卜申ス諺ヲ実ニ相覚エ候云々。と。
長国は、唐津を離れて七年、明治十一年(一八七八)四月二十三日、東京で没。享年六十七才。
墓は東京下谷区谷中の天王寺に葬り、のち世田谷区鳥山の日蓮宗 妙祐山 幸龍寺に改葬されました。
法号は
本光院殿義忠長国日瑞大居士
従五位 長国公 明治十一年四月
と刻まれています。
参考(一) 小笠原家と茶道宗徧流
宗徧流
正保二年(ー六四五)吉田藩主になった小笠原忠知は、茶道表千家流三世、千宗且の愛弟子、山田宗徧を茶頭として迎えました。爾来宗徧流は小笠原家の茶道として栄えました。
始祖宗徧は、京都東本願寺派の長徳寺の僧侶の子として寛永四年(一六二七)に生まれ、寛永二十一年(一六四四)十八才の時、千宗且の門に入り、茶道を究めました。
小笠原忠知は、始め千宗且を吉田城に迎えようとしましたが宗且は既に七十八才の高齢で、第一の弟子宗徧を推薦しました。宗徧は時に二十九才でした。宗徧の墓は、吉田城下(豊橋市)の萬年山臨済寺の小笠原家菩提寺にありましたが後、東京都台東区西浅草一ノ二ノ十六、願龍寺に移され、東京都の史跡に指定されています。
墓碑には
宝永五戌子年
不審庵宗徧周学居士
四月二目 と刻まれています。
願龍寺の門をはいると、「史跡」の立札があり、東京都は昭和三年(一九二八)八月「史跡」に指定してその立札に、
山田宗徧は、徳川(江戸)初期の茶人で、宗徧流の創始者である。本姓仁科氏、のち母方の姓である山田氏を称した。師の千宗旦の譲りをうけて不審庵、今日庵を継いだのち力圍斎と号した。彼は父の道玄とともに三河の吉田に住し、のち京都鳴滝に寓居を構え、さらに江戸に移った。六才の時、茶道を学んだ小堀遠州の門弟となり、正保四年(一六四七)千宗且の門に入り利久茶道の奥義をきわめた。
明暦元年(一六五五)三十二才の時、小笠原家に仕え、宝暦五年(一七〇八)四月二日、八十五才で没した。著書に「茶道便蒙抄」「茶道要録」「茶道図絵」などがある。
昭和四十三年三月一日 建設
東京都教育委員会
とありますが、宗徧は寛永四年(一六二七)生まれで、宝暦五年(一七〇八)に死んでいますから享年は八十二才で、小笠原家に仕えたのも明暦元年(一六五五)は二十九才だった筈です。愛知県岡崎 市伊賀町の浄土真宗本願寺派明願寺にある茶道宗徧流祖山田宗徧の「湛*(クサカンムリに綠のツクリ)(タンリョク)庵並水屋」は県の文化財に指定されています。
二世宗引は、宗徧の甥で、宝永四年(一七〇七)四〇才で山田家を継ぎ吉田藩(小笠原家)の茶頭をつとめました。享保九年(一七二四)三月二十九日没。享年五十七才。
墓は掛川市円満寺にあります。
三世宗円は、初代宗徧の孫です。宗徧の三男生駒宗逮の子で、宝永七年(一七一〇)の生まれです。
茶道を二世宗引に学び、山田家を継ぎ茶頭として仕えました、宝暦七年(一七五七)三月二十日没。
享年四十八才。墓所は浅草願龍寺で、爾来山田家九世までの墓がこの寺にあります。
四世宗也は、宗円の子で寛保三年(一七四三)江戸に生まれ、宗円について茶道を学びました。長じて江戸八丁堀に茶室を構え宗徧流の発展に力めました。文化元年(一八〇四) 四月一日没。享年六十才。
八世宗俊は、寛政二年(一七九〇)宗也の子として生まれ、父の後を継いで茶頭として仕えました。
文化十四年(一八一七)九月、小笠原長昌の唐津転封に従って唐津入り、唐津での宗徧流の発展の端緒をつくりました。
宗俊は唐津で初代長昌、二代長泰、三代長會に仕えて茶道を発展させ、多くの茶人が宗俊の門人から輩出しました。唐津に来て十九年、天保六年(一八三五)四月三日没。享年四十六才。
六世宗学は、宗俊の高弟吉田宗意の二男です。宗俊には嗣子がなかったので、宗俊の没後十数年間、家元は空席でした。そこで小笠原家の家老西脇東左衛門らの計らいで、藩主長国に願い前記吉田の宗意の二男義明を継がせて六世家元としました。
宗学は小笠原家の茶頭として仕え、江戸深川の下屋敷「合江園」で、長昌の遺児、明山公長行に茶道の指南を通じて傅育の任に当たりました。
その頃の門人には、黒田藩の高木弥八郎(方円庵)肥田郡司(松柏庵)末竹静哉(不雪庵)や佐賀鍋島藩の侍医久保文斎などがあり、唐津からは主君長国の命で、安政六年(一八五九)一七才で上京して宗学の門下で修行した中村宗珉もその一人です。
文久三年(一八六三)四月二十四日没。
享年五十三才。
七世宗寿尼は、六世宗学の妻です。文政元年(一八一八)井手権左衛門の娘として生まれ、山田家に嫁して宗徧流の発展に力めましたが、文久三年(一八六三)四月、夫宗学が没したので、四十六才で家元を継ぎ、幕末・維新の混乱期に茶道を守りぬきました。
明治二年(一八六九)六月、版籍奉還の後は小笠原家の禄も失い、東京から唐津に帰り、大島輿義(大島小太郎の父)中村宗珉らの助力で宗徧流の普及発展に力めました。
明治十三年(一八八〇)六十三才の時、坊主町の居を払い、再び東京に移り日本橋浜町に居を構えて宗徧流の発展に努力しました。明治十六年(一八八三)八月二十二日、東京で没。享年六十六才。
八世宗有は、慶応二年(一八六六)上州沼田藩主、土岐頼知(ヨリオキ)(三万五千石)の家老中村雄左衛門の二男として江戸に生まれ、明治十四年(一八八一)十六才の時、七世宗寿尼の養子となり茶道を学びました。宗寿尼の没後は、家元の後見脇坂安斐に師事励みました。明治二十三年(一八九〇)トルコ軍艦が紀州沖で沈没した時、義援金の募集で活躍、トルコに渡って十八年間滞在するなど、外交に文化(茶道)に活躍しました。
第一次世界大戦勃発で帰国した宗有は、大阪市淡路町に居を定めましたが。大正十二年(一九二三)五月には、多くの人々の協力で東京浜町の日本橋倶楽部で盛大な宗徧流八世の襲名披露大茶会を催しました。宗有五十八才の時でした。
大正十四年(一九二五)五月からは、宗徧流茶道の全国行脚の旅に出、先ず小笠原藩の故地、唐津を訪ね、北城内の高取邸、虹の松原、西城内の大島邸の敬日庵などで大茶会を催し唐津の茶人たちを熱狂させました。
昭利十九年(一九四四)宗有は、宗徧流の全国組織「明道会」を結成するなどに力めましたが、昭和三十二年(一九五七)二月十三日没。享年九十二才。
遺髪塔は近松寺北隅にあります。(昭和三十四年六月建立)
九世宗白は、八世宗有の長女で、明治三十四年(一九〇一)七月、大阪に生まれ昭和三十二年(ー九五七)九世家元を襲名しました。時に五十二才。
家元として七年、昭和三十八年(一九六三)弟の宗囲に家元を譲り、昭和四十六年(一九七一)四月三十日没。享年六十九才。
十世宗囲は、八世宗有の長男で、明治四十一年(一九〇八)三月、大阪に生まれ、東京帝国大学を卒業し、茶道は父宗有、姉宗白尼に学びました。
昭和三十八年(一九六三)五十六才で家元を襲名、茶道の発展に力めました。著書に「山田宗徧全集」などがあります。
○願龍寺は地下鉄田原町駅下車、浅草郵便局裏のビルの谷間にひっそり建つ寺で、大きなイチョウの木があり、一名を「イチョウ寺」とか。
参考(二) 宗徧流と中村宗珉
唐津の名刹近松寺の山門を入ると左側に、中村宗珉顕彰碑があります。宗珉の三回忌にあたる大正十五年(一八二六)弟子たちによって建立されたものです。碑面の文字は、宗徧流八世宗有の筆です。
茶人宗珉は、信州の出身で、文化十一年(一八一四)長昌の父長堯の時に修理様料理方雇として仕えた中村甚五兵衛の三男として天保十四年(一八四三)三月三十一日、唐津城内大名小路で生まれました。名は中村唯之助。
安政六年(一八五九)八月、宗珉十七才の時主君長光(修理)の命で、家老高畠勘解由に従って江戸に出て、宗徧流六世宗学の門に入り深川の「合江園」で修行すること七年、七ヶ条の皆伝を許されて唐津に帰ってきたのは慶応元年(一八六五)十一月のことでした。
翌、慶応二年(一八六六)一月二十七日、藩主小笠原長国に仕え坊主町に居宅を賜り、知行高五石二人扶持、明治元年(一八六八)十二月には六石二人扶持、明治三年(一八七〇)十二月には十石八斗(現米三十六俵)の知行をうけていましたが、廃藩置県で禄を失いました。
宗徧流は、六世宗学には嗣子がなく、文久三年(一八六三)四月、宗学の没後、妻宗寿尼が家元を継いでいましたが、明治十三年(ー八八〇)宗寿尼六十三才の時、坊主町の居宅を払い、東京日本橋浜町に移り宗徧流の発展に力めましたが、時恰も幕末・維新の混乱で茶道など顧みられない頃でした。
明治十六年(一八八三)八月、宗寿尼が没してからは又も家元が絶えました。
大正十二年(一九二三)五月、宗徧流が再興され、宗有が八世家元を襲名するまで、四十余年に旦って家元の代理として宗徧流茶道を守り、その継承発展に努めたのが中村宗珉でした。
宗珉の門に学んだ茶人は三百人を越えた、といわれ唐津だけでなく佐賀、伊万里、武雄、鹿島など県内は勿論、久留米や広島、京都にまで及んでいます。この宗珉の努力に感銘した鉱山王高取伊好は積極的に援助し、八世宗有は宗珉の功に報いるに、師範代として処遇しました。
宗珉は、大正九年(一九二〇)七十八才で隠居し家督を長男宗亀に譲りましたが、宗亀は三菱炭坑勤務で茶道に意なく、絶えました。
宗珉夫妻は、飯塚の長男宅に身を寄せ、妻マツはその年大正九年(一九二〇)七月三十一日没。宗珉は再び唐津に帰り、長男宗亀の養子三郎の生家、本町の大西家に寄寓していましたが、大正十三年(一九二四)十二月十一日没。享年八十二才。墓所は近松寺にあります。
宗珉には長男宗亀のほか二男七十治、三男八十治があったが晩年は恵まれなかったようです。
宗珉の愛用した茶道具、文書などは、孫、三郎が第二次大戦で戦死のあと妻ハナ子(城内浅原家)が継承し、今は唐津市の久保田家で所蔵されています。
参考(三) 唐津曳山
水野忠邦が、遠州浜松藩主に転封し、棚倉から小笠原長昌が唐津藩主として入部したのは文化十四年(一八一七)九月でした。
そのころは不幸にも飢饉や災害が相次ぎ藩の財政は大変苦しかったようです。棚倉での小笠原家は貧乏で城の修理は勿論、家臣の俸禄も滞りがちだったようで、さらに転封に伴う経費も重み、文化十四年の唐津藩の借金は三十万両もあり、六万石の年収総額の十倍以上もありました。明治二年(一八六九)六月の版籍奉還の時の唐津藩の借金が二十一万一千六十七両でした。
そんな時代(小笠原藩政下五十二年間)に唐津の町人たちは立派な山笠を造って唐津神社に奉納して無病息災を祈り、秋の豊作を感謝して気勢をあげました。莫大な製作費と長い歳月をかけて作った町人たちの意気込みは大したものです。製作費のことはわかりませんが、弘化三年(一八四六)に奉納された六番曳山、大石町の鳳凰丸は一七五〇両と記されていますので今の貨幣価値にすると一億数千万円にもなります。何れも仏像の製作手法と同じ脱乾漆の立派な芸術品です。
伊勢宗治編「日本の曳山」によれば曳山は次のように分類しています。
(イ)鉾(鉾山車、鉾屋台)
秩父神社の屋台、神田明神の鉾山車、など
(ロ)山(人形山、鳥居山)
京都八坂神社の人形山、福岡櫛田神社の館、など
(ハ)舟(水上、陸上)
大阪天満宮の人形舟、長崎諏訪神社の鯨、など
(ニ)屋台(人形屋台、動物屋台)
山王日枝神社の人形屋台、高山日枝神社の操人形、唐津神社の動物屋台、など
(ホ)太鼓台(曳太鼓)
小倉の祇園太鼓、などです。
唐津神社の祭礼「唐津くんち」は寛文年間(大久保氏時代)からと伝えられますが、浜崎祇園の山笠が今から二四三年前、宝暦三年(一七五三)中村屋久兵衛が博多の櫛田神社の山笠を見て浜崎でも山笠をはじめたことや、徳須恵の飾山笠が宝暦二年(一七五二)にできていること、或は鏡神社の山笠など、土井氏の終頃(宝暦年間)には既にあったようです。唐津の曳山は、昭和五十五年(一九八〇)国の重要無形民俗文化財に指定され、曳山記録にも「曳山、山、山車、山笠」など時代によって呼び方も変わりました。昭和三十三年(一九五八)一月二十三日付で佐賀県重要民俗資料に指定された頃は〝山笠〟でした。その後昭和四十八年(一九七三)から ″唐津曳山″ に名称を変えて今日に至りました。
十四台の曳山は次の通りです。
(イ)小笠原長昌時代(文化十四年-文政六年)
〇一番曳山 刀町の赤獅子
文政二年(一八一九)、長昌が唐津藩主として入部した翌々年に唐津神社に奉納された、と伝えられます。浜崎の祇園山笠より六十余年後のことです。
刀町の木彫師(原本に従い残す)石崎嘉兵衛清堅が伊勢詣りの帰途、京都で祇園山笠を見て唐津に帰り、塗師の川添武右衛門らと相談してこの赤獅子を造ったとか。
この赤獅子は、高五・四m。巾三m。重さ一・八tで、その後の曳山のお手本になったようです。
(ロ)小笠原長泰時代(文政六年-天保四年)
〇 二番曳山 中町の青獅子
文政七年(一八二四)の作で獅子細工辻利吉、塗師儀七らによって作られたとか。
(ハ)小笠原長国時代(天保十二年-明治二年)
〇 三番曳山 材木町の亀と浦島太郎
天保十二年(一八四一)九月、須賀仲三郎らによって製作されました。最初は亀の背中に宝珠が乗っていたそうですが、今は浦島太郎です。
〇 四番曳山 呉服町の義経の兜
天保十五年(一八四四)九月、獅子細工職人石崎八右衛門、脇山舛太郎、塗師脇山卯太郎、大工佛師庭吉、白井久介、永田勇吉、金物師房右衛門らによって製作。
〇 五番曳山 魚屋町の鯛
弘化二年(一八四五)九月奉納、魚屋町の名に因んだことと、神様へのお供物として魚の王様鯛が選ばれたようです。
明治十三年(一八八〇)唐津地方は大旱魃で、雨乞祈願をし、曳山を西の浜に曳き出して七日間、鐘や太鼓で祈願しましたが雨は降らず、誰か知恵者の説でか、この鯛山を台から外して泳がせた、とか伝えられます。
〇 六番曳山 大石町の鳳凰丸
弘化三年(一八四六)作です。細工人永田勇吉、塗師小川次郎兵衛などの製作。鳳凰丸の理由は、大石町は当時唐津で大商人が最も多く裕福な町だったので一番豪華なもの、として選んだようです。従って製作費も当時の記録によれば一七五〇両、とか。
〇 七番曳山 新町の飛龍
弘化三年(一八四六)大石町と同じ年の奉納です。京都南禅寺の障壁画(飛龍)を見て、この曳山が作られたとか。陶工の中里守衛重廣(九代太郎右衛門)中里重造政之の兄弟が原形の細工をして、大工棟梁は魚屋町の太吉、鹿造、塗師は榎津の中島良吉春近、原利八家次、中島小兵衛春幸らによるとか。
〇 八番曳山 本町の金獅子
弘化四年(一八四七)作。四番曳山からこの八番曳山までは連年奉納されました。細工石橋八左衛門、塗師原口勘二郎と伝えられています。
〇 九番曳山 木綿町の信玄の兜
元治元年(一八六四)奉納。この曳山までが藩政時代のものです。木綿町は、江戸中期以降、鍛冶職人の多い町で「鍛冶屋町」とも呼ばれました。
製作には近藤藤兵衛、塗師畑重衛門などが携わったようです。
(ニ)藩政時代が終わり明治政府ができて(一八六八~)
〇 十番曳山 平野町の謙信の兜
明治二年(一八六九)製作。明治二年六月十七日版籍奉還で、藩主長国は唐津県の藩知事になりました。既述のように明治政府は旧知行一万石につき二千五百両の献金を命じ、唐津県では金がなく町人に四千両、村方に一万一千両を割り当てて納めたほどでした。そんな時に、この曳山と米屋町の酒天童子は製作奉納されました。細工人富野武蔵、塗師須賀仲三郎らによります。
〇 十一番曳山 米屋町の酒天童子と源頼光の兜
明治二年(一八六九)九月奉納。細工人吉村藤右衛門、近藤藤兵衛、塗師須賀仲三郎、大工高崎作右衛門、高崎作兵衛、高崎久兵衛、宮崎利助ら。
〇 十二番曳山 京町の珠取獅子
明治八年(一八七五)作。細工人富野淇園、塗師大木卯兵衛らによって製作されました。
〇 十三番曳山 水主町の鯱
明治九年(一八七六)作。細工人は珠取獅子と同じ富野淇園、大工木村與兵衛、鍛冶正田熊之進、木挽楠田儀七、塗師久留米の川崎峯次、晴房らによって作られました。
〇 十四番曳山 江川町の七宝丸
明治九年(一八七六)作。細工人宮崎和助、塗師須賀仲三郎、大工田中市次、正信、屏風絵師武谷雪渓らの名があげられます。
◎紺屋町には「黒獅子」がありましたが、明治二十二年(一八八九)に破損消滅し、太鼓だけは昭和三十六年(一九六一)木綿町に引き継がれた、とか。
これらの曳山は、唐招提寺の鑑真和尚像などと同じ手法の乾漆を主体としたもので、ただに祭礼のための「ヒキヤマ」だけでなく、「飛騨の工」によって作られた高山の屋台と並ぶ美術品です。多くを語るよりも唐津神社横の曳山会館で出番を待っている十四台の曳山をあなたの目で確かめてください。
参考(四)
小笠原氏系譜(一)
長清-長経-長忠-長政-長氏-宗長-貞宗-政長-長基 | -長秀-持長-清宗-長朝-貞朝-長棟-長時-貞慶-秀政 | -忠修 (播磨安志藩主の祖) |
-政康…………信之 (勝山藩主の祖) | -忠政 (宗家小倉藩主の祖) | |
-忠知 (唐津藩主の祖) | ||
-垂直 (豊後杵築藩主の祖) |
(二)唐津小笠原氏系譜(○印は唐津藩主)
長保 (旗本) | |||||||||||||||||
‖-長会(長泰の養子) | -兵部 | ||||||||||||||||
-女 | -胖之助 | ||||||||||||||||
忠知(1)-長頼(2)-長祐(3)-長重(4)-長熈(5)-長康(6)-長恭(7)-長堯(8) | -長昌⑨ | =長泰⑩ | =長会⑪=長和⑫=長国⑬-満寿(長行の正室) | ||||||||||||||
-長行(14) |
|
||||||||||||||||
参考(五) 日本史のできごと
小笠原長昌が唐津藩主に転封して来た文化十四年(一八一七)から、徳川第十五代将軍慶喜が慶応三年(一八六七)十月十四日、大政奉還し、江戸幕府が滅亡するまで五十年間は、十一代家斉、家慶、家定、家茂、慶喜の五代にわたり、幕末の内政、外交ともに激動の時代でした。
「化政文化」の爛熱と頽廃を押さえよう、と試みた天保の改革も失敗に終り、幕府政治は滅亡への一途を辿りました。
(イ)ペリー浦賀に来航
嘉永六年(一八五三)六月三日、ペリーが軍艦四隻を卒いて浦賀に来航、開国をせまり、翌七年(一八五〇)三月三日、日米和親条約(神奈川条約)を結び日本は鎖国政策を終えました。
(ロ)生麦村事件
文久二年(一八六二)八月二十一日、生麦村事件がおこり、老中格外国御用掛として外交の第一線で活躍したのが唐津藩小笠原長行でした。この事件は翌文久三年(一八六三)七月の薩英戦争に発展するが、薩摩もイギリスも互に相手を認識しており両国のために幸いでした。
(ハ)大政奉還(江戸幕府亡ぶ)
慶応三年(一九六七)十月十四日、将軍慶喜は大政奉還を請い、翌十五日許可。江戸幕府(十五代二百六十五年)は亡びました。
唐津は、文禄四年(一五九五)初代藩主寺沢志摩守広高が唐津城を築いて以来、小笠原長国が明治二年(一八六九)藩籍奉還するまで、実に二百七十四年に及ぶ藩政府代は終りました。
参考(六)「従是東対州領」
虹の松原の国道二〇二号線、新茶屋付近に「従是東対州領」と彫られた石柱があります。高さは約二m巾三〇cmくらいです。同じ石柱は砂子の浜玉町と唐津市との境にもあります。昔は砂子の松原の入口にありましたが、今は松原が切り拓かれて住宅が建ち並び、石柱も折れています。
(1)唐津藩の上地
唐津藩は、前述のように、外様大名の寺沢氏時代は十二万三千石の大名でしたが、二代堅高の時島原の乱の責により天草四万石が没収され八万三千石になりました。
次の大久保氏(忠朝)は、延宝六年(一六七八)怡土郡一万石を上地して佐倉藩主に転封。
松平氏が入部した時は七万三千石でした。その松平氏(乘久)は三千石を二男好乘に分知して七万石になりました。
土井氏(利里)は、怡土郡の鹿家村、福井村、吉井村と、松浦郡の宇木村、横田下村、横田上村、砂子村、浜崎村、浜崎浦、南山村、五反田村、岡口村、谷口村、渕上村など十一ケ村、計一万石を上地して先祖の地、古河藩主に転封しました。時に宝暦十二年(一七六二) のことでした。これら十一ケ村の村々は松浦郡の中でも穀倉地帯でした。
水野氏は、松浦郡二二四ケ村、六万石で入部しましたが、四代忠邦は文化十四年(一八一七)浜松藩主に転封しましたが、転封の条件としてか、東川筋(二十ケ村)千束、横枕、湯屋、長部田、田頭、楠、本山、岩屋、切町、平山下、平山上、瀬戸木場、浪瀬、巻木、厳木、牧瀬、中島、広瀬、浦河内、高取、など。
大川野筋(九ケ村)笠稚、古川、大川野、山口、田代、立川、駒啼、川西、川原、など。
山内筋(十五ケ村)
平原、仁部、滝川、木浦、白木、藤川、馬川、天川、鳥巣、星領、広川、平之、鳥越、山瀬、荒川、など。
合計四十四ケ村、一万石(草高一万七千石)を上地しました。
これらの上地で唐津藩は寺沢氏時代(十二万三千石)の半分以下の小藩になって最後の小笠原氏が入部しましたが、藩民の間に「上地反対」の運動が起こりました。
『唐津は、朝鮮との交易や、海産物が多く、何よりも 〝隠し田〟で大名たちは唐津への転封を望んでいました』(土井家家老の裔、鷹見安二郎談)
このように、唐津は譜代大名たちの「草刈り場」でした。水野時代には六万石でしたが、内高は二十万石とも言われ、野望をもつ譜代大名たちは唐津で自分の藩財政を建て直し、然も上地という賄賂で江戸周辺に転封して幕閣入りを願ったのです。
これらの上地された村々は「天領」として日田代官所の支配下におかれました。
(2)朝鮮信使の来朝
慶長十年(一六〇五)三月五日、江戸幕府は朝鮮使節を伏見城で引見し、曰鮮和約が成立しました。
翌慶長十一年(一六〇六)五月六日、朝鮮王李*(月八口)は使を送り将軍秀忠(前年四月将軍となる)に国書を奉呈しました。これが第一回の朝鮮信使の来朝です。以来、文化八年(一八一一)五月二十二日、幕府(将軍家斉)が、信使の応接を対馬で接見するまで、二〇五年間に十二回の使節を江戸で接見しました。
使節団は、正使、副使、従使など総勢二〇〇人前後で、一行は京城から釜山、対馬、壱岐、赤間関を経て瀬戸内海を船で東に、大坂に上陸、そこからは陸路を江戸に向かいました。
使節団の一行が対馬に着くと、対馬藩主宗氏が案内役となり、壱岐から品川まで連日の饗応が続き、ある時は儒者が詩、文の贈答などをして旅の疲れを慰める、など過分の礼遇をしました。このために莫大な費用がかかり、毎回百万両にもなりました。
幕府は、将軍の権威と国の体面からか、勅使や院使よりも丁重に処遇しました。
新井白石(一六七五~一七二五)は将軍家宣の正徳元年(一七一一)正徳の治で朝鮮信使の待遇を改めました。
将軍家斉の時、文化八年(一八一一)五月には、財政窮乏のため対馬で応接し、次の十二代家慶の時、嘉永五年(一八五二)十月には大坂で信使を迎える予定でしたが、水害や江戸城西丸火災(五月二十二日)など、で来睥を延期し、翌々年、安政元年(一八五四)ペリーの来航など、外交問題などのために中止となりました。
(3)対州領となる
前述のように、幕府は文化八年(一八一一)五月、対馬の厳原で朝鮮信使の応接をしましたが、その費用を負担させる代わりに、
1、下野国安蘇郡(栃木県南部の秋山川、旗川流域で、田沼町、佐野市を中心とした地域)と都賀郡(思川、黒川流域で日光街道沿線)と
2、肥前国唐津藩の、かつて大久保氏が上地した怡土郡一万石
3、土井氏が上地した怡土郡の鹿家村、福井村、吉井村など九ケ村
4、同じく宝暦十三年に土井氏が上地した松浦郡の字木村、砂子村、横田上、横田下、浜崎村、浜崎浦、南山村、五反田村、岡口村、谷口村、渕上村など十一ケ村、合計二万石を対馬藩に与えました。
爾来、幕末まで五十余年、これら二十ケ村は ″対州領〟となり、肥前田代にある対州藩代官所で支配しました。その出張所「浜崎役所」が設けられました。これら松浦郡十一ケ村の村高は九千百五十九石一舛八合九勺でした。
これら対州領となった二十ケ村の村々の収入は、年間三千石から四千石で、水田の少ない対馬の人々の飯米になる予定でしたが、実情は藩の財政難のため、借金の返済に大坂方面に送られていたようです。
東京佐賀県人会発行の「東京と佐賀」三七七号に、吉村整氏は、前記栃木県の旧対州領を調査して、この地域の殆どの人々が、対州領であった、ことの認識がないようでした。と記していますが、同じことは私どもの松浦郡や怡土郡の人々にも言えるのではないでしょうか。
六代 壱岐守 長行(ナガミチ) (一八二二-一八九一) 長行は、文政五年(一八二二)五月十二日、初代藩主長昌の第二子として唐津城二の丸で生まれ、嫡母は水野忠光(一七七一-一八一四)の次女、生母は松倉氏。 父長昌死去の時は僅かに一年四カ月の幼児で、唐津津の襲封の対象にはなりませんでした。 長ずるに従い器量群を抜き、藩の儒者村瀬文輔、使番大野右仲らに学び、のち天保十三年(一八四二) 二十一才の時江戸に上り、深川の下屋敷の「背山亭」に住み、数人の侍者と起居を共にし、月額僅か十五両の生活費でした。 江戸では、学問を松田順之(迂仙)朝川鼎(善庵)藤田彪(東湖)安井衡(息軒)らに学び、武術を高島*ゲイ(車ヘンに睨のツクリ)(秋帆)江川英武(太郎左衛門)らについて研究したが、このことが後に幕末危急の時の大きな力になりました。 安政四年(一八五七)九月、藩主長国の養嗣子となり時に長行三十六才。翌安政五年(一八五八)四月、藩主の名代として藩政を見るために十七年ぶりにお国入り、立派に成人した若殿を迎えた唐津の人々は感泣しました。文久元年(一八六一)四月、再び江戸に上るまでの三年間、藩政の刷新を試みて実績を挙げ、数多くの敬老愛民の施策は後世まで領民たちの語り草として伝えられています。 長行の器量を知った土佐藩主山内豊信(容堂)の強引なまでの招きにより、文久元年(一八六一)四月、再び江戸に上り、翌文久二年(一八六二)七月幕府の奏者番に、八月若年寄に、九月十一日老中格に、十月外国御用掛となりました。偶々文久二年(一八六二)八月、生麦村事件がおこり、その外交処理に活躍し、慶応二年(一八六五)十月、老中として幕閣の中枢として内政、外交に活躍しました。慶応三年(一八六七)十月大政奉還後は会津戦争や函館五陵郭で新政府軍と抗戦、江戸幕府最後の老中として指導しました。函館の戦に敗れた長行は暫く行方を晦ましていましたが、明治五年(一八七二)四月秘かに東京に帰り、七月政府に自首したが八月四日付で太政官の特命で赦されました。小笠原家嫡流の若君長行こそわ が唐津が生んだ英傑でした。 長行は、東京駒込動坂の小邸で隠棲、明治九年(一八七六)十一月従五位に叙せられ、明治十三年(一八八〇)六月特旨を以て従四位に叙せられました。 明治二十四年(一八九一)一月二十二日、東京駒込の邸で病没。享年七十才。 同年一月二十九日葬儀が行われたが、その模様を久敬社誌は次のように報じています。『一月二十九日、従四位小笠原長行公の遺骸を谷中天王寺に葬送したり。唐津より旧藩士総代として小笠原長世、佐久間退三、田林邦表の三氏上京せらる。この日は晴天に加えて暖か、葬儀に会するもの無慮六、七百人、午後一時より動坂別邸を出棺せり。その行列は先駆騎馬、斎主馬車、次いで従四位小笠原長行公之柩と大書した白地の銘旗、柩は白木造りにして三階菱の定紋を金にて附し、その前後には旧藩士諸氏、直垂を着してこれを警護し、喪主小笠原静氏喪服に藁沓を穿ち、公の夫人、令嬢、近親と共に馬車にて従い、天王寺へ着棺したるは午後二時四十分頃なり。直ちに墓地待設けの祭場へ老公の御棺を据え、祭官の儀式終わり、祭主葬場の祭詞あり、終って在唐津藩士総代として佐久間退三氏の祭文、東京旧藩士総代として河内明倫氏の祭文あり、終って潜士及び知己会葬人、順次玉串を捧げて礼拝し、式全く終りて従五位長国公墓右手へ御棺を移し、楽隊にて埋葬式を了え滞りなく納棺せしは午後四時なりし。墓地茶屋前は会葬人及び見物人馬車、人力車などの混雑非常にして筆紙の能く形容する能わざる所なり。実に盛大美を尽し麗を極めたる葬儀と謂うべし。当日は榎本武揚、林田保らの諸氏も会葬せられたり。」と。 墓は谷中墓地乙四号一側に葬られましたが、後嗣子長生によって五代長国公と共に、世田谷区北烏山五-八-一、日蓮宗妙祐山幸龍寺に改葬されました。 墓碑に 顕忠院殿深信長行日解大居士 従四位長行公 明治二十四年一月 と刻まれています。 ○谷中天王寺の記録には 小笠原長行(一八二二~一八九一) 七十一才 墓は「乙四号一側」 「見当らず」 老中。唐津藩(六万石)主世子。長崎県松浦の人。 名は長行。通称初め行若、敬七郎。 号は明山、別号天全、洗耳、遠清。 小笠原氏初代長昌の長男。天保九年江戸に移り、松田右仙、朝川善庵に経史を、江川太郎左衛門に砲術を研究する。 邸内に「背山亭」という塾を開設、当時の名士羽倉簡堂、藤田東湖、川北温山、安井息軒、塩谷宕陰、野田笛畝、藤森弘庵ら出入りする。安政四年佐渡守長国の養子となり、従五位、図書頭、文久二年幕府奏者番、若年寄、老中格に進み、役米一万俵を賜う。外国御用掛、壱岐守、慶応元年老中、役米三万俵。征長指揮、外国事務総裁、明治元年上書して職を辞す。王政復古後も一時名を夢棲と改め、北走し会津に至り、ついで函館戦争に参加、新政府に対抗する。五年帰藩し牛込動坂に閑居、演芸を楽しみ風月を友とし、吟嘯自適の生活を送る。従四位。「合江園演武記」「霊芝記」著。谷中天王寺に葬る、とある。 長男長生は長国の後を受けて小笠原氏を継ぎ子爵となる。 と記されています。 ![]() 参考(七) 小笠原胖之助(一八五二~一八六八) 唐津近松寺の小笠原家墓地に、小笠原胖之助、の墓があります。墓碑に明治元年戊辰十月二十四日、於蝦夷地七重村戦死、享年十七才、仏諡曰三好院殿儀山良忠大居士 と記されています。 墓の主、胖之助は嘉永五年(一八五二) 二代藩主小笠原長泰(一八二三~一八六一) の子として江戸に生まれ(兵部の弟)文久元年(一八六一)十二月十四日、父長泰が没した時は僅かに十才の少年でした。 幼くして父を亡くした胖之助は、文武両道に励み、その才能を伸ばし、片や小笠原長行は胖之助の成長に深く心を用い面倒を見てくれました。 長行のこの心づかいと、慈愛は胖之助の感ずる所となり、実の親子以上に心の通う間柄であったとか。 幕府が亡び、江戸市中が騒然となった慶応三年(一八六七)十二月から翌年にかけて、幕府の諸制度が廃止され、大学頭林家は家塾を閉じて巣鴨の別邸に疎開、曽てその門で漢学を学んだ胖之助も同行しました。 慶応四年(一八六八)五月十五日、上野の山に立て籠もった彰義隊と政府軍との戦で胖之助は唐津藩士九名と共に彰義隊に馳せ参じたが敗北。夜陰に乗じて武器を捨て変装して巣鴨の林家に辿りつき、林家に身を隠していた胖之助一行は江戸の唐津藩士らと密かに連絡をとり、榎本武揚が旧幕府の軍艦で品川湾脱出のことを知り密かにこれに乗艦して会津若松に向かいました。 即ち慶応四年(一八六八)八月二十日午前四時、榎本武揚らは、旗艦「開陽」を先頭に「回天」 「蟠龍」「千代田」「咸臨」「神速」「美嘉保」「長鯨」ら八隻を率いて密かに品川湾を出港しました。胖之助ら一行も長鯨で脱出しました。 会津若松では奇しくも、小笠原長行に随行していた唐津藩士三十数名と会い、大いに意を強くしました。長行は間もなく姿を消したが、胖之助ら唐津勢は会津藩の希望で猪苗代口の防衛についたが政府軍との戦で敗れ鶴ヶ城は陥ちました。 胖之助らは、仙台領折ケ浜から舟で北海道に逃げましたが、函館の北、七重村の戦で砲撃を受けて壮烈な戦死を遂げました。時に明治元年(一八六八)十月二十四日。若冠十七才の若武者でした。 胖之助の死体の側には主君を護った唐津藩士十名も共に戦死していました。即ち、水野忠右衛門、白水良次郎、高須大次郎、小久保清吉、栗原千之助、渡辺七之助、吉倉勉三郎、市川熊槌、田辺鉄三郎、小林孝次郎、らの人々です。 ○ 「小笠原壱岐守長行」刊行 「小笠原壱岐守長行」は長行の没後、嗣子長生によって伝記編纂が計画され、長行と最も縁の深い唐津人田辺新之助、百束持中、新井常保の三人に執筆依頼、十数年を要して完成したもので、長く小笠原家に秘蔵されていたが、昭和十七年(一九四二)久敬社理事松下東治郎が刊行責任者となって公刊されたものです。 菊版七〇六頁、頒価六円でした。 七代 長生(ナガナリ) (一八六七-一九五八) 長生は、慶応三年(一八六七)十一月二十日、江戸八重洲町の老中役宅で、時の老中小笠原長行の子として出生、唐津初代藩主長昌の孫です。母は曽て長行の師、儒者松田迂仙の女美和で、明治五年(一八七二)十月十七日長生六才の時病没しました。 長生は誕生の翌日から母のもとを離れて、下総の藤倉家で養育され、明治五年七月、父長行が東京に帰ってから両親の家に住むようになりましたから、母の愛に抱かれること僅かに三ケ月の薄倖の少年でした。 明治七年(一八七四)十二月三日、八才で長国の後嗣として家督を継ぎ従五位に叙せられ、明治十七年(一八八四)七月八日、子爵を授けられ、時に十八才でした。明治二十年(一八八七)海軍兵学校卒業、士官候補生として軍艦「筑波」に乗組、明治二十二年(一八八九)軍艦「高千穂」長崎入港中、一月十二日初めて唐津を訪問(十八日まで滞在)唐津滞在中に財団法人久敬社社長に推載されました。昭和二十二年(一九四六)公職追放により辞任。 明治二十四年(一八九一)一月二十二日父長行逝去の時は事務のため出席できず、明治二十九年(一八九六)二月十日、元前橋藩主伯爵松平直方の長女秀子と結婚。大正七年(一九一八)海軍中将、大正十年(一九二一)宮中顧問官、昭和七年(一九三二)勲一等瑞宝章、正二位に叙せられました。 昭和二十二年(一九四七)公職追放により 木枯の狂ふに任す落葉かな の一句を残して伊豆長岡、鉄桜荘に隠棲し、 昭和三十三年(一九五八)九月二十日、鉄桜荘で没。享年九十二才。 墓所は、東京都世田谷区烏山の小笠原家菩提寺妙祐山幸龍寺のほか、伊豆長岡の宗徳寺、東京府中市の東郷寺、唐津市近松寺などにあります。烏山の幸龍寺の墓誌には 鉄桜院殿無畏長生日來大居士 正二位勲一等功四級 小笠原 長生 と刻まれています。 ![]() 八代 長勝 (一九二〇-一九九四) 長勝は、大正九年(一九二〇)長生、秀子の四男として出生、宗家を継ぐ。初代忠知以来十六世に当る。 平成六年(一九九四)一月三日没。享年七十五才。 烏山の幸龍寺に葬る。 施主 妻 啓子 穏静院殿飛高日勝大居士 参考(八) 日蓮宗 妙祐山幸龍寺 小笠原家の菩提寺幸龍寺は、世田谷区北烏山五-八-一にあり、京王線千歳烏山駅が便利です。電話は〇三-五三一四-七〇一〇。 この寺は、徳川家康の祖母正心院殿の帰依があり、浜松で開山され、家康の江戸入府に従い湯島に移り、更に浅草に移り、大正十二年(一九二三)関東大震災の後、ここ鳥山に移りました。 移った当初は細川家の下屋敷でしたが、今は烏山一帯が静かな寺町です。「江戸名所屏風絵」 のさし絵を描いた長谷川雪旦、雪提父子の墓もあります。 小笠原家の墓誌には 映龍院殿妙江日渕大童女 壱岐守女田鶴姫 慶応三年五月七日 深解院殿妙信圓満日寿大姉 長生公母(嫡母) 大正十一年五月十六日 深心院殿妙縁日成大姉 長生公母(実母) 明治五年十月十七日 誠信院殿妙寿長遠日賀大姉 秀子六十九才(長生妻) 昭和二十二年六月三日 明峯院殿操日隆大居士 長男 長隆 昭和二十一年六月二十日 信徳院殿勤行日孝大居士 三男 長孝 昭和二十一年九月二十六日 智光院殿妙文日清孩女 二女 文子 明治四十一年六月三十日 清涼院殿淳厚日丁大居士 丁 (長生弟) 昭和八年八月二十一日 鐵桜院殿無畏長生日來大居士 正二位長生公 昭和三十三年九月二十日 穏静院殿飛高日勝大居士 長勝 七十四才 平成六年一月三日 と記されています。 施主は長勝夫人 小笠原啓子氏です。 ○改葬されている筈の初代長昌公、五代長国公、六代長行公の墓誌が見つからなかったことは心残りでした。 |
付1 江戸時代の唐津藩の人口調
時代 | 村数 | 家数 | 人口 | 記事 | |||||||||||||||
松平氏(六万石) 元禄三年(1690) |
12,203 | 59,901人 | |||||||||||||||||
土井氏(六万石) 享保六年(1721) |
松浦郡 230 |
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松浦郡のうち 百姓 58,803人 | ||||||||||||||||
怡土郡 3 |
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町人 3,260 町人のうち 男 1,825 女1,435 |
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土井氏(六万石) 延享三年(1746) |
12,747 |
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水野氏(六万石) 寛政元年(1789) |
224 | 13,791 うち 百姓 12,835 町人 888 その他 68 |
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小笠原氏(六万石) 天保九年(1838) |
186 | 11,900 うち 百姓11,011 町人 810 その他 79 |
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○何れも「巡見手鑑」等による。
付2 全国の大名一覧
江戸時代初期(寛文年間)には既述のように二六七名の大名がいましたが、幕末の〝最後の殿様″は二八五名です。その分布、親藩、譜代、外様の別、禄高、昭和を見た殿様、などは次の通りです。
親藩 | 譜代 | 外様 | 計 | |
九州 | 0 | 8 | 27 | 35 |
中国 | 3 | 8 | 17 | 28 |
四国 | 2 | 2 | 10 | 14 |
近畿 | 2 | 34 | 23 | 59 |
中部 | 5 | 41 | 10 | 56 |
関東 | 5 | 49 | 6 | 60 |
東北 | 3 | 12 | 17 | 32 |
北海道 | 0 | 0 | 1 | 1 |
計 | 20 | 154 | 111 | 285 |
(ロ)禄高調(一万石以上、以下は切り捨て)
親藩 | 譜代 | 外様 | 計 | |
九州 | 0 | 51 | 324 | 375 |
中国 | 34 | 26 | 175 | 235 |
四国 | 15 | 18 | 77 | 110 |
近畿 | 65 | 155 | 67 | 287 |
中部 | 163 | 137 | 153 | 453 |
関東 | 66 | 155 | 6 | 227 |
東北 | 30 | 47 | 99 | 176 |
北海道 | 0 | 0 | 3 | 3 |
計 | 373 | 589 | 904 | 1,866 |
(単位は万石)
○徳川宗家(家達)は静岡七十万石に入れる。
○大名の一薄平均は親藩十八万石余、譜代は三万石余、外様は八万石余です。全平均禄高は六万五千余石です。
(ハ)昭和を見た殿様たち
「殿様」と言えば歴史上の人たちで、昔の人ですが、その最後の殿様たち二八五人のうち、私どもと同じ世代同じ昭和の空気を吸い、田河水泡の漫画「のらくろ一等兵」(昭和六年)を見た人、上野公園の桜見物をしたり、夏の夜の銀座を散歩した人たち、或は東京駅から電車で伊東や熱海に行った殿様など、十五人もいたのです。
更には、二・二六事件やベルリン・オリンピックで、「前畑ガンバレ」のラジオ放送を聞いた人や、ヒットラーがポーランドに進駐したことを知っているよ、と言う人も数人いたのです。その中で「昭和を見た殿様たち」十五人を記してみました。
(1)上総請ジョウ西藩主(譜代)一万石
林肥後守忠崇、は林家第十七代藩主で、譜代大名の宿命で幕末の戦には榎本武揚の軍艦に乗って奥羽に向かい政府軍との戦に敗れて降伏、東京に護送されて唐津小笠原藩邸で禁固の身となりましたが、明治五年(一八七二)許されて華族に列せられ日光東照宮の宮司などを勤めました。昭和十六年(一九四一)一月没。
享年九十四才。日本最後の大名でした。
(2)徳川宗家、静岡七十万石
徳川家達十五代将軍徳川慶喜が大政奉還した後、徳川宗家を継いだのが十六代田安亀之助(当時六才)でした。田安家は八代将軍吉宗の第三子宗武を祖とする家で亀之助は宗武四世の孫です。
亀之助は宗家を継ぎ、徳川家達と改名、静岡七十万石を領し、明治十年(一八七七)から明治十五年(一八八二)までイギリスに留学、帰国後は明治二十三年(一八九〇)初めて帝国議会が開会されると貴族院議員に選ばれ、明治三十六年二九〇三)から昭和八年(一九三三)までに実に三十年余に亘って貴族院議長の要職をつとめました。この間大正三年(一九一四)には第一次山本権兵衛内閣のあと、組閣の内命をうけましたが門閥を考えてか、恭順の意でか辞退しました。
大正十年(一九二一)十一月、ワシントン会議には加藤友三郎(海軍大臣)らと日本代表として参加し、或は日本赤十字社社長などとして活躍しました。
昭和十五年(一九四〇)六月五日、東京渋谷の自宅で心臓異常に肺炎を併発して没。享年七十八才。
(3)備中鴨方藩主(外様) 二万五千石
池田信濃守政保、は昭和十四年(一九三九)二月、没。享年七十五才。
(4)安芸広島藩主(外様)四十二万六千石余
浅野安芸守長勲、は昭和十二年(一九三七)二月、広島で没。享年九十六才。旧大名の中では最長寿でした。
(5)美濃大垣藩主(譜代)十万石
戸田采女正氏共タカ、は昭和十一年(一九三六)二月没。享年八十二才。
(6)越後三日市藩主(譜代)一万石
柳沢彰太郎徳忠、は昭和十一年(一九三六)一月没。享年八十二才。
(7)越後与板藩主 (譜代)二万石
井伊兵部少輔直安、は昭和十年(一九三五)八月没。享年八十五才。
(8)常陸牛久藩主(譜代)一万十七石
山口長次郎弘道、は昭和七年(一九三二)七月十一日没。享年七十三才。麻布曹渓寺に葬る。
(9)下野大田原藩主(外様)一万一千四百石
大田原鉄丸勝清、は昭和五年(一九三〇)十月没。享年七十才。
(10)美濃郡上藩主(譜代)四万八千石
青山峰之助幸宜ヨシ、は昭和五年(一九三〇)二月没。享年七十六才。
(11)下総古河藩主(譜代)八万石
土井大炊頭利与トモ、は昭和四年(一九二九)一月二日没。享年七十八才。古河利勝山正走寺に葬る。
(12)丹波相原藩主(外様)二万石
織田山城守信親、は昭和二年(一九二七)十月没。享年七十七才。
(13)大和柳生藩主(譜代)一万二千五百石
柳生但馬守俊益、は柳生流剣法神陰流の十三代当主。昭和二年(一九二七)九月没。享年七十九才。
(14)越後高田藩主(譜代)十五万石
榊原式部大輔政敬、は昭和二年(一九二七)三月七日没。享年八十三才。深川霊厳寺に葬る。
(15)日向延岡藩主(譜代)七万石
内藤備後守政挙タカ、は昭和二年(一九二九)五月没。享年七十八才。
(一)九州地区 (三十五藩)
県 |
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福 岡 (七) |
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佐 賀 (五) |
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長 崎 (六) |
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大 分 (八) |
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熊 本 (四) |
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宮 崎 (四) |
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鹿児島 (一) |
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(二)中国地区 (二十八五藩)
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近世「唐津藩史」略年表 |
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参考1、小笠原長生(正二位勲一等功四級、海軍中将)は昭和33年(1958)9月20日伊豆長岡の鉄桜荘で没、92才。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2、小笠原長勝は、平成六年(1994)1月3日東京で没、七十五才 |
赤字と将軍は管理者吉冨が書き加える。
参 考 文 献
一、 東松浦郡史 久敬社
一、 末廬国 松浦史談会編 芸文堂
一、 唐津市史
一、 唐津市の文化財 唐津市教育委員会編
一、 浜玉町史
一、 国史研究年表 黒板勝美編 岩波書店
一、 新版日本史年表 歴史学研究会編 岩波書店
一、 日本歴史大辞典 河出書房
一、 世界大百科辞典 平凡社
一、 角川日本地名大辞典 角川書店
○からつ歴史考 唐津市
○唐津にゆかりの城物語 浦部和博著
○歴史講座資料-江戸時代史- 小 著
あとがき
「唐津城の殿様たち」を調べているうちに、いろいろなことを勉強しました。一番驚いたことは、唐津にある大久保忠職の碑文、水野忠光の碑文に誤りがあることでした。
譜代大名なるが故にか、その墓所が殆んど唐津にはなく、後期大久保氏は世田谷の最勝寺に、松平氏は虎の門の天徳寺(のち西尾の松明院)に、土井氏は浅草の請願寺(のち古河正定寺)に、水野氏は結城市の畠の中の墓所に、小笠原氏は本駒込の龍光寺(長昌、長泰、長會)谷中の天王寺墓地(長国、長行)に、のち長生の時、長昌、長国、長行は、世田谷区北鳥山5-8-1、日蓮宗妙祐山幸龍寺小笠原家墓地に改葬されました。
これらの菩提寺を訪ねて、「殿様」とか、俗名とかは全く通用しなくて、法号と没年月日だけが唯一の手がかりであることを知りました。
世田谷の教学院では、大久保忠朝の墓碑を指で撫でながら法号を判読して頂いたり、忠職の茶毘碑を探してくださった林静寛住職、京都所司代で安永6年8月3日京都の任地で没した土井利里のことを私と一緒に数多い過去帳の中から調べてくださった古河正定寺の老師近誉亮彦上人など、ご協力頂いた方々に感謝いたします。
唐津に移り住んで二年、末だ研究不十分なこともありますし、訪ねたい史跡もありますが、ここに本書を上梓いたしました。史実に対する厳しいご批判とご教示を頂ければ幸いです。
最後になりましたが、古館曹人先生に「序」を頂き感謝いたします。氏は句集の紹介によると「大正九年生、本名六郎、五高、東大卒、山口青邸に師事、俳人協会常務理事、日本ペンクラブ会員、句集、評論集など多数に活躍中」と。本来は一流企業の経済人で常務取締役、副社長でした。
いつか東京の中央線の電車の吊り広告で「新入社員研修」の案内があり、財界・経済界の一流講師団数名の中に「古館六郎氏」の名があるのを見て、誇らしげに思ったことでした。
平成八年 四月 著 者
著 者 略 歴
中 村 和 正 (大正9年生)
佐賀県立唐津中学校・国学院大学国史学科卒業
昭和18年学徒出陣により海軍に入隊
海軍 第14期飛行専修予備学生、海軍中尉
東京都立大学付属高等学校教諭
武蔵野市立第六、第三中学校長
北多摩東南地区公立中学校長会長
多摩地区公立中学校長会連合会長
武蔵野市文化財保護委員・同副議長
財団法人 久敬社理事 等歴任
平成6年 唐津市に移住 現在に至る
唐津城の殿様たち
平成8年11月1日 発行
管理人後記
次は著者謹呈の短冊の挟まった本と共に古舘六郎(曹人)さんから送られてきたメモです。
古舘六郎(曹人)さんは古舘家の分家古館九一の六男として生まれました。
管理人(吉冨寛)とはルーツが同じく、堺の木屋利右衛門です。
名護屋城築城の際、秀吉の命で堺から材木積運船頭として唐津に渡ってきた利右衛門一族は文字通り歴代の「唐津城の殿様たち」にも深い関係があり、六郎さんもご友人のこの出版を大変喜ばれておられました。
敢えて六郎さんのメモを載せました。
六郎さんは平成9年9月1日「木屋利右衛門」を出版されました。
ネット化の了解を得るべく、巻末の住所に連絡したくても、既に著者もそのご家族も不明。
もしも著者のご遺族がこのサイトを目にされたらご一報頂きたく存じます。
ご遺族の情報も併せてお寄せ願います。
令和元年7月11日 管理人 吉冨寛 記す