吉村茂三郎翁
(寄稿:常安弘通氏)

松浦史談会 末盧国第48号(昭和49年3月)より


吉村茂三郎翁

 吉村茂三郎翁は、明治七年四月十二日、東松浦郡玉島村大字平原座主(ざす)の小農の家に生れた。座主はいま地名となっているが、平安中期から戦国末期まで真言密教の修験道場殿源寺のあった所。
 万葉にある大伴旅人の歌「玉島のこの川上に家はあれど君をはずかしみ顕さずありき」この歌に出てくる川上の里がこのあたりである。翁は明治二十二年浜崎の霓林尋常高等小学校を卒業すると「授業生」という資格で平原尋常小学校の教壇に立った。教師ふり出しの初めである。俸給月一円五十銭、三カ月後に三円に増給されたという。
 やがて志を立て佐賀師範に進み明治二十九年卒業、満島小学校や浜崎小学校に奉職中にまたしても向学の野望に燃え、文部省の中等教員検定試験にいどんだ。地文科の教員免許を得たのは同三十三年。その頃、佐賀中学から招きがあったが、同校で学校騒動が勃発したため就職をあきらめざるを得なかった。たまたま佐賀の人で緒方という高師出の校長が和歌山中学の校長に転任することになり、緒方校長の推挽で、和歌山県田辺中学校の先生に赴任した。
 翁は田辺中学校在職中に西洋史、日本史、東洋史、地理科の教員免許状を次々に取得した。驚くべき勉強家というべきである。田辺中学校在職は明治三十三年夏から明治四十二年の春まで十年間だった。和歌山中学校の教頭だった生田徳太郎氏(後年唐津中学校長)と識り合いになったことから、生田氏が佐賀県鹿島高等女学校校長に転任がチャンスとなって吉村翁も鹿島高女校に転任、生田校長は在任二年有余で今 度は唐津中学校長になった。吉村翁も生田校長に伴れられて郷里唐津中学校教諭になった。明治四十四年の夏以来大正、昭和と長く昭和十五年夏退職するまで三十年間唐津中学校に教鞭を執った。
 尤ともその間、昭和十一年には佐賀女子師範、十四年には武雄中学校の教員を依嘱された。翁はその取得した教員免許が示すとおり歴史、地理が得意であることは勿論だが、考古学にも異常な熱意を示し古墳発掘を八方試みたのは地文地質に対する学と素養があったからである。
 佐賀県史蹟名勝天然物調査委員を依嘱されたのは大正十四年以来のことで、県が刊行した調査報告書に翁の稿が随所に見られ、また昭和二年には唐津で松浦史談会を結成し、同志を率いて史蹟探査を行い、また刊行物を発行して唐津松浦地区の郷土史開発に縦横の活躍をした。昭和二十八年七月二十三日八十歳の高齢で唐津大手小路の自宅で永眠。いわ夫人は昔、満島の網元だった観音丸″の出。
 翁に後れて三十五年十二月八十七歳で他界した。

▽吉村茂三郎遺著−史と詩の松浦潟(昭和四年六月)松浦潟(九年七月)塚本伊織と幡随院長兵衛(十年九月)奥村五百子伝(十六年五月)松浦史料(十六年十一月)史話伝説の松浦潟(二十七年三月)平原史(二十七年七月)松浦史(三十一年七月)遺稿に唐津発達史がある。