唐津神祭行列図襖絵

明治16年唐津魚屋町西ノ木屋8代目
山内小兵衛均安蔵六が本町の絵師富野淇園に描かせ完成した7枚の襖絵です。それぞれ絵の端に取っ手の後が見えます。
 制作当時は「
くんちの間」という座敷の襖でした。年に一度町内(魚屋町)の連中を呼んでその座敷で酒盛りをして楽しんでいたと父が申しておりました。(私の父の祖母、山内カネは蔵六さんの長女です。分家の東の木屋に嫁ぎました。ですから父は子供の頃カネさんから蔵六さんの話をよく聞かされていたそうです。) 私の祖父(カネの長男、西ノ木屋10代目山内小兵衛均敬勘蔵)の時代、大正に入り、6年がかりの母家の改築に伴いこの襖絵は京町の山本表具店で軸に仕立て直され、昭和26年伯父(11代目山内小兵衛左衛門)が唐津神社に奉納しました。

 8代目蔵六さんを私たち木屋関係のものは「
チョンマゲじいさん」と呼び親しんでいます。当時600両を持たせて京都に絵の具を買いに行かせたそうです。魚屋町の鯛山の下には殿様からの拝領物の三階菱の紋の裃を着て脇差しをさした自分の姿を描かせ、隣には共に大町年寄を務めた同じく魚屋町平田屋(草場三右衛門)さんと大石町の綿屋(小島新兵衛)さんも描かせ、鯛山の綱の前には赤い化粧まわしのお抱え力士にかつがれた息子(9代目山内小兵衛均幸・幸之助)を、更に鯛ヤマの上、松の木の奥には二の門のお屋敷からお姫様がうらやましそうに神祭行列を眺めているところまで描かせています。これはまさに唐津神祭秋季大祭であるお供日の曳山は町人の誇りであるところを表しています。
 9代目幸之助さんは明治4年生まれで、明治25年21歳で亡くなりました。そこで東の木屋から私の祖父が10代目として本家西ノ木屋に養子に入りました。父は10代目の母、東の木屋のカネ(8代目の長女)さんからこの絵物語を直接聞かされたそうです。この絵は江戸末期の様子を蔵六さんが描かせたにもかかわらず明治9年にできあがった江川町と水主町のヤマも描かれています。描かれた人々は皆まげを結っていて江戸時代の様子です。
この襖絵はあくまでも西ノ木屋8代目が個人的に描かせた時代絵巻なのです
唐津神祭行列図襖絵 
    首出さず 手足も出さず 尾も出さず 身をおさめたる 亀は万歳
これが西ノ木屋八代目山内小兵衛均安蔵六のテーマです。
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唐津神祭行列図
襖絵の絵物語
この絵は明治16年に完成しております。
風俗は江戸末期、この絵を描かせた八代目蔵六の気持ちになってご覧下さい。

この
唐津神祭行列図襖絵は昭和45年10月曳山展示場ができるまでは、唐津神社の彰敬館で年に一回の虫干しの時に目にすることができました。子供ながらにその日を楽しみにしておりました。父に連れられて唐津神社の彰敬館に行くと、鮮やかな神祭図に時のたつのも忘れて見入っていました。父は蔵六さんの長女である父の祖母カネさんから聞いたこの襖絵の絵物語を毎年同じ口調で絵を指さしながら話してくれました。

曳山展示場ができた時から常に見ることができるようになりました。約20年間、この襖絵は会館の目玉として陳列してありました。しかし、いくら良い絵の具を使ってあっても永いこと照明に照らされて鮮やかな赤や青の色が褪め始めました。

昭和62年、私が漢方の修行を終え唐津に帰って来て父から与えられた最初の仕事は、これを何とかすることでした。当時唐津神社の宮司さん故・戸川健太郎さん、野副豊市長さん、曳山総取締故・瀬戸利一さん、観光協会会長故・脇山英治さんの四人にお願いしましたら、すぐに陶板製のレプリカを作っていただきました。本当にありがたいことです。
それ以来できあがったレプリカが展示場を飾っています。これで本物がこれ以上色あせることはなくなり、ひとまず私の最初の仕事は終わりました。
 
 鯛山の下に8代目家族が描かれています。
左から力士に肩車された9代目山内幸之助さん。
裃の3人の手前が8代目ご本人。
右の女性は上から8代目配アイ(刀町篠崎より嫁す)、長女カネ(後に東の木屋山内久助に嫁す)、次女ツネ(後に山内吾兵衛に嫁し中の木屋を起こす)です。
2017.8.23加筆
手前からこの襖絵を描かせた西の木屋8代目蔵六さん・平田屋の草場三右衛門さん・小島さん(三人は当時の大年寄)。蔵六さんは小笠原長行公拝領の三階菱の裃を身につけています。
西ノ木屋のお抱え力士の肩にからわれているのは西ノ木屋9代目の山内幸之助さんです。
明治4年に生まれ、明治11年父小兵衛(8代目)が中風に罹り、同年家督を譲り受け、明治22年に小兵衛と改名します。しかし明治25年に亡くなりました。

その後の西の木屋は
8代目の孫である東の木屋の勘蔵が養子に入り9代目(私の祖父)となります。



西ノ木屋には蔵六さんの時代には力士や絵かきや易者などの食客が沢山いたと父から聞きました。
 
 
父は子供の頃、襖絵に描かれている幸之助さんが着けている子供の化粧まわしを蔵から出して遊んでいたと言っておりました。 八代目は明治二十四年に亡くなり、幸之助さんは家督相続して僅か一年でこの世を去っております。享年二十一歳。
 その後は八代目蔵六さんの長女カネさん(東の木屋山内久助配)の長男が西ノ木屋十代目となりました。襖絵の1枚目、御旅所には土俵ができ、宮相撲が行われていた様子も描かれています。蔵六さんは無類の相撲好きだったそうです。勧進元として山内大兵衛と名乗ったようです。小兵衛では大相撲は都合が悪かったのでしょう。
蔵六さんは無類の相撲好き、山内大兵衛として勧進元を務めました。小兵衛では調子が悪かったのでしょう。
  8代目蔵六さんは家族も忘れずに描かせています。
上から妻のアイ(刀町篠崎より嫁す)
次は長女のカネ(後に東の木屋山内久助の配となる。安政5年3月3日生まれ)
下は次女のツネ(後に中ノ木屋として別家。元治元年4月19日生まれ) 

 
 東の木屋へ嫁したカネさんの御殿雛です。
 
晩年のカネ。私の父、兵衛が撮影したと言ってました。父の祖母にあたります。実に優しい方だったとのことです。
弟の幸之助が西の木屋9代目になりますが21歳で他界。カネの息子である東の木屋の後継ぎ山内勘蔵が西の木屋の10代目山内小兵衛となります。私の祖父です。
 

 
カネさんの古稀の祝い。3月3日生まれですからね。中央の老婆がカネ。前列左から10代目の妻(私の祖母)3人目が私の父兵衛。その上のひげの紳士が10代目小兵衛です。(昭和3年3月3日十人町別荘にて)
   
二の門の御殿からお姫様がお供日の様子を羨ましく眺めているところです。
父曰く、「唐津神祭は町人の祭ばい。城内のもんは曳山ば曳かれんと」と。
譜代大名だった城主は氏神様を城内に持ってくることにより民衆の心を惹きつける政策をとりました。城内に移った唐津大明神にはこのお供日の時だけ町人達は大手を振って城内の大手門をくぐることができました。これが本来の
無礼講と思います。
  西の浜の御旅所風景です。各町それぞれ直会幕を張り、浜弁当を楽しみました。

各幕について私なりに推測しております。幕の画像をクリックしてください。 
   
御殿のお姫様物語
お姫様は誰だ?

唐津神祭図に描かれているこのお姫様はいったい誰だろうか?
こういう疑問が友人のおじゃがさんと話題となりました。

 申し上げたように、この絵は八代目が当時を偲びながら、時代考証は考えずに、色んな物語を織り込んで描かせたのだと思います。

 八代目蔵六さんが生きた時代のお姫様を『末盧国』などで紐解いていきますと、この絵が描かれた明治16年の一年前、明治15年に離縁された長行公の正室満寿子さまが浮かび上がりました。

 この襖絵は前にも申し上げたように、八代目が当時を偲びながら、時代考証は考えずに、色んな物語を織り込んで描かせた絵物語であります。
今、蔵六さんの気持ちになってこの絵を観ますと、次のようなことが想像できます。

 蔵六さんは資料@の碑文に窺えるように長行公と大変親しかったそうです。その親しかったお殿様をこの襖絵に描くのは余りにも恐れ多く、その正室である満寿子さまを描くことにより長行公を偲んでいたのではないかと想像します。

「二の門の御殿から恨めしそうに供日ば眺めよらす」「供日は年に一度の町人のまつりばい」
 曾祖母はその父である高祖父(8代目蔵六)からそのように聞かされていたのかも知れませんが、実は長行公をこの絵に登場させたかった・・・・・。


 満寿子さまは、長国公の長女、10歳の時に、26歳も年上で、父の長国公よりも年上の長行を養子に迎え、長行公の正室となる。安政4年に10歳と言うことは、弘化4年生まれ。(魚屋町の鯛ヤマは弘化2年完成。)幕末動乱期に長行公は大活躍され、殆ど単身赴任。離縁されるまでの25年間、寂しく心細い日々だったと思います。幕末を生きた波瀾万丈のお姫様だった様です。



幕閣時代の小笠原壱岐守長行

「去華就実」と郷土の先覚者たち
第8回 曽禰達蔵より
慶応3年・46歳の長行

恐れ多いことですが、長行公のお姿をUPさせて頂きました。

長行公に関する資料

まだまだ つづく

資料@
蔵六さんの墓石の碑文は次のように刻まれています。

敬徳院姓山内諱均安称小兵衛蔵六其退隠之名也
父自古舘氏出母祖父均言之嫡也以天保七年十一月生
称儀三郎後改名小兵衛擢大年寄贈月俸最爲奮知事
長行公所愛幸數蒙其恩賜

明治十一年告老專以恤貧救窮爲務傍嗜俳諧號葵笠
又學茶道於赤塚氏極遠州流之薀奥號宗耳嘗建設観音堂
於菩提寺中併祀祖靈越二十四年卒卯旧七月十六日
卒年五十六葬観音堂前


西ノ木屋には昔から名刀が揃っていたそうで、ある日小笠原長行公が戦に行かれる前にお忍びでおいでになって刀を見に来られたそうです。蔵六さんは名刀に銘のあるものとないものとを長行公にお出ししたところ、無名の名刀を持って行かれたそうです。銘のある刀の方は実は偽物で、あまりにも見事な刀だったので後で銘を彫らせた物だった。さすがお殿様、お目が高いという逸話を父から聞かされました。

 また、昔の番頭さんの話を幼いときに聞きましたが、いつ戦があっても良いくらい蔵には武具甲冑があったそうです。祖父はそれらをまとめて唐津に博物館を建てたかったのだと父から聞いたことがありました。



資料A

今度は信州松本藩の戸田家から長国が養子に来た。この人も病弱であったが、唐津藩最後の藩主として、藩籍奉還、廃藩置県をむかえ、明治四年の末、東京に転居した。長国には三人の娘がいた。
長女のお満寿は安政四年、十歳の時に長行を養子に迎えたが、当時長行は三十六歳の男ざかり。次女は二、三歳で死去、三女のお信は羽州山ノ上藩の松平家に嫁した。長国の正室は常州土浦藩の土屋家から来ていたが、長くせずに離縁になっている。
『末盧国』458頁 戸川顕翁遺筆より 
年 表
小笠原長行公 小笠原満寿子さま 山内小兵衛均安蔵六 唐津では
文政5年(1822)生まれ 文政2年 刀町曳山完成
文政7年 中町曳山完成
天保7年(1836)生まれ 天保12年 材木町曳山完成天保15年 呉服町曳山完成
弘化元年(1844)生まれ 弘化2年 魚屋町曳山完成
弘化3年 大石町・新町曳山完成
弘化4年 本町曳山完成
元治元年 木綿町曳山完成
安政4年(1857)(36歳)
満寿子と婚姻
安政4年(10歳)
文久2年(1862)8月21日
 生麦事件
9月 老中格となる
文久2年家督を継ぐ
 小兵衛と号す
慶應元年(1865)10月
 老中となる
慶應2年(1866)
 第二次長州征伐の指揮官に任命さる
明治2年 平野町・米屋町曳山完成
明治8年 京町曳山完成
明治9年 水主町・江川町曳山完成
明治11年
明治15年離縁
明治16年神祭図襖絵
明治21年中風に罹る
明治22年蔵六と改名す
明治24年(1891)1月24日歿
 享年69歳
明治24年(1891)7月16日歿
  享年56歳
大正12年(1923)歿
  享年80歳

資料B

小笠原満寿子
 遺詠に偲ぶ
   園田節子

 精緻な絵と調べ高い歌、達者な文字を残した小笠原満寿子は、唐津の最後の藩主・小笠原長国の長女として弘化年間、江戸に生れた。
 母はおうめといって美しい人であった。唐津藩は譜代の大名が交番支配し、早くから江戸文化が直輸入されていた。そのうえ長国は、信州松本藩主松平家から養子として小笠原家をつぎ、終生、養子意識もとれなかったようで、子女の教育も江戸藩邸に於て行われ、中央文化の吸収にやぶさかでなかった。
 満寿子の夫小笠原長行は、藩主小笠原長昌の嫡子であったが、長昌死去のため廃嫡され、青年時代を江戸に於てすごし、和漢の書を修めた知識人であった。後には老中として幕末の非常時に国事に奔走した英俊である。小笠原家のこのような環境が、聰明で個性も強い満寿子に作用したことは確かであろう。
 しかし、彼女の生涯は必ずしも平坦ではなかった。多感な少女時代を勤皇佐幕の動乱の中で過した。唐津藩の立場は譜代だけに苦しかった。長州征伐出兵の失敗はいよいよ藩の運命を暗くした。満寿子が長行と結婚したのは版籍奉還の数年前であった。この結婚には小笠原家内部の政治的事情も絡んでいたらしく、満寿子は父親よりも年長の長行と結婚させられた。
 而も結婚して間もない満寿子を置いて長行は、時勢の流れを見るべく、侍臣数名と奥州へ身をかくした。明治五年には江戸に帰ったが、満寿子には実子なく、長行とともに家庭生活をたのしむことさえ殆んどないまま、明治十五年には離縁されている。しかし、小笠原長生は(長行の嫡子)満寿子を母として、大正十二年逝去まで孝養を尽した。いま残されている自筆の歌帳の中からいくつかを拾って鑑賞したい。


 けふもまた夕日の空ののどけくて
   うすくれなゐに遊ぶ糸ゆふ

 夕月に光をそへてたま川の
   青葉まじりに咲ける卯の花

といった絵画的、感覚的なもの。


 みるたびに色香かはらぬさくら花
  いつをさかりとなかめくらさむ

 秋かぜにならばせられて冬されば
  かれても招く野辺のほすゝき


のように、古今集的「理」の含まれたものもあるが、
概して格調高く、情に溺れず、男性的な歌柄が伺われる。


 かぜすさむ磯につばさも乱れつゝ
   声さたまらぬ浜千鳥かな

 秋風の青も身にしむゆふくれを
   群れて野さはに落つる雁かね


 つたえ聞くところ、満寿子は相当に気性烈しくその靭さ激しさが、このような文ある歌を成さしめたのであろう。多芸多能、宴の席などでは、三味線をかきならし、陽気そのものであったという。
 信仰の面も熱心で、いろいろのお経はあげず、たゞ南無妙法蓮華経と一心に唱えた。臨終はまことに立派なもので、長生に、お経を読ませつゝ、他の者に窓を開けさせ、部屋の空間を指し「ほら、あそこに日蓮様がいらっしたよ」といって、八十年の生涯を閉じた。
 満寿子の歌からもエピソードからも、維新の激変期を生きぬいた明治女性のからっとした強さが伺われる。内に新しい、激しいものを抱きつつ、なお古い調べの歌に拠ったところに、この当時の女性の、新旧ちぐはぐの姿が思われて興味ふかい。この歌帳が、いつ頃のものか、誰に歌の手ほどきを受けたかが解らず残念である。小笠原家では、正月四日の晩から、かるた会をする習慣であった由、かるたは百人一首をオババさまなる満寿子が書き、一種独特の節まわしで彼女が読んでいた。歌帳もこの頃のものであろうか。

 満寿子が現在生きていたら、どのような形で、自己を表出したことかと考える。歌などに拠らず、もっと安易な方法をとったかも知れない。明治の満寿子はあふれる抒情、旺盛な生活意欲を、旧派の和歌に定着させていった。拘束の多い世の中であったればこそ、術もなく和歌に托したのであろうが……。

小笠原満寿子の歌
  寄松祝
 ちとせふる玉松がえもなにかせん
   君がよはひは八千代かさねて −前号一面−

  糸 遊
 けふもまた夕日の空の長閑くて
   うすくれなゐにあそぶ糸ゆふ −本号上掲−

 荻の葉のをともさびしき夕ぐれに
   むしの声さへあはれとぞきく −本号上掲−

  得手規
 つれなさにおもひすててもほととぎす
   たそがれくれば又ぞまたるる −前号一面−

                園田節子読む


夢のかごとより

 月も花もうき世の外の住居哉
   やすらはざりし袖をしぞ思ふ

 門さして鳴鶯と花の香と
   とひくる月の外をゆるさじ

 おきかへて住むや草の戸露よりも
  ことしげき世のあだし心を

                小笠原長行

『末盧国』 369頁

  

ゆふぐれの梅
     にし来なく
        鶯は
     花のや登閑累(どかる)
         声ものどけし
                 長行
      

 この軸は絵を満寿子さまが描き、長行公が和歌を書いた貴重なものです。
満寿子さまの雅号は「滴翠」です。
 いつ頃描かれた物か定かではありませんが、仲睦まじいことです。
 満寿子さまは東京で絵を学ばれました。唐津の近松寺には満寿子さまとその義理の息子長生公の合作の雲竜図が残されています。



直会幕について

管理人による推理です 2005.2.19

各町の直会幕ですが、それぞれの幕の町名がお分かりでしょうか。
幕は総数16〜17張り。現在の14ヶ町に加えて紺屋町(コウヤマチ・今時はコンヤマチと呼んでいます)とか八百屋町・塩屋町等も直会幕を張っていたのでしょうか。
一説では水主町・江川町の順番決め騒動の際の、七町八町組に明神台を挟んで東西分かれているとのことですが、17張りありますから、それも問題です。

飯田一郎先生著「神と佛の民俗学」に因りますと次の如くです。

ヤマ引きの順序
 十月廿九日唐津大明神の御神幸があり、その行列にヤマが並んで行く。その順序は現在では次の如く一定していて、ヤマは製作年代順にならび、神輿の前後についてゆく格好である。


  御神幸行列の順序
 刀町 中町 材木町 一宮神輿 二宮神輿 呉服町 魚屋町 大石町 新町 本町 大石大神社神輿 木綿町 平野町 米屋町 京町 江川町 水主町

 このうち最後の江川町と水主町とは毎年その順序を交代することになっている。それはこの二つのヤマが明治九年同時に出来て、どちらを先にするかで大変な喧嘩となり、水主町に組するもの、水主町の外に大石町・材木町・魚屋町・木綿町・本町・京町の六力町があり江川町を推すもの、新町・刀町・平野町・米屋町・紺屋町・呉服町・中町の七力町があって、いわゆる七町組・八町組の争いがあった。結局仲裁が入って折合がついたが、そのためには四斗樽が二三丁要ったとのことがある。そうして氏子十六力町の十戸長が天神山に会して、次のような約定書を作った。この約定書の見出しと、第一条の「春祭臨時曳順之儀は」 云々の文面とは、先に夫々別々に引用したことがあるが、こゝでまとめて全文を掲げると次の如くである。

 江川町 水主町
 両町新規曳山出来ニ付順序約定書左之通
 一、春祭臨時曳順之儀者都テ江川町ヲ先トシテ水主町ヲ後二致候事
 二、秋祭之儀者右両町隔年ニ而前後致候様取極メ申候尤当明治九年秋祭之儀者江川町ヲ先山同    十年水主町先山之事
 右之通り惣町協議之上約定取極メ申候間後年ニ至迄相違無之候依之約定証為後日如件


 この後に続いて、江川町・水主町を除く十四力町の十戸長が署名捺印したものを「江川町十戸長御中に宛てて出している。この約定書が其後よくそのままに遵奉され八十余年後の今日もなお生きていてその通りに行われているわけである。
これから類推すれば
明神台の西側が水主町組み(七町組)、東側が江川町組(八町組)ということでしょうか。
以下、ご覧下さい。
これはわが町の幕と申される方、若しくは「こん幕はこん町ばい。」とお考えの方はお教え下さい。

水主町組(七町組)側
 幕の上にカーソルを乗せてクリックしてみて下さい。
七町組
水主町・大石町・材木町・魚屋町木綿町本町京町(赤は判明分)
根拠、参考資料

京町 恐らく間違いなし
京町の曳山の幕は今でもこの火焔宝珠が使われています。
この襖絵の直会幕は現存していません。どこかに眠っているかも知れませんが。


魚屋町 間違いなし
鯛が描かれていますので間違いなし


大石町 恐らく間違いなし
大町だから幕も弐張りでしょうか。鳥が羽ばたく赤い幕と、繋ぎ輪模様(縁の輪)の幕。鳳凰丸の後方の縁に同じ模様が認められます。また、宵山の提灯・肉襦袢にも確か使ってなかったかな。


本町 木若の様にも見えますが
恐らく間違いなし
気のせいか、曳山の幕の「本」によく似ていますが。


木綿町(武田菱) 恐らく間違いなし
木綿町の鉢巻・肉襦袢・法被・帯に使われています。


富士山は水主町
七町組:水主町・大石町・材木町・魚屋町木綿町本町京町(赤は判明分)です。
材木町は亀に宝珠、若しくは三舛。となれば、この富士山の幕は、曳山持ちの町では残る水主町だと考えられます。
確証全くなし。
 
後の八咫烏は水主町かも
 大石町の違い輪の幔幕の後に烏の幕があります。
水主町は大石権現(大石大神社)を祭っていまして、権現さんの八咫烏をあしらった水主町の幕だったのではないかとお聞きできました。
となると上の富士山はどこの町の幕なのか。もう一度調査する必要が出て来ました。


三舛紋は塩屋町
三舛紋は塩屋町?
浦島太郎の着物の紋です。
後に材木町に吸収されることにより類推しました。
現在三舛は材木町が使っています。
しかし江川町組(八町組)側には亀に宝珠の幕があり迷うところです。三舛を材木町とすれば、亀に宝珠が分からなくなります。
塩屋町説を御覧になったある方から、これは材木町ではないかとのご意見を頂戴しました。東西(七町・八町)に分かれているのは、東材木町と西材木町で、どちらが七町組若しくは八町組かは分からない。なるほどこれで迷宮入りは免れたようです。


紺屋町??
番外1
町内安全の箱書きですが・・・・。? 不明

紺屋町でしょうか。しかし、紺屋町は八町組。
東西に七町・八町に分かれたと仮定した場合、無理が生じます。
紺屋町は七町組だったとすれば、この辺りが紺屋町の直会幕ということで落ち着きます。


八百屋町???
番外2
一足遅れて幕の長持を抱えてきている町があります。これは八百屋町かも知れません。
七町組のうち水主町・材木町が残りました。
富士山が水主町?であると考えると、曳山持ちの町は材木町となります。
町内安全と三舛と幕櫃をどう当てはめましょうか。

三舛を材木町とすれば、八町組の亀に宝珠の説明が付きません。
水主町が不明。富士山でしょうか。

八百屋町も幕を張っていたかも知れませんが、幕の長持を担いできているのがひょっとしたら八百屋町という可能性もあります。ヤマの順番を決めた時には塩屋町(三舛?)と八百屋町は七町組派だったのかも知れません。

江川町組(八町組)側
八町組
江川町新町・刀町・平野町・紺屋町・呉服町・中町・米屋町
根拠・参考資料


呉服町 呉若で間違いなし
呉・若の帆掛け船


材木町 亀に宝珠で間違いなし
しかし材木町は西の七町組ですよね
これは刀町・中町・紺屋町のいずれかの可能性が?そんなバカな
。材木町に間違いなし。

先日ある方から、三舛紋と亀の二つの幕は東西の材木町を現しているのではないかとのご提案があり、なるほどそれも充分考えられます。


米屋町 間違いなし
しめ縄は酒呑童子に呑ませる酒の樽に着けられたものを現しています。


新町 間違いなし!
現存すると聞きますが確認していません。

その後、平成に入りみごとに復興されました。


波に龍と言えば平野町 恐らく間違いなし
平成15年に作り替えられた平野町のしころ飾りは波地龍紋を再び取り入れました。


火焔宝珠は江川町 間違いなし
昭和38年江川町が宝塚に出動した時、この直会幕と思われる物が写真に写されました。現存するかどうか分かりませんが。


赤地に三本紺?(刀町)
このシンプルでありながら目立つデザインは刀町ではないかと思いますが・・・・。
法被に同じ数だけの線模様が描かれていました。しかし、二本線の法被の方が圧倒的に多い。
これは役員用法被なのでしょうか。
平成18年5月21日、奇しくも唐津神社旗争奪綱引き大会の日、刀町の集会場の整理をされていたところ昭和2年の直会幕が出てきました。紺に白二本線でした。どういう意味があるのか分かりませんが、この線をあしらった幕は刀町に違いないと確信しています。


富士に龍?(中町)
となると残るは中町と言うことになりますが。
?
こちらは結構難しいですね。
@ 平野町は謙信の旗に龍という文字がありましたし、波地龍紋のシコロに変えるくらいですから波に龍が該当すると思われます。

A

材木町が間違いないとした場合、八町組の幕の数が足りません。七町組八町組に分かれて幕を張ったとする物語は成り立たなくなります。
 材木町はやはり亀に宝珠が該当するとすれば、飯田本の七町組八町組の分け方に問題があるのかも知れません。飯田本の根拠を探さねばなりません。

B

刀町・中町・紺屋町の三町が@赤地に三本紺?A富士に龍?B亀に宝珠?のいずれかに当てはることになります。しかし、亀に宝珠は材木町ですよね。
文献による七町組八町組の町分けが正しいかどうか疑問です。紺屋町は七町組にしないと八町組の幕が足りなくなります。

C

亀に宝珠はどう見ても材木町ですよね。材木町も大町ですから大石町の様に幕を二張り張っていたのかも知れず、材木町は明神台の東西に一張りずつ張っていたのかも知れません。三舛も材木町となれば七町組に材木町があって落ち着きます。
となると、七町組・八町組に東西分かれて幕を張っている様子を描かせたのではないのかも知れません。

先頃、ある方から東西の材木町のご指摘があり、東西に分かれて直会幕を張ったというのがしっくりいくような気がします。



大手通商店街のあるイベントで曳山の昔の写真展があり、その中に貴重な写真を発見しました。
これは昭和38年に呉服町・魚屋町・京町・江川町の4台の曳山が宝塚に出動した時の準備段階から現地での様子など数多くの写真の中の一枚でした。
これは紛れもなく江川町の直会幕。幕の両端を持つのは戸川健太郎・省吾両氏の宮司兄弟。神社前の広場で道具箱を開けて備品を確認しておられる様子です。



とある庄屋の古文書に次のような記述があります。
松浦史談会の機関誌「末盧国」昭和55年6月・9月 坂本智生先生の寄稿より抜粋

唐津大明神祭礼例年九月二十九日興行いたし、一ノ宮二ノ宮神輿西之浜御旅所え御幸有之、市中之内十二町より山鉾指出申候。社僧は自分駕寵神主共は貸馬申付候、併寺社兼帯相勤候故、郡奉行両人神輿後乗いたし当日熊之原権現祭礼ニ而同所に於て流鏑馬執行候ニ付、郡奉行壱人は流鏑馬え相越壱人は西之浜迄跡乗いたし候、郡奉行組小頭両人組同心四人神輿警固申付小頭両人組同心四人ヤブサメ警固指出申候。
 唐津大明神遷(セン)宮等之節、同社前広場え市中より作物或は売物小屋等願候得は勝手第為致来候。
 唐津大明神祭礼九月二十七日より二十九日迄、城門出入無札ニ而参詣人通路為致来候。同境内之祇園六月十五日是又城門無札ニ而参詣人通路為致来候、尤郡奉行組同心両人見廻指出申候″


二ノ宮の後に、駕籠に乗った僧侶が描かれています。その後には馬に乗った神主が3人。

上記文書では
社僧は自分駕籠、神主共は貸馬申付候、とあります。
僧侶は権松院さまです。

唐津神社の祭礼に僧侶が登場するのも不思議ですが、当時は神仏習合の時代、ごく当たり前のことでしたでしょう。

現在曳山を曳く僧侶は何人かいらっしゃいますが・・・・。

馬に乗った神主3人は、戸川・安藤・内山の三社家ではないかと思われます。

神輿を担いでいた昭和40年代頃までは神輿の後には神主さんがさっそうと馬に乗っておられました。御旅所に着いてその馬は、旧大成小学校の体育館辺りの鉄棒に繋がれていておりました。、
 当時は丸通も馬車があったので、唐津駅の横に枕木で作られた柵に繋がれた馬がいたし、うちの前も馬車が通っていたので馬もさほど珍しくなかったのですが、お供日の馬は馬車馬とはちょっと違った風格があったのか、浜弁当を終えた私たち子供は馬を触りに行っておりました。

歓松院のこと

 仏教が伝来したのち、奈良時代の前後から神仏習合の傾向があらわれ有力な神社に神宮寺がつくられて、ここに住する僧侶が神祇のために仏事とを修する風が起こり、別当が置かれ社僧して一社を統括するようになった。唐津大明神に於ても高松寺がおかれ歓松院別当として奉仕し、その開祖は快頓と言い天禄年中(九七〇)と言われる。神主には戸川、安藤、内山の三社家があり、共に祭祀をつかさどった。明治元年、一千有余年に亘って行なわれて来た神仏混淆を禁止し二者を分離せしめた行政方策が行なわれた。
 明治政府は王政復古、諸事一新、祭政一致の制度に復し、神祇官を復興するという方途を決定し、従って古来の神仏習合の風潮を一洗しようとして明治元年三月十七日諸国神社の別当、社僧復飾の令、同月二十八日神仏の区別に関する布告その他の神仏判然の令を発した。これにより高松寺歓松院は廃寺となった。  (戸川)

松浦史談会の機関誌「末盧国」昭和55年6月・9月 坂本智生先生の寄稿より抜粋

 一ノ宮の両脇に武具甲冑を着けた武者が二人描かれています。
 上記古文書に因れば、お供日の当日、熊ノ原神社のお祭りがあり、そこでは流鏑馬(ヤブサメ)が行われて、神輿の警固に当たっていた郡奉行の一人は流鏑馬会場に、もう一人はそのまま西の浜まで警固をしたと書かれています。
 弓を携えた鎧武者を郡奉行と仮定すればここでは二人描かれていますので、鎧武者のどちらかは流鏑馬を終えて西ノ浜に駆けつけたのではないかと思われます。 
 流鏑馬をした鎧武者は郡奉行と考えないなら、二人とも熊ノ原神社での行事を終えて西ノ浜に馳せ参じたのかもしれません。 
 それにしても完全装備での流鏑馬は大変だったでしょう。
流鏑馬は熊ノ原神社の境内で行われていたのかどうか分かりません。近くには桜馬場という地名がありますので、その辺りで行われていたのかも知れません。 

 文書に依れば、神輿の警固に郡奉行が2名、組小頭2名、組同心4名が神輿の警固に当たっております。
また、熊ノ原神社の流鏑馬警固に小頭2名、組同心4名が出動しておりますが、神輿警護の郡奉行も一人は流鏑馬警固に向かっております。全てを合わせると郡奉行2名+組小頭4名+組同心8名の合計14名。 果たしてこの襖絵に14名の神輿警護外が描かれているでしょうか?

下の絵を御覧下さい。裃を着け、それらしき人物が一ノ宮の横に3名、後に3名。二ノ宮の横には5名、後には6名、更に後に4名。合計21名描かれています。 

一ノ宮後の4.5.6のうち、後方の二人は警固の役人ではないとして、二ノ宮の後方の18.19.21のうち二人が役人以外で数が合います。

二ノ宮後方20だけは赤い衣装に裃姿ですので、何か特別の人なのかも知れません。
   


当日熊之原権現祭礼ニ而同所に於て流鏑馬執行候ニ付、郡奉行壱人は流鏑馬え相越壱人は西之浜迄跡乗いたし候、郡奉行組小頭両人組同心四人神輿警固申付小頭両人組同心四人ヤブサメ警固指出申候。
 

ここで絵師富野淇園のミスを指摘しなければなりません。
唐津神社の神門は左三つ巴ですが、この絵には一の宮・二の宮共に右三つ巴になっています。

明神台の幔幕にも手前の幕は右三つ巴で、明らかに富野淇園のミスです。

私が中Uの時に作って今でも店内のショーケースに陳列している御神輿も間違って右三つ巴です。
昭和46年のある日、うちにちょくちょく寄っては昔話をしておられた先々代の戸川健太郎宮司が私の神輿を見てこのミスを指摘されました。しかし、14本の町の旗はどういう訳か左三つ巴を描いています。
「こん旗は良いが、肝心要の御神輿の巴はちごとるですばい」と例の大声でした。
旗の図柄は曳山展示場でスケッチして間違いなく左三つ巴だったが、神輿の巴は確かこの絵を見て迷いながらも右三つ巴にしてしまったと記憶しています。戸川健太郎さんの思い出を大切に、書き換えず未だそのままです。

カブカブ獅子について


飯田一郎先生著 「神と佛の民俗学」に
 次のような一節があります。


(三) 獅子舞とヤマの製作

 最初に出来た刀町のヤマが赤獅子であり、次に五年おくれて出来た中町のヤマが青獅子である。更に後のものだけれども、本町の金獅子、今は現存しないが紺屋町の黒獅子が作られ、また京町の珠取獅子が作られたというように、十五台作られた中に五台まで獅子であったという事は、先に述べたように、祇園のヤマから直接に影響されたものとは考えられないので、これは獅子舞の獅子にヒントを得たものだと私は思っている。
 唐津神社の現宮司戸川顕氏(八十歳)の叔父戸川真菅氏が昭和八年十月十八日朝鮮済州島にあって顕氏に寄せられた書信(書名を「唐津神事思出草」という)の中に、町田神田のカブカブ獅子七八御輿の前後に従へりとある。真菅氏は当時老体七十五歳というから、安政六年(一八五九)生れで、その少年時代十二三歳の頃は明治四・五年頃に当っている。思出草にいうカブカブ獅子が七つ八つ御輿の前後に従ったというのは、その頃のことであろう。戸川顕氏や江川町の吉村茂雄氏らの古老の談話によれば、当時はカブカブ獅子を持っていたのは
町田、神田の外、菜畑・双子・江川町・京町などの部落があったという。それらの多くがいつの間にか廃れてしまって、今は神田の獅子が雌雄二つ残されているだけである。

 神田の獅子は今も秋祭の十月廿九日には必ず若者らにかつがれて、午前五時に神社に参拝して獅子舞を奉納し、それから以前は御神幸の行列に参加していたけれども、今はそれをやめて、二手に分れて東西から神田部落の家を一軒一軒打って廻わり、最後に飯田の観音堂で落合って、そこに置いてある箱の中に納まることになっている。行列の参加を止めるに至った理由については、他の町内のヤマ引の若者どもが面白がって貸せと言って仕様がなかったこと、それからこの
カブカブ獅子が果物店の前に立って大きな口を開けると、店の者はその店先にある柿なり梨なりみかんなりを一つずつ口の中に投入れてやるという風習であったのを、いつか乞食のようだと 悪口を言われたのに憤慨したからというようなことなどが伝えられている。


飯田先生の文に見られるように、カブカブ獅子は町田・神田・菜畑・双子・江川町・京町が所有し、唐津神祭の神輿の前後に従っていたそうです。現在では神田のカブカブ獅子が11月3日、神田地区の若者に担がれ、午前5時唐津神社に参拝して獅子舞を奉納します。

さてこの獅子頭は一体何物?


左:雄獅子          右:雌獅子

古色蒼然としたこの一対のカブカブ獅子は、東町旧家の蔵に眠っていたものらしい。
旧家の方にお聞きしたところ、分家する時に本家から譲り受けたものらしい。
この写真は西の門館にて「唐津くんちの中の文化財を拾う」展−曳山をめぐる形の文化財うんちく その7−に出品されていたものです。
神田一対・二タ子一体・菜畑一体は現存しますので、ひょっとしたらこの写真の一対は町田のものではなかったのか?旧家の方にお聞きしてもそこまではわからないとのこと。
町田のカブカブ獅子を調査しなければなりません。
どなたか町田のカブカブ獅子についてご存じでしたら教えてください。
同じく西の門館にて「唐津くんちの中の文化財を拾う」展−曳山をめぐる形の文化財うんちく その7−に唐津地区のカブカブ獅子分布図が掲示してありました。その中に菜畑のカブカブ獅子の写真がありました。(雄獅子)
同じくこちらは二タ子のカブカブ獅子です。(雌獅子)
現存する双子(二タ子)のカブカブ獅子
ガラスケース越しで光が反射して見にくいですが、
特長はこれでうかがえます。
獅子頭の由来
現在の唐津神祭には曳山笠と共に神田地区の獅子舞が奉納されているが、この獅子頭は享和2年(西暦1802年)の作である。
明治5年(西暦1873年)頃の唐津くんちのようすを記録したものの中に
「町田、神田などの獅子七ツ八ツ神輿の前後に従えり」とある。
この青獅子は菜畑地区の獅子頭と一対で奉納されていたものと推察される。

このように説明書きは記されている。

この襖絵に果たして何体の獅子が描かれているのでしょうか。
襖絵2枚目、刀町赤獅子の上に4基、
襖絵5枚目、羽熊行列の後、一ノ宮の神輿の前に2基。
合計6基のカブカブ獅子が描かれています。
私なりにそれらを検証してみたいと思います。
   
襖絵2枚目に4基、獅子が描かれています。唐津神事思出草にはカブカブ獅子が七つ八つ御輿の前後に従ったとの記述がありますが、まず4基。どこの獅子かは判断出来ません。
 町田は一対ですので、獅子の幕の柄とパッチの柄から左の赤い柄一対と仮定します。

白い柄の一対を菜畑・二タ子と仮定しました。

それぞれをちょっと拡大して角の様子を見てみましょう。
その1

これは一本二股角の雄獅子

町田or菜畑
その2
左は二本角で雌獅子

町田or二タ子



その3
右は一本二股角の雄獅子

町田or菜畑
その4
これは角不明
しかし、二本角雌獅子の可能性あり。

町田or二タ子
衣装の図柄から番号の1と2が対と考え、この一対は町田と思われます。
となると、現存する二タ子と菜畑のカブカブ獅子の角を参考にして、3が菜畑、4のひっくり変えって果物を貰っているのが二タ子となります。
襖絵5枚目、一ノ宮の前には羽熊行列が、その後に両サイドにカブカブ獅子が一対描かれています。
これは獅子も、幕の絵柄も、脇添えの者の衣装も似ていますのでどこかの地区の対ではないかと思われます。

 先述しました「カブカブ獅子は町田・神田・菜畑・双子・江川町・京町が所有し」より、また、後ろに続く御神輿やお飾り、賽銭箱などは現在も神田地区のご奉仕ですので、この白熊の毛槍行列の後の一対は神田地区のもので、上の絵の左(赤い渦巻き柄)の2基が町田で、右(白い渦巻き柄)の上下が菜畑と二タ子1基づつではないかと勝手に想像します。
 では江川町と京町はと申しますと、この絵が描かれた明治16年には勿論のこと、幕末の頃には既にこの二町はカブカブ獅子を出していなかった。京町・江川町は曳山を造った時点でカブカブ獅子は出さなくなった。ひょっとしたら二町がカブカブ獅子を止めたのはそのずっと前のことで、西ノ木屋の蔵六さんも見たことはなかった。
とすんなり数を合わせてみました。
 いつ頃までカブカブ獅子が神祭行列に従ったか知る由もありませんが、この仮説は如何でしょうか?

今一度思出草を
「昔は鹵簿に大名行列様の出立ありて槍振、挟み箱等の身振は藩の仲間にて奉仕せしにて行列中の珍とせしなりき、他従扈の具としては多くの毛槍弓矢太刀天狗の面等ありて町田神田のカブカブ獅子も七八御輿の前後に従へり。」

唐津大明神の大祭に何故か白熊行列。
いつの頃か分かりませんが、唐津大明神の大祭に郡奉行が神輿の警固をするようになって、その印に白熊の毛槍が神祭行列に登場したのものと思われます。思出草の戸川さんも行列中の珍と表現しています。明治の代になり、郡奉行もなくなったので、自然消滅しました。この白熊の毛槍は後に相知に譲られ、現在は相知くんちに往時のままの様子を残しておられるそうです。

ではまとめてみましょう。
地区名 襖絵では 現在は
神田
町田
二タ子
菜畑
こら〜!だいか〜!
獅子の毛ば引っ張りよっとは。
唐津神事思出草  戸川真菅筆より
幼時の思出

獅子の毛をうしろにぬきて
   肩上げの袂(たもと)にひめし昔をぞ思ふ


赤獅子青獅子の毛は守りになるとてうしろに廻りてこれを脱ぎ或はカブカブ獅子のあとにしのびてこれを脱ぎ袂や縫上げの中にひめてほこりゐたりき


雌獅子
写真提供:青龍工房様
神田地区のカブカブ獅子
「享和2年(1802年)、神田村の大工又蔵が自分の腕だめしにと一心に彫りあげ飯田観音堂に奉納した」ということのようですが、神田に残る口伝によれば、神田の獅子は300年前(あるいはもっと前)から存在しており、1802年にその痛み具合に心を痛めた大工又蔵が修復(新調?)して奉納した、との事です。

参考:唐津市ポータルサイトより
このカブカブ獅子は享和2年(1802年)、神田村の大工又蔵が自分の腕だめしにと一心に彫りあげ飯田観音堂に奉納したといわれています。又蔵43歳の作りであることが獅子に刻まれた銘によってわかります。
  獅子の頭をかぶって行う獅子舞は、唐から伝わり舞楽として奉納していたが、後世、神楽などで五穀豊穣の祈とう、悪魔払いとして行われるようになりました。
  からつくんちでは、11月3日、神田地区の若者に担がれたカブガフ獅子が、午前5時神社に参拝して獅子舞を奉納し、その後二手に分かれて神田地区の家を回り最後に飯田観音堂に落ち合います。

雄獅子
写真提供:青龍工房様
唐津神社社報
平成13年10月1日より

(写真には昭和31年10月29日 神田青年団 と記載されている)
中央は故戸川健太郎宮司

神田区獅子舞


 唐津神祭は、神事祭当日の午前五時、御祭神「神田宗次公」の縁地、唐津市神田区より奉納の「獅子舞」(カブカブ獅子、獅子カブカブ等とも言います)によって始まります。獅子舞の奉納は、毎年、神田区青年団の奉仕で今日まで続けられています。重さ約二十kgの獅子頭を、左右上下に大きく円を描いて、三回舞います。そして、その節目ごとにタタキ(上顎と下顎をたたき合せる)を五連打、三回します。この奉納舞を最初に社殿正面で、それから社殿を三周し、角角でそれぞれ奉納舞をします。そして、最後に再び社殿正面で奉納舞をして納めます。
 神田区の青年団は、神祭の獅子舞奉納のため、訓練を重ねて当日にそなえるということです。
 この写真は右下にもありますように、昭和三十一年(今から四十五年前)の奉納直後の写真です。当時は十月二十九日が神事祭でした。奉仕神職は先々代の戸川健太郎、奉仕の青年団は総員二十名も参加しています。
 神田区は、その後宅地化が急激に進み、大変な住民の増加がありました。住民の生活に関するものは、大いに発達発展しています。その中で、青年団の活動だけが、縮小の一途を辿り、近年はとうとう町廻りや集落廻りを休止するまでになってしまいました。
 青年団員も、獅子舞に必要な六人(一頭に三人)の最低人員すら厳しい状況になってしまっています。
 世情に流されず、忠実に活動してきた青年団の、再興を願っています。
謎の文字。塗り替え時に書き足した文字ではなく、最初から「掘り込まれている」文字です。
現在の神田地区、カブカブ獅子保存会の皆さんです。(長松小学校運動会にて photo by @ネ寸)
 

 唐津明神の獅子頭か?

 東松浦郡肥前町杉野浦地区には江戸末期の作と見られる獅子頭一対が残っている。
 伝えによると、この獅子頭はもともと唐津明神関係のものらしく唐津新町が新曳山を製作したので杉野浦司なる人がゆずり受けたものという。
 当時、唐津くんちには、これをかぶり参列したという古老の話もあるよし。
 この獅子頭はかなりの、重さで重厚な感じのする彫刻、うるしもところどころはげ鈍いつやを出していて、年代ものの感じがする。
 オス、メスとも口頭から角のうしろまで五十センチ、両耳の末端間六十二センチ。オス角(枝のある一本角)の高さ二十一センチ。メス角(左右二本)高さ十六センチあり。
 オス頭の裏に「講中京町」メス頭の裏に「新町住辻吉右衛門作」と該字がある。ここで考えられるのはオス獅子の「講中京町」とメス獅子の「新町住辻吉右衛門」との関係、あるいは京町の獅子頭であったかもしれず、曳山以前の唐津っ子の祭道具としては珍らしい遺物のようだ。  (山口賢実)




末廬國 第58号 昭和52年3月号より
 
   末廬國 第58号 昭和52年3月号に発表されたカブカブ獅子が肥前公民館に安置してあるという情報を得て、平成31年4月7日に確認に出かけました。

獅子の内側に京町講中、新町住 辻吉右衛門作と彫られていました。
残念ながらいつ出来たのかが分かりません。
京町は明治7年まで踊り屋台を出して踊を奉納・披露していました。その頃なのか、踊り屋台が出来る前のものなのか分かりません。手がかりがあればご報告します。

   

現在相知くんちに白熊(はぐま)の毛槍行列が残っています。
末永く唐津神祭の名残である白熊行列を続けていってほしいと思います。
「白熊の毛槍(大名行列)」の由来より(リンク切れです。)相知町のサイトだったかも知れませんが
もともと、この「羽熊」の行列は唐津神社の秋の大祭である、唐津くんち(現在、国指定重要無形民俗文化財)の際に行われていたものでした。江戸時代末期の安政年間(18541859)より、毛槍や挟み箱を持ち、大名行列を模して唐津神社の御神輿を供奉する行列が、唐津くんちのまつりの中で行われるようになりました。
 
ところが、明治6(1873)に唐津神社から、当時の相知村の村社であった熊野神社に毛槍や挟み箱が譲られたことにより、相知において大名行列が行われるようになった。(一説には、当初は相知村の石炭採掘会社に譲られ、その会社から熊野神社に寄贈されたとも言われている)


※原文に従う


(白熊[ハグマ]とは、中国やチベットに生息するウシ科の動物ヤクの白い尾で、仏具の払子や旗、槍、兜の装飾に使う。また、白熊を赤く染めると赤熊[シャグマ}と言い、同じく兜飾りなどに使った。更に黒い毛は黒熊[コグマ]と言う。)

(有)小野農機様のYouTube

今でもお供日の時の出店は子供達の楽しみです。
この絵が描かれた頃も出店はありました。また、行商する人もいたようです。


物売りについて拾ってみましょう。
唐津神事思出草  戸川真菅筆より
門前
てんぽこの梨も柘榴も吾が門の昔ながらにひさぎおれるかも

てんぽこ梨といふは唐津にてはあまり見受けたることなかりき、ただ畑島村の道端に某家に此樹ありしを居たりしが今はいかが。其他は祭日に七山方面より持ち来りて毎年戸川の前にひさぎおれるを例とし、一年唯一回なりき、甘草の如き甘たるき枝様のものにてお祭のしるしに一把は必ず求むるものなりき。

この「てんぽこ梨」とはどのような物だったのでしょうか?梨の一種なのか?それともケンポナシという植物(民間薬では酒毒を消すという効果あり)が訛った物か?

ケンポナシ(枳惧子)
クロウメモドキ科ケンポナシ属
山地に生える落葉高木。枝先の集散花序に直径7mmほどの淡緑色の花を多数咲かせます。果実は直径7mmほどの球形で黒紫色となり、果柄が秋に肥厚して肉質となり甘みがあって食べられます。梨の食味で少し甘いという感じです。


これらの物売りの絵を見ると赤い果物を売っているようですね。この季節ですから恐らく柘榴か柿ではないかと思います。曳き込みが終わる前に御旅所へ急いでいる様子ですね。これも柿のようです。
物売りが面白がってカブカブ獅子に柿をくわえさせている様子です。
神と仏の民俗学より
行列の参加を止めるに至った理由については、他の町内のヤマ引の若者どもが面白がって貸せと言って仕様がなかったこと、それからこのカブカブ獅子が果物店の前に立って大きな口を開けると、店の者はその店先にある柿なり梨なりみかんなりを一つずつ口の中に投入れてやるという風習であったのを、いつか乞食のようだと 悪口を言われたのに憤慨したからというようなことなどが伝えられている。
ここは嘗ての総合庁舎辺りかと思われます。
仮小屋を組んでの露天商のようです。
どんな物が列んでいたんでしょうね。
こちらは柿ではなく、茶色い物です。
何でしょうか?
子供達が買っているのは柿?
それとも柘榴(ザクロ)?
これは物売りではありません。
西ノ木屋の浜弁当。
勿論今みたいな魚荒(アラ)なんかはありません。
どんなおご馳走だったのでしょうか?重箱がいくつも見えます。
(うま煮・なます・蕪・鯛の煮付け等?)

担い棒にはどういう訳か赤い提灯が三個掛けてあります。
ゴザも忘れんごて。
これも浜弁当の準備でしょう。
瓢箪にはお酒が入っているのでしょうね。
同じく浜弁当の準備
御旅所明神台
明神台に関して詳細はこの絵をクリックしてください。


この襖絵を描いた絵師富野淇園の記念碑です
十人町の法蓮寺にあります。


この記念碑は明治41年7月に当時の有志(門人仲)によって建立されました。
「淇園先生碑」と彫られています。

記念碑土台の正面には筆頭に山内小兵衛(これは西ノ木屋10代目)の名が刻まれ、古舘正右衛門がそれに続きます。この正右衛門は「曳山のはなし」の著者である古舘正右衛門の父親です。
また、左側には全て女性の名前、筆頭は山内ハナ、次ぎに山内ツネ。
右側には最後に吉冨清兵衛(私の曾祖父)の名がありました。


 京町の曳山 珠取獅子の珠の内側に製作当時の町のメンバーが書かれてある中、細工人筆頭に富野淇園の名前がございます

 京町は塗り替えた時や年祭の年には、富野淇園の眠る法蓮寺まで曳いて行き、墓前にて合掌し、淇園碑に報告いたします。

 平成17年3月20日、4月20日の相次ぐ地震により自然石の記念碑がずれてしまいました。 縁あって修復の依頼が京町にあり、石屋さんにお願いして応急的に崩れない程度の修復をする運びとなりました。

 全体的に内側に歪み、囲いも御覧の通り傾いています。

 京町は次回の総塗り替えの記念事業としてこの記念碑の土台からの完全修復を計画しております。塗り替え叶って法蓮寺に曳山を持ってくる時には、建立当時のように佇む記念碑にいたします。


 平成20年10月5日
京町珠取獅子総塗替落成記念式典がアルピノホールにて執り行われ、その後雨の中を富野淇園が眠る法蓮寺まで曳いて行き、塗替の報告を致しました。
また、この塗替の記念事業としまして、富野淇園の顕彰碑修復工事も完成し、その法要も営まれました。
 
   
   
 
土台を固めて石組みも立派になりました。
 
昭和40年代、平野書店さんが行列図のミニレプリカの印刷物を売り出されました。
巻物仕立てのものもありました。
そこに添えてある解説文を披露させていただきます。
 
「唐津神祭行列図」解説
                          (唐津神社所蔵)

 この絵は、唐津市内本町の画家富野淇園が、同市内魚屋町の酒造家西ノ木屋山内家の依頼で、明治十六年、描いたものである。その後長らく、山内家の家宝として伝えられたが、昭和三十年十月、唐津神社千二百年祭記念として同社に奉納された。
 画題は幕末当時の「唐津神祭」の風景で、西浜御旅所へ十五台の豪華絢爛たる曳山が御神輿のお伴をして、急調子な囃子の音律と、勇壮活発な曳手の動作によって曳かれて行く最高潮に達した場面を再現したものである。作者の麗筆は、藩政時代の「唐津ぐんち」の模様を活き活きと描き出しており、当時の民俗を知る上からも貴重な資料たるを失わない。
 作者富野淇園は丹倫齋と号し本町に居住していたが、その家は旧藩時代江戸公儀からの使者の宿であったので、お使者屋の先生で通っていた。淇園はその自宅に塾を開いて市内の子女に学問を教え、かたわら絵を描いていた。
 この作品は明治十六年、淇園が五十四才の時のもので、彼はその後、佐賀帥範学校の教師として子女の教育に当ったが、四年後の明治二十年、五十八才で歿した。
 なお、この絵は唐津市曳山展示館に公開されている。この画面には当時のあらゆる階層の人々が実にたくさん描かれているが、今般の調査で、正確なところその数は一六二八人であることが判明した。
                       (大日本絵画巧芸美術KK謹製)
                         東京都千代田区神田錦町一ノ七 
 
唐津新聞 昭和56年1月22日

 曳山図絵の退色を憂う

投 書
 曳山会館に来客を連れて見物に行くたびに思うことであるが、あそこに陳列されている曳山図絵がなんとなく色の冴えが初めのころに比較して衰えているように思うが私だけの感じであろうか。
 それにつけて思われることは多くの重要文化財は実物大の複製を展示しておいて実物は最も適した保存方法で別に保管しておき年に一回虫ぼしのために十日ぐらい外に出して展示するというようにしているようだ。
 曳山図絵は、今や一神社の宝物ではなく唐津市の歴史を伝える重要な文化財としての価値を自他ともに認められている。
 ただ漫然と紫外線の強い螢光燈のもとに四六時中さらし出し、然も温度湿度共に決して保存に適しているとは言いがたい場所にさらしものにして紙の質を悪化させ絵の具の質を変化させ退色させて美術品としての価値を低下させるにとどまらず歴史的な価値を消失させることになりはしないかと憂うる者である。
 実物大の複製を作ることは唐津市の財政から考えて不可能なことではないと思われるので市当局及び識者の御検討をお願いしたい。    (唐津一市民)


保存策を検討します
   縮尺の写真か絵にして展示

 一、投書の「唐津神祭行列図」は昭和四十七年「唐津市重要民俗資料」として指定し現在曳山展示場に常時展示公開しております。

 一、行列図の作成は明治十六年、唐津本町の絵師「富野淇園」で構図は神祭当日の十五台の曳山を中心に侍、町人、物売りなど千六百人余りが描かれており、もとは襖絵として描かれたもので、当時の風俗などを知る上で貪重なものであり美術品としても価値は高いものです。

 一、この行列図は.魚屋町西ノ木屋、山内小兵衛氏の所蔵でしたが、昭和三十年唐津神社千二百年祭記念に神社に奉納されたもので曳山展示場完成と共に展示公開しているものです。

教育委具会としての対応

 一、唐津神祭行列図は、文化財として貴重なものですので、その保存には慎重を期したいと思います。

 一、現在の曳山展示場は空調その他、保存、保管の条件としては最適の施設であります。

 一、しかしこのまま年中永年にわたり公開展示することは退色、変質のおそれがありますので何らかの手を打ちたいと思います。そこで、縮尺の写実か絵にするなどの方法を十九日神社側とよく話し合いましたので神社の意志を尊重して対処したいと思います。

唐津神社戸川宮司の話

 あの行列図は山内家から奉納されたもので保存については慎重の上にも慎重を期していただきたいものです。現在のところ神社の環境よりはよいところに展示し管理していただいているので安心しています。同時にあの行列図が唐津くんちの歴史的意義や曳山を理解する上で重要な役割りを果たし、参観者に深い感銘を与え高い評価を受けていますことは神社はもちろん奉納いただいた山内家に対してもその意にそうものとして喜びにたえません。唐津くんちの曳山行事が昨年二月国の重要無形民俗文化財に指定されたことでもあるし、今しばらく実物を皆さまに鑑賞していただきたいと思います。
 あの絵については常に注意して見ています。退色変質などは今のところ見受けられませんが教育委員会において写真その他の方法でそれにかわるものができればそれでもよいと思います。市民の方にいろいろ関心をもっていただいたことは神社としてもありがたいことで感謝にたえません。そうした意味で今後の対応については教育委見会にお任せしたいと思います。

唐津新聞 平成13年11月2日の記事です。


唐津神祭行列図再現 大原老舗和多田店のふすまに
唐津市和多田の大原老舗和多田店に、このほどから江戸時代の唐津くんちを描いた「唐津神祭行列図」のふすまが展示されている。ふすまは、唐津城に保管されている元唐津藩の絵師・富野淇園の作品が原画で、七巻からなる明治十八年に西ノ木屋の当主が依頼して描いたとされる。七巻の原画には取っ手の跡があり、当初はふすまだったと考えられているものを、コンピュータグラフィックで原寸大に復元した。一枚が縦百六十七a、幅九十二a。図中には、明治中期に破損したとされる紺屋町の黒獅子も含む十五台の曳山が描かれ、各曳山町内の浜弁当の帳幕や、畢や行裂加者、相撲興行や見物人など約千四百人もの人物が、それぞれの姿態で事細かに描き込まれていて、楽しい。大原老舗は以前から、この唐津神祭行列図の部分を松露鰻頭のパッケージに使っており、和多田店でもこれまでは、滝村美術織物が制作した同図の椴帳を飾っていたが、経年変化で色が劣化した事から、今回のふすま絵に取り変えた制作は、クリエイティブ・ヤマト。

曳山会館に現在展示してある陶板のレプリカは何となくぼやけて力がありません。現在の技術を使えばレプリカは簡単に作れるはず。
レプリカはあくまでも実物に忠実に作るべきです。今の曳山会館のレプリカは誠にありがたいことですが、もし市の予算が折り合えば、掛け軸仕立てで実物と全く同じの複製品を作っていただきたいと思います。
唐津神祭襖絵の本物の複製を曳山会館に掲げる運動にご賛同頂ける方は
唐津市へご意見をお寄せ下さい。
 

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