西ノ木屋
西ノ木屋の歴史
山内薬局 吉冨 寛 記す
演舌 此の書は一系図と云うにあらず。初代均忠翁より代々家督別家繁栄の始末 并に縁覚之書旁々後世に申し伝えたきのみ。 全て初代大功之恩澤を以て家名繁昌之儀に候間聊か忘却仕り間舗候 天保十一歳子九月吉辰 敬寫之 七代均斎 |
慶安元年戊子十月二十六日 心相淨三信士 万治二年己亥十月十四日 教岳妙喜信女 右両霊六地蔵尊石塔に戒名彫り入れ之有るは、 了三居士之御両親の由来迎寺古過去帳に相見へ候に付、是に記す。 嘉永元年申四月改 当主 七代 均斎 |
山内家系年代記 泉州堺の住、木屋利右衛門と号す。豊臣公朝鮮御発向の砌、 名古屋御陣御材木積運船頭と申し伝え之有り、家系万々歳 |
この名文句で始まる西ノ木屋山内家の系図は古屋(古舘家・太閤)から養子に迎えられた七代目均斎が書き上げ、初代(均忠・利右衛門)、二代(均義・清右衛門)、三代(均秀・善右衛門)、四代(均晴・福五郎・養子・一世小兵衛)、五代(均定・治兵衛・米屋町米屋又兵衛男養子・善右衛門)、六代(均言・茂三郎・二世小兵衛)、七代(均斎・正之助・古屋正右衛門男養子・三世小兵衛)、八代目(均安・四世小兵衛・蔵六)、九代目(均幸・五世小兵衛・幸之助)、十代目(均敬・勘蔵・東ノ木屋山内久助〈配は蔵六の長女カネ〉の長男養子・六世小兵衛)、十一代目(七世小兵衛・左衛門)、十二代目(啓慈・現在の当主)と続いている。 しかし堺から来た利右衛門から数えると山内啓慈は十三代目となる。 |
堺から来た利右衛門は六地蔵尊として祀られている |
さて来迎寺の西ノ木屋山内家の墓の真ん中に位置する六地蔵尊には戒名が三つある。冒頭に記した心相淨三信士と教岳妙喜信女と更に曜月妙照信女と彫り刻まれている。妙照信女は恐らく堺から同行した奥さんと思われ、没年は不明である。淨三信士は慶安元年九十八歳で亡くなっている。妙喜信女は初代均忠の母親で万治2年享年不明。来迎寺の過去帳に依ると堺から移り住んだ先祖淨三信士は山内清右衛門と記載されているが、系図では利右衛門とあり、毛利家文書にも木屋山内利右衛門と書かれているし、我々もやはり利右衛門と呼んでいる。 秀吉の朝鮮出兵の際に名護屋城築城の御陣材木運積船頭、名護屋船船頭として仰せ付けられ泉州堺よりやってきたのである。大石町の屋敷に住まい、魚屋町の方は店舗を構え、海運商兼木材商を営んでいた。博多の豪商神屋宗湛とも親交があり、宗湛日記は昭和初期まで西ノ木屋が所蔵していたそうである。 昭和40年代に崩した蔵の天井板には名護屋城築城の様子が描かれてあったそうだが、残念なことに唐津焼の焚き物に売られていったことをびんつけ屋の故篠崎福市氏が悔やんでおられた。残っていれば名護屋城博物館の第一級展示物になり、貴重な資料になったに違いない。 古舘六郎さん(古舘九一の六男・古舘正右衛門の従弟・俳号:曹人)が木屋利右衛門にとり憑かれてしまわれ、平成9年に『木屋利右衛門』を著された。その経緯は古舘家と木屋との関わりを理解しなければ語れない。 先ず西ノ木屋四代均晴の次女が古屋正右衛門宗桂(古屋四代宗政の次男・中町に分家・兄五代宗則の時お家断絶、その後中町を売り払い本家古屋に引き移る)に嫁ぎ、六代均言の奥さんが古屋から嫁入りし(古屋五代宗則の長女)、西ノ木屋の系図を書いた七代均斎が古屋から養子に入り、更に均斎の次男が古屋に養子に行くが早世し、次に同じく四男(幼名榮之助・改め久五郎、後に正助、均則と号す)が再び古屋へ養子に入り、しかもその妻は東ノ木屋から、つまり西ノ木屋と東の木屋で断絶した古屋を再興したのである。古屋再興初代はこの時になる訳だが、古屋の中興の祖はその親である西ノ木屋七代当主均斎に他ならない。 そして六郎さんは古屋再興初代均則の孫に当たる。 |
堺の木屋一族の菩提寺 顕本寺山門前にて 大空襲で全て焼け落ち、赤く焼けた 墓石が規則正しく積み上げてあった。 中央:古舘六郎氏 右:一力安子さん 左:私です |
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六郎さんと妹の一力安子さんは堺に再三足を運び、利右衛門の足跡をたどられた。また、堺市の博物館所蔵三十畳もの当時の大絵図の三分の一の復刻版を入手され、克明に描かれたその地図をもとに、海岸にずらりと木屋一族が住まい、慶長11年から元和元年まで計8回御朱印船を出した木屋彌三右衛門(堺の名誉市民)と問題の木屋利右衛門の屋敷が環壕の脇にあり、海岸線の材木商木屋と船頭(貿易商)木屋に分かれていたことをつきとめられた。 |
また『木屋利右衛門』に堺の還豪都市と唐津の外町の類似点を指摘された。堺は還豪の内側に寺が配置され、外町は還豪の外側に寺が並び建つ。唐津の城下を創る上で、この地に移り住んだ商人達、殊に堺衆は近代唐津の町の創設に深く関わっていたに違いない。 | |
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西ノ木屋の者は昔から堺という町にルーツを求め、はるばる堺まで出かけては利右衛門のことを調べに行った様だが、私は六郎さんと安子さんに堺を案内して頂き、木屋利右衛門の足跡を訪ねることができ、また堺の方々と親しくお付き合いすることができたことは何よりであった。 |
木屋利右衛門の屋敷跡には河井慶長という和菓子屋さんが店を出されていた。 (大阪府堺市中之町東4丁38) そのお菓子の中に「茶屋船」という銘菓があり、その包み紙は茶屋船交趾貿易絵より採ったものが使われている。 当時の堺の木屋も恐らくこのような船を仕立てて貿易をしていたに違いない。 |
李舜臣将軍の末裔 李載か(火へんに華)氏と | 秀吉公 ねねの家の末裔 木下崇俊氏と |
遠州流の家元にお逢いするのが目的でしたが、このお二人にお会いでき感激致しました。 400年前に話は弾み、木下さんには木屋利右衛門に大仕事を命ぜられたお礼を申し上げ李さんにはうちの木屋船に亀甲船で大打撃を与えてくれたことを述べ、400年振りに和解の握手を交わすことが出来ました。利右衛門の墓参りをしてこのことを報告すると申しましたら李将軍も「私も韓国に帰って李舜臣に報告します。」と言ってくださいました。 |
来迎寺 西ノ木屋の墓石 中央は木屋利右衛門を祀った六地蔵尊 向かって右は初代均忠 向かって左は8代目均安蔵六 |
天文十九年(1550) | 木屋利右衛門誕生 |
永禄三年 (1560) | 桶狭間の戦 (利右衛門10歳) |
天正十年 (1582) | 本能寺の変 (利右衛門32歳) |
天正十九年 (1591) | 秀吉の命により利右衛門堺より唐津へ移り住む (利右衛門41歳) |
文禄元年 (1592) | 文禄の役 (利右衛門42歳) |
慶長元年 (1596) | 二十六聖人京都で捕らえらる。 |
博多から唐津へ向かった一行は木屋の北入口(現在浦島通りから最近開通した太鼓橋へ抜ける通りの真ん中)より船で上陸して材木小屋で一泊したと伝えられるが、小屋でなく、店舗、即ち母屋であったのである。利右衛門は密かに厚遇したと考えた方が納得行く。一行は殉教の地長崎西坂の丘へ旅立つ。平成12年10月、西ノ木屋船着き場跡地に、松浦文化連盟のご助力と唐津はもとより全国からのご寄付で立派な二十六聖人顕彰碑を建立していただいた。 |
昭和30年代の西ノ木屋 矢印は北入口 町田川には石のスロープがあり、町田川を上ってきた船から積み荷を降ろしていた。二十六聖人もこの辺りから上陸したものと思われる。 |
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外町と内町は一つの橋 札の辻橋で結ばれていた。 外町側の玄関口に西ノ木屋は位置する。 |
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参考資料 キリシタン研究第八輯 吉川弘文館 昭和38年3月15日発行 肥前国唐津魚屋町木屋利右衛門 奥村 武 ここに記される唐津魚屋町西ノ木屋の母屋は、二十六聖人が殉教の旅路の途すがら一泊した宿として現存する唯一のものである。よってこの稿を特に奥村武博士にお願いした次第である。(編輯者) 西ノ木屋の由来 唐津の旧家、木屋、山内家は一五九一年、名護屋城築城の際に豊臣秀吉の命に従い、築城材木積運船々頭として、泉州堺より唐津に移り来たり、徳川三百年唐津、寺沢・大久保・土井・水野・小笠原各藩政時代、苗字・帯刀を許され大年寄の家位として大坂の鴻池、博多の大賀・島井・神屋、長崎の末次等と共に豪商の一に数えられた.木屋の一族は本家西ノ木屋を筆頭に分家東ノ木屋・中ノ木屋・裏ノ木屋・角ノ木屋等として唐津に傘下を張り、連綿として繁栄して今日に至っている。 本家の屋号は木屋と称し代々小兵衛を名乗り、現当主は十三代である.天明初年同町の東に分家(現当主山内俊美)をなし同じく酒造業を営み、現在に至る。酒銘『さよ姫』で佐賀県酒造組合長をされた有力者である、本家に対し、屋号を東ノ木屋と称し、本家を西ノ木屋と称するようになった。その後の分家の屋号も本家の位置より中ノ木屋・裏ノ木屋・角ノ木屋と呼称した。 西ノ木屋は、戦時中、企業整備で酒造業(醸造高一千数百石)を廃止、戦後は慶長年間建築の母屋を貸家となし、向いの土地で『西ノ木屋醤油』の醸造を創業して今日に至る。母屋の西隣は、大正年間に上棟された日本建築で、その豪華さは、佐賀県の代表的木造建築で、西ノ木屋本家の当主の住居となっている。富豪西ノ木屋の思惑によって、故高橋首相、故天野文相は衆議院議員となり、その地位を得たのである。 西ノ木屋は、博多の商人、神屋宗湛・島井宗室・松永宗也等が出入していた家で、同家には、秀吉関係の古文書、宗湛日記(元本)等を多数蔵していたという。 西ノ木屋の店舗、屋敷は、南は魚屋町に面し、西は町田川、北は松浦川に面した土蔵造りで、石垣の上に白壁をならべ、平戸の蘭商館をみる観あり、北入り口より船舶の出入が容易で荷を満載した船舶はそのまま屋敷内の蔵に入ることができて、屋敷の広さ(一六五四年)は表入口、間口五間、北裏口十一間である。 一五九七年、京都で捕えられた二十六聖人は、魚屋町の北入口より舟で上陸し、材木小屋で一泊したと伝えられるも、小屋でなく、魚屋町の店舗、即ち母屋であったのである。当時の唐津の家としては最高級なもので、船頭利右衛門は密かに好遇したものである。(大石町の本宅に対し、魚屋町の店鋪母屋は材木商、木屋の店鋪で材木小屋といわれてもさしつかえはないであろう) 木屋利右衛門 木屋利右衛門は山内姓にして泉州堺の住人である。豊臣秀吉は大陸侵攻へ朝鮮征伐の基地を肥前国垣副城(波多氏の部将名護屋越前守経述の居城)を改め増城を考え、名護屋城の築城をはじめるため、秀吉の命によって一五九一年(天和十九年)名古(護)屋@御陣材木積運船頭として唐津大石町に移住した、山内家の祖である。 朝鮮陣御用意として大船仰付らるる覚(甫庵太閤記による) 一、東は常陸より南海を経て四国・九州に到り、海に添ひたる国々、北は秋田より中国に到りて其国々の高十万石に付、大船二艘宛用意可在之事 一、水主之事浦々家百軒に付て十人宛出させ、其手其手の大船に可用候若し有余の水主は到大阪可相越之事 一、蔵納は高十万石に付て大船三艘中船五艘づつ造可申之事 一、船の入用大形勅合候而、半分之通算用奉行方より請取可申侯、相残分は船出来次第請取可申之事 一、船頭は見計ひ次第給米等相定め可申候事 一、水主一人に扶持方二人、此外妻子之扶持其之宿々へ遣し可申之事 一、陣中小者・中間は下女扶持其者之宿々へ遣し可申候 是は今度、高麗又は名護屋へ出立候者、不残如此可遣之事 右条々然相違令用意天正廿年之春、摂州・播州・泉州之浦へ令着岸 一左右可在之者之者也 天正十九年正月廿日 秀吉 海上兵站線、名護屋釜山間は我軍の作戦及び兵站上の大動脈なるを以て、其間、数百艘の船舶を以て往復連絡を図り、次の如く、船奉行を命じ、また其船頭に対して飯米六反帆の船に対しては十人づつ宛下されそれを船主の中飯となさしめたり、(毛利家文書によると) 高麗船奉行(早川 長政 ・ 森 高政 ・ 森 吉安) 対馬船奉行(服部 一忠 ・ 九鬼 嘉隆 ・ 脇坂 安治) 壱岐船奉行(一柳 正盛 ・ 加藤 嘉明 ・ 藤堂 高虎) 名護屋船奉行(石田 三成 ・ 大谷 吉継 ・ 外二名)船頭屋号木屋山内利右衛門 木屋山内利右衛門は前記の通り、名護屋城築城の際、御陣木材運積船頭、朝鮮出兵の名護屋船船頭と活躍し、唐津大石町に住す。(七代山内均斉 嘉永元年申四月記す) 唐津大石町は水主町、船宮町、材木町等が隣接し、船木材に関係がある人の住居である。 大石町の屋敷の外に海運商兼木材商を営む店舗を唐津魚屋町に設置した。この地は大阪・関門・博多より名護屋に至る海路の要衝であった。 一五九七年(慶長二年)、京都で捕えられ、長崎西坂で磔刑された二十六聖人は山内利右衛門の店舗(魚屋町)に一泊した。 (寺沢志摩守広高は一六〇二年(慶長七年)唐津藩主十二万三千石となり唐津城築城を開始、一六〇八年(慶長十二年)完成なり) 一六一七(元和二年万歴四十五年)朝鮮征伐の虜を利右衛門が送還し、朝鮮国王より礼状を拝受す 一六二一年(元和七年)大石町で利右衛門ノ子(山内均忠)が生る 一六二四年〜一六四三年(寛永年間)名護屋城解体家屋石垣の石材、瓦で魚屋町の屋敷の増築をなす 一六五四年九月(承応三年)山内均忠ハ利右衛門と号し、小兵衛とも云う)は大石町を引きあげ増築落成した魚屋町の店鋪に移住す。屋敷は表口五間、北入口は十一間である。 一六四七年(正保四年)唐津三代藩主、寺沢志摩守堅高は島原の乱の責任を問われ(一六三八(寛永五年)年天草四万石の削封処罰) 江戸藩邸で自殺、家断絶す 一六六九年(寛文九年)海外渡航の禁、耶蘇教の禁によって海運業あまり振わぬをもって酒造業をはじむ。酒銘は『蔵六』 一七一一年(正徳元年)十月二十七日内家均忠九十一歳で死去。 木屋山内利右衛門は、前記の通り、名護屋城築城御陣木材運積船頭、朝鮮出兵の名護屋船頭として活躍し、木材商を兼ね、唐津大石町に住す(海運業兼木材商である)。 註 @肥前名古屋であったが明治になり尾張名古屋と混同するので古を護にあらためた。 西ノ木屋は、天正の頃より唐津市魚屋町に居住し、火災にも会わず今日に至っているが、借しくも大正末年、故あり て美術品を処分されたことあり、そのとき古文書類も幾分散失したものであるが、まだある程度土蔵の中に未整理のままあるそうで来年の五月頃から当主は整理される考えである.その後、その古文書中から二十六聖人護送の航海日記等があるのか疑問で、今日それの明らかなることを待っている。 昭三六、一二、二四(著者後記) |
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顕彰碑には「木屋利右衛門」の著者である古舘曹人(古舘六郎)氏の句を添えていただきました。 露霜や勢子が声出す魚屋町(うおんまち) おくんちの酢橘のいたく沁みにけり |
慶長2年(1597) | 慶長の役 (利右衛門47歳) |
元和3年(1617) | 朝鮮出兵の際の捕虜を送還し朝鮮国王より礼状を拝受する。現在名護屋城博物館に展示してある県立博物館所蔵の朝鮮國禮曹為通論事は昭和46年まで西ノ木屋が所有していたのである。(利右衛門67歳) |
朝鮮國禮曹為通論事 |
元和7年(1621) | 初代均忠が生まれる。(利右衛門70歳) |
寛永年間(1624〜43) | 名護屋城解体家屋石材、瓦で魚屋町の屋敷の増築をなす。 |
慶安元年(1648) | 木屋利右衛門九十八歳で他界。二代均義生まれる。 |
承応3年(1654) | 初代均忠は大石町を引きあげ増築落成した魚屋町の店舗に移り住む。 |
万治2年(1659) | 均忠の母教岳妙喜信女没す。(年齢不詳) |
寛文9年(1669) | 鎖国・キリシタン禁教令により海運業があまり振るわなくなり、酒造株札買い調え酒造家となる。 |
元禄11年(1698) | 二代目均義50歳にて家督相続(初代均忠78歳) |
宝永4年(1707) | 初代均忠配卒 |
正徳元年(1711) | 初代均忠91歳にて死去。 |
来迎寺六地蔵尊の向かって右が均忠の墓石である。以後次々と分家をなし、東ノ木屋・中ノ木屋・裏ノ木屋・角ノ木屋と称した。現在東ノ木屋の当主山内俊美翁(1900生まれの102歳)は西ノ木屋五代均定の嫡男儀三郎改め東ノ木屋初代山内久助から数えて五代目となる。 |
六地蔵尊の向かって左は八代目均安の墓石である。西ノ木屋を語るときに八代目均安蔵六(私たちはちょんまげじいさんと呼んでいる)を忘れてはならない。蔵六さんは屋敷に供日の間という座敷をつくり、明治16年その襖に皆さんご存じの「唐津神祭図」を絵師富野淇園に描かせたのである。当時600両持たせて京都に絵の具を買いにやらせたと父から聞いた。父の祖母は蔵六さんの長女だから、父が祖母から聞いた話は嘘ではないはず。魚屋町鯛山の下に三人、裃を着た人物が描かれているが、小笠原長行公拝領の三階菱の裃を着て背を向けて右を向いているのが蔵六さんで、その隣は蔵六さんの親友でお隣の平田屋、草場三右衛門(草場猪之吉氏の令父)、と父は話してくれた。もう一人は大石町の小島新太郎さんで、当時の大町年寄の3人である。更に綱の先に木屋のお抱え力士に背負われている九代目幸之助均幸の幼少の姿を描かせている。私の父は子供の頃、幸之助さんが使っていた子供の化粧まわしを蔵から出してきて遊んでいたと言っていた。また刀町赤獅子の脇には蔵六さんの奥さんの実家、びんつけ屋さん。また、二の門のお屋敷から恨めしげに供日をご覧になっているお姫様まで描かせている。これはまさに唐津神祭秋季大祭であるお供日の山は町人の誇りであるところを表しているのである。 十代均敬(私の祖父)が大正10年頃京町の山本表具店で襖絵から掛け軸に仕立て直してもらったそうである。十一代左衛門伯父が唐津神社に奉納し、最近まで曳山展示場のライトに照らされていた。文化財を守るため現在はそのレプリカが展示され、実物は大切に保管され、蔵六さんも納まるところに納まって喜んでいると思う。しかし、そのレプリカは生彩さに欠け残念でならない。複製を造るにしても市の苦しい財政ではなかなか話は持って行き辛いが、唐津供日を記録する唯一の文化遺産を守るためにいつの日にか本当の複製品ができあがることを期待して止まない。 |
蔵六さんの墓石の碑文は次のように刻まれている。 |
敬徳院姓山内諱均安称小兵衛蔵六其退隠之名也 父自古舘氏出母祖父均言之嫡也以天保七年十一月生 称儀三郎後改名小兵衛擢大年寄贈月俸最爲奮知事 長行公所愛幸數蒙其恩賜 明治十一年告老專以恤貧救窮爲務傍嗜俳諧號葵笠 又學茶道於赤塚氏極遠州流之薀奥號宗耳嘗建設観音堂 於菩提寺中併祀祖靈越二十四年卒卯旧七月十六日 卒年五十六葬観音堂前 |
西ノ木屋には昔から名刀が揃っていたが、ある日小笠原長行公が戦に行かれる前にお忍びでおいでになって刀を見に来られたそうだ。蔵六さんが銘のあるものとないものとをお出ししたところ、無名の名刀を持って行かれたそうである。銘のある刀の方は実は偽物で、あまりにも見事な刀だったので後で銘を彫らせた物だった。さすがお殿様、お目が高いという逸話を父から聞かされた。 唐津は小笠原公以来宗偏流が現在まで盛んに行われてきたが、西ノ木屋は蔵六さんまで代々遠州流を嗜んでいた。お茶道具も遠州好みのものが集められていたに違いない。唐津焼を大阪・堺に運んでいた利右衛門の時代から長年に渡り莫大な数の逸品が揃っていたそうである。また、昔の番頭さんの話を幼いときに聞いたが、いつ戦があっても良いくらい蔵には武具甲冑があったそうだ。祖父はそれらをまとめて博物館を建てたかったのだと父から聞いたことがある。唐津焼の中の数点は二の門の古舘九一さんに渡り、またこれも秀吉時代からの名家草場見節家からも莫大な唐津焼が九一さんに流れていった。九一さんは郷土の文化遺産を守り育てる為、私財をなげうって自宅のテニスコートに古唐津の博物館を建てる夢がお有りだったということをその娘一力安子さんから聞いた。洋々閣さんのホームページをご覧頂きたい。 西ノ木屋は明和6年(1770)に始めた醤油屋として今でも営業を続けている。
最後に西ノ木屋の酒『蔵六』に書かれた詩を次に記す。 |
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首出さず手足も出さず尾も出さず身をおさめたる亀は萬歳 |
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これぞまさに秀吉方の者が徳川の時代を生き抜く処世術。お陰様で400年唐津の地にお世話になっています。 近世唐津の基盤を創った堺衆の一人として西ノ木屋の始祖、木屋利右衛門を郷土先覚者顕彰会に推薦したものの、二度に渡りおとり上げいただけず、家訓に忠実であれば推薦すべきではないのかも知れないと私の心の中で迷いが生じておりました。 平成15年9月、郷土先覚者顕彰会様から再び申請してはというお誘いを頂戴し、迷っていることを告げ、辞退しようかとも考えましたが、唐津の歴史に忘れてはならない秀吉の影響など、後生に是非とも残しておかねばならないという信念の元、再度申請書を提出し、平成15年10月16日付で顕彰会より受諾の文書を頂きました。
これを機に、名護屋城築城に際し唐津に移り住んだ堺衆達がこの唐津の町を創り育ててきたことを忘れないで欲しいと願う次第です。 |
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附記 草場宗益家系図譜(草場詠歸著)より 配。政子(第八代 医業六代 二世見節の) 山内定兵衞の長女にして、安政元年十二月朔日生まれ。明治二年四月廿六日草場家へ入籍す。 資性寛重にして、愼密健爽なり。而かも稟性技芸に堪能創製せる服及敷物尠からず。能く家政に励み、多数の男子を産みて撫愛訓育し、我が家の繁栄に伴う内助の功又極めて大なるものあり。 見節の逝去により晩年遂に頽令を加え、未だ子供等の成人発展を見ずして僅に五十五歳にして明治四十一年一月廿六日逝去せられたるは、実に悼痛悲哀に堪えざるなり。謚して仁敬院徳室妙壽大姉。長得寺に葬る。 政子の里たる山内家 西の木屋山内本家は、旧家にして、山内小兵衞氏の先代より旧藩主小笠原公に対する金融機関たりしが如く、累代富豪として其の名高く、代々山内小兵衞を襲名せり。而も先代小兵衞(蔵六)は資性端荘。奉公忠勤。仁義に厚く、名望家として知られてあった。 魚屋町否唐津にあっては、西の木屋と平田屋とは、権威ある家格として並び称せられ、汎く敬意が払われていたものである。又東の木屋は其の分家にして代々久助を襲名し、西の木屋に次ぎ家格を保有し又、古屋古舘家は、西の木屋蔵六小兵衞氏の令弟庄助氏養子となり正右衛門を襲名継承せられ、共々酒造家として繁栄せり。 正右衛門(庄助)氏の長男先代正右衛門氏(常次郎)は、実に同家中興の名主にして、資性遜譲にして徳望高く、而も賢明業務に篤く、醸造にかかる銘酒は「太閤」の名により声価を博し、一流の資産家として発展。現主正右衛門(正之輔)は、時代的新進の偉材にして、独り親戚中の牛耳たるのみならず、斯界の重鎮として、市商業会議所会長を始め、各方面に参興し活動中である。 西の木屋先々代小兵衞(蔵六)氏に、女二人男一人あり。長女は東の木屋久助氏に嫁し、(故勘蔵氏の尊母)、次女常子は中の木屋を再興。長男幸之助氏は不幸中年にして逝去せられたるを以て、東の木屋より勘蔵氏を迎え、継承せられたものである。 先代小兵衞氏(勘蔵)は、長崎藤瀬家より政子令室を迎えられ、四男二女を挙げらる。左衞門、右衞門、兵衞及び衞門(悼むべし早世)氏、みき子、ふき子是なり。 現主小兵衞(左衞門)は少壮にして家業を継承経営せられ、憬望を以て活動中である。悦子令閨を迎え即子、誉子、礼子を挙げらる。 見節先考の配、政子の父山内定兵衞氏は、西の木屋本家先代の折、大石町小牧家より小兵衞氏(蔵六氏)の姉ひろ子の養子として山内家に入籍し、新たに掛持を分家として相続せるに因る。 然るにひろ子、嘉永四年八月二十六日、不幸逝去により、後配として東の木屋山内久助氏の次女、きち子を迎え、二女一男を出産す。長女政子二女岩子。及び長男豊五郎是なり。定兵衞氏万延元年九月十三日逝去されたるを以て、不遇無拠、子供三人を伴い、東の木屋里方に復籍するに至れり。 京町草場清次右衞門氏の長女に、養子として惣右衞門氏入籍ありたるが、不幸配女の逝去を見たるを以て、新たに東の木屋久助氏次女、きち子、惣右衞門氏に再縁するに至れり。されば長女政子及び長男豊五郎は西の木屋に、次女岩子は東の木屋にて、養育さるることになれり。 惣右衞門氏に再嫁せるきち子は、二男一女を挙げたるが、慶応三年十一月廿三日長子僅かに六歳の時、逝去あり。是れ長男辰太郎氏次男久次郎氏一女せい子は呉服町辻千代太朗氏に嫁せるなり。 西の木屋にて養育成長の政子は、先考見節に嫁し、東の木屋にて成長せる岩子は平松定兵衞氏に嫁するに至れり。 如此、山内定兵衞一家は豊五郎の逝去により、絶家せるが故に、之を再興せしむべく、見節三男末喜を末吉と改名、山内家に入籍せしめたものであるも、不幸、業務半ばにして逝去し、未だ再興を見る能わざるは実に遺憾となす処である。 |