唐津神祭行列図襖絵 |
明治16年唐津魚屋町西ノ木屋8代目山内小兵衛均安蔵六が本町の絵師富野淇園に描かせ完成した7枚の襖絵です。それぞれ絵の端に取っ手の後が見えます。 制作当時は「くんちの間」という座敷の襖でした。年に一度町内(魚屋町)の連中を呼んでその座敷で酒盛りをして楽しんでいたと父が申しておりました。(私の父の祖母、山内カネは蔵六さんの長女です。分家の東の木屋に嫁ぎました。ですから父は子供の頃カネさんから蔵六さんの話をよく聞かされていたそうです。) 私の祖父(カネの長男、西ノ木屋10代目山内小兵衛均敬勘蔵)の時代、大正に入り、6年がかりの母家の改築に伴いこの襖絵は京町の山本表具店で軸に仕立て直され、昭和26年伯父(11代目山内小兵衛左衛門)が唐津神社に奉納しました。 8代目蔵六さんを私たち木屋関係のものは「チョンマゲじいさん」と呼び親しんでいます。当時600両を持たせて京都に絵の具を買いに行かせたそうです。魚屋町の鯛山の下には殿様からの拝領物の三階菱の紋の裃を着て脇差しをさした自分の姿を描かせ、隣には共に大町年寄を務めた同じく魚屋町平田屋(草場三右衛門)さんと大石町の綿屋(小島新兵衛)さんも描かせ、鯛山の綱の前には赤い化粧まわしのお抱え力士にかつがれた息子(9代目山内小兵衛均幸・幸之助)を、更に鯛ヤマの上、松の木の奥には二の門のお屋敷からお姫様がうらやましそうに神祭行列を眺めているところまで描かせています。これはまさに唐津神祭秋季大祭であるお供日の曳山は町人の誇りであるところを表しています。 9代目幸之助さんは明治4年生まれで、明治25年21歳で亡くなりました。そこで東の木屋から私の祖父が10代目として本家西ノ木屋に養子に入りました。父は10代目の母、東の木屋のカネ(8代目の長女)さんからこの絵物語を直接聞かされたそうです。この絵は江戸末期の様子を蔵六さんが描かせたにもかかわらず明治9年にできあがった江川町と水主町のヤマも描かれています。描かれた人々は皆まげを結っていて江戸時代の様子です。 この襖絵はあくまでも西ノ木屋8代目が個人的に描かせた時代絵巻なのです。 |
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唐津神祭行列図襖絵 「首出さず 手足も出さず 尾も出さず 身をおさめたる 亀は万歳」 これが西ノ木屋八代目山内小兵衛均安蔵六のテーマです。 |
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唐津神祭行列図 襖絵の絵物語 |
この絵は明治16年に完成しております。 風俗は江戸末期、この絵を描かせた八代目蔵六の気持ちになってご覧下さい。 |
この唐津神祭行列図襖絵は昭和45年10月曳山展示場ができるまでは、唐津神社の彰敬館で年に一回の虫干しの時に目にすることができました。子供ながらにその日を楽しみにしておりました。父に連れられて唐津神社の彰敬館に行くと、鮮やかな神祭図に時のたつのも忘れて見入っていました。父は蔵六さんの長女である父の祖母カネさんから聞いたこの襖絵の絵物語を毎年同じ口調で絵を指さしながら話してくれました。 曳山展示場ができた時から常に見ることができるようになりました。約20年間、この襖絵は会館の目玉として陳列してありました。しかし、いくら良い絵の具を使ってあっても永いこと照明に照らされて鮮やかな赤や青の色が褪め始めました。 昭和62年、私が漢方の修行を終え唐津に帰って来て父から与えられた最初の仕事は、これを何とかすることでした。当時唐津神社の宮司さん故・戸川健太郎さん、野副豊市長さん、曳山総取締故・瀬戸利一さん、観光協会会長故・脇山英治さんの四人にお願いしましたら、すぐに陶板製のレプリカを作っていただきました。本当にありがたいことです。それ以来できあがったレプリカが展示場を飾っています。これで本物がこれ以上色あせることはなくなり、ひとまず私の最初の仕事は終わりました。 |
![]() 鯛山の下に8代目家族が描かれています。 左から力士に肩車された9代目山内幸之助さん。 裃の3人の手前が8代目ご本人。 右の女性は上から8代目配アイ(刀町篠崎より嫁す)、長女カネ(後に東の木屋山内久助に嫁す)、次女ツネ(後に山内吾兵衛に嫁し中の木屋を起こす)です。 2017.8.23加筆 |
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西ノ木屋のお抱え力士の肩にからわれているのは西ノ木屋9代目の山内幸之助さんです。 明治4年に生まれ、明治11年父小兵衛(8代目)が中風に罹り、同年家督を譲り受け、明治22年に小兵衛と改名します。しかし明治25年に亡くなりました。 その後の西の木屋は 8代目の孫である東の木屋の勘蔵が養子に入り9代目(私の祖父)となります。 西ノ木屋には蔵六さんの時代には力士や絵かきや易者などの食客が沢山いたと父から聞きました。 |
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父は子供の頃、襖絵に描かれている幸之助さんが着けている子供の化粧まわしを蔵から出して遊んでいたと言っておりました。 八代目は明治二十四年に亡くなり、幸之助さんは家督相続して僅か一年でこの世を去っております。享年二十一歳。 その後は八代目蔵六さんの長女カネさん(東の木屋山内久助配)の長男が西ノ木屋十代目となりました。襖絵の1枚目、御旅所には土俵ができ、宮相撲が行われていた様子も描かれています。蔵六さんは無類の相撲好きだったそうです。勧進元として山内大兵衛と名乗ったようです。小兵衛では大相撲は都合が悪かったのでしょう。 |
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8代目蔵六さんは家族も忘れずに描かせています。 上から妻のアイ(刀町篠崎より嫁す) 次は長女のカネ(後に東の木屋山内久助の配となる。安政5年3月3日生まれ) 下は次女のツネ(後に中ノ木屋として別家。元治元年4月19日生まれ)
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晩年のカネ。私の父、兵衛が撮影したと言ってました。父の祖母にあたります。実に優しい方だったとのことです。 弟の幸之助が西の木屋9代目になりますが21歳で他界。カネの息子である東の木屋の後継ぎ山内勘蔵が西の木屋の10代目山内小兵衛となります。私の祖父です。
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![]() カネさんの古稀の祝い。3月3日生まれですからね。中央の老婆がカネ。前列左から10代目の妻(私の祖母)3人目が私の父兵衛。その上のひげの紳士が10代目小兵衛です。(昭和3年3月3日十人町別荘にて) |
御殿のお姫様物語 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お姫様は誰だ? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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まだまだ つづく |
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年 表 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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直会幕について 管理人による推理です 2005.2.19 |
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各町の直会幕ですが、それぞれの幕の町名がお分かりでしょうか。 幕は総数16〜17張り。現在の14ヶ町に加えて紺屋町(コウヤマチ・今時はコンヤマチと呼んでいます)とか八百屋町・塩屋町等も直会幕を張っていたのでしょうか。 一説では水主町・江川町の順番決め騒動の際の、七町八町組に明神台を挟んで東西分かれているとのことですが、17張りありますから、それも問題です。 飯田一郎先生著「神と佛の民俗学」に因りますと次の如くです。 |
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水主町組(七町組)側 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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幕の上にカーソルを乗せてクリックしてみて下さい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
七町組 水主町・大石町・材木町・魚屋町・木綿町・本町・京町(赤は判明分) |
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七町組のうち水主町・材木町が残りました。 富士山が水主町?であると考えると、曳山持ちの町は材木町となります。 町内安全と三舛と幕櫃をどう当てはめましょうか。 三舛を材木町とすれば、八町組の亀に宝珠の説明が付きません。 水主町が不明。富士山でしょうか。 八百屋町も幕を張っていたかも知れませんが、幕の長持を担いできているのがひょっとしたら八百屋町という可能性もあります。ヤマの順番を決めた時には塩屋町(三舛?)と八百屋町は七町組派だったのかも知れません。 |
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江川町組(八町組)側 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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八町組 江川町・新町・刀町・平野町・紺屋町・呉服町・中町・米屋町 |
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こちらは結構難しいですね。
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![]() 大手通商店街のあるイベントで曳山の昔の写真展があり、その中に貴重な写真を発見しました。 これは昭和38年に呉服町・魚屋町・京町・江川町の4台の曳山が宝塚に出動した時の準備段階から現地での様子など数多くの写真の中の一枚でした。 これは紛れもなく江川町の直会幕。幕の両端を持つのは戸川健太郎・省吾両氏の宮司兄弟。神社前の広場で道具箱を開けて備品を確認しておられる様子です。 |
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とある庄屋の古文書に次のような記述があります。 |
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松浦史談会の機関誌「末盧国」昭和55年6月・9月 坂本智生先生の寄稿より抜粋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
唐津大明神祭礼例年九月二十九日興行いたし、一ノ宮二ノ宮神輿西之浜御旅所え御幸有之、市中之内十二町より山鉾指出申候。社僧は自分駕寵、神主共は貸馬申付候、併寺社兼帯相勤候故、郡奉行両人神輿後乗いたし、当日熊之原権現祭礼ニ而同所に於て流鏑馬執行候ニ付、郡奉行壱人は流鏑馬え相越壱人は西之浜迄跡乗いたし候、郡奉行組小頭両人組同心四人神輿警固申付小頭両人組同心四人ヤブサメ警固指出申候。 唐津大明神遷(セン)宮等之節、同社前広場え市中より作物或は売物小屋等願候得は勝手第為致来候。 唐津大明神祭礼九月二十七日より二十九日迄、城門出入無札ニ而参詣人通路為致来候。同境内之祇園六月十五日是又城門無札ニ而参詣人通路為致来候、尤郡奉行組同心両人見廻指出申候″ |
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歓松院のこと 仏教が伝来したのち、奈良時代の前後から神仏習合の傾向があらわれ有力な神社に神宮寺がつくられて、ここに住する僧侶が神祇のために仏事とを修する風が起こり、別当が置かれ社僧して一社を統括するようになった。唐津大明神に於ても高松寺がおかれ歓松院別当として奉仕し、その開祖は快頓と言い天禄年中(九七〇)と言われる。神主には戸川、安藤、内山の三社家があり、共に祭祀をつかさどった。明治元年、一千有余年に亘って行なわれて来た神仏混淆を禁止し二者を分離せしめた行政方策が行なわれた。 明治政府は王政復古、諸事一新、祭政一致の制度に復し、神祇官を復興するという方途を決定し、従って古来の神仏習合の風潮を一洗しようとして明治元年三月十七日諸国神社の別当、社僧復飾の令、同月二十八日神仏の区別に関する布告その他の神仏判然の令を発した。これにより高松寺歓松院は廃寺となった。 (戸川) 松浦史談会の機関誌「末盧国」昭和55年6月・9月 坂本智生先生の寄稿より抜粋 |
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文書に依れば、神輿の警固に郡奉行が2名、組小頭2名、組同心4名が神輿の警固に当たっております。 また、熊ノ原神社の流鏑馬警固に小頭2名、組同心4名が出動しておりますが、神輿警護の郡奉行も一人は流鏑馬警固に向かっております。全てを合わせると郡奉行2名+組小頭4名+組同心8名の合計14名。 果たしてこの襖絵に14名の神輿警護外が描かれているでしょうか? 下の絵を御覧下さい。裃を着け、それらしき人物が一ノ宮の横に3名、後に3名。二ノ宮の横には5名、後には6名、更に後に4名。合計21名描かれています。 一ノ宮後の4.5.6のうち、後方の二人は警固の役人ではないとして、二ノ宮の後方の18.19.21のうち二人が役人以外で数が合います。 二ノ宮後方20だけは赤い衣装に裃姿ですので、何か特別の人なのかも知れません。 |
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御旅所明神台 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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明神台に関して詳細はこの絵をクリックしてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この襖絵を描いた絵師富野淇園の記念碑です 十人町の法蓮寺にあります。 |
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この記念碑は明治41年7月に当時の有志(門人仲)によって建立されました。 「淇園先生碑」と彫られています。 記念碑土台の正面には筆頭に山内小兵衛(これは西ノ木屋10代目)の名が刻まれ、古舘正右衛門がそれに続きます。この正右衛門は「曳山のはなし」の著者である古舘正右衛門の父親です。 また、左側には全て女性の名前、筆頭は山内ハナ、次ぎに山内ツネ。 右側には最後に吉冨清兵衛(私の曾祖父)の名がありました。 京町の曳山 珠取獅子の珠の内側に製作当時の町のメンバーが書かれてある中、細工人筆頭に富野淇園の名前がございます。 京町は塗り替えた時や年祭の年には、富野淇園の眠る法蓮寺まで曳いて行き、墓前にて合掌し、淇園碑に報告いたします。 平成17年3月20日、4月20日の相次ぐ地震により自然石の記念碑がずれてしまいました。 縁あって修復の依頼が京町にあり、石屋さんにお願いして応急的に崩れない程度の修復をする運びとなりました。 全体的に内側に歪み、囲いも御覧の通り傾いています。 京町は次回の総塗り替えの記念事業としてこの記念碑の土台からの完全修復を計画しております。塗り替え叶って法蓮寺に曳山を持ってくる時には、建立当時のように佇む記念碑にいたします。 |
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平成20年10月5日 京町珠取獅子総塗替落成記念式典がアルピノホールにて執り行われ、その後雨の中を富野淇園が眠る法蓮寺まで曳いて行き、塗替の報告を致しました。 また、この塗替の記念事業としまして、富野淇園の顕彰碑修復工事も完成し、その法要も営まれました。 |
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![]() 土台を固めて石組みも立派になりました。 |
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昭和40年代、平野書店さんが行列図のミニレプリカの印刷物を売り出されました。 巻物仕立てのものもありました。 そこに添えてある解説文を披露させていただきます。 |
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「唐津神祭行列図」解説 (唐津神社所蔵) この絵は、唐津市内本町の画家富野淇園が、同市内魚屋町の酒造家西ノ木屋山内家の依頼で、明治十六年、描いたものである。その後長らく、山内家の家宝として伝えられたが、昭和三十年十月、唐津神社千二百年祭記念として同社に奉納された。 画題は幕末当時の「唐津神祭」の風景で、西浜御旅所へ十五台の豪華絢爛たる曳山が御神輿のお伴をして、急調子な囃子の音律と、勇壮活発な曳手の動作によって曳かれて行く最高潮に達した場面を再現したものである。作者の麗筆は、藩政時代の「唐津ぐんち」の模様を活き活きと描き出しており、当時の民俗を知る上からも貴重な資料たるを失わない。 作者富野淇園は丹倫齋と号し本町に居住していたが、その家は旧藩時代江戸公儀からの使者の宿であったので、お使者屋の先生で通っていた。淇園はその自宅に塾を開いて市内の子女に学問を教え、かたわら絵を描いていた。 この作品は明治十六年、淇園が五十四才の時のもので、彼はその後、佐賀帥範学校の教師として子女の教育に当ったが、四年後の明治二十年、五十八才で歿した。 なお、この絵は唐津市曳山展示館に公開されている。この画面には当時のあらゆる階層の人々が実にたくさん描かれているが、今般の調査で、正確なところその数は一六二八人であることが判明した。 (大日本絵画巧芸美術KK謹製) 東京都千代田区神田錦町一ノ七 |
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唐津新聞 昭和56年1月22日 曳山図絵の退色を憂う 投 書 曳山会館に来客を連れて見物に行くたびに思うことであるが、あそこに陳列されている曳山図絵がなんとなく色の冴えが初めのころに比較して衰えているように思うが私だけの感じであろうか。 それにつけて思われることは多くの重要文化財は実物大の複製を展示しておいて実物は最も適した保存方法で別に保管しておき年に一回虫ぼしのために十日ぐらい外に出して展示するというようにしているようだ。 曳山図絵は、今や一神社の宝物ではなく唐津市の歴史を伝える重要な文化財としての価値を自他ともに認められている。 ただ漫然と紫外線の強い螢光燈のもとに四六時中さらし出し、然も温度湿度共に決して保存に適しているとは言いがたい場所にさらしものにして紙の質を悪化させ絵の具の質を変化させ退色させて美術品としての価値を低下させるにとどまらず歴史的な価値を消失させることになりはしないかと憂うる者である。 実物大の複製を作ることは唐津市の財政から考えて不可能なことではないと思われるので市当局及び識者の御検討をお願いしたい。 (唐津一市民) 保存策を検討します 縮尺の写真か絵にして展示 一、投書の「唐津神祭行列図」は昭和四十七年「唐津市重要民俗資料」として指定し現在曳山展示場に常時展示公開しております。 一、行列図の作成は明治十六年、唐津本町の絵師「富野淇園」で構図は神祭当日の十五台の曳山を中心に侍、町人、物売りなど千六百人余りが描かれており、もとは襖絵として描かれたもので、当時の風俗などを知る上で貪重なものであり美術品としても価値は高いものです。 一、この行列図は.魚屋町西ノ木屋、山内小兵衛氏の所蔵でしたが、昭和三十年唐津神社千二百年祭記念に神社に奉納されたもので曳山展示場完成と共に展示公開しているものです。 教育委具会としての対応 一、唐津神祭行列図は、文化財として貴重なものですので、その保存には慎重を期したいと思います。 一、現在の曳山展示場は空調その他、保存、保管の条件としては最適の施設であります。 一、しかしこのまま年中永年にわたり公開展示することは退色、変質のおそれがありますので何らかの手を打ちたいと思います。そこで、縮尺の写実か絵にするなどの方法を十九日神社側とよく話し合いましたので神社の意志を尊重して対処したいと思います。 唐津神社戸川宮司の話 あの行列図は山内家から奉納されたもので保存については慎重の上にも慎重を期していただきたいものです。現在のところ神社の環境よりはよいところに展示し管理していただいているので安心しています。同時にあの行列図が唐津くんちの歴史的意義や曳山を理解する上で重要な役割りを果たし、参観者に深い感銘を与え高い評価を受けていますことは神社はもちろん奉納いただいた山内家に対してもその意にそうものとして喜びにたえません。唐津くんちの曳山行事が昨年二月国の重要無形民俗文化財に指定されたことでもあるし、今しばらく実物を皆さまに鑑賞していただきたいと思います。 あの絵については常に注意して見ています。退色変質などは今のところ見受けられませんが教育委員会において写真その他の方法でそれにかわるものができればそれでもよいと思います。市民の方にいろいろ関心をもっていただいたことは神社としてもありがたいことで感謝にたえません。そうした意味で今後の対応については教育委見会にお任せしたいと思います。 |
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