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序 吾が郷土の大先輩、学識々見共に衆に勝れた沈黙の偉才、前松浦史談会長吉村茂三郎先生の遺稿「松浦史」の発刊を見ることが出来るのは誠に慶賀に堪えない。本書を繙くことによって、幸に、吾々の祖先が小舟に乗じて遠く安南・呂朱などに往来し、身命を捨てて顧みなかった雄魂を想いつゝ、輝かしい日本の復興に資するならば、地下に眠られる吉村先生も、我意を得たりと微笑せられるであろう。 所感の一端を述べて発刊の慶びを表する。 昭和三十一年七月二十日 松浦史談会長 龍渓顕亮 |
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序 故吉村翁が終生の念願として居られた事が二つあった。その一つは松浦考古博物館の建設であり、他の一つがこの松浦史編纂の達成であった様に思う。翁が生前この本の脱稿出版を急いで居られた事は、「誰か一枚五十円で浄書してくれる人はないかなあ」と言われた事でもわかる。併も御生前に我等後輩が御扶け出来なかった事は誠に相すまぬ事であった。今回飯田一郎氏等の御盡力で近く出版の運びになった事は地下の翁の喜びは勿論関係者一同の限りなき喜びである。 翁には此の外松浦叢書二巻をはじめ「詩と史の松浦潟」とか平原史とか、松浦史料とか多くの著述・論文があるがそれは散佚せんとする資料の保存のためとか・観光等のための依嘱によるものとかで、翁が本当に念願して居られた松浦史の集大成ではなく、精魂を傾けて書かれたものは本書のみであるといえよう。それ丈気にかけて居られたらしい。 由来肥前の歴史は西肥前と北肥前と東肥前とでは全く様相が違うのである。西肥前は長崎を中心とした近世のオランダ文化キリシタン文化唐人文化に特色があり、東肥前は弥生式文化の時代から可なり進んだ文化を持ち原史時代からは大和文化の濃度な影響を持ち殊に有史時代になっては太宰府文化の浸透が著しく人口密度が高度である事に比例して文化の程度も高い事が特徴である。所が北肥前即ち松浦地方は大陸に最も近い関係上、常に外交・外患・外征の焦点となり大陸文化流入の門戸となっているので我国で最も重要な地域であるにもかかわらず本格的の調査研究や著述がなされていない。漸くこの三月末から東亜考古学会の学術的調査が行われんとする現状である。翁は晩年齢八十才に垂んとして脚部の疾患のため若人に伍して山野を跋*(足歩)して考古学的な発掘調査に加わる事を断念せられ、専ら家に籠居して文献の立場から松浦史の究明執筆に心血をそそいで居られた。その成果が本書である。勿論翁は古文書の専門家でもないし特別の便宜ある地位でもなかったため思う存分の史料の蒐集検討も出来なかったろうと思われるが老齢衰えゆく健康をひしひしと感じながらよくもこれ丈のものを脱稿せられたものと思う。枯れた落葉は朽ち果てても新しい生命の肥料として地下から若人の後継者を待望して居らるるであろう。そして将来完璧な松浦史の大著の完成の一日も早からん事を念願して居られる事だろう。私は望蜀かもしれねが、例えば平戸松浦家文書は二三回にわたり史料展観を交渉されたが尚十分利用出来なかった様に生前話して居られたが何とか便宜をはかってやるべきであったと思う。これは京大の若い学者等によりその志は承継されるらしい。 筆者は脊振山霊仙寺境内にある建治二年(鎌倉時代文永弘安役の頃)の石層塔が源知の寄進であり、鳥取県松江市愛宕神社別当宝照院の堂内鐘が肥前鐘で嘉暦二年源知によって小田村禅定寺に寄進せられて居る事から源知が有力な松浦党の人であり、而も松浦大系図にはその頃の人で源知を名乗る人が見えないし、吉野時代肥前鐘が松浦山下庄で盛んに鋳造されながら山下庄の所在が未だに不明である故、翁に頼んで調べてもらうつもりであったが遂に果さなかった。病床の筆者は若人たちに依嘱する外はない。将来を期してこれ等の事も志をついで大成したい。 本書の出版近きにあるを聞くにつけ故翁生前の御指導誘掖を回憶し感無量である。 求めらるゝまゝに蕪文を草して序となす。 昭和壬申二月 後学 松尾禎作 |
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は し が き 吉村先生が親ら書かれた本書の 「自序」に、「光輝ある二千六百年を奉祝記念するため、西松浦郡教育会では西松浦郡誌編纂の議を定め、歴史部は予と松尾竹一君に、地誌部は宮崎覚治君と白尾栄君とに依嘱せられた。爾来公務の傍ら編修を続けている中図らずも大東亜戦争が勃発し、此の地方が軍事上の要地たる関係上地誌の部は之が発表を差控へねばならぬ点が多々あるので、己むを得ず郡誌編纂を中止する事となった」と記されている。この「自序」はその後斜線を以て抹殺してあるので其の全文を揚げることを差控えたいと思うが.先生が本書の著述を思い立たれた直接の動機は右のような事情に在ったものと思われる。併し其後は先生個人の仕事として執筆を継続され遂に本書の原稿を完成されたのである。従って最初は「西松浦郡史」ともいうべきものから始まって、後に其の範囲を拡げて、「松浦を根拠として内外に活動した松浦党を主材とし、かねて松浦四郡の一般史をも記述することと」されたのである。その間福岡の玉泉大梁先生について種々の指導と便益とを受けられ、また栗原荒野・宮崎覚治・松尾竹一・白尾栄・塙薫蔵の諸氏から史料収集についての援助を得られたようである。そうして本書の原稿が一応の完成を見たのは昭和十九年の二月頃であったろうと推測される。 右に述べたような直接の動機が仮に無かったとしても、先生は早晩本書のようなものを書かれたに違いない。本書が先生多年の蘊蓄に成り、先生生涯の代表作と見るべきものであることは、御学友松尾禎作先生の序文や令嬢酒井満代先生の跋文に明らかなごとくである。 右にあげられた「西松浦郡誌」と同名の書が既にあって、現に本書にも度々引用されている。大正十二年十二月二十日西松浦郡役所発行、菊版七二八頁のものである。その後昭和十年十月には西松浦郡教育会第一支部から「伊万里郷誌」(仝一七〇頁)なるものが発行されている。また東松浦郡には「東松浦郡史」(大正十四年八月廿五日久敬社発行菊版五九四頁)があり、平戸・佐世保・長崎方面に夫々地方史や「長崎叢書」のような史料集が出版されている。先生はこれら既刊のものや或は未刊の資料を多く活用して、遂にこの「松浦史」一巻を完成されたのである。 「松浦」なるものは、現在東西南北の郡に分れて佐賀・長崎両県に分属しているが、もとは上下の二部に分れて同じく肥前国に含まれ、ずっと以前には上下の別もなくただ松浦郡と呼ばれていた。もともと一つであった 「松浦」は今も一つのものとして理解せらるべき要素を多分に有つている。歴史学的立場に立つとき特にそうである。それらは、東松浦郡史や西松浦郡誌や平戸史など別々のものでは満たされ得なかったのである。これらを統括して「松浦」を一つのものとして捉えようとされたところに、吉村先生のすぐれた着眼と従ってまた多くの苦心とが存したのであり、先生は生涯の努力を傾けてこの仕事に先鞭をつけられたのである。このような先生にして初めてこの「松浦史」が書けたのであって、この「松浦史」は従前の「東松浦郡史」などと一部重複しながらも、更にそれらを超えた大きな価値をもつものと言わねばならない。 本書の原稿を浄書するに当って、仮名づかいを改め、年号についてはすべて西歴年数を記入し、また明かに誤りであると思われるもの若干を訂正したが、全体としては能う限り原文に忠実であるように努めた。場合によって私自身の気付きで、最少限度の「補註」若干を加え、また読者の便を思って巻末の地図二枚を添えておいた。本書に引用された史料については出来るだけ其の出所を明かにし、原典について校訂したいと考え、幾分の努力を惜しまぬ積りであったが、先生は多年に亘って集められたものであり、私は匆々公務の傍らで、所詮意の如くならず、後の研究に委ねなければならぬものが多かった。 学問の世界は文字通り日進月歩して暫しも止まる所がない。本書の大綱は既に十余年前に成ったものであり、今日の水準から見て正直のところ必ずしも完壁であるとは思われない。けれども生涯を松浦地方史の究明に捧げられた吉村先生の代表作として、少くとも史料価値に於て後学を益するところ甚だ多いであろうことを信じて疑わないのである。 本書の出版については、松浦文化連盟の岸川欽一・野中輝雄両氏並に佐々木印刷所の好意に負うところが多く、また野中氏には印刷の校正について多大の援助を仰いだ。また佐賀県立図書館長小出憲宗氏をはじめ各方面からの要望や鞭韃があって、遂に今日の運びに至ったのである。特に記して感謝の意を表したいと思う。 昭和三十一年七月二十日 飯 田 一 郎 |
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松浦史 序説 一、地理上より見た松浦 九州島の西北部は即ち肥前の國で、南北の二大肢節に分れている。其の北肢は所謂松浦地方で、北の方玄海洋に突出した東松浦半島と北松浦半島とより成り、東に唐津湾西に伊萬里湾があり、この北方は壱岐・対馬に對し、西方には平戸・五島の列島が並んでいる。現在では東西南北の四郡に分たれ、前の二郡は佐賀縣に、後の二郡は長崎縣に管轄されている。 今この松浦地方が東亜に占むる地位に就いて一考察を加えて見ることにしよう。 南洋諸島を洗って北上する海流は琉球諸島に依って両分され、其の本流−黒潮は九州の南より四國本州の南岸を洗い、支流対馬海流は枚浦諸島及び北九州の沿岸を洗って日本海に入っている。若し南支部海より船を発し対馬海流に乗れば、先ず到達する処は此の松浦である。往昔我が遣唐使がシナに渡航するには多く比の松浦より発船していた。また彼のシナを荒した倭寇も此の松浦を前進基地とし、風向を選んで彼の地に渡った。当時これに要した日数は普通であれば六七日に過ぎなかった。(日本経済史第二巻第二章、倭寇記允彭の入唐記参照) これらの事実は松浦地方が大陸交通の要衝に当っていたことを立証するものである。 次に松浦地方の気候風土を観るに、気候の混和なること、産物の豊富なること、殊に海産物の多種多様なることなど、他地方に其の比を見ることが出来ない。されば斯る環境に惠まれた松浦の民衆は新入の民族と斗争する必要もなく、彼我相頼り相扶けて共存共栄の美風を生ずるに至ったのであろう。 肥前半島の南肢は、南に島原半島、北に西彼杵半島があり、東部に有明海、南部に千々岩湾、北に大村湾を擁し、気侯風土など松浦地方と最もよく似ている。 二、民族上より見た松浦 日本民族は多数民族の混血によって成っている。これを大別すれば、北の方シナ・朝鮮を経て移住したツングース族と、南の方南シナ・印度シナ方面より遷って来た苗族と、南洋諸島より遷って来たインドネシア族とが、過去数千年の間に通婚・陶汰・錬成されて生じた民族で、これを教化統治したのが高天原種族であるとされている。そして高天原族は同じくツングース族であろうとされている。 而して此の日本民族は地方により種々の特色を保持している。例えば熊襲の蟠踞していた南九州地方や、高志蝦夷の住んでいた北越地方や、海人族の蕃布していた筑紫と出雲地方などは、其の地方人特有の気質や習慣などが見出される。これは民族本来の性格と其の地方特有の気候風土など自然の影響によって育成された所謂地方色なるものである。されば松浦地方の住民が遠い昔は別として過去一千年間に亘って松浦党なる一団体を形成して濃厚なる地方色を発揮しているのも斯る理由に基くものであろう。 さて松浦の原住民を考うるに、久米邦武博士はシナの*(門のなかに虫)淅地方より朝鮮南部と、筑紫、出雲を一環として、此処に苗族系の民族が蟠踞していたとなされ、(日本古代史第二章第三章 参照)白柳秀湖氏は北九州に勢力を持っていた民族は黒潮に乗って遷って来た常世民族であるとなされている。(民族日本歴史第十章乃至第十四章 参照)而して此の常世民族はシナの*(門虫)越地方にいた苗族である。斯くの如く此の松浦地方に多くの苗族が分布していたということは一般に異論のない処である。されば朝鮮南部の韓人と松浦民族とは同種類であり、松浦民族が神功皇后を輔けて三韓征伐の大業を翼成し奉ったことが了解されるであろう。(詳細は第一編第二章第三章に譲る。) 三、氏姓上より見た松浦 松浦党は源融の後なる源久が久安年間に創めたもののように伝えられているも、実は其の起源は詳かでなく、更にそれ以前に遡らねばなるまい。(詳細は第二編第四章に譲る) 抑々党といい、一揆と稱するものは、他の勢力に対抗するため、其の地方民衆が一致団結して出来たもので、地方民衆の利益を離れて存在するものではない。されど利益のみを以て抱合したものは利害によって離合集散するので、其の結束は持久性に乏しい。強固なる一揆は必ずやそれ以外に共通する思想感情などの強靭なる紐帯によって結ばれたものでなければならぬ。普通に松浦党は松浦・波多・鶴田・伊萬里・山代・有田など、所謂嵯峨源氏の出なる源久の後を主体とする団体と見られているも、実際はかゝる単一氏族の結合ではなく、幾多の異姓を交えて一丸とした大一揆である。其の異姓中の重なるものを拳ぐれば、筑前怡土郡の中村氏や上松浦の神田・佐志・日高の諸氏は出自不詳.下松浦の五島・青方の両氏は藤原氏で、津吉・大島の二氏は出自不詳である。また値賀氏の祖なる連の父はシナ人であった。(第二編第五章参照) さて松浦党の活動を通観するに、平安朝末期より鎌倉時代にかけては其の団結力最も強く、殊に元寇に当っては全党挙ってこれを防戦したので、松浦党はこれより西海の一大勢力となった。(詳細は第三編第二章に譲る) 吉野朝より室町時代にかけては同党自解の時代で、遂に豊大閤の天下統一となり、次の藩政時代に入り佐賀・唐津・平戸の三藩に分治されることとなった。(詳細は第五編以下に譲る) 四、外交上より見た松浦 松浦民族と東亜民族とは地理的にも人種的にも互に相親しむべき民族であった。彼の田道間守や秦の徐福の伝説は暫く措き、我が建國以来彼我の来往は次第に頻繁となり、松浦党結成以後は益々頻繁の度を加うるに至った。 例を近世に取っても、松浦隆信と汪直(第四編第二章)、田川氏と鄭芝龍(第七編第五章)、鍋島直茂と李参平(第五編第六章第二節)、松浦鎮信と巨関(第七編第七章第一節)、中里茂兵衛と高麗娼(第七編第七章第二節)、また末次平蔵や伊藤小左衛門の如き(第七編第五章)余りにも周知のことに属する。これあるが故に松浦党は其の歴史に一段の光彩を放つのである。 さて松浦党が身を挺して通商に当ったことは第四編第二章に詳述することとして、茲に一言しておきたいのは、シナ人(ひと)が我が私貿易の徒を呼ぶに倭寇の名を以てしたことで、これは当時の貿易換言すれば両民族の接衝が不幸にして円満を欠いたからであるけれども、要するに、松浦党が長期に亘り続けて来た対外活動こそは是れ即ち一種の民族運動であったことを深く銘記すべきである。 五、文化上より見た松浦 古代松浦地方の出土品中、長崎縣平戸市亀岡神社の環頭刀.唐津市柏崎の有柄銅剣、唐津市半田の純金製耳飾などは、何れも大陸伝求の品と思われる。此の他唐津市を中心として其の附近より出土した方格鏡二面、狭身銅剣六本、銅鉾三本は著者が親しく取扱ったもので、如上の出土品によって松浦地方が大陸文化の輸入口であったことを立証することが出来る。 また東松浦郡玉島村谷口古墳よりの出土品中、鏡二面は「径を等しうし、断面、背丈も全く相等しく、かつ鋳型の潰れた部分も一致して、全く同一鋳型によって作られたものであることが知られる」(後藤守一博士著漢式鏡第一編七二九頁)これは此の谷口古墳の築造時代に斯る鏡面が同一人の手にあったことを物語るもので、或は此の鏡は松浦地方で鋳造されたものではあるまいか。 こう考えると鏡という地名と関連がありそうに思われる。若しかゝる想像が許されるならば、此の時代には松浦の文化が相当発達していたと見ることが出来よう。ともあれ此の地方は松浦の主要部であったことは、奈良時代に郡衙が置かれてあったことと併せて知ることが出来る。 奈良朝以後は大陸は正に唐の盛世に当り、我との交通が頻繁となり、其の船は多く松浦を基地として往復した。平安朝の中期以後は唐の内乱により彼我の交渉は一時衰運に帰したが、大陸との私的交渉はなお絶えなかった。斯くて鎌倉時代に入り、元の入寇となり、一時両國の交渉は中絶したが、間もなく天龍寺船の発達となり、大陸との交渉は再開され、彼の文化は僧侶の手によって招来された。 既にして我國は戦國時代の紛乱期に入り、彼我の交渉は一部冒険家の手中に帰し、文化交渉は却って隆盛となった。かくて此の期の末葉に至りポルトガル人の来航となり、キリスト教の流入と銃砲火薬の新式武器が伝わり、我國文化に一生面を開く事となった。而して此の時の重要なる舞台は即ち松浦の平戸、五島であり、其の主要なる配役を買ったのが松浦党であった。(詳細は第七編第三章第四章に譲る) 江戸時代に入り舞台は急転して長崎に移り、平戸は俄に衰徴したものゝ、文化的交渉はなお陰密の裡に行われていた。 六、結言 以上述べたように、各種の観点に立って松浦及び松浦党を検討する時は、次のような頗る興味ある事実を観取することが出来る。即ち 一、國難に際し、一家一族を挙げて國土の防衛に当ったこと。 二、異民族に対して排他的偏見なく、能く外来者を抱擁・同化したこと。 三、扁舟を操って大洋を乗廻し、大に海國男児の意気を発揚したこと。 四、外来文化を阻嚼し、其の長を採り、以て日本文化の発達を促したこと。 五、遠く故国を離れてなおよく愛郷の至誠を発露したこと。 以上の諸点は日本民族通有の精神が、松浦なる特殊の環境によって錬成されたものであろう。斯く観じ来れば、松浦史は単なる地方史にあらずして、実に日本文化史上の重要なる部分を占むるものということが出来よう。 |
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第一編 太古より 奈良朝に至る松浦 概説 人類文化の発達階梯は、石器・銅器・鉄器の三時代に大別されている。各期ともその発達は地方によって非常に高低があることはいうまでもないが、現代は各地とも正に鉄器時代の爛熟期に入っている。 本編に記するところは、太古より推古・舒明の頃に至る、凡そ今より千三四百年前までの松浦を主としたもので、石器・銅器の併用期より鉄器時代に下っている。今これを世界最古の文明地、挨及・バビロニア・アッシリヤ乃至印度・シナなどに比較する時は、我國文化の発達は実に二三千年も遅れていたと見なければならぬ。此れは松浦地方の貝塚や古墳よりの出土品中に、大陸伝来の品と認むべき精巧なものが発見され、且つそれらが西紀一世紀以上を正確に遡ることの出来るものはまだ発見されていないことによって知ることが出来る。 さてこの長い期間に於ける世界文化の推移を考えるに、最初に起った挨及も、次に興ったギリシャもとうの昔に衰え、これに代ったローマ帝國も漸く衰退期に入って、北方より侵入するゲルマニヤ民族の防遏に困惑している。他方のバビロニヤ・アッシリヤ地方も亦全く衰滅し、印度は波羅門文明についで起った佛教文化が次第に勢力を得てシナに流入し、朝鮮を経て我國に渡来したのが欽明天皇の朝で即ち本期の末頃に当っている。 シナは夏・殷・周の三代は遠く過ぎ去り、両漢を経て晋となっている。朝鮮では周の初に箕子の移住があり、漢代に武帝の征服があって、シナ文化の流入を来した。この頃より南鮮には三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の鼎立が成り、我國との交渉が漸次頻繁の度を加えるに至った。 第一章 古代の松浦 一、先史時代の松浦 太古の日本が不明である如く、上古の松浦も亦不明である。ただ僅に考古学の助けと漢韓古書とによりその一端を窺い得るに過ぎない。 古代の松浦地方は、石器・銅器・鉄器の三時代は截然たる区別なく、殆ど相接近して、または殆ど同時代に存在したものの如く、石器の出土多い地方に彌生式土器や祝部土器が多く遺存し、これらの土器と共に銅器や鉄器や種々の勾玉・管玉などを出土している。而してこれらの出土品中唐津市半田の純金製耳飾、唐津市柏崎の有柄銅剣、北披多村大字田中の白銅鏡破片、長崎縣平戸市の環頭刀の如きは、頗る精巧なもので、確かに大陸伝来の品である。 さて壱岐島カラカミの貝塚出土品中にシナ豚の歯があるが(直良信夫氏著史前日本人の食料文化参照)、唐津市柏崎の貝塚出土品中にも同様の歯を発見している(松浦史料の研究第一輯参照)。されば此の両地方の石器時代は相似た年代と考えることが出来はせぬか、而して此の壱岐島出土品中には青磁の破片を磨いて玉を作ったものがあり、鋭利な刃物を以て削り作られた鯨骨製の剣がある。(壱岐松本氏蔵)すると、壱岐の貝塚住民は案外新しい存在と見なければならぬ。従って松浦地方の貝塚住民もこれと同時代なりと速断することは出来ぬとしても、亦以て一考すべき資料ではあるまいか。 ともあれ松浦地方の石器時代も案外新しい時代と見ることが出来るようである。 二、中国古文献に見えた古代松浦 魏志倭人伝によれば 末盧國に至る、四千余戸あり、山海に浜して居る、草木茂盛して行くに前を見ず.人好んで魚鰒を捕う。水浅深と無く皆沈没して之を取る。 とある。肥前風土記の松浦地方の産物に多く水産物をあげてあるが、これは倭人伝の記事を裏書するもののようで、信を置くに足るものであろう。従って戸数四千の数字もまた無稽の文字として観過する訳には行かぬ。 上古は大家族制度であった。それで假に一戸十人と押えて見ても、松浦の人口は四萬を算することが出来る。人口四萬とすれば其頃既に相当の文化を有っていたことであろう。 今日この地方に分布する古代住民の聚落遺跡や古墳などについて見ても、またこれを肯定することが出来る。而してこの地方出土品中には大陸伝来品と認むべきものが少くない。 この事例は松浦地方と大陸との交通が頻繁であったことを物語るもので、自然我の事情が比較的詳かに彼等に知られていたものであろう。 後漢書に載せられた倭人に関する記事中に 其兵に矛楯、木弓、竹矢あり、或は骨を以て鏃となす。男子は皆*(黒京)面文身す。(中略)國に女子多く、男子は皆四五妻、其余は或は両或は三、女人は淫せず*(女盧)せず、風俗盗竊せず争訴少し(下略) また秦の徐福が神仙不死の薬を求めに行って還らず、留っていたという夷洲のことを記して 夷洲は臨海の東南に在り、郡を去る二千里、土地に霜雪なく草木死せず、四面是れ山谿なり、人皆*(髟兀)髪にして耳を穿つ。女人は耳を穿たず、土地饒沃にして既に五穀を生ず、又魚肉多し、(中略)此夷は舅姑子婦とも臥息には一大床を共にし略ぼ相避けず、地に銅鉄あり、唯鹿格を用いて矛と為し以て戦闘す。青石を磨礪し以て弓矢を作る、生肉を取て大瓦器中に雑貯し、塩を以て之を鹵(しおつけ)とし、月余の日を歴て仍ち之を啖食し、以て上肴と為すなり とある。この夷洲は我が日本なりや否やは暫く措いて、この文をよくよく味読する時は、松浦地方の風俗中これに該当するものが甚だ少くない、殊に肥前風土記の近島の條に、彼の島は白水郎や馬牛に富むと記し、またこの島の白水郎は容貌が隼人に似て居り、恒に騎射を好み、その言語は俗人と異るとあるのと合せ考えると、松浦住民の状態が髣髴と浮んで来るようである。 三、火の国の起源 肥前風土記によると 肥前の國は本肥後の國と合して一國たり、昔者崇神天皇の世に、肥後の國益城郡朝来名峯に土蜘蛛あり、打猴頸猴二人、衆一百八十余人を師従え、峯頂にかくれて皇命を拒捍み降伏を肯ぜず、朝廷勅して肥の君等の祖健緒組を遣わし、之を伐たしむ。是に於て健緒組勅を奉じてこれを誅滅し、兼て國裏を巡り消息を観察し八代郡白髪山に到る。日晩れて宿に止まる、其の夜虚空に火あり、自然に燎え稍々降下し此山に着て燎えたり。燎ゆるを健緒組見て驚き怪み、朝廷に参上し奏して言わく、臣辱く聖命を被り、遠く西戎を誅し、刀刃を霑さずして梟鏡自ら滅す、威霊に非ざるよりは何ぞ然るを得んやと。更に燎火の状を挙げて奏聞す。天皇勅して曰く、奏する所の事未だ曾て聞く所にあらず。火下るの國なれば火の國と謂うべしと。即ち健緒組の勲を挙げて姓名を賜い、火の君健緒純(くみ)と曰う。便ち遣わして此國を治めしむ。因て火の國と曰う。後両國に分れて前後と為す。 とあり、また日本書紀景行天皇の條に 十八年五月壬辰朔に葦北より船を発して火の國に到る。是に於て日没(く)れぬ。夜冥くして著岸を知らず。 遙かに火光を視る。天皇挟杪(かじとり)者に詔して曰く、直に火の処を指せと。因りて火を指して往く。即ち岸に著くを得たり。天皇其の火の光りし処を問いて日く、何と謂う邑ぞと。國人対えて曰く、是れ八代の縣豊村と、また其の火を尋ねたまわく、これ誰人の火ぞと、然るに主を得ず、茲に人の火に非ずということを知りぬ。故れ其の國を名づけて火の國と曰う。 と記されている。これ火の国の起源である。 さて國造本紀に、遅男江命を火の國の國造と定むとあり、この遅男江命は即ち健緒組である。されば火の國の一部なる松浦地方もこの頃より火の國造の支配下に置かれていたものであろう。 のち崇峻天皇の二年、火の國は前後に分たれ、元明天皇の和銅六年になって国名には好字を用いよとの詔によって肥の字を用うることとなった。 四、松浦の起源と開拓者 松浦の起源を尋ぬるに、日本書紀神功皇后摂政前紀に夏四月壬寅朔甲辰、北のかた火の前國の松浦の縣に到りて、玉島の里の小河の側に進食す、是に皇后針を勾けて鈎を為り、粒を取りて餌にし、裳の糸を抽き取りて*(糸昏)にして、河中の石の上に登りて、鈎を投げて祈りて曰く、朕西のかた財の國を求めむと欲す、若し事を成すことあらば河の魚鈎を飲えと、困りて以て竿を挙げて乃ち細鱗魚を獲つ、時に皇后曰く、希見(めずら)しき物なりと。故れ時の人その処を号けて梅豆羅國と曰う。今松浦と謂うは計れるなり。 とある。また肥前風土記にも殆ど同様の記事を載せてある。ところが、國造本紀には成務天皇の朝に松浦の國造を置くとある。然れば松浦なる名稱は神功皇后以前にあったこととなる。 凡そ住民あれば其処には必ず地名が伴わねばならぬ。神功皇后があって松浦があるのではなく、松浦という処に神功皇后が行啓に成ったもので、畢竟日本書紀や風土記の文は大和民族特有の皇室尊崇の観念に附会されたものと見るべきであろう。 抑も松浦なる文字はマツラという音を表わすための仮用で、地名の起源はむしろ南鮮地方の伽羅・安羅・多羅・耽羅などと一脈の連係があるのではあるまいか。松浦地方に平戸・田平(たびら)・太良(だいら)・加加良・斑(馬渡)などのラの付く地名が多く存する点と合せ考えると、この地方は南鮮地方と隣保依存の緊密な関係に在ったように考えられる。 さて景行天皇熊襲征伐ののちは、歴代の天皇が大に松浦地方の開拓に力められた。肥前風土記に賀周里、昔者この里に土蜘蛛あり、名を海松橿媛と曰う。景行天皇巡国の時、陪従大屋田子(日下部君等祖也)を遣わし誅滅せしむ。時に四方霞みて物色見えず、因て霞の里と曰う。今賀周里と謂うはこれが訛れるなり。 と、また 値賀島、昔者同天皇巡幸の時、志式島の行宮に在り、西海を御覧すに、海中に嶋あり、煙気多く覆えり、勅して陪従阿曇連百足を遣わし、これを察せしむ、島は八十余あり、就中二島は島ごとに人あり、第一島を小近と名づけ、土蜘蛛大耳これに居り、第二島を大近と名づけ、土蜘蛛垂耳これに居る。自余の島は並に人在らず、茲に於て百足大耳等を獲て奏聞す、天皇勅して互に誅滅せしめんとす、時に大耳等叩頭陳聞して曰く、大耳等の罪実に極刑に当る、萬(も)し戮殺せらるるも罪を塞ぐに足らず、若し恩情を降され再生するを得ば御贄を造り恒に御膳に貢し奉らんと。即ち木皮を取り長蚫・鞭蚫・短蚫・陰蚫・羽剖蚫等の様を作りて御所に献ず、茲に於て天皇恩を垂れて赦放し、更に勅して云く、この嶋遠しと雖も猶お近きが如く見ゆ。近嶋と謂うべしと、因て値賀島と曰う。 かくの如く、この地方征定の結果は次第に王化に浴することとなった。 これより前、崇神天皇の朝大加羅国が来り属し、任那日本府が開設されて以来、これと最も近接した松浦地方は自然彼我の交通が頻繁となり、彼の国人らの我に来住するもの益々多く、神功皇后の征韓役に当ってはこの地方民は卒先して其の先鋒を承るに至った。 第二章 神功皇后と松浦 一、松浦と伊覩の縣主 仲哀天皇の二年筑紫の熊襲が叛いた。天皇直に豊浦に行幸せられ、皇后息長足姫尊と共に此所に駐まり、大に劃策せらるること数年、かくて八年正月に至り筑紫に入り、九年二月親ら熊襲を討ち不幸にして軍中に崩去し給うた。是に於て皇后代って軍を督せられ、同年三月層々岐野(そそきの)に羽白熊鷲を滅ぼし、四月に松浦の玉島川に於て鮎を釣り戦捷を占い給い、九月に諸国に令して船舶を集め、兵甲を練り、一方には航路を偵察せしめ、準備全く成って、十月いよいよ軍を進め和珥津より直に新羅に攻め入り、王を虜にし歳貢を約せしめて同年十二月筑紫に凱旋し給うた。(日本書紀による) 当時の松浦の情勢を案ずるに、日本書紀に彼の八年正月仲哀天皇が筑紫に進発せられた時の有様を記して 筑紫の伊覩の縣主の祖五十迹手(いとて)、天皇の行(いで)ますと聞きて五百枚の賢木を拔取りて船の舳艫(ともへ)に立て、上枝には八尺瓊をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握の剣をかけて、穴門の引島に参迎えて献る云々 とあり、次いで天皇崩去の後夏四月松浦の玉島に到り鮎を釣り給うた。斯く伊都の縣主は堂々と天皇をお迎え申したのに、松浦の国造の動静は何等記されていない。また魏志倭人伝にも対馬・壱岐・怡土・不彌などにはそれぞれ長副の官名を記されているのに、松浦のみは夫れがない。彼此併せ考えるときは其の頃松浦の国造は廃せられて、怡土の縣主の勢力下に属していたのではあるまいか。 二、神功皇后と高句麗好太王 松浦地方の住民は韓人系が多かったようである。彼の高麗の廣開土王の碑文に 惟に昔、始祖雛牟王の創基なり、北扶余より出ず、天帝の子、母は河伯女郎、卵を剖て降出し子を生む 中略 駕を命じ車を巡らして南下す。路夫余の奄利大水に由る。王津に臨みて云って曰く、我は是れ皇天の子、母は河伯女郎、雛牟王なり、我が為に篠を連らねよと、浮亀声に応じて即ち連篠浮亀を為し、然る後に造り渡る。 とある。而して我が古事記仲哀天皇條に 今寔(まこと)に其の国を求めむと思はさば、天神・地祇・亦山の神、河海の諸神に悉に幣帛を奉り、我が御魂を船の上に坐せて眞木の灰を瓠に納れ、亦箸と此羅伝(ひらで)とを多(さわ)に作りて皆々大海に散らし浮けて度りますべしとのり給いき。故れ備(つぶさ)に教え覚し給える如くして、軍を整え船を雙(つら)ねて度(わた)りいでます。時に海原の魚ども大小となく悉に御船を負いて度りき。 とあるのと比較するに、篠をつらねることと、箸と比羅伝とを浮かすことと、亀が甲を浮けて人を渡すことと、魚が船を負うて渡すこととは、共に同一構想である。斯る同一構想の神話を有する事は同一民族たる事を物語る重要資料である。 第三章 神話上より見たる 松浦の民族 前節に同一神話を有するものは同系の民族たることを述べた序に、人蛇交婚の神話について一言しておくことにする。 一、廣積寺の神話 昔々、朝鮮の咸鏡道に廣積寺と云う大きな寺があって、其の寺に一疋の大きな蜘蛛が住んでいた。寺の和尚は大層この蜘蛛を愛していると、蜘蛛はだんだんと大きくなり終に美しい乙女と成った。 この乙女は何時しか懐胎して、日を経るに従って漸く人目につくようになった。そこで和尚は大に驚き乙女に其の事情を尋ねると、乙女が言うには、毎晩毎晩名も知らぬ美しい青年が妾のところに通って来たのでその情にほだされて斯の様になった。そしてその男はいつも晩に来て夜の明けぬ中に帰って少しも姿を見せないので、何処の人で何と云う人とも知らぬと物語った。そこで和尚が、それならば針に糸を附けて置き、共の男が来たならばその着物にその糸を着けて置いて、男の帰った後でその糸を縁りに尋ねて見よ、然らばその男の住所も知れ、またその男が何であるかも解るであろうと教えた。その晩になると常のように彼の男が来たから、乙女は和尚の教えのように男の衣に糸をつけておいた。彼の男はそれとも知らずに糸を引きながら出て行った。依って乙女は其の糸をたどり、ついて行ってみると、彼の男は寺の背の雪峰山という山の中の池に入った。乙女は之を見て池の側に立って泣いていると、池の中から大きな龍が現われて、汝乙女よ泣くな、胎中の子はやがて王位に即くであろうと言って再び池中に潜んで終った 云々(鳥居龍蔵博士著「有史以前の日本」) 二、褶振峯の神話 大伴狭手彦連船を発して任那に渡るの時、弟日姫子こゝに登りて褶を用いて振り招く、困て褶振峯と名づく。然るに弟日姫子狭手彦と相分れて五日を経るの後、人あり毎夜来りて婦と共に寝て暁に至り早く帰る。容姿形貌狭手彦に似たり、婦之を怪しとおもい忍黙するを得ず、竊に績麻(うみお)を用いて其人の襴につけ、麻に隨いて尋ね往き此峯の頭の沼辺に到る、寝たる蛇あり、身は人にして沼底に沈み頭は蛇にして沼壅に臥せり、忽ち化して人となり、即ち謌て云く、篠原の弟日姫の子を、さ一夜ゆも、寝ねてむしたや、家にくたさむや時に、弟日姫子の従女走りて親族に告ぐ、親族ら衆をやりて昇りて見るに、蛇と弟日姫子ともに亡せて存せず、茲に於て其沼底を見るに、ただ人の屍のみあり、各弟日姫子の骨と謂う。即ちこの峯の南に就て墓を造り治めおく、その墓今に在り。(肥前風土記) 三、大物主神の神話 是の後に倭迹々日百襲姫命、大物主神の妻となる。然るに其神常に晝は見えたまわずして夜のみ来ます。倭迹々姫命夫に語りて曰く、君常に晝は見えたまわねば分明にその尊顔を視まつることを得ず。 願くは暫し留まりたまえ、明旦美麗の威儀を仰ぎて観たてまつらむ、大神対えて曰く、言理灼然なり、吾れ明旦汝が櫛笥に入りておらむ、願くは吾が形にな驚きましそ、爰に倭迹々姫命心の裏に密に異しむ、明くるを待ちて以て櫛笥を見れば、遂に美麗しき小蛇有り、其の長大紐の如し、則ち驚きて叫啼ぶ。時に大神恥じて忽ち人の形に化りたまい、其妻に語りて曰く、汝忍びずして吾に令羞みせつ。吾れ還た汝に令耻みせむと言いて、仍りて大虚を践みて御諸山に登ります云々(日本書紀崇抑天皇十年條) この三つの神話は其の構想が全く同一である。 かくも類似の神話を有する民族は最も密接の関係にあったことを物語るものである。 我国の古代宗教は同一の氏族が同一の祭神の下に一致団結したものである。さればかの加部島(東松浦郡呼子町)にある田島神社には三姫神(田心姫命、瑞津姫命、市杵島姫命)と共に、稚武王命を奉祀し、志自岐島(北松浦郡)にある志自岐神社には十城別命を奉祀してある。この両社は共に式内社で、其の祭神は共に仲哀天皇の御皇弟である。 以上の事例は松浦地方の住民が仲哀天皇や神功皇后を中心として団結していた氏族であることを物語るもので、畢竟韓人系に属する松浦の住民が天日槍の後なる伊覩の縣主と協力して、同じく天日槍の血々受けた神功皇后を奉戴して征戦の第一線に活躍した由来を物語るものではあるまいか。 第四章 日韓の交渉と松浦 神功皇后が新羅征伐の結果、大陸文化は韓半島を経て我国に流入し来り、そのため交通の要衝に当る松浦は一段の重要性を加うるに至った。今左にこの松浦に遺された事件の二三を日本書紀中より摘記すれば 一、百済武寧王 雄略天皇の五年夏四月、百済の加須利君が其の弟軍君に己が孕婦を與えて日本に使せしめたところ、六月に筑紫の加羅島(東松浦郡名護屋村加唐島)に至って男の子を産んだ。仍て島君と名づけて本国に送り還した。これ即ち武寧王である。 二、物部あら鹿火 継体天皇の二十一年夏六月、新羅に被られた南伽羅・*(口禄)巳呑(とくことむ)の復興を謀るため、近江毛野を遣わされた時、紀磐井が謀叛し、百済と通し火・豊二国によって海路の連絡を絶った。よって翌二十二年冬十一月物部あら鹿火が大將軍となり、之を討って平げた。其の用兵の地が何れの地点であったかは不明であるが、韓土と連絡を断つべき処は必ず松浦地方であったであろう。 三、大伴狭手彦 宣化天皇二年冬十月、新羅が任那に寇なすを以て大伴金村に詔して其の子磐と狭手彦とを遣わして任那を助けしめられた。この時磐は筑紫に留まりて之を治め、狭手彦は任那に到って之を鎮め、また百済をも救うた。 四、筑紫の火君 欽明天皇の十七年春正月、筑紫の火の君を遣わし、百済王を護送せしめ、因って海路の要害を守らしめられた。 五、大伴狭手彦の再征 雄略天皇以来我が対韓策は事毎に失敗を重ね、任那の怨恨を招き、次に百済の離畔を来たし、遂に新羅の跳梁を制する能わず、宣化天皇の二十三年正月日本府を陥れられるに至った。そこで同年八月大伴狭手彦は兵数萬を以て高麗を伐ち、百済の計を用いて大いに之を破り、多くの分捕品を得て帰り、之を天皇に献じた。 これより以後、韓地恢復の師は幾度も起されたけれども、遂に其の目的は達せられなかった。この多年に亘る征戦中我が松浦が彼我の交渉に当って最も重要の位置にあったことは云うまでもあるまい。 第二編 奈良平安朝時代の松浦 概説 本編は大化改新以降奈良朝を経て平安朝の末期に至る凡そ五百余年間を通じての記述である。 本期に於ては、中央文化が地方に弘布し、為に松浦地方も漸く活動期に入り所謂松浦党の出現を見るに至った。従来シナとの交通は松浦より壱岐・対馬を経て朝鮮に至り、それより転じてシナに渡る航路であったのが、航海術の進歩により松浦の値賀島(平戸五島)より直に南方シナに至る航路が開かれ、松浦地方は一段の重要性を加うるに至った。 さて世界の大勢を一瞥するに、この期の初頃は欧洲では前に東西に分れたローマ帝国は勢次第に振わなくなり、この時に当り東方よりマホメツド教が起り、東洋では唐の最盛期に当り、朝鮮は新羅の発展期に当っている。 本期の中頃には西ローマ帝国が滅び、フランス・ドイツ・イタリヤなどの諸国新に起り、シナでは唐が滅びて五代の紛乱期となり、朝鮮では王氏の高麗が新羅に代った。 本期の末頃に至ると、西洋ではトルコの勢力が強大となり東ローマ帝国は名のみの存在であった。シナでは中国を統一した宋よりも北方に起った遼・金の勢力が強大で、朝鮮また振わず、恰も北方蒙古の進入を待っていたかの感がある。 我国では愈々地方豪族が中央勢力を凌駕するに至り、松浦党の存在は九州北部の重要勢力であった。 但し本期は前後を通じて日本の存在は世界文化とは殆ど没交渉であった。 第一章 肥前風土記と松浦 一、国府と郡衙の所在地 大化の改新によって地方には国司、郡司が置かれる事となり、肥前国に於ては国府の所在地は、佐賀市春日久池井であり、松浦の郡衙は褶振峯(鏡山)の西南唐津市柏崎附近に在ったものと考えられる(松浦史料第一輯参照)。肥前風土記に「褶振峯は郡の東に在り」とあるは、東北に在りの誤りであろう。 松浦の郡衙の位置を鏡山の附近とすれば、廣大なる松浦との交通は頗る不便なものであったに相違ない。殊に島々との交通は無論船によらねはならぬので、この地方の海上交通は相当発達していたことと考えられる。 二、松浦の地名と産物 元明天皇の和銅六年畿内七道に勅して、国々の物産・地味・地名の起源・国々の口碑・伝説等を録して奉らしめられた。肥前風土記はこの時の撰上なりとせられている。今これに見えた松浦の地名、物産等を抄録すると左の通りである。 郷 十一所 駅 五 所 烽 八 所 地名 玉島川・梅豆羅(めずら)・鏡の渡・栗川・篠原村・褶振峯・賀周里・登望・大家島・値賀島・大近・小近・志式島・川原浦・美禰久済・相子之停(とまり) 産物 鮎・蚫(長蚫・鞭蚫・短蚫・陰蚫・羽割蚫)螺・鯛・鯖・雑魚・海藻・海松・木蘭・檳榔・柁子・木蓮子・黒葛(つづら)・篁・荷・木綿・*(クサカンムリ見)・馬・牛 第二章 藤原廣嗣 一、廣嗣の叛 天平十二年秋八月、太宰少弐藤原廣嗣上表して時政の得失を論じ、天地の災異を陳べ、因て僧玄ム、吉備眞備を除くを口実とし、九月遂に兵を挙げて反した。朝廷勅して大野東人を大將軍に、紀飯麻呂を副將軍とし、東山・東海・山陰・山陽・南海五道の軍一萬七千を発して之を討たしめ、別に佐伯常人、阿倍虫麻呂らに命じてこれを援けしめられた。 廣嗣は衆一萬騎許を率い、隼人軍を以て先鋒となし、板櫃川に迎え戦い敗走して松浦より韓土に航せんとし、逆風に遇い値賀島の長野村に漂着し、阿倍虫麻呂のために捕えられ、十月一日松浦郡で殺された。乱平ぎてのち、天平十七年に至り玄ムは筑紫に貶せられ、翌年廣嗣の余党に殺され、眞備は孝謙天皇の天平勝宝二年筑前守より俄かに肥前守に遷された。(続日本紀) 按ずるに、藤原氏は天平九年武智麻呂(南家)房前(北家)宇合(式家)麻呂(京家)ら痘瘡を病んで相ついで薨じ、其の後嗣は何れも年壮く、互に勢力を争い、式家の廣嗣が才気横溢で他家を凌ぐ風あるに対して、南家の豊成・仲麻呂・北家の永手・眞楯などがこれを西海に敬遠したことは、同十二年九月太宰府管内に下された詔に「京中に在って親族を讒乱す、故に遠きに遷らしめて其の改心を希えり」とあるのによって知ることが出来る。されば此時に際し、恩*(穴龍)に狎れた玄ム・眞備の二人も亦廣嗣を喜ばなかったので、彼は遂にこの二人を除くを以て名となし、兵を挙げたのであろう。 二、廣嗣は忠臣か逆臣か 鏡廟宮本縁起に記された廣嗣の五異七能の事や其の上表文の如き、また玄ムと道鏡とを混同されているなど、一読その偽作であることが知られる。 また宮子夫人(聖武天皇の母后)と光明子(聖武天皇の皇后)とが玄ムと醜関係があったごとく記され、大日本史にまでこれを採択されていることは実に恐懼すべき誤りである。(重野安繹博士の吉備公傳参照) されどこの事あるを以て直に廣嗣を以て逆臣なりと断ずることも、後の同情者の言のみを以て忠臣なりと判定することも、共に大に慎しむべきことであろう。今爰に続日本紀を再検するに、廣嗣は佐伯常人が勅使たることを知るや、馬を下りて両段再拝して「我は敢て朝命を捍くものにあらず、たゞ朝廷の乱人二人を請うのみで、もし朝廷に捍いたならば天神地祗が罰殺するであろう」と言っている。 また海上で暴風に遭ったとき、廣嗣は自ら駅鈴一口を捧げ「我は是れ大忠臣なり、神は我を捨て給わぬであろう。、乞う神力によって風波を静め給え」と祈り、鈴を海中に投じた。これは捕虜となった廣嗣の従者の陳述である。 如上の記事が官撰なる続日本紀に載せてある点より見れば、よしや手段は誤っていたにせよ彼の精神は忠誠であったものと認められていると見るべきである。さればこそ玄ムらは前に貶せられ廣嗣は後に神として祀らしめられ、永く松浦の宗廟として尊崇せられているのであろう。 三、廣嗣最後の地 廣嗣最後の地に就いては続日本紀に「是の日、大將軍東人等言す、進土旡位阿倍朝臣虫麻呂今月(十月)二十三日丙子を以て賊廣嗣を松浦郡値賀島の長野村に捕獲する 中略 今月(十一月二日を以て肥前国松浦郡に於て斬る 云々」とある。されば二十三日に松浦郡値賀島に漂着して捕えられ、翌月一日に松浦郡で斬られるまで八日間の余裕がある。是は多分太宰府に護送の途中で斬られたのであろう。共の場所を伊萬里市大川町の長野となす説もあるが、これは長野に於て捕獲されたとあるのを捕斬と解したことより起った臆断で、その殺された地名は何等明示されていない。 五島列島中の宇久島に長野という地名がある。松浦郡値賀島の長野村とはこのあたりを云うのではあるまいか。なお後の研究を待つ。 第三章 伊萬里の起源 一、紀飯麻呂 天平中紀飯麻呂が藤原廣嗣征討の副將軍として松浦に下った時、其の祖武内宿禰が神功皇后の征韓役に従い舟師を出発せしめた趾を訪ね、この地に祭壇を設けて曩祖彦太忍信命を祭った。是れ即ち伊萬里町に鎮座の岩栗神社で、祭主飯麻呂の名に因んで、この地をイヒマロと呼んだのが転化してイマリというようになったということである。(岩栗神社華表銘) またこの松浦地方にはハタという地名が(南波多・波多津・北波多・波多河内)多い。これは武内宿禰の子羽田欠代宿禰との関係を想像せしむることが出来る、武内宿禰がこの松浦に滞在していたことより推せば、其の子孫なり、其の與党なりが存在することも有り得ることである。されば飯麻呂が西征の際これらの與党と共に其の祖先を祭り、斯くて彼の名が地名として後世に伝えられたものであろうとの考え方も成り立つようである。 二、條里制 伊萬里附近には二里や大坪などの條里制に因む地名がある。されば伊萬里も條里制より来た名稱ではあるまいかとも考えられる。併しこの地方は地域の狭小なること(伊萬里附近の今日の田地は藩政以後の干拓地が多い)などより推すと、條里制が実施されていたかどうか、それは頗る疑問である。されど條里制の名残である里や坪の呼称は、鎌倉時代以後まで存していた点より考えると、また捨て去ることの出来ぬ説である。 第四章 松浦党の起源 一、刀伊の入寇と源知 後一條天皇の寛仁三年三月廿七日、刀伊の賊が突然対馬・壱岐を劫略し、四月七日に至り筑前国怡土郡に至り、次いで志摩・早良両郡を掠め、八日博多湾に入り能古島を奪って之に據った。太宰權帥藤原隆家は大蔵種材らに命じて賊を討たしめたので賊は進むことを得ず、十二日外洋に退き、十三日松浦郡に侵入した。前肥前介源知は官兵と力を戮せ之を撃って大勝を得たので、賊は力竭き我が人民を浮虜として遁れ去った。 前に檎えられた対馬の判官代長岑諸近が高麗より逃れ還り、賊は即ち刀伊という女眞族で高麗と共に来り侵したものであったことがわかった。 此の時源知が松浦郡にいた事は最も注意すべきことで、松浦党の大祖と稱せらるる源久と何等かの関係を有するのではあるまいか。何れにしても官兵を助けて松浦より賊を撃退したことは、彼が私兵を有っていたことを物語るもので、松浦党はこの頃から形成されていたと見ることが出来るのではあるまいか。 二、源 久 松浦家世伝によれば、嵯峨源氏の祖源融は従一位左大臣となり、其の子昇は正三位大納言に至り、昇の子仕は従五位下武蔵守となり、仕の子充は任官せずして武州箕田にいて箕田源氏と称し、充の子綱は摂州渡辺におり渡辺と稱し、網の子は授、授の子は泰、泰の子久に至り肥前國松浦郡に下り、宇野御厨におり松浦氏を称し松浦党の祖となった。 久は康平七年(一〇六四)摂州渡辺に生れ、延久元年(一〇六九)南下して松浦郡におり、因て以て松浦氏と称し、松浦・彼杵及び壱岐の田凡そ二千二百三十町を領し、今福村加治屋城におり、久安四年(一一四八)八十五歳を以て薨去のこととなっている。 披ずるに、久が久安四年八十五歳を以て薨去し、其の松浦入りを延久元年とすれば、当時の年令は七歳である。七歳の幼児ならば然るべき補佐者が附いていなければならぬ。然るに共の補佐者は記されていない。 一書に、検非違使に補し、従五位下に叙せられ源太判官と号し、西下して志佐の郷今福に着せりとあるが、未成年者を補任されることはないはずである。 尊卑分脈によれば、久は綱の子となっている。綱を以て萬寿二年(一〇二五)の卒去とすれば、久の誕生は綱の歿後三十八年目となる。鶴田系図によれば、宇野御厨にいた者を久の弟授の孫に当る久となしている。処が此の授は尊卑分脈には見えない。家世伝の授の記事についてはなお検討の余地があるようである。また吾妻鏡寛元二年(一二四四)の條にある授とは時代が合わない、全く別人である。 然らば松浦党の起源は如何というに、牧野純一氏は松浦党の研究なる題下に次のように述べられている。 渡辺網の仕へたる源頼光が、栄華物語によれば肥前國司たりしことある事実にして、殊に綱は満仲の婿たる源敦に子養せられし如き関係もあれば、恐らく松浦氏と肥前との関係は当時に生じたるべきは之を想像するに難からざる所なるが、更に注意すべきは、後一條天皇の長和五年(一〇一六)四月源圓の肥前守に任ぜられるがあり、また寛仁三年(一〇一九)三月刀伊の賊が対馬・壱岐より進みて、九州本土を犯すに当り、肥前介源知なるものが、肥前松浦郡に於て敵を防ぎし事実にして(中略)この源圓及び源知の系図はなほ之を明かにし難しと雖も、その源氏たるは否むべくもあらざれば、或は圓及び知はこれを綱の子なりと見るを得べし、もし果して然らば、延久元年(一〇六九)は寛仁三年(一〇一九)より五十年後の事なれば、久は此の圓又は知の子又は孫に当れりと見るべきが如しと論ぜられ、次に 久は何故に松浦家世伝等に力説せらるるかに関しては、想像し得らるる理由なきにあらずして朝野群載に現われし源知の時代にはなおこれが一党を形成するの形跡なしと雖も、久にいたるや其の諸子は松浦郡内の諸地方に土着して、こゝに初めて党の形を成すに至れるが如し 云々 と記されている。これは大に尊重すべき意見である。若し家世伝に従い、久を以て綱の曾孫と見る時は、先任の圓や知などの諸党が久に合流して松浦党を成したものと考えねはならぬ。 従って久は此等の諸源を統馭するだけの威望を有する者でなければならぬ。七歳の幼児では断じてあり得ない。何れにしても更に研究の余地が残されている。けれども松浦党は久の子孫を主体とすることは一般に異論のないところであろう。 三、源久の墓地 源久の生年と歿年とが明確を欠くと同様、その終焉の地も埋葬の地も亦不明である。 松浦家世伝によれば 其墓所は今福の宛陵寺にあり、寺は僧大奎が応永十二年(一四〇五)に時の領主丹後守延より公の館址を請ふて建てたもので、墓は寺の後方にある。或は曰ふ、公の旧墓所は今宮神社の山中に在ったのが、山崩のために今の処に移された。(中略) 又鷹島にも、千々賀の甘木寺にも公の墓所があるが、これは遙拜塔である。其他御厨・大崎・星鹿・相神浦・小値賀に祠を立て、之を崇めて今宮明神と云ふ 云々(原本漢文、今其大意を採る) 唐津市鬼塚千々賀のお久様と称する塔に関しては、松浦昔鑑に 松浦源太判官久 墓所は千々賀村に有り、菩提寺を甘木寺と申す、眞言宗にて候へども、三河公落去以後甘木坊と申山伏に成、墓所分明也、墓所は平戸御領今福と申所に今福大明神と祝ひ申也、干今拜まれたまひ、右久公は三州公御先祖にて有り候故、千々賀墓所を築きたまふ とあり、また松浦拾風土記に お久様と云ふ石塔千々賀村の内甘木谷にあり、波多家の時、此辺の松浦党渡辺久の拜塔の為めに碑を建てし処なり 云々 とある。 此のお久様なる塔が、其の祖久公を拜する為に建立したものである事は明かであるが、其の建立年代を考えるに、其の塔は滑石製の多宝塔で、其の様式は平安朝末期と認むべきもので、なお此の塔と約一町許を隔てた丘陵上から発掘された経塚の出土品中には刳拔の滑石製の経櫃内に、双鳳鏡と銅製の経筒とがあった。此の双鳳鏡は確かに平安中期まで遡り得る品である。よって此の経塚と此の墓とは略々同時代のものと見ることが出来る。従って此処が或は久公の眞の墓所ではあるまいかとも考えられる。 本来岸岳城の祖波多持は久の第二子であり、石志城の祖石志勝は久の第三子である。石志文書に康和四年(一一〇二)八月廿九日附で、久の死後の争論を無くするため勝に與えた譲状がある。普通から云えば遺言状は死期の近い時に書かれるものである。とすれば久は或は此の勝の許で死去したのではあるまいか。若し然うだとすれば此処に埋葬されたことは有り得ることと考えられる。 何故に此処を遙拜所と称えたであろうかと云うに、波多三河守親の歿落後、此の地方は唐津城主寺沢志摩守廣高の所領に帰し、松浦党の一味は最も圧迫を蒙ったので、公の墓所も晦匿して遙拜所と称したのではあるまいか。何れにしても松浦党の大祖久公の墓所が一日も早く判明せんことを念願して已まない次第で、記して以て後考に供することとした。 第五章 松浦党の発展 其一 一、源久の創業 源久が松浦を経略するに当って、最初に足を駐めた処は伊萬里湾の西岸今福の地であった。此処は肥前國西北部の諸島とは海上の連絡あるも、後方陸上との交通は至って不便な狭小の地である。 元来肥前國には早くより高木・後藤・大村・草野などの諸名族が豊饒なる平坦部に蟠踞していたので後入の久は此等諸豪の勢力がまだ確立していない辺陬の地を選ぶより外に仕方がなかったのであろう。 伝説によれば延久元年極月大晦日今宿のギギの浜に上陸し、一夜を附近の小社に明かし、翌二年の元旦を迎え、斯くて地を相して舘邸を設け、次いで加治屋城を築き、大いに開拓に努めたので、附近の民衆も来り属するもの次第に多く、遂に松浦党の大祖と仰がるるに至った。今福経略が略々其の緒につくと、久は諸子を各地に派遣し第二段の経略を始めた。久の諸子は諸家の伝うるところ頗る区々で、何れに従うべきか、甚だ取捨に迷うのである。故に本書は主として松浦家世伝に據り、其他松浦党大系図などを参考とした。 二、源久の諸子 久の子として次のような名が挙げられているが、果して誰々が実子であるかは不明である。松浦家世伝によれば 松浦 直 久の長子で、兵衛尉に任じ五位に叙せられ源太夫と称した。父に継いで御厨の庄七百五十町の外、彼杵及び壱岐をも領した。 波多 持 久の第二子で、松浦の東部披多におり、波多氏を称した。 石志 勝 久の第三子で、石志などの地を得て石志に居り、石志氏の祖となった。 荒古田聞 久の第四子で、新久田におり、後壱岐に移った。 神田 廣 久の第五子で、神田(こうだ)におり、神田氏を称した。 佐志 調 久の第六子で、佐志におり、佐志氏を稱した。 松浦高俊 久の養子で養家の姓をとって松浦氏を稱した。相知・向の両氏は此の後である。 三、松浦党中の異系 松浦党中には幾多の異氏族がある。中でも安倍宗任の後とされるものが多い。 平家物語剣の巻に さて宗任は筑紫に流されけるが、子孫繁昌して今にあり、松浦党とは是れなり。 とあり、鎮西要略に 貞任の弟宗任・則任俘となり、宗任を松浦に配す とあり、また筑紫軍記に 貞任力つきて討死す。舎弟宗任は降人に成り出にけり。生捕て上洛あり。八幡太郎義家彼が命を助けて肥前國に流罪せしめ、渡辺源次久に預けり、源次一人の娘ありしを宗任に妻せて下松浦に住せしむ、其子安倍三郎実任とぞ申ける。 という。何れにしても宗任が筑紫に配流されたことは認むる事が出来よう。然らば、彼の子孫が松浦に存在し得ることも当然考えられねばならぬ。 また源光寺系図に 堀川院の御宇寛治七年(一〇九三)召出され、肥前國松浦郡・彼杵郡並に壱州迄下し給わり、男子六人、一男波多、二男平戸、三男大村、四男日高、五男五島、六男佐志、嫡孫有浦佐志、人皇七十四代鳥羽御時より都に大番役致すは十二人、是を松浦党と申すなり とあり、共の末尾に「慶長十二年丁未三月日」と記されてある。此の系図書は取るに足らない記事が頗る多い。けれども慶長年間に松浦党と称する諸家の中に宗任の後なりと考えている者の有ったことは注目すべき点である。 この他、松浦公頼は大江氏の流で、源直の女婿となっている(松浦家世傳)。値賀氏の祖連はシナ人蘇船頭の子で、母が直に再嫁するとき伴われて直の養子となっている。(史淵第七輯長沼氏論文参照) 志自岐氏は家の字を冠する二字名の源氏であり、其の他筑前國怡土郡松浦党中村氏は本姓藤原氏である。(史淵第十輯長沼氏論文参照) また家世伝にも、出自不詳の異族として、日高・呼子・奈留・吉井・佐里・田平・小浜・上大杉・下大杉・千北・船原・中村・小田・寒水・塩津留・北村・大石・久保田・和多田・別府・簗瀬・波多島等の諸氏が挙げられている。 元来党とは血族関係を有する諸家の結合団体の称であるが、この松浦党は斯る純一氏族の団体ではなかった。 四、源為朝と松浦党 保元物語によれば、源為朝は幼より勇を恃んで人を凌ぎ、父に逐われて九州に下り.豊後にいて尾張の権守家遠を傅(めのと)とし、肥後國阿曾平四郎忠景の子三郎忠國が婿となり、自ら九國の惣追捕使と号し、悪行が多かったので、為義は其のため官を解かれた。為朝之を聞いて罪を謝するため部下廿八人を具して上京した。丁度その時保元の乱が起ったため、父に従い崇徳上皇方に味方し、戦敗れて大島に流された。 松浦と為朝との関係は、彼の廿八騎中に松浦の二郎左中次と云う者が加わっている点のみである。然し松浦地方には為朝関係の伝説が頗る多い。但し其の証據となる資料はないようで、到底伝説の域を脱することが出来ぬ。よってこれらは後日の研究に待つ事とする。 五、平氏と松浦党 松浦の荘は初め前筑後守國兼法師の私領であったが、その手國通これを女大江氏に伝え、更に卒政子に譲り、政子はこれを建春門院に寄進した。門院薨去の後は景勝光院に寄進せられ、永く荘号地となった。其の四至、東は松浦川並に東郷の堺山を限り、西は木須峯並に波多津西崎、南は大瀬並に杵島一荘を堺とし、北は海並に加加良島に至る(荘園志料)。今の東松浦郡唐津市の全部と西松浦郡の東北部一帯に亘る廣大な地域である。 建春門院は平時信の女で、高倉天皇の御生母に当らせられる御方である。されば源平時代に於ては松浦党が平氏の勢力下にあった事は、平家物語壇の浦合戦の條に さる程に平家は千余艘を三手につくる。まづ山鹿の兵藤次秀遠五百余艘で先陣に漕ぎ向ふ。松浦党三百余艘で二陣につづく。平家の君達二百余艘で三陣に続き給へり とあるによっても知ることが出来る。なお之によって松浦党は既に西陲の一大勢力となっていた事も知ることが出来る。 第三編 鎌倉幕府時代の松浦 概説 本編は源頼朝が鎌倉幕府を創設(建久四年一一九三)してより、北條高時の滅亡(元弘三年一三三三)に至る、凡そ百四十年間の記述である。 本期間は政治の実権が武人の手に移り、地方豪族は悉く鎌倉幕府の威令に服した時代で、松浦地方も亦幕府の統制下にあった。此の間に蒙古の侵入があり、直接戦禍を蒙った松浦党は最も勇敢に奮戦したので、戦後に於ての同党の勢力は一段の強大を加うるに至った。幕府は幸に時宗の英断によって、克く此の外敵を撃退したものの、戦後の経営に疲れ、為に其の滅亡となった。 本期間に於ける世界の大勢を按ずるに、其の前半は、欧洲諸國の王權は未だ確立せず、法王権の最も強盛な時代で、宗教心の強いキリスト教徒がマホメツド教徒に對する所謂十字軍の時代である。 東方シナでは南宋不振の時代で、蒙古族が將に蒙古地方より蹴起せんとする時期に当っている。 本期の後半は、欧洲に於ては人道学派の擡頭や文運復活の曙光が見え出し、これにつれて法王権の衰微を来たした頃であった。然し欧洲各國の王権はまだまだ確立されてはいなかった。 シナでは旋風の如く起った蒙古帝國が欧亜大陸に跨り君臨した。実に蒙古族の極盛時代であった。 第一章 松浦党の発展 其二 一、松浦党の結束と其の分布 源久の諸子が、松浦の各地方に分散して土地の開発に当ったことは、己に前章に述べておいたが、就中宇野御厨を継いだ直の諸子は附近に繁衍して松浦党の中心勢力を成すに至った。 建久元年(一一九〇)源頼朝が六十六國総追捕使となるや、峯披(ひらく)らは兄弟悉く之に属して御家人となり、政所の下文を得て所領の安堵を認められた。正治二年(一二 〇〇)頼朝薨じて頼家継ぐや、峯披・松浦栄・山代囲・大河野知・津吉重平らは打揃って鎌倉に至り、頼家より旧領安堵の命を受けた(松浦家世傳)。蓋しこれらの諸子は一党結束の勢力を利用して鎌倉將軍の再認可を得たものである。 当時松浦党の分布を見るに、上松浦の東部には波多・石志・神田・佐志などの諸族が蟠踞し、其の西部より下松浦一円に亘りて直の諸子が分布していた。左に其の概要を記そう。 松浦公頼 直の養子で松浦氏を称したが、五代で絶えた。 松浦 清 直の嫡子で今福の加治屋城におり、のち相神浦に移り松浦氏を称した。 有田 栄 清の弟で唐船城におり、有田氏と称した。 大河野遊 栄の弟で、日在(ひありの)城におり大河野氏を称した。鶴田氏が此の城にいたのは後年のことで、鶴田氏は波多氏の分家である。 峯 披 遊の弟で、今の伊萬里市の東南方郊外の峯にいた(伊萬理市立花町に峯という部落がある。飯田補註)。披はのち下松浦の田平に移り、平戸松浦氏の祖となった。 山代囲 披の弟で、山代城におり山代氏を称した。 八並彊 囲の弟で、八並(所在不明、杵島郡に八並村があるが如何)に住し、八並氏を称した。 以上主として松浦家世傳に拠る 値賀連 連はシナ人蘇船頭の子で、母清原三子女が直に再嫁の時の連子である。小値賀(下松浦)を領し値賀氏を称した。(史淵第七輯元寇と松浦党による) これらの諸子は年を経るに従い其の分脈も多くなり、所謂松浦四十八党を成すに至った。尤も松浦党中には幾多の異族が附属していたことは前章既に述べた通りである。 二、伊萬里氏の起源 伊萬里浦はもと辨済司公眞高の邑であったが、治承年中耕稼者が居なくなったので、一度これを返上した。ところが幾何もなく墓崎(つかざき)の地頭宗明の有となった。峯披は宗明の領有に異議を唱えたので、宗明は之を辞退し、茲に伊萬里浦は峯氏の領有となった。 さて披は眞高の子が津吉重平の妻の兄に当る因縁によって、重平一代を限り伊萬里浦を支配せしむる事としておいた。然るに重平は鎌倉に申して、伊萬里浦は津吉島と共に津吉氏世伝の地であるから、旧に依って我に領知せしめられたしと願い出た。北條時政は將軍実朝の命を受けて之を重平に與えた。時に元久二年(一二〇五)のことである。 これより前、峯披は所領の内、伊萬里浦・福島・楠泊其他の地を割き、次子上(のぼる)に譲ることにしておいた。そこで上は其の譲状を証として重平の領有に異議を唱え、遂に重平の死後は上の手に返る事となった(松浦家世傳参照)。 上には嗣子が無かったので、大河野遊の孫留が其の養子となり、此地に来住し、因って以て伊萬里氏と称することとなった。 第二章 元寇と松浦党 一、文永の役 文永五年(一二六八)正月蒙古王忽必烈は高麗を介して書を我に贈り使を通ぜんことを求めた。時の執権北條時宗は書辞の無礼なるを怒って返書を與えず、鎮西の將士に令して警備を厳にし以て彼の来寇に備えしめた。同八年元使(蒙古は此年国号を元と改めた)が再び来朝した。我はまた之に答えなかった。 同十一年(一二七四)十月元兵来寇し、其数凡そ二萬三千、戦艦九百余艘を似て直に対馬を屠り、壱岐を略し、進んで松浦に侵入した。松浦党よく防戦し、山代諧は壱岐に戦死し、其他党人の戦死するもの頗る多かった。蒙古寇記によると 比に松浦と称するは肥前松浦のことで、此頃松浦党は己に繋衍して、松浦・波多・石志・神田・佐志・相知・有田・大河野・峯・山代・八並・紐指・鷹島・鶴田・鴨打・木島・黒川・清水・吉永・牛方・志佐・吉野・宇久・早岐・御厨・小佐々・伊萬里・津吉の数十家に分れ、西方の巨族なり、皆肥前の西部から壱岐の間に居た。蒙古の来寇にはその衝に当っているので、戦わざらんと欲しても戦わざるを得なかった。但し恨むらくは、其の姓名と功績とが缺けて伝わっていない。(蒙古寇記の大意を採る) かくて賊は進んで博多に上陸した。少貳・大友・菊池・原田の諸族が防戦大いに努めたけれども、賊の打出す大砲には我軍大いに困惑し、遂に退いて水城に據ることにした。賊も亦戦い疲れて進む力なく、退いて海上の船艦に據った。時に大風俄に起り、賊船多く覆没し、一部は遽てて遁れ去った。こは十廿日のことで、翌廿一日早朝敵艦一艘志賀島に遁遅れているのを発見し、之を捕えて悉く士卒を殺した。 東國通鑑によると、蒙古軍は還らざるもの無慮萬三千五百余人であった。 二、弘安の役 建治元年(一二七五)元使社世忠が博多に来た。時宗之を鎌倉に斬り、筑紫に探題をおいて軍事を督せしめ、鎮西の諸豪に命じて東は多々良浜より西は今津に至る海岸に防壘を築かしめた。九州治乱記によると 異國警備のため、関東御下知を加えられ、九州の武士に課役を以て建治二年三月より博多の津に石築地を構へらる。其所博多冷泉津より北の方三四里が間を、高さ四五丈に大石を畳み、屏風を立てたる如くに事々敷築之 太宰少貳資能兼て太宰府に在て此事を奉行す、因茲鎮西の輩各々人夫を具して博多の津に向ひ、請取の役所を定め、彼石築地を普請す、其輩には、筑前に原田孫次郎種遠・秋月左衛門尉種頼・曲淵次郎・宗像大宮司・千手・黒川・山鹿・麻生・少貳の一族は不及言、(中略) 肥前国に高木伯耆六郎家宗・龍造寺左衛尉季盛・国分彌次郎季高・三浦・深堀彌五郎時仲・大村太郎家直・越中次郎左衛門尉長員・安富・深江民部三郎頼清・有馬左衛門尉朝澄・後藤三郎氏明・同塚崎十郎定朝・薩摩十郎公員・白石次郎入道・多久太郎宗国・於保四郎種宗・馬渡美濃八郎・今村三郎・田尻六郎能家・綾部又三郎幸重、上松浦に波多太郎・鴨打次郎・鶴田五郎馴、下松浦に松浦丹後権守定・峯五郎省・平戸源五郎答・伊萬里次郎入道如性・山代又三郎栄 以下両党の輩(中略)悉く博多へ馳集勤之九国の大儀是に過ぐるはなし とある。是によっても肥筑の諸豪と共に松浦党活躍の有様を知ることが出来る。 時宗は建治二年令を発して高麗を伐たん事を計り、西海・山陰・山陽・南海の諸道に戦備を命じたので、松浦党の意気更に軒昂たるものがあった。但し此の企は実行されずして終った。 弘安二年(一二七九)元使周福等また対馬に来た。依って之を博多に斬った。元は使者が殺されたのを知り、愈々大挙入冠に決し、一軍は忻都・洪茶丘等が四萬の兵と、軍船九百艘に將として、江南軍と壱岐に会し、直に太宰府を衝くこととした。 そこで忻都等は弘安四年五月三日先ず合浦を発し、五月廿一日壱岐を侵し、島民三百を殺した。松浦党は少貳・龍造寺・彼岐・千葉・高木の諸族と共に瀬戸浦に邀撃し、賊將を打取ったけれども、賊の打出す大砲には披靡し.山代又三郎栄・佐志次郎継らは傷つき、少貳資時は戦死するに至った。 賊は進んで博多に迫ったが、六月五六日志賀島の戦に大敗し、陣中また病疫に斃るる者が多かったので、士気漸く振わず、此の間に我將士は悉く太宰府に集り、海岸の石壘十数里の間守備愈々堅く、為に賊は上陸することを得なかった。大矢野種保や草野経永や河野通有などの勇戦も、松浦党の石志兼・相知比・宇久競などの奮闘もこの時のことである。(伏敵篇巻四参照) また松浦党山代文書には、御厨預所源右衛門・太郎兵衛尉・志佐小次郎・志佐三郎入道・津吉円性房・平戸卒五郎湛・有田次郎・大島又次郎の諸氏が弘安役の勲功者として見えている。(史淵第四輯元寇と神風参照) 初め元軍は六月十五日前に壱岐に於て両軍相会する予定であったが、東路軍は既に博多に迫ったのに、江南軍は期に遅れて来らず、為に忻都らは一先ず退いて壱岐に據った。漸くにして范文虎が来り、能古・志賀の二島に拠った。忻都らも壱岐より来って之に合した。我軍の防禦は益々堅く、敵の上陸を許さなかったので、賊は移って鷹島に拠った。会々范文虎は海中の異象(海中に青*(虫レ)見れ、流黄の気天に漲る)を見て懼を抱き、師を棄てて眞先に遁れ去った(伏敵篇参照) 茲にいう鷹島は肥前国のそれではなく玄海島のことであろう。長沼賢海氏は「元寇と神風」と題する論文(史淵第四輯)にその事を評論しておられる 七月晦日の夜颶風大いに起り、翌閏七月一日に至り益々甚しく、怒濤賊船を砕き、溺死する者算なく海上死屍を以て蔽うた。忻都、茶丘ら皆遁れ、范文虎・張禧は平戸より遁れ還った。大森金五郎氏によれば、 張禧といふ人は用心の宜い人で、颶風の襲来することを予期していたものか、船艦と船艦とを五十歩づつ隔てて鎖を以て繋いでおいて、自分は平戸に上陸して壘を築いて入っていた。夫故諸將の船は悉く破壊したが此の人の船のみは安全であった。 すると范文虎は最早戦争も是迄と観念したものか、張禧に向って「お前の船に乗って本國に帰ろう」と云ひ出した。張禧は之を聞いて、余りの事であるから答へて曰ふやう「士卒の溺死した者は約半数であるが、死を免れた者は皆壮士であるから、之を率ゐて思ふ存分に戦ったならば、まだ勝利を得られぬ事もあるまい」と述べたが、范文虎は之を打消して、更に張禧に向って「帰國して若し罪に処せられるやうな事があったならば、我輩が一人で其の責に当るから、貴公も心配には及ばぬ」と云ったので、張禧も長官の命令で是非ない訳であるから遂に船を分けて與へた。(大森氏日本全史) という。張禧らが平戸へ避難の模様より察するに、此の地方はこれより前に江南軍に占領されていたもののようである。 さて賊の敗残兵七千許り松浦の鷹島に遁れ来て、船を繕い遁れ去ろうとするのを偵知した少貳景資は鎮西の兵を以て五日より七日に至る三日間これを襲い討った。此の最後の戦場は鷹島の西方、屋鹿半島の千(ち)崎(血崎とも書く)と北方青島との中間の所謂みくりやの海上で、是れ実に元寇殲減の処である。 この役に元軍の還らないもの凡そ十萬、高麗軍も亦七千を超えており、敗卒三人が遁れ帰って具さに実情を陳べたので、初めて其の大敗が知れ渡り、范支虎らは死罪に処せられた。 鷹島考 本島は肥前国北松浦郡の最北海上に屹立し、東一帯、水を隔てて東松浦に対し、伊万里湾口を扼す、周囲凡そ十里、阿翁免字御舘は当時某将が牙営を設けたりしと称し、今猶其跡に留面庵(一名首塚、石田五郎を葬るという)と名くる一小堂あり、其周辺に累々として存する古墳及鬼塚等は当時殉難士の墳塋にして、唐船ノ原、死浦、地獄谷、前生死岩、後生死岩、遠見船唐津、唐人波戸等の旧名あり(伏敵篇巻四雑記) 三、元寇役の恩賞 元寇役後は勲功の將士にそれぞれ恩賞の沙汰があった。松浦党では山代栄・班島又太郎・神田五郎糺・相神浦六郎家弘・多比良五郎入道尊聖・寒水井原三郎・松浦次郎延・相神浦次郎入道妙蓮などは其の重なるものであった。(史淵第六輯鏡山猛氏の元寇恩賞地に就て参照)されば松浦党としては相当の所領を得てその勢力は益々伸張し次期の吉野朝時代には西陲の主要勢力となった。 元来この度の行賞には、第一與うべき領地が少い。第二社寺に対しても伏敵祈祷の恩賞をも與えねばならぬ、第三には元の再挙に備えて國防を巌にせねばならぬ。それで行賞は豊富でないのみか、却って反抗力の弱い社寺の領地を奪って之に充てられた形跡がある。それでさえなお恩賞洩れの者があるなど、実に戦後の処理は困難なものであった。これは延いて北條氏滅亡の一因となったのである。 |
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第四編 南北朝より 桃山時代の終に至る松浦 概 説 本編は鎌倉幕府の滅亡(元弘三年一三三五)より吉野朝・室町時代を経て桃山時代の終りに至る約二百四十年間を通じての記述である。 此の期間を通じて各地の豪族は大義名分を辨えず、只管自己の利害によって行動した。松浦党も亦此の情勢中に妄動し、漸次勢力を消耗し、遂に豊臣氏のために統一さるるに至った。 海外との交通は弘安の役後一時全く杜絶の有様であったが、豪邁不羈の気象に富んだ私貿易の徒は政府の保護外に立って彼我の間に盛んに往復した。而してこれが要衝に当ったのが松浦地方であり、これが主要の役を務めたのが多く松浦党人であった。シナ人の所謂倭寇とは即ち此等の輩を云うのであった。 本期間に於ける世界の大勢を按ずるに、本期の前半には英・佛の間に百年戦争が起り、バルカンにはトルコの侵略が始まり、東欧には帖木児の侵入があった。また中欧では諸侯の跋扈によって独逸の統一は阻害され、英国やポヘミヤでは宗教改革の烽火さえ見ゆるに至った。加之欧洲人を極度に恐怖せしめた黒死病の流行もまた此の頃の出来事で、実に欧洲は多難多事の時代であった。 シナでは元の最盛期は漸く去り、漢族の復興となり、元に代って明の統一を見るに至った。 本期の後半は、ドイツに起った宗教改革が延いて全欧洲の騒乱となり、其の解決は次期の初頃まで持越された。かかる騒動の中にも、一面には海上探険が盛んとなり、次いで欧洲人の東洋侵略となった。 シナでは多少の内乱はあったけれど、学術・工藝の発達は大に見るべきものがあり、明の最盛期をなした。 第一章 松浦党の活躍 一、北條氏と松浦党 北條氏は時宗ののち数代を経て高時に至り、暗愚にして人心を失った。 後醍醐天皇これを察し北條氏を亡ぼさんことを謀り、事顯われて隠岐国に流され給うた。 此の時楠木正成が卒先して義兵を挙げると、天下響応して起ち、足利尊氏は帰順し、新田義貞は鎌倉に攻め入り遂に高時をして自殺せしめた。これは元弘三年五月のことであった。 これより前、肥後の菊池武時は先ず兵を発して九州探題北條英時を攻めたが、少貳・大友らの変心によって敗死した。時に相知蓮賀は龍造寺又六郎家親を説いて勤王せしめ、少貳・大友らも亦前非を改め、共に英時を姪浜の舘に攻め殺した。 相知蓮賀 上松浦郡相知(今の東松浦郡和知町)の城主で、元弘の変より卒先して勤王を説き、龍造寺・高木・於保・深堀らの肥前の諸豪を勧めて勤王せしめ、少貳・大友らと共に英時を博多姪ノ浜に攻め殺した。建武中興の業成るに及び、蓮賀は上洛して京帥を守り、尊氏背叛の後は終始一貫克く吉野朝に忠誠を抽んでた。大正四年大正天皇御即位の大礼を挙げ給うや、其の功を追賞して従四位を贈らせ給うた。(佐賀縣郷土教育資料) 二、吉野朝と松浦党 其一 さきに官軍に帰順した足利尊氏は建武中興の功臣として厚く賞せられ、武家の棟梁として威望を集めていたが、公武の軋轢次第に高まり、遂に叛旗を翻すに至った。それで新田義貞・楠木正成らは勅を奉じて之を京都に破り、九州に敗走せしめた。 九州では菊池武敏が先ず兵を発して少貳貞経を有智山に討ち、進んで尊氏を多々良浜に邀え撃った。 時に建武三年三月のことであった。此時、波多・神田・佐志・松浦などの松浦党は戦い半にして尊氏に降り、戦局ために急転して官軍の敗北となり、武敏は肥後に退き、阿蘇惟直らは遁走の途中土民の為に殺された。松浦党が尊氏に降ったこの時の有様を太平記には次の通りに述べている。 搦手に廻りける松浦・神田の者共、將軍の御勢の僅に三百騎にも足らざりけるを二三萬騎にも見なし、磯打浪の音をも敵の鬨の声に聞きなしければ、俄に叶はじと思ふ心附いて一軍をもせず、旌を捲き冑を脱いで降人に出でにけり。菊池これを見て彌々難儀に思ひ、大勢の懸らぬ先にと急ぎ肥後へ引返す(中略)。今まで大敵なりし松浦・神田の者共將軍の小勢を大勢なりと見て降人に参りたりと其聞えありければ、將軍高・上杉の人々に向って宣ひけるは、言の下に骨を消し笑の中に刀を礪ぐは此比の人の心なり、されば少貳の一族どもは多年の恩顧なりしかども、正しく少貳を打ちつるも遠からぬ例ぞかし。是を見るにも松浦・神田如何なる野心を挿んでか、一軍をせず降人には出でたるらん。信心眞ある時は感応不思議を顯すことあり、今御方の小勢を大勢と見しこと不審無きにあらず、相構へて面々心赦しあるべからずと仰せければ、遙の末座に候ひける高駿河守進み出でて申けるは、誠に人の心の測り難きことは天より高く地より厚しと申せども、斯様の大儀に於ては、余りに人の心を御不審あっては争が早速の大功を成し給ふべき、就中御勢の多く見えて候ひける事、例なきにもあるべからず 云々 強力なる松浦党の降参が尊氏にとって如何に意外であったかを知ることが出来る。蓋し松浦党がとったこの行動は単に少勢を見誤ったという単純なものではなく、必ずや其の間に或種の工作が行われたものと見るべきであろう。 また九州治乱記には惟直戦死の有様を叙して 阿蘇の大宮司は、兄弟三人郎従二百人本國へ志し、肥前国小城山を越えし処に、千葉大隅守が所領の郷民共雲霞の如く集りて、落人遁さじと取籠る、阿蘇が兵是を防いで山上より大石を数多落しかけ打破りて通らむとす。地下人事ともせず千鳥がけに石を除け、大宮司と相戦ふ。大宮司が者共皆闘労れてければ、百六十余人矢場(やにわ)に討たれ、大將大宮司八郎惟直・同弟次郎太夫惟成一所に討死す。其弟惟澄も二ヶ所疵を蒙りしが、当の敵十四人切伏せ慕ふ者を追ひ拂ひ、兄の死骸を昇せて、辛々肥後へ帰りぬ とある。また以て地方の土民が事理を解せず蠢動していた当時の情勢を想像することが出来よう。 是れより前、下松浦の松浦定は元弘の初より官軍に属し菊池武重らと共に新田義貞を助け、処々に転戦して武勲を建てたが、竹下の戦に利を失い、次いで湊川の戦に敗れ、所領松浦に帰った。松浦に在った弟の勝は多々良浜の戦に神田・佐志の諸氏と共に尊氏に属したので、爾後松浦党の大部はこれと行動を共にする様になった。それで定は退いて小値賀に隠棲した。 湊川に勝った尊氏は京師に入って光明天皇を擁立して名分を偽装し、後醍醐天皇の吉野朝と對立したので地方民は其の去就に迷い、日本全土の争乱となった。 三、吉野朝と松浦党 其二 足利尊氏が多々良浜の戦に勝ってより、九州の諸家はこれに響応して勢俄に強大となり、官方の勢力は益々振わなくなった。それで都にあった菊池武重は暇を請うて肥後に下り、弟武敏と力を協せて近国の経路に務めた。また平戸の松浦定も京都を去って所領に帰り、懐良親王も亦征西將軍として肥後に下り給うたので、官軍の勢威大に揚った。 建武五年三月菊池武重は進んで筑後に入り、石垣山鷹取城に拠った。探題一色範氏入道道猷之を聞いて肥・筑の勢を促して之を攻め、却って敗退した。この戦に松浦党の死傷最も多く、二百五十余名の多きに及んでいる。(九州治乱記参照)此時の注進状には左の通り記されている。 注進 建武五年三月、於筑後国石垣山、菊池武重以下凶徒合戦之時 松浦一党等討死手負分捕並平合戦交 名事 一、飯田彦次郎定 討死 一、得富彦七家政 討死 一、中村彌三郎 頭に疵を被る 一、飯田次郎抑 討死 一、西浦源次郎持 討死 一、寒水井彦次郎 討死 一、宇久馬場七郎勇 討死 一、河崎五郎国兼 討死 一、同旗指五郎四郎 右こらり骨に射疵 一、同中間左近太郎 討死 一、巌本八郎守 討死 一、得末又太郎 討死 一、赤木堤彦六昵 討死 一、菖蒲隈本五郎 討死 一、常葉左衛門次郎重高 討死 一、隈辻十郎入道覚乗代子息八郎長 討死 一、波多馬渡五郎長 討死 一、長田又次郎(イ彦) 左の腰に射疵 一、赤木又次郎入道源栄代大塚三郎 右ひざ口に射疵 一、鴨打二股彌五郎階 分捕 一、鴨打彦六増 射疵 一、鴨打石田彦三郎 左肩先に射疵 以下略之 総合弐百五十四人 百五十人之内 一、壱岐野田五郎安 此人は三日合戦の後属今川殿御手高尾山攻之時 百五十人之内 一、壱岐石丸彌五郎近 同 前 (以上九州治乱記) とある。ところが向彦治郎氏所蔵の文書によれば「以下略之」の分をも精しく一々氏名を掲げられている。これに拠ると、上松浦地方の地名を姓とした人が最も多いので、この地方一帯が殆ど尊氏方であったことが知れる。よって煩雑を顧みず補説することとする。 手負分 一、佐志次郎勤 右モモ被射疵 一、同中間平六 討死 一、同旗差三郎五郎 右ホウ被射 一、同中間平四郎 カイカネ射疵 一、同中間平十郎 左ヒサフシ射疵 一、佐志多久小次郎前 右コウカイ射疵 一、同中間平三郎 頸切疵 一、鴨打彦六増 左ウデ射疵(前出) 一、鴨打石田彦三郎実 左肩先射疵(前出) 一、神田彦五郎調 左肩二ヶ所射疵 一、宮原八郎伝 左モモ射疵 一、赤木野中四郎友 右指切疵 一、木城源六納 右ヒタイ切疵 一、赤木森十郎上 左モモ射疵 一、神田五郎時 左太モモ射疵 一、窪田源三郎壱 右足射疵 一、大石又次郎全 左眛射疵 一、御厨小次郎並 左眛射疵 同 若党右馬允 左スネ射疵 一、同若党平六兵衛 右プラ射疵 同若党五郎三郎 左スネ射疵 一、同中門三郎太郎 左コカイナ切疵 一、御厨坂本彦次郎 左ノホウヨリ頸骨被射疵 一、御厨中尾小三郎勇 左カイナ射疵 一、御厨樋口三位房 左手大指合射疵 一、廣瀬九郎壱 左ノ手大指切疵 一、山本四郎入道円覚 頸射疵 一、山本弁房頼円 左ヒザブシ射疵 一、石志中七郎強 左モモフシ射疵 一、値賀次郎廣 左ヒサフシ射疵 同 旗差吉丸平九郎 頸骨射疵 一、値賀三郎穏 右大指射疵 一、長田彦次郎公光 左股射疵 一、大榲益田の太輔房源全 頭一ヶ所切疵スネ二ヶ所射疵 一、鶴田小次郎明 左ヒザロ射疵 一、江河彦九郎武 左スネ射疵 一、重松亦七固 左腹切疵 一、武有平四郎 右口ヲ射疵 一、千々賀五郎四郎種定 右乳上射疵 一、大石田小次郎奉 右スネ射疵 一、吉富太郎公廣 右肩先射疵 一、高野瓦野彌三郎 右ウデ射疵 一、相知孫太郎秀 右ウデ射疵 一、中村次郎左衛門尉勝 左ヒサシ射疵 同 親類左衛門三郎 右カイナ射疵 一、鶴田内田彌五郎入道子息亦七越 右肩切疵 左脇下射疵 一、波多四郎左衛門入道子息左衛門三郎 右腰射疵 一、大河野藤三入道子息彦四郎 左ノカイカネ切疵 一、河崎源五代大輔房 討死 一、波多亦三郎分若党左衛門次郎 討死 同 旗差得永 右腰骨射疵 一、赤木亦次郎入道源栄代大塚三郎 右ヒザ口射疵 一、佐志千壽丸代四郎太郎 左足キビス射疵 一、伊倉次郎入道浄佛分旗差三郎 頭射疵 一、神田八郎求分若党深江小次郎 左カイナ射疵 一、大石房丸代藤五 右耳下射疵 一、鴨打二保彌五郎階 分捕 一、樟崎熊若丸代糺藤五郎 一、佐志中島源五郎 一、四松彦童丸代中五郎 一、値賀浦彌源次 一、藤田彌五郎 一、佐志大島六郎次郎 一、佐志森孫三郎 一、得末大坪彌六 一、下津窪源次 一、大石前田孫 一、風早彌九郎 一、山口三郎入道 一、宮原亦四郎 一、米河又三郎 一、米河孫五郎 一、大野窪彦次郎 一、神田五郎入道後家尼妙惠代十薬彌三郎 一、大野源次郎 一、黒岩尼代深江小五郎 一、御厨堤彌次郎 一、御厨六郎三郎満 一、御厨小窪三郎次郎入道代籠九郎 一、御厨松野源五郎金 一、御厨佐井草野四郎糺 一、御厨樋口次郎入道代次郎太郎 一、御厨中村左衛門三郎 一、波多源太代松隈彌九郎 一、波多袈裟安丸代五郎四郎 一、波多有童丸代平四郎 一、波多山下四郎代子息源四郎 一、有田孫亀丸代三郎入道 一、得末亦三郎入道(不知)代孫太郎 一、古館又三郎 一、得末亦五郎為道 一、下津九三郎代七郎 一、得末彦三郎道義 一、大榲源五郎入道代源六 一、野中又三郎 一、飯田源次集 一、神田山口彦六縦 一、西浦三郎 一、神田山口亦 一、神田風早十郎三郎 一、相知孫三郎 一、相知孫次郎 一、相知孫次郎入道蓮喜代亦五郎 一、大河野曲田源八 一、大榲筑前房源知 一、瓦屋大夫房代孫三郎 一、寒水井寺山源十郎 一、大河野源三郎崇 一、塞水井源次入道 一、寒水井源三郎 一、安良久田五郎 一、惠科亦四郎兼縄 一、深堀又四郎至 一、鶴田中村源入道代近右衛門 一、中村三郎 一、中村六郎 一、大石原孫五郎 一、大石岩鶴丸代藤十郎 一、班石彦鶴丸納四郎秀直 一、壱岐内野五郎安 此仁者二日合戦以後属今川殿御手高山村貢之時致合戦 右注進如斯若此候偽申候者 日本六十余州大小神祗冥道殊者八幡大菩薩御罰各可罷蒙也 右本書在松浦十太輔契之家其亦当時之草案歟 暦応元年(一三三八)四月七日 (東松浦郡相知町向彦治郎氏所蔵) 上述の様に松浦党は武家方に味方するもの次第に多きを加え、延元四年(一三三九)正月高良山の戦には、松浦丹後守直・伊萬里彌次郎充・佐志左近將監有・草野次郎秀永(草野氏は筑後と松浦とに所領があったので度々松浦党と行動を共にした)らを初めとして、波多・佐志・神田・鴨打其他多数が武家方に味方したのに対し、宮方即ち菊池方に参加したのは草野次郎久永や松浦肥前守貞など数氏にすぎなかった。(九州治乱記より) 後村上天皇の正平四年(一三四九)足利右兵衛直冬が父尊氏と絶って九州に遁れ来るや、兼ねて一色道猷の横暴を悪んでいた少貳頼尚は直冬を奉じて太宰府に拠った。これより九州は宮方・武家方・佐殿方の三派に分れて相争うに至り、松浦党亦これに追隨して相争った。斯く互に攻争すること約三年、頼尚が宮方に降るや、直冬は其の支援を失い、遂に石見に落去した。すると頼尚は再び背いて武家方に返り、九州は又々両派に分れて相争うようになった。 超えて正平十四年(一三五九)七月には菊池武光らが征西將軍営懐良親王を奉じて大に大保原に戦い、大捷を博した。此時松浦丹後守勝は平戸肥前守直・佐志左近將監有・同修理亮・有田出雲守持・山代彌三郎弘・伊南里源三郎貞・波多太郎武・鴨打彦六増らを初め、松浦党の大部は殆ど武家方であった。(九州治乱記より)此の戦の結果は征西將軍の威令大に振い、一時は殆ど九州全土を圧するに至った。 これより前、後醍醐天皇は吉野御潜行後四年にして崩じ給い(延元四年八月)、後には後村上(在位三十年)・長慶(在位十五年)の二帝を経て後亀山天皇の元中九年(一三九二)に至り、神器を京都の後小松天皇に譲り給い、天下は再び統一の政治を仰ぐことが出来た。 九州治乱記 松浦党の行動を知るには最も重要なる資料であるから本書には数々これを引用することとした。 |
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四、松浦党の会盟 松浦地方は肥前国の西北部の半島部とその附近に碁布する大小無数の島嶼とより成り、山岳・丘陵・港湾などによって、狭小なる地域に区劃されているも、気候が温和で、且つ魚塩の利に富み、古くから住民は相当繁殖していた。されば此の小地域毎に首領が割拠して、統一の政權は確立していなかった。其処に突然蒙古軍の侵入と来たから、小党分争の愚を覚り、一党結束の実を挙ぐる様に成ったものである。然しこれは主として下松浦党の動きで、上松浦の諸族のみが別に一揆を結成したか否かは不明であり、また上下松浦党が一体に成ったことも猶疑問の余地がある。これについては長沼賢海氏の次のような論文がある。曰く。 下松浦党が一揆して一体の党を形成していたことに開し、最も古い確かな史料の年代は弘安十年であるが、彼等が会盟して締結した規約にして、現存せるものの一番古いものは応安六年(一三七三)の契約状であり、これについで嘉慶二年(一三八八)、明徳三年(一三九二)、明徳四年のものが、都合四通ある。 契約の主なる條項は(著者において之を要約して左に掲ぐることとする)応安六年のものは 一、公方に対して忠勤を抽んずべきこと 二、一揆中、所領等につき論争が起った場合は会合者の多数に依って決すること 三、一揆中の事件を処理するには情実を去って理非善悪を基として決定すること 四、一揆の多数の決議に背くものは、一揆中より除名すること 五、一揆各自の部下に乱暴を働くものが有った場合は、一揆の多数決を待って処理すること などが重な條頂となっている。ところが嘉慶以後は其の條項が次第に変化し、応永二十八年(一四二一)の契約書なるものには 松浦家世伝に拠れば 応永二十八年八月二十一日総松浦党が会盟して三事を契約した其の 第一、京都探題千葉胤鎮に有事の際は、上下郡の松浦氏が心を併せて忠を致すべき事 第二、各邑の事は事理に従ひ、時宜を論ずべし 第三、各邑若し一矢の相違の事あらば緩急相救ふ事 此の中第一條の京都探題千葉氏とあるは不可解である 中略 第二第三の條項も党の従来の精神を現はしたるものとして、少しく見当が外れて居るやうである。併しそれは原文の意を取るに拙であったのであろう。しかも各邑を基本とし、一揆衆中を基本とせざるやうな文書は全く其の伝統に一致しない。 これら三條の内容よりして此の契約状なるものを疑はざるを得ない。少くとも原文とかなり相違したものとしてよからう。 次に其の連名者について次の様に述べられている。 従来数度の会盟に全く加らなかった上松浦党の家々の名が頗る多く見られている。波多・相知・寒水井(そうずい)・神田・中村・呼子の如きそれである。殊に呼子・神田の如きは室町時代の末にならなければ諸家の文書に出て来ないものである。松浦一揆の結束が最も強固であったと思はれる吉野朝時代に於てすら、上下の松浦党が一揆し得なかったものが、応永も末になって各単位の細胞が特に結党を固くする傾向が見えて来る時代になって、それが統合会盟したといふ事は疑はしい。かく此時の会盟者であると云ふ連名に據って此の契約状がいかがはしく思はれる。 更に考へるに、此の契約状なるものの原本が、上松浦党の両有浦文書(班鳥文書)・中村文書・石志文書・下松浦党の伊萬里文書・山代文書・青方文書等に全く所見がない。勿論松浦伯爵家(平戸)文書にもなく、松浦文書類に入れられている松浦諸家の文書にも所見がないことは、又此の契約状なるものの異偽を考へさせる一の理由にならう。以上三つの点について此の契約なるものは、疑ふ余地が十分にある。けれども一概にむげに偽作とも思はれない節もある。或は多少拠るべきもののあったのを改作して、平戸松浦氏が当時既に上下松浦党の盟主であったかの如く見せしめやうとしたものと考へられる節がある。以下略(詳細は史淵第十輯松浦党の発展及び其の党的生活参照のこと) また至徳四年(一三八七)八月十一日付の盟約文なるものが、西松浦郡誌・佐世保発達史・松浦家世伝などに載せられている。これにも多数の上松浦党の名が記されている。而して其の契約條項は記されていない。多分長沼氏は前同様の見地より黙殺されたものと思われる。 第二章 松浦党の海外発展(倭寇) 一、八幡船の由来 倭寇とはシナ人が我國の対明貿易船につけた名で、日本の侵略者という意味である。 倭寇の船には八幡大菩薩の旗を立てていたので、これを八幡船と言った。 一体八幡大菩薩とは欽明天皇の三十一年(五七〇)に、肥後の国で二歳の幼児が「我は誉田八幡なり」と託宣し給うたので、これより応神天皇を八幡宮として神に祭り、それが奈良朝に至り本地垂迹説のために神佛混合して八幡大菩薩と称する様になったものである。更に平安朝に入り、四條天皇の嘉禎元年(一二三五)京都東福寺の僧圓珍が入宋の際暴風に遇い、同行の船二艘が沈没した時、濁り圓珍の船には八幡大菩薩が顯現し給うて彼を擁護せられたので、其船のみは無事であった。これより八幡大菩薩は海上保護の神として信仰さるるようになった。(竹越与三郎著和冦記参照) (補註) この項は竹越氏の倭寇記をそのまゝ引用されたものであるが、竹越氏の原文に錯誤がある。第一、四條天皇の嘉禎元年(一二三五)は既に鎌倉時代に入って五十年を経た頃、将軍頼経、執権泰時の時代で、決して平安時代ではない。第二、この年入宋したのは後に東福寺の開山となった圓爾辨圓(一二〇二〜一二八〇)であって、圓珍とするのは大変な間違である。圓珍(八一四〜九一)は平安前期文徳天皇仁寿三年(八五三)入唐して在唐六年、帰朝ののち延暦寺座主となり、入寂後の延長五年(九二七)智証大師の号を賜わりまた天台宗寺門派の祖と仰がるゝに至った人。辨圓は嘉禎元年(一二三五)入宋無準師範に禅を学んで仁治三年(一二四一)帰朝、博多に崇福寺、承天寺などを開き、のち藤原道家に請ぜられて東福寺の開山となり、また聖一国師の号を賜わった人である。 第三、八幡神が大菩薩と称せられたのは、記録によれば平安時代の初め、新抄格勅符抄に引く所の廷暦十七年(七九八)十二月廿一日附大宰府宛の大政官符が最初であるとされている。(辻善之助博士 日本仏教史の研究七八頁) なお、八幡神はもと宇佐に鎮まっていたもの、天平勝宝元年(七四九)大仏造立を機として奈良に勧請されて手向山に鎮まり、のち平安時代となって清和天皇貞観二年(八六〇)再び宇佐より迎えられて石清水に祭られ、後また後冷泉天皇康平六年(一〇六三)源頼義の手によって鎌倉由比郷に勧請された。頼朝が鎌倉に幕府を開くや、現在の地に社殿を営んで大に崇敬を加え、源氏の氏神と仰いだが、神威は御家人全般に光被して武門の擁護神となり、かくて八幡神を以て武神とする信仰が確立した。のちに倭寇の船が八幡船と呼ばれる程に主として八幡大菩薩を守護神と仰いだのは、それが単に海上守護の神であるよりもむしろ武神であったによるところが多かったのではないかと思われる。単なる海上守護神としては他にいくらも考えられに筈だからである。 なおまた因に言えば、辨圓が入宋の際その船が将に没せんとしたとき、八幡大菩薩の擁護によって難を免れたということは、虎関師錬(一二七八−一三四六)の元亨釈書(一三二二奏上)の巻第七辨圓傳に記されている。其の文は極めて簡潔で、『爾乗る所の船忽ち一女人あり、怪んで爾問うて曰く、宗船元婦人なし、何くより来るやと、女曰く我は是れ八幡大菩薩なり、師を擁護せんのみと。言己って即ち隠る。故に敗るるなし』というのである。而してかく八幡大菩薩の擁護が加えられるに至った原因は同じ辨圓傳の他の部分の記載によれば、辨圓が嘗て鎌倉の寿福寺に在って入宋の志を企てたとき、鶴岡八幡の神祠に法華八講を開いて祈願をこめたことに由るらしく推察される。茲で辨圓に対しては八幡はまだ少しも武神としての性格を示してはいないが、また一方此の一事が後来海上守護の主神たる地位を確立した原因であるとするならば、そのためには更に多くの論証がなされねばならぬ。(飯田一郎記。) 二、倭寇の起源 倭寇の起源は明かでないが、中國・四國・九州殊に松浦地方の住民が古くから大陸方面と交通していたことは疑のないところである。既に第三編第ー章に述べたように、松浦党の首領源直の後妻清原三子女は先夫蘇船頭との間に生れた一子を連子して再嫁して来ている。此の事実より推せば松浦地方では社会の上層に立つ良家の子女さえ、シナ人との通婚を忌避しないほど互に親善関係にあった。而して此の直は確に源平時代の人であるから、平安朝の末期には日シ両民族の結合が出来て、彼我の貿易が行われていた事を知ることが出来る。 鎌倉時代には、我国では近海を乗廻わして交易を行っていた者は自ら呼んで海賊と称していた。これは盗賊行為を意味するのでなく、海軍というほどの意味である。此等の輩はシナ人と提携して彼我の間に貿易を営んでいた。ところが室町時代となると、狡猾なシナ商人や貪慾な官吏の非行が甚だしくなったので、自衛的反抗を余儀なくされ、これが昂じて遂に掠奪に変って、それに不逞のシナ人が参加して益々暴威を振うようになった。之が倭寇の実態である。 三、倭寇と松浦党 倭寇の有様は朝鮮では高麗朝の高宗・元宗を経て忠烈王の頃に及び、シナでは南宗の理崇から元の世租を経て成宗・武宗の頃に及んで、我が海賊の両國に侵寇する者が益々多くなり、青野朝時代に入っては我が国内が乱れて、田園は荒廃し、物質は缺乏し、生活が甚だ困難になって来た。そこで諸国の豪族及び亡命不逞の徒は海外に航して掠奪を事とするやうになり、九州沿岸・瀬戸内海附近の海賊(水軍)及び一般庶民のうち野心あるものは頻りに朝鮮・シナの沿岸に侵寇を試みた。(国民の日本歴史吉野時代) と簡単の記事にとどめて置くこととする。 飜って松浦党の活動ぶりを見るに、海東諸国記によれば、九州節度使源教直・小城の千葉介元胤・呼子壱岐守源義・上松浦波多島の源納・鴨打源水・同九沙島主藤原次郎納・同那護野宝泉寺の源祐仁・同丹後太守源盛・神田能登守源徳・同佐志源次郎・同九沙島主藤原朝臣筑後守義永・下松浦壱岐州太守志佐源義・同三栗野太守源満・同山城太守源吉・五島宇久守源勝・田平の寓鎮源朝臣弾正少弼弘・平戸の寓鎮肥前太守源義・上松浦那久野藤原頼永・同多久豊前守源宗伝・同波多下野守源泰・下松浦大島太守源朝臣貞・同一岐津崎太守源義・五島悼(いたべ)大島太島源朝臣貞茂・五島玉浦守源朝臣茂・五島日島太守藤原朝臣盛・彼枝郡彼杵遠江清原朝臣清男・大村太守源重俊・風島津太守源信吉・平戸寓鎮肥前州太守源豊久らが歳貢と称して、毎年一船或は二三船の往復を約している。思うに朝鮮政府は此等の人々は大友麾下の土豪と知りながら、其の侵略の煩に堪えず、貿易船発遣を許可して其の掠奪から免れんとしたもので、以て松浦党活躍の有様を想像することが出来よう。 一方シナに対しては一層侵略の猛威を擅にした。此時松浦党の如何なる人物が如何なる活動をなしたかは不明であるが、シナ人汪直が平戸松浦氏の優遇を受けていた点より推して、彼の麾下には多数の松浦党が加わっていたと察せられる。 汪直は明の安徽省の生れで、我が五島の福江に根拠を構え、淅江省の双嶼島と相策応して大に明の沿岸を掠奪した賊魁である。天文十年(一五四一)松浦隆信に招かれて平戸に移り、宮の町勝尾岳に宏壮の邸宅を営み、自ら徽王と称して威儀を王侯に擬した。天文十四年(一五四五)より弘治元年(一五五五)に至る間は明の嘉靖二十四年より三十四年に当り、倭寇の最も猛威を振った頃で、堂々海を圧した数萬の賊徒は多くは九州の勇士であったものと思われる。「松浦の三十六島悉く汪直の命を奉じた」と明人が言ったのも之を裏書するものであろう。 汪直の死後は倭寇の勢力次第に衰え、我国に於ても豊臣秀吉の天下統一となり、次いで徳川幕府の開設となり、茲に松浦地方は佐賀・唐津・平戸の各藩に分治せらるる事となり、倭寇は漸く終熄するに至った。とは言え猶お藩政時代に於て鄭芝龍が平戸に来り田川氏の女を娶り成功を生ませたのも、成功父子三代台湾島に拠って活動したのも、また伊藤小左衛門や末次平蔵らが平戸・五島を基地として密貿易を行ったのも、畢竟松浦党との因縁によるもので、此の日シ両民族の協同運動こそは蓋し特筆すべきものであろう。 |
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第三章 松浦党の内訌 第一節 平戸松浦氏の興隆 一、松浦氏の起り 松浦直の子峯披が源頼朝より所領安堵を得て鎌倉の家人となったことは既に前に述ベておいた(第三編第一章)。以後、披−持−繋−湛−答を経て定に至り、時代はちょうど吉野朝の混乱期に当り定は大に勤皇に励んだが、弟の勝はのちに尊氏に属し、兄を逐うて平戸の主となった。 此の頃(元徳年間)、平戸島の河内浦に大渡長者と称せられた富豪がいた。表面は塩と鯨油の商人であったが、内実は多数の船舶を持って海賊を働いていた。此の長者に唯一人の女があった。勝はこれを納れて妻となし、遂に其の家督をも継承して、茲に確乎たる地盤を固めた。勝の後は理−直−勝−芳を経て是興に至り、生月・紐差・津吉を征服し、次代豊久は佐々を取り、其子弘定は江迎を合せ、弘定の子興信は五島を併せ、次いで相神浦を併せんとして茲に多年に亘る戦端が開かれ(次節参照)其の子隆信の時に及んで漸く和平を見るに至った。隆信は五峰汪直を平戸に招き、次いで葡萄牙人を入れて海外貿易の利を占め、且つ鉄砲や大砲を得て大に国力を充実した。次代鎮信は相神浦を合せ、南の方大村氏と境界を協定して以て紛争を絶ち、北は壱岐の日高氏と助けて之を麾下となし、勢益々隆盛となり斯くて豊太閤の征韓役に及んだ。 |
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平戸 松浦氏
二、相神浦と平戸の攻争 其一 平戸の主松浦弘定は兼てより南の方本陸に領土を開拓しようと其の機会をねらっていたので、相神浦丹後守政は有馬貴純・少貳政資らに好を通じて之に備えていた。明応三年(一四九四)少貳政資が上松浦に入り、波多・鶴田・草野・佐志等を循えるに及び、貴純は進んで平戸を攻め、松浦弘定は敗れて大内義興に走った。政資依って政には其の女を嫁わし、貴純には平戸を与え以て上下松浦を其の麾下に収めた。貴純はまた平戸を田平昌に与えたので、昌は平戸に帰り旧知を懐けた。これより相神浦は有馬・少貳を背景として、其の威力は下松浦を圧するものがあった。かくて少貳氏の威望益々揚がると見た大内義興は明応六年(一四九七)大挙して政資を小城に攻め殺し、有馬貴純に迫って平戸を旧主松浦弘定に返さしめた。(九州治乱記佐世保発達史参照) 松浦興信養父弘定に継いで平戸の主となり、陰に相神浦を討って旧怨を雪がん事を謀り、明応七年(一四九八)八月俄に大智庵城を襲って政を殺し、其の妻と一子幸松丸とを捕えて平戸に還った。其の翌八年十一月十五日幸松丸母子は遁れて有田唐船城に入ることが出来た。此の間の事情は印山記に次の如く記されている。 松浦丹後守政は相神酒・有田・今福・黒島を領して大智庵に城廓を構へおはしける。元は当家の一族なりしが、如何なる故にか互に確執に及び、取合に及ぶ事度々也。然るに天文七年(一五三八)戊戌三月崎辺に関狩を催し、石嶽山南の野をとり巻き、くつわを並べ、射手を揃へ、足軽・土民山を伐り、野に火を放ち、獣を多く狩出に、鹿一つ政の前を走り通りしを、山田四郎左衛門追様に射留めたり。政是を見給ひ、推参の至りと甚だ怒り追出されける。山田兄弟せん方なく、打連て興信を頼り居けるが、狩場の意趣わすれがたく、折を以て相神浦へ御出陣を勧めける。興信も日頃憤り止されば、相神浦へ寄せよとて、天文九年(一五四〇)庚子八月二日大野源五郎定久を頭として、南入道宗知・西玄蕃・加藤左馬・近藤・一部・籠手田・小佐々・田平の一族都合二百余騎、同夜子の刻大智庵の城に押寄せ、大手・搦手の手分けをなし、北の方に人知らぬ細道ありけるより、山田兄弟忍び入べしとて、大手・搦手同時に閧の聲を揚る。城方にも爰をせんどと守り居る矢先、北の方人知らぬ細道より、山田兄弟案内は知りたり、城内に忍び入り、ひとしく家々に火を掛け、思ひもよらぬ方より焼立ければ.下郎共逃迷ふを追かけ切伏せ、何処に政はおはしますと尋る処に、政は太刀を横たへ、童子二人召具して出合ひ給へば山田兄弟名乗かけ御自害をすすむ。童子御袖をひかへ、御自害は心静に遊ばされよと、政を奥に入れまいらせ、狼籍は山田兄弟、主君に背く天罰思ひ知れ迚小長刀振廻せば、流石に無精の山田も気白けて見へたりける、斯る間に、寄手乱れ入り、火は盛んとなり、政も自害あり、童子も討死しければ、政の首を取り奉り、内室並に子息幸松丸を生捕し、夜中に平戸へ引取りける。幸松丸も其時五才、内室は三十七計りにてみめかたち優しかりける。興信憐みて河内に小家を作り、河内殿と申していたわり給ひしかど、内室は夫を討れて身は敵に渡りぬる事の悲しきよ、兎にも角にも物うく、良々もすれば自害の色さへ見えければ、興信も此由を察し、幸松丸に頓て本領を返へさるべきなど、言ひなだめ給ふにぞ少しは心とけにける。去程に相神浦落城の夜、他所にて死を遂げざりし侍共、主君を討たせ御妻子を奪れし事口惜く思ひ、如何にしても此人々を取返さんと、河内の舘に忍び入り見れ共、用心厳しければ奪ふべき便なかりけり。扨一部・籠手田の両人が、興信の家の子に井関兵部と興信を諌めけるは、彼幸松丸殿成長せらるれば、当家の大敵たるべし、虎を養ひて患を残すと申事の候、彼の人を誅せらるる方宜しかるべしとぞ申ける。されども興信許容なければ、兵部禰々憤り、所詮一命を捨て、幸松殿を討奉らば、君への忠節と思ひを定め窺ひけるを、内室密に聞き給へば、或夜忍びやかに此事を頼み入との文を認め、有田の庄山・池田が方へ遣しける。庄山返事に、今福の年の宮は幸松殿氏神にて渡らせ給へば、御詣成されよ、其節奪ひ奉らんとの由を書て、彼使に参りたる下女の着物の襟に縫ひ入れて返しける。内室此状を見給ひて、十一月十五日年の宮詣りの暇を請ふて、幸松丸殿を被遣、兵部・籠手田斯くある事とは夢にも知らず、帰途にて討奉らんと覚悟して、あながちに御供申しける。今福には兼ねて期したる事なれば、池田・庄山・大曲浦の人々形を替へ、此処彼処に隠れ居て待ち受ける。既に幸松丸殿は年の宮の拝殿に上り給ふに、太鼓鈴ふる声の内に、宝殿の脇より彼人を盗み行方知れず頓て有田唐船の城に籠め奉れば、家の子郎従馳せ集り、昔に替らず栄え給ふ。其後相神浦飯盛に移り給ふ、時に十五才とぞ聞えし。 詮 印山記に天文とあるは明応とするが正しかるべし 三、相神浦と平戸の攻争 其二 幸松丸は長じて名を丹後守親と改め、相神浦に飯盛城を築いて之に移り、一意本宗勢力の回復を計り密に戦備を修めた。 天文十年(一五四一)平戸興信歿し、共の子隆信が後を継いだ。かねて幸松丸の脱走を遺恨とし、且つ平戸年来の慾望たる南進策の遂行を企図していた彼は、遂に天文十一年九月兵を発して飯盛城を攻めた。予て期したる相神浦は防戦よく勉めて勝敗容易に決せず、翌年遂に和議を媾じ、隆信の三男九郎親を相神浦に養子とし、且つ鷹島を平戸に譲りて平和となった。 是より前、親が防戦を続くるに当って有馬晴純入道仙岩の援助を求めて、彼の次男境(盛佐高とも書す、又さかうとよむ)を養子に迎えた。然るに有馬よりは何等の援兵をも与えなかったので、相神浦は遂に平戸と和を結ぶこととなった(三光譜録佐世保発達史参照) かくて年を経ること二十四年、永禄十年(一五六七)に至り、親(丹後守)の前養子盛(有馬五郎)が突然相神浦に帰つて来た。実は前年平戸と和を結ぶに当り有馬方には何等の話をつけていなかったので、盛の帰来についてはその処置に困った。 蓋し一方を離縁すれば必ず之と争闘を惹起す恐れがあったからである。そこで一策を案じて、親(平戸九郎)を相神浦に、盛(有馬五郎)を有田に居らしむる事とし、丹後守自身は入道して宗全と号し、全く隠遁して終つた。(三光譜録参照の事) 第二節 有田氏の盛衰 有田氏は御厨公源清の次弟栄より出でている。栄の子は究、究の子は重、重に男子がなかったので、其の女石亀の婿として宗家松浦直の二男給を迎えた。給の後は持、持の後は実、此の二代は共に養子でその本姓は詳かでない。以後は勝・延・進・盛・定・政の六代は何れも宗家御厨城主が丹後守と称して有田城を兼領していた。政は明応七年(一四九八)平戸興信のために殺され、其の子丹後守親(幸松丸)は平戸に捕えられて後遁れて相神浦に移り、丹後守を称し、有馬仙岩の二男境(盛又は佐高)を以て有田唐船城主となしたことは、既に前章に詳述した通りである。 さて有田に入った盛は有馬の老将有馬将監と謀り、元亀三年(一五七二)正月兵を起して相神浦を攻めたが却って大敗して唐船城に引上げた。この有様を印山記には次の如く記されている。 有馬修理大夫の子佐高と云ひしは、元は松浦丹後守の養子なりしが、去る永禄年中相神浦籠城の刻に有馬に呼び置き、平戸和睦の後丹後守へ返しければ、親(平戸九郎)を養子と定めし後なれば、佐高をば唐船の城に籠め置きける。佐高此事を無念に思ひ、有田あたり居住の侍に恩を以てなづけ、元亀二年辛未十二月二十九日有馬将監と内談し、侍共を呼び寄せ、来正月相神浦へ押寄せ一戦を決すべし、運を開くに於ては恩賞は功によるべし、各二心なき印に熊野の牛王に誓紙を可被致と、皆々に書かせける。山本右京私宅へ帰へりつくづくと思ふ様、武士は二君に仕へざるを本意とす、誓文は左もあれ、重代の主君に弓を引かん事叶ふまじと思ひ切り、夜ふけ方に懐妊の女房と五才になる幼子を連れ、家財は打捨、西岳さして落ち行きしに、折節大雪降りつもり、花さかぬ木もなく、何処を道とも辨へがたく漸く西の平に越す。折節女房産の紐をときければ、右京甲斐々々しく取扱ひ、妻子を相稲の山家に預け置き、其身は漸く西岳を越え親方へ参り、佐高が逆心を具さに語りければ、無数の忠節なり、当座の褒美として小三河と云ふ所を馬の飼料に給はりける。扨親より早馬にて鎮信へ注進すれば、則ち鎮信出馬あり、其勢三百余人、元亀三年壬申正月二日春分まで押寄せ給へば、相神浦勢馳せ加り、同二十日相榴ケ原にて合戦あり、両将一家の事なれば、親子、兄弟敵味方となり修羅の巷ぞ浅ましき。 甲斐瀬佐右衛門は兄の首を取りしが、右京は或る木蔭に馬の足を休めて居る敵の有りしを、遠矢に射落し見れば我父の美濃なり、心ならずも五逆の罪を得たる事よと泪を流し三つの首に札を添へ親(平戸九郎)へ送り、其身は山王山にて腹かき切り失せにけり。かくて平戸勢勝に乗じて、桃野兵庫を初めとして、叫いて掛れば、佐高は四五十に打ち残され、心ならずも有田に引にけり(割註は著者の添加なり) 此の如く佐高の相神浦侵入は全く失敗に終り、爾来勢愈々振わなくなり、偶々天正四年(一五七六)六月龍造寺隆信大挙して西松浦に侵入し、伊萬里・山代の両氏を降すに当り、佐高は病歿したので、其の後室は家人池田武藤守を遣わして隆信に請うて、其の末弟で須古城主なる阿波守信周の三男信脇を養子に迎うる事とした。是に於て有田氏は全く龍造寺氏に属する事となった。 因に須舌城主信周の死後信脇は須古に帰ったので、更に其弟の宝林院の僧豪圓を還俗せしめ、有田八右衛門茂成と名乗らしめ、唐船城主とした。 第三節 波多氏の興亡 一、波多氏の起り 波多氏は源直の弟持の後で持の子は親、親の子は勇、勇以後数十年間即ち室町時代の初期に至る間は、波多姓を称する武人の活動が屡々見受けられるけれど、其の継承の如何は詳かでない。諸家に伝わる波多系図なるものも多種多様で、何れを正として採ることも出来ぬ。医王寺に存する五人の位牌は只法号と歿年月を記したのみで、其の行年の如きは信を置くに足らず、其の本名も亦不明である。また松浦古事記に載する処も取るに足らぬ偽作と思われる。 二、波多氏の内訌 戦国時代に入り、西肥諸豪の攻争に際し、波多氏は下野守興に至り、巧に反服離合して次第に勢力を伸張し、有馬仙岩・相神浦親(幸松丸)・平戸肥前守興信らと婚を通じ、遂に上松浦の大部を統率するようになった。下野守興の後は其の子壱岐守盛が継いだが、盛は嗣子なくして天文十一年(一五四二)に卒したので、後室は鶴田・相知・日高らの諸氏が壱岐守の弟志摩守某の子を迎えようというのを排して、下野守の孫に当る有馬仙岩の子藤童丸を迎えて岸岳城の主となした。是即ち三河守親である。 此の三河守親の迎立は同族間の内訌を激化し、一路波多氏滅亡に向つて突進するようになった。此の間の事情を松浦拾風土記には次の如く記されている。 波多壱岐守盛は上松浦郡と壱州を領せしが、壱岐守に子なければ誰をか跡に立つべきと評定しけるに壱岐守の舎弟志摩守の子息高・重・正三人の内をと家の子共は思ひけれども、後室許容なく、有馬修理太夫の二男藤童丸こそ下野守殿の孫にて侍れば、此人にこそ波多家をつかしむべしと、隠密の諸令に及び、同心すべき侍には美女金銀を取らせ、否む者を遠ざけられ、何卒して藤童丸を取りたしとの事なりしが、家中一致せざれば後室是を恨み、是は日高大和が力よとて、遊宴の折節鴆毒を与へしこそ恐しけれ、幾程もなく大和死去せしかば、嫡子甲斐後室を深く恨み、永禄七年(一五六四)甲子十二月廿九日岸岳城に出仕して、歳末の祝賀を終り退出せしとき、それと相図しければ、城に火をかけ焼立てける。此煙を見てすはや心得たりと、甲斐同意の者ども、我も我もと馳せ来りて、憎しと思ふ者をば射伏せ切り伏せ、散々に追立ければ、後室もせん方なく後ろの谷を伝ひ、近き女共七人許り召具し其内に甲斐が娘を人質に取り、打連れて草野をさして落ち給ふ 云々 また松浦家世伝系図には、下野守興の長子は壱岐守盛で、天文十一年の卒去となり、盛の弟志摩守(名は不詳)の長子隆は盛の養子となり、弘治元年(一五五五)に自匁し、隆の弟重と正とは永緑十二年(一五六九)同時に殺害されている。 されば前記の松浦拾風土記と之とを合せ考える時、此の内訌が如何に深刻なものであったかを知る事が出来る。斯る内訌のうちに鶴田・相知・日高などの諸氏は全く離散して終った。 三、鶴田氏の離反 波多氏の大支柱であった鶴田氏が離反するに至った事情は、松浦拾風土記によれば 獅子城を築かれし其時、鶴田越前守前は波多家の大身故彼城主として差おきし也。然るに波多下野守殿死去の後、壱岐守盛死後三河守殿幼年故、御母後室世を知り給ひし。或時越前守鬼子城に到しが、如何なる故かありけん、大手の門柱を三刀切りて、再び此城には入らじと出てられし。やがて近巻の衆を催し鬼士城を攻め、遂に鬼士落城に及び、後室は藤童丸を相伴ひ、草野殿を頼り居られしとかや。 此時相知掃部等も鶴田に属せしとなり。 是れより先、有浦大和守は後室の勘気を受け、小城の眞名古(まなご)に浪人せしを、越前守より位を遣はし、我が味方に参らば有浦の本地元の如く宛行はんと申越せしに、有浦も折節浪人成る故、鶴田へ従ひ居られし、此時越前守波多の領分不残領知せしなり とあり、また三河守母子が一旦草野に遁れた後、岸岳を恢復するに至った事情は次のように記されている。 四、有浦値賀両氏の反服 大和守或時思ひしは、己前は鶴田・有浦共に波多家の臣なりしが、今彼が家に馬を繋く事こそ安からね。我此度事を揚げ、鬼士岳を元の如くせんとて、先づ草野に居給ふ後室の方へ、七枚起請を書て偽りなき由をぞ申上られける。後室の仰せには、此頃の侍表裏あれば、此豺狼の輩の斯く言ふ事信じ難し、されど七枚起請と言ふ事遂に見たる事なし、兎にも角にも七枚起請に任せ行くべしとて、有浦が屋敷に御移り有り、草野殿簾中と後室とは姉妹にして値賀伊勢守殿の女なり、此縁を似て行き給ふ。大和守は大に喜んで故友の数士を催すに、皆々鶴田に従ふ事本意ならねば、有浦に組して岸岳を攻め落し、後室・藤童丸を再び主君となせし也。此時獅子城へは龍造寺より二千人の後詰有りし故、波多方より和を入れ候とかや(松浦拾風土記) 斯くの如く、三河守母子は雌伏五年、内々値賀・有浦などを帰服せしめ、外は龍遣寺隆信に請うて、其の援軍を、得遂に永禄十二年(一五六九)十二月廿七日俄に起って岸岳城を陥れ、再び旧領に就くことが出来た。 既にして隆信は遂に其の野望を露わし、天正元年(一五七三)兵を発して岸岳城を攻めた。三河守は其の敵すべからざるを知り、八並武蔵・福井山城を遣わし和を媾ぜしめた。これより龍造寺氏の威力益々加わり、遂に天正十年(一五八二)其の要求を容れて、隆信の女秀の前(安子、実は龍造寺胤栄の女で、前に小田鎮光に嫁していた。)と婚し、且つ龍造寺政家の子彌太郎(孫太郎又孫三郎とも言ふ)を迎うる事とした。 五、波多氏の滅亡 越えて天正十二年(一五八四)薩摩の島津義久が北進して有馬氏を援くるや、龍造寺隆信は先ず有馬氏を討とうとして、同年三月島原に出征し、却って島津軍のために殺された。是に於て龍造寺氏の遺領は鍋島加賀守直茂の手に帰し、波多氏は復た其の制肘を受くる事となった。 そもそもこの三河守親は有馬仙岩の子で、父を援けた島津氏を徳とし、密に之に通じて鍋島氏の覇絆を免れようと、其の機の至るを狙っていた。其処に豊臣秀吉が島津征伐のため九州に下り、諸侯に出兵を命じた。鍋島氏は直に出兵したのに、波多氏は之に応じなかった。 また秀吉が征韓の本営を名護屋に設くるや、三河守は内心之を喜ばず、秀吉下向の際には博多出迎の時刻に遅れて、公の不興を招いた。ついで文禄元年(一五九二)在韓の師を出すや、三河守は鍋島直茂の麾下として出陣したものの、順天山の戦に敵の重囲に陥り、援軍は至らず、空しく時日を費して功績が挙らなかった。 以上の諸因は遂に秀吉の怒に触れ、城邑は没収せられ、身は常陸の國に流罪となり、始祖源持以来四百余年を伝えた波多氏も茲に全く滅亡するに至った。時に文禄三年(一五九四)五月であった。 六、波多氏滅亡の内情 波多氏没落の事情については種々の記録がある。松浦拾風土記によると 太閤秀吉公名護屋御城御下向の節、筑前博多に於て九州の諸大名が御出迎の御目見相勤めけるに、波多三河守遅参候故、御尋ねありければ、鍋島加賀守取り合せて、波多三河守は私領下の者に候得者、私御目見相勤候以上は子細の儀御座なきよし申上しに、其節は先づ其儘に召しおかれ、後れて三河守参着致し、早速に御前に出てけれども、何の御意もあらざれば、手持無沙汰に退出し、其後名護屋御城に於て浅野弾正少弼・石田治部少輔などに依り、首尾を繕ひけれども、終に独礼の御目見なし。朝鮮帰陣の上宜敷御沙汰あるべきよし仰せ渡され召し置れしなり。是れ全く秀吉公隣國の諸大名を改易の上名護屋の御城を寺澤志摩守へ下し置かれ、朝鮮國固め被仰付、没収の地悉く宛行はるべき思召也。 と記されている。これは当時松浦党一般にそう考えていた事を表わしたものであろう。蓋し豊臣秀吉が波多氏を滅ぼし、寵臣寺沢廣高を以て之に代えることは予定の筋書であったと思われる。これは甫庵太閤記の記事に依っても知る事が出来る。即ち 一、波多三河守事 鍋島加賀守与力に被仰付る上は同前に出勢せしむべきの処、臆病をかまへ、熊川(こもかい)口船着に隠れ居候事、怯者と云ひ、無所存と云ひ、かたがた以て其罪甚だ探く候事 一、名護屋は波多領地の処、今度旅館に取立て居城せしめ候間、別て左様の気遣ひをも仕り、先手へ罷越すべきの処、却て船着を便り、若しやの時節を相待つの由、其闘へ隠れなく候事 一、此頃都(朝鮮京城のことか)へ有之諸勢引取候砌、途中へ罷出、其品を補ひ、其輩に準せんと欲する由、殊に以て猛悪の義、諸人への見こらしめに、機ものにも掛させられ候はんずれども、死罪をは免許せしめ候、勿論知行分は召上げられ、家財等は下し置かれ候専 一、先年九州へ出馬せしむるの刻、波多事改易に及ぶべきの処、立ておき下され候様にと鍋島手を束ね面をも柔らげ、佗びこと申すに依り、本知分安堵せしめ畢ぬ。其上遠國の儀不便に思召し、京都の普請並に関東陣をも御免成され候ひき、左様の事をも存出でざる儀、傍若無人、是非に及はざるの事 一、其身事 黒田甲斐守所へ預けおき候様、其意を得べき者なり、勘忍領分の義は追て仰せ出でらるべく候事 文禄三年五月三日(一五九四) 秀吉在判 朝鮮在陣衆 参る いま此文の内容を検するに、卑怯にも熊川口に隠れて居た事と、着船を待って若しやの時節を待っていた事とは、前者は卑怯で、後者は大胆で、前後甚だ矛盾している。次に物品掠奪の罪を挙げられているが、これは独り三河守のみの問題でなく、総ての出征将士に関する事柄である。次の九州出兵の際、命を奉じなかったので改易すべきであったと言っているが、思うに以上あげられた罪状は畢竟罰せんがための罪状に過ぎないものであろう。 朝鮮役に於ては波多氏の働きが、甚だ卑怯であったように伝えられているが、黒川源八郎の手記によると、三河守様大将となり、松浦党七百五十騎にて高麗に出陣し、文禄二癸己年十二月廿五日朝鮮順天山に攻め入り、同廿九日まで相戦ひ、敵の大勢と数度の手合せに、味方三百余騎に打なされ、山寺に相籠り、敵二萬騎程にて囲まれ、味方僅かにて防き難く、鉄砲を以て相放つべしと下知に依って、大将分十二人討取りし故、敵敗軍、明正月下旬やうやく釜山海に出て候、名護屋より為年始、諸大名節々黄金・馬代さし越され、皆々拝受の処、波多氏遅く釜山海に出てられ候故、太刀・馬代名護屋へ持帰り候、大勢討たれ、共働きの次第言上すべき時なき間文禄三甲午年二月九日御勘気を蒙り、松平家康へ御預け候、三河守即時入道大翁了徹と改名す、文禄三甲午年五月、黒川源八郎(松浦拾風土記参照) とある。此の源八郎は黒川村で五百石を領していた三河守の重臣で、三河守に従って出征した勇士である。されば此の記事は眞実性が多いようである。されば僅か七百五十騎の寡兵を以て二萬の大敵に囲まれ、孤立無援の地で悪戦苦闘し、克く其の重囲を破って帰って来た武功は殊勲甲に倍すべきものではあるまいか。波多氏の滅亡については、今一つの哀話がある。 秀吉が名護屋在陣中、三河守の妻秀の前の美貌を聞き、彼に名護屋伺候を促した。秀の前は辞退したけれども、再三の下命に辞みかねて、若しやの時を覚悟して秀吉の前に出た。其時不覚にも懐剣を落したのを見咎められ、太閤の前をも憚らず懐剣を持つとは甚だ不都合の至りと、御憤り一方ならず、其申開が出来るまでは謹慎申付けるとの厳命であった。此事が延いて三河守の身上に及び、筑波山下に流罪の一因となった。(松浦拾風土記の大意を抄録) と伝えられている。但し是は恐らく後人の偽作であろう。或は之に類した事があったかも知れぬと思われる節もある。それは佐賀城主鍋島直茂の妻は前髪を抜き、容貌を変えて秀吉に謁したと伝えられており、また武雄城主後藤家信の妻に関しては次のような文書がある。 今度つち御料人、太閤様へ御礼なさるべくの通り仰せ出られ候由、御薬院より此方まで、御状到来に付て申込候処、善次郎(つち姫の夫家信)殿、留守の儀候間、如何あるべき哉の由尤に候、乍去上意の所申分くべき事、才覚に及ばず候條、早々御参りの御分別より外之なく候、然る時は善次殿御帰朝候て、自然何かと仰せられ候はば、右の趣、是よりも申分くべく候、兼ねて又御料人若し御帰宅に於ては重縁の儀共然るべくの様、見合申すべき事、疎意あるべからず候、猶右又兵相達らるべく候恐々謹言 十一月廿四日 龍造寺阿波守周光 鍋島豊前守房重 鶴田因幡守殿 勝屋与三左衛門殿 後藤太郎左衛門殿 御宿所(鶴田文書を訳出) 此文によれば、槌姫は早々名護屋へ伺候するより外に方策はない。若し家信帰朝の上で何か争議が起った場合は申訳を致しましょう。又不縁になった場合は重縁の儀を然るべく取計いましょうと、最悪の場合までも考えての勧告状である。 して見ると三河守の留守宅に於ても、秀の前が名護屋に伺候したことはやはり事実とすべきであろう。 岸嶽城 吉志峯城又鬼士城とも書く。唐津より三里己午の方、城高さ十三間余、坂道難所也、曲輸三つ。構の廻り十丁余、大手より西の向本北より一丁、下に出水あり 城山四方嶮岨、山深く茂り、近辺の山低し、城門口三ヶ所、大手より本城迄二十三丁四間三尺、搦手水門より本城迄三十二丁五間三尺、大谷城より本城迄二十五丁五間、本丸東西五十一間、南北九十三間、矢倉数八ヶ所、二ノ丸東西百五十間、南北六十三間、此間に一ノ堀切あり長さ五十二間、深さ十五間、三ノ丸東西百八十五間、南北六十五間、此間二ノ堀切あり長さ七十三間、深さ二十四間五尺 一、腰曲輪、茶園の平といふ処あり、侍屋鋪跡分明也南北八丁の所也 一、本城より東北に当り少し踏下り水の手出水あり 一、本城に御手水場二ツあり、所々石垣慥なり、一の堀切より二の堀切迄長さ三十三丁と云ふ。二の丸長さ四丁本丸長さ三丁、横一丁半。東の方に三右衛門殿丸といふあり。 一、城山より南に当て米の山あり、麓の川をスソ川と云ふ。里に下りて東川と云ふ。 一、大手佐里の方 搦手岸山の方なり 一、波多殿旗下諸士在番屋鋪、佐里村にあり。 旧跡甲傳多し、佐々木殿屋鋪と云ふ処稗田村にあり、波多公の旗下諸士在番屋鋪、竹有村、山彦村の内に数多有之、安藝殿坂と云ふ処同村にあり、即屋鋪也 一、大手門口馬乗馬場あり、女郎町の跡、岸山村にあり、大門口絵馬場あり。(松浦記集成) |
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第四節 日高氏の去就 一、曰高氏の出自 日高氏は松浦家世伝に出自不詳の公族中に入れてある。尤も有浦文書第三巻松浦党の系図に 一、嵯峨天皇第十二御子孫、源氏長者正二位左大臣融公之末葉、奥州阿部宗任九州江遠流、其後召被出、肥前國松浦之郡下預り、子孫繁シテ松浦郡並壱州迄、一族之知行成 (中略) 松浦党之大将 一、波多参河 宗任之一 一、田平 平戸之等也 同二 今ハ松浦刑部法印 一、日高 同三 一、大村 同四 一、五島 同五 一、志佐 同六 〆 (以下略) とあり、また源光寺系図には 人皇七十二代白河院御宇、融大臣後胤、阿部宗任関東にて謀叛、伊予父子遂宣旨ヲ宗任九州江遠流、 同七十三代堀川院御宇、寛治七年被召出、肥前國松浦郡彼杵並壱州迄下し給り、男子六八、一男波多、二平戸、三大村、四日高、五五島、六志佐 以下略 とある。但し此の二書共に十分の信を置き難いので、暫く出自不詳に止めることにする。 二、日高氏の活動 九州治乱記に、暦応二年(延元四年一三三九)高良山の戦に参加した者の中に日高氏が見えており、斑島文書中に日高八郎なる者が観応二年(正平六年一三五一)九月十日と、同十月三日付で、足利直冬退治の軍忠状二通が見出される。曰高氏の松浦史上に活動し出したのは蓋し此の頃よりの事であろう。 また松浦家世伝の系図によれば、応安七年(一三七四)より至徳元年(一三八四)に至る間に、日高下野守盛なるものの事跡あるも、以後凡そ百五十年間何等見る処なく、駿河守威に至り波多氏に仕え、其の子大和守資は上松浦の浦村に日高城を築いて之に居たと記されている。蓋し日高氏は壱岐を本拠として上松浦に驥足を伸ばし、波多氏麾下の一勢力であり、波多壱岐守盛の死後、継嗣問題で内訌が起り、大和守は毒殺され、其の子甲斐守喜が不意に起って、岸岳城を襲ひ、三河守母子を逐うたことは既に前節に述べたところである。之より甲斐守は屋賀・有浦・浦村などを前哨地として、岸岳城に鶴田氏擁護の大支柱と成った。 三、日高氏平戸に属す 印山記によれば、後室密に龍造寺を頼み、甲斐を討たんと企てある事隠れなかりしかば、永禄十二年(一五六九)の冬の頃、甲斐方より只管隆信(平戸)へ加勢を乞はれければ、子息鎮信を大将として其の勢三百騎、兵船に打乗り、十二月廿七日屋賀浦迄出で給へども、折節北風烈しかりしに、鎮信思召すには、月迫にて人々油断すべし、かかる時節を窺ふて龍造寺より押寄せん、如何して助力せんと思召けれども、波涛静かならざれば、一両日を過ぎてけり。案の如く其の夜龍造寺勢押寄せ閧の声を揚げたり。甲斐兄弟家来を集め酒宴の半なれば、是はいかにと騒ぎたる計りにて、一支もささへずして追ひ立てられ、城中ははや放火しければ、甲斐は漸く小船に乗りて壱州を指して漂ひ行く、永禄七年(一五六四)の今夜は後室を追ひ落し、今年の今夜は又追ひ落され、誠に哀れなる世の中なり (中略) さる程に日高甲斐兄弟は壱州に安堵せしかども、上松浦より如何なる籌略を運らし寄する事もやあらんと、隆信(平戸)を頼らばやと、夜遊の序に立石図書に斯々と申しければ、図書莞爾と笑ひ、日来我等も存ずれども、他人の心如何と憚ありしに、偖ては心同義ぞや、日高・立石此の如きの上は、誰かは同せざらん、立石・日高誓紙を取替はし、壱州一円御手につくべき由、隆信へ使者を立て、其上証人として甲斐の息女を渡せしかば、隆信喜びて舎弟豊後守信実と夫婦の約束をなさしめ、壱州へ渡されければ、人々歓び大将とぞ仰ぎけれ 云々 四、日高氏宗氏を欺く 波多三河守は日高氏が壱州を以て平戸に属したのを遺憾とし、これを快復せんとして助けを対馬の宗氏に求めた。宗氏はこれを快諾し、計を設けて日高氏を討たんとし、却って彼の計略にかゝつて大敗した。此の時の有様を松浦拾風土記には次の様に記されている。 波多三河守後室は日高に恨み深さ縁者なれば、対馬へ日高退治の事を偏に頼み被申候。成就に於ては壱州半國は対州領たるべしとの約束なり。対州よりは順風次第に壱州に渡り、日高を退治すべき由にて、壱州勢の内に忍びを求めんと、家来の縁者より立石図書へ、波多の後室日高に恨み有るによりて我に加勢を乞はれ、来月順風を待ち其地へ渡り、日高を退治すべし、其節我に心を合せられ、事利運たらば賞功不浅との状を遣はしける。図書此状を披見すると、等しく信助方へ持参し見せければ、信助悦び、いざや対州をたばかり見んとて、立石の一族内々日高に恨みあるところ、隠書の趣渡りに船を得たるが如し、来月順風の時分、本宮浦海の方へ出て待ち受け、貴方の帆かけを見分け次第、在家を焼立つべし、それを相図に着岸候べし、先手仕り日高を追払ふべしとの返状遣しける。対州是を見て壱州を早く掌握したる心地してける。 扨壱州には日高信助を将として(部下の諸将名は略す)其勢五百余人、一手は松浦豊後守を大将として七百余人、相図の約束を堅めける。然るに、七月三日(元亀三年一五七二)対州の兵船六十艘計り、順風に帆を揚げ見ゆるといふ程こそあれ、本宮の在家を焼立ければ國中の侍は布気野浦の辺に馳せ集る。対州勢は此焼けるを見て、たばかられたるとは知らず、立石が相図よと、会釈もなく軍兵を船より上る所を、思ふ様に引受け、味方の勢は打違へかけ破れば、対州勢散々に打なされ、漸く船に乗り逃げたれ共、西風はげしければ上松浦をさして走らせ行くに、中程にて上松浦の兵船に出合せしかば、是と一つに成りて鷹島へ着せんとすれども、大曲休彌・同右京等の人々追立ければ、伊萬里へ落ち行く処に、一部・籠手田星賀口にささへ相戦ひ、打もらされたる軍兵わつかに百人余り、本國へぞ帰りける。 |
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第五節 鶴田氏の盛衰 一、鶴田氏の起り 鶴田氏は波多氏の分家で、持の第二子来の後である。来の子起は大河野知の女を娶って馴を産み、馴は鎌倉幕府より松浦郡の西郷佐里・壱岐泊・牛牧などの所領を確認せられた。是は寛元三年(一二四五)の頃のことである。(吾妻鏡巻卅六参照) 爾来吉野朝を経て室町時代の末に至る間は、其の勢力甚だ微弱にして、天文(一五一三 一一五五四)の頃因幡守伝に至り、大河野氏の所領を併するに及び勢漸く盛となった。大河野氏は代々日在城にいたが、後嗣が絶えた時、姻戚の関係ある鶴田因幡守の長子兵部大輔直を迎えて後継者としたのである。 二、立川の戦 龍造寺隆信は兼ねてより上松浦経略の野望があったので、天文十三年(一五四四)旗下龍造寺伯耆守盛家を大将として、大挙日在城を攻めしめた。直は之を立川(龍川とも記す)に邀撃し.奇兵を放って大勝を博した。鶴田家伝によれば、 天文十三年閏十一月二十二日、龍造寺伯耆守盛家(法名剛雲)・同隠岐守家久・同日向守信以並に千葉・高木等六千余人の勢を率して、鶴田兵部大輔直が大河野の城を攻む。盛家は龍川村の城の野に陣を張り、先陣は砥石川まで押寄せたり。兵部大輔は老臣峯刑部少輔に三百人を差副て、宵より盛家の陣の後、岳の野に隠しおき、其の身は千余人の勢にて砥石州乱橋(みだれはし)へ出向ひて防ぎ戦ふ。寄手大勢なりと雖も余りに張り責められて、城の野に引き退く。兵部大輔勝に乗って城の野に押寄せて攻め戦ふ。峯刑部少輔思ひも寄らぬ後より大将の陣に切ってかゝる。寄手の勢前後の敵に度を失ふて散々に成って遁げ走る。盛家も数ヶ所の疵を蒙り、龍川村の下原田まで退かれけるを、此美(このみ)新五兵衛(鶴田の家臣竜川の住人)追詰めて引組て首を取る。此原中に盛家の墓あり、夫より下原田を盛家原と云ひ伝ふ。隠岐守・日向守も同所にて討死せらる。兵部大輔大に勝利を得て、其名遠近に隠れなし 云々 三、獅子城と鶴田越前寺前(すすむ) 当城はもと治承(一一七七 一一八〇)より文治(一一八六 一一八九)の間、松浦丹後少将源披公初めて此処に城き居城とせらる。其の後孫平戸に移り玉ひ、跡は古城となる。少将の墓は城北波瀬(なみぜ)村の内にあり、又元亀天正(一五七〇 一五九一)の間、郡の日張城(日在城とも書く、川西に在り)の城主鶴田因幡守伝は鬼子岳城波多家の別家たりしが、東方龍造寺の強勢を恐れ、東口の固め大事なりと、鶴田の家弟越前守前強勇なるが故に、是を似て獅子城を再興して越前守に勢を付け守らしむ (松浦記集成) 越前守は立川合戦の際獅子城に據り、克く竜造寺勢を支えたので、彼も亦其の驍勇をたゝえらるるに至った。 獅子城址 本丸三百坪、二丸九百八十坪、三丸九百坪、山の口より大手迄九町、大手より本丸迄二町、山の口より本丸迄十一町。御番所より本丸迄十八町 四、鶴田氏(獅子城)と龍造寺氏 爾来竜造寺隆信は獅子城攻略が容易の業にあらざるを知り、鶴田氏とは親交をつづけながら徐ろに松浦経略の策をめぐらしていた。 斯くて元亀元年(一五七〇)大友宗が大挙して龍造寺氏を攻むるや、隆信は二子政家・家種を因幡守に托して獅子城に居らしめた。それで鶴田氏は陽に大友に従い、陰に龍造寺に通じ、大友氏策戦の牒報を彼に送った。此時大友方より臼杵鑑速・戸次鑑連の連名で、鶴田兄弟に対し、「来る十六日大雨ならざるに放ては國元打出べき由を通知し、後藤貴明(武雄城主)等と相談の上未明より打出で貞心を勤めるよう」申込んで来ている。(鶴田文書鑑速等の書面の文意を取る) ところが一方隆信の書信に、「明日豊州勢悉く帰陣の事になり、陣払の火色顕然たる事は申すに及ばず候」と通知している。(鶴田文書、隆信の書面の文意を取る)これ実に大友八郎を討取った今山陣(元亀元年八月十九日)の後、両軍間に和議が成立した時の書信である。してみると鶴田氏が龍造寺方に寄せた好意は.実に多大な効果を斎したものと見なければならぬ。然るに、隆信が天正元年(一五七三)岸岳城を攻めて三河守を降すや、越前守は濁り獅子城を守って屈しなかったけれど、城兵の戦死するものが多かつたので、兵部大輔(勝の子)の仲裁により、龍造寺阿波守と馬渡主殿助とを加番として城中におらしむることとして和を結んだ。これより獅子城は濁立性を失い、前の子上総介賢に至り、龍造寺の麾下に従属する事となり、多久に移った。強大国の前には弱小国家は結局屈伏しなければならぬ事は、古今東西を通じて其の軌を一にしている。 五、鶴田氏と後藤氏 隆信の横暴は更に大河野にも伸びて来た。天正十年(一五八二)三河守鎮が龍造寺氏より後妻を迎え、且つ嗣子として龍造寺政家の子彌三郎を迎うる事となるや、隆信は鶴田勝に対して三河守の麾下となるよう要請して来た。多年反目攻争をつづけて来た鶴田氏が三河守の部下に付くことは何としても忍びないところで、鶴田氏は隆信の無情を恚り、飽くまで反抗の意を固めた。隆信は大いに怒って、之を攻め潰そうとすると、家信(隆信の実子で武雄城主後藤貴明の養子)らが強て諫め、鶴田勝を武雄に預ることとした。是に於て鶴田氏は武雄の後藤氏麾下の一将と成って終った。 さて後藤氏が鶴田氏を庇護するに至った事情を尋ねると、初め後藤貴明は男子が無かつたので、松浦鎮信の弟惟明を平戸から養子に迎えた。ところが間もなく貴明に男子(晴明)が生れたので、惟明と次第に仲悪しくなり、遂に天正二年(一五七四)六月惟明は突然兵を挙げて貴明を逐うた。貴明は遁れて住吉に據った。之を知った鶴田因幡守勝は弟豊前守高と共に貴明を助け、龍造寺隆信も亦貴明の請を容れて援兵 を出したので、惟明は敗れて平戸に帰った。是に於て貴明は隆信の援助に酬ゆるため、其の子家信を以て養子とした。 家信は鶴田家が後藤家に対する好意や、元亀の頃彼の庇護を受けた恩義を思い、彼を武雄に迎うることとした。是は天正十一年(一五八三)以後の事であろう。此の間の事情は鶴田家伝に次のように記されている。 三河守は隆信公の御聟に成らせ給ひて、公の御余勢を以て漸く本領を領し、天正五年に岸岳の城に還住せらる。(隆信の聟となったのは天正十年である)然れば因幡守勝に、三河守の旗下に罷成り候へと、隆信公より仰せられけれども、因幡守敢て承引せず、居城に立籠ってぞ居たりける。隆信公是を聞召し、其儀ならば早速に攻め落さるべしとの御評定有之し処に、鍋島直茂公仰せられけるは、松浦表御手に属せしことは偏に因幡守内通の手術に依れり、然るに其功を捨てられ、打果さんこと本意にあらず、且又三河守の旗下に成られまじきと申候こそ、尤も至極にて候間、後藤家信公に召預けられ然るべしと仰せらる。 殊更家信公は兼て御入魂浅からず、仰せ通せられし御間なれば、因幡守をば是非某へ御預け候へ、若し御許容なくして攻めらるるに於ては、因幡守が城に駈入て共に切腹仕らんと頻りに仰せられたりければ、攻めらるること相止めらる。依之其の年の中に大河野を去って武雄に移住せり。 |
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第六節 草野氏の興亡 一、草野氏の出自 松浦の草野氏は菊池氏の族なる高木氏の流で、代々鏡宮の大宮司である。菊池系図には、高木文貞−季貞−貞永−長國とあり、この長國が草野と号したとある(姓氏家系辞書) 筑後の草野氏は松浦草野氏の分流で、永経が始めて草野に住したので草野氏を称した。永経の子永平は文治年間の人である。(姓氏家系辞書) いずれにしても松浦の草野氏と筑後の草野氏とは同族なる事は間違ない処であろう。また松浦拾風土記によると、 草野太郎永平は寿永年中(一一八二〜八五)源平大合戦の時 九州の諸士共は平家方に参る、永平は源氏に附く。 故に頼朝公より大禄を賜ふ。同州筑後に城廓を築ひて住す。男子無き故に肥前國松浦郡草野石見守を養子聟と為し、草野筑後守雅覚と号す、委敷は鏡大明神御系図八枚目に出づ。両國に同名あること不思議なり、嫡子勘解由、次男雅量に筑後御原の本城を譲ること別系に出づ。故に之を略す。次男貞家肥前上松浦郡藤原の或家、則ち草野氏を継ぎ権守貞家と号す。是より大名となる。鬼が城に住す。神職は一族多治見・青木氏其子帯刀相貞・其子四郎入道圓雅元弘建武の乱に宮方に属す。元弘二年壬申八月廿九日依軍功賜綸旨、(綸旨には草野次郎入道円種女子藤原氏女云々日付は元弘二年八月廿九日とあり、書写の際の誤か)其子四郎武永・其子四郎永治・其養子石見守廣村・其子左京太夫茂成・其子大膳太夫茂勝・其子伊予守茂信・其子土佐守廣高・其子長門守永久に至り、南山之為城主、天文二十一年(一五五二)八月廿一日逝去し、法名を勝運院殿前長州太守功岳浮勲大居士 とある。永久の後は原田了栄の三男が二重岳城より迎えられ、入って草野氏を継いだ。是即ち中務大輔鎮永である。 二、草野中務大輔鎮永 鎮永は勇名を以て聞えた人で、好んで兵を用いた。初め永禄七年(一五六四)波多三河守鎮母子が来り投ずるや、之を庇護して岸岳への復帰を助け、元亀二年(一五七二)には隣境吉井城主吉井左京亮陸光と境域に関して争論を起し、遂に吉井・深江の戦争を起し、互に得る処なくして和を結び、天正元年(一五七三)龍造寺隆信が自ら鬼ケ城を攻るや、鎮永よく防戦したものの、大国には所詮抗し難きを察し、鍋島信俊の次男三年を養子に迎うる事として和を結んだ。(松浦拾風土記による) 鍋島家と鰤 天正元年十二月晦日に下松浦、高祖双方より後詰めしたるにより、佐嘉勢つかれ、既に危かりしに依って、其夜大将士卒迄、自分鰤を鉋丁して、思ひ切って暇乞なしたりける。翌元旦松浦が心を通じける故危きをのがれたり。鍋島家には大晦日に自分鰤を庖丁するは比の吉例也(松浦拾風土記) 越えて天正十二年(一五八四)波多三河守が原田下野守信種と吉井・浜崎などに戦うや、鎮永亦兵を出して原田氏を助けて大に波多勢を被った。 斯くの如く鎮永は度々の戦争に自己の勢力を消耗したのみで、何等の得る処なく、加之天下の大勢を察せず、豊臣秀吉が天正十五年(一五八七)島津義久を征するに当り、兼ねて島津氏と好を通じていた原田氏と共に、秀吉の命を奉じなかったので、遂に其の為に滅ぼさるるに至った。 第七節 伊萬里氏の盛衰 大河野遊の孫留が峯上(のぼる)の養子となり伊萬里に住して伊萬里氏を称したことは、既に述べておいたところである。(第三編第一章第二節) 留の子勝(入道如性)は文永・弘安の外患に際し、大に防禦に努め、勝の子充(入道蓮性)は暦応(一三三八〜四一)中高良山の戦に武家方として働いた。充の子は尚、尚の子貞(入道道全)は大保原の戦に宮方に属して大に奮戦したが、のち今川貞世入道了俊が九州に入るに及び、松浦諸族と共にこれに属した。貞の子高、高の字は満、満の子は正、正の子廣は少貳政資の来攻を受けて、一時之に降った。廣の子は仰、仰の子は直、直の子は治で、武雄城主後藤貴明の女を娶り、名を家利と改めた。天正三年(一五七五)龍造寺隆信武雄を討つや、家利は姻戚の関係に依り自ら兵を率いて貴明を援けた。それで翌四年には隆信の大兵が伊萬里に押寄せた。 後藤氏は自己の防衛に余力なく援兵を送る事が出来なかったので、家利は力竭きて和を請い、鍋島信房(直茂の兄)の三男二郎五郎純治を迎え、己が女婿として家を継がしむる事とし、のち姓を大島と改めたので伊萬里氏は茲に終りを告ぐる事となった。(九州治乱記、鎮西要略、石井良一著伊萬里城などによる) 第八節 山代氏の盛衰 山代氏は御厨公直の第五子囲の後である。囲が正治年中(一一九九〜一二〇〇)松浦党と共に鎌倉に至り将軍頼家より本領安堵の御教書を受けたことは前に述べておいた。(第三編第一章第一節) 囲の子は固、固の子は廣、廣の子諧は文永の役に壱岐に於て戦死し、その子栄は父に継いで大に外寇防禦に努め、弘安の役には壱岐の戦に負傷した。斯く山代氏は父子の勲功に依り恩賞を受け、其の領地は山代本領の外に神埼の庄にまで及んだ。(山代文書) 栄の子は正、正の子は弘、弘は正平十四年(一三五九)筑後川の戦(大原の戦とも云う)に武家方に参加し、弘の子勤を経て共の子栄(豊前守)は延徳二年(一四九〇)に少貳政資の兵を迎えて之に降った。此の頃より山代氏の勢力次第に振わず、其の継嗣も亦不明である。然し信(遠江守)・吉・清(豊前守)・直(因幡守)などが、山代氏を称して余勢を保っていた。 直の子虎王丸に至り、天正四年(一五七六)龍造寺隆信が兵を下松浦に進むるに及び、其の敵すべからざるを知って之に降り、姓名を鍋島茂貞と改め、其の麾下に属した。これは翌五年のことである。 第九節 龍造寺氏の松浦経略 龍造寺氏は藤原秀郷の後なりと称されている。 (太田亮氏は家系々図の合理的研究法第六章第十一節に龍造寺氏は高木氏と同族であると論究されている) 季家の時に至り源範頼に属して軍功を立て、頼朝より下文を賜わり(文治二年一一八六)、肥前の本領を安堵した。 ついで家益は弘安の役に軍功を立て、其の子家親は元弘の乱に北條英時を誅し、且つ共の子家平は貞和観応(一三四五〜五五)の頃武家方に属して次第に勢力を伸ばし、家氏の代に至り佐賀に新城を築いて大いに威容を整え、降って隆信の時には勢い最も張り、九州を三分して其の一に号令するに至った。其の各地攻略の次第は暫く措き、松浦地方の経略を見るに、天正元年(一五七三)には波多氏を、同二年には草野氏を、同四年には伊萬里・山代・有田の諸氏を降し、夫々自家の一族を養子として配置し実権を悉く其の手中に収めた。 天正十二年(一五八四)隆信が島原に戦死するや、其の子政家は病弱にして早世し、嗣子高房は幼少であったため、鍋島直茂が代って遺領を統領することとなった。従って山代・伊萬里・有田の諸氏も亦鍋島氏の支配を受くる事となった。 波多・草野の両氏は前に隆信の威力に屈従していたが、隆信の戦死を好機として自立を計り、島津氏に通じていたので、豊臣秀吉の島津征伐に際して其の命に応ぜず、遂に秀吉の為に滅ぼさるるに至った。此のため上松浦の一部は鍋島氏の支配を離れ、別に寺沢氏の唐津藩が建てらるる事となった。 |
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第四章 朝鮮征伐と松浦党 第一節 朝鮮征伐の原因 豊臣秀吉は天下を統一するに及び、朝鮮征伐の軍を起した。その原因を尋ぬるに、室町時代には我國と明・朝鮮と交通していたのが、その末期には杜絶してしまったので、秀吉はこれが再開を朝鮮に申込んだが、朝鮮はこれに応じなかった。また明國に我が意を通ぜんことを求めたが、これにも応じなかつた。それで贋懲の師を起す事となった。(海外交通史話、大日本全史、史学雑誌第五巻星野博士説など参照のこと)甫奄太閤記によれば、 天正十八年三月九日、五人の宿老三人の小宿老五人の奉行衆大阪に伺候し登城ありしかば、君不時の茶山里にて給はりけり。斯くて仰出さるる趣は、日本国中斯く平治せしむる事、各数年の勲功による処なり。此上は高麗に至りて之を退治し、其後入唐して彼国を我従がへ、功臣の労を報じ、又異国の政路を見聞きし、我朝の政道を本とし、永く太平の功を立てんと思ふは知何にと、其の損益を請はせ給ふ。満座謹んで御意を承るといへども左右に譲りて御返事も猶予せし所に、家康公には珍らしき御上意どもにおはしまし候、然るべく覚え侍る旨仰せ上られしかば、秀吉公甚だ御機嫌なり、依て来る十五日異国退治首途の祝儀として饗宴を給はり、茲に四座の太夫共に能を仰付られ、何れも御暇を給はりてけり。 という。 第二節 名護屋築城 夫れで肥前の名護屋を卜して本営を築いた。名護屋は松浦半島の北端に位する丘陵地で、東に呼子・名護屋の二湾、西に串・外津(ほかわず)の両湾が深く湾入し、北は玄海に臨み、前面に加部・小川・松島・馬渡(まだら)(斑)の諸島を控え、南は標高百メートル内外の丘陵が起伏した山地に依って、後方の台地に続いている。 城はもと垣副城と称し、波多氏の部将名護屋越前守経述の居城であったのを収めて、此を改築して本城となし、其の周囲の丘陵や平地を劃して諸侯の陣営地と成したもので、東西凡そ二里、南北一里半に亘る、廣大なる地域を占めている。 築城は天正十九年(一五九一)十月に始まり、翌文禄元年二月に竣工し、その四月には秀吉の入城となった。 其の工事の迅速なること、其の規模の大と比較して実に驚嘆の外はない。左に甫奄太閤記によって其の大略を抄録する事とする。 (1)名護屋御陣所の事 一、本丸東西五十六間、南北六十一間、総高さ三十二間一尺五寸也。乾の角に天守台あり。但台ばかり高さ十五間也。 一、海より池まで十二間一尺、池より三の丸まで十四間三尺五寸、三の丸より本丸まで五間三尺五寸、以上右高さ也。 池の長さ百六十三間也、巾十一間より三十一間まで在之也。 一、二の丸東西四十五間、南北五十九間。 一、遊撃曲輪東西二十六間、南北二十四間 一、弾正曲輪長九十五間、横四十五間又三十間 一、水の手曲輪十五間四方、後年に至り水無し 一、山里曲輪東西百八十間、南北五十間、横に二十間四方 一、城の廻り十五町、城へ入口五ヶ所(大手門 西ノ門 北ノ門 舟手門 山里通用門也) 一、三の丸東西三十四間 南北六十二間 此外、腰曲輪、小曲輪、合而十一曲輪也 (2)御旅館御作事衆 一、御本丸御数寄屋 長谷川宗仁法眼 一、本丸より山里へ裏の小門 寺西筑後守 一、本丸より二の丸の間北の門 河原長右衛門尉 一、同大手門 御牧勘兵衛 一、脇欠倉 芦浦観音寺 一、同取附二階矢倉 同人 一、同四間梁ニ五間矢倉 羽柴美作守 一、本丸西角矢倉四間梁ニ十間 大和中納言 一、同取附矢倉二間梁ニ三間 同人 一、山里御数寄屋 石田杢頭 一、同御書院五間梁ニ六間 太田和泉守 但間毎に花鳥山水極彩色狩野右京亮画也 善を盡し美を盡せり。 一、山里台所七間梁ニ十六間 河原長左衛門尉・石川兵蔵 一、同添の間十間梁ニ十一間 寺沢志摩守 御座の間西王母右京亮画也 築山遣り水等の體、千とせをも経たるやうに苔むし興を盡したる事、言語のおよぶべからず、其次の間耕作の画在り、又其次の間花鳥の彩色絵あり。其外は委しく記すに及ばず。且つ御数寄屋は老松聳えたりしを便りとして殊更一興あり。 一、同上台所六間梁ニ四間 芦浦観音寺 一、同表御座の間(慈童ノ絵、長谷川平蔵之画次ノ間山水同人画也)庭前自らなる岩窟を用ひ、自然の美景更にいはんことの葉もなし。 尾州内津虎渓の山水も是にはいかでまさるまじと思ふ。 一、同大台所九間梁ニ十七間 石川兵蔵 右取附に料理の間あり 一、山里房六間梁ニ十三間 石田杢頭 間毎に花鳥の画有之、右京亮画之 一、同房五間梁ニ十五間 建部壽得 一、同湯殿 仙石権兵衛尉 一、御蔵六間梁ニ十間 戸田清左衛門尉 一、御蔵五間梁ニ廿間 小西攝津守 一、同北矢倉 御牧勘兵衛尉 一、同二の丸番 同人 一、同く乃木作御門 同人 一、同二階門 石田杢頭 一、園花壇 同人 一、菜園 同人 一、二の丸艮の角二階矢倉四間梁ニ五間 溝口伯耆守 一、同天守之下冠木門 太田和泉守 一、同三階矢倉九間梁ニ十二間 伊藤長門守 一、同南の門三間梁ニ七門 龍野侍従 一、同外形七間四方石垣 同人 一、大手三階の鐘楼堂五間ニ四間 羽柴五郎左衛門尉 一、同東の矢倉四間梁ニ十間 長束大蔵大輔 一、同北の矢倉四間梁ニ八間 大和中納言 一、同西ノ方二階矢倉四間梁ニ十八間 浅野弾正少弼 一、同南へ取附矢倉三間梁ニ八間 同人 一、同大手矢倉三間梁ニ十三間 鍋島伊平太 一、三の丸西の矢倉二間梁ニ三間 羽柴河内守 一、同冠木門矢倉三間梁ニ五間 羽柴左近 一、同西ノ門四間梁ニ八門 加賀宰相 一、同西北角矢倉四間梁ニ五間 同人 一、同取附二間梁ニ四間 同人 一、大手東の門四間梁ニ七間 羽柴左近 右作業等其外雑事に至る迄結構を盡し、夥しき事、中々言語に絶るばかりなり。秀吉公古今に独歩したる明君かなと称誉の声のみ多かりき。(下略) なお佐賀の鍋島直茂は此の築城に当って其の工を助け、蓮池・小城の天守閣を解いて之を献じ、且つ大手門の櫓(三間に十二間)を建てて献じた。(西松浦郡誌) また松浦地方の仏閣を解き瓦までも徴発されたと言い伝えられているが、今日の名護屋城址の瓦片を見ると、其の種類の多様なる点より察すれば、此の伝説は眞を置くことが出来よう。されば佐賀の土器師家永彦三郎が豊公に召され、「於九州名護屋可為司者也」と御朱印を下されたのも、単に土製の茶器を焼かしめたと云うのでなく、瓦工の司を命ぜられたと解すべきではあるまいか。 第三節 外征準備 甫奄太閤記によれば、出征準備として次のような事が記されている。 (1)朝鮮陣御用意として大船仰付らるる覚 一、東は常陸より南海を経て四国・九州に到り、海に添ひたる國々、北は秋田より中國に到りて其国々の高十萬石に付、大船二艘宛用意可在之事 一、水主之事 浦々家百軒に付て十人宛出させ、其手其手の大船に可用候、若し有余の水主は到大阪可相越之事 一、蔵納は高十萬石に付て大船三艘、中船五艘づつ造可申之事 一、船の入用大形勘合候而、半分之通算用奉行方より請取可申候、相残分は舟出来次第、請取可申之事 一、船頭は見計ひ次第給米等相定め可申候事 一、水主一人に扶持方二人、此外妻子之扶持方遣し可申之事 一、陣中小者・中間は下女扶持其者之宿々へ遣し可申候 是は今度、高麗又は名護屋へ出立候者、不残如此可遣之事 右條々無相違令用意 天正廿年之春 攝州・播州・泉州之浦へ令着岸 一左右可在之者也 天正十九年正月廿日 (2)同軍役之定 一、四國・九州は高一萬石に付て六百人之事 一、中國・紀州辺は同じく五百人 一、五畿内は同じく四百人 一、江・尾・濃・勢之四ヶ国は同じく三百五十人 一、遠・三・駿・豆辺は同じく三百人 従是東は何れも二百人たるべし。 一、若州より能州に到て其間同じく三百人 一、越後出羽辺は同じく二百人 右之分来年極月に到て大阪へ可被参着候 出勢之日限重て可被仰出候 守其旨宿陣不差合様 得其意可申者也 天正十九年三月十五日 秀吉(甫庵太閤記) (3)給養関係諸記録 主計少佐伊藤武一氏の研究になる本戦役に於ける給養関係の論文を左に抄録することとする。 兵糧の名護屋集積 天正十九年十二月秀吉は九州の諸将に命じ、直轄地の租米(蔵納)を海路より名護屋に輸送せしむ。加藤清正より十二月十九日付左の如き書状を近隣の諸将に送附しあり。 急度申入候 仍て拙者手前御蔵納御兵糧米各申談為隣國 名護屋へ可相届之旨 只今以御手印被仰出候……於肥後國・河尻・高瀬津、米積候様ニ申付候間、其段可被仰付候(立花文書) 兵糧米の貸与 出征諸将のうち、兵糧米を準備しあらざるものに対しては、大阪に於て米穀を貸与すべき内訓を与ふ。文禄元年正月廿五日小早川隆景が立花統虎・高橋統増兄弟に与へたる文書によれば 今度御渡唐に付而 旁御家中口夫以下に至る迄、天下様如被仰付 飯米可有御配之由 被仰出候 各手前に兵糧於覚悟者大阪にて御米かし可被下之由甲州被仰候 御借米あるべきにて候はば分際いか程と可承候(立花文書) 註 甲州は黒田甲斐守長政である 為替米 兵糧米輪送の簡略を図る目的を以て為替米の法を規定し、九州中国の諸候にして指定の場所に米穀を提供する時は京阪地方に於て同量の米穀を交付する事とせり。 文禄元年十一月朔日秀吉の発せる文書に次のようなものがある 一、かはし米の事、中国はせきの戸、豊後・豊前はふくらへ相届、其かはり京大阪にて可取之事 一、筑前はなごやへ相届け、右の如くかはし米可仕事 一、肥前国は龍造寺たち(佐賀城)より八里なごやへ近くもちつけ可相替事 (浅野家文書) 軍用金準備 天正十九年軍用金として金銀貨を新鋳せり、金貨は其面に花紋ある為め花降金と称し、銀貨は石見産の銀鉱より鋳造せるにより石見銀と称したり。 給養器具 陣中に携行すべき器具は石高により換算決定せられあり。今其中兵糧に関係あるもののみを抜萃すれば次の如し、 御陣十人召連候者之荷物目録 一、傘一本木履 三升目 一、椀十膳 五升目 一、味噌桶二 二斗目 二斗三升目 一、奉行一人 五升目 一、鍋大小二 六升目 一、同一升飯米一斗目 一、桶二 五升目 一、油紙五枚 三升目 (伴信友 中外経緯傳) 海上兵站線 名護屋釜山間は我軍の作戦及兵站上の大動脈なるを以て、其間数百艘の船舶を以て往復連絡を図り、次の如く船奉行を任命し、また其船頭に対しては飯米六反帆の船に対しては十人づつ宛下され、それを船主の中飯となさしめたり。(毛利家文書) 高麗船奉行 早川 長政 森 高政 森 吉安 対馬船奉行 服部 一忠 丸鬼 嘉隆 脇坂 安治 壱岐船奉行 一柳 正盛 加藤 嘉明 藤堂 高虎 名護屋船奉行 石田 三成 大谷 吉継 外 二名 天正二十年三月十五日命令を下し、御先衆渡海の後は対馬を宇喜多秀家、壱岐を羽柴秀勝・細川忠興をして守備せしむることとせり。尚之等後方部隊に対しても出征軍同様各種の禁令を発したり。(鍋島家文書) 給養命令 一、今度唐人に付而 中国九州より東国の人数には被召連候如書立、正月朔日より九月中、御兵糧被下候事 一、中国・四国・九州軍勢之事は面々として其家中々々知行所にも、又船方以下に至る迄も、如軍役着到之、四月朔日より九月中、扶持方出可遣事 一、人数持候族家中之兵糧、六月分自分の兵糧有次第可相渡候、若一箇月、若二箇月にても不足分於有之者、書付を以可致言上候、兵糧米於播磨・大阪可被成御備事 右之段団衆其外下々迄合せ入可申聞也 (武家軍記) とありて、近畿以東の兵に対しては四月朔日より九月迄兵糧を給与し、中國・四國・九州の軍勢に対しては其家族に対しても亦出征者同様給養することとせり。尚人数を持衆−大名小名−は家中の兵糧を六ケ月分、先づ自己の米穀を以て交付しおき、それにて不足なる時は其旨申出候次第、播磨若くは大阪にて交付する旨示達せり。尚現在の増加給に関する命令に類するものとして次の如く規定せり。 十六萬騎渡海の軍勢、上下人馬人夫に至る迄、扶持方一倍の事、但し馬匹一日の飼料大豆六升たるべき事 (武家談叢) (4) 取締関係記録 諸取締に関して次の様な規定がある。これは古雑記より得たものである。 将卒取締規定 一、人数押之事 六里を日行程とす。乍去在所の遠近六里内外は宿奉行の取計次第たるべく候、宿奉行相定の上は前後争論なく、よろづ順路に可有之事 一、旅宿屋賃は出申すまじく候 薪秩の代は宿主と相対の上出可申之事 一、津々浦々番等 屋賃の儀出可申候、鉄砲の儀、其主人出可申之事 一、泊々にて扶持方馬之手当可令行之事 一、強買、狼籍、追立夫、其外よろづ非儀有るまじき事 一、泊々宿々に於て 理不盡之儀仕出者あらば、当座にとがめかかり、及口論まじく侯、其主人仮名実名能々書付、其上可相理之事 一、何方にてもいたづら者、一揆の徒党がましき様子あらば、密に可告知、一廉の褒美可被行之事 一、一里々々にはやみち二人宛置き、名護屋と大阪との所用早速相叶ふ様に可有之事 右條々堅可相守、此旨若違背之輩あらば、奉行人迄告知可申者也 首姓町人取締規定 定 肥前國草野庄 一、往還之輩一宿木ちんの事 一人に壱文、馬一疋に弐文宛取立宿をかすべき事 一、ぬか・はら・薪・さうし、以下一切不可出候事 一、町人百姓に対し、非分お申遂者、一銭きりたるべき事 右條々於違背族者、搦捕可上く可被加誅罰候、若見隠聞隠に付ては、以後被聞召候共、其所ニ町人百姓可被加御成敗也 文禄二年正月 曰 秀吉朱印 第四節 諸将の配備 名護屋在陣衆 一、一万五千人 武蔵大納言 徳川公 一、一万人 大和中納言 秀長 一、八千人 加賀宰相 利家 一、三千人 安濃津中将 ・信長の御舎弟織田民部少輔信包 一、千五百人 結城少将 秀康郷 一、千五百人 前尾張守 信雄郷 一、五千人 越後宰相 上杉か 一、三千人 会津少将 蒲生氏郷か 一、二千人 常陸侍従 佐竹氏か 一、千五百人 伊達侍従 政宗也 一、千 人 水野下野守 一、千 人 青木紀伊守 一、五百人 宇都宮彌三郎 一、五百人 出羽 侍従 最上氏か 一、二千人 金山 侍従 森実作守か 一、八百人 松任 侍従 丹波長重 一、八百人 八幡京極侍従 高次か 一、千 人 羽柴河内侍従 毛利秀国か 一、千五百人 龍野 侍従 木下俊勝か 一、六千人 北庄侍従舎弟美作守 堀秀治か同親良 ー、二千人 村上周防守 越後村上城主 一、千三百人 溝口伯耆守 越後新発田ノ城主 一、五百人 木下宮内少輔 優勝舎弟利勝 一、七百人 真田源吾父子 一、三百人 栃木河内守 一、五百人 石川玄蕃允 一、二百五十人 秋田 太郎 一、百五十人 津軽右京亮 一、二百人 南部大騰太夫 一、百 人 本田伊勢守 一、二百五十人 那須 太郎 一、三百人 日根野織部正 一、二百人 北條美濃守 一、千 人 仙石越前守 一、二百五十人 木下石衛門督 一、千 人 伊藤長門守 合 七万三千六百二十人 御前備衆 一、六百五十人 冨田左近将監 一、八百人 金森飛騨守 一、百七十人 幡谷天膳太夫 一、三百人 戸田武蔵守 一、三百五十人 奥山佐渡守 一、四百人 池田備中守 一、四百人 小出信渡守 一、二百人 間島彦太郎を加へ十五将なり 一、五百人 津田長門守 一、二百人 上田左太郎 一、八百人 山崎左馬∠允 一、四百七十人 稲葉兵庫東 一、二百人 市橋下総守 一、二百人 赤松上総守 一、三百人 羽柴下総守 合 五千七百四十人 御弓鉄砲衆 一、二百人 大島 雲八 一、二百五十人 野村肥後守 一、二百五十人 木下与右衛門尉 一、百 人 鈴木孫三郎 一、百七十五人 船越五郎右衛門尉 一、二百五十人 伊藤 彌吉 一、百三十人 宮本藤左衛門尉 一、二百五十人 生熊 源介 合 千七百五十人 御馬廻衆 一、四千三百人 御側衆六組 一、三千五百人 御小姓衆六組 一、五百人 室町殿 一、八百人 御伽衆 一、千五百人 木下半助組 一、七百五十人 御使番衆 一、千二百人 御詰衆 一、八百五十人 鷹匠衆 一、千五百人 中間以下 合一万四千九百人 御後備衆 一、三百人 羽柴三吉侍従 織田信秀 一、五百人 長束大蔵大輔 一、百三十人 古田織部正 一、二百五十人 山崎右京之進 一、百五十人 木下右京亮 一、百 人 矢部豊後守 一、二百人 有馬万介 後玄番頭播州三田ニ居住ス 一、百六十人 寺沢志摩守 一、二百人 蒔田 権助 一、百七十人 中江式部大輔 一、百三十人 生駒修理亮 一、百 人 生駒主殿頭 一、百 人 溝口大炊介 一、二百人 河尻肥前守 一、百十人 池田彌右衛門尉 一、百二十人 大塩与一郎 一、二百人 寺西勝兵衛尉 一、百 人 服部土佐守 一、四百人 寺西筑後守 同次郎介 一、五百人 福原左馬介 一、二百人 竹中丹後守 一、二百七十人 長谷川右兵衛尉 一、百 人 松岡右京之進 一、七十人 川勝右兵衛尉 一、二百五十人 氏家志摩守 一、百五十人 氏家内膳正 一、二百人 間島彦太郎 御前備衆に加ふ 合 五千三百人 朝鮮國先駈御勢 一、七千人 小西攝津守 一、五千人 宗対馬守 一、三千人 松浦刑部法印 一、二千人 有馬修理太夫 島原城主 一、千 人 大村新太郎 一、七百人 五島若狭守 合一万八千七百人 一、八千人 加藤主計頭 一、二千人 波多三河守 一、一万人 鍋島加賀守 一、八百人 相良宮内少輔 合 二万八百人 一、六千人 黒田甲斐守 一、六千人 大友豊後守 合一万二千人 一、一万人 島津薩摩守 一、二千人 毛利壱岐守 一、千 人 高橋九郎 秋月三郎 一、千 人 伊藤民部大輔 島津又七郎 合一万四千人 一、五千人 福島右衛門太夫 一、四千人 戸田民部少輔 伊予宇和島主 一、七千二百人 蜂須賀阿波守 徳島主 一、三千人 長曾我部宮内少輔 土佐主 一、五千五百人 生駒雅楽頭 高松主 合 二万四千七百人 一、三万人 毛利安芸守 一、一万人 小早川侍従 一、八百人 高橋主膳正 一、千五百人 久留米侍従秀包 一、二千五百人 柳川侍従 一、九百人 筑紫上野介 合 四万五千七百人 朝鮮國都表出勢衆 後援軍 一、一万人 浮田 宰相 一、三千人 増田右衛門尉 一、二千人 石田治部少輔 一、千二百人 大谷刑部少輔 一、二千人 前野但馬守 一、千 人 加藤遠江守 合一万九千二百人 一、三千人 浅野左京太夫 一、千 人 宮部兵部少輔 一、千五百人 南條左衛門督 一、八百五十人 木下備中守 一、三千人 中村左衛門太夫 一、千四百人 郡上 侍従 一、八百人 服部釆女正 一、四百人 一柳右近将監 一、四百人 垣屋新五郎 一、八百人 斉藤左兵衛督 一、八百人 明石 左近 一、五百人 別所豊後守 一、三百人 竹中源介 一、四百五十人 谷 出羽守 一、三百五十人 石川肥後守 合一万五千五百五十人 一、八千人 岐阜少将 織田秀信か又ハ池田父子ノ内か 一、三千五百人 細川宮津少将 一、五千人 羽柴藤五郎長谷川秀一 一、三千五百人 木村常陸介 一、五百人 岡本下野守 一、二百人 粕谷内膳正 一、二百人 片桐東市正 一、二百人 片桐主膳正 一、千 人 小野木縫殿介 丹波福知山主か 一、七百人 牧野兵部大輔 一、百二十人 太田小源吾 一、二百人 古田兵部少輔 一、三百人 新庄新三郎 一、三百人 高田豊後守 一、二百人 藤懸三河守 一、二百五十人 早川主馬正 一、三百人 毛利兵部 一、千 人 亀井武蔵守 合 二万五千四百七十人 同船手之勢 水軍 一、千五百人 九鬼大隅守 一、千五百人 脇坂中務少輔 一、七百人 久留鳥信濃守兄弟 一、千 人 桑山小藤太 同小傳太 一、二千人 藤堂佐渡守 一、千 人 加藤左馬介 一、二百五十人 菅平左衛門尉 合 九千四百五十人 名護屋在陣勢 合 十万二千四百十五人 朝鮮国渡海勢 合 二十万五千五百七十人 都合三十万七千九百八十五人 (甫庵太閤記) 文禄元年(一五九二)七月廿二日秀吉は大政所の病気見舞のため名護屋を発って大阪に向つた。其の跡の留守居諸将の勤務は次の通りであった。 名護屋御留守在陣衆 大和中納言 安濃津少将 伊賀 侍従 江川八幡侍従 龍野侍従勝俊 森右近太夫 藤堂佐渡守 浅野彌正少弼 浅野左京太夫 栃木河内守 小川土佐守 木下宮内少輔 勝利の舎弟利房也 水野和泉守 伊藤長門守 伊藤 彌吉 生熊 源介 橋本伊賀守 仙石権兵衛尉 河原長石衛門尉 石川出雲守 羽柴河内守 吉田又左衛門尉 日根野織部正 佐屋小兵衛尉 佐屋飛禅寺 西川八左衛門尉 佐久間河内守 水野久右衛門尉 滝川豊前守 佐藤駿河守 鈴木孫三郎 鈴木孫一郎 大塚与一郎 鍋島伊三太 落合藤右衛門尉 美濃部四郎三郎 吉田主水正 蜂谷市左衛門尉 安威次郎左衛門尉 市川兵蔵 南部彌五八 関東衆 大納言家康公 会津侍従氏郷 宇津官彌三郎 結城少将秀康 伊達侍従宗政 成田下総守 佐竹 侍従 北條美濃守 北條助五郎 出羽 侍従 真田安房守 小介川治部少輔 安房里見侍従 真田源三郎 小野寺孫十郎 秋田 十郎 北 半介 佐野 太夫 南部大勝太夫 内越宮内少輔 那須衆 水谷伊勢守 高谷大次郎 六郷衆 滝沢又五郎 由里衆 北国衆 加賀宰相利家 松任侍従長重 村上周防守 上杉宰相景勝 溝口伯耆守 羽柴久太郎堀氏 同 美濃守 青木紀伊守 裏ノ御門番衆 一番 有馬中務卿法印 大野木勘之丞 二番 石田杢頭 太田大和守 三番 長束大蔵太夫 芦浦観音寺 四番 寺沢志摩守 御牧勘兵衛尉 西ノ丸御備衆 十五人 右は前に書顕し有之御前備と有る。富田左近将監筆頭にて羽柴下総守に至る。尤手勢〜の人数高も前に出す、且間島彦太郎人数二百人共に右に加はる。〆十五騎なり。 東二ノ丸御後備衆 右は前に書顕し在之御後備衆と有る。羽柴三吉侍従筆頭にて間島彦太郎に至る所、但間島一人は手勢共に御前備に之を加へ、余り口六人也。一々前の如く書備る筈なれ共、書写人筆を執る事意に任せざれば粗略之畢。 右一日一夜宛 無懈怠可令勤仕者也 御本丸大手御門番衆 一番 服部土佐守 二番 塩谷駿河守 建部寿得 同 裏表御門番衆 一番 中江式部大輔 二番 山崎右京之進 三番 石田 杢頭 四番 長谷川右兵衛尉 五番 石川備前守 六番 寺沢志摩守 七番 長束大蔵大輔 八番 服部土佐守 九番 蒔田 権助 十番 福原右馬介 三ノ丸御番衆御馬廻組 (各組の部属将は著者に於て省略) 一番 石川組 石川紀伊守 二番 中島組 中島左兵衛尉 三番 長束紅 長束次郎兵衛尉 四番 桑原組 桑原次右衛門尉 五番 中井組 中井平右衛門尉 六番 堀田組 堀田図書介 御本丸廣門之番衆御馬廻組 一番組 伊藤組 伊藤丹後守 二番組 河井組 河井九兵衛尉 三番組 真野組 真野蔵人 四番組 佐藤組 佐藤隠岐守 五番組 尼子組 尼子三郎右衛門尉 六番組 速水組 速水甲斐守 右一日一夜宛無懈怠可令勤仕者也 文禄元年七月廿二日(一五九二) 御朱印 諸大名陣場之事 一、大納言家康卿 竹ノ丸松樹青々タリ 一、池田 輝政 中魚見 一、大久保七郎右衛門 古里ノ辻 一、京極若狭守 古里ノ辻 一、本多平八郎 同所ホウガラ 一、毛利 輝元 下ウスキ 一、結城 少将 赤松 一、名島 秀秋 法光山 一、織田信雄卿 中野 一、粕谷内膳正 池ジリ 一、岐阜秀信卿 大日山 一、前野 但馬 ヤグラチン 一、藤堂和泉守 矢床ノ大ヒラ 一、水野下野守 大戸ウラ 一、南部大膳太夫 永田ノ浦 一、田中兵部少輔 下泊リ 一、津軽右京太夫 黒瀬崎 一、竹中丹後守 灘地嶽 一、宗 対馬守 地獄浜 一、速水甲斐守 大日山 一、小笠原信濃守 中園 一、片桐東市正 ホシバ 一、福島左衛門太夫 カキリエ 一、平野遠江守 畑中 一、加藤左馬介 辨天崎 一、村上周防守 館ノ辻 一、脇坂中務少輔 横竹 一、竹村兵部少捕 ホウガラ 一、松浦刑部卿法印 クワンヌキ 一、大野修理亮 ホウガラ辻ノ上 一、五島若狭守 ヲサキ 一、富田左近将監 天神近所宮口 一、有馬修理太夫 成仏ノ浦 一、蒲生飛弾守 寺ノ下後口磯付白崎 一、大村新八郎 舟瀬 一、真田安房守 中尾前ニ在ル伊藤長門守卜同所也 一、相良宮内少輔 波戸ノ大ヒラ 一、加藤出羽守 東磯付白崎 一、島津又七郎 テウジヘイ 一、氏家内膳正 同所北ノ方機付中野 一、種ケ島大膳 龍毛 一、氏家志摩守 同所 一、秋月 三郎 ウリワリ 一、室町内府公 同所 一、久留島信濃守 ホウカラ 一、長束大蔵大輔 白崎近ク打園 一、毛利兵部正 マルコマ 一、山中 幡内 同所 一、生駒雅楽頭 田中 一、大谷刑部少輔 波戸ノ前千里松原ノ内魚見 一、木村常陸介 イケ上 一、佐竹修理大輔 同所庄屋ノ上タケ 一、北條助五郎 同所後口磯付カウダ 一、溝口伯耆守 清水口 一、堀田右衛門尉 同所 一、堀 久太郎 善友山 一、島津薩薩守 波戸後口磯付ユフタ 一、羽柴藤五郎 値賀河内ノ上ウスキ 一、相馬長門守 同所永田ノ辻 一、八幡京極侍従 同所 一、上杉越後宰相 官尺 一、山内佐渡守 野本ノ向日影 一、九鬼大隅守 小星木ノ方春田 一、稲葉兵庫頭 同所ノ向石室村ノ内大阪辻 一、蜂須賀阿波守 同所ノ上庄屋ノ方針尾 一、筑紫上野介 三本松 一、宇都宮彌三郎 春田近ク城ノ方針尾 一、石田治部少輔 野本ノ上堤 一、芦浦観音寺 小星木ヨリ波戸道左ノ方馬立 一、藤堂佐渡守 同所向松山ノ内ヤトコ 一、蒔田 権助 同所ノ辻 一、金森法印 同所 一、直江山城守 宮尺近所磯付泊リ崎 一、加藤主計頭 同所近ク大ヒラ 一、高橋主膳正 磯付小崎 一、立花左近将監 名護屋ヨリ野本辺コクタシ 一、小早川侍従 小星木 一、青木紀伊守 同所近所池喘石屋町 一、御牧勘兵衛尉 小星木ノ辻 久保手坂 一、羽柴左近 同所 一、毛利壱岐守 大久保ノ辻西ノ方大畑 一、加賀宰相 池ノ喘入口筑前町 一、蒔田角兵衛 小星木陰谷串ノ方姥坂 一、寺沢志摩守 そペ石 一、細川越中守 同所ノ下磯付水タリ 一、羽柴 宮内 同所(打椿カ) 一、大和中納言 串村松山ノ内鉢畑 一、仙石権兵衛尉 同所塩屋 一、多賀出雲守 同村ノ辻 一、羽柴松任侍従 同所近魚見崎 一、鍋島加賀守 同所 松山ノ内タカタケ 一、小西摂津守 同所並ピソベイシ 一、波多三河守 同波戸ノ方磯付トヤ崎 一、羽柴半内 町ノ辻後年番所屋敷ニナル 一、浮田 宰相 清水口ノ上松山ノ内笠カプリ 一、黒田甲斐守 横竹村ノ原サルウラ 一、伊達侍従政宗 江向へ 一、寺西志摩守 畑中後ロ古舘 一、羽柴豊後侍従 赤松 一、北條美濃守 寺ノ辻 一、浅野弾正少弼 二ノ丸 一、伊藤長門守 同所下中尾 (以上甫庵太尉記より) 陣所地図に照して諸将配陣の有様を案ずるに、豊公の縁戚、股肱、其他深く信任する諸侯と外様大名との陣所を交錯せしめたる、殊に大大名の陣所を両分したるが如き、其の配置に深甚の注意を払っていることが察せられる。此等諸侯の陣所趾の判明せるもの百十七ヶ所の中左の十ヶ所は史蹟地として保存方を指定されている。 一、徳川家康陣址 竹の丸 一、前田利家陣址 筑前町 一、小西行長陣址 中魚見 一、堀久太郎陣址 善友山 一、大和中納言陣址 鉢畠 一、加藤清正陣址 西大ひら 一、福島正則陣址 小松 一、九鬼大隅守陣址 春田 一、上杉宰相陣址 越後陣 一、島津薩摩守陣址 湯ぶた 第五節 出陣と戦況 一、出発命令 文禄元年(一五九二)正月五日、秀吉は諸隊の名護屋出発及び諸侯の居城出発の期日を規定したる命令を出した。第一番隊乃至第四番隊は九州勢にして小西攝津守以下五人にて一萬三千七百人、文禄元年三月朔日より天気次第に出発し、第二番隊は加藤主計頭清正以下三名にて二萬二千八百人、之につぐ第三番隊は黒田甲斐守長政以下二人にて一萬一千人、第四番隊は毛利壱岐守吉成以下五名一萬三千五百人にして、逐次これにつづき、第五番隊は居城出発の日を二月十日と定め、四國衆福島左衛門太夫正則以下四名一萬二千四百人、第六番隊乃至第十六番隊はそれぞれ若干の日数を間において、居城出発の日を定め、別に船手衆三千九百八十人、合計二十八萬千八百四十人の大軍は十数船団となり、朝鮮に向け出帆するように部署された。(伊藤主計少佐の「翁物語より抜翠」による。) 秀吉は三月十三日に進発の部署を定め、第一番隊小西行長に続いて第二番隊加藤清正、以下第三番隊黒田、第四番隊島津、第五番隊福島、第六番隊小早川、第七番隊毛利、第八番隊宇喜多、第九番隊織田秀信等、総軍十萬八千七百人と、此外九鬼・加藤嘉明・藤堂等の水軍が進発するよう命令を発した。 二、戦 況 準備成って小西行長は壱岐・平戸・有馬・大村の兵を統領して対馬に航り、四月十二日には早くも府中浦に泊し、翌十三日には釜山に着き直に此処を攻め取った。(国史大年表第三巻参照) 左に掲ぐるものは朝鮮人孫曄が壬辰役の実見記「龍蛇日記」の一節を意訳したものである。 一、壬辰四月島夷が大挙して入寇した。十四日釜山が陥り、僉使鄭公撥が之に死んだ。十五日東莱が陥り府吏宋公象賢が之に死んだ。十八日梁山が陥り、郡守趙公英*(王菫)が之に死んだ。廿日彦陽が陥り、のち三日永川が陥り、城を列ね風を望んで奔潰することは記すに勝えない。 一、十六日、家君に陪して斗徳寺(今云徳庵)に上り、七日玉山院に在って、山に登って見れば、麓には弓箭を負うたり、鎗刃を荷ったものが路に絡している。(中略)走るものは皆上道の軍人が風を聞いて潰え来るもので、本府の軍官や官員も亦奔潰して賊の至るを待たずして、城には己に人がいなくなっていた。(下略) 斯くの如く我軍の進軍は迅速にして立直る隙を与えず、五月二日は京城に入り、六月十五日には平壌を取り、清正は道を咸鏡道に取り、遠く会寧に至って二王子を虜にするなど、赫々たる戦果を収めた。之に反して水軍は李舜臣に破られ、勢甚だ振わなかった。 京城を遁れた國王李昭は義州に至り、援を明に求めた。明は祖承訓を将として之を援けしめたが、之も行長の為に大敗を喫したので、明は沈惟敬を遣わし和を媾ぜしめた。然るに文禄二年正月明将李如松は大軍を以て平壌を襲い、行長を破り追うて京城に迫った。小早川隆景・立花宗茂ら之を碧蹄関に邀え撃って大捷を博した。是に於て明國は再び沈惟敬をして和を請わしめた。 此の戦役に於て松浦氏が年来鍛え上げた水軍を以て小西行長の水軍に属し最前鋒として大に松浦魂を発揮したことと、鍋島氏が加藤清正の軍に属して各地に転戦して大いに葉隠武士の面目を発揮した事とは地方史上の誇りとして特筆することが出来よう。 第六節 媾 和 我軍の朝鮮にあるもの漸く戦に倦み、秀吉も亦兵の不足を知り、明と媾和の意が動いて来た。行長は前に沈惟敬と接衝を重ねていたが、明が再び媾和を申込んで来たので、秀吉に明使の引見を請い、其の承諾を得て正使謝用梓・副使徐一貫らを名護屋に送って来た。時に文禄二年五月十五日であった。此の時秀吉は行長らをして其の衝に当らしめ、左の條件を提示した。 一、明の皇女を日本の皇妃となすべき事 一、貿易通商復活の事 一、日明の修交を復し誓詞を顕すべき事 一、朝鮮の南四道を割き日本の領土となすべき事 一、朝鮮の王子並大臣一両員を質となし日本に渡海あるべき事 一、去年生擒の朝鮮二王子を帰還せしむる事 一、朝鮮國王の権臣より日本に対して累世違却あるべからざる旨の誓詞を出すべき事 ところが慶長元年(一五九六)来朝した明使揚方亨らを伏見に於て引見し(九月二日)、明帝の勅諭を見ると「秀吉は明帝の封冊を受けん事を望み.朝鮮にこれが伝達を求めたところ、之に応じなかったので兵を発したものの、今では兵を退け、朝鮮王子を還し、恭しく表文を具し、前請を申して来た。依って之を許し、爾を封して日本國王と為す」という、意外の文書であった。秀吉は大に怒って明使を逐い、再征の命を下す事となった。 第七節 名護屋在陣中の秀吉 秀吉は文禄元年(一五九二)三月廿六日京都を発して名護屋に向い、四月十一日廣島に至り、同十九日小倉に着し、同二十一日名島に至り、筑前深江を経て、同廿九日名護屋に着いた。 かくて居ること二ケ月余、七月廿二日大政所(秀吉の母君)の病を聞き、急遽名護屋を発し、海路上洛の途につき、同廿九日大阪に着いた。すると大政所は既に廿五日薨去されていたので、秀吉は悲嘆の余り卒倒するに至った。やがて大政所の葬儀を終えた秀吉は、同年十月一日大阪を発し再び名護屋に向い、十月三十日に茶人神谷宗湛の邸に至り、佐賀を過ぎて名護屋に還った。 文禄元年の冬は名護屋で越年し、翌二年正月になると、年頭の祝儀として伺侯した能師暮松九郎について能の稽古を始め、二月下旬に今春八郎と観世左近らを呼び寄せ、四月九日本丸に於て能会を催した。 名護屋御本丸御能之事 一、翁 今春 八郎 千歳振 大蔵六 さんばそう 大蔵亀蔵 もみ出し 幸五郎次郎 一番 高 砂 太夫 今春 八郎 ワキ 今春源左衛門尉 ツレ 長命甚次郎 太鼓 大蔵 平蔵 小鼓 幸五郎次郎 笛 長命吉左衛門尉 太鼓 今春又次郎 あひ 大蔵彌右衛門尉 狂言 長命甚六 大蔵亀蔵 二番 田 村 太夫 今春 八郎 ワキ 今春源左衛門尉 太鼓 樋口石見守 小鼓 観世又次郎 笛 長命新右衛門尉 あひ 大蔵 亀蔵 狂言 はなとり大名 彌右衛門 同 相撲今参り 甚六 三番 松 風 大夫 今春 八郎 ワキ 今春源左衛門尉 ツレ 武俣和泉守 太鼓 樋口石見守 小鼓 幸五郎次郎 笛 八幡助右衛門 あひ 長命 甚六 狂言 釣きつね 祝 彌三郎 あと 甚六 四番 邯 鄲 大夫 今春 八郎 ワキ大臣 今春六右衛門 太鼓 かなや甚兵衛 小鼓 いやし与次郎 笛 長命吉右衛門 狂言 宗論 大蔵彌右衛門 五番 道成寺 太夫 今春 八郎 ワキ 竹股 和泉 太鼓 大蔵 平蔵 小鼓 幸五郎次郎 笛 長命吉右衛門 狂言 彌右衛門 見物の諸侯太夫等に折など下され、御土器めぐり給ふ。太夫並座のもの共御服を下され、八郎には唐織菊御紋付たる御小袖二重也 六番 弓八幡 太夫拝領の御小袖を着し罷出御祝言を仕り候也 七番 三 輪 太夫 今春 八郎 ワキ 今春六右衛門 太鼓 大蔵 平蔵 小鼓 観世又次郎 笛 長命新右衛門 太鼓 今春又二郎 八番 金 札 太夫 今春 八郎 ワキ 今春源右衛門尉 太鼓 大蔵 平蔵 小鼓 幸五郎三郎 笛 長命吉右衛門 太鼓 深谷 金蔵 文禄二年巳卯月九日 以上 (甫庵太閤記より) さて翌五月十五日明使が来着すると、行長らに和議を接衝せしめ、六月九日には明使慰安のため名護屋湾で舟遊を催し、翌十日には山里丸で茶会を開いた。 秀吉公大明之使と被催船遊事 肥前名護屋の境地は、崛曲自然に奥有て稀なる所なり。百町余り海水めぐり入りて四方の風にも波を知らず、深さ事底なきに似たり。彼唐使見物し、嘉凌三百里の山水には不足なりといへども、*(サンズイ粛)湘十里の風景には事足れりと通事の者に云つつ感じ奉りて、即重畳青山湖水長 無辺緑樹顕新粧 遠来日本伝明詔 遙出大唐報聖光 水碧沙平迎日影 雨微煙暗送斜陽 回顧千態皆湘景 不覚斯身在異郷 又 杳旋*(車召)車来日東 聖君恩重配天公 遍朝萬國播恩化 悉撫四夷助垂忠 名護風光驚旅眼 肥州絶境尉衰躬 洞庭何及此清景 空使詩人吟策窮 又 一奉皇恩撫八絃 忽蒙聖諭九夷清 晴光湧景霊蹤聚 山勢抱江煙浪軽 虔境奇踪難闘靡 揚州風物寧堪争 扶桑聞説有仙島 斯処定知蓬又瀛 秀吉公も唐使が一聯に彌々御機嫌よく、さらば唐人を慰めんとて逍遙を催し侍りぬ。数百艘の大船を家々の紋付たる幕、或は旗、或は指物を以てかざり立て、欸の歌などことごとしく歌ひ出してさざめきしかば、上下離苦得楽の眺に世を忘れにけり。殿下其日の御出立いかにも華やかに軽々しく物し、武具杯船に入れ、虎尾の投鞘の鑓二百本、十文字長刀、何れも金の金具し、茜の羽織着したる中間三百余人、一様に出立たせ持たせ給へり。勿論供の面々綺羅を瑩き、華盡したるもあり。又老武者のかたがたは若きしなを足れりとして、ばさらに出立ちたるも有ておのがさまさま更にいはんも言葉なし。殿下も船へ入らせ給ふて、唐使其外、諸侯大夫にも則饗膳を給はり、御酒宴ゆうゆうたり。其後御能遊ばさるべしとて、観世・今春などを召して始め給ふ。音曲海上に響きわたり、龍神も感応ありげに覚えてけり。唐使も興に乗じ、首を稽へ眉を垂れて感じあへりぬ。天気隠に海上いと静かなりければ、寔に天人も影向ましますにやと見へて、見物の上下も寛徳に化せられ、寛やかにものし、さながら浮世を忘れにけり。二人の唐使並に玄蘇・西堂・船中にて約束し給ひ、翌日六月十日の朝、山里御数寄屋にて御茶を給はりぬ。露地には色々の茶園などもあり、麓の里おのづから物泊(しづま)りて諸木枝をつらね岩つとう流れもいと涼しく、山里の名に応しかりき (下略) (甫庵太閤記より) ついで六月廿八日には名護屋條約が成り、此の日道化遊が催され、大に諸将を慰められた。 秀吉公異形の御出立にて御遊興の事 文禄二年六月廿八日の事なるに、瓜畑など廣く作りなしたる所において、瓜店・旅籠屋などいかにも麁相にいとなみ、瓜商人の眞似をなされつつ、各慰みたまひて、長陣の労を補ひ給ひしなり。御出立は柿帷を召され、藁の腰蓑をあてられ、黒き頭巾に菅笠を御肩に物し、味よしの瓜召され候へ、瓜召されかしとありしは、聊か商人に違ふ所もなふて、つきづきしく有りしなり。 大納言家康公はあじか売にならせられ、あしか買はし買はしと、大ように声したまふも亦よく似侍りしなり。丹波中納言秀勝卿は漬物瓜を荷ふて、かりもり瓜、瓜めせ瓜めせと、ふつつかに呼はり給ひしが、不調法に有りしなり。実にも若きは何事も無巧にあるよなど思はれて、年は寄るべきものなり、いやよるまじきものでも有りといふ人も多かりし也。 加賀大納言利家卿は高野ひじりの笈を肩に懸け、やどやどと声をながく引て、いかにも宿借り佗たる声、さもありげに覚へて聊哀れをもよふし侍りし。 蒲生氏郷は荷ひ茶売に成りて、秀吉公へ極上の茶をたて参らせつつ、價をつよく請ひし、一興なり 三松老は赤き半帷を上に打はふり、つるめせつるめせ、又御用のものもなど云つつ、うそめき打笑ませたまふも亦をかし。(三松老は尾州武術家也、津川玄蕃允の兄也) 織田有楽老は客僧に出立たせ給ひ、修行者の老僧に瓜御結縁あらぬかと請ひ玉ひしかば、秀吉公御手づから二つほどこし給ふを、いや是は熟せぬとて、今少しいみしきをと所望ありしもいとをかし。 或曰、此人は攝州有馬郡の主として、代々目出度人なり。玄蕃頭の父なり。 前田玄以法印は比丘尼になり候ひしが、せい高くふとりたる比丘尼の、にくていなる顔さがに有りしが、おかしげなる声して、唯念仏を常に申せば、必ず仏に成るぞと説法し侍りぬ。され共先づ此世を第一に心にかけ、来世の事は第九第十に行ひ候へかし、念仏もむづかしく侍らば、昼寝をして聊気をも介け、心を正にもちなすべし、ひたすら現世の理に背かぬよふにとのみ行ひ候べし。生れ来る事父母の気よりす。父母の気は天地の気なり、天地の気は不生不滅なれば、人道として按排する事ならざる者なりと、説かれたりしも一興なり。 此外、禰宜・虚空僧・鉢叩・猿遣ひ、さまざまの出たちありしなり。 旅籠屋の亭主には蒔田権助なりにけり。 嚊には藤つぼとて殿下の御中居なりしが、白きすずしを着し、黒純子のまへかけ、たすきは紅の糸にて打たるなり。 茶屋の亭主には三上与三郎をなし給ふ。 嚊にはとこなつとて、是も殿下の御側近ふありしを貸さしめ給ふ、出たちはあらましき廣袖の浴衣、繻子のかるさん、なんばん頭巾をかぶって、御茶あがり候へ、あたたなる饅頭もおはしまし候など云ひけり。又藤つぼは御飯参り候へ、あま酒も、切麦も御入り候といひつつ、殿下の御事を引き、せうじ申せば、殊の外御きげんにて、布袋の笑めるやうに、日も口もなき様に見へさせ給ふて、極暑も忘れさせ給ふ也。 (甫庵太閤記より) 文禄二年八月秀頼が大阪で生れた。此の報を得た秀吉は、同月廿五日名護屋を発って大阪に帰った。 前年十月再度の名護屋帰陣より滞在僅か十ケ月であった。 第八節 再征・慶長役 秀吉は慶長二年(一五九七)正月再征の部署を定め、小早川秀秋を以て総帥に、浮田秀家・毛利秀元を副将となし、先鋒は旧の如く小西行長・加藤清正を以て之に当らしむる事とした。我軍凡そ十三萬、先鋒は正月十三日名護屋を発し、同十四日釜山を復したので、諸道の敵は風を望んで潰えた。我軍は斉しく進み、清正は蔚山に、行長は順天に據った。十二月明軍大挙して来り蔚山を囲むや、清正よく防ぎ、翌慶長三年正月秀元・嘉明・鍋島直茂・黒田長政などの援軍を得て内外挟撃して大捷を博した。されど我軍の士気は前役の如く振わず、清正は蔚山に、行長は順天に、義弘は細川に拠って守勢をとった。此の間行長の如きは順天を棄てて釜山を守らんことを議したが、幸に嘉明の異議によって対恃の形勢を持続する事を得た。 ところが、五月に至り秀吉は病気となり、八月遂に薨去した。遺命によって外征の諸軍を召還し、十一月悉く対馬に帰着した。 第九節 朝鮮征伐が松浦党に及ぼした影響 此の戦役に於ける松浦党の行動を案ずるに、波多三河守は手兵二千を以て鍋島氏の幕下に属して加藤清正の軍に従い、戦功なくして豊公の怒に触れ城邑を没収された。下松浦では松浦刑部卿法印が三千、五島若狭守が七百人を以て小西行長の先鋒隊に加わり、戦功頗る顕著なるものがあった。 此の前後七年に亘る大戦役は國帑を消耗し、幾多の将卒を喪い、諸侯の疲弊を来した。けれどもまた一方彼より多くの陶工を伴い帰って、各藩に種々の陶器を製造するようになったことは、我國の窯業史上に特筆すべきものである。 また松浦に与えた政治上の影響を考えるに、波多・草野の両氏が亡び、新に寺沢氏の唐津藩が起り、伊萬里・有田・山代の諸氏は悉く鍋島氏の配下となり、茲に上松浦党は全く瓦解し、下松浦党は平戸に松浦氏、五島に五島氏(平戸松浦氏の麾下として)があって、其の余勢を保ちつつ次の時代に入った。 |
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第五編 江戸幕府時代の 佐賀領松浦 概 説 本編は豊臣秀吉の薨去(慶長三年一五九八)より徳川幕府の滅亡(慶応四年一八六八)に至る二百七十年間の記述である。此の期間に於ける世界の大勢を一瞥するに、此の期の初頃は欧洲にては國家主義が隆盛となり、宗教的紛争は政治的抗争と変じ、ドイツの如きは三十年戦争のため疲弊と瓦解とを来したのに反し、フランスは独り栄華の夢に陶酔していたが、本期の中葉に至りて大革命起り、ついでナポレオン一世の崛起となり欧洲は大動乱の巷と化した。かゝる動乱の間にも、一面には異常なる物質文明の発達を来し以て現代に及んでいる。此の間に南北アメリカ語國は殆ど濁立して、西斑牙・葡萄牙は俄に勢力を失墜するに至った。 アジアに於ては、シナでは明が亡びて清が新に起り、其の勢は一時東亜を圧したけれども、その間に印度は英吉利に、印度シナはフランスに、南洋諸島はオランダに、北部アジアは露西亜に蚕食せられ、やがてシナも亦英露の侵略に悩まさるゝに至った。 この時日本もまた欧米人との接触が初まり、一時國内の混乱を招いたが、幸い維新の大改革が断行され、西洋文明の輸入となり、やがて國運の大いなる発展を見るに至るのである。 さて本期間に於いて松浦党は全く瓦解し、上松浦地方は其の東北部即ち東松浦の全部と西松浦の一部は唐津藩に、其の西南部即ち西松浦の大部は佐賀藩に、下松浦地方即ち南北松浦は平戸藩に分治され、何れも平和の裏に産業の発達を見ることを得た。 第一章 佐賀藩より見た佐賀領松浦 一、鍋島氏の分封 鍋島直茂は豊臣秀吉より龍造寺氏の遺領全部の領有を認められ、二代勝茂の時二男忠直をして本藩三十五萬七千石を継がしめ、次いで寛永十二年(一六三五)頃には庶長子元茂をして小城の七萬三千石に、寛永十六年には三子直澄(忠直の同母弟)をして蓮池の五萬二千石に、翌十七年には忠茂の養子直朝(勝茂の子)をして鹿島の二萬石に分封した。さて伊萬里湾の西岸一帯山代郷は小城領・東部松浦川沿岸の一小区提川は蓮池領、其の余の西南部・一部の上松浦は本藩佐賀直轄地であった。 二、佐賀藩庫の収入と佐賀領松浦 佐賀藩の領地は三十六萬石と公称されていたが、佐賀領村々目録(内庫所蔵書)によると、 郡数十郡内六郡一円 物高三十五萬七千三十六石五斗九升九合 村数七百九十九ケ村 天明七 丁未年 松平肥前守 花押 松平和泉守殿 堀田相模守殿 とあり、次に 一高五萬四千五百十石八斗七升一合 新田 一高四千九百四十三石九斗三合 小物成 右者貞享元年御改之節書上之候 宝暦十庚辰年御尋以後新田開発無御座候 以上 とある。之によると貞享元年には総高四十一萬一千五百四十七石四斗七升と、外に四千九百四十三石九斗九升三合の小物成があったことゝなる。 また御領中郷村帳の末尾に、次のような朱書が加えられてある。 明治二年版籍奉還佐賀藩治被相立候節御領分五ヶ年之平均地米取納高左ニ 一地米凡三十萬石 地米トハ公租米高ヲ云フナリ、此総合ハ御蔵入・御山方・里御山方・御新地方・大配分(御親類同格家之私領ヲ云フナリ)・小配分(御家老初小身ノ知行職ヲ云フナリ)迄、新田開発等此節算入ス 内 落米八萬石余 二部七合余之落ナリ 公租現御取納二十一萬石余 (以下略) また鍋島直正公伝によると、明治初年の佐賀藩の書上高は本支藩合せて二十七萬石で、此内支藩以下萬石以上の巨室十三四家あり、総高の三分一を占有し、外に下士以上二千余家の家中の俸禄を差引く時は藩府の収入は僅に十四萬石、実収は十萬石に及ぶこと甚だ稀にして、凶年には八萬石にも足らぬ程であったと記されている。(直正公傳第一巻参照) 以上の諸計算は年によって多少の相違があるとしても、藩庫の実収を約十萬石内外と見て、之を其頃の貨弊価値に換算してみると、金・銀・銭の換算率は、慶長頃は金一両(量目四匁八分)を銀五十匁目(のち六十目となる)銭四貫文(一貫は千枚)と定められてあったが、実際は此の通りには行われなかった。(日本経済史第三巻一六七頁参照) 元禄以後は度々の貨幣改鋳によって共の比率は破れて精確に計算することは出来ないが、佐賀藩では米筈(一種の紙幣で米一升を四十文と規定した米札)の濫発により物価の混乱を来たし、安永八年(一七七九)には銀一匁につき銭八十文のものが、文化十四年(一八一七)には百六十文、文政二年(一八一九)には二百十文、同三年には三百八十文に暴落した。これを他領の銀一匁百二十文の普通価に較べると、実に三百以上の暴落である。(直正公傳第一巻二二八頁参照) いま仮に米一升の価を銭四十文とし、銀一匁につき八十文換(安永八年の定め)とすれば、十萬石では五千貫匁となり、他領並に百二十文換とすれば、三千三百余貫目となり、三百八十文換とすれば僅に一千余貫に過ぎないことゝなる。 三、佐賀藩庫の支出と佐賀領松浦 さて藩庫の支出は如何であったか、仮に年収を三千三百貫として参勤交代の費用と江戸在府の諸入費に、毎年一千七百五十貫の定額支出がある。其の残額一千五百五十貫を以て長崎警備の大役を初め、藩政の萬般を賄って行く事は、実に容易の業ではない。然るに寛政以来江戸を風靡した奢侈の風は質朴を誇った佐賀藩にも吹き荒み、財政は年を追うて困難となった。 其処に文化元年(一八〇四)には露艦の長崎入港があり、同五年には英艦の暴行があり、藩の國防費は俄に多額となり、これが調達に困惑している際に文化十一年(一八一四)には全領域に亘って惨憺たる大風災が襲来した。幸に此の難局に当っては英主閑叟公の治世であった事は誠に佐賀藩を救う天の配剤であったと云わねばならぬ。 四、佐賀領松浦の重要性 佐賀領松浦地方は山林・原野が多く、耕地は甚だ少く、しかも地味磽*(石角)で、産物も豊かでない。天明七年(一七八七)書上の佐賀領村々目録によれば、 有田郷 九ケ村 高三千六十一石二斗八升 伊萬里郷 九ケ村 高二千五百八十九石一斗五升八合 山代郷 十三ケ村 高三千三十九石七斗七升八合 計 三十一ケ村 高八千六百九十石二斗一升六合 とある。これを藩の総高三十五萬七千三十六石余に此すれば、僅に其の二分四厘強にすぎない。 ところがこれを経済上より見れば、有田の陶器運上銀、伊萬里の問屋諸運上銀を初めとし、長浜の製塩・楠久津の漁業・牧島の牧畜など多種多様の収入があるので、農業収入を以て一藩財政の基本とする封建時代に於てこれら商工業上の収入を有することは、藩の財政に弾力性を与うる点より見て、最も重要なる存在であった。 五、皿山代官 皿山代官は治茂の時設けられたものであるが、其の起源は不明である。但し寛永十二年(一六三五)正月山本神右衛門が西目山津辺までの横目(監察官)を命ぜられ、ついで伊萬里・有田・川古三郷の心遣を命ぜられた事は、此の代官が最も重視されていたことが窺われる。(中野神右衛門参照) 寛永十四年(一六三七)島原の乱が起ると、神右衛門は此方に出陣することゝなったが、翌年乱平いで再び代官となり、楠久をも其の支配下に加えられる事となった。神右衛門は皿山に来り、陶業者を諭して運上銀の増加を命じ、一方彼等を保護したので、製陶業は益々発達し、慶安元年(一六四八)には七十七貫目の運上銀を収むる様になり、皿山は確乎たる陶器街を形成するに至った。かくて皿山は陶工・画工・窯焼夫など多数の職工が集まり、此等従業者は特種の技能を有するを以て、一般農民と比較すれば、其の収入も亦多いので、自然驕奢の風を成すに至った。 一方伊萬里浦を見ると、陶器の商取引が繁盛するにつれて、富豪も来集し、他国商人の往来も頻繁となり、市況は愈々殷盛となった。かゝる事情の下に発達した伊萬里浦も亦一面浮華軽佻の風が醸さるゝに至ったのはやむを得ざる処である。 されば斯る複雑なる地方を支配する皿山代官には特に一流の人物を選任し、其の就任に当っては特別の鹵簿さえ許して、彼の威厳を誇示せしむることゝした。(直正公傳第一巻七七頁参照) 皿山代官所の所在地を案ずるに、従来横目役所は唐船城下の大木の宿に設けられ、焼物方は上幸平の皿山会所で支配し、御山方は白川谷に在ったのを、のち今の町役場附近へ新に皿山代官所として設けられたものらしい。(肥前陶磁史考五九三頁参照) 六、山代郷と御船手 山代郷は小城藩の私領で、後方に峻嶮の山岳を負い至って狭小の地域である。前面は風波静かな伊萬里湾で、鷹島・福島などが横たわり、好漁場をなし、平戸藩との交渉も頻繁なので皿山代官の支配下に置かれてあった。 猶又此処の楠久浦は良錨地をなして居るので、軍港として宗藩と支藩小城の御船屋が置かれてあった。また伊萬里にも宗藩と蓮池・武雄両支藩の御船屋があった。御船屋は御船奉行が統督し、藩船を操縦保管するため、御船手が置かれてあり、当時御船手一般の入費は三千石を充てられて有ったと云うことである。 御船手には三階級あった。第一は御船頭と云って船長を勤め、次は御船役者と云い、御船頭を助けて主に船を操縦し、また附属の小船の船頭ともなった。次を舸子と云い、船の運転労作などに従事した。 船頭は陸上の礼装は羽織袴に大小を帯び、船上では「のずい」と云う上衣を着用した。此の上衣の下部は後方短く、前部は垂れ、廣帯に短刀を前挿しに差した。袴は膝下は脚半の如く膝上は幅廣くなっていた。頭には俗に「やふくくり」と称する陣笠に似た−芦を唐曼で編んだもの−冠ぶりものを用いた。御船役者も略同用であった。舸子は一代制で多く楠久・伊萬里の者を用いた。これ平素漁業に従事していたからである。本船には寝櫓と称する一丈八尺の大櫓を用い、漕いで仰向に倒れ、其の反動で起き上るよう特殊の技能を練習していた。服装は黒地に白の横筋を入れた発被を着し、頭は前髪で、御船役者以上の月白頭と別つていた。 船の管理は年に三回、月の朔日に船を汪渠より出し、楠久津堂の前と称する海浜の沙床に船を並べ、「タデ船」と称し、船底に茅を焼いて船体の腐朽を予防した。(西松浦郡誌四六六頁参照)左の表は明治二年の御船手兵数調査であるが、夫れ以前も略同様であろうと考えられるので、茲にこれを掲げて参考に供することとした。 伊萬里津 (人数役重松清兵衛明治二年の帳簿に拠る) 御船頭 四 名 御船役者 二十名 御手舸子 二十名 御船統領 御船修練、物資供給一切を主掌す 一名 御船方番匠棟梁 二 名 楠久津(楠久津保存帳簿明治二年のものに拠る) 御船頭 十一各 御船役者 二十九名 御手舸子 二十五名(西松浦郡誌四六七頁参照) 第二章 佐賀藩の窮乏と佐賀領松浦 一、佐賀藩は一代交し 佐賀には「佐賀は一代交し」と云う諺がある。即ち初代勝茂・二代光茂を経て三代綱茂は元禄衰世の主であり、四代吉茂は享保の英君と称せられ、五代宗茂は眼疾を以て隠退し、六代宗教は仁徳を以て上下の敬仰を集めたが、七代重茂の時は財政漸く困難となり、八代治茂は六府方を置いて藩政を立て直した。然るに九代齊直に至り、寛政奢侈の軟風中に、露艦来崎の突風に接し、国防支出の急を来たし、藩庫は全く窮乏し、遂に一藩存亡の危機に直面するに至った。(直正公傳第三巻参照)。蓋し時代推移の波に一低一高の存することは己むを得ざることで、藩治の隆替も畢竟此の大きな波に飜弄されたものと見るべく、齊直の波底を受けたのが英君直正その人であった。 寛政より文化文政の江戸文化爛熟期では、日本全国の大名は殆ど例外なしに財政困難に陥り、一般庶民の困憊は其の極に達していた。佐賀藩亦然りで、齊正が財政の窮乏に困惑して、借金方さえ置いた時は藩士の困窮も亦其の極に達していた。即ち飢寒に迫っているもの一組二十人、全藩十五組で三百戸もあったと云われ、文化六年には十五ケ年間の負債利子払猶予令なる徳政令を下すの己むなきに至った。天保の加地子猶予令亦一種の徳政で、之が解決は多年に亘って決せず、明治の新政府に至って漸く落着を見るに至った。 二、加地手猶予令 抑も加地子猶予令の根本理念は、古賀精里と其の子穀堂の思想によるもので、藩庫の充実は農民を富ましむにあり、農民を富ましむるには彼等より搾取する富豪の魔手を抑制するにありとなす思想から出たものゝようである。(佐賀藩の均田制度三九百参照) 直正公は天保十三年(一八四二)十二月より向う十ケ年間、加地子米納入の猶予を令し嘉永、四年(一八五一)これが満期となるや、更に引続き向う十ケ年間 即ち文久元年(一八六一)まで猶予すべき事を命じた。猶予とは名のみで、実は小作料取立を禁止されたのであった。されば小作人と地主とは主客全く転倒し、殊に自作する能わずして下作に附していた小地主は小作人以上の困窮を見るに至った。 元来伊萬里・有田の富商や富農等は其の余財を以て土地の兼併を行ったもので、此等富豪の反対は自然代官所の収入に影響あるを慮り、その実行は不徹底の嫌があった。それで藩は嘉永五年(一八五二)皿山代官管内に限り、小作地全部を上支配と称して一且藩に取り上げ、田地三十町歩以上所有の地主には六町歩を限り、その以下には二割五分を分配することゝし、なお非作家=伊萬里・皿山などの豪農商人が下作に附していた田地は一切上支配として取上げるが、帰農するものにはこれを許すことゝした。 ところが町内地主及び小地主・僧侶など頻りに窮状を訴え、其の綬和を歎願したので、文久元年(一八六一)には再び令を発して二割五分を地主に七割五分を小作人に分配し、特別の事情あるものには別に除外例を設け分割割合に手心を加えることゝした。されど其の悶着はなかなか解決に至らずして明治新政府に持越された。 三、明治政府と加地子猶予令 加地子猶予令がまだ解決に至らないうちに版籍奉還となり、土地・人民は全部維新政府の所管となった。此に於て新政府は明治五年(一八七二)布告を発して土地の所有権は旧地主に在りとなし、天保十三年(一八四二)の旧に還えし、一方地主は小作料を半減すべしと令した。此の布告に対しては小作人側の反対が強く、暴動さえ惹起するに至り、到底実行は期せられなかったので、翌六年政府は改めて元地主には旧所有地の二割五分・小作人には七割五分の割合を以て分配する事とした。すると此度は旧地主の反対が猛烈で、此の実行も亦容易でなかった。それで政府は明治十年(一八七七)第三次の処分令を出し、土地を地主と小作人とに二分して配与し、地主に対しては小作人の手に移った土地の価格の四分の一を、政府より交附することにして、漸く双方を納得せしむることが出来た。ところが此の処理も実施に当ってはなお幾多の紛擾がつゞき、明治十三年には腰岳騒動を見るに至った。 明治十三年前後、地租改正時に有田郷数村の農民群をなし腰岳に嘯集し事頗る不穏、先是小作條件等に付年来切りに訴願するところありしが終に此一揆を起すに至りしなり。此の時徒党の衆は千畳敷の原野に炊出をなし蓆旗竹槍の暴挙に及びしなり。時に長崎県の所管に属し県令内海忠勝在任、大書記官高橋新吉出張鎮制に従ひたり、時の警官機転を利し現場に至り衆徒に向って曰く、其筋は汝等の要求を容れんとす、主立つもの来て官庁の申渡を受けよと、斯くて二三百人捕縛し円通寺以下附近人を以て鎮せり。郡長永田輝明斡旋調停に没頭し事鎮静に帰したり。(西松浦郡誌六〇九頁) 其の後もなお紛擾はつゞき、佐賀領全部が整理されたのは実に明治二十年頃であった。(旧佐賀藩の均田制度参照) 第三章 佐賀領松浦地方民の困厄 一、伊萬里浦の流行病 藩政時代の特権階級は暫く措き、松浦地方の一般庶民の生活状態を述べることにしよう。伊萬里歳事記によると 先日津内極難之者百二十九人有之、一類其外之者救合も最早不相叶由、別当より達遣候に付、筋々御達仕候処、別紙之通御相続方御願人御聞届、御救米被差出旨被相達候條其筋に懇に可被相達候、尤右御救米筈之儀は急速に役内より村方へ割付に相成候様、相達越置申候條、右筈は津内役之者より役筋へ罷越受取村方相達米受取候様、可被相達此段為可申越、如此御座候也 文政五年三月五日 成松萬兵衛 大塚市郎左衛門殿 中村勘兵衛殿 (伊萬里歳時記) 覚 一黄米八斗七升 己秋中里村御物成之内、前田孫三郎へ相渡可被申候、但伊萬里津内極難之者百二十九人へ為御救破差出候粥米三石八斗七升之内、追て米筈相渡候儀に候也 午三月六日 谷口官平 判 江口勢平 成松萬兵衛 中里村庄屋 (伊萬里歳時記) とある。また仝年九月初めに(四五日頃か)猛烈なる虎烈刺病が発生した。 長崎帰りの御奉行乗船に伊萬里楠久より差廻された乗組舸手の内数人の鶴乱患者が発生したので、楠久に上陸せしめ、何れも佐賀其の外向々に送り届けた。此病人が伊萬里通過の際、此処に患者が発生し悉く死亡して終ったので、鐘太鼓で病魔を追立てた。其の患者の一人が蓮池の者とのことで、其処に送り届けると、彼地の者でないとて、前に宿していた黒尾町(伊萬里浦の小字)の宛所に送り返して来たので、之を聞いた黒尾下町川分ケ町民等は鐘太鼓を打立て、双方糶合となり、夜は高張其他数百の提灯を点し箕幕を打廻らし、双方陣傭をなし其間に空砲を打放すなど、形勢甚だ不穏であった。御番所中島四郎右衛門等が再三説諭し、廿一日夕刻に至って漸く散解さす事が出来た。(伊萬里歳時記参照) これは中村勘兵衛が成松萬兵衛に宛てた報告書の大意である。また前田孫三郎が中村勘兵衛に宛てた書信によると 此の病気は病み付いたが最後一両日間の猶予もなく即死同様で、十四五日間に一町内に五六人宛も死亡すると云う前代未聞の病症で、氏神々に立願を懸けたけれど、急に転除の現も見えなかった。 (伊萬里歳時記の大要を取る) と記されている。斯る猛烈なる病気に対し、衛生思想の幼稚な時代のことゝて、患者を各地に転送するとか、鐘太鼓で疫魔を追立てるとか、氏神に祈顕して災厄を免れようとするなど、当時の人智の程度が推測される。 二、伊萬里商家の困厄 前節に述べた如く不慮の流行病に沈衰した伊萬里浦は、市況の恢復を待つ暇も与えられず、次々に課せられる藩府の誅求に商家の困厄は言語に絶するものがあった。左の一文は伊萬里歳時記に記されたもので、当時の事情を知るに最好の記録であるから其のまゝ之を採録することゝした。 我々儀伊萬里津に罷在、兼而焼物商買相営相続仕来、難有奉存候 然処一切陶器不景気にて追年商売方相衰、相続難相叶振に成立居候得共、代々致馴候渡世方に而外に商売出来兼候処より引直し候時節を見合、押々取繋居候中、去年正月焼物俵に付新に御益差上候様、被仰達候得共、去ル丑年己来 御鑑札被相渡、為御冥加銀、毎歳五百目充被相懸、地行御上納申上候儀、不少難渋至極之旨を以て御断申上候処、同七月御国産方御役々様御出張御再達被遊候に付前断同様之訳にて重畳御断申上候処、商人中も不景気にて殊之外草臥入罷在候 振合に付ては願出候意味尤至極に相聞候由とは被仰聞候得共、何歟と御取組程之御入金に付、当酉年迄相納候様、訳て被仰達、併年分大総之銀高に相崇み候に付ては一ヶ年にても何分難行届段申上候処、可成丈相納見候様、押て被仰達候に付左之己恐多御断り申上兼候所与不行届儀は必定相見え居候得共、別而御懇達之趣、難黙止、焼物上中下之差別を以て一俵に付正銭三十文・二十文・五文充、相納候通無余儀、一先御請申上居候処、最早右俵懸銀、さてまた御鑑札冥加銀等新規之御上納高、既に二千五百両にも相及、一躰不景気之上、御米筈御改革己後貸借之筋差塞、口に付ては何分不相整処より及潰、去年来御鑑札差上候商人廿人余有之、困窮之訳を以、右俵銭も差免被下候様、去春奉願上候得共、御聞済無御座曲て打追相納来候処、今又御鑑札差上候半で不叶通成立候者、凡三拾人程も相見誠に日に増相衰、歎敷次第に御座候、惣ては近来難申上御座候得共、右俵銭を相省き被下道は有御座間敷哉、奉願上候。且又去ル巳春巳来旅商人も俵に付新に正銭十五文充被相懸、当節迄凡二千五百両とも相見へ、右難渋之所与入込之旅人も自然と寡に相成、仕入銀之義も前方之通には手放不致、買口萬端手細相当り夫丈跡より段々平戸領早岐浦へ入船し、彼方にて仕入等いたし、勿論役地之儀旅船出入至極勝手宜敷場所がらに御座候得ば、不依他所交易之品持下り、当津之儀はいづれ正金銀持来候半で不相叶、殊に彼浦積出之儀は俵に付銭一文充ならでは相懸り不申、此方之儀は一俵に付二十文余相懸り、過分之違目に御座候得ば、自然与彼地相赴之義は眼前之事にて往々当所之衰微与可相成、扨又比日紀州商人共国元より懸合越之儀は関東筋殊之外不景気に付何分商売不相成趣にて、焼物直段格別引下げ呉候様、左無之候ては仕入方にも難罷越、不日返答仕候様申来、節角紀州商人入船相待居候半右の懸合共にては甚当惑仕罷在候、新敷不能申上候得共、当津之儀海辺之懸り宜往古より旅客引請商売相営み相続仕来候処、一向入船無之成り候節は市中は勿論近郷村々も差支申儀に付都合能返答申越、いづれ旅客引請候半で不相済、併し前段之模様共に御座候得ば、迚も打追之困窮相凌候儀は相叶間数、誠に且夕に差迫極難此時之乗り懸りに御座候、依之当時之御口、是等之儀は容易に難奉願上、恐至極に奉存上候得共、前に申上候去ル午年より被相懸候新規之俵銭被相除被下度偏に奉願上候、左無御座俵へハ及潰商人数多有之、表向差飾居候儀は専旅人引請之商売柄に付ては成丈取繕罷在候半で不相叶、乍然内情之記合近年之難渋挙て可申上様無御座、商売相離候通にも成行候へば旅客之引負筋忽差口り、家屋敷其外致沽却候ても難満合もの勝に有之、当暮迄之御年限に候得共前断之通行迫にて夫迄何分取繋不相叶、残念千萬之乗懸りに御座候、尤追々振立候時節にも移行候半ば何れの筋よりも御多足可相成儀と奉存上候條、前断之次第幾重にも被為開召口、何卒御憐愍を以願之通被仰付被下度、於然は御蔭に相潰候ものも次第に振り立、代々馴致候渡世方不相替相続可仕と御重恩尚又重畳難有仕合に奉存候條、此段御筋に宜敷被仰達可被下儀、深重奉願候、尤別紙を以て御國産方へも奉願申上儀に御座候 以上 (文政八年) 酉正月 七郎兵衛 甚 平 重 兵 衛 武 七 勝 五 郎 儀 兵 衛 荒 三 郎 喜左衛門 商 人 別当孫三郎殿 三、有田皿山の大火 文政十一年(一八二八)戊子八月九日より翌十日の朝にかけて大暴風が襲来して西日本全土に大災害を与えた。此の時佐賀藩の被害は最も甚大で全國第一であった。藩の書上書によると、田畠の損害一萬九千町歩、家屋の倒壊三萬五千余、半潰二萬一千余、流失家屋一千五百余、焼失家屋一千六百余、怪我人一萬一千余人、溺死二千二百余人、横死七千九百余人、焼死百十五人、其他道格・橋梁・堤防・山林等の崩壊・流失・倒木等は実に莫大な数に上っている。(直正公傳第一巻一七二頁) 此の大暴風の最中に有田では岩谷川内の素焼窯が吹き飛ばされて忽ち大火となり、金比羅山を焼き、超えて本町に延焼した。折からの豪雨に有田川の狭谷は汎濫して通路は絶え、人々は逃げ場を失ひ、焼死者・溺死者多数に上った。前に掲げた統計中の焼失家屋と焼死者は殆ど此処の被害と見ることが出来よう。藩府では窮乏の中より三千両を支出して之が救済に当らせた。これは藩内の罹災民に対する救助で、一時の急を凌ぐに過ぎないので、衣食住を奪われた皿山の罹災民は最も悲惨を極めた。幸に類焼を免れた岩谷川内の正司庄治は私財を擲って救済に力めたけれど、元より一私人の力の及ぶところではなかった。されば皿山の職工たちは縁を求めて他山の窯元に移るものが多く、これは延いて外山陶業の進歩となった。 四、農民の生活状態 当時の農民生活の実際を見るに、曾て土地売買の禁制を布かれたけれども、密かに法禁を犯して土地売買を為すものあり、豪商は土地を併せて益々富めるに反して小農は土地を失ふて愈々貧困に陥るを免れざりき。而して其の頃に於ける稲作の収穫は凡そ幾干にして地主小作の所得の割合何程なりしやと云ふに、因より百姓の栽培上に於ける巧拙及び地味の良否にも依ることなれども、先づ二段歩平均収量米一石七斗、内年貢米一石(藩庫収入)加地子米二斗(地主所得)残米五斗(小作人所得)の割合にして、年貢米は耕作者たる小作人をして所定の額を自ら藩庫に収めしめ、(中略) 而して此等の細農民の日常生活の有様を見るに、其住居の簡素なりしは云はずもかな、食物の如きも朝は麦大分に米若干と大根の乾菜を混じたる雑炊を喫し、昼は自家の手輓臼にて輓きたる小麦粉を以て団子を作りて食ひ、晩は又米麦と大根の乾菜とを以て炊きたる雑炊を啜りて飢を凌ぐと云ふが一般の慣はしなりしと云ふ。衣服の如きも極めて粗末にして専ら綿布を用ひ、其の田野に着用する仕事着の如きは全くこれ襤褸の継ぎ合せと言はるゝ程のものなりしと言ふ。故に当時に於ける奢侈と云ふも多くは家中町人輩のことにして、村方住民の大部を占むる小農等は、唯漸く寒暑を防ぎ飢渇を凌ぐに足るだけの物資を労収するに止まり、奢侈をなさんとするも其の資を得る能はざるの実情にありき 以上は片淵市松氏の実話として「旧佐賀藩の均田制度」に載する処であるが、取って以て松浦地方細民の実情を知る好箇の資料とすることが出来よう。 第四章 伊萬里海岸の干拓と塩田 慶長十三年(一六〇八)鍋島勝茂は成富兵庫茂安に命じて長浜・瀬戸の塩田を築かしめ、同十六年には桃の川上流の馬ノ頭の潅漑溝を開鑿せしめた。瀬戸・長浜の塩田は八ヶ年を経て元和元年(一六一五)に至って竣功した。 ついで寛永十二年山本甚右衛門を(神右工門ともいう)して有田・伊萬里・川古の農政・林政を監督せしめ兼ねて有田の窯業をも掌らしめた。 爾来歴代の藩主は大に土地の開墾・海岸の干拓などに務めたため佐賀領松浦の耕地は次第に拡張さるゝに至った。今左に佐賀県干拓史によりこれが大要を抄録することゝする。 (1)戸の須 辺古島又は彌次右衛門搦とも云う。戸ノ須の人彌次右衛門父子の開く所で、宝永(一七〇四−一〇)より享保年間(一七一六−三五)の干拓であろう。 (2)戸渡島 才右衛門搦とも云う。戸渡島の人才右衛門の開く処で、宝暦年間(一七五一−六三)の築立であろう。 (3)清水浦 天明年間(一七八一−八八)の築造で、今より三十年前頃までは塩田であったのが、現在は水田となっている。 (4)木須崎 多々良浦又木須多々良と云う。文政年間(一八一八−二九)の築立であろう。 (5)浜田・兎山 年代不明、元は塩田であった。 (6)木須新田 三十二町余歩の大干拓地で、慶応三年(一八六七)片岡十平の事業頭取で起工され、明治二年(一八六九)秋竣成している。 (7)瀬戸埋立地 総面積三十余町歩、瀬戸浜一角乃至五角等の小別があり、昔の塩田である。これ即ち成富兵庫の設計に依って埋築された塩田で、慶長十九年長浜と同時に竣工したものである。此処の製塩指導に当ったのは福岡藩の姪浜から招聘した紫頭藤右衛門・津上仁平らで、此処の塩は遂に克く肥前國の國産として他の地方にまで著聞せらるゝに至った。 (8)長仙坊・白浜・びしやご 此の三搦は元々塩田であった。ぴしやご外土井にある八大龍王の祠に「寛政三歳辰八月再建三搦氏子中」の刻銘があり、天明年間(一七八一−八八)日記中に、ぴしやご土居浜決潰の記事がある点より考うれば、天明以前の築立であろう。 (9)大船釣 もと塩田で築立年代は不明である。 (10)嬉野新田 明治初年の干拓である。 (11)牧島搦 嬉野新田の北隣にある。築立年代は不明である。 (12)早里浜 土井の南端にある龍神祠に「寛政元酋七月吉祥日施主松尾善七」の刻銘がある。よって寛政初頭(一七八九)の築立であることが知られる。 (13)川副新田 二十六町余の大干拓地である。この新田干拓の首唱者は満江新左衛門(故人)で明治三十四五年頃のことであった。干拓当時の株主は三十余人であったが、のち川副綱隆氏の所有に帰した。 耕地の整理完からずして現在でも半分程は鹵地で、芦荻の生えるに任せてある。土井に祠った八大龍王祠には「明治四十五年六月建川副綱隆、明治三十七年六月二十日埋立許可、同三十九年十月二十二日潮止、同四十五年五月三十日竣功、当時村長池田鹿太郎、世話人満江新左衛門」と記され、下段には横尾佐太郎外二十五人の名が刻されている。 (14)八谷搦 百町余歩の大干拓で、八谷喜兵衛が奉行として築立たもので、佐賀県干拓史には事業の顛末は不明であるとされている。 但し西松浦郡誌によると、これは安永七年(一七七八)の竣成で「面積百六十余町歩、当時開墾人名は、幸兵衛一口、前田一口、門外一口、貞吉一口、伊兵衛二合、彌次左衛門一口、権之允二合、与兵衛二合、覚右衛門五合、天ヶ瀬亀右衛門一口、辨左衛門一口、利助五合」とあり、なお「一口は六七町歩をいふ」と記されている。(西松浦郡誌一〇一頁) また伊萬里歳時記によると、「八谷搦を築しは安永三四年の事ならん、八谷喜兵衛奉行して築しかば然かいふなり」とあり、且つ開墾人名と墾田口数とは前者と一致しているから之を省くことゝし、次に「日尾崎の前百間あらこを築しは有田川洪水に八谷搦水のために侵食せられん事を恐れてなり」とある。 以て本工事に就いて如何に深甚の注意が捕われていたかゞ察せられる。なお「此入江は文久二年(一八六二)は二百石三百石の船は荷を積んで町の裏を船出せしとぞ、爾来年を過て浅くなりつれば、亀屋源右衛門人々とはかりて、上に願をとげて船止りてふ掘れり、是にて荷を積、出船する事を得たり、岩本兵衛門話」とある。これによると、伊萬里湾は年々土砂の堆積作用が行われ、殊に最近数十年間に最も著大であることが知られる。 (15)中里字炭山 面積僅に五反歩、慶長年間此地方の大餞饉に際し村民殆ど餓死せんばかりの窮境に迫った時、此地の富豪吉永伊兵衛が細民救済の目的で収支の得失を顧みず、彼等を雇用して開墾したものである。村民は吉永氏の功を後世に伝えるため紀念碑を建てゝいる。 (16)長浜新田 鍋島直茂公が塩田築造を企て、慶長十三年(一六〇八)筑前黒田長政に請うて姪の浜の塩業家武藤九郎兵衛・柴頭藤右衛門・津上仁平らの派遣を得て実地を調査せしめ、山代郷の長浜奥浦と木須の瀬戸を選定し、成富兵庫の設計により、中尾六左衛門を主任として経営せしめたもので、同十九年築堤全く成り、翌元和元年(一六一五)より産塩を見るに至った。 六左衛門は初め部下二十五戸を此所に招致し、武藤九郎兵衛について塩業を修得せしめた。爾来製法に改良を加え、度々の埋立も行われた。中でも弘化年間(一八四四−四七)鍋島齊正公は新搦を築立せしめ、数十町歩を拡張し、嘉永元年(一八四八)に至って完成した。其の東半は塩田として益々斯業の隆盛を見るに至った。 当時の戸数百五十余戸、内塩業家七十余戸を数える盛況であった。 明治三十八年塩専売法が実施せらるゝに及び、斯業は官営となり、仝四十三年九月に至って廃止となり、茲に元和以来三百年の歴史を有する塩田も終りを告ぐるに至った。依って仝四十四年耕地に改良を企て、大正二年に至り竣功し以て今日の良田を見るに至った。 西新搦の過半は卑湿の地で蘆荻の叢生に委してあったので、明治四十三年耕地整理を行い、仝四十五年に至って見事に竣功して今日のような良田となった。 (17)日尾搦 面積二町六反、力武初五郎らが明治二十六年頃築立てたものである。 (18)楠久搦 一名授産搦 面積三十二町歩、明治二十二年(一八八九)佐賀藩士族の一部御船方と称する佐賀市寺井・早津江・諸富・伊萬里・楠久などに散在する数百人を一団として士族授産社なるものを組織し、是等無職の者に職業を与うる目的を以て四軒屋(佐賀・小城両藩の御船屋のあったところ)の地先海面に埋立の工事を開始した。ところが事故あって中止のやむなきに至った。明治二十七年松本豊なるもの主唱者となり、授産社の権利を買収して再び埋築工事を起し、仝二十八年これを完成したものである。 (19)浦崎埋立地 面積約三十町歩、今より約二十年前、村井鉱業会社の手で埋立たもので現在は川南工業会社の工場となっている。 (以上佐賀県干拓史より抜萃) 第五章 牧畜業 炭坑業 一、牧畜業 下松浦地方は延喜の昔から牧畜業の盛んな所であったが、爾来各時代とも猶相当行われていたものゝようである。藩政時代に入り、佐賀藩主鍋島勝茂は元和八年(一六二二)江戸出府のため伊萬里港より出帆の際、親しく附近の地形を観望し、昔年此の地方に牧畜の盛んに行われていた事に想到し、楠久島が牧場として好適の地であることを察し、田原与次右衛門をして母駄二三十頭を求めしめ、翌年春これを楠久に放牧せしめた。然るに之は不幸失敗に終った。よって勝茂は更に中野神右衛門を奉行として肥前國産の母駄二十疋を放牧せしめた。此等二十頭の価格僅かに銀一貫目に過ぎなかった。亦以て当時の物価の程を知ることが出来る。 神右衛門は寛永十三年(一六三六)四月奥州産の母駄十五頭を買入れて楠久に放ち、更に有田・伊萬里に牧場を開き飼養に努めたので、業績漸く挙がり、百五十頭の払下をなす盛況を見るに至った。ついで承応の頃(一六五二−五四)仙台の松平陸奥守から母駄十五頭を贈られたので、これを楠久に放ち、また小城・白石の支藩より数頭の飼養を托せられ、一時は三枚場合せて百十七頭の多きを数うるに至った。 二、炭坑業 西松浦地方の炭田は松浦川東部大川村と有田川西部地方より伊萬里湾西岸地方にかけて石炭の埋蔵量は相当多量に存在するものゝようである。藩政時代に於て既に山代郷に手堀として採掘されたけれど其の開始年代は詳でない。 明治の初年英人モーリスが山代と瀬戸の地に於て機械炭坑を創めたことがあり、のち東島猷一の長者炭坑・山崎景則の朝日炭坑・麻生太吉の久原炭坑・村井吉兵衛の向山炭坑などが経営されたことがある。(西松浦郡誌 二八六頁) 第六章 佐賀藩の窯業 鍋島直茂は征韓役より凱旋の際陶技をよくする多数の朝鮮人を伴ってかえり、これを各地に分任せしめて陶器製造に従事せしめた。これを佐賀系・多久系・武雄系に大別して記述することゝする。 第一節 佐賀系 (1)金立山窯 有田皿山創業調子によると、直茂公御帰陣の時、日本の宝に可被成と焼物帥上手頭立候者共六七人被召連、佐賀郡金立山の麓に召置かれ、焼物仕候、(今金立村熊山に陶工朝鮮人の墓二基あり、一の銘逆修朝鮮國工政大王之孫金公之墓道清禅定門・妻女同國金氏妙清禅定尼、今一本は法名のみ記之、此最寄にかま跡残れり)慶長の末、伊萬里の内藤の河内へ相移さる。(藤の河内は松浦郡山形村の内字にて、山形の宿より西北八九丁の山麓にあり、陶工最初の地と申伝、今に陶器土中より掘出す事有之、佐賀より伊萬里に通ふ道筋にて、、伊萬里より凡行程二里東にあり、伊萬里に属す)夫より日本人見習ひ、伊萬里・有田方々に成候由、元和の始也と記されている。 初め直茂に従って渡来した鮮人陶工らは佐賀の唐人町に居住し金立山麓に於て陶器を作ったと云われている。蓋し最初此処に窯を設けたのは、是より以前此の地方に窯業が行われていたゝめであろう。 今日久保泉村の妙楽寺の傍と慈恩院の附近、及び小城内の地に祝部土器の焼成地が遺っており、其の土器が相当進んでいたことはその破片によって知られる。同時にまた、こゝの窯業が天正年間まで継続されていたことが、有田皿山創業調子に 太閤殿下名護屋御通行の時上佐賀往還にて土器に握飯を盛り御馳走のため御供中へ差出せしを殿下も御歓び手づから御取召上られ、土器御目に付名護屋に製造仰付られ佐賀高木村の土器師家永彦三郎へ御朱印下さる。其文に云 土器手際無比類 於九州名護屋可為司也 天正廿年極月廿六日 御朱印 土器師家永彦三郎 とあるによって知ることが出来る。されば鮮人金公が此処に陶窯を創めた事もこの縁によったのではあるまいか。 さてのち金公が移ったという藤の河内は唐津領椎の峯の隣接地で、この椎の峯は元和二年鮮人陶工によって開かれた唐津藩窯である。元来この地方一帯は豊富な陶土が分布しているので、金公も其の隣接地に移って陶業を営むようになったのであろう。但し何れも元和の初めとすれば、何れを先何れを後と容易に断定することが出来まい。或は椎の峯も藤の河内も以前から陶器が焼かれていたので、帰化鮮人をこゝに移されたのではあるまいかとも考えられる。 また佐藤俊次氏の「伊萬里焼」に 慶長年間の創業と覚しきものに牧欅谷窯・正力坊裏窯・権現谷窯・市の瀬高麗神窯があり、何れも絵唐津風の陶器を製していたが、少し遅れて御教石窯・石の瀬火の谷窯・鞍壷窯・後家田窯等が起っている。所謂佐賀系これである。 とあるが、この金氏一族が金立より藤の河内へ、藤の河内より更に大河内へ移ったものとすれば、年代が合わなくなる。若し金氏とは別箇に岸岳系陶工の分派と見られるものならば頗る面白い見方として注目すべきものと思う。 (2)珍の山窯 佐賀市西堀端船木右馬之助氏の宅にこの窯趾がある。この窯の焼成品は主に朝鮮唐津の徳利と振出とである。素地は赤妹を帯びた粘性の強い細土で、釉薬は豊潤な光澤ある長石釉を用い、中には銅釉と思しき緑色を呈したものもある。 唐津焼の研究家古館九一氏の談によれば、藤の河内の作と比較すると、其の作行が全然一致しており一見した処では何れをそれと鑑別することが困難で、若し両者を一緒におくときは誰しも容易に見別る事は出来まい。其の胎土と釉薬とを比較精査の上漸く判定がつくのであるという。 金原京一氏は、波多氏と龍造寺氏との姻戚関係が出来て其の好みから珍の山窯が出来たように説かれているが、これは中里氏(唐津焼)の窯元の口碑に「珍の山は岸岳の分窯である」とあるのを基とした速断ではあるまいか。若し龍造寺氏に岸岳の陶工を招きたい希望があったとすれば、隆信の一言は陶工の分配を承諾せしむるに十分の威力をもっていたので、姻戚関係を結ぶまで遠慮せねばならぬことはなかったであろう。彼の妙安尼と波多三河守との結婚は天正十年四月の事で、隆信が島原での戦死は仝十二年三月のことである。珍の山窯の創業を兵馬倥偬のこの二年間に限定するには中里口碑だけでは余りに薄弱である。況んや波多三河守の治世中に岸岳窯が金原氏の云うが如く果して隆盛であったか否かは更に検討の要があるに於ておやだ。彼の文禄元年豊公が佐賀領通過の際、龍造寺氏が高木宿に於て接待の時の器物には施釉の陶器は用いられていなかったようである。この時の接待振については葉隠抄に 此の節慶闇様衡了簡にて在々より戸板を出し、竹四本立て候て戸板を据え、飯を堅く握り土器に盛りならべ、尼寺通筋道端に出しおき候様にと仰付られ候、太閤様御通懸けに御覧成され、これは龍造寺後家が働なるべし、食物なき道筋にて上下難儀のところ心附け奇特なりと仰せられ、手に御取り給ふて武辺の家は女まで斯様に心働き候、この堅さ握り様を見よと御褒美成され候、右の土器無類の物に候と仰せられ、名護屋迄土器つくり召寄せられ、御印下され、今に持伝へ候よし とある。してみるとこの時の饗応の器具中に珍の山焼が用いられていたとすれば、無釉の土器にさえ目を留める太閤が施釉の珍の山焼を見落すはずはないと思われる。若しこの時龍造寺家に施釉の珍の山焼があったとすればこの心を込めた大事の接待に際し之を用いない事はあるまい。斯く考えて来ると、珍の山窯は豊公以後の創立と見るのが妥当ではあるまいか。或は金公一党が金立山時代の別窯ではなかったかとも想像される。併し惜しい事には金立村熊山の窯址は湮滅して、其の破片さえ発見する事が出来ず、両者の関係は全く不明である。要するに珍の山の開窯年代は今のところ不明とする外はない。 第二節 多久系 (1)鮮人渡来の事情 鍋島直茂が朝鮮から帰陣の際、國老多久長門守安順に従って渡来した鮮人に李参平の一団があった。参平は帰化して金ケ江三兵衛と称された。 多久旧記に 金ケ江三兵衛と申者元来朝鮮人にて、往昔日峯様朝鮮御陣の刻三兵衛儀於役國御道御案内申上於御陣中身命を抛抽忠節候故、御帰朝之節被仰聞候者、彼國の御道等仕候末□付而者高麗人共より害に蓬候も難斗、依之御供被□召具由被□仰出、其節長門守安順同勢内に召連渡海仕候云々 とありしまた金ケ江旧記には 某元組の儀は慶長年中忝くも太閤高麗御征伐之砌、御当家御両部様御地へ暫く被為遊御詰、色々責□御工夫の節、日峯様御勢山道不相知所へ被御行進御案内仕候者も無之処、遙に向へ纔に小屋立相見候故、御家来方御立寄道筋被相伺候得ば、其家より唐人罷出で□□□□□語るに難相分候へ共、手振□仕様大体に相分り、其筋へ御掛り候。且又追々他方の勢も相続き御合戦之処、全御勝利有之□□其後高麗御取鎮め御帰路の節、船場にて最前道案内仕候唐人被召呼、御褒美之御言葉被成下、其上被相尋候は、名元地元被相記、且又何之業を以て世を渡候哉被相伺候処、右之者共申上侯は、農業仕候其中参平と申唐人申上候様は、我□□□専陶器を仕立候由申上候、右御感之上被仰候は、其節山道尋候得は地下之残党仇を報可申候、一先我日本へ引越家業仕間敷哉と懇に被遊御意候処、致業□速に御供仕候、御当地相渡、其節多久長門様同様御出陣御帰國之上被蒙仰、右之者共預かりに相成、有田郷乱橋と申す所に暫く被召置候に付、家業之儀は右在所野開土仕、日用相仕り候右唐人罷在候所、高麗金ケ江と申所之産に御座候。 と記されている。この記録に徴すれば、これら鮮人は鍋島軍の道案内をした功労者で、日本軍撤退ののち鮮人らから外敵へ内通者として迫害を受ける危険があるのを慮り、我に連れ帰ったもので、誠に温情ある処置であることが知られる。またこれら鮮人は多く農民であった。其の中に李参平なる陶工がいてこれが幸にして有田焼の起源を作ったものである事が知られる。要するにこれら鮮人は捕虜でもなくまた陶工たらしむる目的で連れ帰ったのでもなかった。されば金立の金氏も、武雄の宗伝一党も同様の事情の下に渡来したものと考えねばなるまい。但し他藩内に帰化した鮮人中には陶工となっているものが頗る多い点より見れば、最初より陶工として同伴されたものが多数あったのであろう。 (2)李参平と有田創窯 李参平は多久安順の軍に伴われて来た因縁を以て多久侯にお預けとなり、彼が陶工であったところから、城下はずれの唐人古場に窯を作り製陶に従事することゝなった。かくて李参平は数年にして西多久の高麗谷に窯を移したが、此処の原料にも嫌きたらず、附近の山谷を跋渉して原料を探索し、遂に有田川の上流泉山に白磁用の原料を発見する事が出来た。是に於て多久侯の許を得て一族を引きつれて此処に移り、上白川の天狗谷に窯を築き磁器の製造を創むる事となった。これ実に元和二年のことで、我國に於ける磁器の創始である。此時の有様は参平自身の次のような記録によって知る事が出来る。 一、某事高麗より罷渡、数年長門守様へ被召仕、今年三十八年之間丙辰之年より有田皿山之口に罷移申候、多久より同前に罷移候者共と、某子にて候、皆々車抱申罷在候 野田十左衛門殿之唐人子供八人、木下雅楽助殿(此処脱字か)カクセイ子供二人、東ノ原清元内の唐人子三人、多久本皿屋の者三人、右同前に車抱罷在候。 一、某買切之者高木権兵衛殿内ノ唐人子四人、千布平右衛門殿之唐人子三人、有田百姓の子兄弟二人在伊萬里町助作、合十人、所々より集り申罷在候者百二十人、皆々某萬事之心遣仕申候 以上 巳四月廿日 有田屋 三兵衛尉 印 (有田皿山調子) 李参平の死去は明暦元年(一六五五)で、其の以前の己年は承応二癸己年(一六五三)にして、之より三十八年前の丙辰は元和二年(一六一六)に当るから参平が有田皿山移転を此の年とすることは一般に異論のない処である。 (3)有田創窯に関する諸説 李参平の有田創窯については種々の異説がある。これに関して水町和三郎氏は精密なる考証を加え、乱橋移窯を否認し、西多久高麗谷より先ず上白川天狗谷に移ったものと論断されている。氏は在来の諸説をA・Bの二説に大別して、之に検討を加え、更に窯址を踏査して得たる資料と対照して、この結論に到達されている。左に同氏の著なる「肥前磁器の創業時代」から、其の大要を抄録する事にしよう。 A説 A説に属するものは、日本陶磁史論・(北島似水著)肥前陶磁の新研究・(大宅経三著)肥前磁器の創業期(塩田力蔵著)の諸説を挙げ、これを次の如く要約してある。其の要旨は 三兵衛多久より乱橋に来り、此処に暫く陶窯を経営し、後板野川内に移り、現在の窯の辻・檀伐桐窯・百間窯と漸次上手の方に窯を移して粗陶器を焼いていたが、一たび白磁鉱を泉山に発見するに及んで、此の百間窯にて磁器を焼造した。然るに百間窯と泉山原料地との間には嶮岨な峠が邪魔をして、原料運搬に不便な処から峠を越えて原料地に近き小樽に窯を移し、続いて白川天狗谷に移った。 B説 B説に属するものは、有田陶器沿革史・(横尾謙著)有田磁業史・(寺内信一著)日本陶磁史(今泉雄・小森彦太郎著)などの諸説で、其の要旨は 多久より乱橋に来た三兵衛は此の地に先づ陶業を営み、のち有田川を遡り泉山に白磁砿を発見するに至って、上白川天狗谷に磁器窯を創始し、次第に百間窯や小樽窯に窯場を移した。 と約言することが出来る。 水町氏説 さて水町氏の乱橋移窯否認の論據は (1)乱橋移窯は金ケ江旧記に「有田郷乱橋と申す処に暫く召置かれ候に付云々」とあるのを、其のまゝ何等の検討を加えずして、之に追従したる誤より来たものとなし、此の記事は多分三兵衛が碑石を探索して乱橋に来り、試験的に焼いたのを誤られたものであろうと云い、これが論証として多久旧記・皿山創業調子等には乱橋移窯の記事がなく、且つ又俚人の口碑にも存しない点を指摘し、(2)廿余年間多久侯の寵愛と保護とを受けた李三兵衛が乱橋の如き不便の地に移らなければならぬ理由はない。又移住地として特に有利な條件があったとも考えられない。原料の点より見ても、技術上より見ても、高麗谷製品の方が乱橋のよりも寧ろ優秀であると説かれ、(3)三兵衛が乱橋に開窯したとすれば、此地より多久製品と一脈相通ずる製品が発見さるべきである。然るに此の乱橋附近の何れの窯よりもそれが見出されないと断ぜられている。私はこの水町民の説に首肯すべきものがあると思うのである。 第三節 武雄系 武雄系には南北両系がある。南系は杵島藤津両郡に散在して本書の範囲外に属するを以て北系のみを主として記すこととする。 (1)宗傳と百婆仙 豊太閤征韓役後、武雄城主後藤家信に従って帰化した朝鮮人の中に深見新太郎(帰化名)なるものがある。蓋し深海は彼の故郷の金海に因んだものであろう。初め武雄興福寺の別宗和尚に帰依し、暫く其門前にいたが、のち杵島郡武内村に移り窯業を創めた。是れ即ち内田黒牟田窯の開祖で、元和四年十月内田山に歿し、法名を天室宗伝と云った。 これより前、元和二年有田に白磁砿が発見され、磁器の焼成が始まると、その業俄に盛大となり、陶器の需用は大打撃を蒙るに至った。それで宗伝の未亡人なる百婆仙(明暦二年一六五六 三月十日歿九十六才)は一子平左衛門と共に同族九百八十余人を引きつれ、有田稗古場に移った。時に寛永八年(一六三一)の頃であった。(肥前陶磁史考参照) (2)陶工の整理 元和二年李参平が白川に来り磁器を製造するようになると、内田黒牟田の百婆仙を初め、各地の陶工らも亦此の附近に集り、陶窯俄に増加し、寛永の中頃には、燃料伐採のため山林の荒廃を見るに至った。よってこれが保護の必要を認め、陶工の整理を断行されるに至った。有田陶器由来書によれば 寛永十四年三月多久美作守へ被仰付、御領中の焼物師御立山を切荒すによって、唐人筋の外男女八百人余被相払、内男五百三十二人女二百九十四人、右高麗人子孫多くなり、焼物しけるを、日本の者も見習ひ、細工に仕付、伊萬里・有田方々へ散居し、皿山薪のために山を切荒しけるより、伊萬里郷皿屋四ヶ所、有田郷七ヶ所の者共、前條の人数営業差止められしなり。尤も日本人の中にても子細ある者は美作守切手にて残し置かれしなり。 とある。主として鮮人子孫を残しおき、日本人の内にても事情やむを得ざる者は共のまゝ事業を続くることを許された。 これより前製陶家より年二貫の運上銀を徴収していたので、此の陶窯閉鎖は其の収入に多大の影響を及ぼした。時に偶々島原の一揆が起り、佐賀藩も出兵して相当の軍費を消費したので、藩の中野神右衛門を以て再び西目代官となし、皿山に臨みて収入の増加を計らしめた。神右衛門は伊萬里の東島徳右衛門と大阪の商人塩屋与一左衛門・ゑらや次郎左衛門の三人に命じて、寛永十九・二十の二年間、毎年の運上銀二十一貫を納めしめ、山請ということにした。山請とは窯元から一手に買取る一種の専買法である。然るに此の制度は失敗に帰し、三人は遁亡してしまった。 それで改めて有田の製陶家と協議し、山請法を止め、製造者の売捌となし、其代りに運上銀三十五貫を上納せしむることゝした。爾来藩の一大財源として度々増収の法が講ぜられ、慶安元年(一六四八)には七十七貫余の収入をあぐることゝなった。(中野神右衛門参照) かく多額の税収をあげたのは、有田の窯業の隆盛に赴いていた事を物語ると同時に、其の販路も他地方にまで拡張されていたことを物語るものである。 (3)内山・外山 有田窯業の実相を見るに、正保四年(一六四七)の頃には惣焼物師窯数百五十五戸、車数も百五十五個となり、窯場は今の有田白川山ほか十三ケ山に打寄せられ、砿石の使用などにも巌重な制限が設けられる事となった。大河内有田陶器由来によれば 十三ケ山の地名不詳、尤も承応二年(一六五三)小物成算用帳の内有田皿山銀何程、外尾山・仁田山・岩屋河内・大樽山・中樽山・小樽山・歳木山・板ノ河内山・日外山・南川原山合せて十四ケ山なり(著者註此数合わず)とあり、寺内信一氏の有田磁業史には 内外十四窯は外尾・黒牟田・南川原・板ノ河内・日外山・上白川・中白川・下白川・大樽・中樽・小樽・稗盲場・岩谷川内香石山・年木山 を挙げてある。なお有田沿革史に 我が有田白川の外、管内十三ヶ所を以て磁器を製するの地と定めしむ。此れ内山陶山の区別をなすの始めとす。其個所今得て評にせざるも、今を以て此を考ふれば、外尾山・応故山・廣湘山・黒牟田山.南川原山・一ノ瀬・大川内山・簡汪山・弓野山・志田山・昔田山・内野山計十三ヶ所(中牒)此の外山の如きも亦外山・大外山等の称ありて我有田の磁石を採る者あり、或は唯残余の石礫を以て梨する者あり、又残余と雖も採るを得ざるものあり、其制度後世に成る者と雖も、概ね釆邑の区劃によって之を定むる者の如し、松浦郡有田郷外尾山・応法山・廣瀬・黒牟田山・南川原山・同郡伊萬里郷大河内山・一ノ瀬山は同じく本家鍋島氏の領地たり、此れ其採る所の者差異あるも、皆我有田の砿石を以て製する所の者とす。之を外山と云ふ。其他杵島郡筒江山・弓野山・小田志山は家老武雄氏の釆邑たり、因て泉山の砿石を採るを許さず、唯筒江山は毎年砿石千苞(八萬五千斤)を採るを許す、又志田東山は本家鍋島家の領地なるも其の創業後世に成り、其の西山は分家鍋島氏(蓮池)の領地にかゝり、共に我有田の砿石を採るを許さず、藤津郡嬉野内野山も亦本家鍋島氏の領地たるも、其製する所粗悪なるを以て採らず、同郡吉田山は本家鍋島家の分領する地にして、毎年五百苞(四萬二千五百斤)の砿石を許す、之を称して大外山と云ふ(下略) とあり、以て内外山の別が甚だ厳格であった事が窺われる。 (4)柿右衛門と有田焼 有田焼は柿右衛門によって大成し、我國磁器の最高峯を占むるに至った。故に有田焼を記するものは必ず柿右衛門を述べねばならぬ。 柿右衛門の父は酒井田圓西と云い、杵島郡白石郷の人で文学や和歌にも趣味を有し、其の名も諸方に知られていたらしい。彼は元和二年(一六一六)一子喜三右衛門を伴って有田郷南川原に移任した。 之より前、李参平は泉山に白磁砿を発見して磁器の焼成に成功し、多久侯の許可を得て上白川の天狗谷に移った。同じく元和二年のことである。これに刺戟された附近の韓人らは俄に磁器の研究を始むるに至った。されば圓西の来住も其の目的は多分此の点にあった事と思われる。 圓西が南川原に移住の翌年、高原五郎七が博多承天寺の登寂和尚の紹介によって彼の処に来た。圓西は大に喜び、喜三右衛門をして就て陶技を学ばしめた。斯くて五郎七は此処で白磁の製作に成功し、喜三右街門は乳白手の製作に成功した。 此頃伊萬里の商人東島徳右衛門は長崎居留の明人周辰官から赤絵付の法を習って来た。喜三右衛門は之を聞き、徳右衛門に請うて其の法を学び、苦心惨憺、研究の結果遂に赤色彩釉の法を完成することが出来た。時に寛永二十年(一六四三)のことである。 ついで宇田権兵衛(呉洲権兵衛とも称せられた)から呉洲絵の法を学び、遂に金銀彩焼付法をも習得し、茲に絢爛たる有田焼の製作を大成するに至った。斯くて喜三右衛門は赤絵を施した蓋物を作って之を藩主勝茂公に献じ、非常の賞讃を蒙り、これより名を柿右衛門と改めた。時に正保元年(一六四四)四十九歳の頃であった。 爾来其の技益々進み、寛文六年(一六六六)七十一才で歿した。後嗣は代々柿右衛門と名乗っている。 此の柿右衛門の製品は正保三年頃長崎興善町の明人八官によって始めて海外に輸出され、寛文の初頃には有田の陶商藤本長右衛門によって輸出された。 赤絵付の法は早くも有田陶工の探知する処となり、業者が続出したので、藩は秘法の漏洩を恐れ、寛文十二年(一六七二)戸数を十一戸に制限し之を下幸平に集めた。これ所謂有田赤絵町である。(以上「柿右衛門」「伊萬里焼」「日本陶工傳」「肥前陶磁史考」等による) 柿右衛門は二代・三代は初代に劣らぬ名工であったが、四代になると技術が下り、五代の時には遂に御用を免ぜられるに至った。六代は幼少で家督をついだので、叔父渋右衛門が後見となり大に家業を励み一代の名工となった。七代を経て八代に至り、藩主茂治公の御目見さえ許され、(安永三年一七七四)茲に家門の光栄を復することが出来た。(肥前陶磁史考) (5)有田焼の進歩 斯くて有田焼の名聲は次第に高まり諸侯や富豪の垂挺措かざる処となり、寛文八年(一六六八)には仙台侯(綱宗)の特別注文を見るに至った。此の注文を引受けた喜右衛門(辻氏四代)は丹精こめて青花模様の食器を焼上げこれを納めたところ、侯は之を見て共の精巧なのに驚き、「是れ貴賓の用ふべき器なり」と、改めて仙洞御所に奉納した。御所では殊の外御嘉納あらせられ、以後禁裡御用の御下命を賜わり、宝永三年(一七〇六)には喜平次(辻氏四代)を常陸大椽に叙し、これまで藩主鍋島侯の手を経て献納していたのを直接奉献の事とされた。 天草石の混用 正徳二年(一七一二)、年木山の横石藤七兵衛は天草石の混用を発明し、有田磁業界に一大革新を来たすに至った。元来天草石は泉山の陶石に比し粘着力強く且つ硫化鉄の含有量が少いので、適度にこれを混入する時は一層容易に焼成さるゝ事を確めた。併し初の程は天草石の混入を以て有田焼の声価を落すものと考えていた。此の妄信は実験によって除かれ今日の盛況を見るに至った。 極眞焼 文化八年(一八一一)に至り喜平次(辻氏八代)が極眞焼と称する焼成法を発明した。此の法は外匣を造り其の中に焼くべき品を入れ、之を密閉して焼く方法で、此の法によれば直接火焔に触れないので歪が少く且つ顔料の発色麗しく、眞に玲瓏膩潤のものが得られるので、有田焼は更に一段の進歩を見るに至った。 窯積法の進歩 次に窯積法も亦大なる発達を遂げた。従来の窯積はハマと称する焼台を窯室内に平列し、其の上に焼成品を載せて焼いたものであるが、文化年間(一八〇四−一七)に至り百田辰十が二段重ねの天秤積なるものを案出した。それは大トチミの柱を据え、其上に大台ハマを載せて一階段を造り、又其のハマの中心にトチミ柱を置き其の上に又中台ハマを重ねて二段に平列する事とした。なお床上にも並べる事が出来るので、実は三段積となる訳である。此の法が発明されてより従来の平積に比して数倍の積込みを成し得る様になった。 のち深海市郎は更にこれを改良して三段重ねの伽藍積法を案出した。此の法は頂上には一枚の大鉢を積み、各段のハマの上に又小形のトチミを配し、其上に小ハマを載せ、其の高低を利用して蜘蛛手に交叉して積み込む方法である。これより一窯に一度の焼成量が非常に増加し、且つ一個当りの焼料が大層減少さるゝことゝなった。 上述の如く有田窯業家の不断の研究と工夫の結果は有田焼をして品質と価格の両面より益々飛躍を容易ならしむるに至った。(肥前陶磁史考) (6)皿山諸制度の変遷 国産陳列場 有田焼の発売は寛永の初に既に伊萬里の豪商嘉島徳右衛門によって柿右衛門の製品が取扱われ、富村源兵衛によって印度方面に密輸されていたが、寛文二年(一六六二)には長崎奉行が和蘭人の請を容れて、出島の居留地に日本国産の陳列場(外国人はラグザバサールと言った)を設ける事とした。これより有田焼は公然と海外に輸出される様になり、その製造俄に盛大となった。 窯業家の制限 皿山代官は斯くては粗製濫造のため有田焼の声価を落す憂あり、且つ秘法漏洩の恐れもあるので、之を防止するため寛文十二年(一六七二)当時の赤絵屋十一戸、窯焼百八十軒を限り、其の以外には絶対に製造を許さぬ事とした。 享保十年(一七二五)密貿易事件が起った。事件の大要は次の通りである。 有田の豪商富村勘右衛門が伊萬里港で陶器を積込み、之を平戸に送り、此処で同志の嬉野次郎左衛門が受取り、今津屋七郎右衛門を伴ひ、此処より印度方面に密航し、彼地の珍貨と交易して内地に齎し帰り、大阪あたりで販売して巨利を博していた。外貨販売から事露われ、次郎左衛門は捕えられ拷問に附せられていたので、勘右衛門は己のために苦しめられているのを知り、有田の自宅で屠腹し、次郎左衛門と今津屋七郎右衛門及び船頭徳右衛門とは長崎で処刑された。 のち寛延元年(一七四八)皿山代官は内外山の窯焼及び赤絵屋に対し、従来の窯税を改め窯場度数に応じて運上銀を徴することゝしたが、宝暦元年(一七五一)之を改めて戸別税となし、各戸に名代札を与うる事とした。而して此の名代札は明和七年(一七七〇)には赤絵屋札を十六枚とし、文化六年(一八〇九)には窯焼札をも増加し、両者併せて二百二十枚となした。 斯く制限されていたので、此の名代札を抵当として、一札六七十両の貸借又は売買さえ行われる様になった。 また安永八年(一七七九)には家業相続法を定め、斯業を営むものは必ず戸主に限り、相続者でなければ彩釉・絵付など一切の秘法を伝授してはならない事にした。 伊萬里市場 一方陶器販売法をも統一し、文化頃(一八〇四−一七)より内地向は一切伊萬里市場で取引する事とし、特別の事情あって其の許可を得たものでなければ、他所での取引は許さない事とした。これより伊萬里は陶市として繁栄を見るに至った。爾来諸国の陶商は伊萬里に集り、有田仲買商の委托している問屋について仕入をなし、各々其の販売圏内に売捌いていたもので、最初は紀伊・筑前・越後の三方面を主として定められ、紀伊商は江戸・関八州に、筑前商は京大阪・五畿内より九州に、越後商は北陸筋を各々自己の商圏としていたが、後には大阪・江戸・土佐・越中・出雲・長門方面より仕入商が伊萬里に集るようになった。(肥前陶磁史考) なお伊萬里歳時記によれば 伊萬里積出し凡陶器荷高国分左之通 但し年に寄る。 一、千 俵 筑 前 一、千五百俵 備 後 一、七千俵 豊 後 一、一萬三千俵 備 前 一、七千五百俵 伊 像 一、三千五百俵 播 磨 一、四千俵 土 佐 一、三萬六千俵 大 阪 一、七千俵 長 門 一、五千俵 紀 伊 一、二千俵 近 江 一、千 俵 堺 一、千 俵 豊 前 一、一萬六千俵 伊 勢 一、二千俵 日 向 一、千五百俵 尾 張 一、五千俵 讃 岐 一、九千俵 駿 河 一、三千俵 阿 波 一、六千五百俵 出 雲 一、五千俵 安 藝 一、六百俵 石 見 一、五千五百俵 備 中 一、四千俵 因 幡 一、千五百俵 美 作 一、二千俵 若 狭 一、二千五百俵 攝 津 一、五千俵 越 中 一、千 俵 大 和 一、二千五百俵 加 賀 一、六千俵 出 羽 一、三千俵 南 部 一、五百俵 松 前 一、四千俵 三 河 一、拾壱萬俵 関八州 内六萬俵江戸 一、千 俵 隠 岐 一、四千俵 丹 州 一、五千五百俵 越 前 一、九千俵 越 後 一、千五百俵 仙 台 一、二千俵 秋 田 一、千五百俵 津 軽 〆凡三十一萬俵 内旅陶器 一、四千俵 平戸領木原 代凡金五百五十両 一、六千俵 同領三川内 代凡金二千五百両 一、二千六百俵 同領 江永 代凡金二百六十両 一、三萬七百俵 大村領波佐見 代凡金千八百両 一、二千俵 唐津領椎ノ峯 代凡金 百 両 〆凡四萬六千俵 一凡二十萬俵 筑前商人買高 一、同六萬俵 紀州商人買高 其余諸國商人 伊予・出雲・下の関・越後旅客持込来候 金高七萬両と申事也 とある。此の記録は何年の統計かは判明しないけれど、伊萬里より日本各國に輸出された其の大略は窺い知ることが出来よう。 斯くの如く伊萬里港の繁昌は有田窯業の隆盛を来たし、有田窯業の隆盛は益々伊萬里港の輸出を増加し、相互相寄って此の両地方が佐賀藩に於ける経済上最も重要なる存在となった。 佐賀溝の皿山保護 文化十二年(一八一五) 成松信久が皿山代官となるや、品種別窯焼制度を設けて焼成技術の熟練を計り、一方には低利資金を貸与し、これを年賦償還とし、大に業者を保護し、また文政三年(一八二〇)には北畠源吾をして朝鮮向け陶器の輸出を始めるなど、一意有田焼の発展を計った。ところが不幸にも文政十一年(一八二八)には全國未曾有の大風災が起り、佐賀藩内の被害最も甚しく、殊に有田は大火災となり全山壊滅の悲境に陥った。是に於て藩主齊直公(閑叟公)は皿山の救済を命じ、久しからずして旧時に倍する復興を見るに至った。 有田焼輸出の一枚鑑札 天保十二年(一八四一) 久富与次兵衛は有田焼の輸出を計り、其筋の許可を得て和蘭貿易の利を独占するに至った。然るに翌十三年加地子猶予令が発布され、之が永年に亘ったので、此の地方の大地主は何れも大打撃を蒙り、中でも久富与次兵衛は高島炭坑失敗の痛手も加わって遂に彼の一枚鑑札を田代紋左衛門に譲渡すのやむなきに至った。これより有田は田代氏の隆盛時代を出現するに至った。紋左衛門の輸出獨占は有田一般の利益を壟断するので、萬延元年(一八六〇)には反対運動が勃発した。併しこれは容易に鎮定された。けれども慶応三年(一八六七)に至り紋左衛門が三河内焼に有田で赤絵を施し之を有田焼と称して輸出していたのを取上げ、又々紛議を生じ、其の子助作は責任者の故を以て一時投獄さるゝに至った。併し三河内のような薄手物は泉山の砿石のみでは焼成が困難なため其の後も此の種の品は黙許されて盛に海外に輸出されていた。 第四節 大川内窯 (1)藩窯の起源 有田の内山・外山の他に一種の特権を持った窯がある。これ即ち鍋島焼の窯元大川内山である。大川内の古窯は韓人の創むる処で、或は佐賀金立山から松浦の藤の川内に移った金氏の一党が、更に転じて此処に移ったものとも云われている。然し此の説は更に研究の上でなければ眞偽を別つことは出来ぬ。 大川内古窯は暫く措き、佐賀藩窯としての大川内窯は藩主鍋島勝茂が寛永五年(一六二八)に有田の岩谷川内で藩の御道具を焼かしめたのが起源で、寛文の初(一六六一)南川原に移り、更に延宝三年(一六七五)に此処に移転したもので、所謂鍋島焼と称せられる窯元の大川内窯はこれより始まるのである。 大川内山へ移転した理由としては、此処に青磁の原料があるのと、此地が街道から深く奥地に入った山間の別天地をなしているので、窯技の秘密を保つに好都合であったからである。当時は此の山の入口には関門を設けて外来者の出入を検するなど、其の警戒は頗る厳重であった。 (2)藩窯の諸制度 大川内藩窯の監督・指導を掌る者を御陶器方と称した。大川内有田陶器由来によれば、 藩主勝重(茂)公御代より士族副田喜左衛門陶器功者に付、御道具山住居、御陶器方手伝被仰付、子孫代々当役所に相勤めし処、天明中御改革に付、被差免佐賀へ帰任す、勿論大河内御陶器方の儀、有田代官所の総括にて、目付役陶器方役等なり 云々 とあり、「何れも代々扶持米十五石(或は六石五斗に減給されたこともある)を給せられ」ている。(副田氏系図) 御細工屋には郡目付・下目付・主従・手男と云う四人の役人が常任に詰切り、勘定及作業監督の外職工の取締に従事した。一面又職工には遺憾なく天才を発揮せしむることに努め、そして職人の詮衝はまた頗る厳格で、轆轤細工人十一人、捻細工人四人、画工九人、下働き七人、計三十一人の定めで、目付以下諸役人より窯焚十六人に至るまで、皆本藩より扶持米及び金員を給せられ、別に技術奨励の制まで設けられ、一ヶ年の支給高米三百石、金一千両と云う予算であったと云うことである。(肥前陶磁史考参照) 副田喜左衛門はもと京都の浪人で、元和の末有田に来り、同じく京都の浪人善兵衛と共に、高原五郎七に就て陶技を修めていたのを藩主勝茂が之を知り、喜左衛門を登用してこれに切米十石を給し、(のち二十石に増加)善兵衛を補助となし、五郎七を特に賓師として厚遇した。然るに五郎七は切支丹の嫌疑を蒙り遁去したので、喜左衛門は善兵衛と共に留って大に藩窯の経営に努めた。 喜左衛門以後其の子孫は代々御陶器方となり、斯業に精進し、天明の改革に至るまで此処に居任した。 蓋し副田氏の功績は大川内焼と共に永久に伝うべきものであろう。 (3)窯の使用方 大川内山の中で二本柳の古窯は登り窯数三十三間が連続しており、其の中藩用の窯はその眞中の三間だけであった。これは火度の均分を調節するためで、その構造も特別に注意を加えられていた。藩用の前後三十間は民用として無料で使用せしめられていた。尤も御細工屋で特に重要な製品は予備として藩窯に近い前後の窯の最良の積座を選び、之に焼製せしめ、その中の上成品より選択された。 (4)製品の種類 製品は藩主の御用品の外は、幕府への献上品、諸侯への寄贈品及び註文品に限られ私用または転売は一切禁ぜられ、窯の出し入れには一々係役人が之を点検し、不合格品は悉く之を破棄して終ったものである。御細工屋の製品は一ヶ年を通じて大皿幾個・小皿幾個・酒盃幾個と規定の数があり、これが総数五千三十一個であった。その他臨時の註文は此の外であった。 製品の種類は色鍋島・染付鍋島・鍋島青磁・鍋島七官手の四種であった。色鍋島は呉洲描の下絵の上に赤絵を施したもので、彩色は赤・青・黄の三色に限られ、稀には黒の上に淡紫をかけたものもある。 模様は概して植物が多く、牡丹・白梅・廻梅・廻竹・若松・水仙・秋草・薊などが主で、動物は鳥魚や蝶の外龍などである。或は宝珠や七宝崩しなどもあるが、好んで描かれたのは青海波で、次は特種の牡丹や唐草模様などであった。 その他、歳寒三友・芦雁・灘越蝶・瓢箪画・継絵・槁掛山水・楼閣山水・雪中山水・鯉・金魚・鮎・花筏などがあり、また裏描の七宝綬帯や兜唐草など、まるで印刷の如く描かれている。其の畫様は写実に立脚して而も写実を離れた特種の文飾美を遺憾なく発揮した優美な作品である。 (5)燃 料 燃料は郡内二十四ヶ所の松林を指定し、内十二ヶ所を常用林として年々の所要を量り、之に対する輪伐の制を建て、他の十二ヶ所を予備として用意されていた。(肥前陶磁史考) (6)大川内崩れ 上述の如く藩の御用窯として特殊の存在を誇った大川内山も、版籍奉還と共に廃止となり、主立つ職工は士族に編入されて金禄公債を給せられたけれども、其他の職工は有田や三川内其他の陶業地に離散するの悲運に陥った。 (7)大川内山の復興 廃藩と共に一旦廃窯となったが、光武彦七・原次郎右衛門・立石寛兵衛らが甚だ之を遺憾とし、明治十七年(一八八四)内庫所の補助を仰ぎ、精巧社を設立して鍋島焼を再興した。併し利益を超越した旧藩窯と異り、経営意の如くならず、僅に鍋島侯の補助によって其の業を続け今日に及んでいる。 |
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第七章 教 育 一、藩学と庶民教育 佐賀藩は建藩以来肥前の大部を領し、連綿として変ることなき雄藩であったため、藩学は一種の特色を有し、天下に有名な碩学が続出した。 併し庶民階級の教育は他藩同様至って不振の有様であった。此の間にあって有田に草場佩川・正司碩渓・谷口藍田・江越如心、伊萬里に中村鼎山・草場船山、大坪村に前田萬里、山代の楠久に川窪予章などの学者があって地方庶民の教育に当った。 庶民教育の制度は村々の状況により多少の相違はあったが、村塾も寺小屋も八九才より十五六才に至るまで志望者にのみ行われ、其の学科は片仮名・平仮名に初まり、附近の地名や人名・國盡し・農業往来・消息往来を当時常用の書体で書いた手本に就いて毎日習字を行うことが普通で、少しく進んた処で童子教や実語教を教わる程度のもので、算数は算盤で加減乗除を教わる位のものであった。されば庶民の大多数は目に一丁字ないものばかりで、若し経書でも学ぶものがあれば、一般人からは異様の目を以て見られるという有様であった。 二、教育者小傳 草場佩川 名は*(革華) 通称瑳助、佩川・玉女山人・索綯水漁者・濯纓堂主人等の号がある。肥前多久藩の家臣で天明七年(一七八六)に生まれ、慶応三年(一八六七)八十一才を以て歿した。幼にして頴敏、長じて江戸に上り古賀精里の門に学び名声大いに揚った。又画を善くし、初め沈南蘋の画風を学び、人物・花卉・*(令羽)毛を善くしたが、中年より南宋画に変じ最も墨竹に妙を得た。天保中(一八三〇−四三)佐賀藩士に列し國学教導となり、傍ら家塾を開いて子弟を教導した。安政二年(一八五五)幕府から徴聘を受けたが、病と称して之を辞し、のち世子の侍読となった。嘗て藩命を以て有田教導所に来り子弟を教え、傍ら西松浦の各地を巡遊して之を詩画に遺すところが頗る多かった。大正五年従四位を贈られた。(西松浦郡誌扶桑画人傳) 正司碩渓 名は考棋と云い有田皿山の人で、其の家が大谷に近かつたので碩渓と号した。 寛政五年(一七九三)に生まれ、長じて父祖の業質屋を継ぎ勤苦を厭わずして大に家業を興し文政十一年(一八二八)八月の大火に当り家財を投じて窮民を賑恤した。のち園中に小祠を建てて先聖を祀り家業の余力を以て郷村の子弟を教誘したので、遠近風を望んで来り教を請う者が多かった。晩年宅西の一阜を墾き、新に三戸を置き農業に服せしめ、別室を此処に設けて隠棲の処とし、専ら著述に従事した。天保中江戸に遊学し、諸藩を歴遊し、佐藤一齊・安積艮齊・大窪天民らと交を結び、大学頭林述齊の知遇を受け、帰途大阪に大塩平八郎を訪い、逗留数ヶ月に及んだ。其の著わすところの豹皮録百巻は廣瀬淡窓・帆足萬里・篠崎小竹・後藤松陰・奥野小山・草場佩川らの叙跋を添え、平戸侯肥前守煕も亦推賞して和歌を贈った程の名著である。此外富強録・経済問答廿巻・家職要道八巻・環堵日記廿巻・天明録四巻・武家七徳廿巻などの著がある。また兵学にも通じ、大村、平戸両藩に兵を講じたことも度々であった。 安政四年(一八五七)六十五歳を以て歿した。 歿後五十年大阪の時計商生駒権七なるもの碩渓の家職要道を読み、修身齊家の道は此書にありとなし、之を信條として奮励大いに努め、遂に巨萬の富を成し、これ偏に著者の賜であるとして金若干に置時計を添え其の由来を記して碩渓の孫敬二に贈って来た。ついで大正二年明治天皇の御聖徳を輯録した冊子に金百円を添え、祭典の資として贈って来た。これ実に碩渓五十年後に至って崇高なる生駒氏に逢い其の偉大なることを見出されたものと云うべきである。(西松浦郡誌) 谷口藍田 名は仲秋、通称は俊一、藍田は其の号である。文政五年(一八二二)有田町白川の畔に生まれ、明治三十五年(一九〇二)八十一歳で歿した。父を源兵衛と曰い、母は武雄の文学者清水龍門の姉である。五歳孝経を読み、十二歳にして龍門の塾に学び、十八歳のとき九州を漫遊し、彦山に登り玉蔵坊に就いて周易を学び、去って廣瀬淡窓の塾に入り、苦学三年遂に塾長となり、二十一歳江戸に上り羽倉曾堂の家に寓居すること三年、古賀洞庵・佐藤一齊・佐久間象山・大槻盤渓らの先輩を訪ねて漢学を究め、また伊東玄朴・鈴木春山・坪井信道などと交わり外國の事情にも通ずることを得た。最も頼三樹三郎と好く、互に勤王を誓い、國に帰って家塾を開いた。これ有田に於ける庠序の嚆矢である。のち住吉村に一舎を新築し、*(髟真)山書院と号した。既にして鹿島藩主鍋島直彬禮を厚うして彼を聘するや其の意気に感じ忻然行いて弘文館の教授となり、権大参事を兼ねた。明治二十三年熊本帥団長北白川宮能久親王の侍講となり、親王大阪に転じ給うや藍田も亦召されて大阪に移り、経書を講じ、親王薨じ給うや哀悼己まず、恭 しく墓碑銘を撰した。明治二十九年東京四谷新宿に自ら藍田書院を建て専ら皇道の扶植に精進し、其の学規に「皇国の大道を守り忠孝の正教を敷く」とした。彼は常に「皇国の道は孔子の言と合し、孔子の言は我が皇道の註疏である」と言っていた。其の著に只咬雪遊稿・図南銀・帰詠放言・修養秘訣・周易講義録・詩文集などがある。明治四十四年正五位を追贈された。(西松浦郡誌・佐賀県郷土教育資料) 江越如心 名は礼太、如心は其の号である。文政十一年(一八二八)小城藩の生まれで、壮年の頃江戸の昌平黌に学び、安政年間露國使節プーチャーチンが長崎に来て幕府と商議せんとするや、選ばれて筒井肥前守の随員となり、これより名声大に揚がり、佐賀本藩の待遇俄に厚きを加えた。如心は内外の形成に鑑み、藩主に勧むるに興業の急務を以てし、英人モーリスが山代久原に炭坑を創むるや、此処に居り共に英・漢の学塾を開き、子弟の教育に勤めた。のち有田に至り此処を永住の地と定め、代官所跡の払下を請うて学校を設け、明治五年学制の頒布せらるるに及び、これに基いて白川小学校と改めた。如心はまた有田磁業の発展を図り、之を有志に説き陶磁器専修の学校を起し、勉修学舎と名ずけた。これ実に有田工業学校の起原である。如心は一時両校の校長を兼ねたが、のち後進に譲って退隠し、有田町より終身年金弐百円を贈られた。偶々長崎に遊び病を以て歿した。時に明治二十五年一月三十一日、享年六十六歳であった。(西松浦郡誌) 中村 鼎山 名は元*(王番)、通称は堪二、半升庵鼎山は其の号である。伊萬里の人にして書肆を家業とし、家号を太古堂と称した。前川治英の四男にして寛政十二年(一八〇〇)に生まれ、二十六歳で中村氏を継いだ。天性頴敏、多藝多能、就中その俳歌は一方の宗匠にして、精里・穀堂・*(土巳)南らの儒者も天才として推賞するところ、其の篆刻は特に蘊奥を極め、公卿諸侯文人韻士の最も愛好するところであった。 元来伊萬里は商業地で、他を顧みる余裕もない繁忙の土地柄であるのに、独り鼎山は悠々として世俗を超え、高尚の趣味と崇高の学徳とを以て郷党はもとより、遠近の子弟をも感化すること頗る大なるものがあった。その著に五合鍋・印章備正などがある。明治七年三月十一日七十五歳を以て歿した(西松浦郡誌) 前田萬里 文化五年(一八〇八)大坪村櫛屋の生まれで.名は方、通称作太郎、萬里は其の号である。十四歳で佐賀高楊の門に入り蘭学を修め、また多久佩川の塾に入り漢学を修めた。常に遠遊の志があったが、病に罹り其の志を遂ぐるを得ず、止まって郷里におり子弟を集めて教育に従事すること三十余年、其の間に教を受くるもの四千に及んだということである。慶応二年(一八六六)六十二歳で歿した。(西松浦郡誌) 川窪豫章 諱は永康、通称は雄平、初め松本機一郎と言ったが、のち川窪氏の婿となり、号を豫章と称した。天保五年(一八三四)四月山代楠久に生まれ、十一歳の時伊萬里に出で従兄の中村鼎山に学び、のち諸大家を各地に歴訪し、終に江戸に至りて藤森弘庵に師事し学業大に進んだ。既にして家に帰り家塾櫻鳴社を開き、子弟を養成したが、明治十六年(一八八三)以来淳古館を創めて大阪・京都・神戸などに於て育英に従事すること前後四十余年に及んだ。淳古館以来の門生のみでも二千三百を超えているという。 明治四十二年(一九〇九)二月七十六歳を以て大阪に歿した。其著に春秋大学等の講義及び詩文集等がある。 豫章曾て自ら語って言うよう。我が子弟を教育する所以のものは忠孝仁義の道を明かにして國本を培養すれば、其の風化を補益することは一官一職の功に勝るからであると。其の教育に対する信念のほど実に敬仰すべきものである。(西松浦郡誌) 草場船山 通称は立太郎、船山と号した。文政二年(一八一九)の生で、佩川の長子である。年十九にして邑庠の教官となり、ついで古賀洞庵の門に入り、更に篠崎小竹に学び業成って國に帰り、再び邑庠に奉職の傍ら、家塾を開いて子弟を教授した。安政三年(一八五六)京都に赴き梁川屋巌(ヤナガワセイガン)(一七八九−一八五八)に詩を問ひ最も頼三樹三郎と親交があった。明治の初年伊萬里に支塾を開いて子弟を教えていたが、のち京都に任し帷を下して生徒を教育すること数年、其の門下生には権要の地位に上った人も多かった。船山は至って孝心深く、身を持すること謹厳で、しかも淡白で善く人を容れた。其の著書に船山遺稿・日本史略伝・五大洲沿革歌・皇朝歴代歌などがある。明治二十年(一八八七)一月六十九歳を以て歿し、大正十三年(一九二四)一月従五位を追贈された。(先覚者小傳) |
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第八章 宗 教 第一節 神 社 黒髪神社 黒髪神社は黒髪山にある。この山は有田町の背後、杵島郡との境界に峙ち、其の所属は杵島郡にあるも、其の宗教的関係は松浦郡一円に及んでいるので、茲に之を略記することにした。 祭神は伊弉冊尊を主体とし、連玉男命と事解男命とを配祀し、崇神天皇十六年(西紀前八二)の建立で朝廷より権現の尊号を賜わり、黒髪三所大権現と称し、大同元年(八〇六)僧空海が唐より帰朝の際此処に滞留し自ら不動尊を彫んで安置し高弟快護をして一寺を建立せしめたものと伝えられている。初め地蔵密院、のち西光密寺、のちまた大智院と称し、代々武雄城主後藤氏の祈願所となっていた。明治の切頃大智院は佐世保に移ってしまった。 【補註】 大智院は明治十年頃火事に遇い、山麓の住吉神社附近に移っていたが、後明治三十九年に佐世保に遷ったとのこと、現在大智院の住持を兼務して居られる大聖院の佐伯恵海氏が話された。 飯田一郎記 本社の起原についてはまた次のような伝説がある。 黒髪山大権現 本地薬師如来の三尊、聖徳太子御作也、昔天竺の大王我朝に飛来り給ひ、天童岩の許に座し虚空に向て御櫛を下し給ひ、刹那に法躰の姿と現れ忽ち権現と垂迹し給ふ。其の鬚髪を納め御宝殿と定め給ひし故に黒髪山と云ふ。(肥前古跡縁起) また「伊弉諾尊が黄泉國より遁れ帰られた時、投げ給うた御鬘が此処に止まったから黒髪山と名つげた」 など、様々の伝説がある。此等の伝説は伝説として尊重することゝして、抑々権現なる語は本地垂迹説に基くもので、崇神の朝に遡ることは到底出来ない。 思うに藤津郡より出でた覚ばん上人が新義真言を唱えてより其の勢が滔々として各地に弘通し、松浦の宗派は此の新義派の黒髪山に統轄せらるるようになり、爾来武家時代を通じて黒髪山は此地一円の大本山たるに至ったのである。 青幡神社 東山代村にある。武甕槌命・経津主命を主神とし、相殿に松浦党の大祖源融と同久のほか、直・清・披・囲などを奉祝してある。 山代城主虎王丸の頃までは松浦家の代拝として芦原松浦氏の来着を待って祭事を行うのが例であった。明治維新後もなお平戸松浦家より代拝使が来て幣帛を献ずるのが例となっている。 淀姫神社 大河野村にある。淀姫命を主神とし、相殿に諏訪大明神と菅原道真公とを祭ってある。 文明七年(一四七五)鬼子岳城主波多三河守建立の棟札と、天正十七年(一五八九)鬼子岳城主波多三河守親修築の 記録とが今猶社宝として伝えられている。文明七年と天正十七年とは其間に百十四年の隔りがあるから此の三河守は同一人ではないことは明かである。してみると此の神社は代々波多氏尊崇の神社であった事が知られる。 香橘神社 伊萬里川の右岸伊萬里町陣内にあり、祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊・天忍穂耳尊と橘諸兄公とを祀ってある。この神社の沿革については次のような伝説が伝えられている。 第十一代垂仁天皇の御宇田道間守を使として常世國に香果を求め給ひし事あり、船我が津頭に寄せたりしが、岩栗山の景勝清浮の地なるを愛賞して橘の実を植え置かれし、蓋し往古にありては柑橘類は珍稀とせられしものなり。第四十八代称徳天皇の御宇の頃なりけん、此処に橘諸兄公を斎き橘の宮と称したりしが、後また他の三神を合祀して香橘神社と神号し荘園の寄附あり、第八十六代四條天皇の御宇渋江薩摩守橘公業、頼経将軍の命を帯び肥前下向の際本社に参拝あり、領主の崇敬浅からざりしが、天正の年伊萬里城攻守の際兵燹のために殿宇・宝庫烏有に帰せり。此宮宗廟の霊社にして殊に伊萬里街鬼門の鎮護なるを以て、幾くもなく郷村市街は浄財を醵して再造したるものなり。(西松浦郡誌) 第二節 仏 教 寛永十二年(一六三五)島原の乱後切支丹宗の厳禁となり、國民は仏教の何れかの宗徒たるべき事となり、各寺院は自己の有する信徒の調査書を寺社係に届出ずる事となった。これより寺院の権力は地方庶民に及び、為に寺僧の生活は安全となり、延いて一般僧侶の堕落を招くに至った。この間松浦地方よりは幾多の高僧が輩出して郷土史上に異彩を添えている。 不 鉄 不鉄柱文大和尚は山代郷楠久の生まれで、山の寺総持寺の住職であった。不鉄は寺法を固執して豊公の命に応ぜず、ために其の怒りに触れ同寺は焼却の厳罰に処せられた。不鉄和尚が在郷の時は多くは古敷島の洞窟内に座禅修法するのを常としていたので、鍋島侯は彼の高徳を知り、請うて佐賀総持寺の開山住職となした。寛永十三年(一六三六)に入寂した。(西松浦郡誌) 圓 宜 有田郷大里村藤山氏の出で、享保年間(一七一六−三五)の生まれにして、常光寺第十一世伝誉上人の弟子となり、業成って江戸増上寺の住職となった。嘗て西下して常光寺に説法供養し、法事に酒を禁したので里人が喜んで之に做ったということである。寛政四年(一七九二)五月入寂した。(西松浦郡誌) 惟 叟 有田郷二里村の川東西岡家の出である。修力超絶、明智高識遂に京都の名刹の法燈を襲いだ。生寂共に未詳。(西松浦郡誌) 象 河 伊萬里郷大坪村地北の出にして、円通寺悦通和尚の弟子となり、十三歳にして鎌倉建長寺に入って修道し、累進して建長寺第十九世の住職となった。禅学の造詣最も深く、其の教化の功徳至つて大なるものがあった。天保十年(一八三九)五月寂した。(西松浦郡誌) 〔補註〕 この頃は西松浦郡誌の文をそのまゝに援用せられたもの、郡誌の原文もまた「建長寺第十九世の住職」という。此の点最も疑わしきものがある。昭和八年発行東大史料編纂所編の「読史備要」臨済宗建長寺住持歴代表(仝一〇一二頁)によれば「二一九象河法浜」というのがある。郡誌にいう「象河」は恐らくこの「象河法浜」の事か。「第十九世」というのは「第二百十九世」を誤記したものであろう(飯田一郡記) 釈大潮 名は元皓、字は月枝、松浦・魯寮などの号がある。俗姓は浦郷氏で、延宝四年(一六七六)伊萬里郷の土居の上に生まれた。夙に仏門に帰し蓮池の龍津化霖に師事した。大潮に博覧宏識読書に耽り、禅余に詞章を好み、のち本田伊豫守に請せられて江都に上り、諸大家と交り、中にも物徂徠と親しく、詩は釈萬庵と名を齊くした。既にして帰って龍津寺に居たが、偶々藩主の命により多布施村に長淵寺を建立した。此の頃詩文を能くする士は概ね死亡したので、ただ東は服部南郭、西に釈大潮があって大に声望を専らにすることが出来た。明和五年(一七六八)九十三歳を以て寂した。著書に魯寮文集・魯寮詩謁・魯寮尺牘・明四大家文選集・松浦詩集・西溟余稿などがある。(大日本人名辞書、西松浦郡誌、佐賀県郷土教育資料) |
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第六編 江戸幕府時代の 唐津領松浦 第一章 唐津の起原 一、唐津の語原 往昔崇神天皇の朝大伽羅國の使者が来朝して我國の保護を請うたので、我より鎮将を遣わして之を治めしめ、國号を任那と名ずけられた。これより外國をカラと呼ぶようになり、カラとの交通の港をカラ津と呼ぶようになった。 さて唐津なる文字が用いられたのは何時頃よりの事であるかは不明である。但し最近神田五郎宗次が唐津大明神への寄進状に、延文二年二月廿△日の日付ある古文書が発見された。この延文二年は北朝後光厳院の年号で、南朝は後村上天皇の正平十二年(一三五七)に当り、今(昭和三十年一九五五)より五百九十八年前のことである。してるみと延文年間に唐津大明神があったことは確実である。凡そ神社の名称は地名に因んだのが多いから、此の唐津大明神も地名から起ったものとすれば、延文年間には既にカラツなる言葉が使用されていたと考えることが出来よう。然らば其の地点は何処であったか。これも亦不明である。但し現在の唐津神社附近であったろうことは、唐津城構築の際唐津神社を移転したということが伝えられていないことによって推察し得られる。 【補註】 延文年間と推定されている五郎宗次の寄進状はもと唐津神社の社僧家に傳えられていたと言われ、現在社務所に所蔵されている。仮名書の文書で上部に破損があり、全文の通読は不可能である。十四行書きで最後の行の年月日は充分明かではない。宛名が書いてないので文面だけではどこに宛てたものか明かでなく、更に重大なことは、この文書に唐津の語が全くないことである。従って之によって知られることは唐津神社の前身たる神社又は寺院があったということだけで、其の名が何と呼ばれていたか確実なことはわからないのである。この神社が唐津大明神と呼ばれたことを確証し得る最初の史料は現在のところ同じく仝社務所に蔵されている文安六年(一四四九)己巳正月十一日源親の寄進状である。唐津という語が確実な史料に出てくるのは案外新しいことと言わねばならぬ。これはこの方面の地形が時代によって変化したこととも関係があるであろう (飯田一郎記) 二、唐津城の起原 唐津御城開基によれば 波多領・草野領共に八萬三千二十九石七升、太閤様より寺沢志摩守様被成御拝領、早速岸岳城御受取被成候、然共何か思召候哉田中村え当分御仮城御普請被成御住居被成候。(中略) 唐津城御普請之儀者 慶長七壬寅年より御始まり同十三戊申年迄以上七年に御成就被成候由 (下略) とあり、また松浦要略記には次の様に記されている。 名古屋御城の道具・材木不残御引取被成候、本城山は満島と申所より続き、鏡村の支配にて有之候、山東の裾低く有是、大汐の時は汐越程に有是候を堀切、今の洲口に相成申侯。以前の洲口は只今二の御門御堀より北の御門外に流出居申候。二の御門内は鏡宮支配地水島に続く処故、今に至りてもこの御門より内は産神鏡大明神なり。満島山へ神仏七社有是候を所々に御移り被成候。松浦川は久里川前淵より二筋に成、鏡の方につき赤水の前より浜崎の方へ流れ、一筋は二の御門御堀より埋門の方まで流居候、波多川は養母田村へ流れ、鬼塚の脇より和多田村愛宕山下より唐人町の方より二の御門 方へ流出、右二筋川を御築留め被成、今の洲口に流る。神田川口は長松より江川町・二子の間に流出候も、御築留にて今の川筋に成る。 御城は東西三十七軒.南北六十五軒、高十九軒、是は天守台也。 附 唐津藩主一覧
三、唐津町の起原 松浦要略記に 一、町中 本町・呉服町・八百屋町・中町・木綿町・材木町・京町・刀町・米屋町・大石町・紺屋町・魚屋町・右十二町は順番に総行事相勤候 右の内材木町は惣町御取立の割捨浜にてのところ、志摩守様天守台より御覧被遊候処城下に船着きの所無是候間、水堀ほらる様被仰付、町奉行役人入江吉兵衛殿御吟味被成候処、播磨国太之木重左衛門と申者、商に参り居る者取立申候て、諸役免許等の次第、材木町古来書に出。 新町・平野町・塩屋町・江川町・東裏町・此の五町は惣行司不相勤・以上合十七町、弓町・鷹匠町・坊主町・同心町・十人町、比の五町小役人町也 船頭町は御船手役人中、水主町・海士町・百人町・新堀、此四町は郷方御支配 東寺町・西寺町 とある。実に建設当初の唐津叛知る貴重な記録である。 第二章 寺澤氏 一、寺澤氏の由来 「寺沢氏は紀長谷雄の手淑望の後で、美濃・尾張に分住し、一族皆寺沢氏叛称した」(野史参照) 「廣正は尾張の国に住し越中守と称し織田信長に仕へ、信長の死後は子廣高と共に豊臣秀吉に仕へた。其の領地は定かではない。或は丹波福知山二萬石叛領したとも云ふ。多門院日記には寺沢越中守は日本國の奉行で、六萬石の地行取りであった」(藩翰譜参照)とある。名門の出ではあるが、其の勢力は甚だ微弱であったと思われる。廣高に至り秀吉の認むるところとなり、抜擢されて唐津藩主となり、八萬三千石叛領し、関ケ原の戦に東軍に組し、徳川家康より天草四萬石叛加増され、堂々十二萬三千石の大名となった。 二、廣高 寺沢志摩守廣高は幼名叛忠二郎と呼び、初は正成、のち廣高と改名した。豊臣秀吉に仕えて最も信任叛得、天正十七年(一五八九)従五位下に叙し志摩守に任ぜられ、征韓の議決するに及び、西下して名護屋城構築に携わり、ついで兵叛韓土に進めて武功叛樹てた。上松浦党の首領波多三河守親が秀吉の怒に触れて城邑叛没収せらるるや、其の旧領に封ぜられ、八萬三千石叛領し、初代唐津藩主となった。時に慶長二年(一五九七)である。超えて同四年には島津義弘叛授けて其の臣島津忠棟の叛を日向に討ち翌五年には関ケ原の戦に卒先東軍に参加し、功を以て天草四萬石を加増せられ、平戸・五島・壱岐・伊豫の内高原の五氏は彼の与力として配属せらるる事となり、威勢大に加わった。ついで同十九年には大阪冬の陣に参加して大に忠勤を励み、益々徳川氏の歓心を探め、寛永三年(一六二六)には従四位下侍従となり、同十年四月十一日七十一歳を以て卒した。法名は休甫宗可居士、墓所は鏡神社境内にある。公の政績は次の如くである。 (1)郷足軽 松浦要略記に 波多浪人の者共被召寄、大川野郷組に三十人御取立、為給田五反宛有是、長崎口佐賀口相守る様被仰付、小頭二人大浦清助・中島茂右衛門に十五人宛、御預け被成候、(中略)其後小麦原・畑津・中島にて二十四人御取立、国境相守る儀被仰付候。又鏡・中原にて六十七人、和多田にて二十人、合せて八十七人御城下往還筋見巡り相守る様被仰付、無役にて有是候処寺沢様(堅高)御卒去後、御城使御預りの節御領分中御立山相守り候様被仰付、夫より山廻り相勤来り候。境目御番所福井・中島・川原・府招、合計四ヶ所右郷足軽二人宛勤番相務め、志摩守様御代は大村にて御役高二百石、掃除夫役として御引なされ候、土井様御代番人三人居、役高百五十石御引被成候とあり、なお怡土郡にも堂の元に十一人、小松崎に十人を置かれていた。此の制度は幕末まで永続した。 (2)庄 屋 志摩守が唐津に入部するや、先ず波多氏の旧家中由緒正しく且つ人望あるものを選抜して庄屋となし、村毎に一名宛を居住せしめた。領内凡そ二百七十ケ村、これを三十七組に分ち、組毎に惣庄屋一人を置き、其の組々を総括せしめた。此の制度は慶長より元和検地の頃までに成立したものである。(松浦要略記参照) 庄屋は其の村の一切を差配し、惣庄屋は其の組中に不都合の事なき様監督の義務があり、若し百姓中に一人にても法に触れるものがあれば、其の村の庄屋・惣庄屋共に責任を負わねばならぬ定めであった。(松浦拾風土記参照) 庄屋には居宅と屋敷とを与え、且つ役料として納米の中より役米を給せられ、惣庄屋には庄屋給の外に百石の役米を給せられた。(松浦拾風土記参照) これらの庄屋制度は其の後度々の改革が行われ、廃藩に至るまで永続した。 (3)百姓への諭達 志摩守は検地後屡々領内を巡視して百姓共に対し直接次のような事項を諭達した。 一、田地水・水口、末世に至るまで無相違様可仕候事 一、井磧其外用水溝は末々迄違変不仕大切に可仕候事 一、株田起しの節は境畝の刈株一本通立置互に苦情無是様可仕候事 一、当年作主人替候はば田麦は無相違先主より可受取候、乍去先主より受取候はば半田物成上納可仕候事 一、作主替り候時開きおき候切り畑其外仕立候品々は其の田畑御改可申受候、乍去訳有是候て其の田地作り不申内より持来り候はば無用に候事 一、百姓各々持地田畑念を入れ作可申仕候。若し悪敷作不精においては屹度可被仰付候に付、仁義無用出精の上耕作仕り、自分の籠家を守り、國家に対し第一の忠孝と可存候事 一、惣庄屋御用にて罷出候節は、手仕一人、支配村より召連可申候。且又百姓共無異議相勤候事 附 領分中如何様の儀にても乗馬の節は手使馬可出候事 一、脇庄屋勤方の儀は惣庄屋差図可仕候、惣庄屋勤方の儀郡方に行候節、組合の庄屋より可申開候、互に悪事無之様可申含候事 (松浦要略記) (4)松浦川の改修と干拓 志摩守は土木事業に対して卓越の技能と深甚の興味とをもっていた様で、唐津領内の開拓は一に廣高の功業に帰すべきものであろう。左に其の大略を記すことにする。 松浦川の川上は佐賀領より流れて、山本より双水村・九里村の村中を通り、鏡村辺(べ)たを流れ候由、然る処を双水より九里の土手御普請被成、橋本に流出候由、波多川は井手野一筋、波多河内より一筋、梅木谷より一筋、以上三筋の川、行合野にて出合、それより波多え流出、河原橋を過ぎ養母田村中よりなべくらを廻り、唐人町より田端え出で二子に流れ候由、此の波多川を橋本の下手に川土手を堀切松浦川と一つに被成、其後鬼塚より和多田の松浦岩辺に新田御普請被成候由 神田川はうきくまへ流出候を浮熊の大道御普請被成、唐人町の前に流出侯よし 玉島川は大村の川筋だんだんに御普請被成、浜崎の江頭に流出候様に被成、其後横田・赤水・北牟田不残新田に御開被成、五ツ井樋と申候も其の節に御普請被成候由、其頃は赤水・砂子は唐津より潮差引し、遠干潟にて有之候由 (唐津御城開基) 以上の大工事の結果は松浦川現在の水路となり、水深を増し舟揖の使を大にする事を得、又沿岸の干潟は干拓され、鬼塚・久里・鏡・浜崎に亘る一帯の低地に数百町歩の良田を見るに至った。 (5)怡土郡の干拓 抑々「筑前怡土郡二萬石唐津領に被成候儀」については「唐津御城開基」に次のような説明がある。 先年筑前博多は御公領にて候得共慶長十九年同郡二萬石と博多町の代に天下え御上被成候、博多町は不残福岡領に成候由、其砌寺沢志摩守様天下え御願被成て、今度筑前甲斐守殿御願に付、博多町代に怡土郡御公領に被遊候由、左様にも御座候はば何卒相成候儀に御座候はば拙者知行所薩摩之内和泉郡に御替被遊下候はば忝奉存上候、薩摩は遠國に御座候処、不勝手に御座候に付、何卒奉願候通被下候はば忝奉存上候由被仰上候得ば、早速願之通薩摩替り被仰付、夫より怡上郡は唐津領に成候由 この記録によれば、怡土郡は初め黒田氏の所領であったが、一旦公領となり、転じて寺沢氏の所領となったものである。 さて猶その以前を尋ぬれば、吉野朝時代には志度の中村氏が松浦党を称していたのが、戟國時代に至り、高祖の原田氏の支配に帰していた。原田氏は松浦の草野氏と最も緊密な関係にあったため、両氏とも秀吉のために滅ぼされ、此の地は一旦黒田氏の所領となったのが、前述のような事情で改めて寺沢氏の支配に帰したのである。 廣高は領有以後鋭意本郡の開拓に努め、元和三年(一六一七)の検地に於ては旧地の二萬石の外に次のような新地を得ている。即ち八町七段歩深江村片山、四町八段歩加布里村、二十三町五反六畝歩加布里村岩本、計三十七町歩の水田と、十町五反七畝歩加布里、三町七反歩福吉村大入、三町七反歩加布里村岩本計十七町九反歩の塩田とを得、此の外に神有川(今の長野川)の河道を変更して志摩郡荻の浦に注がしめて潅漑の便を計ると共に約五町の田面を得た。(東松浦郡史参照) (6)有浦新田 今の東松浦郡有浦の新田は寺沢志摩守が自ら出張して縄張まで指図し、工事を督励して出来たもので、川岸の石垣九百二十八間、干拓面積二十八町を得ている。元和二年頃の完成である。 (東松浦郡史参照) (7)黒川新田 黒川村の黒川・小黒川・塩屋の三部落に跨り、埋立面積三十四町歩の田は志摩守の開くところで、藩臣は工事監督のため唐津より来り、毎朝日の出松で曙光を拝し事業の安泰と速成とを祈願したと云うことである。(佐賀県干拓史参照) また同地若宮神社所蔵の古記録によれば、 慶長八年四月唐津領主寺沢志摩守殿当邑海岸に新田開拓始有之候、此節新田速成、五穀豊穣、為之祈念、産神若宮大明神に御供米一石三斗奉納也、享保十八年亥九月書之、大和守家豊とある。享保十八年は癸丑で十六年が辛亥に当っている。なお若宮大明神に捧げた工事安泰の所願文には慶長八年三月と記されている。これらによると、黒川新田の埋築年代は慶長年間の事で、即ち寺沢志摩守の時代に間違いなかったことが知られる。 (8)大黒井手 大川野村大黒井手の構築は松浦昔鑑によると、「寺沢廣高が慶長中佐賀藩主と江戸城中で出会った時、大黒井手構築につき豫め了解を求めおき然る後に着手した」もので、また松浦要略記によると、「大黒井手と久里川筋の土堤は家老原田伊豫の縄張で隔日に現場に出張して工事を督励し、元和二年に至り一応竣工したので、領内の検地を行った」と記されてある。されば大黒井手の大工事も此頃のことと見るべきであろう。 (9)大黒井手と田代可休 大黒井手の構築については次の様な伝説がある。 建福寺の僧田代可休は志州公が大黒井手普請の際、度々の水害に破壊されて当惑して居るのを見て、河中に中島を作りて水流を二分し、一方に導水口を設けると洪水の害を避けることが出来ると教えた。 志州公は其の任にあらずして上に対して指図するとは不届であると、即ち可休を捕えて死刑に処した。 然し井堰は可休の言の様に工事を進めたところ、見事に成就する事が出来た。依って村人は可休を徳とし、祠を立てて之を祭ることとした。 と。 按ずるに、松浦拾風土記によれば、「建福寺は日在城落去己後自然と崩れ、その後田代可休と云ふものの栖家となりしに、可休無実の罪にて長野原に於て御法度被仰付」とあり、松浦昔鑑には「截蓮寺は日在城主鶴田因幡守の祈祷所で (中略)あったが、年を経て田代下総入道可休と申山伏此処に居住す。則ち山伏給人にて此の地方百石ほど作り取り、郷中辺支配罷在候処、不慮の無実を身に受け、日在野城に生捕られ、おたかわらにて三本竹に掛らる」とある。何れにしても可休の死が世人の同情を受くべきものであった事と、大黒井手の恩人として崇められていることは注目すべきことであろう。 (10)元和検地 志摩守は入部以来専ら藩庫の増収を目的として干拓・灌漑用水路の構築を始め、工事略落成するを待って検地を始めた。松浦記集成によると 一高六萬六千五百十五石一斗七升四合、古高、一高八萬二千四百十六石四斗一升六合 元和二丙辰再検地高 差引高一常五千九百一石二斗四升二合、打出高(松浦郡之内波多氏旧領の唐津領と成りたる分、怡土部天草郡の外) 右古高に引合せ、打出高余計相増し百姓難渋の時来り、免・石盛高く、段米莫大に進み、日本國中に類例無之程の由、殊に田竿詰りの上嶮岨の山畑の永続ならざる場所或は茶・桑・楮までも畑年貢の外に高入、皆田米より年貢償候故、豊年にも作得無之、平年作にも取続き兼ぬる村方多く有之、格別差迫りたる村は用捨憐愍無之ては取続き不相成、故に波多家仕来の旧恩を語りつぎ文録の世変を残念に思はざるはなし とある。以て志摩守が治民の一斑を窺うことが出来る。 (11)其他の事業 以上の外馬渡島に牧場を設け馬の飼育を計り、また帰化韓人を使って唐津焼の再興を計るなど、産業上の功績も頗る大なるものがあった。 (12)廣高の概評 廣高は資性敏慧にして理財に長じ最も土木に通じていた。されば先ず唐津城を築きついで各地に新田を開拓して数百町歩の良田を増すなど、其の功績は実に顕著なるものがある。されど之を農民側より見れば.慶長の初頭より寛永年間を通じて三十余年の間に、築城と干拓の二大工事に駆使せられ、工事完成の暁には検地によって古高六萬六千五百余石に対し検出高一萬五千九百余石となっている。是実に二割四分の増税とも云うべく、しかも他に殆ど類例を見ざる高き石盛と高率の免とを課せられ、加之桑・茶・楮などに至るまで課税せらるるに至っては領内厘毛の遺利を存せざる誅求と云わねばならぬ。畢竟唐津藩民が三百年間を通じて貧農の境遇に呻吟した所以のものは、蓋し志州公の細密なる施政が基本となって後々までこれが付纏ったからであろう。 三、堅高 廣高の長子高清は慶長十六年(一六一一)従五位下式部大輔に叙せられたが、元和八年(一六二二)父に先立って卒したので、次子堅高が其の後を承け寛永元年(一六二四)従五位下兵庫頭に叙せられ、同十年封を襲いだ。 (1)堅高の施政 松浦要略記によれば 一、村々組合御定に付惣庄屋相定候、萬事申渡の通少しも相背間敷候、不依何時申付候御用向之儀如何様成事にても先相調可申候。昔依怙贔負仕候はば其以後理非の詮索仕る様可申開候事 一、惣庄屋役料の儀、今迄の外百石其村の内にて可令用捨候。一ケ月に三度宛其組合の村々相廻り其村庄屋へ萬事油断不仕様可申渡候、若百姓一人にても法に触れ候はば其村の庄屋曲事可申付候事 一、かぶ田起候儀時分延引致候はば、惣庄屋より村々庄屋に催促仕、耕作根付草水致油断、御年貢米、未進仕候はば曲事可申付候事 一、御免定の儀下札出候はば中小百姓共不残可申聞候、物成平均に其立毛に応じ善悪甲乙無是様其村々庄屋百姓寄合平均可申候、若互に申分有之候はば惣庄屋へ申聞可致割合候事 一、立毛善悪平均申上、百姓不依大小其村にて皆済仕候、若未進仕候はば曲事可申付候事 一、御年貢納所仕候儀組中の百姓見合ダマリ申候はば、其村の庄屋に申聞、其上にて総惣屋可申聞候、見隠候はば可為曲事候事 一、御普請所大分の処は他組より越夫申付候組中の村々にて罷成儀に候はば常に見繕可申候、若捨置及大破候はば可為曲事候事 一、酒肴菓子に至る迄村々にて売り申間敷候、諸商人・多葉粉・レンジャク掛・村方へ入れ申間敷候 若入候はば組中より見当り次第庄屋へ相届可申候、追て可致其沙汰候事 一、神事祭祀自他村客を入れ其費成る儀令停止候事 一、百姓縁組の儀、庄屋に相尋誓約可仕候、祝言の節鈴一対、魚類少し、野菜其他各別の品遣候はば其村庄屋・惣庄屋迄可為落度候事 一、女童迄絹類一切着せ申間敷候、若心得違候はば其村の庄屋総庄屋迄可為曲事候事 右之條々少も於違背は曲事可申付候、此外至其時申付候御法度之儀諸事可相守其旨趣者也 仍如件 寛永十三丙子年八月二日 熊沢三郎右衛門 (花押) 庄 屋 総 庄 屋 著者註 右は松浦拾風土記と対照して多少字句の校訂を行った 按ずるに、此の制度は次代大久保氏の時にも踏襲されている様で、多分其以後歴代唐津藩の対農民策の基礎となっていた様である。尤もその後其時々に当って多少の変更が行われた事は云う迄もあるまい。 (2)天草島原の乱 慶長以来徳川幕府は天主教を厳禁して来たが、九州地方にはなお其の信仰を続けるものが多く、中でも小西行長の遺臣大矢野松右衛門・千束善右衛門・大江源右衛門・山善右衛門・森宗意軒の五人は其の錚々たるもので、天草・島原を往復して密に布教に力めていた。宗教的抑圧と苛酷の誅求に苦しむ農民等は遂に彼等の煽動によって一揆を起すに至った。 これより先天草上津浦にいた一宣致師が國外に放逐せらるるに当り末鑑という書を残し、「今後五々の暦数に当って暴君は世を去り、神童来降して教旨を再興するであろう。天空紅を呈し枯木花を粧ふ時は正にその時である」と予言していた。ところが寛永十三年(一六三六)の秋に入ると九州地方は連日の好天気で、紅雲天に映え、梅や櫻は時ならぬ狂花か恰も春の様に吹き出した。かゝる時に当って将軍家光は不例にして長く政務を見ず、為に薨去の流言さえ飛ぶようになった。 偶々天草大矢野に四郎時貞という容姿秀麗の一少年が出で、十六才にしてよく宗門の教義を明かにし神童の誉が高いので、賊魁等は相謀って四郎を総大将に推戴し速に一命を救世主に捧げ宗門再興に勉むべしと、天草島原の村々に触れ廻った。 此の時島原領有馬の役人が有馬村の農民三吉・佐内の二人が耶蘇の画像を村民に礼拝せしめたのを知って二人を捕えて島原に送った。村民は二人が殺されたものと思い、其の霊を祭ったので、有馬の代官林平左衛門が之を逮捕に向い、却って乱民のために殺された。農民は罪の免れざるを知り、俄に起って反抗すかに至った。時に寛永十四年十月廿三日であった。蓋し、松倉重政が島原に封ぜらるゝや、天主教の禁圧は最も苛酷を極め、其の子勝家は内政紊乱し人民の怨恨を深めていたので、此の反乱も急激に拡大するに至ったのである。この時、勝家は参府して不在のため、留守居の臣は機宜の処置をなす能わず、急使を隣藩に馳せて援兵を求めたけれど、諸藩は武家法度に抱束されて動かず、其の間に賊は天草に使を遣わし、四郎を迎えて原城の旧址に據るに至った。 天草に於ては富岡城代三宅藤兵衛が事の容易ならざるを知り、速に鎮定しようとしたが、一揆の数非常に多く、僅少の手兵を以てしては如何ともする事が出来ないので、急を唐津に報じた。唐津では藩主堅高は参勤中で、留守居の老臣原田伊豫らが相謀り、原田伊豫・並河九兵衛らが兵二千余を以て唐津を発することゝなり、十一月十日富岡城に着き、直に兵を分って各地を討伐した。処が賊勢が意外に強く大敗して藤兵衛と九兵衛とは戦死したので、伊豫らは部下を督して堅く富岡城を守ることゝした。賊は之を攻めて容易に抜けざるを知り、囲を解いて原城に入った。 天草・島原擾乱の急報が十一月四日大阪城に達するや、城代阿部正次は京都所司代板倉重宗らと謀り急ぎ板倉重昌を遣わし之を討たしむることゝし、寺沢・有馬・細川・鍋島の諸侯に令して之を授けしめた。 原城の旧址によった賊は、中々討伐の手の下し様がなく、重昌は長囲の計を定め.荏然日を経るので幕府は更に老中松平信綱・戸田氏鉄を遣すことゝなった。之を聞いた重昌は急ぎ賊を屠らんとし、難戦勇闘して斃れた。信網は十五年一月五日島原に着し、地形を案じて長囲の陣を張ることゝした。之より賊勢次第に振わず、内応者さえ生じたので、二月廿六日を期して総攻撃を敢行する手筈を定めた。ところが此の日は雨のために翌日に延ばすことにした。時に鍋島陣所より賊軍の移動するのを見付け、期に先だち進撃を開始、諸軍も之についで攻撃を初め、遂に城を乗取り、四郎を初め賊を屠る事一萬余に及んだ。時に二月廿七日のことであった。 乱平いで後、松倉勝家は斬罪に処せられ、寺沢堅高は天草四萬石を削られ、一番乗の鍋島勝茂は上使の命に背いた科によって閉門を命ぜられ、其他夫々の処罰を受くる者が多かった。之に反して論功の恩賞に与かった者は至って少かった。松浦拾風土記の記すところによれば、此の役は三萬数千の農民一揆を討つために「諸侯の動かした総兵力は凡そ十二萬四千、死者千百三十六人、負傷者六千九百五十人」とある。此の数字は確実ではないとしても、幕府の狼狽振りと対策の失敗とは確かに之を知ることが出来る。(原城紀事、丑寅賊征録、徳川時代史 松浦拾風土記等による) (3)黒船焼討 「正保元年(一六四四)六月八日唐津湾内高島と姫島(黒田領)との中間に、長さ五十間、乗組員四五百人の黒船一艘が来泊しているのを発見して大騒ぎとなり、福岡藩兵と協力して之を焼折し、同月十一日午の刻に撃沈し、之に塔載していた大砲の中十四門(唐津八門、福岡六門)を引上げた。」現に唐津城址にある大砲は其の中の一であると、云い伝えられている。 此の記録は大久保加賀守が唐津藩主として入部の際、其の家臣佐藤源八が、寺沢氏の家臣並河太左衛門の宅を得て之に移ったとき、其の押入中より得たもので、慶安二年(一六四九)六月十日一通を複写し、原本は藩主に上ると記されてある。此の複写本が唐津市船越清太郎氏の所蔵として現存し、其の大要は東松浦郡史にも載せられている。今此の記録を精査するに、奇怪不審の点が多く見出され、どの点まで事実として認むべきか、頗る迷わざるを得ない。若しこれが事実であったとしても、異國胎が故障を生じて進退が利かなくなったものか、或は火災を生じて自沈したものか、どうしても華々しい戦闘によって得たものとは考えられない。又何國の船であったかも全く知るよしがない。其の大砲に鋳出されてある王冠様の紋章も、腐蝕が甚しく、確かにそれと判断することが出来ない。 (4)兵庫頭の死 唐津藩第二代の主寺沢兵庫頭堅高は正保四年(一六四七)十一月十八日江戸藩邸で自殺した。行年三十九歳、法名は孤松院殿白室宗不居士、墓は唐津市内近松寺にある。嗣子が無かったので、家名は断絶し、遺領は一時幕領となった。 堅高の死を以て一般に天草騒乱の責任感によると称されているが、寛永十五年天草四萬石の削封処罰より正保四年まで其間九年を経過している。これを責任感の自殺としては余りにほとぼりがさめているように考えられる。多分それとは無関係の発狂による自殺と見るべきではあるまいか。 第三章 幕領時代 正保四年(一六四七)十一月兵庫頭自殺して嗣子無きを以て家門断絶となり、一時幕領となり、翌慶安元年幕府より上使として津田平左衛門・齊藤左源太、目付として兼松彌五左衛門、城郭請取役として水谷伊勢守・中川内膳正の五人が派遣せられ、寺沢氏の遺臣との間に授受が行われ、領内は法制厳重に旧制のまゝに置かれた。水谷伊勢守は備中松山の城主にして五萬三千石を領し、堅高の姉婿に当る人であった。 翌二年大久保加賀守忠職が明石より転じて唐津藩主となり、之より唐津藩には徳川氏譜代の大名を封ずる端緒を開き、爾来明治維新に至るまで氏を替ゆること実に五氏に及んだ。 第四章 大久保氏 一、大久保氏の由来 大久保氏は藤原道兼の後で、道兼の曾孫宗圓の時下野国宇都宮の座主となり、其の子宗綱の時初めて士格に列して宇都宮を以て氏とした。其の子朝綱は頼朝に仕え、爾来代々下野にいた。泰綱の時新田義貞に従い、義貞の歿後は参州に蟄居し宇都野を以て氏となし、其の玄孫常喜初めて松平信光に仕え、爾来代々松平氏(徳川氏)の家臣となった。常喜の曾孫忠俊の時始めて大久保を以て氏となし、忠世・忠隣・忠常を経て忠職に及んだ。 二、忠 職 大久保加賀守忠職、父は忠常、母は奥平信昌の女、家康の外孫に当るので眷遇他と異り、八歳の頃父の封を継ぎ二萬石を領し、寛永三年従五位下加賀守に叙せられ、同九年濃州加納の城主となり五万石を領し、同十六年播州明石に移り七万石を領し、慶安二年転じて唐津に移り八万三千石を領するに至った。蓋し西海九州鎮護の要職に補し、外國不虞の変に備えるためであった。(大久保忠職君碑銘の大意を採る) 忠職の諸政 忠職は慶安二年(一六四九)唐津に入り次のような施政を行った。松浦記集成より引いて之を左に掲げることにする。 一、郷中村々の役高(貢納高)は縄・茅・薪・麻苧、一切の品、一石に何程と割賦、並に卸馬飼料・人足扶持・日雇銀萬事相極り候(従来家人が自分の知行村より取立てていたのを止める事にした) 一、遠見番給・伐杣賃・井樋銀・橋銀・穢多米、御割賦に相成候、然る処出羽守候御代は井樋銀は御免に相成候 一、百姓家居根山は大久保加賀守公御代地主へ被下、入用次第切手なしにて伐取様被仰付候処、土井侯より御切手願出の上伐候様被仰付侯 一、名頭(めうと)御立の訳 志州公御巡郷の節、百姓中へ被仰付候儀有之節、村中不残罷出候儀難儀に被思召向後は村々の百姓の中、心得者を選び名頭と申役を立置、御用の節不残寄合に及び不申旨被仰付候、依之村々に名頭相始候 一、御代々御城主御入部の嘉例として一組より鳥目一貫文宛差上候、大小庄屋御目見被仰付候、焼物師は御茶碗、槍柄師は御鑓柄差上候 一、庄屋相続之事 御領分惣庄屋・脇庄屋は志州公御取立に相成候以来、兵庫頭公御代まで一人も替り不申候、若し稀に役儀不叶の者御願の上替へ候はば、居屋敷・田畑無別條支配致し候、萬一不屈者役儀御免之節も居屋敷・田畑は被下候 大久保加賀守侯御代、庄屋の中に重罪の者有之、御追放被付其跡新庄屋に被下候例に相成、漸々交代相始候(松浦要略記、松浦拾風土記参照) 忠職は資性敦厚・篤実の君主にして、寺沢氏時代の諸制度に対し、人民の便利を計って幾多の改善を加えた。寛文九年(一六六九)病を推して参府し、病勢益々募り、十年四月十九日麻布の第に於て歿し、立行寺に葬った。行年六十七、法名は本源院日禅大居士、鬼塚村大字和多田にある公の墓碑は公の分霊を祭ったものである。 三、忠 朝(大久保出羽守忠朝) 寛文十年(一六七〇)忠職歿するや、従弟忠朝養嗣子となり、同十一年封を襲ぎ、延宝元年(一六七三)入部した。侯が領民に対する施政の重なるものは次の如くである。 (1)忠朝の施政 一、夫米の制 侍衆知行所の百姓を勤番に被召連、及難儀候に付、雇賃米差上可申旨一同申合、其後は一分五厘の米上納仕来り候、尤も諸國にも夫米は有之由 一、百姓の樹木類は初秋収奉行相改め帳面に記置、御用次第差上申候、然る処樹木無之村も有り、多分に有之村も有り、不同に有之候に付、米にて差上可申旨お願申上、夫より上納米仕来申候、大小村々米四斗宛に相極り申候 一、先年被仰付候非樋銀 此節御免被成候 一、百姓夫役に困窮致し候由被聞召、久里・和多田の土手普請は御入(公普清の意か)にて被仰付候、並に御家中給人衆へも、百石に何程宛と夫役被仰付候 一、延宝五年三月に被仰付候は、四月下旬より役人は郷中へ一切御出し不被成候、並御廻状も御出し不被成候、萬一急用有り出し候節は手人にて可差遣候。依之根付耕作出精致すべき旨被仰付候、四月・五月に至って庄屋唐津へ罷出申間敷候、人足費へに相成候、自然無據内用事有之候はゞ、右両月は手人にて可然候由被仰付候(松浦記集成、松浦要略記) 一、延宝七年(一六七九)御老中御役被仰付、従四位侍従に昇進、総州佐倉に御國替被仰付、和多田の御墓守として日蓮宗壽因坊に境内と高二石の田寄附、外に年々石碑墨料今に小田原より来る。(松浦要略記) 大久保氏はのち相州小田原に移り、相続いて明治維新に至り華族に列し子爵を授けられた。 (2)農村の実情 唐津藩の農村に関する各種の規定を輯録したものに主屋文書(旧主屋村庄屋太田勇吉氏所蔵)がある。 農村施政の実情を知るには最好の文書である。原文は繁雑冗長であるから、其の中の板木村に関する分よりこれが大要を抄録する事とする。但し此の諸規定の年代は不明であるが、多分大久保氏時代のものであろう。 一、板木村田畑畝数並石盛分米高 上田二町一反四畝二十歩半 石盛二石六斗七升代 分光五十七石三斗一升七合 中田二町一反四畝九歩半 石盛二石七升代 分米四十四石三斗六升三合 下田三町二反一畝六歩 石盛一石七升代 分米四十七石二斗一升六合 下々田一町四反二畝一歩半 石盛八斗七升代 分米十二石三斗五升八合五勺 増中田二畝十四歩 石盛二石七升代 分米五斗九合五勺 〆田数一八町九反四畝廿一歩 分米百六十一石七斗六升四合 上畑二反十五歩 石盛一石四斗五升代 分米二石九斗七升二合 中畑二反十六歩 石盛一石一斗五升代 分米二石三斗六升三合 下畑九反三畝廿六歩 石盛八斗六升代 分米七石七斗 下々畑六反六畝廿五歩半 石盛六升代 分米四石一斗五合 屋敷七畝三歩 石盛二石六斗四升代 分米一石八斗七升 〆 二町八畝廿六歩 分米十九石一升 下紙木八歩 一歩ニ付一升二合 分米九升六合 下々紙木二歩 一歩ニ付九合 分米一升八合 上茶四歩 一歩ニ付一升八合 分米七升二合 下茶一畝 一歩ニ付一升二合 分米六斗二升四合 下々茶十三歩 一歩ニ付九合 分米一斗二升四合 〆紙木・茶二畝十九歩半 分米九斗二升八合 中桑一本 分米二升八合 下桑二本 一本ニ付一升五合 分米三升 〆 三本分 米五升八合 田畑屋敷木物成畝数十一町六畝七歩 合高計 百八十一石七斗五升四合 内 永川成 三石三斗八合 新溜下半高引 四斗四升六合 〆 三石七斗五升四合 引差引残高 百七十八石 此百七十八石は板木村の田畑租を賦課せらるべき基礎である。依って此の村の御免(税率)五ツ七厘を乗じて得たる百一石四斗六升が納租高となり、村内の残米七十六石五斗四升となる。 (著者註) 一、田方か立毛の節は見分の上一歩につき籾収穫高二合九勺迄は皆損として免除し、又田畑破損の時は見分の上夫々割引があった。 一、年貢米は唐津城下の藩庫に納入する定めで、納入の際は二十俵乃至三四十億の内より一俵をとり出し、これを「百姓舛(地舛とも云う)にて向霜降掻落に計り」、三斗三合を一俵三斗入りとして計算し、若し之に不足を生じた場合は其の不足量に全俵数を乗して得たる量を補充せねばならなかった。 貢米の輸送は板木村より郷蔵まで四里十八町、郷蔵より行合野の船場迄二十七町、それより川船にて廻航路五里を下って城下に着き、好天気なれば其の日の内に納入を終え、夜に入って帰着した。運送費は廻船一艘につき二十六俵積、人足四人乗りにて、米四升宛の定めであった。 一、庄屋諸所得の事 大庄屋給として高二石其の年上納米の中より、又扶持米は其の村の毛仲立の一厘を給せられた。 例えば板木村で百七十八石分の田が完全に植付られたとすれば二斗七升八合の扶持米が庄屋の収入となった。又役高百石の内、六分即ち六石は役米として組中の庄屋に分配し、残りの九十四石が大庄屋の所得であった。 大庄屋は人夫五十人を無賃で使用することが出来た。之は組中の村々に割当てゝ取った。又庄屋はその村の百姓や無足人などを一年に三日宛雇用することが出来た。庄屋宅内外の修覆は一切村中より行ふことゝなって居り、其の普請に要する竹木は村山家居根山より勝手に伐り取ることが出来た。 一、貧民救助に関すること。 年貢米や食料米の不足の時は藩庫より無利息で借用することが出来た。 種子米がないときは御蔵米より借用することが出来た。此の時は三割の利息を加えて返納せねばならなかった。貧窮にして出生の子を養育することが出来ぬものは歳々御救米を賜わった。 七十歳以上の者が近親者を持たぬ窮民には御救米を年々一俵宛相果つる迄賜わった。八十歳の老人には一俵と御酒と御吸物とを下し賜わった。 類焼者には人別に米一俵宛賜わり、其上小屋掛入用の竹木は最寄の御林より伐採を許された。其の他風水害の危難に遇った者にも御救米を賜わった。 一、米と他物貨との比率 米一石につき大豆は一石三斗、小豆は一石、薪納は一束の長さ二尺、囲二尺のもの八束につき米五合宛、長薪は七合五勺。近村の御林にて御願の上伐り取ることが出来た。 鍛冶炭納は一石につき代米二升宛、御買料は代米五升宛、百姓農具用のための鍛冶炭は何れの山にても願上の上無運上にて焼くことが出来た。 蕨縄納は一束に付代米九升宛、御買料は代米一斗宛、大中細縄は一束に付代米八合、御貫料は九合宛、山茅納は六束を一駄として代米五合宛、御買料は代米一升二合宛、御船当茅も同断。 麻苧納は一貫目につき代米二斗宛、畳菰納は一畳分に付代米七合五勺宛、菰数大小五枚、茅苫納は上苫十枚に付代米四升五合宛、中苫十枚に付代米三升五合宛、下苫十枚に付代米二升五合宛、籾納一石に付代米五斗宛、蕎麦納は一石に付代米五斗宛、小麦納は三斗に付代米二斗宛。 小麦兼納は六束に付代米五合宛、勝兼納は百束に付代銀二十五匁宛、草兼納は百束に付代銀五匁 御厩入草は一疋に付敷兼一ケ月三十束但三尺廻、糠一斗五升、飼葉六俵、何れも米代なしに納入の事となっていた。 柿渋納は三斗に付代銀一匁、歯朶納は十二束に付代銀一匁、竹箒納は百本に付代銀二匁五分宛、 萩納は八束に付代銀一匁宛、首毛茅納は八束に付代銀一匁宛 一、人足賃銀に関すること 御用人足、津出人足、百人迄は一日一人に付御扶持米五合宛、其余は日雇人足一曰一人に付銀九分宛、御用炭木伐下し、竃建人足は一日一人に米五合宛、御用材木伐りの杣は一日一人に付米一升宛 御茶屋・御高札・大堤・井樋等、御作事方より御修覆用夫として使用する時は、日雇一日一人に付銀九分宛、屋根葺師は一日一人に付銀一匁二分、大工・木挽は一日一人に付銀一匁二分、扶持米一升四合七勺、溜・井磧・井樋・用水溝・御田地破損・其他諸普請人足は其村の百姓十五歳より六十歳迄の内で出勤し得る者から、日数五日は勤労奉仕すること。それにても不足の時は御領内より越夫人足を加勢として派遣することになっていた。又右の諸普請に入用の竹木は、御林や御田地囲山より願出の上無運上で伐り取ることが出来た。 一、人改に関する事 諸々の用事で旅行する時は届出御切手を申受ける事、領内の旅行は庄屋限り届出る事、急用で近國に旅行する時は兼て渡されてある板往来と庄屋の添切手を申受けねばならなかった。旅客が一時滞在なれば大庄屋限りの届出、長滞留者は願出ねはならなかった。 宗旨御改は毎年三月に、御奉行が村々を廻って人別に血判を取り、家内の分は二月頃御手代が来て血判を取り、幼少の者は親が代って血判し、十月に人別印形並に寺判取帳を差出す規定であった。人別御改は毎年一度四月に行われた。 一、御役人御賄のこと、役人が郷方へ出張の節、御賄並人物差出す時の合印鑑として郡奉行より印鑑 一枚兼て庄屋に渡されてあった。 御士分が郷中に出張の節は其の賄料は一賄に付上三十文、中二十文宛、尤も料理は都て一汁一菜であった。右以下の御役人衆や御足軽衆は賄札持参者には引合の上賄った。定賄は三合或は二合五勺であった。(以上主屋文書より) |
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第五章 松平氏 一、松平氏の由来 徳川家康五代の祖松平親忠の長子乗元が三河國加茂郡大給に住したので大給松平と称した。乗元六世の孫家乗家康に仕え、乗久の時寛文元年(一六六一)下総國佐倉に居り、延宝六年(一六七八)転じて唐津を領することとなった。(姓氏辞典) 二、乗久 松平和泉守乗久は延宝六年(一六七八)唐津藩主となり、怡土郡の内一萬石を減し、七萬三千石を領する事となった。貞享三年(一六八六)卒した。 三、乗春 和泉守乗春封を襲ぎ、内三千石は公料となり、茲に唐津藩は七萬石となった。元禄三年(一六九〇)卒した。 四、乗邑 和泉守乗邑封を襲ぎ、元緑四年(一六九一)鳥羽に國替となった。 松平氏の唐津統治は三代僅かに十四年間で、取上げて記すべきほどのものはない。松平氏の後嗣は所々に移封きれたが、明和元年(一七六四)三州西尻に転じてより後は永続して明治維新に及んだ。華族に列し子爵を授けられた。 第六章 土井氏 一、土井氏の由来 土井氏は美濃源氏土岐氏の庶流で、土居利昌の子利勝に至って氏を土井と改めた。利勝については種々の説があり、或は家康の落胤とも云われている。之に関して松浦要略記には次のように記されている。 抑々利勝の実父は三州苅屋城主水野下野守信元にして、家康公の御母堂伝通院は信元の妹君なる故、利勝は家康の御従弟なり。往昔公三州一國御手に入し時は信元は信長公の幕下にして、御甥たる家康公を討ち奉らん心あり、然る処、天正三年(一五七五)公は間宮・平岩両人に謀計をしめし給ふ。両人忍びて苅屋城下に入りこみ、十二月廿七日信元鷹野に被出ける道にて、人不知討取りける。(中略) さて横死ありし信元に男子三人、女子三人あり(中略) 外に下腹に男子一人あり、共時僅に二歳、乳母我子なりとて城中を逃げ出す。養育に随い世間の子供より遙に賢く尋常に勝れり。其頃の外様侍に土居小左衛門利昌と云う者、右の乳母を扶持し置たるに、彼小児利発なる故、利昌乳母に申し、我老年まで子なし、此小児を養子にせんと所望し、引取り土居甚三郎利勝と改めたり。(原文は古今武家盛衰記より転載したるもの) 利勝幼より家康・秀忠・家光の三代に仕え、遂に下総の古賀に於て十六萬石を領するに至った。利勝の後に遺言により、封を諸子に配分し、宗家は十萬石となり、四代利久は延宝三年早世して嗣子無きを以て、一旦領土は没収せられたが、改めて支藩の利益が新に六萬石を給せられ、天和元年(一六八一)志州烏羽に移って七萬石となり、元緑四年(一六九一)唐津に転封せられて七萬石を領する事となった。 二、利益 土井周防守利益は元禄四年二月唐津へ移封せられ、同年八月八日鏡村に一泊し、翌九日無事唐津入城を終えた。宝永五年(一七〇八)従四位下に叙せられ、正徳三年(一七一三)閏五月廿五日六十四歳を以て卒した。法名は諦玄院殿従四位下前防州刺史廓誉高峰徳雄大居士。(松浦略記、東松浦郡史) 三、利実 土井大炊頭利実は利益の長子で、正徳三年家督をつぎ、翌四年江戸を発し四月廿七日鏡村に一泊し、翌廿八日目出度入城した。利実の治世中、享保十七年(一七三二)四國・九州一円に亘って水田の虫害甚しく、殊に唐津藩は其の惨害最も多く、為に農民の餓死するもの甚だ多かった。嫡子利武は享保十八年早世したので、同族利延を迎えて養子とした。利実は元文元年(一七三六)十二月廿四日卒した。 法名は宝真院殿前大倉令清蓮明誉勇仁崇知大居士。(松浦要略記、東松浦郡史) 家中諸法度 左の諸法度書は正徳二年(一七一二)の日付があるから、土井利実の治藩中に当る。以て当時の士族の一斑を知る事が出来るので、茲に収録することにした。 当家中諸法度 一、従公儀被仰出候御法度之事 兼て御別禁之儀は不及云、時に当て被仰出候趣、疎に不奉存、其身は勿論召仕之者迄堅く申付べし、公儀を重じ候儀末々に至る迄肝要なり、若し違背之族有之は、奉行衆より届によって於及穿鑿は重科たるべし。 一、宗門之事 男女上下幼少たりとも宗旨を究め、慥成寺を定め、其段申達し宗門帳に附罷出べし、若宗旨を替へ寺を改め候儀あらば、其断を致し、右の帳面を直すべし。召仕之者之儀は重々念を入れ、胡乱成儀致すべからず。 一、殉死之事 殉死は堅き御別禁なり、若違背においては、其主人跡目に障可有之旨被仰出上は、主人を持忠義を弁へたるもの、聊可存寄義にあらず。 一、於往還之事 御直参に対し慮外致すべからず、上使並御家門方者不及申、重き御役人衆又は御一門中え尚以無礼仕間敷候。道中□之節は不及云、自分旅行之時も同前相心得べし。 一、萬心得之事 義・不義、忠・不忠を存わかち、士之職分を不忘、武藝を心懸、上之風儀を守り、面々風俗を乱すべからず。 一、家中指物定之事 城代家老は具足・羽織を着すべし、模様は面々之好次第、小験一本、麾所持致すべし、旗・弓・鉄炮・鎗此□共、指物は暖簾、模様は面々之心次第、麾所持致すべし、用人は赤地二田町四半に白き蛇目、番頭・近習之者は二田町之赤地に白き丸、使番は二田町四半に赤白筋違染分、馬廻二田町四半赤黒筋違染分、馬廻近習組は赤地二田町四半中白、徒頭は赤地二田町四半白二筋、郡代は二田町四半赤浅黄筋違染分、町奉行・普請奉行は使番にひとし。右何れも出章は面々の思ひより次第たるべし。 一、嫡子之差物は其時に至て下知を加ふべし。其外相験等は兼て定置通り相心得べし。 追加 留守居・船奉行は使番にひとし、元〆は郡代にひとし、奥年寄は二田町四半赤白山道染分 本文並追加定之外之者は其時に下知を加ふべし。 一、武藝者何にても人々存寄次第稽古すべし、武藝之勤は士之専要と致す所也、然る上者藝者右之ことく心得て、学は本意とは云ひがたし、尤懈怠すべからず。 一、番所並列座之事 当番連参並剋限心に任すべからず、非番たりとも不時之奉公は面々之心得にあるべし、列座之儀は役人は役儀之次第、無役之者は其類々にて、前輩・後輩身体之高下、老若・筋 目等を以て相応之処に相詰べし、我意に任せ座論堅く致すべからず。 一、物成遣す事 蔵米にて四ツ成相定、雖然旱魃・風水災有之年は格別たるべし。収納は九月より請取べし、其度々郡代所へ申達べし。但月越之手形用ゆべからず。 一、役米之事 二百石に一人宛定之、其積りを以て役米出すべし、役儀相勤者並江戸詰之者、是等は令免許、但右之内にても病人又は断有之て役義致さるるものは惣並に出すべし。 一、知行之分依病気江戸詰難成者之事 嫡子名代として江戸へ罷越候節は百石取之代番は無足人同前たるべし。百五十石以上は知行高三分二之積りを以て下人召連べし。 一、応分限武具所持之事 武具馬具之儀、身体相応を勘弁すべし、花美を好み無益之費すべからず、惣て武器に於て飾を先にし、利方を次にするは本意にあらず其身の力量に応じ、用方専一とすべし。 一、常に人を可持事 多少は分限に応ずべし、下女を省き男を扶持すべし、然ざれば幼少之子供多く又者女子多く、或は厄介有之、無據子細は雖為各別、此心得を以て人を持つべし。 一、馬飼料之事 二百石以上は飼料出すべからず、但江戸詰は格別たり、百五十石以下は馬持つべからず、雖然心持次第持もの有之は飼料取らすべし、又二百石以下の者馬を残し置は江戸詰仕時も飼料相違有之べからず。 一、衣類並家宅之事 衣類之儀、於江戸も常は絹・紬・布・木綿可用之旨相定上着当地においては猶以て麁服を用ゆべし、礼日は不及云、年始たりとも木綿之衣服不苦、上下は麻を着すべし。往来之衆え□□□□□口の出勤、同供仕節は格別たる間、心を付着すべし、且又城内に珍客、或は他所より使者等有之節は格別なり。右之通老若共に相心得べし、況召仕之下人等は堅布木綿之外用ゆべからず、並家宅軽さを用ゆべし。少も過分之儀致べからず、表向不見苦様に相心得べし。 一、振舞定之事 一汁二菜に過くべからず、婚姻又は無據珍客を得は横目共迄相達差図を□□□、平日無用之寄合致すべからず。 一、手前不成者之事 大身小身によらず、無拠子細有之てすり切たるものの儀は宥免を加ふべし。飲食衣服居宅において美麗を好み、無用之出会・無益之音物・翫器等に金銀を費す輩は不心掛たるべし。士は軍用甚重し、然る上は平日之身持肝要なり。尤忽にして叶ふべからず。 一、博奕酒宴好色遊興之鳴物之事堅く停止たり。喧嘩口論不依理非、双方曲事たるべし、雖然酔狂気違等之儀は速に遂吟味、其品によるべし。口論は其場に居合たるもの、随分扱を入れ無事にすべし、贔負に任せ荷担堅く致すべからず、惣て不礼過言かさつ成義仕懸る輩は不届たるべし。 一、城内城外共に不依何事不慮之騒ケ鋪義有之時之事 其向寄之外其場へ不可駈集、遠所之者は城へ罷出べし。組有之ものは組共に相詰、城代、家老共之下知を待べし。城外儀は町奉行・横目・火之番・物頭之外堅く下知なくして出べからず、在中者は郡代申付次第、代官の内より来べし。 郡代は品によって罷越べし。若討ものなど有之時は其役人之外出合べからず。 一、火之元並面々屋鋪前掃除破損之事 常に面々の屋鋪に於、火之元入念堅く申付べし、火事之定は別紙に記置通り相心得べし。且又破損修覆掃除懈怠なく申付べし、明屋鋪の前は両隣より致すべし。 水道つかへざるやうに心を附べし。 一、城外へ出る事 酉之刻以後停止なり。帰宅も同前たるべし。城外の面々も酉之刻過ぎ町・在へ徘徊致すべからず。一夜とも止る義は不及言無據子細ありて夜中出入之儀有之時は、横目共に相伺之差図に任すべし。近所たりとも他所へ罷越すに於ては家老・用人・横目迄相達し所分明にすべし。 医師共之儀は可為格別、召仕之者遣す儀あらば横目共方より門札を請取置、番所へ為持遣し戊の刻過出入すべし、病人有之医師呼に遺す節は医者札を用ゆべし。且又城外に有之組之者へ用事申達す節は前々之如く通札を頭其方に受取置可用之、惣て町人のもてなしに逢べからず、主人之儀は不及言下人等に至るまで、右之旨急度申付置、押売・狼籍不仕様に可申付。 一、親類由にて往来之者尋来る時之事 親子・兄弟・伯父甥・或は婿、或は妻之兄弟・同伯父・甥にて面々之屋鋪へ呼入度存ずるに於ては其所を家老・用人・横目共に相届差図に任すべし。勿論一夜の留置に於ては両頭所分明にすべし、但従弟より外入魂之族相尋る時は、町屋へ出来会いたし城内へ入るべからず、乍去是も無拠義有之者は右之通相達し差図に任すべし。 一、願訴訟之事 知行取並に無足人にても役人は家老共迄申達べし、無足人は用人共迄申聞べし、組付或は支配有之者は其頭、其支配人を以て家老共迄相達べし、内縁を頼み役人を差置申に於ては越度たるべし、惣て其頭のもの申合、別を□し、何事によらず、一味仕儀堅く停止なり。 一、縁組並養子之事 縁組之儀自分として不可定之、後妻たりと云ふとも言上致べし、養子之儀知行取は勿論無足人たりとも心に任すべからず、其筋目を急度言上いたし、下知を守べし。 一、病人之事 不慮に煩出し、役儀番使等懈怠致者は十二□之日数免之、其間如何様にも可遂養生、此日数を過は家老・用人共迄急度相達べし。 一、召仕之者之事 不慮之儀有之とも理不盡に斬罪すべからず。乍去差延がたき子細あらば落着巳後、家老・用人・横目共に其品を相届べし、男女奉行人召抱時は、先主之構無之者を承届、慥成受入を定め、証人を取置べし、年季者之義は年数を限、無之口譜代たりとも相対次第に任すべし。 一、奉行人受取之事 累年堅停止せしむ。召仕のもの抱置、其主人可遂吟味、組々は其頭々支配人念を入べし、且又構等有之者之儀、詮議分明にして召抱おくべし。若構有之由先主又は本人之受入断申すに於ては早速其品を聞届、当人欠落等不致様に仕置、横目共迄申通べし。疎略仕己後六ケ鋪出入等になるに於ては其主人越度たるべし。 一、浪人抱置事 上下共猥に致べからず、若親子・兄弟、又は妻之親・兄弟にて、難遁子細あらば、家老・用人共へ相伺之差図に任すべし、右伺相済抱置におゐては当家中之諸法度若違背之儀あらば、家人同意に曲事に行ふべし。 一、跡目之事 大身・小身によらず、嫡子若年之内は扶持方取らすべし、成人之嫡子は相違有べからずと雖も、父の奉行ぶり又は其子之生立次第、夫々に申付べし。 一、壁書之趣法度之事 壁書並家島相験等之儀、他へ洩すべからず。 右之趣堅相守常々可慎義肝要也、其外之儀は此條々之旨を以て可相心得、若背違之族有之は依其科之軽重可行曲事者也、仍如件 正徳二壬辰(一七一二)二月 (今村組文書) 四、利延 大炊頭利延養父江戸に於て病歿したので、同年十二月十七日家督相続の恩命を受け、同二年従五位下に叙し大炊頭と称した。同三年四月十八日入部、延享元年(一七四四)七月十六日唐津に於て廿二歳を以て卒去、法名は諦了院殿前大倉令眞誉寂照湛然大居士 (松浦要略記、東松浦郡史) 五、利里 大炊頭利里は利延が延享元年卒するや、兄の後を受けて嗣となり、同年九月遺領をつぎ大炊頭となって翌年四月一日入部した。 (1)百姓待遇問題 入部に際し百姓の代表庄屋と商家の代表との間に待遇問題につき一悶着が起った。此時双方の代表が豊前国小倉で新藩主を出迎え、町人代表らは乗物大小を許され、庄屋には脇差徒歩の命令であったので、庄屋側が憤慨して従来の慣例通りにせられたしと要請した。是は許されずして其のまゝ領主の入城済となったが、これより農民と町人との反感対立となり、形勢甚だ不穏の状となったので、佐賀蒲では藩境に派兵警備するなど、形勢益々悪化した。それで藩主も百姓側の請を容れて前例の様にすることゝし、各組より島目一貫文献上して謁見せしむる事となって無事解決がついた。 (2)巡見使来藩 延享二年(一七四五)四月十日幕府の巡見使徳永兵衛以下同勢百七人来藩し、浜崎に二泊、十二日呼子浦に二泊して藩治を検査し、十四日壱岐に渡ることゝなった。此間警備と歓迎の諸船、唐津・佐賀・平戸・壱岐・筑前の五ケ國の船千八百六十八艘が集まったという事である。当時幕府の威勢が如何に強盛であったかが察せられる。(東松浦部史参照) 翌三年四月領内に大水害があった。中でも大川野宿は流失家屋十六戸に及び、久里村堤防上は三尺の増水で、其の惨状は言語に絶するものであった。 宝暦十二年(一七六二)九月下総古河に転封となり、後は水野氏が之に代った。土井氏は古河移封の後は代々相ついで明治維新に及び、華族に列して子爵を授けられた。 第七章 水野氏 一、水野氏の由来 水野氏は清和源氏の出にして、満政(多田満仲の弟)八世の孫重清の時、尾張国春日井郡水野に住し水野氏を称した。其の後忠守に至り初めて徳川家康に属し、爾来代々徳川氏に臣事して幕府の枢機に与かる者多く、忠善のとき岡崎に移り(正保二年一六四五)其の子忠任に至り唐津に転封せられ、六萬石を領する事となった。時に宝暦十二年(一七六二)であった。(姓氏家系辞典、国史辞典) 二、忠任 水野和泉守忠任は宝暦十二年九月三州岡崎より移って唐津藩主となり、翌十三年五月入部した。此時前主土井氏との間に行われた城地授受の模様を唐津拾風土記より抄録することにする。 (1)所替日記 一、宝暦十二壬午十月十日、従江戸早飛脚参り御所替の御沙汰有之候、土井君七十二年御在城故に、永主の様存じ居り候処、右之沙汰に依て皆々驚き申候、(中略)何となく物騒敷候、其節は不知申候共、御後主より御役人無力にて商売人の出立にて御聞合等御座候よし後にて知申候。 明る未三月末より御家中出立の跡、大屋敷之分は二人宛、毎晩町方より番いたし候。小屋敷、並に十人町・坊主町、総組中は辻々に小屋掛いたし、二人宛夜番いたし候。中御立・末御立の跡番は町と郷中と半分づつ相勤申候 一、四月中頃より岡崎卸家中追々御入込、内町に御宿、外町は土井御家中御出立也 一、四月末呉服町安楽寺の会所にて毎日寄合有之候、御後主御役と双方の御掛合は、土井家は江戸留守居川村兵衛、水野家は同高宮伊兵衛 一、四月末の御触にて、岡崎より御家中追々御入込、無礼麁相無之様 一、五月十二日御上使御着、安部平吉殿・松平藤十郎殿・御宿は中町高徳寺・辻番新立.御先払は町・組両人御案内、町年寄一人羽織、御宿亨主は上下・中小姓上下御双方より火番巌重なり 一、五月十四日暮比札ノ辻に御高札掛番両人郷与羽織袴、右御高札拝見に罷出候様御触有之、御高札は明十五日御出立前に引る 一、五月十四日目附御門三ヶ所共に御内分にて御渡相済、同夜八ツ時より京町通にて御行列揃有り、同七ツ時頃より外町より土井公の御家中段々に御城内へ御入込相済候後、御新主の御家中直に大手前被相詰、尤も大手前台挑灯昼の如し 一、十五日朝六時、双方より御案内にて六ツ三分頃上使乗組にて大手前へ御出浮、拝郷氏・松本氏御出迎御下乗之時両人より被召候様三度挨拶、然共下乗有り、上使より両士へ御得替目出度存と御挨拶あり、直に乗輿大手御入門也、暫有て御城内より御使参り、大手御門受取の物頭並添役とも二頭、長柄三ツ道具・弓・鉄砲、組子数人に持たせ御入込、少々宛間有て案内、次第に一備づつ追々入込候也、二ノ御門、切手御門雁木御門、玄関迄御受取相済比、御家老初め諸役人一同、御入込、二ノ丸へ御詰のよし。 二ノ丸上段に上使御着座、三ツ土器・銚子・給人中小姓・熨斗・勝栗・昆布・三方、時之御挨拶相済安部氏の御土器は拝郷氏頂戴、松平氏の御土器は松本氏頂戴有之、有増上使の御内衆より御宿の者承之候由、覚書仕置候 同日昼比上使直に御出立、御先立等は御着の節の通り略之 一、五月十三・四・五日、上使御宿へ御出役の郡奉行・町奉行・留守居衆等.御新主方の中食は握飯を袖に入出役あり、昼飯時茶を乞て、笄を箸として握飯を給らる、好仕方諸事感心いたせし也 一、同十五日四ツ時比、延餅を紙に包み御門番並に立切之郷へ被与御手御門を始め惣御門に御新主の幕を張り、上に土井家の幕、、御渡済み直に上幕を弛め、番人直に替る。立切・郷与等は下に御新主の羽織、上に土井家之羽織着、御渡済み直に上の羽織を取る。 一、五月十五日昼過、土井家の御家中は西門より引取 一番 旗、同竿、中間を先に持紅彩皮之覆、六ツ水車の金紋、跡乗旗奉行堀十太夫組子少々召連、自分之手廻也 二番 鉄砲足軽三十人持之、猩々緋袋入、紺染の大縄付玉薬箱三荷中間、跡乗なし、小頭計添ふ。 三番 台弓足軽二十人持之、弓は一丁づつ白木打自緒の靭矢箱二ツ、跡乗なし、小頭計添ふ。(中略) 一、御城受取相済、十五日昼頃より暮頃迄、二ノ丸へ松本氏被相詰、暮頃より拝郷氏替にて其夜同人被泊候、定と相見へ申候 (中略) 一、五月十七日長崎奉行へ御届之御使は杉太郎右衛門、口上は主人水野和泉守当月十五日唐津領並御城拝領仕候に付御届申上候、然は己後御世話罷成可申候、仍此品進上仕候、干鯛一折、樽代金三百斤外に箱物有り、五月廿六日帰宅、同三十日城内屋敷へ移らる。 一、五月廿日頃迄に惣士方、銘々之屋敷へ被引移 一、御書出「諸士方へ一切掛売等不仕候様、猶又萬事御先代の通堅可相守旨、御触有之候。 宝暦十三年(一七六三)癸未六月朔日 (唐津拾風土記より抄) (2)一万石上地 忠任唐津受領の際、福井村・鹿家村・五反田村・岡口村・谷口村・淵上村・南山村・横田村・宇木村合せて一万石を割いて幕領となし、日田代官の支配下に置かるる事となった。斯くて唐津藩は僅か六万石の小藩となった上、度々の国替により領民の負担益々重く、経済上の困難は愈々深刻を加うるに至った。 (3)鏡神社の炎上 水野氏の入國以来諸制度の改革多く、加之明和七年(一七七〇)五月十三日には領民崇敬の大社たる鏡神社の大火があり、社殿は元より幾多の神宝悉く烏有に帰したので、民心の恐怖と動揺は一層甚しいものがあった。依って藩公は直に造営を命じ、翌八年七月竣功したので、盛大なる遷宮式を挙行し、傍ら歌舞伎芝居などを許して大いに民心を振興しようと謀った。然るに参拝に行った江川町の男女十人が悉く松浦川に溺死するという一大惨事が起った。これは明和八年(一七七一)七月十日のことで為に民心は一層不安に馳られ、種々の流言さえ行わるるに至った。 (4)虹の松原騒動 @ 原因 明和の初頃は徳川幕府の綱紀漸く弛緩し、物価は次第に騰貴し、士民の生活は益々困難を告ぐるに至った。所謂田沼悪政の時代に当っており、地方では享保以来庶民教育の奨励か漸く人民の自覚を促し、物価騰貴に苦しむ農民の強訴が頻発するに至り、幕府は之が禁遏令を下すに至った。(明和七年二月) かゝる世態に際し、唐津藩では領主土井・水野の交代となった。土井氏の統治七十余年間は積極的施設の見るべきものは無かったが、また領民の不平を挑発する悪政もなかった。蓋し、戦國時代の後を受けた寺沢氏の土木事業に酷使された農民は、大久保・土井の百年間を休養せしめたとも云うべきで、水野氏の入部は昔年の松浦党が異族後入の新領主に対する反感が次第に消散しつゝ有った時に偶々水野氏の抑圧政治が一揆意識を再生せしめたとも見ることが出来る。 元来、水野氏は元和の初は僅に三万石の小大名であったが、寛永より宝暦に至る約百二十年間に封を転ずる事五度、領地六万石となるに至ったとは云え、度々の転封に財政は充実する暇なく、常に新領地に就いて、遺利の追求に力めて来た。斯の如き水野氏が今又新に唐津藩に臨み、領を一巡すると、永川・砂押・水洗・御用捨地などと称する免税地が多数あるのを知った。是に於て小川茂手木・松野尾嘉藤治の発議により、此等に課税して約一万石を得べき見込を立て、明和八年(一七七一)三月より愈々実地測量を初めた。これ実に二割五分の大増税案である。 前述の如く一般農民の思潮は強訴の禁遏を必要とする世態と変化しており、唐津藩民の感情は領主依存よりも旧松浦党一揆の心理が強く蘇って来た。かゝる時に当って鏡神社の炎上があり何等かの天啓の様に感じ、一般民心の動揺は甚だしく、其処に松浦川の溺死事件や、唐津城の古松が風なきに倒れるなど、不祥事が続いたので、遂には岸岳城址に白旗が飜るなどと流言が飛ぶようになった。 A 騒動の経過 騒動の模様は虹浜騒秘録によって其の大要を記すことにする。明和八年七月十九日の昼頃名護屋城番より「夜前六つ時頃迄城山の絶頂に大なる燈籠程の火相見え申候故、取敢へず御注進申上候」 と.急報があった。此の趣を上聞に達すると、殿(領主)は直に儒者藤野東太郎に命じて易を占はせられた。易の表は甚だ不凶で、近き内に御領に大変生ずべしと申上げた。ところが翌二十日辰の上刻に至り農村の御足軽脇山茂左衛門と云う者、御注進と呼ばはり、大息ついて御代官所へ一通を差出した。 其文に 以書付申上候口上之覚 一、何者とは不奉存候得共、百姓と相見へ蓑・笠・鍋の類を荷ひ、腰には面々鎌を帯び、鏡の原を押通り、虹の松原へ屯仕候、其勢七八百人と相見へ候ゆへ、直に彼地へ走付け何者なるかと咎め申候得共、一向答へ不申候、余り不審に奉存候故、依之注進申上候 卯七月二十日 脇山茂左衛門 とあった。当番の松野尾嘉藤治が之を受取り、直に郡奉行古市四郎右衛門へ届け、古市は直に登城した。 其処にまた一人の足軽が飛ぶように走せ来り一通を差出した。其文に 一、私村方の百姓共、何の訳とも相知不申、夜前一夜の内に村方を引退き行衛不知相成申候故、得と吟味仕候処、御料境虹の松原へ参集候由、依之御注進申上侯 七月廿日 とあった。廿日の昼過ぎから廿一日の朝迄に郡中郷方・浦々・島々三百余人の大小の庄屋共から同じような注進があった。是に於て城中の騒ぎ一方ならず、御家老水野三郎右衛門・中村政左衛門・二本松右仲・水野小源太四人を初めとし、郡奉行二人・地方役人二人・御代官六人其外惣物頭衆等登城して種々評講を疑らしたけれど、議論区々にして中々対策を得ることが出来なかった。やがて代官より大小の庄屋に対し、「其方共片時も早く彼地へ罷越し、早速村方へ引取る様取計べし、尚願の筋あらば引取たる上にて村役人を以て願ひ出でよ、願の品によっては取次べし」と申渡させた。惣庄屋共は直に馳せ付けて見ると、松原は潮の湧くが如く騒動し、中々取計様がない。 其処に新御領地十五ケ村の庄屋も境目に出張して、小屋掛をなし屯所を作り、程なく夜に入ると、御料庄屋の諸所には高張提灯二張・百姓共の集合所には思い思いの提灯を立て、小村は四五張より大郷は夫に順じて立並べ、其影海上に映りて群星の如く、浜崎より満島迄其間宛かも昼の様で、出張した庄屋共も手の付けようがなく、空しく城下へ帰って右次第を代官所に注進した。すると同日丑の刻(実は廿一日午前二時頃)重ねて申渡があった。即ち「只今より穀取十五人を彼地に遣すから庄屋共は同道して再び松原に来る様に」との事で、庄屋共が穀取に従って屯集の百姓に近寄ると、百姓は一丸となって不残御料内へ引入った。よって穀取が「村方へ引取る事が出来ねば、唐津領内へ迄引取れと諭した。庄屋よりも一刻も早く御料地を離れて元の処に引取る様勧めたけれど、一同は無言のまゝ何等の効も見えなかった。 之より前、松原参集の者共は、不参の村々を調査し、若し不参の村あらば大勢出向ひ焼払ふべしとの口達を発したので、それ等の村々よりは急ぎ走せ加わり、人数は益々増加した。 、廿一日の未刻代官六人が松原に赴き、百姓に対し同文の書付数十通を持参して、高声に其方共何故に罷出候哉、願の趣有之事に候はば、願書可差出、其上にて何分にも申立勘辨いたし可遣候間早々村方へ可引取候 右の通り申渡されたところ、此の時上包に願書を書いた書付を一通、竹に挟み梵杭(唐津領と御料地との境界標の辺り)に立ててあつたのを大庄屋が取って代官に差出した。其の願書に 乍恐以書付奉願候口上書の御事 一、御郡中村々御高の内、永川儀、寺沢志摩守様御代より御城主様御代々極々御吟味之上永川に被仰付置候処、此度起返被仰付難儀至極に奉存候間、御先代之通り御引方奉願上候 一、年々砂押・水洗之儀、是又永川同様に御引方奉願候、尤も手入等仕り、田畑起返申候はゞ御年貢上納可仕候 一、年々御用捨高被下置、百姓相続仕り難有奉存候、然処当年御取立被仰付、難儀至極に奉存候、御慈悲之上去年之通り御手当奉願候 一、御年貢米御蔵納之節、桝廻り四方霜降之儀御先代の通被仰付可被下、並御米俵毎に差抜米御免可被下候、先御代々之通り俵毎に御差戻しに被成可被下候、近来欠米余計に相立難儀至極に奉存候 一、百姓持高之内、相立置候楮御買上被仰付撰楮にて納候儀難儀至極に奉存候、其上諸國売買値段上り、下値に被仰付難儀至極に奉存候、持主勝手売に仕候様に奉願上候 一、諸運上之儀御先代より差出し来り候品差上可申候、新規運上之儀は御免可被下候、且又何品によらず御運上差上元〆仕候儀、其者共一人の勝手筋にて、諸人至って難儀仕候間、相止候様に奉願上候 右之外何品に不依先御代大炊頭様御仕置之通り奉願上候、若願之通り御計不被成候ては御百姓相立不申候に付奉願上候 明和八年卯七月 御郡中惣百姓 郡方 御役所様 右の願書を受取った後、松野尾嘉藤治は進み出で、百姓に対し、「其方共御上を不恐御法度を背き大勢致徒党候事甚だ不届の至り也、依之急度仰せ付らるべき筈の処、御慈悲を以て此度は御免被遊候間、早々村々へ引取可申」と高らかに申渡すと、群衆の中の一人が笑い出した。すると惣体が手を拍って笑いどよめいた。よって渡辺三太夫が代って「其方共斯様に集会していては我々の役儀が相立たぬから一同村へ引取れ、願の筋は幾重にも申立てよ、能き様に計い申す」と物静かに申渡すと、此度は一同静かに平伏していた。代官一同は此処より二三町後退して模様を見ていたが、百姓共は少しも引取る色も見えなかった。 斯くて夜は益々更けゆき、群衆変動の躰が見え、松の根を叩き閧を作って気勢をあげた。此の様を見た代官らは松野尾を先登に一同急ぎ足で引上げた。 さて百姓共は夜に入ると相印のついた提灯数千を張り輝し、備の中には交通整理のため、横三尺の道二筋を設け、また一村より一名宛の組頭を選み、出入に際しては此の組頭の割印を以て其の所属の混迷を避ける事とした。また百姓側の心得を板書し、之を昼夜一度ずつ備の中を持廻って一同の妄動を誡めた。 其の禁止の條々は 一、無益の事に上へ対し雑言堅く致間敷事 一、御役人衆より引取候様に被仰付候節、決して物云ふ間敷専 一、何様なる儀にても同士喧嘩堅く致間敷事 一、屯の内疑敷者入込候はば、直に召捕拷問にかけ可申事 一、惣百姓之内一人にても被召捕候はば急ぎ申合候通可仕事 右斯條之趣、此度相集候惣人数かたく可相守もの也 右の通り諸事周到に統制よく行われていた。 さて松原の大勢が僅か一日の内に集合が出来たのは、去る十二、三日頃何国の者とも知れず、一通の廻文を持って郡中を走せめぐり、且つ口上で「若し定日まで不参の村方は赤牛を引かけ罷越踏み潰すべし」と村毎に触れ廻った。其の廻文は 一、永川の事 一、御蔵米桝之上之事 一、差米御取被成候事 一、御用捨御取上之事 一、楮御買上之事 一、諸運上之事 其外何品によらず、御先代御仕置之通願立候間、当月廿日朝六つ時より、二里の浜御料境へ御出可被成候、但村役人には堅く御沙汰御無用に候 以上 七月十二日 (包紙に人々御中とあり) 右の飛札は十五六日までに大半廻り済んだ様である。尤も和多田・唐津・神田・佐志の各組には態と廿日の晩方に何れも松原へ参集する様の通知があった。比の四ケ組は城下近きため其の漏洩を避けるため斯くなされたものである。 されば此の数組は廿一日までは出立していない村々も過半あったが、赤牛(放火の意)の責道具を以ての厳重なる督促に一同大に恐れ、廿二日の早暁より一人も残らず出発し、入野・切木・有浦の三組は番場ケ原で、名護屋・赤木・今村・打上・馬部の各組は佐志の浜田松原で勢揃を成し、熊の原で両勢相会し城下外れを迂廻し、新堀を通って虹の松原に着いた。此等の後発隊が着いてみると、呼子・名護屋・満島・新堀・水主町其他島々浦々の漁民等は前夜の風波を押切って今朝既に浜崎浦に到着し、最早本部に押込んでいた。是に於て其の総勢は凡そ二万三千と称せられた。此数は実に当時唐津領民の三分の一以上で、農村・漁村の壮者は悉く参加し、後に残った者は女・子供と老人のみであった。 此の百姓一揆の報は忽ち隣藩に伝わり、佐賀藩との境目には新関を設けて警戒を厳重にし、浜崎宿には福岡・佐賀を始め久留米・柳川などより事情調査の諸役人が続々と入り込み、今明日のうちには日田代官も到着ありとの噂が専らであった。 さて城中では百姓提出の願書に就いて鳩首凝議の結果、奉行剣持嘉兵衛が松原に赴く事となった。 此の間大小の庄屋は廿日より松原に詰切り、唐津村の大庄屋櫻井理平が松原と城下との交渉連絡係となり一昼夜十数度も往復した。いよいよ二人の奉行は庄屋一人を従えて百姓の屯所に至り、三丁程前に下馬し静に其の場に至ると、百姓共は皆平伏して控えた。奉行は「昨日差出した願書につき此の書付の通り申付くるから、各庄屋は一組毎に此の趣旨を申聞かせ其の上にて書付は百姓に渡し、一日も早く引取る様に致せ」と申渡し、其のあとで横田太左衛門を呼び出し、「此度は不慮の騒動にて何角と世話に相成った」と挨拶を済まし、直に馬に打乗り飛ぶが如く引取った。其の渡された書付は次の様なものであった。 其方共大勢罷出候に付、願書等をも有之候はゞ願書可差出候、何れにも申立致勘辨可遣旨、昨日御代官より申渡候処、願書差出、此度永川・起返・砂押・水洗・用捨の儀相願候、右永川の儀は如何之訳にて引遣候と申儀、申送りの書付等も無之故、村方に右証拠等の書付も有之候哉と相尋候処、無之旨に付、地方役吟味致し候へば其場不分明のよし、起返之儀相願聞届たる事に候、然る処難儀至極に付引方の儀相願候、依之各別之勘辨を以て、本途免之高下に不拘一統五厘宛相定候、此以後増免は不致候、尤も当年より三ヶ年の間は年貢令用捨可遣候、御損益に拘はり候儀にては無之、右之訳にて一旦願の上村極候事に候へば、箇條多き事に付追て相尋候上にて致勘辨可遣候間早速可引取候 七月 右の書付を大庄屋共が群衆の中に分け入って高らかに読み聞かせ、終って其書付は百姓に渡し引取る様に申開かせても、例の無言にて何とも仕様がないので、大庄屋一同は元の所へ引退った。代官も暫くは様子を伺っていたが、引取る模様は更になく日も黄昏に及んだので、代官たちは引取った。 此の頃分石(境界石)に再び訴状が張られた。 依って徒歩横目二人・穀取二人が庄屋三人を伴って分石に至り訴状を写取り、張紙を剥ぎ取ろうとすると、松原は忽ち騒ぎ立ち、群集は鯨波を上げて進み寄るので、七人は驚き其のまゝにして引取った。 其の再訴は 一、五分一鮪網魚立直段之事 一、諸浦鮪網二分五厘之事 一、千賀御運上の事 一、問屋之専 一、長崎梅屋新左衛門二分五厘掛りの事 御領分惣浦中 というのであった。無学な漁師等の事とて、宛名もなく且つ麁文麁紙悪筆の頗る不備の願書であった。 斯くて城中での評議には、此の上は百姓共が城下へ押寄せ如何なる狼籍を働くやも知れないので、弓鉄砲・長刀・鎧・兵糧・明松等を用意し、物頭衆は夫々出張の人数を定め、大手口には小林郷左衛門が組子を引つれ廿二日より出張し、渡口には古市四郎右衛門、大渡には剣持嘉兵衛、札之辻には青山三郎左衛門と落合治右衛門、町田口には石原平右衛門と都築内蔵太夫、名護屋口には松野尾才蔵・同源五右衛門が警固する事となった。なお鉄砲の合図三発を聞けば足軽は直ちに出頭、五発の時は総家中・総組中は甲冑を帯して大手口に集合する様命令があった。 さて廿三日も早や昼過ぎとなったが、百姓の結束はいよいよ堅く、各方面よりの報告には毫も引取る模様は見えない。加之日田代官所より警固の役人が今にも出張ある様な噂が頻々と伝わるので、城中では益々あせり出し、大庄屋を呼んで此上とも取計を以て早々引取る様にせよとの事で、庄屋共も色々と評議の結果、御料の庄屋を受入に頼み、願の筋は大庄屋が身命を投出して願受け、此所を引取らせる事にしようと、先ず之を御料の庄屋に相談すると、其の承諾を得たので、然らばと御料庄屋横田太左衛門が中に入り、百姓共へ此の旨を相談した。すると百姓どもよりは確かなる墨付(約定書)を得た上で引取る事にしようと申出でた。太左衛門は左様の墨付は上を憚り役方より差出すべきものでない事を諭し、其代り拙者が証人に立つ以上は、若し願が叶わぬ時は大庄屋の屋敷を踏潰すなり、焼払うなり、また大庄屋を先頭に立てゝ強訴するなり勝手次第たるべき事を申聞かせたので、百姓共は漸く承知して、廿四日の午の刻、横田太左衛門と大庄屋と百姓と三つ金輪で手打となって、一同引取る事となった。是に於て二万数千の群衆も蜘蜂の子を散らす様に八方へ退散した。大庄屋前田善右衛門ら三人は飛ぶようにして城下に走せつけ右の趣を報告し、大庄屋らは御料庄屋一同へ盡力の謝辞を述べ、一同ほっと安堵の胸をなでおろした。 B 騒動の結束 大小の庄屋も松原より引上げ、直に得所に出頭して百姓ら悉く退散の届をすると、代官も大に喜び、無事に百姓一同を引取らせる事を得て上にも御満足に被思召との挨拶があり、重ねて此上は各々村々に帰り、百姓の模様を見届けて報告せよとの申付に、庄屋一同も村々に引返し、事情を視察して異状なきことを報告した。 斯くて廿七日より庄屋一同は再び会合して前の百姓との誓約の件について協議し、八月九日まで数度の願書を差出し、郡奉行・代官らとの間に種々と交渉を重ねた。その中七月廿九日提出した庄屋側の口上書は次のようなものであった。 御願方に付、百姓共虹の松原へ罷出候節、願書御取上被遊候上、永川・起返し・砂押・水洗の儀、結構被仰付難有仕合に奉存候、然し永川類の儀は御領分一統に行き渡り候に無御座候、罷出候百姓其分にて引取候儀及難渋.何分引取不申候、其砌に日田御役人様間もなく浜崎へ御出の噂も有之、御料中甚だ難儀の趣度々申聞け、尚又日数相重り候故奉恐入、私共身分に引受け難儀千万の至り、前後途を失ひ、仲間及談判候は、斯様の首尾に引当り最早致方も無之、後日我々何程の難儀に相成候共、願の内相残り候ケ條、追て御勘辨之上可被仰付候旨、被仰渡候に付、相違有之儀には無之候間、仲間共請人に相立て身命に替へ何分にも願申立可遣旨申聞候、此儀は拙者共上を憚り候儀に付、上に対し決定の請合と申すにては無之候得共、御役儀は勿論身命を差出候上は慥に相心得引取候様に、一組より百姓共三人づつ呼出、談じ可申相談仕り、百姓共へ段々申談候へ共、一同無言にて罷在候に付、此上は無是非儀ながら、御料庄屋中へ相頼み、役方より談じ呉れ候はゞ百姓共の存志相知れ可申と相察候に付彼方庄屋中より右の趣篤と申談じ侯処、百姓より申候には、御尤に候得共、何分手印の墨付にても無御座候ては一同安心不仕候段及難渋候に付、御料庄屋中申候は、斯様の墨付の儀は唐津御領は不存候へども、何方迚も同前の儀にて、御料杯の役筋にては何分の儀にても右躰の墨付と申す儀は、上を憚り役方より遣し候ものにて無之、其代りには拙者共証據に相立可遣候、若し願の筋不相立候はば、右の訳に付大庄屋中を先に立て相願申候様にと申談候処、御料庄屋衆中、御領分大庄屋中、三つ金輪に御座候て、被仰聞被下候様にと百姓共申候由、横田太左衛門申開候に付、我々相談には、兎にも角にも引取候儀を専一に存じ、前後相考候次第に不至、百姓望の通受合、並御料庄屋惣代に横田太左衛門を受人に相立候、依之百姓納得仕り不残引取申候、右之通りに御座候間、願方の儀私共請持罷在候へば、御催促申上候には無之候得共、請持罷在候上は安心不仕、是非右願の儀御内分奉伺候 以上 卯七月廿九日 御領分大庄屋共 右の願書を提出すると、大庄屋六人を郡奉行所に呼出し、代官衆列座の上にて次のような申渡があった。 百姓共差出候願書の内永川並砂押水洗引方之儀は此間格別勘辨いたし遺し、相残候願の儀は箇條多き事につき追て勘辨いたし可遣旨申渡候処、永川成等無之村々は相残候願の内願筋不相済候故、罷出候場所引取兼候に付、其儀は其方共引受候て為引取候由、就夫右之勘辨の儀、其方共相願候、依之右相残候願之内別紙之通之四ケ條は向後用捨せしめ可遣候、其外之儀は難致勘辨願に候間、右之趣可申渡候也 向後令用捨可遣品 一、蔵納之節俵毎に差抜米之儀、俵毎に差戻し申候事 一、家居根山運上差免候事 一、諸浦鮪網二分五厘選りの儀差免候事 一、買上楮直段左之通り相増候事 上楮一貫目に付銭二十文増 中楮一貫目に付銭十五文増 下楮一貫目に付銭十文増 右之通可相心得候 右の趣を各庄屋より百姓共へ申渡すと、表面は畏っていたが、何の村々も同様に内心甚だ不満の様子で此処彼処に寄合い、大庄屋共を焼払えとか、我々直願すべしなど申合せ、時日を移さず再び松原へ集合の気色が見えたので、庄屋一同は八月五日より又々出津致し、次の様な願書を差出した。 乍恐奉願候事 一、御蔵米廻し方、先規之通り御取立奉願候 一、千鰯御運上並長崎新左衛門問屋口銭受御免奉厳候 右は此度御領分惣百姓願方に付、場所において願書差出候上にて、御書付御渡し被遊候後、引取候様に仕候訳は、此間我々口上書差上候通に御座候、然る処重て四箇條御用捨被成下、於私共難有仕合に奉存候、此上御願難申上御座候得共、私共に於て身分前後に行詰り殆ど当惑仕候、其故は惣百姓共は私共引受奉願呉候筈に存じ罷在候様子に御座候、打捨差置候ては往々私共取扱決して相成申間敷と奉存候、右之仕合に付不得止事、乍恐右二ケ條奉願候、私共身分の儀は此節の大事に拘り兎や角申上筈には無之候得共、人情難捨を以て不顧重罪、又々私共より奉願候、此儀御勘弁被成下、右願之通被為仰付被下置候はば、重々難有仕合に可奉存候、依之乍恐書付を以て奉願候 以上 卯八月七日 御領分大庄屋共 御代官御役所様 右之書付を差出すと、暫らくして代官衆は書付を持って登城した。同七日亥の下刻例の大庄屋六人を呼寄せ、人払いの上御上の難渋の趣を物語り一同共々に感涙を流しているうちに其夜も明けて八日の朝となった。 八日は終日終夜談判に終始した。翌九日己の刻又々庄屋一同は次のような願書を差出した。 乍恐奉願候事 御蔵納米廻し方、先規の通り御取方奉願候は、此度御領分惣百姓より願書差上候上にて御書付御渡被遊候、其後引取候訳は此間申上候通に御座候、猶又四ケ條御用捨被成下、私共に於て難有仕合に奉存候、併私共前後当惑仕候訳は惣百姓存志何分にも私共より願受呉筈に奉存様子に付打捨召置候得ば、往々私共取扱決して相成間敷と奉存候右之仕合に付不得止事乍恐右之一件奉願候、此節私共兎や角申上候筈には無御座候得共、難捨置訳を以て不顧憚又々私共より奉願候、此儀御勘弁被成下、願之通り被為仰付被下置候はば難有仕合可奉存候、依之以書付奉願候 己上 卯八月九日 御領分大庄屋共 御代官御役所様 なお此時浦方の願は口上で委細申述べた。すると同九日の午の刻になって、代官所より六人に出頭せよとの事に、右六人−古舘直助・日高喜助・前田庄吉・富田才治・櫻井理平・大谷治吉−同道で出頭すると、御奉行二人・御代官六人列座の上で、書付を以て次のように申渡された。其の文は百姓共相願候蔵納の節、升廻之儀其方共猶又相願候霜ふりの儀は、御所替の節承合の趣と百姓共存心とは相違いたし、当時にては霜ふりの儀相分候得共、今年より勘弁せしめ、霜ふり薄く可為取計候、其上尚又以勘弁、廻し俵引量わけ別紙之通相定候、此儀は廻し俵の節、不足米有之候得ば、其欠米の高を以て引量宜敷俵にも差米いたし、可為難儀事に候間、右引量分之儀は先規無之事に候得共、別段を以て左之通に相定候 廻し俵引量分方之覚 拾三貫目より十三貫八百目迄 拾三貫九百より十四貫三百目迄 十四貫目以上 右之通三*(米并)に致し廻し候て、欠米有之時は其高を以て一はへ限りは可致差米候 干鰯御買上並長崎新左衛門問屋之儀に付相願候趣は是迄難儀之筋不相知候、尤願等も不致候故申付為候事に候、相障事に候はゞ前々の通り、干鰯買来り候はゞ、旅船へも売候儀勝手次第に可致候、御用に候はば直段定り候上にて御買上に相成べく候、新左衛門問屋之儀は右之者かたへ申遣し相止候様に可致候、暫の間可在候 というのであった。此の書付は二通、六人の庄屋が謹んで頂戴し、早速会所に帰って一同に渡し、皆々礼服着用の上にて之を拝読し、御城の方に向って君恩を拝謝し、それより各々村々に帰り、初めて蘇生の思いをなした。 是に於て農民の願意は殆ど聞届けられ、従前通りとなったので、領内は至る処平和の風が吹き渡った。 之に反して此の大騒動の起因を作った小川・松野尾の二人は八月十日閉門仰せ付られ、そのまゝ行方不明となってしまった。 さて此度の騒動については、其後も奉行・代官らは心胆を砕いて主謀者の詮議を続けていたので、大小の庄屋は大に当惑し且つ恐怖にかられていた。之を見兼ねた平原村の大庄屋富田才治と半田村の名頭麻生又兵衛・同市丸藤兵衛・常楽寺の和尚知月の四人は「此度の強訴の主謀者は我々四人で、外には一人も無之、実は昨年春御領分中に仰付られた十七ケ條の通りにては百姓らは妻子を引連れ外國する外なしと寄り寄り悲嘆に暮れて居る有様は、如何にも不愍の至り、又我々としても同様、役儀も勤まりかねるので、我等四人心を協せて此事に及んだ次第で、此上は如何様な御処刑をも御受申上げる」と、少しも恐るゝ色なく申出た。そこで更に調査の結果は他に連類者一人も無いので、此の四人のみが明和九年(一七七二)の三月二日西の浜で極刑に処せられた。之を知った百姓らは大に歎き悲しみ、密に其の死骸を盗み取り、御料南山村の称念寺に葬り、のち平原村の彼の住宅の附近に改葬し、小祠を立てゝ之を祀った。 C 富田才治 富田氏は雲州富田の城主佐々木五郎義清の後と称せられている。慶長中唐津城主寺沢廣高の時富田定雄なるものが召出されて平原村の大庄屋となり、爾来代々相伝えて六代才治に及んだ。才治は享保九年(一七二四)平原村に生まれ、和漢の学に通じ兼ねて山鹿流の軍学をも修めていた。資性沈着・善謀果断・最も義気に富み、明和七年時の領主忠任の苛剣誅求に対して義憤を発し、蹶然立って百姓を虹の松原に集め、苛税を除かれん事を強訴せしめ、己は平然として中間に居り、表面は調停の役に当り、巧に一揆を策動して遂によく其の目的を達する事を得た。其の神謀妙策の程実に驚嘆の外はない。其の後藩吏の検索厳重にして大小庄屋の当惑・農民の恐怖甚しきを見て飜然自首して罪を一身に引受け従容として死に就いた。時に年四十八歳。村民深く彼の遺徳を尊崇し諸願の霊験あらたかなりと今なお墓参者が絶えない。(詳細は著者旧編松浦叢書第二巻虹浜騒秘録参照) 三、忠弼 左近将監患弼は安永四年(一七七五)父君忠任隠居の後を受けて家督を継ぎ、治世三十年間、領内は平穏無事であった。文化二年(一八〇五)九月六十二歳で隠居し、葵坂に居り葵坂大殿と称せられた。 四、忠明 式部少輔忠明は忠弼の嫡子、文化二年家封をつぎ、翌三年四月廿三日入部した。 初め式部少輔と称し、のち和泉守と改め、文化九年(一八一二)隠居し、同十一年四月江戸青山の別邸に於て卒した。享年四十四。(忠明公墓碑銘による) 五、忠邦 越前守忠邦は忠明の第二子にして寛政六年(一七九四)六月江戸藩邸に生れ、文化四年(一八〇七)十二月従五位下に叙し式部少輔に任ぜられた。文化九年(一八一二)五月十九歳にして父に代って封をつぎ、文化十四年九月遠州浜松に転封せられた。のち文政八年(一八二五)越前守と改めた。 元来唐津蒲は大久保氏以来、長崎警備の監督を兼ねた重任を負うていたので、中央にいて閣老に列することを得ぬ内規であった。されば才器卓絶の忠邦は一度老中に列して國政を料理せんことを望み、自ら幕府に請うて転封となったのである。忠邦の唐津統治は僅に七ヶ年で其間治績の記すべきものはない。只転封に際し、所領過剰と称して、大川野組二千三百七十二石六斗五升九合、平原組五千四百十二石三斗五升八合、厳木組二千七百八十六石七斗六升三台、合計一万五百七十一石七斗八升を割き、之を幕府に上地して、為に後の唐津藩をして彌々窮屈なる六万石の貧弱藩に転落せしむるに至った。 忠邦の事績は老中水野越前守として最も顕著であるが、之は唐津藩主時代の活動ではないので、茲には之を省略する。忠邦の子忠精の時出羽國山形に移封となり、かくして明治維新に及び、華族に列して子爵を授けられた。 |
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第八章 小笠原氏 一、小笠原氏の由来 小笠原氏は新羅三郎義光の曾孫遠光を以て始祖となす。遠光の子長清甲州小笠原の館に生れたので、困って以て氏とした。天正中其の後裔小笠原秀政が徳川家康に属し、其の孫女(信康の女)を娶り八男二女をあげた。此の縁故によって徳川氏の知遇を蒙り、遂に下総國古河二萬石を領した。元和元年(一六一五)大阪の役に長子忠修と共に戦死したので、次子忠貞が其の遺領を継ぎ小倉小笠原氏の祖となり、三子忠知は別に川中島に於て五千石を授けられた。これ即ち唐津小笠原氏の祖天真公である。 忠知は寛永三年(一六二六)豊後国杵築の三万五千石を加えて初めて諸侯の列に加わり、正保二年(一六四五)三州吉田に移され、長子長矩(山城守)その子長祐(壱岐守)を経て、長亮(佐渡守)の時武州岩槻に移された。ついで長煕(壱岐守)の時遠州掛川に移され、長庸(壱岐守)を経て長恭(能登守)の時故あって奥州棚倉に遷され、其の子長堯(佐渡守)を経て長昌(主殿頭)に至り唐津に移封となった。時に文化十四年(一八一七)であった。(傳記日本歴史) 二、長昌 小笠原主殿頭長昌は長堯の第二子で、寛政八年(一七九六)六月奥州棚倉に生まれ、兄長*(王爰)が早く歿したので、立って嗣となり、文化九年(一六一二)三月封をついだ。同十四年唐津に転封となり、治世六年、文政六年(一八二三)九月廿六日江戸に於て卒し、駒込龍光寺に葬られた。享年二十八。法名、霊源院殿前肥州大守廓巌崇徹大居士。 唐津城請取渡式 小なりと雖も六万石の唐津藩、其の藩主の交替に当って城池を始め家臣の住宅より全領域に亘る万般の受渡しは、其の手数の程が察せられる。次の記事は直接其の衝に当った河村理兵衛・伊東権左衛門の控書である。授受の形式が如何に煩瑣であったかを窺知する事が出来る。前章第二節所替日記と対照一読せられたい。 唐津城請取渡前日当日式写 一、本 丸 物頭 藤 掛 登 上使御見分之節、入口下座敷へ罷出平伏可仕候、夫より御居間次迄御案内、其外所々御見分被成候はゞ、御先に立見計、御帰之節も同断 給人 松井 才兵衛 堀 丈左衛門 其席にて御時宜可仕候 引渡当日、御請取方御物頭一人・給人両人之内一人及挨拶、座敷向等掛御目請取渡可致候、相済候はゞ手札此方にて認、足軽に為持、玄関に罷遣候留守居両人へ相届可申候、終て直に引取西門外へ控へ可受指図 一、廣間上ノ門 家老 小杉 長兵衛 同 堀 外 記 前日は刀持着座の後へ置、当日は玄関白洲へ為持可置 番頭城代兼 長尾 新五郎 御引渡之節、請取方御年寄松本仲殿へ城置絵図御引渡可申候 刀右同断 留守居 河村 理兵衛 同 伊東権左衛門 前日水野様御家老中登城之節、敷台迄罷出候事 刀前日鑓之間に可置 物 頭 小杉 角兵衛 従是中台所より上る 前日は刀持着座の後へ置 当日は為持可置 鎗奉行宗旨奉行兼 大森次郎兵衛 吟味役 菊池勘左衛門 舟奉行 曲淵八郎兵衛 目付役 信太九右衛門 御請取方御目付中へ、諸門々之鍵、住居之鍵、〆切口等帳面 引渡証文此方にて認置、前日取替可申候 祐 筆 久米 多門 料紙・硯持参之事、小奉書一状、美濃紙一状、風呂敷に包み持参、当日は家来へ中奉書巻紙為持、台所之土間に置、従是刀持着座之後置(次席迄同様之事 但前日当日共) 一、鎗ノ間 籏奉行 堀 十郎太夫 前日御見分之節、下庄激へ罷出、夫より御先立、大書院次迄座敷向御見分之節、小書院より廻り大書院内椽通より御案内可仕候、御帰之節御先立、玄関白洲へ可罷出、当日も前日通大書院次迄御案内可仕候、御退城之節同断 籏箱・籏竿・幕箱・障子はづし置、東之方壁際へ置 使番取次 服部欣右衛門 青山 多久馬 前日御見分御引渡、当日上使城御入之節、玄関白洲へ罷出平伏、御退城之節も同断、上使御用人被来候はゞ、両人之内にて案内可致候、但帳台頂物之方、掛板より杉戸へ通り大書院下段へ可通、交代相済候はゞ主客之座入り代り、指図可相待、指図有之候はゞ中台所出坂口門を出可控 目付役 金子 新内 前日御見分之節、大書院上段下迄御案内可仕候、夫より本丸御見分之節、御玄関白洲より所々御先立、御当日玄関下座敷へ罷出、前日之通大書院下段迄御案内可致候、玄関白洲へ廻可相待、但前日之儀也 給 人 中村 又八 堀与一左衛門 奥 平次 岡村仁右衛門 河井一郎左衛門 交代相済主客之座入り代り可申候、引取之儀は指図を可相待、指図有之候はゞ中台所より出、坂口門に出可控 一、次 席 給 人 芹沢 甚吾 丹羽次郎左衛門 右同断 一、中之口 水野様小遣可指置、小遣足軽十人 一、中台所 一、大手門 幕片ナシ 鉄砲五丁 弓三挺 長柄五本 玉箱一荷 矢箱一荷 外ニ水野様御紋付挑灯弐 水溜桶二 手桶三十 台挑灯二 行燈一 箒塵取 下座敷三ツ道具 棒二本 此品置附 物 頭 近藤 安兵衛 給 人 和田忠右衛門 徒目附 一人 足軽中頭 一人 足 軽 八人 中 間 八人 上使御通之節下座敷へ罷出平伏可仕候、其外足軽共は番所脇へ差出土下座可仕候 和泉守様御家老中被通候節は足軽等は下座敷へ罷出下座可仕候、引渡当日は置附之品紙に認、番所に張置、引渡相済候はゞ、注進札に認、玄関に罷通候留守居両人へ相届可申候、尤手札此方にて認可相渡候、上使御家来中、家中屋敷見分之節、足軽番人下座敷にて下坐仕候、御門当日交代鍵は安兵衛相渡、交代相済候はゞ直に西門外に引取可申候、但新馬場通、上使御通之節、番人之内より升形へ二人新馬場人の道へ二人可指出事 一、西門 幕片ナシ 鉄砲五丁 弓二張 長柄二本 外ニ水野様御紋付挑灯二 水溜桶一 手桶六 台挑灯二 行灯一 下座敷三ツ道具 箒ちり取 棒二本 此品置附 物 頭 山 本 八百八 給 人 長尾八郎左衛門 足軽小頭 一人 足 軽 七人 中 間 三人 当日引渡鍵は八百八相渡可申候、置附之品紙に認め番所に張置、引渡相済候はゞ注進札に認、玄関に罷遣候留守居両人へ相届可申候、尤も手札此方にて認可相渡候 一、三ノ丸門 (置附の諸品著者に於て省略) 物 頭 坂田四郎右衛門 給 人 金田 半次 足軽小頭 一人 足 軽 五人 中 間 四人 (引渡の式等は大略 前同様に付著者に於て省略) 一、二ノ丸北門 (置附の諸品省略) 郷足軽小頭 一人 郷足軽 二人 中 間 一人 (以上は置附也) 当日引渡置付之品紙に認番所に張置可申候、当日案内次第、水野様御借羽織・袴着用可仕事、此方羽織は翌朝郡組小頭へ可相納侯 一、切手門 (置附品著者省略) 物 頭 長尾十左衛門 給 人 河添 多謄 足軽小頭 一人 足 軽 八人 中 間 六人 (引渡の模様著者省略) 一、三ノ丸埋門 棒二本置附 郷足軽 二人 中間一人(置附也) 当日引渡和泉守様御家老中被通候節は下座敷にて下座、置附之品紙に認番所に張置可申候、鍵は前日目附役廣間にて相渡〆切封印に不及候、当日案内次第、番人水野様御借羽織袴着用可仕候、此方羽織ハ翌朝郡組小頭へ相納可申候 一、時ノ大鞁堂・船入門・水之門・坂口門・本丸門・腰曲輪涼所脇番・札之辻・名古屋口・町田口・舟蔵番所・満島番所(以下著者省略) 一、城附鉄炮玉薬渡方 物 頭 小杉 角兵衛 給 人 齊藤七郎右衛門 下 役 二人 上使右櫓へ御出之節矢倉外にて平伏、下役は少退て平伏可仕候、前日取揚鉄炮等目録迄鍵共矢倉にて引渡、其列覚書認置、水野様証文も此方にて認置、証文取替、両封印にて〆置、当日封印改引渡可申候、渋土蔵石矢并石火矢車共、其ヶ所にて相渡、前日両封印にて〆置、当日引渡、前々日赤合谷塩*(火肖)蔵鍵共引渡可申候。此方不及封印、引渡相済候はゞ手札を以て玄関に罷遣候留守居両人へ届可申侯。 尤も御請取方登城之節大手門より同道可致事 一、御用米並蔵渡方 吟味役 菊池勘左衛門 蔵 役 武井 兵助 辻 彦太夫 小 役 笠井菅右衛門 古舘 恵七 手島 伝内 上使御見分之節土蔵一二間程も先へ出平伏、下役は少退て平伏可仕候、御請取衆登城之節、水野様御役人大手門より同道致し、御用米並大庄屋証文引渡、両封印を以て〆置、水野様証文も此方にて認取替可申候、当日は封印下役立会相改可申事、相済候はゞ手札を以て、玄関に罷遣候留守居両人へ届可申候、直に西門外引取、支配等引まとひ可罷出 右の外、涼所矢倉・台所・中台所番所・作事並家中屋敷・厩・船蔵・町方・呼子番・名古屋船着番・名古屋古城跡・内野尾古城跡・岩屋古城跡其他名所の渡方等一々記あるも之を省略する。 此の他に上使の旅宿に就いての記録がある。 左に之を揚げることにする。 一、平吉様御旅宿 用 人 中村茂右衛門 膳 番 河添喜左衛門 御着の節玄関前へ罷出平伏可仕候、御内見分之節も茂右衛門も御城へ罷出指図可致、喜左衛門も上使へ指上候御菓子等世話可致候、十五日上使御城入跡にて交代相済候て、手札を以て留守居両人の内 旅宿へ可申出候 一、藤十郎様御旅宿 用 人 奥 平太夫 膳 番 米山甚左衛門 待遇方同前につき省略 一、十太夫様御旅宿 御馳走奉行 井上 主膳 膳 番 成毛 津盛 待遇方同前につき省略 三、長 泰 壱岐守長泰は庄内侯松平忠徳の弟である。長昌廿八歳にして卒し、実子行若(後の壱岐守長行)年僅に二歳の故を以て廃嫡となり、長泰が迎えられて嗣となった。 元来唐津藩は長崎監督の重責を負うているので、幼主では其の役が勤まらない。若し幼主を嗣立する時は他に転封されねばならない。然るに小笠原氏は入部以来僅に六年を経たのみで、財政は極度に逼迫しており、家臣も亦貧困にして移動の余財がなかったので、已むなく実子を廃嫡して養子を迎うることとなった。長泰は文政六年(一八二三)十一月俄に養子となり家封をつぎ、従五位壱岐守に叙任された。既にして病を得て藩政を見るを得ず、天保四年(一八三三)隠居し、後を長會に譲った。 日銭の制 唐津藩財政の窮乏は極度に達したので、其の救済策として新に日銭の制を設けた。之は文政十年(一八二七)の事である。此の制度設定の内情は当時江戸詰家老百束九郎右衛門らが國元諸役に宛てた書面によって其の委細を知る事が出来る。左に其の大要を抄録する事にしよう。 (前文欠) 被成候へ共中々引受不申、其上吉凶共御物入打続、彌増之御新借、利分滞等にて、当春以来調立候処、三十三万両余御借財と相成、御蔵元勘定差引も不相立候故殿様御交代の御旅行も難被成程の御場合に相成候に付、御在所江戸御役人共申合、大阪御屋鋪へ致出会、食野吉左衛門へ御頼込被成、夫より近江屋休兵衛・平野屋仁兵衛共に、三家へ一向申談込候処、三家より申出候は、此上は手堅御規定被成立、向後御相違無之候はゞ、当年より向拾ヶ年之間。御年限相定、三家にて御蔵元可仕候(中略) 御領分、在・町、銘々御國恩存辨候者共より申諭、一ケ月に一日宛之手業料、分限に応じ、別成上納物出来候はゞ、右之不足へ引足し可成候、衛差引相立候はゞ、三家申合、國益に相成候仕込金等も繰出し、御手揃之上は御手仕込等組立、右等の御利益を以て、拾ヶ年御不足之御手当に備置、尚又三家之外銀主共も候へば、人気一致いたし、格外に仕法立方も申談、彌御成行宜敷相成、御安堵之御端にも可相成奉存候(中略)三家より誠深切に申談呉候に付、其段当春御帰城被遊候上、委細達御聴候処、食野より厚く申談之趣、御満足思召、夫々御役人共へ御倹約方被仰付候処、三家代り食野忠助罷下り候に付、諸向御仕法之儀、御直に被為聞召、此上御手元を始、役所向端々迄御取〆厳鋪御倹約被仰出侯 (中略) 右躰迄被仰出、御頼之儀は誠に能々の事と奉恐察、銘々忠心を以申上候様、端々之者迄、得と申聞せ候様可致候、此段改て相願候也 (文政九年) 戌十一月 永江 紋左衛門 百束九郎右衛門 高畠 勘解由 西 脇 多 仲 福 田 記太夫 高 原 与兵衛 佐久間 蔵 人 右前段被仰出候趣、得と奉恐察、御仕法相立、御永続相成候様可致候、此段相願候 中村 甚五兵衛 長谷川定右衛門 渡辺彌三左衛門 稲 石 金 吾 案ずるに、棚倉時代の貧乏生活に何等の貯蓄もないのが、九州かけて全家族を挙げて大移転と来た。莫大の旅費を要するのは無論のことで、藩主入部の当初、領民より租税を前納せしめて一時を凌いだ。 処が着藩後僅か七年にして藩主の喪に遇い、又々多額の失費を来した。されば遂に元利合計三十三万両の借金となり、参勤交替の旅費にも窮するに至った事も当然で、実子を廃嫡して迄も他家より養子を迎えねばならなかった事情も了解出来る。 此の新仕法は亥年(文政十年)より実施され、一ケ月に一人分の手業料として六十文(銀相場の変動によって正銀との対価は月々に変化している)の人頭課税がかけられ、之を日銭と称した。此法の運用の実際は次の文書によって明かである。 以書付奉願候事(小加倉村留帳より) 一、一人前 小加倉村 年 十七 留 蔵 〃 十五 妹 しも 〃 九 妹 とめ 〃 三 弟 熊太郎 〃三十四 伯父 平四郎 〃四十二 母 〆六人 男 三人 女 三人 右之者兼々貧窮之者に御座候処、去秋より伯父平四郎、瘡毒にて眼病相煩候処今以全快不仕、相応の手業も相成不申、尚又母妹ともに多病にて日々稼業も相成不申、旁以今日を暮兼難儀千万被存候、右平四郎日銭一人前、御免奉願候、右願之通口仰付被下置候はゞ難有可奉存候、此段奉願候 以上 天保四年己正月十八日 小加倉名頭 重 吉 同村兼帯石田村庄屋 峯 儀三郎 今村組 大庄屋 黒岩彌惣太 御趣法御役所 此の免除願は許されなかったものと見え、正月より四月迄は小加倉村の総員八十人分、四貫八百文宛納入し、五月に至り七十九人分を納めている。而して此の一人減は丈作の母の死去によったもので、前記の病人平四郎分の免除は行われていない。してみると僅か十七歳の青年留蔵が母と妹の助勢を得て扶養者三人を擁しながら、毎月三百六十文の日銭を徴収されたのである。棚倉以来の小笠原藩の借財は即ち転稼されて唐津藩民の苦痛となっている。 四、長 會 能登守長會は同族弾正少弼長保の二男で、天保四年(一八三三)八月養子となり、翌九月家督をつぎ、従五位能登守に叙任せられ、同七年(一八三六)二月十九日江戸に於て卒し、駒込龍光寺に葬られた 法名は韜光院殿前能州大守華嶽崇栄大居士。 五、長 和 佐渡守長和は和州郡山侯松平甲斐守保泰の九男にして、天保七年三月養子となり、同年五月家督をつぎ、従五位佐渡守に叙任せられ、同十一年(一八四〇)十一月廿三日唐津に於て卒去し、近松寺に葬られた。法名は鳳院殿前佐州大守瑞巌崇輝大居士。 幕領百姓一揆 (1) 原 因 佐渡守長和の治世中に、幕領巌木村に於て百姓一揆が勃発した。前に水野忠邦の転封に際して平原組・厳木組・大川野組の三地方凡そ一万石を削って幕府に上地した事は前章に述べた通りであるが、此の幕領は小笠原氏が委任を受けて統治する事となっていた。処が小笠原氏は新任の事とて一般民政については従来の慣習に従い、其の実際は村々の庄屋に任せ、唐津藩では単に租米の管理を為す位のものであった。それで御領内の庄屋中には専横不正の行為が醸成さるるに至った。 本来此地方の徴税は検見取の法で、二年又は三年毎に、特別不作の時は毎年とする事もあったが、秋の収穫量を実地検證の上で之を定めたものであった。処が此の検見を受けるには相当多額の入費を要し其の入費は当然農民が負担せねばならなかった。又租米は長崎御廻米納所に運び、同所役人の監督を受ける事となっていたので、此の運遭中に散耗する量を一石に付三升と見積り、缺米と称して村民より約一石八斗宛余分に徴収していた。(経済史研究第十八巻第)それで庄屋は此等の入費と租税の上納高を一括して徴収し、農家の各々に対しては其の収支を知らしめなかった。此の事は文政の初めより引続き行われ、遂に庄屋の役得のように考えられるに至った。小笠原氏はかゝる不正の行われていることは元より知るよしもなかった。 偶々廣瀬村の庄屋周平が日田代官所へ出張の折盗難に遭い、その損害を御料の農家一同に割賦した事を農民が知り、兼ねて年貢米取立について不審を抱いていたことゝて、巡見使の来下を好機として、田代村の大助等が態々これを小倉表に出迎えて之に訴状を呈した。此事は忽ち唐津藩の知る所となり、大助等は捕えられて入牢の身となった。是に於て御料の庄屋一同は大助の吟味により年来の不正行為が暴露せんことを恐れ、一同相謀って大助の吟味免除と、その訴状の下戻とを願い出で、事を有耶無耶に葬ろうとした。 (2)一揆の模様 庄屋共の策動を知った川西村の伊左衛門は、斯くては悪政改革の期なしと考え、大川野筋の人民を同村河上神社境内に集めて協議し、巌木村・五ケ山村を初め御料各村に通知を発し、平山村五社権現社に会合する事とした。此時本山村の此助、川西村の儀左衛門らが首脳となって謀議を凝らし、農民一同中島村の長者原に集まり、佐賀領小侍の番所に願書を提出せしめ、次に町切村の元三郎をして再度番所に至り願書提出の趣意を強調愁訴せしめた。番所では懇々説諭を加えて追い返した。此時の模様を鍋島直正公伝には次のように記されている。 さて唐津藩に於ては漸くにして饑年を経過したりしに、今亦幕府より巡見使の接待費に大金の入用ありとて、一般に人別銭・畳銭等の新税を課したりければ、従来より新領主の政治に不服ありしのみならず、饑饉に際しての不充分なりし手当に憤慨しいたりし農民等は是に至りて遂に堪ふべからずとなし、我藩境に近き十余箇村挙って申合せ上件の事由を具し、佐賀領の百姓となされたしと哀願し、其節は飯米なども当分取替を願ひ奉る。但し名前・居所等は差し憚るゝ所あれば申さねど、何分願意を聞届け下されたしと、町番所の番人まで申し出で、池の峠番所より亦同様の報告あるなど、事態頗る容易ならざる観ありき。(鍋島忠正公傳第二巻第三十二章) 一方唐津藩では大に驚き、温言を以て種々利害を諭し、佐賀藩の犬塚利兵衛も其間に立って斡旋する処があり、一先ず無事に治めることが出来た。これは天保九年(一八三九)九月のことであった。 然るに事が一旦治まると、唐津藩では前約を実行せざるのみか、一揆の不都合を詰り、承服者には調印を迫り、拒絶者は捕縛するなど、高圧手段に出たので、民衆は又々一揆を起し、廣瀬村の金比羅岳に走せ上り、小屋掛を始め、焚出をするなど、籠城の準備に取りかゝった。此時浪瀬村の庄屋甚平が村民を説諭するのを見て民衆は之を拉し来り詫状を書かせるとか、中島村の名頭只四郎を捕えて数日間山上に留め置くなど、民心次第に激化の一途を辿った。 此の騒動に対して鎮定に向った唐津藩兵は初めより討伐の意志なく、徒に厳木の宿舎に雑談を交わしているに過ぎず、佐賀藩も亦小侍の番所に多数の兵を駐屯せしめていたが、討伐の意志は示さなかった。斯くて時日は空しく遷延してゆくのみであった。 唐津藩がかゝる緩慢の態度をとったのは、幕領のことゝて自ら進んで之を討伐し事態を拡大せん事を恐れて其の指示を幕領に仰いだからであり、又佐賀藩としても当の責任者という訳ではなく、迂闊に手を出して後日の係り合いを生ずる事なきよう、自然傍観的態度に出たものと思われる。 之より前、佐賀藩よりは老中水野越前守まで九月一揆の内報を送っていたが、今回は犬塚利兵衛を江戸に遣わし、勘定奉行内藤隼人正矩佳に再度騒擾の内情を開陳せしめた。之を知った内藤は勘定奉行深谷遠江守益房の処置を緩慢なりとして非難を加えた。 唐津藩では事件を自藩のみで処理しようとして幕府の役人に取り入り事態を過小に報告していたので斯く信じていた深谷遠江守は佐賀藩の態度を怒り其の不協力を詰問し、又佐賀藩士の事件に関与したものを訊問するなどの拳に出でた。これは佐賀藩の弁明によって事なきを得たが、之より佐賀藩の態度は俄に硬化し領内への遁入者は悉く捕縛する気配を示し、唐津藩も亦その援慢を叱責されたので、先発の高畠隼人に加うるに家老雨森惣兵衛らに五百余人を授けて、愈一揆襲撃の腹を固め、佐賀藩の合図によって小麦原の郷組鉄砲隊十数名をして先ず一撃を一揆の屯所に加えしめた。此の形勢を見た一揆は忽ち瓦解し、何等の抗争をもなさず手を束ねて縛に就くもの四百五十余人、佐賀領に遁入して捕えらたもの五十余人。時に天保十年(一八三九)二月廿八日であった。 (3)一揆の善後処置 天保十年七月公事方勘定奉行深谷遠江守盛房より宮寺少治・大森八郎を留役として下向せしめ、立花左近将監御領所に於て吟味せしむるにより、兼ねて召捕置いた者や御領所の者の呼出など、両人より通知次第諸事差支なきよう取計うべしと、唐津藩に通知があった。さて吟味の結果其の処分は 一、唐津藩では御料御領地を取上げ、日田代官所の支配に移し、郡奉行杉江宇左衛門・大林八郎は一揆鎮定の処置が機宜を失し事態を益々大ならしめた咎によって両人とも役儀取放押込仰付られた。 一、佐賀藩では此の事件に関係した田中平太夫・中島和兵衛・犬塚利兵衛は取調の結果不都合の点なきを以て御構いなしとの申渡しがあった。 一、一揆の農民らは罪の軽重によって夫々処罰されたもの数百人、其の中首脳者と目すべき本山此助は重追放、川西儀左衛門は中追放、町切元三郎は遠島申付らるべきの処、何れも既に死去しているので、刑の執行は出来なかった。蓋し此の三人は首謀者として最も活躍したゝめ、三池へ護送の途中毒殺されたと言伝えられている。無宿者敬吾は軽追放、のち長崎で処刑されたとも伝えられている。川西伊左衛門は田畑取上の上所払。田代大助は日数入牢仰付られていたので御宥免 此の外に軽追放、江戸十四里四方追放等の処罰を受けた者がある。此の罰には「御構場所徘徊いたす間敷旨被仰渡候」と但書がある。 其他「急度叱り置く」と言う処罰も多数あった。 一、今回事件の原因を作った不都合の庄屋に対しては次のような処罰があった。 廣瀬村庄屋周平以下岩屋村新蔵・立川村祐蔵・屋領孫兵衛・平山下村太十郎・本山村信助・中島村圧三郎・波瀬村甚平・浦河内村寛三郎らは家財取上の上所払。 取鎮方不行届のため過料銭を課せられた庄屋も多数あった。此の過料銭は三貫文・五貫文・十貫文の三種あって、何れも長崎奉行所へ相納むべき事となっている。 年貢不正取込の者は取過ぎた分を小前に割戻すように命ぜられた。(以上松浦幕領百姓一揆の大要を取る) 六、長 國 佐渡守長國は信州松本藩主松平光庸の次男にして天保十二年(一八四一)二月養子となり、同年五月封をつぎ、従五位佐渡守に叙任せられ、明治二年(一八六九)版籍を奉還し、華族に列し子爵を授けられた。明治十年(一八七七)四月廿三日東京に於て卒し、谷中墓地に葬った。 |
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第九章 長 行 第一節 長行擁立の内情 小笠原壱岐守長行は長昌の長子にして、文政五年(一八二二)五月十一日唐津城中に生れ、二歳にして父を亡い廃嫡の身となった。天保十三年(一八四二)江戸深川高橋の藩邸に移り、専心学業を励み、多声大に揚り安政四年(一八五七)九月衆望によって長国の養嗣子となり、文久二年(一八六二)奏者番となり、若年寄を経て同年九月老中格となり、元治元年(一八六四)壱岐守と称し、老中となり、明治元年(一八六八)老中を免ぜられ、爾来隠棲して復た出でなかった。長行は実に多難曲折の一生を送った幕末の一偉人であった。以下其の概略を叙述することにしよう。 天保四年(一八三三)唐津藩主として能登守長会を迎えたのち、其の後嗣には長行を迎えん事を謀り、小笠原長光(修理様又朱門公と称せられた)・百束九郎左衛門の二人は長行を伴って江戸に上り、時の閣老であり且つ長行の伯父に当る水野忠邦に頼って斡旋方を請うた。忠邦は長行を見て「君が家の梅の立枝はしらねども、あるじ顔にも見ゆる君かな」と一首の和歌を与えた。 これ蓋し一には姻戚引援の嫌を避け、一には長行の体躯の短小なのを見て其の器に非ずと考え、不賛の意を諷したものであろう。是に於て長行擁立の望は全く絶え、又々長和・長国の二代相ついで他家より嗣子を迎うる事となった。ところが逼迫せる日本の国情と沈滞せる唐津藩改革の急務とは長行をして永く閑地に悠遊せしむる事を許さなかった。 長行が嗣子として迎えらるゝ迄の経緯は西脇勝善の秘録譫言によれば次の通りである。 安政三丙辰年七月の頃と覚ゆ。大野又七郎来訪、酒宴に際し同人慨然として空を眺めながら、小笠原家も誠に衰退、殊に財政御困難に赴けり。如何かして之を挽回するの道なきかと申候故、之を挽回するの考案ありやと質問せしに、同人暫時思案の上、敬七郎君(長行の俗名)を長国の世予に立つるが第一の良策なるべしと答へたり。成程是は良策なれども、之につき困難なるは、敬七郎君は御廃人の身にして嘗て数度其筋へ御再興の義、内々申立しに拒絶せられたる趣、且御年令長国公より長ぜらるれば之を成すは容易の事に非すと申せしに、同人重ねて尾崎嘉右衛門と熱議を遂げ、不日罷越すべしとて其日は相別れたり。其后両人来訪せし故、種々内議を疑せしに、幸ひ嘉右衛門は御留守居助役、又七郎は書生の身にして有名の儒者に知己多きと、余(西脇勝善)は現に執政の職にあれば、略々計画の手順は整ひたるものゝ、廃人再興に係る御類例の捜索と君上の御承諾を経るとの二箇條は最も困難の事なれば、極密に三人血誠を以て誓ひ、幸に此事成就せば御家長久の良策、若し成らずば割腹と決心し追々其事に着手せり。当時上府の家老は多賀(長左衛門高寧)と拙者の両人にして、殊に多賀とは親戚の間柄なれば、藩中の嫌疑を憚り、且つ公務も繁忙となりたるに、余は壮年の事故、御国表より同僚一人御呼寄の義を君上へ言上せし処、翌年百束新上府せり。 同号丁巳年(安政四年一八五七)土佐容堂公より君上へ御直書を以て、其方には敬七郎と申方有之、仮養子に被成ては如何やと申来り、又阿州公よりも同様の意味を以て卸側使到来せしかば、君上に於ては此件により御掛慮の様子にて、同僚三人(多賀・百束並拙者)御呼出の上判然たる御内意はあらざりしが、御養子の一條何となく嫌はせらるゝ御心底に相見え、而して他諸侯方より君上へ御養子の勧告あるは蓋し平素敬七郎君と御懇意の儒者安井仲平(衡)・塩谷弘蔵(世弘)・水野幸蔵・田口文蔵等の周旋に原因せるかと憶測せり。斯る処に尾崎嘉右衛門・百方奔走、彼是時日を送りたる末、漸く酒井修理太夫(小浜藩)様に於て廃人再興の御類例ありしを探索し得たりとて、欣然馳せ帰りて竊に申出たるも、余は深く胸中に秘しおきて誰にも語らず、其上君上より同僚三人御呼出の上敬七郎養子の一條如何可致やと御下問ありしに依り、御前様御思召の程相伺ひたるに、とても難しき事と存するとの御挨拶に付重ねて素より御六ケ敷事と愚考せらる、左ながら御留守居へ申付け、一応探索為仕ては如何やと申上げしに、申付けよとの御内意に付、若しや万々一御類例も候はんには御養子に被遊候やと為念伺ひしに、果して類例も候はゞ養子に致すべしとの御沙汰に付、然らば早速御留守居へ申付探索に取掛り申すべく段言上に及べり。御類例の事は既に探索を遂げ置きたれども、個は内密の事故時日を経て御類例ある旨申出たり。 それよりは万事風に草の靡き、水の低きに就くが如く、手順運べるにより、幕府に対し、第一小笠原茂手木二男小笠原敬七郎此度一門に引直すと届出あられ、其後一門小笠原長国養子に致すと届出られ候処、同年九月廿一日聞済と相成り、同十二月十六日為御嫡子並に諸太夫称図書頭、御父子の間情誼 陸くあらせられ、御血統の長行公漸く世子に立せられし事なれば、恰も連日朦朧たる空際を払ふて旭日の昇るが如き心地ぞせられ、かふ藩士民万々歳を祝し奉りける。(下略) 第二節 唐津藩に於ける長行公の諸政 長国の嗣子となった長行は父君に代って藩政を見るため、安政五年(一八五八)四月十日唐津に着き、文久元年(一八六一)四月四日唐津を出発するまで在滞僅に三年、其間に種々の政治改革が行われた。其の重なるものを挙ぐれば左の如くである。 (1) 給養刷度の改革 安政五年四月十日唐津に着いた長行は同月十九日より長崎巡視に出で、仝廿六日帰藩し、翌五月臣下に諭達を下し、次のような改革を断行した。 曩に棚倉在藩時代は所領六万石であったけれど、実収は之に伴わなかったので、家臣の俸給も其の支給高は甚だ僅少であった。例えば禄高百石の者は玄米六石二斗五升三合(月割にして支給)、四人扶持仝七石八升(月割支給)合計十三石三斗三升三合、外に大豆六升、糯米三斗の年収であった。併し比内より二割引米と称して三石三斗三升三合の天引減額がある。 之は安政二年江戸大地震の損害顛補のためである。後には年二回代金を以て支給することゝなったが、米価の見積が時価より低廉なため給与を受くるものは甚だ不利であった。尤も藩では此の減額の代償として家屋の修繕を藩費支辨し、従僕の給料・薪炭・紙・医薬等を全額或は一部分を補給することゝなっていた。 また家来・家老・用人・番頭等の重職には別に役米・役金等を支給する制であった。されど是も他藩に比すれば至って僅少であった。長行は之を憫み二割引米・役米・役金等を宥免する事とした。(小笠原長行公傳参照) (2)文武両道の奨励 長行はまた同五年七月老臣をして家中一般に対して (前略) 六十歳以下の面々せめて書物は四書なりとも、槍剣は形ばかりにても相心得候様被遊度、弓馬は勿論之事に候、月に〇○之日は志道館(藩校)へ出席被致、聴聞なり質問なり可致、又〇〇日は稽古場へ出で形なりと自身稽古可致(下略) (小笠原長行公傳) と通達せしめ、以て文武両道を奨励した。 (3)善行者の褒賞 彼はまた領内を巡視して善行あるもの、農業に精励するものを褒賞せんとして予め其の人物を選抜して具申よるよう郡奉行に下命した。此の事は偶々将軍家定の薨去に遇ひ延期となった。その後度々実行せられ、其の褒賞に与ったものが沢山あった。 (4)郡代への諭書 彼は同五年八月郡代に対し(前略) 其方共は勿論、代官・庄屋に至るまで心を誠実にして庶民と憂楽を共にすべき也(中略)依って戒にも成べきと思ふ箇條左に書載候 一、庶民に不実意の事 一、庶民をしいたぐる事 一、依怡贔負之沙汰 右等の悪風、当時に限りて有之間敷候得共無き上にも猶無之様、精々可致丹誠候 一、己之行状可慎事 一、物事卒先すべき事 一、農事を第一として末技を禁ずべき事 右屹度相守るべし。(下略) (小笠原長行公傳参照) と厳命した。 (5)庶民に対する諭書 彼はまた同年同月一般庶民に対して次のような諭書を発した。本文は冗長の嫌あれど人民に対して懇切を旨とした平易の教訓であるから其の全文を集録することにする。 今度申聞條々、心を静めてとくと承るべし 一、郡代は勿論、代官・庄屋共より兼々申聞置條々屹度相背申間敷事 一、凡そ人たるもの身の程を知るを第一とす、身のほどをよく知りて上よりの申付をそむくべからず、惣じて始よくて後にあしきより、始は骨も折れて難儀なれども楽々仕合よきがよく候、さればなに事も末始終其身の為になる事なら一且の骨折をいとふべからず。一心に農業をかせぎ、外の事に目をかくべからず。 一旦の骨折事をきらひなば いつか此世をらくにすぐべき 一、親に孝行盡すべし、いかやうかせぎても、親に不孝なればほめがたし。其外一家親類むつまじくすべし。是家はん昌のもとなり。もしじやけんの親、みぐるしきつまなどもちてもくよくよおもふべからず、親となり子となり夫婦となるも皆ゑんづくなれば、せんかたなしとあきらめ孝行を盡しむつまじくさへすれば、天道様御覧なさるゝ故、末始終あしき事はきつとなきなり。 親に孝一家親類むつまじく、 わらふてくらす身こそ安けれ。 一、農業をかせがず ふらふらと遊びおり、よからぬ事をもくろみ、又は遊びに長じてぢいおやより持伝へし田畑をあらし、はては売りはらひ、又はいはれもなく坊主になり、又は江戸其外他国へ出又は田をつくる事をきらひて町人となる。このようなる者を遊民といふ甚だよからぬ事なり。かやうのあしき心がけのものはきびしく咎め申すべし まかぬ稲はへしためしはなきものを かせがずば世をいかでわたらん 一、人のよき事をするとうら山しくおもひ、やっかむ心よりじゃまをなすやうの事すべからず、人のよき事するをうら山しくおもはゞ、おのれは猶よき事すべし。又あしき事は共々にきをつくべし。 人の事故どうなりてもかもはずなどと思ふべからず。惣じてひとりふたりの事のみにあらず、一村中によからぬ事なきやう、たがひに心付べし。 人々のよき事なすをうらやまじ おのれもなさぼなるべきものを 一、御年貢少しも滞らぬやう精々丹精すべし 誠実の心にて取扱ふ役人並に庄屋を大切に致し、おのれの都合あしきとて欺き偽るやうの事すべからず まことなる人をたうとみねても又 さめてもおもへ卸年貢の事 一、親切と情とは其身一生の宝なり。人に親切を盡し情をかくれば、其時は却って損をするやうの事又はつらき事などありても末始終はきっと仕合よし。陰徳あれば陽報ありとも、又情は人の為ならずともいふなり。みめ形のみ人にても、親切情の心なきは、食物を見てかみあひをする犬猫におなじ。是を人面獣心といふ。かやうの心根の人の家をば鬼のすみかとするといへり。恐るべし。 親切と情は人の為ならず 無慈悲は鬼のすみかなりけり。 右の條々堅相守るべし、おろそかに心得とがめ申付候ときにいたり後悔せぬやう平生心懸べき也 (小笠原長行公傳) (6)検見の弊風改革 農村においては風水旱虫害等の災害に罹った場合は、秋季収穫量の検査を願い出で、その実収に対して納税の高を定めて貰うことになっていた。これが即ち検見の法である。検見の場合は郡代以下係の諸役人が極めて多く−郡代上下四人・地方吟味役上下二人・同組頭上下二人・代官上下二人・徒目付上下二人・地方勘定二人以上、駕七挺・地方手代三人・代官手代二人・下目付一人・以上当番の外乗馬五匹・小使一人・計二十三人−儀式はいと厳重であっても、公平の検量は殆どなかった。ところが此等の諸役人の待遇費などの失費は頗る多く、其の失費は軽減量よりも却って多額に上る事が多かった。然るに諸役人は検見の出願を慫慂し、庄屋は其の意を迎えて其間に軽々の奸曲が行われたので、農民の困難は実に甚しいものがあった。 長行は之を察し、同五年(一八五八)十月突然二三の侍臣を伴って柏崎村の検見場に臨みて其の実況を目撃し、更に戒勅を加えた。爾後検見ある毎に自ら巡視するか、或は窃に侍臣を派して其の実状を視察せしめたので、弊風大に改まり、係束の数も減じ、手数も簡略となり、其の間の奸曲もやみ、農民は大に喜んだ。 (7)節倹箇條書 左に掲ぐるものは万延二年(一八六一)四月代官所より百姓に示された心得書である。 此頃は長行が諸政刷新に努めていた際であるから、これは彼が施政の細目を見るべく、以て農民生活の状態を知るに足る好箇の資料である。依って茲に集録することゝした。 一、衣料身廻之事 木綿下直之染色下直之縞に限り、都て目立不申様可致事、絹類一切無用、襟・袖口・髪掛に至る迄堅く相用申間敷事 羅紗布類・呉服無用・唐さらさ・唐木綿は御見逢之事、尤身分に不応目立候儀不致様、急度相心得候事、御得意以上男女とも、うけ入綿博多帯御見逢之事、莨入・羅紗布類並金銀金具きせる共、其外高位之品相用申間敷候事 御得意以上雨羽織・装束別段之事、金銀簪・鼈甲様笄無用 傘は問屋張に限り、御得意以上すきや張りの事、日傘は座判以上、女之分白張に限り候、以下日傘一切不相成候。 冠傘之儀真糸縫に限り、菅笠一切無用、皮緒道縞・中折レ・雪駄相用申間敷、尤座判以上下直之皮緒表付下駄御見逢之事、白足袋無用、下直之染足袋に限り、尤御得居以上は別段之事 但呼子・片島・殿浦・水主町・新堀・海士町之儀は座判以下之者も下直之皮緒雪駄迄は御見逢之事 且又水主町・新堀・海士町丈は白張日傘も御見逢之事 一、年始・年暮・五節句之事 新年之祝、神餅・門松・家内祝手軽に可致候事 親舅・近親に限り年餅一重軽き品取揃遣候得者別段、他向格別懇意之方へは御得居以上肴料三匁以下に扇子一対に限候事 役宅年礼 名頭・惣代之外門礼之事、村役人賄は肴二種・吸物一ツ・濁酒差出候事 組合庄屋組元にて相礼之事 酒肴料一人前二匁宛、又は酒肴軽き品持寄、速に相仕舞候事、尤賄之儀濁酒・肴・御吸物一ツ・汁・平・膾・吸物膳にて差出候事。 歳暮之品 親子兄弟恩儀に相成候方へは分限に応じ人道相立候様手軽に致候事 附り台弓手鞠親類たりとも遣取無用、代料にて一匁以下遣し候事 医師其外厚く世話に相成候方へは恩儀不失候様身分に応じ謝物遣し候事 雛餝、下直雛親類最合にて遣候事 段物餝付手入之拵方いたし候儀堅く無用、懇意のもの祝物遣し候はゞ一匁以下之事、他郷土雛遣候儀は不相成候事、幟之義近来手入之幟売買費相立候趣に付、身元可也の者は木綿幟二本限り、其外者下直之紙幟三本以下之事、祝物遣候はゞ一匁以下、尤上巳端午共総領に限り候事、祝物受け候処返礼餅等配り候事無用 附り親兄弟は別段、他向は隣家たり共酒肴取設案内客来不相成候事、且又諸節句之品遣候はゞ、親計り餅酒肴之類一品に限り遣候事、但幟之儀水主町・新堀・海士町・弓町並通御見逢之事 一、神祭盆祭之事 神事は濁酒取肴三種、膳部平膾、組平は五品以下、当一日に限り濁酒赤飯等、土産遣し候儀は近親たり共堅く無用、他向客来一切不相成候事、小祭は客来一切不相成候事 初盆、志之儀は親類並別て懇意の者に限り香典遣し候はゞ一匁以下、尤仏参の者へは有合の品にて手軽に取賄候事、為其酒食取設候儀は堅く無用、若者踊の義は不苦舗、持来之菅笠、盆中三日、見逢候事、為其笠・踊物等相調申間敷、やつし・三味線・太鼓等の取扱候儀堅く無用、但呼子・片島・殿浦・水主町・新堀・海士町・名古屋浦分之儀は盆やつし・三味線・太鼓御見逢之事 伊勢其外神参り同伴出会之事、年一度に限り銘々二匁宛出合せ、座元手出し不致極く手軽に取設け候事、尤同伴人数帰国致し、一人一度に限り再会堅く不相成候事 附り親類之外見送り坂迎留守見舞無用、餞別之儀は分限に応じ手軽に致し候事 一、婚礼方之事 結納扇子一対・酒二升・肴一籠・木綿帯一筋・木綿二反・茶包以下之事、尤分限に応じ手軽に致し候事 聟入扇子一対・酒三升・肴一籠以下之事、又土産物差向候はゞ極手軽之品遣候事 嫁入茶包・酒二升・肴一籠以下之事、尤舅姑に限り手軽之品差向候事 右賄取肴三種・吸物三ツ・膳部汁・平・膾・皿物以下之事、尤客来人数並加勢人夫等格別少略之事 同歓之儀、親類並格別懇意の者参候はゞ、酒肴二種吸物一ツ膳部一汁一菜、祝物遣候はゞ二匁以下之事、水祝ひ追酒盛堅く無用 一、元服其外祝之事 元服・紐解・〆祝・親類並格別懇意の者に限り候事。誕生・宮詣・疱瘡祝、近親並世話に相成候者に限り候事、右酒肴二種一汁一菜手軽に取設候事、厄祝之儀は村毎には無之候得共仕来候処は親類に限り極手軽にいたし候事 一、家建棟上並普請賄之事 棟揚職人賄、汁・平・膾・酒肴二種・吸物一ツ・祝物拾匁以下、並餅一重・塩一俵・茜五尺、尤身代宜敷者は木綿一反添遣し候事、馬屋小屋之儀は右につれ少略いたし候事、加勢夫賄之儀は有合にて手軽に取扱候事、居宅普請分限不相応花美之作事不致様村役人及指図候事、加勢之儀は濁酒にて可成手軽に致し候事 一、神講、願成就、馬庭、早苗登、講会 (右省略) 一、葬式年回之事 和尚賄、汁・平・酢あへ・酒・膳の中坪に入れ指出候事 道具洗・沐浴人・台屋人足には有合の酒少々為洛候事、其外酒取扱候儀一切堅無用、加勢人賄、汁か平か一つにて取賄候事、尤加勢人村々にて仕法相立、多人数相集不申葬式相成候丈の数村役人にて省略いたし、相互に懇に取計候事、且親類之外無出候儀不相成、極貧窮の者、手飯加勢之事、香料御得居以上二匁以下一匁或は五分之事 年回之儀、和尚賄、汁・平・酢あへ・酒出し候はゞ坪に入れ膳之中に居へ指出し、別段取肴指出し侯儀無用、親類並格別世話に相成候者案内、右に順し極々省略致し候事。尤可成□□□□之配餅之儀は親類限候事 一、諸勤め方の事 本業を怠り外業を心掛、自然と困窮に及び候者有之候に付、以後外業為致間候事、耕作専に心掛、植付・草狩・手入方時節に不殿様無油断為致候事、附り八月より二月迄、毎夜夜なべ怠りなく為致候事 御公役大切可相勤事、米納越夫等大勢相集候節、自然□□酒丈給、不風儀無之様相慎可申、若心得違之者有之候はゞ相互に吟味いたし、相用不申者候はゞ役所へ可申出候事 村の状持・走番・諸役目相勤候者、男女共雨天の節役場出入の同夫は別段先例の通簑笠相用、下駄傘等堅く無用之事 一、遊藝並風儀取締之事 於村々若者共浄瑠璃・三味線等遊藝之致稽古候儀百姓に不似事に付急度自分相慎み、右体之儀無之様可致候、万一心得違の者は役所へ届出可申事 諸役人へは勿論其外帯刀之者却て村役人にも不法無之様可致、近頃頬冠のまゝ通りぬけ候族も有之哉に相見、至て不風儀、以後不礼無之様可致事村に寄り聊心得違之者有之候得者、異見と号し、村役人へも不申出、数日大勢寄合勝手に飲食致し、其末雑費其者へ為出候様之儀も有之、甚た不宜敷、万一心得違之者有之候はゞ親類五人組にて実意を以て異見差加へ候様可致、右体大勢寄合勝手の費を掛け百姓相続も相成兼候様成行候に付、以後村役人より差図無之寄会決して不相成候、若し心得達の儀も有之候得ば、重立候者役所へ可申出候、尚又若者共其村之女へ他村より不儀密通の体有之候を見咎め、酒代等中越候様之族も有之、甚以不宜敷、其親類共に不抱不法取計度候得は重立候者役所へ可申出、不寄何事御法之通、村方寄会徒党ケ間敷儀決して致間敷候事 右者此度改てケ條之通被仰出候間急度相守可申候、尚御制服等相用候者於有之者見当り次第取揚候上御咎め被仰付候、此段兼て相心得可罷在候事 万延二年(一八六一)辛酉四月 御代官役所 (8)大に*(言ヘンの儻)議を徴す 安政五年(一八五八)十二月彼は再び諭達を下して大に文武を励まし、*(言ヘンの儻)議を求めた。 翌六年正月には医学館に臨み、授業の実況を視察し、学頭保利文溟を召して「如何様の妙術ありても実意がなければ役に立たぬ、術の精粗巧拙は様々あるべけれど、誠実を以て根本とする事が医師たるものゝ第一肝要の事なり.(中略) 多くの医師共へも心得違無之様時々申聞かすべし」(小笠原長行公傳)と諭した。 これより医学は大に盛んとなった。 彼は嘗て各種の実際問題を揚げてこれが対策として有効適切にして実行可能の方法を徴した。此時稲葉章輔は彼の諭達の語に、佐州公を大殿様とあるのは父上様とせらるることが妥当であろうと言ったので、彼は喜んで其様に改めた。また塚田某の建言する処は取るに足らざるものであったけれど、其の誠意を嘉して彼の職を昇して之を賞した。 また万延元年(一八六〇)九月目安箱を設けて衆庶の意見を徹した時、名古屋村の庄屋松尾平左衛門・同直太郎父子の意見は時弊に中っていたので之を採用し、態々名古屋城視察として出張し其の家に立寄り厚く之を褒賞した。 かくの如く其の隔意なき態度は上下藩民の憬慕措く能わざる処となった。 (9) 士民を救恤す 安政五年(一八五八)十二月、長行は家臣救恤のため窮乏せる財政の中より百石につき金三両宛の手当を給し、 来春は勢揃一覧の含も有之、旁々に付乍少分無理なる手段を以て当暮百石につき三両之手当差遣候、兼々差含候儀も有之趣申聞置候事故、今少し救助も致遣度候得共、不如意之勝手実以不任心底、寸志之印迄に候 (小笠原長行公傳) と達した。 彼はまた万延元年閏三月長崎巡視の帰途、畑島村の百姓岩助の祖母ふき女が百歳の長壽を祝して手ずから物を賜うた。ふき女は曩に手作の米一苞を献納すると、彼は之に酬ゆるに金銀を以てし、のち彼の病を聞き近侍を従えて其の家に至り、自ら莨に火をつけて之に与え且つ金・薬を給して帰城した。 同年八月にはまた領内の高齢をしらべ、八十歳以上の者には木綿一反、九十歳以上の者には同二反を賜うた。越えて文久元年(一八六一)二月には米三千俵と金百三十両を農民に、米百五十俵と金二十両とを市民に施して、別に米三千俵を農民に、金百五十両を市民に貸与して年賦を以て返納せしむる事とした。 上述の如く、彼は実に克く士民を愛撫したので、士民も彼を仰慕すること慈母の如く、彼の所謂人心一和の実が茲に実現せらるるに至った。 (10) 綱紀振粛 長行は万延元年六月老臣前場景福を罰し其の職禄を召上げた。是より前景福は暇を乞ひ、三社詣のため発程の日に領内相知宿に一泊し村中の婦女を集めて盛宴を開いた。此頃三社詣と称して一団の人々が醵金して抽籤により当籤したものは太宰府天満宮・筑後高良神社・肥後清正公を巡拝することとしていた。 長行は着藩以来屡々命を下して風紀の振粛を計ったが、其の実蹟はなかなか上らなかった。其処に景福の此の事があったので、法の行われないのは上にいる者が之を守らない為であるとし、之は痛く懲さねばならぬとして此の処置に出たものである。 小笠原藩主は長昌以来皆他家よりの養子で藩情に精通せず、請事概ね老臣に任せてあったため、自然老臣の専横を馴致するに至った。長行は入城以来種々改革の抱負を有したけれども多くは老臣に阻まれ勝で、加うるに江戸に於ては廃嫡論さえ起ったので、公は親しく父君に謁して之が解消を試みようとしたり然るにそれさえ老臣に阻まれて果す事が出来ず、不快の中に幾月かを送っていた。斯る処に景福の不都合が暴露したので、彼は断然景福を処罰し、一方には鳥羽信徳を江戸に遺し、父君に謁して詳に公の意のある処を愬えしめた。是に於て大殿も漸く疑惑を解き、廃嫡論の党領を糺し、足立兵左衛門・山崎源兵・吉倉唯一・青木呉平の四人を幽屏し無事に局を結ぶ事を得た。之より拳藩悚然として綱紀の振粛を見るに至った。 (11)大砲を改鋳す 長行は文久元年(一八六一)二月城下釜屋堀に於て大砲改鋳を行った。之より先彼は私に長崎奉行岡部駿河守長常に書を寄せて従来唐津城備付の大砲十門と幕府御預けの大砲二門とは実用に適しない故、之が改鋳を行いたい旨を述べて其の内意を伺った。長常は其の前例なきを以て之を幕府に稟請せしめた。依って長行は安政七年(一八六〇)三月之を幕府に申請した。其の伺書に 肥前国唐津城附大砲 一石火矢一挺 三貫八百目玉 唐銅長一丈 一同 一挺 三貫七百五十目玉 同銅長一丈 一同 一挺 三貫目玉 同銅長四尺一寸より一丈一尺迄 一同 一挺 一貫目玉 同銅長一丈二寸 一同 二挺 二貫六百目玉 同銅長九尺七寸 一同 一挺 二貫五百目玉 同銅八尺四寸 一同 一挺 二貫三百目玉 同銅長一丈 合拾挺 仝御預ケ 一石火矢一挺 唐銅筒三百目玉 損了 一同 一挺 同銅百目玉 一同 一挺 同銅五十目玉 右古来より城附にて引渡御座候処、古製の品にて取扱不便利に有之、右の内損し或は狂と相見候間、可相成儀御座候者当節軽便の製作に改鋳申度、専務之折柄附属之品々も実用に相適城附に仕直度、尤古製の品に付鋳減、個数も如元には相成間敷と奉存候、不苦儀に御座候故、此段奉伺候 以上 閏三月廿六日 小笠原佐渡守 とある。すると同年五月朔日を以て幕府より次の指令が下った。 伺之通相心得、尤是迄之挺数に不拘貫目相増候大砲鋳立候儀可勝手次第候 是に於て長行は藩士坂本次郎右衛門を長崎に遣し、勝麟太郎義邦・下曾根甲斐守に就いて製砲術を学ばしめた。次郎右衛門は其業を研究すること数ヶ月、業を卒えて唐津に帰り、此年二月始めて改鋳に着手し、二月下旬漸く四門−十八ポンド砲野戦一門・六斤砲野戦一門・十五ド井ム臼砲一門・二十九ド井ム臼砲一門−を改鋳した。翌四月一日領内妙見浦に於て長行自ら実地に試験射撃を行った。 (12)長行の平常 彼は政務の余暇には儒臣を招き侍臣藩士の学を好む者を集めて経史を講論せしめ、又共に胸襟を披いて世事を談じ、時に或は夜を徹することもあった。 また屡々志道舘や演武場に臨み、授業の実際を閲覧し、特に勉励衆に超えたるものは不次に擢用し、或は臨時に褒賞を与うるなど、文武の奨励に勉めた。 彼はまた一藩の世子たるにも拘らず麁衣麁食に甘んじ、内延の使用人の如きも僅に数人に過ぎず、其の質素なること往事の背山亭時代の生活と異らなかったという。彼は前に前場景福を厳罰に処したけれど、これは彼の平素の心事ではなく、止むを得ざるに出でた処置であった。されば文久二年(一八六二)正月には其の子小五郎に禄五百石(俵)を与えて先手物頭に起用し、また前に退けられた廃嫡論者の四人も、彼が閣老となるや先ずこれらを抜擢して要務につかしめた。(小笠原長行公傳) 彼は在藩僅に三年抜擢されて幕政に参与する事となり、留って藩政を見ることが出来なかったので、藩を挙げて愛惜しないものはなかった。 第三節 幕政参与上 (図書頭時代) (1)幕政論議の初め 長行は高橋の藩邸住いの頃より多く天下の志士と交り、憂国の情甚だ切なるものがあった。それは嘉永六年(一八五三)六月三日ペルリが浦賀に来て互市を迫ったとき、朝野をあげて囂々と和戦の利害を論議した。長行はこれ実に国家の重大事で黙視する場合でないと考え、同年七月水戸齊昭公に一書を送った。其の要旨は 互市の書は遅くて大であり、決戦の害は速くて小である。故に此の両説には従う事が出来ぬ。 とこれを排し、其の対策として「一国是を定むる事、二賢才を挙ぐること、三教化を敦くする事、四浮華を去る事」の四項を挙げ、一々其の理由を説明し、殊に籍四項には「長若 (長行の前名)が竊に近代の風俗を案ずるに、徴求は促急にして諸侯は困弊し、賦歛は過重にして民は告訴する所がない。浮文虚飾が相競ふて風をなし、貨賄は公行し、姦吏は人を悩まして居る」と時弊を痛撃し、「先づ浮華を去ったならば諸侯も百姓も財政は自ら足るやうになるであろう」と匡救策を提示し、「此の四策は迂遠に似たれど、本を厚くし内を和する術であるから決して迂遠ではない。内己に和し、外己に厚ければ、米英並び侵入しても懼れる事はない」と断案を下している。(原文は漢文で長々と認められている、依って其の要点をとって之を意訳した) 如上の論議は因習に捕われた幕吏や自己の領土維持に汲々たる諸侯らの敢えて能く言い得る処ではなく、只天下の事を以て自ら任ずる熱烈なる愛国の志士にして始めて能く成し得るものである。されば深く国事を憂慮せる水戸公としては長行起用の意志は多分此頃より動いていたものであろう。 (2)幕政参与の初め 文久二年(一八六二)六月朔日長行は父君に代って登営し、諸侯と共に将軍に謁見した式終って更に黒書院に於て将軍家より、「此度政治上の大改革を行ふから各心付の点を申述べよ」との口達を受け、老中より公武の間が何となく通徹していないから上洛の上其の融和を謀り、又従来の弊風を改革し、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民を安堵せしめたい御思召に付、各政治上の変革に就いて意見あらば忌憚なく申上げられたし」と、大要このような意味の達書が交附された。是に於て長行は次のような意見書を奉上った。 第一、公武御和熟の実意より御上洛を仰出され、天朝に仕へさせらるゝ至情は左もあるべしと感服申上げる。処が此の仰出に対して*(安頁)を蹙める者がある。之は前の日光参拝や和宮様御下向の時、道筋の百姓共が残らず人足に馳出され、業を廃し田地を荒し、中には粮米不足のため餓死するものも少からず、目も当てられぬ有様で、実に嘆かわしい事であった。加之上の用度は勿論諸侯の入費など其の浪費幾百万という事を知らず、この天下の疲弊と千萬人の怨嗟がすべて御一人に集った事があったのを考えて、今回の仰出に対して斯く痛心しているものと考えられる。」と、先年の大失政を赤裸々に指摘し、「それで此度は世人の意表に出る位に諸事簡略にせられたならば中興の名君ともなられようが、若し此の上に天下の疲弊を相増すようの事があっては乱是より生ずるかも知れぬ」と思切った苦言を呈し、「何卒断然厳格なる規定を設けられるように」と結んでいる。 第二に、「人君に大切なるものは位である。位は権柄によって保たれ、権柄は賞罰によって維持される。故に賞罰が当を得れば権柄は招かずして帰附するも、当を失すれば忽ち去るものである。乍恐近来賞罰が往々姑息に流るゝ様に申す人がある。此度は改革の手始であるから、此上にも公明正大に処置せられたならば、天下の人心も自然と帰服して治世萬々歳であろう」と論じ 第三に、「世上益々奢侈虚飾を衒い、物価の騰貴は古今に比なく、上下共に困窮して乱を思うようになっている。かゝる時節故なまなかの改革ではとても立直は出来ぬ、依って弊害の由って来る根本を乱し、其の根本より改定せられたい。改革の成否は根本の改革であるか否かにある。故に其の根本の調査が肝要と考えられる」と説いた。 以上三ケ條の建言は随分思切った直言で、是れ長行が幕政関与の最初である。此時幕府は諸政改革によって失墜した権威を恢復しようと懸命になっていた際であったから、長行は忽ち抜擢され、翌七月廿一日奏者番に任ぜられた。 (3)奏者番の改革上申 奏者番は諸侯以下の者が将軍に謁見するとき、進見者を伴い進献目録を披露すること、其他殿中の礼式に関する事を掌る職で、其の器量によって若年寄・老中にも至る譜代大名の出身階梯であった。彼は奏者番となって居ること一ケ月余にして其の弊風の甚しいのを知り之を改められん事を上申した。其の大要は 一、奏者番御役之儀は請謁を掌り老君に続候多き御役義にて、人才を御試み被遊候局と奉存候、(中略) 勤向の義古役の者より追々伝達有之候処、第一番に申開候は同役部員に罷在候節、新古之礼格別厳重に相守、箸のころぴたる事も一々問合、寸分にても古例に違候挙動不仕、部屋内に罷在候ては新参の者より古役の者へ口きゝ候事も差控事 (中略) 新古の差別天と地の如く相心得候様厳敷申付置候様申渡候 (中略)愚眼中には尤紛冗猥雑を極め候様見受、衰世の弊と嘆息仕候(中略)鋳形にて鉄砲玉を鋳る如く、法を以て束縛仕り、剛柔緩急皆一様に相成候様人を仕立候事と相見え候、左様にては萬一の節の御用に相立申間敷(中略)かゝる天蹶の時節に向ひ候へば、瑣末の義不残お止被遊、只々人材を御養成被遊候御主意に断然御改革相成候様奉存候。 一、当局流弊多き中に 一、流義之事 奏者番勤向之義に付懐本流・訳本流と申候て二つに分れ、是を流義と唱へ候由、一体弓馬槍剣共後世は流義と申事始り有志之士は武之衰と歎息仕候、殊に堂々たる厳廊の上において流義と唱候事有之間敷義歟と奉存候 一、師匠番之事 文にてもあれ武にてもあれ、其道を伝へ候を先生師匠と相唱候哉に奉存候、右師匠番之義は全く動向の進退を伝達仕候事にて道を伝へ候訳には無之歟、然らば師匠の名目を相止め、何とか唱替(中略)相改候様被仰出候て可然哉に奉存候 一、押合方之事 押合と申候は御納戸方御賄方等御用筋の義に付主人に替りて印形を押合候役の由、又一つには主人勤向之義等深く探索仕り時々集会等仕り、懇意取結置、主人不行届有之節は傍より助け候事と相見え候、乍去追々見聞仕候処畢竟公務筋に拘り候義は少く、同役中の礼即ち進退周旋の取扱を専務と仕候哉にて、結局押合方有之故誠にむだの手数相懸候様奉存候、前文申上候通り御改革被遊候はゞ押合方相止候ても差支有之間敷哉に奉存侯 右三ケ條杯は一番に御改被遊候て可然哉(中略)世人の言に、諸役中風儀悪敷は奏者番・大番・百人番の三役に御座候て、奏者番殊に甚敷趣申ふらし候。虚実は兎も角も、右様風聞仕候様にては、外々の手本はさておき自然御役威にも相拘候と甚以歎敷事に奉存候 一、近来世上の形勢を熟慮仕候処、何となく四方不穏、殊に京師の模様ちらちら承候儀も有之、余程御心配の御儀かと奉存候、尤不取留巷議浮説の儀に御座候間事柄は不奉申上候得共、大藩諸侯大分跋扈仕候趣故終に不容易義出来可仕哉も難計奉憶察候、天子の命を被遊御遵奉候は如何にも御柔順に無之ては不相成義に御座候得共、禁固之御規則は厳確に不成為立置候はでは此節柄中間に雲霧差起り偽命杯の懼れ無之とも難申上奉存候と開陳し、更に本年七月以降の天候の不順を以て天地の攝理に稽え乍恐御政治向姑息之御処置あらせられ候か諸役人勤筋に私曲を挟候か、或は上下の情隔絶姦人上明を蔽候か、抑又公武御間柄未だ真の御和熟に至らせられざる処御座候かと考え、心中何となく穏かならず、憂愁の余り之を占った処然らば一時は甚だ危く候得共、挙措宜を得候得ば必御安心の場合に至らせられ可申 と判定し 右等は役外の事に候得共心付候まゝ奉中上候、 と長文の建白をした。之は文久二年(一八六二)八月十日の日付である。 斯くて間もなく奏者番は廃され、同月十九日には若年寄を命ぜられ、職俸五千苞を賜り、同月廿七日に聖堂及び医学館の係となり、翌九月十一日老中格を命ぜられ、同年十月朔日外国御用船取扱に挙げられた。比の期間中に於ける彼の重要なる政績は井伊大老等の追罰と生麦事件の善後処理との二件であった。 (4)井伊大老等の追罰 前に井伊大老が勅許を待たずして仮條約に調印したゝめ国論の沸騰を来たし、延いて公武の融和に支障を来した事は井伊大老を初め安藤・内藤・久世三閣老の罪である。よって是等を追罰し且つ井伊氏を助けた有司を黜罰して罪を朝廷に謝し人心を緩和し以て公武の一和を計るべしとなし、松山侯の同意を得て夫々之を追罰した。 井伊大老追罰の罪案は左の通りである。 井伊掃部頭 其方父掃部頭義重き御役相勤、御幼君御輔佐に付ては萬事御委任被遊候処、奉対京府被悩宸襟候様の取計致し、公武御合体方にも差響、天下人心不折合の基を開き、且賞罰黜陟共我意にまかせ、賄賂私謁の義も不少、上の御明徳を汚し、不慮の死を遂候に至ても奉欺上聴候段、追々達御聴、重々不屈至極に被思召候、屹度も可被仰付処死後の義にも有之出格の御宥免を以、高之内十萬石被召上候 蓋し長行の考えは開港は己むべからず、攘夷は到底行わるべきものにあらざることを、條理を盡して解説すれば、勅許は必ず得らるべきものと信じ、之が方法を講ぜずして専断を以て條約を締結したのは不都合であるとの見解であった。 彼はまた将軍に勧めて次のような謝罪文を朝廷に上らしめた。 臣家茂奉職以来政刑錯乱、終に奉悩宸襟候事不少、畢竟委任其人を失候より如此に至り、当職の過誤難遁不堪惶懼之至候、仍て此度辞官位一等奉謝多罪萬分の一度、聖明照察之上、願の如く勅許被成下置候様伏て奉希候、恐惶謹言 此の官位一等辞退の願書は其儀に及ばずとの勅答を賜った。是より朝廷との感情も次第に改まり、公武一和の光明も漸く見えて来た。処が一部尊攘論者は之を喜ばず、攘夷を強要して倒幕の具に利用したので、幕府は全く窮地に陥り、文久三年(一八六三)四月十一日将軍家茂も後見職一橋慶喜も病と称して攘夷の節刀を辞退するの醜体を演ずるに至った。 (5) 生麦事件の善後処理 文久二年八月廿一日島津久光が勅使護衛の使命を終えて帰国の途中、生麦村に於て騎馬の英人が鹵簿を駆抜けたので、藩士が怒って直に其一人を殺し、三人を傷けた。依って英国公使ジョンニールは幕府に迫って其の処分を要求した。幕府はたゞ遁辞を設けて談判は一向に進行しなかったので、翌三年二月軍艦を神奈川港に進め、大要次のような要求を提出した。 一、英国士官を殺害した島津藩の家臣を厳罰に処すること。 一、幕府は償金十萬磅を英国に支払うこと。 一、被害者の遺族扶助料として一萬磅の支払を薩藩に命ずること。但し幕命を奉ぜざれば英國は直接彼と談判を開く事とする。 右の條件に対して廿日間の期限を附して幕府の回答を迫った。時に文久三年二月十九日であった。此時将軍家茂は上京して不在のため、老中らは策の出ずる処を知らず、都下民衆の動揺実に甚だしく、尾州侯の如きは急ぎ夫人を名古屋に送還した程であった。此の報に接した将軍は三月廿一日を期して退京しようとすると、朝廷よりは留って京師を守護するようとの勅諚が下ったので、将軍は東帰を思い止った。然るに松平春嶽は重任に耐えずと辞表を提出して倉皇として国に帰った。是の時長行は長文の建白書を将軍に呈して次のような強硬意見を開陳した。 勅命にさへ候得ば利害得失を不被為計只管御遵奉相成候ては所謂婦女子の所為にして、御職掌に被為在候御処置とは決して不奉存候、此理能々御究速に御勇断、御諌争被為在候様千々萬々奉懇祈候、萬一是が為に却て御不首尾の義等出来仕候御場合に被為至候共、此機会に臨候ては夫等の辺には更に御頓着不被為在、只民命を被為救国脈を被為存候大義へ御着眼を被為据、断然と御処置を被為施、天朝御尊崇の御真意、御事業上に相顯れ候様有之度奉存候、雖然決して攘夷は不被為出来と申義には無之其御策略軽重緩急得宜候事、尤緊要と奉存候、此味は何分紙上に難認取候間無據文略仕候、只々不堪痛哭悲泣の至、不願恐此段奉申上候、猶御直に御尋御座候はゞ委細口上にて可奉申上候。 処が三月廿三日には長行に対して一橋侯に先発して東帰し、開港拒絶と生麦事件の談判を為すべしと台命があった。長行は其の不可能を知り之を辞退したけれど許されなかったので、悲壮の決意を以て三月廿五旦京都を出発した。将軍家茂は長行の心中を察してか、急使を遣わし職俸加増の恩命を伝えしめた。長行はこの恩命に痛く感泣し、辞退の意を水野・板倉の二閣老に寄せてその執達方を依頼し、旅程を急ぎ四月六日江戸に帰着し、其の処置に関して一般有司の意向を徴した。当時一般の意向は、償金は支払い、開港は我が国情を告げて拒絶すべしという意見で、断然拒絶して兵端を開くも可なりとなすものは内外の情勢を知らざる一部在野の有司であった。かくて四月廿一日の幕府の会議に於て外國奉行沢簡徳は償金支払の反対意見を強硬に主張すると.尾州侯は簡徳を叱して之を退席せしめた。この沢簡徳は長行の推薦する処で、四月朔日に免職されたのを本人には通告せずして此の会議に出席せしめたのであった。此の時水戸侯慶篤は将軍の御名代役であり、尾州侯茂徳は将軍上洛中の留守役であった。此の二人が共に三関老−亀山侯松平信篤・浜松侯井上正直・及小笠原長行−連署を以て五月八日と定めた償金支払の証書を交附すべしと逼ったので、長行も己むなく之に従った。此の時の事情は図書頭が水野・板倉両閣老に寄せた書状(下案)に 今度の儀、全く尾・水両公の御英断より出候事にて、兼々一橋殿尊慮並に御所中の御見込とは相違致候得共、事情か様に無之ては不相成勢、水戸殿には御目代被蒙仰、小生には乍不肯御委被下候事故、後日の利書得と相考へ、両公の御指揮を奉じ、臨機の取計仕候段、篤と御推察、関白殿・一橋殿へ御辨開伏て奉希候 とあるのを見て知る事が出来る。 然るに京都の形勢は攘夷の気勢愈々高まり、一橋侯は勅を奉じて東帰するに先だち、水戸藩士武田耕雲斎を先発せしめ、償金は支払うべからず、開港は拒絶せよと閣老に通告せしめ、自分は四月廿二日京都を発して東帰の途中、同月廿六日附でヽヽ廿二日致出立、来月八日九日頃帰府の積、乍然河留にても有之候はゞ日延に可相成左候ては十日の間に合ひ不申候に付、兼て諸藩一同人望帰し居候事故、武田耕雲斎を先へ下、応接振等の義各々方と談可申旨申遣候、多分来月朔日二日頃には帰着と存候間、着の上は能々御相談被成候様存候云々 (小笠原長行公傳) と閣老に書面を送った。身は後見の要職にありながら国家存亡の危機に際し、大事を閣老に委ねて悠々東下するとは無責任の程も亦甚しい。また水戸侯慶篤は京都の情報を得て忽ち前説を一擲し俄に償金不払に変説した。斯る無定見の人が将軍の御目代である。前には松平春嶽侯の総裁職辞職と云い、尾州侯の狼狽振と言い、今又一・水両侯の行動と云い、幕府の柱石たる者が皆斯の如き体たらくでは幕府の崩壊は必然の勢と見なければならぬ。 五月二日図書頭長行は支払期日も愈々切迫したので、英艦に就いて談判を始めようと、松平・井上の両閣老に謀ると、二人は病に託して登営しないので、己むなく独断を以て其夜支払延期の請求状を書いて神奈川奉行浅野氏祐をして英艦長に送らしめた。艦長は之を見て日本の不信を怒り、軍艦に釜を焚き始め江戸湾進入の気配を示したので、翌三日浅野氏祐は倉皇之を江戸に報告した。それで四日には幕府の有司は元より、水戸侯を始め、武田耕雲斎らを加えて対策を協議したが、中々一決しない。長行は一橋侯の厳達もあることゝて、世間には上京を命ぜられたと称し、自ら横浜に至り留って交渉を要求した。英艦長は一向之に応じないので、八日早朝蟠龍艦に乗じて英艦に至り再三面会を求めた。然し我の申出が真剣になればなるほど、彼は益々強硬に拒絶して取合わなかった。 長行は一旦約束しておきながら之に違約するのは曲我に在り、我は信義を重んじて償金を支払う事にし、一方に開港以来民心激昂の事情を述べて拒絶のやむなきを承認せしめようと考え、開港拒絶の請求を提議した。之に接した英艦長は益々暴慢となった。この夜一橋侯は江戸に帰着し、外交情勢の急迫に驚き、密に外國奉行井上信濃守清直を横浜に遣し、図書頭をして償金を支払わしめ、然る後直に英艦に乗じて欧米に赴き、各國政府と鎖港の談判を開くよう勧めた。是に於て長行は翌九日遂に独断を以て償金十萬磅(我が二十六万九千六十六両二分二朱余)を交附し、洋行の件は其の趣旨が不明であったゝめ従わなかった。 十一日図書頭が江戸に帰ると、一橋侯より速に上京して事の顛末を具状せよと命ぜられた。さらば侯と同行しようと其の上京を待っていると、意外にも侯は後見職の辞表を提出し病と称して登営しないので、長行は急ぎ上京の事に決し、廿五日井上信濃守・水野癡雲・浅野伊賀守・向上栄五郎等を伴い、江戸を発し神奈川に至り、蟠龍艦に乗って発航した。 此時に二條警備・攝津守備の役に就くべき歩騎両隊の総員千七十五人も雇入れの英艦に乗って之に随った。艦は同二十九日兵庫に着き、翌六月朔日の払暁大阪に至り、即日将軍に謁するため入京の途についた。 是より前、尾・水同家は窃に人を京師に馳せ、生麦事件の償金を支払ったのは図書頭の専断で、彼は兵力を以て勅許を強請しようと海路上京したと報じた。此の報に接した京紳の驚き一方ならず、既にして其の一行が伏見まで上ったと聞き、急に伝奏をして其の入京を差止むるよう在京の閣老に厳達せしめなお関白近衛輔煕は夜中急使を尾州老侯(慶勝)に遣わし、彼の入京を差止めん事を乞うた。之は六月一日亥の刻過のことであった。 長行が二日橋本に至ると、京都より入京差止の役々が来り、種々交渉に空しく数日を過し、十日に至りて遂に免官となり、大阪城に逼塞を命ぜられ、尋で償金支払の次第と、押して上京の理由の二ケ條に対して訊問書が発せられ、右答辨書を閣老宛に差出すべき旨の通達があった。長行は六月十二日付を以て大要次のような答書を提出した。 ヽヽヽ最初は尾州殿水戸殿より先づ償金遣し候上にて攘夷の応接に取かゝり候やう度々仰せ聞けられ候へども、それにては甚だ御不都合につき、たとへ償金遣すに致せ、先づ一応攘夷の応接候後に無之ては宜しからざる旨遮て申上候処、然らば証書計にても先に遣しおき候様強て仰せ聞られ候間、是れ以て宜しからざる旨再三申上候へども御聞入これなく、其外豊前守殿・河内守殿も強て差遣し候様申され、終に豊前守殿・河内守殿・私連名の証書だけ差遣し候と尾水両侯と両閣老の償金支払説に断然と反対したことを明かにし、次に 然る処四月廿二・三日頃の事と存ず、彼より四萬弗先づ御遣し被下候様願出候に付、又候是非遣候様、尾張殿水戸殿仰せ聞られ、其外満朝残らず遣し候様申聞け実に喧しき事に御座候処、私一人不承知にて既に寺社奉行などは私の前に詰掛けて大議論仕り、漸くの事にて差押へ、其日に遣し候は見合せ相成候へ共、尾張殿水戸殿大に御立腹何れも立腹の様子に御座候、其後水戸殿より償金は決して差遣さざる事に治定致候趣、京都に仰せ遣はされ候由、跡にて承り候、御引込み迄は私は御一言も伺ひ申さず候、豊前守殿河内守殿へも承合候処更に伺はざる旨申され侯 此文によれば水戸殿が長行を欺いていることが明かである。 其後も日々償金適不適の論のみ烈敷既に五月四五日頃の事と相覚え候、償金儀は暫く差延べ、攘夷の応接致し度く面会の儀英の船将に申遣し候、其節の書簡は豊前守殿・河内守殿御連名は堅く御断に付據なく私一人にて書翰差し遣し候 之は豊・河両閣老の軟弱外交と責任廻避のためであったのではあるまいか。 其後三港拒絶の儀仰出され候に付早々右応接に取かゝるべきの処、一橋殿よりは五月十日前にても応接に取かゝり候様御旅中より仰せ越され候へども武田耕雲斎は何分不承知にて十日後に無之ては不都合の旨強て差留候間 一橋侯の使として来た耕雲斎は形勢の急迫を見て却って軟論を唱うるに至っている。 一旦は其意に任せ応接見合罷在候得共熟考仕候処、私儀折角応接御委任も有之事一橋殿御着前一応接も仕らず候ては相済まざる儀と心付候間、横浜へ罷越面会申込候処断り候に付、猶又再三申込候得共、何分承引仕らず、其頃は最早償金の義などは一言も申さず、只々日本は不信不義の国とのみ申居、既に各国へも触れ流し候故の趣承り候(中略) 此度償金の一條より無尚の悪声を蒙り賎悪致され候事此上の御國の恥は之あるまじく、残念至極に奉存候、且つ面会致さずと申候ては差向き御差支に相成り、それも曲彼に御座候得ば聊頓着致さず候へども、前文の次第故無拠五月九日償金相渡し候は我独存の差図にて取計候へども、元来衆議己むを得ざる次第に御座候、扱て同時に近日応接に及ぶべき段書翰を以て申入候処以ての外激怒の返翰差越当惑仕候 真面目な図書頭が此間に在って種々に苦辛した有様が窺われる。 折柄一橋殿より極々秘密の御使として井上信濃守を遣され、償金早々差遣し直様英艦に乗込各国へ使節として罷越候様仰せ遣され候へども、御主意も辨へず、うかとも罷越兼候趣申上候処、猶又御使にて早々帰府仕候様仰下され候間即刻帰府仕候(原文は漢文体の消息文である。其要旨をとって之を書下しに改めに。詳細は小笠原長行公傳参照の事) 一橋侯の直意は何の辺にあったか不明であるが、思うに図書頭をして責任を一身に負わしめ其の攻撃の冷めるまで身を海外に避けしめ、又一には図書頭が鎖港の交渉中との遁辞を設けるためであったのではあるまいか。兎も角此の答辨書によって償金支払の経緯は明瞭に知る事が出来るのであって、糾弾すべきものは他に存する事が知られる。 次に押して上京の理由について左のような辨明書がある。 一押して上京の上攘夷の叡慮に可及と相巧候義と御疑惑の事 ヽヽ右者一橋殿御着府の上御目通仰付られ、種々御談判御座候内償金の義は遣し候上は上京致し候て其の次第申上候やう度々仰聞られ、猶役々へも仰聞けられ候 と上京の動機を述べ、次に一橋侯と同道の積りでいたのが、同侯の辞職によって単独上京の事となった事情を述べ 右の次第故追々御延引に付ては償金の義申上も彼是遅く相成候に付、私儀早々上京仕り償金の義並に一橋殿御上京御延引の次第等申上候様猶一橋殿へも一刻も早く御上京の義御勧め申上べき趣、豊前守殿河内守殿其外役々にも申聞、則ち上京の御達も御座候に付、御受申上候 風邪にかゝり出発が延引した、かくて病気を押して取急ぎ発程することにして使を以て一橋侯に通知し侯と交渉の上 終に御会得相成勝手次第上京仕り候様仰せ聞けられ候間、金川出船仕り候、尤も発途の砌差上候書状未だ相達せざる内、御使等下され、少々御張込候の義も御座候へども之は全く行違にて暫時に御了解に相成候 と出発前に一橋侯と行違のあった事情をも明かにし、 扨大阪より上陸橋本まで罷越候処、私上京御差留の義承知仕候へども、同所は小駅にて実に不都合の事ども有之、淀は僅一里の事故淀まで罷越、差控へ慎み罷在候義にて元より押て上京仕り候心底は且以て無之、御推察希ひ奉り候 (償金の義につき差控罷在候様和泉守殿周防守殿より江戸表へ申遣され候由の処、右飛脚着府前出帆せしめ候間、承知仕らず候) と淀まで進駐の事を述べ、攘夷については 実に皇国の安危永世の御栄辱にも相拘り候義聊か心付候義も有之候間、償金の事申上候序、公方様へ言上仕候心得に御座候、不肖之身分、重き役柄をも相勤め居り、心付候義言上仕らず候ては不忠の極此上なき大罪と奉存候、尤も御取捨は上に在らせら候事故、只々献芹の徴忠を盡くし候のみに御座候 と飽くまで自己の責任を盡くし 恐れ乍ら御所に対し奉り、彼是建白ケ間敷義仕り候所存は最初より更に之なく候、攘夷の叡慮に反すべきと相巧み候義との御疑惑は誠に存もよらざる義、実以て驚き奉り候、畢竟叡慮を奉戴仕り度き至情より愚意をも申上げ奉り度く存じこみ候外、他事御座無く赤心の段御諒察奉願上候 六月十二日 図書頭 と結んでいる。長行が此の答書を提出しようとするとき、閣老より使を以て井上・向上・水野の諸氏が提出した答書を示し、事実是に相違ないかと質し、且つ此の諸氏を率いて西上した理由をも述べよとの命が伝えられた。 よって次のような答書を提出した。 一、井上信濃守義は過剰差上候御答書にも相認め候通り一橋殿よりの御使相勤め候者故萬一御尋ねの事も有之べき哉と其心組にて召連れ候事に御座候 一、向山栄五郎は附添一通に御座候 一、水野癡雲は外国事情最初より能く承知致し居、其外萬事に熟練仕り候もの故召連れ候事に御座候 周防殿御旅宿へ罷出候様達し候は兼て御懇意にも候間何角の御相手にも相成べく、当人都合も宜敷と存じ、右様申達し候事にて、周防守殿御同意も相伺はず取計申達候段は深く恐れ入り奉り候 一、騎兵・歩兵頭を初め多人数召連れ候義は第一久々御機嫌も相伺はず、且つ世上にて色々の風聞之あり、上の御身の上深く御案じ申上候に付、上京致し、二條其外海岸等の御警備仰付られ次第相勤むべきと存じこみ、度々上京願出候へども、差留めおき候処、此度私上京仕候に付、是非召連れ呉候様申出、強て差留候ても迚も相用ひまじく見請け候間、己むを得ず海陸に分け海路の方召連れ罷出候儀に御座候 三人並に騎兵歩兵召連れ候意味如此に御座候、乍去是は江戸老中衆とも御談申候事故一応御尋ね御座候様奉願候 と、一々明細な答書を提出した。処が閣老は之を見て尾・水両家の身上に問題を起し、延いて幕府に累を及ぼしはせぬかと心配して、述ぶる処は事実としても其事が諸方に関係するから朝廷には上り難い、たゞ専断を以て償金を与えたのは恐れ入ると改められたしと、大阪城代から其の意を伝えしめた。長行は是は事実であるから隠す事は出来ぬ。然し之が幕府の累となるならば強いて我意を徹す事はしない。 唯此書を台聴に達して貰えば幸であると 如何様申込候ても償金不相渡内は面会不致と申居候て応接も出来兼候間、無拠渡方差図は私獨断にて取計、恐入云々 と答書を改め、前の答書と併せて城代に交附した。 京都では攘夷派の憤慨甚しく、彼を以て違勅の厳罰に処すべしとの説もあった。然し幕吏等は彼の処置を以て己むを得ざるものとなし、将軍も亦特に書を与えて慰諭し、逼塞は朝旨を体した表面の譴責で内実大阪城代の待遇も慇懃を極め、何等罪人扱いはされなかった。超えて七月八日江戸へ東下の命に接し、十日順天丸に乗って大阪を発し、十四日品川につき、之より堂々儀伐を整えて櫻田藩邸に帰った。 其後幕府よりは何等の処分は無かったけれど、彼は一向に謹慎を続けていた。 (6)貨幣改鋳の建白 長行は謹慎中と雖も憂国の至情と幕政救治の誠意とは片時も脳裏を去る事を得ず、時弊匡救の根本策は弊制の確立にあることに想到し、遂に貨幣改鋳の建白書を閣老水野氏によって之を台聴に達せられんことを請うた。之は文久三年(一八六三)十二月三日のことであった。其の要旨は抑々物には本末あり、事には綬急あり、其本を不正候得は末は決して治不申、其急を不救候得ば本を正侯事も必出来不申候、方今天下騒擾仕り、萬民安堵の途を失ひ、或者殺傷の害を受け、或者放火乱妨の災に罹り候者不少、寔以可哀の至と奉存上候、箇様の形勢と成来候由を推考仕候処、其本は畢竟四海の困窮より生じ、其困窮の大本は一に制度の乱より無量の百弊を生じ、今日の形勢に推移候事と奉存上候、偖猶又其最大本源を推究め候へば、是皆金銀幣の古制度を失ひ候より生じ候事に帰し候と相見え候、夫金銀は天下の至宝にして其制度の得失に依り世治の隆替、風俗の厚薄をも相開き候ものにて、政化の要具是より大切なる者無御座候、国初慶長・元和の頃は純金行はれ候て風化も篤く、人気も穏に候ひしに、元禄八年に至り吹替の一挙より金銀の位甚悪しく相成、物価俄に貴く世人大に苦み候処、正徳・享保に至り御深遠の尊慮被為在、純金に御直し被遊、四海其徳沢に浴し、御中興とも奉仰難有事に御座候処、其後文政・天保に至り、度々の御吹替にて其位益々悪敷相成、世上難儀仕候末、今日ドルにて銀御吹立相始り候てより、貨幣是迄未曾有の薄悪を極め、其為物価一時に相倍*(クサカンムリに徒)仕り候、右等を以相考候得ば世人朝夕の立行も不相成様の世界と成来り、人気騒立候も全く貨幣の古制度地を払て失い候より相生じ候事と奉存上候 (中略) と、今日世相の不安は貨幣制度の紊乱によることを述べ、当春将軍上洛の入費と本丸炎上の失費が一時遣繰りが着いたならば、貨幣改鋳を行って幣制を整える様にせられたい。 乍去、是は一朝一夕の事に無之至極の大事業に御座候間、全く御聖衷より御英断被遊、総督の人も御目鑑を以て能々御撰択有之、成功迄の間は御掣肘遊はされず、厚く御委任無御座候ては迚も御成就には相成間敷奉存上候 (以下略) と将軍が一大英断を以て此の大難事に臨まれん事を進言した。然し倒壊に頻した幕府には斯る根本的の問題を取上げる余裕も之を断行し得る人物も無かつた。 |
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第四節 幕政参与 (壱岐守時代) 下 (1) 政局の変化 図書頭の謹慎中、天下は益々多事となり、薩英の開戦(文久三年七月廿日)、攘夷派の失脚(文久三年八月十八日)、七卿の脱走(同月十九日)、長州征伐(元治元咋七月廿三日)等の大事件が次々と発生した。 征長の軍起るや、唐津藩主佐渡守長国は幕令によって藩兵二千四十三人を率いて小倉に出征したが、長藩の謝罪によって和平成り、慶応元年(一八六五)正月三日唐津に凱旋した。 是より前、唐津藩士大野又七郎右仲は脱走して京師に入り、会津藩士に結び、其の紹介を得て関白二條齊敬の用人高島右衛門によって図書頭が嫌疑を受けた当時の事情を分疎し、且つ京都町奉行永井主水正をして一橋家に説かしめ、一方には薩・土・肥後・久留米諸藩の在京諸士も彼の再起を望んだので、遂に朝議も之を許して謹慎御免となった。時に元治元年(一八六四)八月廿八日で、翌月十六日は幕府より慎不残御免、前日之通諸太夫被仰付、並嫡子之通心得候様、被仰出候と通達があり、その翌日壱岐守と改称し、慶応元年九月四日老中格に復せられた。 (2)御所会議 前に恭順の意を表した長藩は高杉普作らの奮起によって再び反抗の形勢が強くなったので、将軍家茂は再征の令を発し、西上して大阪滞在中英・米・仏・蘭の公使が軍艦をもって兵庫に来り、兵庫港の開港を強要し、許さざれば入京して直接勅許を得べしと逼つた。開港の許可などは到底望むべくも無いので家茂は進退谷まり、辞職東帰の意を決し、十月三日大阪を発して伏見に至ると、一・会・桑の諸侯に諌止せられ.二條城に入って病と称して出なかった。是に於て一侯が代って入朝した。 此の日夕刻壱岐守は一侯に従って会・桑両侯らと共に参内して開港勅許を懇請し縷々内外の情勢を説いた。然るに廷臣らは猶頑強の議論を持して之を弁駁し、議論はいつ果つべしとも見えなかったので、壱岐守は遂に励声一番「斯くまで理解申請するも御許容なきに於ては、皇国のため御所を一歩も退かず畏れ多くも一同此に割腹して天座を汚し奉る」と強弁した。是に於て在京諸藩の士を会して衆議に諮うことゝなり、十月五日早朝より鹿児島藩士大久保一蔵・内田仲之助・井上大和・久留米藩士下村貞次郎・久徳与十郎、鳥羽藩士安達精一郎、桑名藩士岡本作右衛門・三宅彌右衛門・森彌一右衛門・立見鑑三郎・高野一郎右衛門、福井藩士小村資三郎、高知藩士荒尾騰作・喜多村彦三郎・津田斧太郎・柳川藩士宮川登三郎、岡山藩士伊藤佐兵衛・澤井卯兵衛・花房恵一郎・熊本藩士山田駿河・会津藩士野村佐兵衛・大野英馬・依田依登・外島機兵衛・上田伝次・廣沢富三郎・芝太一郎・鷹島藩士熊谷兵衛・福岡藩士本郷吉作、金沢藩士里見寅三郎、津藩士戸波明三郎・沢井宇左衛門らの名士三十余合が参会し、公卿も其座に臨み、壱岐守が幕府を代表して議長となり二大会議の開かるゝことゝなった。此の時議案となったものは次のような幕府の上奏文であった。 此程不料外国船兵庫港渡来、條約の儀改て勅許有之候様申立、若幕府に於て取計兼候はゞ彼闕下へ罷出直に可申立旨申張、種々力を盡し応接仕、来る七日迄為相控候へ共、何れにも御許容無之候ては退帆不仕、去迚無理に干戈を動し候へば必勝の利無覚束、仮令一時は勝算有之候とも西洋諸国を敵に引受侯時は幕府の存亡は姑く差置終には宝祚の御安危にも拘り萬民塗炭の苦に陥り可申、実以不容易儀にて、陛下萬民を卸覆育被遊候御仁徳にも相戻り、仮にも治国安民の任を荷候職務に於て如何様候沙汰御座候共施行仕候儀何分にも難忍奉存候。 右の処篤と思召被為分早々勅許被成下候様仕度、左候へば如何様にも盡力仕、外国船退帆仕候様取計可申奉存候。 十月五日 小笠原壱岐守 松平越中守 松平肥後守 一橋中納言 飛鳥井中納言殿 野々村中納言殿 此の議案に対して諸藩士は各々疑義を質し、意見を述べ、壱岐守は一々之に応答し、薩・備等の反対が有ったけれど、会・桑以下諸藩の賛成によって議案は遂に一決し、直に其趣を奏上し、夜に入って左の通り勅諚が下された。 條約の儀、御許容被為在候間、至当の処置可致事 家茂へ 別紙の通被仰出候に付ては、是迄の候約面所々不都合の廉有之、不応叡慮候に付新に取調替相窺可申諸藩衆評の上、御取極可相成事 兵庫の儀は被止候事 是に於て安政以来の難問題も平和裏に解決することが出来、幕府は年来の苦悩から免るゝ事を得た。 但し此時兵庫の開港は許可されなかったので、英国公使は大に憤激し暴慢の拳に及んだが、仏国公使の取なしで一同兵庫港を退去した。此頃仏公使は幕府に好意を有ち、英公使は薩長を助けて種々の難題を持ちかけ、其間に漁夫の利を獲んことをねらっていたが、幸に彼等の乗ずる隙を与えず、明治の維新となったのは何よりの幸福であった。 (3)長州再征 前に辞意を表した家茂も一・会・桑の懇請により其職に留る事となり、壱岐守は十月九日老中格より昇して正老中に挙げられた。 さて長藩処分については大目付永井主永正を遣し、長藩の罪状八ケ條を挙げて之を糾問せしめ、一面討伐の部署を定め、徳川茂承を其の先鋒総督に任ずる等の準備を進めていた。斯くて十二月廿八日に至り糾問使は長藩家老宍戸備後介(実は山縣半蔵)の答書を得て帰った。 其の答書は寧ろ長藩の言ふ処に條理の存するを認められ、又は両者水掛論に終るもので、幕府としては無用の交渉に時日を徒費した大失策であった。是に於て連日評議が重ねられ、一侯の改易説、会・桑二侯の半地削減説に対し、松平・小笠原の二閣老は十萬石減地論を主張し、互に執って譲らなかったので遂に将軍の裁決となり、閣老説が採用されて決議の趣は朝廷に奏上された。慶応二年正月甘一日であった。朝廷では容易に許されなかったけれども、再征の決意を固めた幕府は二月二日壱岐守に対して次のような将軍の委任状を下した。 一、防長所置の儀与全権候間、萬事見込通り十分に取計可申事 一、事の綬急により必出馬可致事 一、処置済の上は速に上洛候様、必ず東下は不致事 右の條々可得其意者也 二 月 それで壱岐守は紀州藩の軍艦に乗って二月七日廣島に至り、藝藩を通じて長藩との交渉を開始した。長藩では交渉を引き延ばし、其間に防備の充実を計っているのに対し、壱岐守は開戦必至と見て戦備の完了を急ぎながらも、或は幕府の決意に恐れて屈伏して来るのではないかと一種の希望を抱いていた。 されば彼の手腕も乱麻銘刀に経るの憾なきを得ず、三月廿二日藝藩の重臣を召し、毛利の各支藩主と老臣らを廣島に呼出すよう命じた。支藩は皆命に応じなかったので、五月朔日に至り国泰寺に於て大膳父子の名代に対して高十万石を召上げ、大勝は蟄居隠居、長門は永蟄居を命じ、興丸を以て家督を継がしめ、二十六萬九千四百十一石を与うる旨を申渡し、之に対して同月廿日迄に請書を差出すよう示達した此の期限は長藩の願によって同月廿九日迄に延期されたが、結局期日に至って裁許に服する能わざる旨の返答が来た。依って藝藩に命じて追討の幕命を通達せしめ、壱岐守は自ら求めて九州方面の指揮に当る事となり、六月三日小倉に入り、開善寺を本営と定めた。 戦斗は藝州口、石州口、小倉口の三方面共悉く幕軍の大敗北であった。斯る処に九月廿日不幸にも将軍家茂が大阪城に於て薨去した。此の内報に接した壱岐守は後事を家臣西脇勝善・多賀高寧に托し、私に軍艦に乗じて長崎を経て大阪に掃った。 案ずるに此回の戦は、三百年来深怨を懐した一雄藩と事大思想の下に糾合された諸藩の連合軍との戦であり、自己の存亡を堵けた武士隊と面目を保持せんとする統治者との戦であり、また新式兵器と旧式兵器との優劣実験戦であった。されば初めより勝敗の数は定まっていたと見ることが出来よう。処がこの難局の打開役を買って出たのが小笠原壱岐守で、惜しい事には先に御所会議に於て列藩の志士を向うに廻して堂々開港論を斗わした台閣の文臣も、武将としては一軍の統制を誤り、剰え将軍の訃報に接して倉皇戦場を放棄するの醜体を演じ、後に征長の全責任を負うて閣老を免ぜらるるに至った。時に慶応二年十月六日であった。 (4)外国御用掛 将軍家茂の薨去後一橋慶喜が宗家を継ぎ将軍職に補せられたのは、慶応二年十二月五日であったが、同月廿五日には孝明天皇の崩御となったので、慶喜は奏請して征長の軍を解いた。 前に老中を免ぜられた長行は復々挙げられて老中となり、次で外国御用掛を命ぜられた。実は一時を彌縫していた兵庫の開港問題が愈々切迫したので、外交交渉に経験ある壱岐守が再び任用きれたもので幕府は再三朝廷に懇請し、慶応三年(一八六七)五月廿四日遂に勅許を得て開港することゝなり、茲に多年の懸案は全く解決された。壱岐守は度々兵庫に出張し、地勢を相して居留地を設定し、一方には外国貿易奨励の趣旨を国内に通達せしめ、八月廿日には兵庫開港商社を設立し、楮幣を発行せしむるなど、通商上幾多の功績を残した。 (5) 隠 棲 外交上の案件や長州征伐の処理などは一段落がついたけれども、天下の大勢は幕府存立を許さぬようになったので、十月十四日幕府は大政を奉還することゝなった。 然るに、明治元年(一八六八)正月鳥羽伏見の戦となり、将軍慶喜は江戸に帰り、上野寛永寺に屏居して罪を待つ身となった。是に於て壱岐守も老中を免ぜられ、唐津藩嗣子を廃せられ、茲に其の公的生活は終りを告げた。 爾後東北地方・北海道地方を転々して、明治二年四月再び東京に帰り、表面は米国へ遁去の体にして実は湯島妻恋に潜伏し、夢棲と号し、文筆を友として悠々日を送っていたが、同五年七月帰朝と発表し駒込動坂に一小邸を贖い、之に移って余生を送った。九年十月従五位に、十三年六月従四位に叙せられ廿四年(一八九八)一月廿二日八十歳を以て卒し、谷中天王寺に葬られた。 |
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第十章 唐津藩における勤皇運動 一、概 説 徳川幕府と特殊の関係にあった小笠原藩が佐幕一色であったのは当然の事であろう。 併し滔々たる倒幕の激浪は単に情実関係などで堰き止め得るものではなかった。 本来小笠原壱岐守は勤王の志厚く、初めて台閣に列するや、前に勅許を待たずして條約を締結した井伊大老らを追罰して尊王の実を示した。然るに、長州再征の失敗により倒幕の気勢俄に高まり、之が尊王と一体化するに及び佐幕派は非勤王と見らるるに至り、為に唐津藩は非常の逆境に陥った。されば唐津藩士の勤王運動なるものは殆ど見ることが出来なかった。 一方地方には各所に潜在するものがあった。それには統を公卿に受けた高徳寺一派と、草場船山塾を中心とした青年学徒との二流があった。けれども此の二者は相互に緊密な連絡もなく、別々に陰密の運動を続けていたにすぎない。されば佐幕の色彩に覆われた此の地方ではそうした勤皇運動があったことも知られず、志士をして空しく地下に泣かしめている。 乏しい資料によって知り得た其の活動の一端を次に記すことにしよう。 二、三井令輔 令輔は唐津藩の御手山方(石炭山係)でまた売山方(石炭販売係)であった。薩州藩が唐津領相知村で石炭採掘を行うようになって、令輔は自然同藩士五代才助(友厚)と接近し、また長崎駐在の大隈八太郎(重信)とも交を結ぶようになった。こうした関係から令輔は新思想の人となり、壱岐守に面接して大に進言しようとした。ところが守旧派は令輔を以て薩州藩士と同意して公を暗殺しようと謀るものとなし、江戸下屋敷に於て彼を殺害した。これは明治元年(一八六八)二月廿四日のことであった 三、高徳寺一味の勤王運動 高徳寺は唐津市中町にある東本願寺派の真宗寺である。其の第十二代の住職奥村了寛は右大臣二條治孝の三男寛斎の子で、文政七年(一八二四)迎えられて高徳寺の人となった。下田條約が締結された安政元年(一八五四)には三十九才で、多くの志士が投獄された安政五年には四十三才の働き盛りであった。彼は屡上京して天下の情勢を探り、帰ってひそかに同志を集めて勤王の大義を説いた。而してその会合は多く蓮池領なる提川村の明尊寺で行った。 明尊寺は大川野村の賢勝寺(高徳寺の末寺)を距る僅に一里許の処にある真宗寺である。時の蓮池藩主雲叟公(鍋島直興)は了寛の叔母婿に当るので、両者は頗る親密の間柄であった。されば同志の会合が此寺で行われたのも斯る縁故によるもので、また唐津藩吏の目を遁れるためでもあった。 賢勝寺は高徳寺の末寺で、此寺の僧に鶴城というものがあった。鶴城は南波多村の大福寺の住職となり、井手野村の庄屋菊池山海郎・豊田周造と交わり、陰に勤皇の大義を地方子弟に説いていた。鶴城は了寛の旨を受けて度々大宰府謫居の五卿と往復していた。 周造は号を晩芳といゝ、初め佐志村八幡宮の宮司宮崎雅香方に寄食し、詩と書を講ずる傍ら陰に尊王の大義を説いていたが、後唐津藩の目を遁れて大福寺に移った漢学者であった。 菊池山海郎は草場船山の門下生で、私塾を開いて附近の子弟を集め、水戸派の学を講じていた。 了寛の勤王を継承したのは其の子円心と五百子である。 円心と志を合せて大に暗躍したものに、鈴木直次と高志道味とがある。道味は鶴城の子で、直次とは従弟に当る。此の三人は船山塾に学ぶ頃時勢に感ずるところあり互に血を啜って王事に一身を捧げんことを誓った。道味と直次は同志を語らい、長崎港に碇泊中の外国船を奪取せんことを謀り、事顯われ、幕吏に捕えられて刑場の露と消えた。明治元年初春の事であった。円心は此の時唐津に在って父の看病に当っていたので之に与らず、幸に無事なるを得た。「櫛風浴雨共悲辛、傷法憂邦不惜身、今曰吾存君己去、経過二十五年春」とは、円心が二人の二十五年忌の追憶である。此の二人が憂国の士であったことを知るもの天下に少いであろう。 四、船山塾生の勤皇運動 船山塾は多久藩多久にあった。草場佩川の開く所で、佩川の老後は其子船山が父の後を継いで漢学を講じていた。 船山は頼三樹三郎と最も親交があり、密に勤皇を説いていたため、唐津地方より此塾に学ぶものは多く勤皇思想を植付けられた。前述の鈴木直次・高志道味・菊池山海郎は即ちそれである。此の外草野雅五郎・菊池音蔵・竹内三平らがいる。 草野雅五郎(逸馬)は当時対州領で浜崎代官所の支配に属していた南山村の人で、船山塾に学び、夙に勤皇の志を起し、砂子村の庄屋近藤浩左衛門と其の女婿白井儀三郎とに交わり、大に劃策する所があった。不幸にして三人は同時に対州藩吏に捕えられ(文久二年十二月)、浩左衛門は対馬に於て暗殺せられ儀三郎は脱獄して行方を晦まし、逸馬は護送の途中海に投じて免れ、鹿島藩の儒者谷口藍田の庇護を受けて明治の初年まで天草に匿れていた。此の三人が勤王の志士であったことは左の書簡によって知る事が出来る。 前略小生此度帝都又は閣老内へ建白之次第有之、明早暁より発程〇〇〇〇御座候、就夫老兄の御高論を受度次第御座候間、此状着次第、早速此者同道御出浮被下候様此段態と〇〇〇〇御願迄 十一月廿一日 草野雅 大石良 近藤義兄 前條御情の御推恕奉希、片野〇〇〇実に国家身上の一大事に御座候 火中物 とある。此の「帝都又は閣老への建白」が如何なるものであったかは知る由もないが、「国家身上の一大事」と記している点より見れば、単なる対州藩の内訌に関する事でなく、一身を捧げた国家の大事であった事と察せられる。 一体宗藩の内訌は後継者擁立に関するもので、五反田村加茂文右衛門の女の出なる勝千代君を推す一派と、重臣藤井五八郎の妹の出なる善之允君を推す一派との争であった。此の内争中に勝千代は病死し善之允が嗣と定まり、藤井一派の天下となるに及び、昔年の反対派は殆と其の毒手に倒れた。之に義憤を発した田代(現三養基郡当時対州領)の代官平田大江の黒田藩の志士を借って対馬へ帰り大に粛清を計ったが、却って彼も亦其毒手に斃るるに至った(松尾禎作者「平田大江」参照)。かかる関係から浜崎代官所支配下の近藤浩左衛門一味も亦災害を蒙るに至ったのである。 之より前、浜崎村に二條よしさねという公卿が遊歴し来り、此の地方の富家に転々寄食し、和歌や茶道を指南していた。よしさねと最も深交を結んだものに廣川理兵衛・宮崎五右衛門・近藤浩左衛門らがあった。就中浩左衛門は最も親密で、二條家の御用人の通札を得て他藩への旅行には必ず之を携帯して行った。蓋し浩左衛門の勤皇は二條よしさねの感化であろう。よしさねの正体は不明であるが、時々黒田藩に至り日常の小遣銭を得て帰って来たものだと、理兵衛の孫慶太郎氏が話していた。 菊池音蔵は町田村の大庄屋で、山海郎の兄である。音蔵の後妻は佐賀藩士星野氏の女で、嘗て閑叟公に仕えていたので、此の因縁を頼って佐賀藩士とも交を結んでいた。偶々小笠原壱岐守が征長の軍に失敗し、佐渡守長国が再び出て藩政を見るに当り、天下は急転して幕府が倒れ、佐幕派の唐津藩は非常な苦境に陥った。元来佐渡守は前の第一次長州征伐の際に幕命を奉じ藩兵二千余を以て小倉表に出征し、小倉藩兵と適合して長州に攻め入らん事を建白した程の熱心な主戦論者であった。されば此度の政変に当って唐津藩の転向が容易に容れらるるか否かを非常に疑懼していた。此時音蔵の暗躍により閑叟公に頼って呼子港より公の乗船に便乗して京都に至り、罪を闕下に請うた。幸に何等の咎も蒙らず藩統を維持する事を得たので、之より藩主が音蔵を信頼すること益々厚く、時々城中に召して藩政についても下問するようになった。 巳にして天下は一変して版籍奉還となるや、家臣らは自己の前途に不安を抱き、是を以て音蔵が主君を売った結果となし、彼を誅除すべしと息巻くものもあり、一部の過激派は音蔵の勢力を殺ぐ第一着手として音蔵の股肱たる竹内三平を白昼其家に殺害するに至った。時は明治三年(一八七〇)七月廿八日の事であった。三平は音蔵の同族で、船山門下の秀才であり、其頃は上り庄屋であった。上(あが)り庄屋とは庄屋が罷免されたものを言うので、蓋し三平の言動が藩の忌諱に触れたものであろう。此の暴挙に対して音蔵の周囲には仇討の謀議を凝らす者もあったが、朱門公小笠原長光の慰諭によって騒擾に至らずして済んだ。 岩田壮策氏は明治十三年(一八八〇)頃、三平が殺された其の室の記憶を次のように記し、勤皇の志士と信じて唐津町当局に寄せている。 、、、其室は四畳半の茶室(龍岡亭)で、血痕が天井板其他に残って居るのを見た。屏風に書画短冊が交せ張りてあった。其中に梁川屋巌の詩短冊、外に望東尼の短冊があった様に思ふ、(之は確言出来ぬ)今拙者の所有して居る船山の一幅は三平の家から出たもので、五畿山勢似奔波、一水南流是湊河、河水空枯山鎮在、鳴呼碑畔緑苔多、為竹内葛郷、船山廉、とあるを以ても、船山が三平の心中を察して書して与えたものであろう云々 とあり、此の手紙は大正五年肥筑の野に大演習があるので例によれば其節地方の勤皇家が叙位の恩典に浴するから、三平の事蹟を調べて叙位の申請をしては如何と勧めた手紙である。筆者は之とは別箇の調査によって三平が勤皇の士であった事を知って之を発表した後、最近此の書を一見する事を得たので、茲に其の一部を要約して掲ぐる事とし、旁々壮策氏の意志を顯彰したいと思う。 |
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第十一章 農 業 一、唐津藩の開拓事業 (1)松浦川の改修と干拓 (2)怡土郡の干拓 (3)有浦新田 (4)黒川新田 (5)大黒井手(以上本編第二章参照) (6)馬蛤潟新田 煤屋新田 今より約二百二十年前頃唐津藩の手によって干拓されたものと伝えられているも、其の詳細は不明である。前者は約二十町歩、後者は約十五町歩。 捕註 馬蛤潟新田は土井公の時に出来た。それで馬蛤潟の人達は其の恩義に報ゆるため神田の御山にある土井公の御墓に毎年お参りしているという話を、波多津町内野の義父小杉定治氏から昭和三十年の夏になって初めて聞いた。それで早速書を送って馬蛤潟の区長中島三男氏に問合せたところ、最近は十年毎にお参りする事になり、昨昭和廿九年に参ったところだとの返事があった。 (飯田一郎記之) (7)福田新田 鰐江新田 福田浦瀉新田 以上三所は築山年代不明である。面積は福田新田が約三町三反歩、鰐江新田が約二町二段歩、福田浦瀉新田が約八町七反歩である。 (8)黒塩新田 小男川新田 此の二ヶ所は何れも寛政年間の埋立で、前者は約二町五反歩、後者は約四町二反歩である。(以上佐賀県干拓史より) (9)寅新田 享保十九年(一七三四)甲寅土井大炊頭利実の時築造したもので、今の中道以南を寅年に以北を翌二十年乙卯に築造し、之を併せて寅新田と称することとなっている。(奈良崎泰助氏談)面積は約五町七段歩。 (10)野元義創田 天明年間(一七八一〜八八)名護屋庄屋世戸邊の手によって義侠的創業の名の下に干拓されたものである。 (11)上場の大豆 元来東松浦半島は狭少なる丘陵地で、水利に乏しいので大規模の水田は到底望む事は出来ない。されば唐津領内の干拓事業は寺沢氏の時に略完成したもので、後代の藩主は既成の水田を改良して租米の増収を計ったにすぎなかった。 小笠原氏の代となって先づ目をつけたのが上場地方の畑地開墾で、家老野辺又右衛門が此処を開墾して大豆の栽培を奨励した。されど交通の不便と人口の稀少とに依って、其成績は思うように行かず、産額は僅に三千俵内外にすぎなかった。此の大豆は大阪に輸送され、転じて高野山に送られ、高野豆腐の原料となった。(大島小太郎氏談) (12)新屋敷 小笠原佐渡守長国の治世文久年間(一八六一〜六三)に新に開拓されたものである。之より前、文化文政頃は領民一般に非常の生活難に陥った。就中鏡村の如きは所有の田畑を売却し又は質入するなど頗る深刻なるものがあった。それで大庄屋田崎権十郎は郡代衣川金太夫らによって虹の松原を開拓して難民救済に充てんことを請願して其の許可を得た。是に於て虹の松原の中八町七反歩余の払下を得て之を伐採し、其木材を以て北牟田川筋の千五百四十余間の処に土止工事を施し、川筋を凌渫し、八町七反余歩の沼地を埋築して耕地となし、一方伐採地跡をも開墾して之を畑及び宅地となし、当時の難民十五戸を移住せしめた。工事は万延元年(一八六〇)に着手し、領内各村の助力を得て毎年約一万人宛の人夫を使役し文久二年(一八六二)に至って竣成した。移民には毎戸三反歩の田と開墾畑と宅地とが平等に分配された。(鏡村史蹟調査報告書) |
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第十二章 炭坑業 一、藩政時代の石炭業 唐津炭田の発見年代は不明であるが、享保年間(一七一六〜三五)に北波多村大字岸山字ドウメキに於て農夫が偶然発見したのが始めであると伝えられている。 藩政時代の唐津炭田は 幕領と唐津領との二区に分れ 幕府は平山上・平山下・鷹取・本山・岩屋・浪瀬などの一円に亘り、日田代官の管轄に属し、各其の許可を得て年額二十五銭の冥加金を納めれば誰でも開坑することが出来た。 唐津藩領は相知・佐里・牟田部・岸山・稗田などで、各々藩の許可を受け、僅少の地役銭を納めて採掘したものである。(東松浦郡史照参) 唐津藩営の採炭業は地方役所の出資で相知村押川字一ノ谷に向定吉を棟梁として開坑せしめ、之を御手山と称し、元治元年(一八六四)八月には家臣三井令輔が御手山方となり、売山掛をも勤めていた。(幕末に於ける唐津藩の研究参照)一体唐津藩としては多量の石炭を消費すべき工場もなく、また汽船も所有しなかったので、他に売却していたのである。 鹿児島藩よりは慶応年間に藩士池上次郎太を派して岩屋の前田源助・藤田平内・藤田令蔵らの斡旋で最初は本山村舟木谷に開坑し、其後鹿子岩・岩屋などに着手したが、廃藩と共に池上次郎太の個人経営となった。 久留米藩よりは御用商人松村文平に命じて平山村宇ローサイに開坑せしめたが、之も廃藩と共に個人の経営となった。 熊本藩でも藩士横田卯内らを派遣し、宗田信左衛門を棟梁として平山村武蔵谷に開坑せしめた事がある。(東松浦郡史参照) 二、明治以降の石炭業 明治六年(一八七二)九月日本坑法が実施せらるるに及び、岩屋地方の薩摩坑区は最初に海岸予備炭田に編入され、ついで平山・岸山・稗田などの優良坑区も逐次予備炭田に編入された。 海軍省ではこれらの坑区には夫々下稼人を置いて採炭せしめ、其の一部を海軍用炭として買上げ、残余の大部分は剰余炭として各稼人に八分金を納入せしめて全部払下げる事とし、これらの事務を処理するため満島に海軍属吏を派遣していた。(明治七八年頃か)同十一年に至り唐津公園下に唐津海軍石炭用所を、相知村に同出張所を置き、一方艦船に積込の便利な呼子殿ノ浦に貯炭場を設置した。 之より先、明治八年(一八七五)坂本経懿は剰余炭の払下げを一手に引受け、海軍剰余炭売捌所を設立し、一方には高取伊好・松尾寛三らと共に予備炭田の開放を出願していたが、同二十二年に至り之が開放を見るに至り、当時の下稼人五十一名に対して各々其の坑区が交附された。是に於て剰余炭売捌所を唐津用炭会社と改め、開放炭田の産炭を販売する事とし、同時に唐津海軍石炭用所は廃止となった。 採炭法は狸堀と称する手堀の横坑で、主に上層炭のみを採っていた。たまには釣瓶堀と称する釣瓶式に引揚げる堅坑もあった。両者とも至って幼稚な方法であった。(唐津産業絵巻参照) 此の方法は弘化年間(一八八四〜四六)から行われていたもののようである。 明治七年(一八七四)永見伝三郎は帆足徹之助と共に岸山村寺ノ谷に蒸気機関を据付けて井坑法を始めた。これが唐津炭田に於ける機械堀の始めである。幾くもなく之は中止となり、超えて十三年(一八八〇)青木休七郎が之を再興したけれども、これ亦失敗に終った。同十九年(一八八六)竹内綱・高取伊好らが芳谷炭坑を開始し、組織的に蒸気力使用法を行うに及び、炭坑経営は茲に安定性が認められ、其他の諸坑も亦之に倣うようになり、出炭量は顯著の躍進を示すに至った。次の各坑は唐津炭田の主要なものであった。 (1)岸岳炭坑 藩政時代より村民が採掘して燃料としていたが、維新後海軍予備炭田となり、之が開放後は唐津藩士に授産のため配当された。明治二十二年(一八八九)頃に至り、良質の下層炭が採掘され、声価俄に上り、産額も増加するに至った。明治三十四年(一九〇一)古賀製次郎・下村銓之助・野依範治・古賀新次郎の共同事業として創められ、帆足徹之助・原徳実・宮島伝兵衛らの坑区を買収して稗田に開坑した。之より次第に坑区を買収し、五十一万坪を有するに至り、四十四年(一九一一)には第二坑を開き事業益々隆盛に赴き、翌大正元年(一九一二)三菱礦業会社に買収された。爾来事業は頗る隆盛を極めたが、炭齢盡きて昭和四年遂に廃坑となった。 (2)矢代町炭坑 明治二十一年(一八八八)福田嘉蔵・小笠原長世・三宅吉*(益蜀)・矢田進・原徳夫・山田元貞の六人出資の下に、小林理忠太の坑区と海軍予備炭田の一部を買収し、河内明倫の斡旋により中村道太(当時東京糸会社頭取)の出資を得て、翌二十二年九月開坑した。経営意の如くならず、更に原亮三郎の出資を得て事業を継続したけれど、これ亦思うように行かず、仝廿五年遂に廃坑となった。 翌廿六年(一八九三)田代政平懇請して下稼人として再び事業を開始したところ、幾くもなく日清戦争起り各種工業の勃興と共に石炭の需要益々増加し事業は益々隆盛の一途をたどった。同三十九年(一九〇六)に至り芳谷炭坑会社に買収された。 (3)牟田部炭坑 明治二十二年九月吉原政道・小林秀知・杉本正徳らの共同経営の下に、小林理忠太の坑区を基として附近の小坑区を併せ二十四万坪の坑区を以て開始されたもので、同二十三年三月第一堅坑・同二十四年一月第二堅坑を開いたが、資金意の如くならず、同二十五年一月長谷川芳之助の出資と唐津物産会社後援の下に事業を継続していた。明治二十七年(一八九四)二月英国人ゼー・エム・ダウを社長とし、桂二郎を取締役とする牟田部炭坑株式会社の経営となした。のち同四十年(一九〇七)三菱鉱業会社の買収経営となり、同四十四年廃坑となった。 (4)芳谷炭坑 海軍予備炭田時代は大小の坑区錯綜していたが、明治十九年(一八八六)竹内綱・高取伊好・外村宗治郎・魚澄総左衛門ら共同の下に、芳谷を中心とし其の附近の坑区を買収して芳谷炭坑会社を設立し、石炭は坑口より約半里を距つる松浦川沿岸(旧鬼塚村大字山本字鹿ノ口)に至る間を大八車を以て搬出し、之より川舟によって松浦川口に運び唐津東港より輸出した。同二十三年宇井田に第二坑を開き、同年松浦川畔に至る一哩三十鎖の間に軽便鉄道を敷設し以て運炭を便にし、同二十五年頃には一日の出炭量二十五万斤を算するに至った。同二十七年(一八九四)三月株式会社組織に改め、同三十一年にはエンドレスローブ運炭法を採り、同三十二年唐津鉄道敷設成るや全部之によって大島に送炭し、西唐津港より輸出する事となった。次いで同三十九年(一九〇六)六月矢代町坑区を買収して事業をつづけていたが同四十四年四月に至り三菱鑛業会社に併合された。 (5)相知炭坑 明治二十一年三月芳谷炭坑が竹内綱を社長とする株式会社組織となるや、高取伊好は之を去って独力相知炭坑の経営を始め、附近の小坑区を買収して三十万坪の坑区を擁するに至った。同二十八年(一八九五)十一月試錐の結果其の有望なる事を確かめ、同二十九年四月堅坑を開き始め八ケ月にして三尺層に着炭し、爾来経営四年同三十三年十一月に至り三菱鑛業会社に売渡した。 三菱会社は前記岸岳・芳谷諸坑を併せて三百万坪の大坑区を擁し、一時は相知・芳谷の両坑のみにしても約百万噸(大正九年頃産額)を産出したが、年と共に漸く老境に入り昭和七年に至り遂に廃坑となった。(一部の残炭は芳谷より搬出し、全く廃業したのは同九年であった。(村山富右衛門氏談) (6)岩屋炭坑 岩屋炭坑はもと向秀助の坑区であったものを島津利平次が受けて経営の末廃坑となり、採掘権は大石某の手に帰してた。明治二十六年藤田郁太郎が之を譲り受けて事業を開始し、仝三十年石井源兵衛・梶原伊之助共同出資で規模を拡張したものの、経営意の如くならず、同三十六年再び廃坑となった。仝四十一年三月貝島太助之を買収し事業を再開してより経営宜しきを得て、業績順調に発展し、大正時代を経て昭和の今日に及んでいる。 |
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第十三章 水 産 業 小川島捕鯨業 (1)小川島 唐津藩の水産業として特筆すべきものとして小川島の捕鯨業がある。小川島は呼子の北方海上三里の処、南面に一小良湾を控えた小島である。松浦拾風土記によれば「小川島はもと無人島であったものが、享和年中に至り民家百廿戸に及ぶ」とある。されば今より約百五十年前の此の島は最早相当の人口を有していたようである。是は多分鯨組の根據地となって繁昌していたものであろう。 (2)鯨組の起源 これは未だ明かでないが、松浦拾風土記には 寺沢公唐津城御受取の頃、鯨組思召立たまへども、漁師なき故紀州熊野へ漁夫雇入に遣はされし御状、呼子浦に所持者有り、其後兵庫頭・加賀守(大久保忠季)末々になり、其業を成す者諸方より来り云々 とある。加賀守忠季は慶安二年(一六四九)より寛文十一年(一六七一)まで唐津藩主であったから、今より凡そ二百七八十年前には捕鯨業が始まっていたと見る事が出来よう。なお同書に別て大村領松島組の大祖勘次郎と云ふ者指南致す、初め小舟八艘にて突き始め、其後舟も追々増し、チロリと云ふ小網出来、程なく今の大網となり、十五人乗の勢子船三十隻程、双海船四隻結びにて、大船は八艘網は用心物共に二百反程と云ふ。八十九尋四方なり。常に納屋中船とも八百人の入込あり鯨取り候時は又三四百人も増し、以上組出し迄、正銀凡そ五百貫位仕込入用也 とある。また小川島捕鯨会社沿革記によれば 肥前国唐津旧領主水野家時代宝暦十三未年より慶応三年まで百四年間に於て捕鯨業を主宰したもの、 呼子の中尾氏の十二回(六十九年間)、を最高とし、壱岐の土肥氏の三回(十四年間)、他は一年又は二年の営業であった。若し相当者が無い時は領主の御手組経営として(十二年間に七回)明治に及んだ様である。 明治以後は営業者を替ゆること五回、明治十一年坂本経懿氏の主唱により、十六名の合資で小川島捕鯨組なるものを組織し、同二十一年に至り捕鯨会社と改称し、同三十一年に至り株式組織とし、名を小川島捕鯨株式会社と改め以て今日に及んでいる。 と云う。かく営業主は屡々交代したけれど、此の事業は百余年に亘って毎年継続されて来た。年によって漁獲の豊凶はあったが、能く之を継続することを得たのは、一に唐津藩の保護によることで、前記の沿革記にも 毎歳捕鯨営業者には藩庁より器械其他出漁準備費に米三千俵づつを貸与し、月賦又は年賦にて返納せしめ、且つ藩吏を事業場に派して之が保護の任に当らしめ、而して一ケ年度間の税金即ち運上銀は漁の豊凶により多少の増減ありと雖も、浦運上三十六貫を加へて約八十六貫目の少額に過ぎざりきと記されている。 (3)漁 区 漁区は小川島を中心として、東は福岡県姫島近海及び唐津湾、北は烏帽子島・壱岐島及び同島附属の各島近海、西は平戸諸島中の大島近海に至る海上で、此の範囲内には斥候船を配置して泳鯨の見張をなし、また陸上では各処に山見場を設け、泳鯨を発見すると直に信号を以て各山見場及び斥候船に通信することとなっていた。 鯨の泳ぎ来る主なる網代は次の通りである。水の浦 小川島の東方海岸を距る凡そ八丁の海上で、海底は砂、深さは二十三四尋の処、座頭鯨の網代である。 水の浦の沖 海岸を距る約二十丁の処で、海底は小石原、深さ二十五六尋乃至三十三尋、長須鯨の網代である。 淀 名護屋村加唐島の東方海上で、座頭鯨の網代である。 小泊口 淀の沖合約五丁、水深は二十八九尋乃至三十二三尋、海底は小石原、沖の方は長須鯨、地の方は座頭鯨の網代である。 黒水沖 加唐島の東方稍北寄りの処で、十八九尋乃至三十二三尋、海底は小石原、沖は長須鯨、地の方は座頭鯨の網代である。 神集島 島の東北端の沿岸、深さ二十尋乃至二十七八尋、海底は黒土又は砂・小石原などである。島近き方は座頭鯨、沖は長須鯨の網代である。 高島の東方 呼子村高島の東方で、海底は小石原、深さ二十二三尋乃至三十四五尋の処で、座頭鯨・長須鯨の網代である。 (4)漁 法 さて泳鯨発見の信号を小川島の本部〜地の山見場〜が受けると、蓆旗を掲げて之を各船に伝令し、之に接した双海船は直に其場に向って出動し、網の手配をなし、勢子船は鯨を追尾して漸次網代近くに追い来り、愈々網代に泳ぎ込んだのを認めると、麾持の波座士は潮の緩急や海の浅深、鯨の遊泳の遅速などを考え、網張を命令し、網船は命を受けて網を下し、勢子船・双海船は皆舷を叩き閧の声をあげて追迫り、愈々張網の中に追い込めば、直に口網を張って後方を遮断し、一層激しく舷を叩き閧の声をあげて鯨が驚怖して綱に罹ると、勢子船・持双船よりは先を争って大*(金萬)小銛を投げ刺し、之が五六本に及ぶと、波座士一名が手形庖丁を持って海中に飛込み、鯨の鼻を貫き鼻網を付け.次に剣を以て突殺しに着手する。勢美は五百振、座頭は二百振以上、長須は百五十振内外突込れると、鯨は次第に弱って来る。此の機を逸せず持双袷に挟み、波座士は胴網を以て海中に潜入し、鯨体を持双船に縛付け、勢子船と双海船とが之を曳いて納屋場に漕ぎ来り、輾轤につけて鯨体を巻き寄せ、而して解体に取かかるのである。 (5) 山見場 前述の沿革記によれば次の如くであった。 一、地の山見場 小川島西方高地、此処を本部とす 二、沖の山見場 加唐島の北端 三、祇園崎山見場 加唐島の南端 四、土器崎山見場 湊村土器埼 五、岳の山見場 小川島の東端山上 六、水之浦山見場 小川島の東北端 七、神集島山見場 姫島山見場・又加唐島の北端及泛島等へ山見場を設けた事あるも今は之を廃す。 (小川島捕鯨会社沿革記) (6) 解剖の順序 一番に背の身を左右に割る 二番に脇の皮身共左右に割る 三番に大骨を抜く、大骨とは腰の継目迄の骨 四番に山の波を剥(頭の皮) 五番に頭を返す(上腮より上側) 六番に丸切を切放す(丸切は腰の継目) 七番に肋 八番に肋を返し臓を巻き出す 九番に肋を割り左右に開く 十番に敷の皮を揚る(腹の畝簀子の事) 十一番に頭を割る 十二番に丸切より下の皮身を剥く 十三番に夫より中切庖丁にて百五十斤、或は二百斤位に切りたる後、納屋の魚棚に荷ぎ入るるを解剖 の順序とす。但し十二尋の魚なれば夜明より正午迄に終る。 (仝前) (7)捕鯨用船
予備
(8) 漁 具 網 すべて苧を以て製したる網を方言で「かがす」という。網苧の産地は山口県阿部郡川上、熊本県球磨郡人吉の両所にして、毎歳三万斤買入れ、網に製する方法は、凡そ半斤位を一縊とし、中央より下を雁爪の形なる機械を以て力の弱き所を去らしめ、のち之を一貫目ずつに掛分け、之を綯いたるもの三莖ずつ、または三茎合せたもの三茎即ち九茎を*(糸委)合せて綱に製し十八尋となす。綱綯苧五十五房を以て 横十八尋、竪十五尋半の網に漉立て、是に三年かがす十五房にて横五ツ目にして十八尋、竪五ツ目数に漉立て、二尋半の裾網を継合せ十八尋四房となす。目毎に縊をなす。此の目縊りは則ち本社の窮理にして、鯨の網を冠り猛進するのに目のずれざるためなり。目抜は二尺六寸五分、一目の長さ四尺七寸、是に桐の長さ一尺五寸、幅六寸、厚さ二寸五分の浮子三十九個を付くるなり、前記三年かがすの綱を附けたるは、若し鯨の游泳し、網の岩石に掛りたるとき、裾網は破離して本網破れざる様にしたるなり。網の継口は藁網を以て継合す。之を方言に乳合と云ふ。 縄 網 縄の産地は西松浦郡久原村、方言に久原縄と云ふ。目板二尺六寸にて漉立て、目の長さ五尺八寸、浮子は本網に用ひ難き分を用ゆる也 銛 五十本、小銛(方言早と云ふ)は鉄製で一本の目方〇百目にして、総長二尺七寸八分、雁股三寸五分、胴一尺九寸柄込三寸五分、柄の長さ一丈二尺、樫の丸柄を付す、柄の円径一寸一分、是に附属の綱を矢綱と云ふ。 大 銛 百本、方言万と云ふ。鉄製一本の量目一貫百目、長さ三尺六寸七分、内を左右に雁股をつけ右七寸七分開き二寸四分、左四寸開き一寸七分、真五寸五六分、胴一尺九寸六分、柄附平打長さ一尺一寸六分、幅一寸三分、厚さ三分、環外径二寸五分内径一寸七分、平打の先に付、之に生樫の丸太長さ一丈二尺の柄を附し、環に縊り付けたるかがすを柄に苧にて搦付け、目釘を打ち、鯨に突立るや潮に中り柄の離るる様仕掛けにしたるものなり。 剣 鉄製、一本の目方一貫八百目、総長三尺六寸四分、先尖りて幅三寸七分、*(金剽)を立て左右すき落し銅を以て造る。中心一尺三寸七分、柄は樫、円径一寸一二分、長さ一丈二尺、槍の柄に類する柄を附し、刃元より参茎継*(糸委)合十二尋の小縄を付け、(方言突出と云ふ)数回投突するに用ふ。三十五振あり。 手形庖 刃元長さ一尺一寸、中心二寸、幅一寸、先尖りに作り、中心を一寸程曲げ折下げ、鯨に中るに手の辷らざる様古来作者の究理なるか。 小銛綱 方言矢縄、最上等の球磨苧、量目三百二十日の綯苧を十七尋に延、三茎継*(糸委)合にして十二尋とす。円径三分五厘、是を一房とす。 大銛綱 方言かがす、最上等の球磨苧を三十一尋に延べ、九茎を以て*(糸委)立、二十二尋とす。円径八分、之を一房とす。 右小川島捕鯨会社沿革記に據る。其外多数の漁具あれど、之は省略せり。 (9) 漁夫 波座士三十二名、内名護屋村より二十六名、壱岐国壱岐郡小崎より六名、水夫総員四百八十六名、但勢子船十六艘一艘十一人乗、持双船四艘一艘十一人乗、納屋船一艘十四人乗、内一人は二番納屋船艫押、網附船八艘一艘十人乗、小縄網船四艘内七人乗三艘八人乗一艘、大縄網二艘九人乗、小双海船五艘九人乗、大双海船八艘、計前記の通り。雇双海水夫は廣島県沼隈郡田島、山口県熊毛郡室積等とす、勢子・持双・網附等の水夫は長崎県北松浦郡五島・宇久島・壱岐郡小崎・佐賀県加辺島・小川島等から専雇した。(小川島捕鯨公社沿革記による) 第十四章 製紙業 唐津藩に於ける製紙業の起源を尋ぬるに、庄屋文書によれば、「紙木畑(楮畑)一歩につき上畑は二升、中畑は一升七合、下畑は一升四合、下々畑は七合」の分米を徴収されている。此の税目は寺沢氏の時代から有った様であるから、此頃より既に製紙業も行われていたと見るべきであろう。 降って水野氏の代、明和八年(一七七一)三月に三万本の楮苗を草野組に植付させて農民の反感を招き、其年の八月百姓一揆の際には楮の買上値段の割増を要求されている。之によって唐津藩には相当製紙業が興っていた事が知られる。けれども唐津紙の本格的製産を見るに至ったのは小笠原氏の文化(一八〇四〜一七)以来の事である。之に就いて嘗て大島小太郎氏から聞いた語を掲げておきたい。 家老野辺又右衛門が製紙業に目を着け、大島太左衛門を紙方奉行とし、先ず領内到る処に楮を植えさせ、農家より楮皮を集め、之を更めて製紙家に払下げ、加工のうえ紙方役所に納入させた。紙方役所は十人町にあった。当時の製産地は大村・宇木・半田・有浦・南波多・重橋などで、農家の副業として発達したもので、楮を打つ杵の音と共に流れて来る鄙唄はまた一段の風情であった。納入の紙は見取役が検査して品等を五等に分って買い取り、前に渡しておいた楮皮代と差引き、其の差額を賃金として支払う規定であった。 集めた紙は六〆を一丸に荷造して大阪に輸送し、藩の蔵奉行が販売の任に当り、其の代金は唐津に現送する定めであった。一ヶ年の産額ははっきりはしないが、凡そ八万両内外であった。尤も唐津藩では紙を抵当に豪商から金銭を前借していたので、紙代の剰余はいくらもなかった。併し唐津藩にとっては最も重要な産業の一つであった。 唐津紙は初めは七夕紙と称し、種々の色をつけた特殊のものであったが、後には花街に使用するいろ紙となった。 第十五章 唐津藩の窯業 第一節 唐津焼の起源と分類 (1)唐津焼の起源 之に関し伝説としては随分古いものがある。松浦記集成には太郎官者村・小次郎官者村・藤平官者村・古昔神功皇后三韓より此の官者三人を召連れ給ひ、陶器を製する事を始め給ふ。其者の居る所を村名として於今唱へ来る。此人々の製するものを古唐津と云ふ。 とある。また小笠原藩の軍学師悠々軒の薯と伝えられる唐津産業絵巻には太閤秀吉公高麗征伐より御帰陣の時、太郎官者・小次郎官者・藤平官者と云へる高麗人を召しつれられ、肥前国松浦郡の北方佐志山の内に焼物を焼かせ給ひし由なり。…………… 読む人真偽を正し給へ。 とある。何れにしても取上げて論議する程の説ではないが、今なお小次郎の古窯址から古雅な陶片を掘出すことが出来るから、嘗て陶器が焼かれた事は事実である。されば後の人が此の古窯址に対して右のような伝説を附会したものであろう。 また工芸志料という書に 肥前国に於て陶器を製すること其始詳ならず、伝へ云ふ孝徳天皇の時に創始すと、当時の瓦器今尚存す。其製たるや釉を施せるものなし。而して頗る堅硬の瓦器なり。年序を経て其の業漸く盛なり。これを唐津焼といふ。 とある。瓦器の堅硬なるものは須恵器の類で、佐賀郡川窪地方には其の焼成の窯址も数ヶ所発見されているが、小次郎地方には未だかゝる窯址あると聞かぬ。また世に云ふ唐津焼〜釉薬をかけた陶器〜とは別筒のものである。 されば工芸志料には瓦器と陶器とを一率に取扱ってあって、唐津陶器の起源の説明とは見る事が出来ぬ。なお同書唐津焼の條に 今世人唱ふる所の唐津の陶器に六種あり。米量と云ふは元亨年間に製する所のものなり。(中略) 根抜といふは建武より文明年間に至りて製する所のものなり。(中略)奥高麗といふは文明より天正年間に至りて製する所のものなり。(中略)以上三種を総称して古唐津といふ。(下略) とあるが、此の年代観は之を証する確実なる資料を示されてないため、之と見方を異にする幾多の説を承服せしめることが出来ない。工芸志料の年代観は其の著者独自の推測と見るより外はない。 岸嶽城址の麓に唐津焼の窯址がある。岸嶽城は波多氏の居城であったことは確実であるが、波多氏と此の窯址との関係は之を徴すべき何等の資料もない。之を波多氏に結付けて唐津焼の起源を定むることは一種の想像にすぎない。要するに唐津焼の起源は今のところ未詳である。 波多氏の起源と其の滅亡については第四編第二章第三節に述べておいた。なお唐津焼の起源については「焼もの趣味」昭和十六年一月、三月、四月号を一覧せられたい。 古唐津と称せらるる米量・根抜・奥高麗に関する諸家の見方は一致していない。中には果して唐津で焼かれたかと疑問視している人さえある。今左に古唐津に関する諸家の説を比較して見よう。 (2)古唐津の年代観 一、元亨年間(一三二一〜一三二三)に米量、建武文明年間(一三三四〜一四八六)に根抜、文明天正年間(一四六九〜一五九一)に奥高麗が出来たとなすもの。工芸志料・陶器類集 一、齊明天皇−建武年間(六五五〜一三三七)を第一期、永禄年間(一五五八〜一五六九)迄を第二期、慶長初年(一五九六)迄を第三期となすもの、陶史伝。 漠然と鎌倉時代(一一八六〜一三三三)のものとなすもの日本陶瓷史。 一、順序を立つべきものにあらずとなすもの日本陶磁史論 (3)古唐津の分類 一、米量・根抜・奥高麗の三種に分つもの 工芸志料・陶器類集 一、全然区別を認めざるもの 日本陶磁器史論 (4)米量・根抜の鑑別法 一、高台内に縮緬皺ありとなすもの、工芸志料・陶器類集・國史大辞典 一、高台内に縮緬皺なしとなすもの 日本陶瓷史 一、高台内に施釉ありとなすもの 観古図説 一、高台内に施釉なしとなすもの 工芸志料・國史大辞典 一、高台内に水釉が薄くかゝっているとなすもの 日本陶瓷史 (5)奥高麗の解釈 一、奥とは古き意と解するもの 工芸志料・観古図説 一、奥とは朝鮮奥地の意と解するもの、日本陶瓷史・茶道筌蹄 一、奥高麗は朝鮮で製造したとなすもの 日本陶瓷史・陶器考 一、奥高麗は唐津で模造したとなすもの 工芸志料・茶道筌蹄 日本陶瓷史には唐津での模造品を唐津奥高麗と称し、朝鮮産の奥高麗と区別している。 大要右の如く、諸説紛々として帰着する処を知らない。一体之らの名称は何処で焼かれたものに何時誰が命名したのか、その品は現在何処に残っているのか、この根本が判明しない以上は、諸家の説を統一する事は不可能である。されば唐津古窯の何の窯で焼かれたものと判定は出来ても、これが米量であるとか、奥高麗であるとか、鑑定することは、たゞ従来の鑑定眼によって如是我観を付するより外に方法はあるまい。之は歴史眼より見れば殆ど無価値であるが、骨董的にはそれで満足しているものが多いようである。また満足する外に仕方はあるまい。 第二節 岸嶽系 (1)飯洞甕窯(上窯・下窯) 東松浦郡北波多村大字帆柱字鮎返にある。製品は徳利・壺・片口・鉢皿・茶碗・猪口・グイ呑などが主であったと見える。釉薬は黒緑色を帯びた透明釉が主で釉溜りに青・緑・黒縁などの奇麗な玉を成したものがある。また灰白色の釉もある。多くは高台に釉が掛っていないが、稀に掛ったものも発見されている。茶人の最も愛好する縮緬皺が現われている。鉄釉の稚拙な絵模様もあるが、之は絵唐津の最古のものであろう。殊に壺・徳利などは内部に打痕があり、底は板起しで貝殻を敷いた痕跡のあるものもある。かゝる品は茶人に最も珍重されている。 此の古窯は西北より東南に三寸勾配にて登り、全長五十八尺、内面の横幅七尺余で、八室に区切られ一番下の小室は焚起しの小室である。一室毎に下部の右横に焚口が着いて居り、器物も此の焚口より出し入れし、器物の積座は少し高くて之より天井まで四尺余りである。オンザの穴は四五寸角のもの七個や八個付いていて、築窯にはトンバイなどは使用せず、粘土でかためたものであって、此の室は所謂割竹窯である。普通の登窯は饅頭を次ぎ合せたやうになって居るが、割竹窯は窯の形状があたかも竹を二つに割って伏せた形になり、窯の仕切が竹の節に当り、天井は蒲鉾形になっている。 (陶器講座 唐津焼) (2)帆柱窯 同じく北波多村大字帆柱谷にある。素地・陶技・品種などは前者と同様である。 釉薬は不透明性の海鼠釉が多く、世に云う鯨手唐津・斑唐津・朝鮮唐津などが最も多く此処の陶片に認められる。 (3)皿屋窯 同じく北波多村大字稗田字杉谷にある。素地・陶技・品種など帆柱窯のそれと略々同様であるが、少しく焼成火度が低いようである。 (4)道納屋谷窯 東松浦郡相知村大字佐里字道納屋谷にある。陶技・製品・釉薬など飯洞甕窯と同様であるが、また帆柱と同様の海鼠釉があり、天目茶碗・茶入などもある。殊に絵模様は構図と筆致の稚拙な処に却って何とも云えぬ妙味を認めることが出来る。 此の近処に同系と認められる平松・大谷の窯址もある。 (5)小次郎窯 東松浦郡切木村大字梨川内字小十官者にある。陶技・品種・釉薬など飯洞甕窯に似ているが、素地は目細く、灰白色のものは堅く焼き締まり、一見半磁器の感がある。陶膚に鉄分の小黒点が胡麻をかけた様に現われているのが此の窯製品の特色である。 (6)山瀬窯(上窯・下窯) 東松浦郡浜崎町大字山瀬にある。陶技・品種は道納屋に類似し、胎土は白く細く、粘性が強く、高台に縮緬皺がよく現われている。釉薬は透明釉もあるが、海鼠釉をかけたものが主である。此手の器物は即ち奥高麗と云われるものであると為す人もある。 (7)櫨の谷窯 西松浦郡南波多村(現伊万里市南波多町)大字高瀬字櫨の谷にある。鉢・皿・茶碗などが多く作られ、素地白く、海鼠釉・透明釉などがある。 (8)大川原窯(前期) 同じく南波多の大字大川原樅の木谷にある。陶技・製品・釉薬などは岸岳窯と同じく、海鼠釉を薄くかけたものが多い。此の窯の後期は椎の峯窯と同様の製品を出している。 (9)阿房谷窯 西松浦郡松浦村(現伊万里市松浦町)大字藤の川内字阿房谷にある。製品は鉢・茶碗・皿などが多く、絵模様は草木が画かれ、構図・筆致ともに稚拙ではあるが、一種得も云えぬ妙味がある。 (10)勝久窯 同じ松浦村大字提の川字勝久にある。阿房谷窯の下方数町の所にあるので、或は阿房谷下窯とも云われている。此処には最も多く天目茶碗が焼かれたものと見える。 (11)堂薗窯 同じ松浦村大字提の川字堂薗にある。製品は鉢・皿・猪口・茶碗・天目茶碗・天目釉の茶入などがある。絵は多く草木を画かれ、中には其の構図と云い筆致と云い実に軽妙なものがある。 思うに道納屋・阿房谷・堂薗の三窯は絵唐津の三秀とも云うべきであろう。 堂菌の由来を案ずるに、昔は社寺の茶園などを堂薗と呼んでいた。この附近に古寺(ふるでら)という地名があり、昔寺があったという伝説も存し、之を立証すべき資料として、永禄四年(一五六一)の刻銘ある大五輪塔の地輪が現に同村明尊寺に保存されている。明尊寺は徳川時代の創立であるから、此の地輪は同寺関係のものでないことは明かである。また桃川の松尾某氏には永禄四年と記された古位牌が祀られている。 此等を綜合すれば、此処は仏家と深い関係をもつのではあるまいか。殊に其の製品中、茶碗や天目茶碗の高雅なると陶画の優秀なるとは一層此の感を強くさせるものである。 以上列挙した諸窯は陶技上最も顯著な連絡をもつことが認められるので、之を一括して岸岳系唐津焼と称することにした。 さてこれらの諸窯は陶技上より見て新古の判別はつくが、これに年代を附することは不可能のことである。「陶器講座唐津焼」には、飯洞甕窯を元亨年間の創業とされているも、これは何等根拠のあるものとは思われぬ。大かた工芸志料に倣われたのであろう。殊に波多氏の滅亡と岸岳窯の廃滅を結付け、同氏の歴史を記すに、妄誕極まりなき松浦古事記や松浦古来略伝記などの誤れる記事を其のまゝ引用されているのは誠に惜しむべき事で、折角の窯址調査事項まで疑いを生ぜしむる嫌いがある。 元来、阿房谷・堂薗・藤の川内三窯の所在地は文禄以前までは波多氏の所領であったが、其後に於て鍋島氏の所領に帰したものである。処が鍋島家には元和二年(一六一六)朝鮮人陶工の金氏を藤川内に移した記録はあるが、岸岳陶工に関する記録は無いようである。また元和年間の創業とされている松浦村桃川にある瓶山窯は、同じ元和年間の開窯である唐津領の椎峯窯とは東西一里余の山地を隔てゝいるにも拘らず、陶技上の連係が認められる。然るに瓶山と阿房谷・堂薗とは僅に西方十数町を隔てゝいるにも拘らず、この間の連係は之を認めることが出来ない。これは阿房谷・堂薗が元和年間にはもはや存在しなかった事を物語るものではあるまいか。 第三節 椎の峯窯 (1) 田代窯・川原窯附焼山上窯・同下窯・甕の谷窯 西松浦郡大川村(現伊万里市大川町)大字田代及び川原其他比の附近に多数の窯址がある。製品は壷・片口・茶碗・皿・鉢・瓶などの下手物が多い。鉄分を含んだ粘土質の素地に黒縁色の透明釉が施されているのが目立つ。絵は粗雑な植物が主で、中には尺鉢の内面全部に太々と麦穂や忍冬などを画かれたものもある。蓋し年代は大分下っているようである。 (2) 椎の峯窯 南波多村大字府招字椎の峯にある。茶碗・鉢・皿・壷・片口などを初め、各種のものが焼かれ、透明釉・海鼠釉などが用いられ、古い製品には高台無釉の岸岳類似のものもあるが、時代を下るに従って高台は小さくなり、其の内面にも釉を施すようになり、また銅釉の青緑色や三島手の象眼や白釉の流し掛けや絵唐津などがある。 以上の諸窯は共に唐津藩主寺沢氏保護の下に朝鮮人陶工によって創設されたもので、爾来徳川時代を通じて業を続けて来た。よってこれらを一括して椎の峯系唐津焼と称する事にした。 右諸窯の起源を尋ぬるに、中里旧記(後註)によれば 一、椎の峯焼物師先祖之儀は寺沢志摩守様高麗御陣の節御連れ被成候高麗人にて名は知り不申候 一、高麗人彌作・彦右衛門・又七 比の三人の者共初めて大川野組田代村にて五七年間程焼物窯立て焼き申候、其後同組川原村へ焼物窯立て拾年程も焼き申候、其後府招村之内椎の峯へ引越し、窯立て焼物仕候、今年迄大方八九十年余に罷成申哉と奉存候、右の高麗人田代村並に川原村へ住居申候内は卸茶碗は焼き申さず、悪瓶杯を焼き申候由伝へ居候 とある。此の記録は老中井上河内守よりの尋ねにより、享保四年(一七一九)十一月十一日郡奉行立合の席上椎の峯焼物師一同が開陳した口上書の複本である。されば此の記録は十分信を置くことが出来よう。 中里氏には明治十七年(一八八四)中里敬宗によって書かれた記録がある。よって之と別つため、享保四年の記録を中里旧記と称することにした。 してみると、此の三窯は豊公征韓役後我国に帰化した鮮人陶工によって創められたもので、陶器講座唐津焼の條に、慶長年間(一五九六〜一六一四)に岸岳陶工の創業とされているのは誤りであると見ねばなるまい。 但し元和以前に既に岸岳系の陶工によって椎の峯に創られていたと想定することは賛成であり、またしかく考えられる点もあるが、それが慶長年間の創業であると断定するには更に確実なる資料によらねばならない。 第四節 藤の川内系 (1)藤の川内窯 松浦村大字藤の川内字茅の谷にある。製品は壷・徳利・片口・茶碗・皿などがある。中でも徳利は其の作行と釉薬が最も珍の山焼に類似しており、皿・茶碗などは阿房谷・椎の峯にも相通ずる所があり、絵模様は阿房谷と川原諸窯との中間に位するようである。 (2)瓶山窯 松浦村大字桃の川字瓶山にある。製品は壷や甕が主で、徳利・鉢・皿・片口などがある。作行は阿房谷や堂薗とは全然異なり、黒緑色の透明釉は田代窯のそれと酷似し、白土の刷毛掛けは杵島郡黒牟田窯のそれと酷似している。 (3)金石原窯 松浦村大字中野原字金石原にある。壷・徳利・茶碗などを始め、その他種々の種類が焼かれ、高台は高くて薄く、釉薬は海鼠釉や均(きん)窯風の青禄色が最も鮮かに出て、黄褐色や赤褐色・黒褐色など多種多様である。 以上の諸窯の中、藤の川内窯は元和二年(一六一六)佐賀郡金立村より移転したものであることは、前章佐賀系の條に述べた通りである。また瓶山窯は元和年間に中野神右衛門の支配下に創められたものとされている。金石原窯は其の創業は不明であるが、其の製品は藤の川内とも類似しているが、比較的後代まで継続されていたものと見える。 此のほか松浦村には山形・中野原など多数の窯址があるも、皆同系のもので、其の製品にも特徴のある物がないから、之を省略することにする。 第五節 椎の峯窯の盛衰 (1)椎の峯崩れ 椎の峯の起源に就いては前節に述べた通りで、創業以来益々隆盛に赴き、一時は戸数三百五十を数えるに至ったとさえ伝えられている。 元来此の地方は唐津城下とは六里許を隔てゝいるのに、伊萬里地方とは僅に一里許を隔つるにすぎない。それで此処の製品は伊萬里に送られ、伊萬里商人によって諸方に販売された。利を見るに敏い商人は陶工に資金を融通し、その製品を引取る事にしたので、陶工は活殺の権を握られ、負債は次第に累積し、遂に返却の途なきに至った。是に於て商人側は之を唐津藩に訴え出た。藩では調査の結果、其の曲陶工側にあることを認め、主立った者を処罰し椎の峯から追放した。此時の事情は中里旧記に次のように記されている。 椎の峯崩れ候は元禄十年六月より出野(いでの)村大庄屋与次兵衛支配に被成候て四年目、辰の春(元禄十三年)中に公事(くじ)に成り、つぶれ申候。此の公事の儀は佐賀領伊万里の者共御用〇〇〇〇と申候て、銀子〇〇〇〇〆目程も借込み、段々不納に被成候故、伊万里より唐津御役人中へ申候。上より御尋ね有之、椎の峯山中、与次兵衛相手に被公論致候、其節山中落度にて方々に入り百姓に被遣候。未の年(元禄十六年)十月也 (下略) 惜しい事には、此時より椎の峯窯は俄に衰微するに至った。されど此事に関係なかった甚右衛門の一族はなお椎の峯に残り、窯業をつゞける事が出来た。 のち宝永四年(一七〇七)に至り唐津城下に坊主町窯が開かるゝに及び、椎の峯窯は此処の住民に委托さるゝ事になった。享保六年(一七二一)に至り加右衛門・久五郎の二人に命じて修復してせしめ、破損せざる程度に之が使用を許可された。その後製品は粗悪となり、薪材は不足を告げ・経費は益々嵩み・営業はいよいよ困難となり、享保八年(一七二三)に廃業の己むなきに至った。これより以後は山運上(焼物税)は納めず、心のまゝに僅ばかりの窯を立てていた。(中里旧記の大要をとる) (2)平山窯と梅村和兵衛 正保四年(一六四七)寺沢兵庫頭自殺するや、水谷伊勢守幕命によって唐津城を管することとなった。此時梅村和兵衛なるものが江戸から扈従して来たが、間もなく大久保加賀守が領主として入部したので、和兵衛は去って鹿家に至り、それより佐賀領有田・平戸領三河内などを転々として再び唐津に帰り、加賀守の許可を得て相知村平山に閧窯することとなった。処が椎の峯の陶工らが之に反対し、僅四五年にして廃業の己むなきに至り、和兵衛は和多田村の御茶屋番となった。間もなく焼物師を命ぜられ、大川原窯に御用窯一間を増設して主に細工物を焼いた。 この和兵衛は茶道の趣味も深く、器物の鑑識眼もあり、絵画にも長じ、最もヒネリ細工をよくしたので、唐津焼の細工物は其の指導に負うところ頗る大なるものがあった。延宝七年(一六七九)大久保氏が総州佐倉に転封せらるゝに及び、和兵衛も亦伴われて唐津を去った。一説には松平和泉守の時笠椎に窯を立て、土井周防守の時まで坊主町窯にいたとも云われている。 (3)坊主町窯とお茶碗竃 元禄年間(一六八八〜一七〇三)の椎の峯崩れの後は甚右衛門と其子太郎右衛門が居残り窯業を続けていたが、宝永四年(一七〇七)に至り唐津城下の坊主町に窯を開き、翌五年太郎右衛門と彌兵衛の二人が此処に引越することゝなった。 のち数年にして窯は町田村唐人町に移った。移転の年は不明であるが、享保十三年(一七二八)頃かと謂われる。そしてこれはお茶碗竃と称し、土井・水野・小笠原氏を経て、明治の初年(一八六八)に及んだ。三島手の唐津焼に狂言袴や雲鶴模様のあるのは、小笠原氏より徳川家への献上物であると云われている。 また中里家に残る言伝えには土井・水野の時代は日田代官の下に御用品を焼いていたのが、小笠原氏の時より藩の御用窯となったと謂う。 |
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第十六章 教 育 一、藩 学 唐津藩は屡々領主の交替があったゝめ、前後を通じて一貫した主義の下に藩士を教育することが出来なかった。従って挙げて言う程の学者もいなければ、また教育者も出ていない。只土井侯の頃郡奉行吉武義質があって夙に教育の必要を感じ、職を辞して専ら士庶の教養に務めたので、村々に好学の風が大に興った。併し藩学として特筆すべきものはなかった。 小笠原侯の時に至り、藩校として志道舘を設け、大野右仲・村瀬轟・山田忠蔵らを学監として専ら家臣の子弟教育に当らせた。学派は朱子学で、殊に山崎闇斎の流を汲んだ学と行との一致を旨とした教えで、実行の伴わぬ学問は無用の技として之を却けた。授業は早朝より始まり十時頃に終り、尚篤学の士は館内の九思寮に残って寮長芳賀庸之助の指導下に研鑽を励んだ。殊に図書頭長行の治藩中は大に学問を奨励したので、好学の風愈々盛んとなり以て明治維新に及んだ。 二、村 塾 土井氏の頃吉武義質が処々に村塾を開いて庶民教育に当ってより、各村競うて塾を設けるようになり中でも浜崎村の落合子曠・相知村の進藤確斎・厳木村の秀島鼓渓らは其の最も顯著なものであった。また唐津町に大草求玄・同晩翠、見借村に宗田澗山らがあって、主に数学を教授し且つ経書をも併せ講じたが、これらの諸塾は比較的程度も高く、其の門下生より小田周助・杉山伊作などの逸材も出た。 庶民教育の制度は既に佐賀藩教育の條に述べた処と大同小異であるから、ここには之を省略することゝした。左に土井氏の頃より小笠原氏の時代に至る大凡百二十年間に各村に設けられた村塾の略表を掲げることにする。
(東松浦郡史) 三、教育者小傳 吉武法命 名は義質、通称団四郎、法命は其号である。土井侯の家臣で天和三年(一六八三)九月十一日江戸柳原に生れ、長じて三宅尚斎の門に入り程朱の学を修め、税官監司管船官などを歴任し、享保十七年(一七三二)病を以て致仕し、爾後相知・浜崎・玉島・平原・徳末・吉井・佐志の七ヶ所に塾を設け、其の村の里正や徳望家を以て塾頭となし、自ら之を巡廻して子弟を教導した。其の説く所は人の正道は即ち天の理法と一体にして、学問は私利私慾を去って此の正道を実践躬行するに在りとした。されば其の教化によって風俗大に改まり、多く孝悌節義の人を出したので、門弟前田正命は津府孝子伝を編纂するに至った。 宝暦九年(一七五九)十二月三日七十七歳を以て唐津城中で歿した。墓は唐津城南方の神田村(現唐津市神田)にある。(先覚者小傳・法命の墓碑銘) 大草求玄 名は政義、通称は庄兵衛、求玄は其の号である。安永八年(一七七九)唐津久里村に生れ、十五歳にして江戸に至り、剣法を木村伝次郎に、儒学を柴野栗山に、画を細井廣沢の門人惇信に学び、中年にして砲火術を森重勒負に学び其の奥儀を極めた。なお関流の数学にも通じ天文暦法に至るまで通ぜざる処なしと称せられた。文化四年(一八〇七)蝦夷に至り露人の暴行警衛に功あり、五年江戸に帰り老中青山下野守に賛賞せられ、文化七年江戸を出て諸国を歴遊し、其の間会津・熊本に於て砲術を伝え、甲斐に至り代官佐々木道太郎に奥儀を皆伝し、天保十二年(一八四一)十二月江戸神楽坂の旅宿で歿した。享年六十三、著書に海防録・戦要砲火術などがある。 大草晩翠 名は政徳、通称は銃兵衛、晩翠は其の号である。享和三年(一八〇三)十一月廿一日唐津に生れ幼にして父を亡い、母に養育せられ、最も学を好み、郷師について業を修め昼夜を別たず刻苦勉励したので、十九歳にして擢てられて藩侯小笠原長昌に仕え、四十三歳にして出でて甲斐に至り、叔父の門弟佐々木高陳に就いて砲術を学ぶこと三年、求玄流の奥儀を極めて帰藩し、再び藩に仕え、実用館を建てて藩士に砲術を教えた。また深く吉武法命に私淑し、時習堂を邸内に設けて士庶の子弟を教養した。蓋し其の教を受くる者六七百人に及んだと云う。明治四年(一八七一)廃藩に及び家督を長子政秀に譲りて悠々余年を養い、明治六年八月十六日七十一歳を以て歿した。 落合子曠 名は安重、通称は与吉、子曠は其の号である。寛保二年(一七四二)浜崎村船大工の家に生れ、青年の頃誤って腰を痛め、家業を継ぐ事が出来ないので、二十七八歳の頃より相知村向復斎の門に学ぶこと数年にして舎長となった。復斎の歿後其の遺命に従い、京都に上り山田静斎の門に入り、幾くもなく認められて其の舎長となった。既にして静斎の推挙により伊勢長島藩主増山河内守の儒臣となり、世子及び家臣らに教えたが、世子が学を好まざるを憾み、長島を辞して栗山の門に入り研鑽数年益々学徳を積み、帰里に帰って専ら郷党の子弟を教導した。其の説くところは吉武義質の天人一理の心法に遵い功利虚業を避け、孝悌仁愛の実践窮行を主としたので、郷党ために醇厚の風を成すに至った。文化四年(一八〇七)四月二十二日病を以て歿した。享年六十三。(先覚者小傳・東松浦郡誌) 宗田澗山 諱は義晏、通称は運平、澗山は晩年の号である。天明七年(一七八七)名護屋村に生まれ、十一歳にして横竹村富田楽山に学び、十四歳にして見借村に移り、柏崎村の稲葉伊蒿の門に学び、十七歳にして見借村の庄屋となった。二十五歳の頃より藩主水野侯の儒臣司馬廣人につき大和流の弓術をも併せ学び、二十八歳の時原田活機(団兵衛)の門に入り、関流の数学を学び研鑚を積むこと五年、藩侯浜松に転封せらるゝに及び、師の命に従い筑前怡土郡武村の代官原田多仲太の門に入り、更に算術・天文・暦法を学び、授時・貞享・宝暦の暦法は元より、西洋の暦法まで研鑚を究めた。文政十一年(一八二八)小笠原侯に召され、研学の功を賞せられ、同十四年大庄屋席に列せられた。弘化元年(一八四四)京阪に遊び、江戸に来りて長谷川善右衛門に就き、見・隠・伏の伝授を受けて帰國した。以後は藩士村民の就いて学ぶものが多かったが、大成に至るものは至って少く、見・隠・伏の三免許を受けたものは小田周助・杉山伊作の二人、見・隠の二免許は秋山興太・古川壽助・宗田外九郎の三人、見の免許を受けたものは中江幾蔵の一人にすぎなかった。運平は後暦数の教授を小田周助に譲り、専ら経学を講義していた。小笠原図書頭親しく運平を訪い、之を慰諭賞与せられた事も度々であった。文久三年(一八六三)六月年方に七十七、職を長子外九郎に譲り以後は澗山と号して専ら文墨を楽しんだ。(先覚者小傳・東松浦郡史) 進藤確斎 諱は誠之、通称は源助、確斎は其の号である。相知村の酒造家伝兵衛の三男にして、宝暦十年(一七六〇)十月二十五日の生れである。少にして梶山村の峯復斎に学び、帰郷の後は家業を継ぎ、傍ら塾を開いて子弟を教養した。藩主水野侯之を賞し畑島村の庄屋を命じ且つ年米十俵を与えられた。爾来門生益々多きを加えたので、公職を辞し、山崎村に希賢堂を開き専ら諸生の教育に努め、次いで小笠原侯の時に及んだ。侯も亦年米七俵を賞与せられ、益々子弟の教育に精進した。文政五年(一八二二)四月二十日六十三歳を以て歿した。確斎は祖父以来代々吉武法命の学統を継ぎ、其の説く所は実行を伴わざる議論を無用の技となし、実践を肝要とし、自ら範を示して子弟を導いたので、此の徳に化せられ郷党ため に敦厚の俗を成すに至った。 秀島鼓渓 諱は義剛、通称は寛三郎、鼓渓または信斎と号した。天明五年(一七八五)浦川内村里正の家に生れ、幼にして進藤確斎の門に朱子学を修め、少にして父の職を継いだ。のち私塾を邸側に開き明倫塾と名づけて子弟の教育に努めたので、藩主小笠原侯より金品を賞与せらるる事も度々であった。資性温厚の人で、堅く師の教を守り、詩文を以て学者の末技となし、実用の学を以て本旨となし、実践躬行以て子弟を導いた。常に塾生に教えて曰く、「人の不善を罰するは人の善を揚ぐるに如かず、人の善を揚ぐれば人競うて善を行ふ、人善を行へば罰は用ふるの要なし」と。仍って積慶録を編し、郡内古今の善行者を録し以て之を顯彰したので、一郷ために其の風を改むるに至った。老年に至り専ら著述に従事し易経本義解・積慶録・農桑道利・松浦記集成・鼓渓剳記など十余種に及んでいる。明治四年(一八七一)五月二十一日八十七歳を歿した。 |
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第十七章 宗 教 一、神 社 |
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田島神社 もとの国幣中社田島神社は呼子町加部島にある。祭神は中立に田心姫尊、左側に喘津姫尊、右側に市杵島姫尊、相殿に大山祇神・稚武王命を祀っている。 三代実録によれば、貞観元年(八五九)正月廿七日肥前国従五位下田島神社を従四位下に進め奉り、爾後数回位を進め、元慶八年(八八四)十二月十六日には正四位上に進階されている。 また神社啓蒙によれば、稚武王を祀り上松浦明神と号すとある。松浦に上下の別が出来たのは鎌倉以後のようであり、松浦明神は鏡神社を言うのであるから、上松浦明神云々は恐らく何かの誤りであろう。 されど下松浦の志自岐島に十城別命を祀る志自岐神社がある点より見て、上松浦に稚武王命を祀る田島神社があることは、最も意義深いものがある。案ずるに、仲哀天皇は熊襲征伐に当り此の二皇弟を派して松浦の諸族を綏撫せしめられたのであろう。さればこそ神功皇后が松浦の海人を率いて征韓の大業を遂げさせたもうたのではあるまいか。ともあれ地勢上より見て神功皇后征韓の前進基地は此の松浦であった事は疑いの余地ない処で、三女神を祀られた加部島に稚武王が鎮将として後方を固められたと解することは最も当を得たことであろう。 補註「神功皇后の三韓征伐」は既に神話に属し、どこまでを史実として信憑すべきかについては問題がある。またこの地方に附会の傳説が多い。田島神社の創始や祭神の由緒については詳しいことは知られないが、此の神社が此の地方に於ける最も古く且つ最も重要な神社であっただろうことは、延喜式神名帳に 肥前国四座 大一座小三座 松浦郡二座 大一座小一座 田嶋坐神社 名神大 志志伎神社 基肄郡一座小 荒穂神社 佐嘉郡一座小 与止日女神社 とある記録によって知ることが出来る。 なお、此の神社のある加部島が古く田島と呼ばれたことは右の神名帳の記録によって知られるところであるが、その他に古くは姫島と呼ばれ、秀吉の名護屋築城のときに壁島と名付けられ、後に今の字に改められたのだと傳承されている(飯田一郎記) 鏡神社 鏡神社の祭神は一の宮は神功皇后・二の宮は藤原廣嗣である。 一の宮の起源については太宰管内志に 豊前風土記に昔息長足姫尊松浦山に在し、遙に国形を覧はして勅祈して曰く、天神地祇我が為に助福せよと、乃ち御鏡を用ゐて此所に安置し給ふ。其鏡化して石と為って在す、故に鏡の宮と曰ふ」とあり、此説は詞林採葉抄・神社啓蒙等に引出たるも、肥前風土記と言ふものには見えず (原漢文) とある。二の宮の起源については松浦廟宮本縁起なるものがあるが、之はどの点までを信ずべきか頗る迷わざるを得ない。但し廣嗣を祀ったものである事は疑問の余地はない。 此の宮が遠く平安朝より有名であったことは、源氏物語玉葛の巻に「君にもし 心たがはば松浦なる 鏡の神をかけて誓はむ」とあるのによって知る事が出来、また源平盛衰記や拾芥抄などにも見えており殊に吾妻鏡には鏡神社の社人が高麗の沿岸を掠奪したことなど見えているので、此頃には相当の勢力をもっていたことが知られる。 戦国時代は此の宮の大宮司草野氏が附近の諸豪と互に攻争をしており、遂に豊臣秀吉のために滅ぼされたので、鏡神社も亦俄に衰微するに至った。松浦古事記に 御社境内八丁四方にして方一里、下馬下乗なり、境々の印の所を八丁塚と云ひ、宮殿・七堂・伽藍・惣廻廊・釈迦堂・毘舎門堂・不動愛染両明王・末社数々なり、鐘楼門・山門・仁王門・一二三の華表・御供殿・普請方諸役三百二十人(中略)往古社僧領一萬石、下社官十八人、大宮司より分ち之を与ふ。 其後草野の威強くして領有廣くなり、此地方一円領所となり、社僧・法師・政所坊・宮師坊・御燈坊・御供坊・転法院を初めとして、草野よりの賄と成って領所の内を分け与ふ。(下略) とあり、また松浦古来略伝記という書に 神主は草野宗櫻之苗裔(百二十町)、下社家十軒・諸寺院合百二十三軒(天台宗)、桓武天皇延暦三年御寄附有之 (落字あるべし)、日本国中の諸大名年々馬市を施行す(但九月一ヶ月也)、又今上皇帝宝祚延長並武運長久の為め紺紙金泥法蓮華経巻数七十巻、同金剛経拾不願数六十巻(紫唐書也)、波多氏橘好政之を寄附す(下略) (原漢文) とあり、次に寺院名百八十五ケ寺を列挙している。此の松浦古事記と松浦古来略伝記とは同種類の書で其の記事は妄誕奇怪取るに足らぬ点が多いけれども、此の鏡神社に関する記事だけは徳川時代の中頃までは相当の霊容を保っていた事を想像させるに足る文字と思われる。惜しい事には明和七年(一七七〇)の火災によってさしもの宗廟も全く烏有に帰した。幸に時の藩主水野忠任の奉仕によって小規模ながら社殿のみは再建されて今日に及んでいる。 |
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二、仏 教 唐津領は所謂松浦庄のあったところで、もともと筑後の国守國兼の所領であったものが、転々して東寺の所領となったことは既に前に述べた通りである。(第二編第五章第五節)されば鏡神社も当然東寺の支配下に入ったものであろう。 真言宗の弘通と稲荷信仰 そもそも此の東寺は桓武天皇の建立になったものを、弘仁十四年嵯峨天皇が僧空海に賜わり、空海が之を教王護國之寺と号して真言宗の道場としたものである。かゝる由来をもつ東寺の支配下に属した松浦の宗廟は自然真言宗の神社となってしまったのであろう。此の松浦地方の宗派が鏡神社と共に真言化していることは、次の諸点を見ても知ることが出来る。 一、先年鏡神社の境内から発見された経塚よりの出土品中には真言信仰の対象たる大日如来の火焔光背と認むべき鉄製品があった。 二、無怨寺は真言宗であった。此の鏡神社の大宮司たる草野氏の住所の側に在り、藤原廣嗣を祀った無怨寺大明神の神宮寺である。明治維新の際神仏分離によって神社は大村神社と改まり、寺は廃寺となって終った。 三、松浦地方には真言系の白山神社が至る処に奉祀されている。これ即ち真言信仰の分布を物語るものであろう。 四、相知の鵜戸の窟は昔時の平等寺の廃墟であるが、此処にある磨崖仏には不動明王の像がいくつもある。此の不動尊も亦真言信仰の対象仏であるから、此の寺も真言宗であったものと認められる。 五、古来松浦地方は稲荷信仰の盛んな処で、各戸之を祭らない家はない位であるが、これは真言関係の信仰から来ているものと思われる。 さて空海は東寺を教王護國之寺として経営し初めたとき、伏見稲荷を勧請して此の寺の守護神と仰いだ。蓋し神が仏法を擁護したもうという思想は、奈良朝から平安朝の初期にかけて起ったもので、山王七社を延暦寺、春日明神を興福寺の守護神と仰いだように、稲荷大明神を以て東寺の守護神として奉祀したのである。されば東寺の支配下にあった松浦地方に稲荷信仰の風が盛んに行われたのも当然の事であろう。(松浦史料第二輯 十坊山と鬼ケ城に就いて参照) |
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三、キリスト教 唐津領馬渡島(旧斑島と書く)にキリスト教の分派なるカトリック教徒の部落がある。之を新村と称え、本村の仏教徒部落と区別している。 教会の記録によれば、最初の来住者は有右衛門と云って長崎県黒崎村の生れで、彼の父は清左衛門、母はイツチヤと云った。妻はキクと言って長崎港口の硫黄島の産で、其の父は愛右衛門母はマチと言った。有右衛門とキクの間に出来たのが勘兵衛で、寛政十一年(一七九九)の生れである。 勘兵衛の妻マツと言って、タンゴの今福の者で、彼の夫が切支丹信者であることは終生知らなかった勘兵衛とマツとの間に出来たのがカネ、カネの婿は元助と言って同郷黒崎の生れであった。 名護屋村の戸籍簿によれば、勘兵衛の生れは寛政十一年四月五日となっている。されば有右衛門の入島は凡そ寛政の初頃と見るべきで、これ即ち本島切支丹の開祖であろう。 世間では寛永十五年(一六三八)天草の乱後四散した切支丹の一部が此島に移住したものとされているが、これは単に天草の乱と切支丹とを結付けた俗説にすぎぬものであろう。 案ずるに、 @時の領主兵庫頭堅高は乱徒の為に天草四万石を没収されたので、天主教徒に対する憎悪は特に深甚なるものがあった。されば唐津城下より程遠からぬ馬渡島に来住すること他地方に此して一層危険性が多かったのであろう。 何も好んで此島を選ばねばならぬ事もあるまい。 A本島の地形は単調で深い森林もなければ幽谷もない。また南部の本村以外には舟を泊すべき錨地もない。故に本村と全然隔絶して生活する事は絶対に不可能である。 B文政(一八一八〜二九)頃の馬渡島の戸口調査によれば、戸数三十戸、人口百二十六人(男六十九人・女五十七人)とある。名護屋戸籍簿によれば、文化文政頃の本村二十戸、新村十二戸である。 此の数字は両者略一致している。元来キリスト教徒は間引くことを罪悪とし、兄弟分家の慣習を持っている。それで文政年間の十三戸は四十年後の文久年間には三十七戸となっている。之より推測すれば、若し寛永年間の移住とすれば約百八十年を経た文政の頃には相当増加しているべきで、それが僅に十三戸とは余りに少い様である。 以上の諸点から見て、キリスト教徒の来住は寛永年間にあらずしてやはり寛政年間と見るのが妥当であろう。 彼等信徒の語る処によれば、潜伏期に在っては信者一同が集って祈祷する時は必ず見張番を立て外来者を非常に警戒した。葬式には名護屋村龍泉寺を迎え、仏式によって埋葬し、僧侶を送り還えし、其夜密に堀かえし、キリスト教式によって改葬した。幸に彼等の墓地は本村とは隔っていたので、之が暴露することはなくすんだ。絵踏の式は名護屋村波戸岬で行われた。幼児等は周囲の重苦しい空気に恐れて泣叫ぶ者などがあった。其時は親が無理に押えて踏ましめ、又は親が代って踏んだ。式が終って家に帰り、必ず神に謝罪の祈りを捧げた。斯く信仰を維持するには無抵抗主義で、如何なる迫害にも耐え忍び一死殉教の覚悟であった。明治六年(一八七三)信教の自由が許されると、信徒一同は歓喜の涙を流して神の恵みに謝し、茲に公然カトリック教徒たる事を標傍し、教会を建て以て今日に及んでいる。 |
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第七編 江戸時代の平戸領松浦 第一章 江戸藩の領地 松浦壱岐守隆信は関ケ原の乱(一六〇〇)後徳川家康に謁して忠誠を誓い、旧領全部を領有することとなった。慶長九年(一六〇四)の松浦家記録によれば六萬一千八百七十九石余となっている。爾来盛んに國内の開墾埋立などを行い、明暦二年(一六五六)には十萬四千八百九十五石余となり、元禄年間(一六八八〜一七〇三)には次の通りに増加している。 元禄年間古分限帳 (川尻又一所蔵)
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以上平戸藩史考より、計数に不合の点あるも其のまゝ抄録せり。 明治四年王政復古につき藩主は累代相続の平戸及び壱岐國領地を返上、帰京有之 一、御帰京に就て旧領分士民中へ金五千両・米千俵恩賜あり、旧領地人家三万千九百九十一戸にて配分、一軒に当る銀三十八匁、金に直し三十二銭五厘宛受納、此の人員 一、人員拾四萬八千五百七人、内男七万六千六百十人女七万千八百九十七人 此内五百七十二軒馬廻の者、二百一戸役馬廻の者 三百六十一軒中小姓、三萬六百四十三戸徒士以下又は平民家数、計三萬千九百九十一軒也(大曲記) 平戸旧藩時代村々の事 一、相神浦七ケ村、新田村・山口村・申里村(中里村に代官所あり)・皆瀬・大野・柚木・里美を上四ケ村と云ふ。大野村に代官あり。 一、佐世保村・日宇村・崎針尾村・江上村・折尾瀬村・廣田村・早岐村 以上を南七ケ村と云ふ。代官所は佐世保と早岐里(早岐は代官二人)にあり、外に三河内に皿山代官と云ふあり。 総計十四ケ村、相神浦筋は郡代受持 一、田平三ケ村 田平里村・小手田村・下寺村、代官所は小手田にあり。 一、御厨筋四ケ村 御厨里・大崎・星鹿・田代 一、佐々三ケ村 佐々里・市瀬・小佐々、代官所は佐々里にあり。 一、江迎四ケ村 長坂・鹿町・猪調・江迎、代官所は長坂と江迎に在り。 総計 十四ケ村、田平筋は郡代受持 一、志佐里・高野・白井・調川、代官所は志佐里に在り。横辺田・世知原・福井・福島・鷹島、代官所は世知原に在り。 外に今福村 末家松浦大膳殿へ年貢収納有之代官は志佐筋より兼、庄屋は九ケ村繰廻し交代志佐筋は郡代受持 総計九ケ村 一、平戸筋 戸石川(平戸村と云う)中野・紐差・中津良・小田・宝亀・獅子・志々岐・津吉 総計九ケ村、平戸嶋は郡代受持 一、生月里・山田・大島(鹿島は大島附属)此の三ケ村は平戸島郡代兼務受持 一、笛吹・柳・前方の三ケ村は小値賀郡代受持 合計五十三ケ村 壱岐國・壱岐郡・石田郡の村々 可須・布気・本宮・立石・黒崎・新城・箱崎・國分・諸吉・中ノ郷・半城・志原・物部・武生水・渡良・筒城・初山・長峯・住吉・池田・石田・川北・湯岳・深江 以上合計 二十四ケ村は壱岐國郡代受持 一、平戸城下は新町・魚の棚・築地・木引田・宮の町・浦の町・崎方町。(大曲記) 第二章 平戸藩の諸制度 一、職 別 藩主の下に家老・老中・大中小姓・馬廻・徒士・仲間・足軽・郷足軽などの諸職制があったことは他藩と其の規を一にしている。 実務は以上の階級中よりそれぞれ階級に応じて命ぜられた。即ち郡奉行・町奉行・勘定奉行・旗奉行・寺社奉行があって行政上の事務を司どり、横目・大目付・目付・風俗目付・山目付・境目付などがあって警察事項を掌った。而して庶民に接触して徴税其他の一切の民治に当るものには庄屋があり、其の下に朸(さす)頭・五人組などの制度があった。 二、郡方諸制度 平戸藩に於ける士庶の心得となすべき諸般の事項を細大漏さず記したものに郡方仕置帳がある。其の中より特に注意すべき事項のみを左に抄録する事とする。 郡方仕置帳 (大谷義男氏所蔵) 寛政七乙卯年制定 一、公儀御制札之趣一統堅相守聊違乱之義無之様可申付事 一、惣て農民之儀は田畑を受持五穀を作り天下の人民を養候故、是を國の本共申、其職分至て重き事に侯、然ば昼夜共心力を耕作之事に盡し、少も他の念慮無之様、可仕儀に候、左候得ば邑里も日増に繁昌、風俗も次第に宜く可相成候間、郡中は勿論郡方の小役の者まで深く心を用、農業の儀一統相勤、村柄立直の御作法端々迄行届候様可申付事 一、下賎之者は物事勘弁薄く我儘に有之候へば、父母妻子兄弟親類之際に於て仕間敷事も不致貪著、諸法度並に時々申付候事をも等閑に仕候体のもの間々有之、不得止事罪科に申付候様成行候、就ては古来より郡方に於て五人宛組合を定め、其内に頭立候て父母に孝行を盡くし、兄弟妻子之間睦敷有 之候様心を附候儀は勿論、吉凶善悪共に相共に友吟味を以て不風俗之儀無之様、被仰付儀に候間、向後別て右組合之作法を正敷仕、夏冬両度に帳面相改、銘々名前之下に印形為致可申候、惣て組合之内違反者有之候歟又は不人品之仕方有之、不貧着に仕候躰之者は本人に准じ罪科に可申付候、且又孝行之者並奇特之者組内に有之節は可申達、相正し候上相違無之に於ては相達御聴にも御褒美可被下、若又鰥寡孤独之者有之致困窮、組内より心附候儀不相届節は吟味之上御救可被下に就、是亦可申達事 一、於郡方百石二百石又三百石と免を分け、田畑作受持候者は上中下之無差別、一免限に組合朸(さす)頭を定置、年貢其外諸懸物取立、萬事申触、裁判為仕候御作法に候間、朸頭申付候ものは人品は勿論、物事詳に行届候者を選申付、村柄も立直り候様可取計事 (此の後三條略) 一、田畑の儀は惣て作人を極、永代不変様に致候得ば紛敷儀も無之、手入等致候儀も心懸、能作人程行届、土地も次第に宜敷相成る道理に候得共、所に依り候へば、平等に不相成、亦は小供数多有之、竃を分け候節、又は無埒者等有之田畑割は配当致候節之差障にも可相成に就、右様の所は三年に一度、五年に一度宛、一免限、代官・庄屋・指(さす)頭共外所の老人・作方巧者の者寄合僉議の上、平等に割直し、振闡を以て作付相極、少しも依怙贔負不仕様、可申付事 一、米・大麦の儀は勿論、大小豆・小麦・胡麻・辛子・余計作らせ、米・大麦之変り小麦・大小豆・胡麻・辛子を年貢に納させ、米麦は土民共作徳に致、扶持方を貯候様に可申付候 (下略) 一、年貢納物之外たも、粟・稗・黍・琉球芋之類、何れも作人食物に可相成品に候間、相定の納物作入候間には、時節を考、明畑無之様に作附可申候 (下略) 一、茶・桑・麻・楮・ハヂ・棕櫚・木綿・藍・唐胡麻・クチ木・黒ツゞの実・センダンの実・柿・梨子・蜜柑・久年母・橙・其外樹木、品々入念作付候様、作人共別に可申付候 (下略) (此間八條省略) 一、百姓家古く相成建替候か、又は火災風破水損等有之、又は子供余計有之、新規に家作候節は 竹木共に其の最寄之山より可相渡に就、子細委敷書付を以て可申達事 一、百姓朝夕の薪 鎌伐之分は指免候、並茅山之儀は勝手次第に伐取らせ可申事 一、百姓屋敷之儀は三畝拾歩を一屋敷と定め可相渡候、右屋敷内に有之樹木並茶園・桑・楮等、其主に可遣候、三畝拾歩の外に有之樹木・茶園・桑・楮之類は相定通り運上納させ可申候 一、村々に於て女房懐胎候節、おろし候儀為致間敷候、出生之子不依男女踏殺候儀は勿論相禁候、致心得違萬一右躰之儀仕るに於ては其者曲事に申付、五人組中より過銭十五匁出させ可申候 一、就右は前々より相定通、子三人目よりは産婦養生之為米一升宛可相渡事 一、鰥寡孤独之者有之、五人組合は不及申其外村中にて心を付致扶助候ても不相届候はば、遂穿鑿其訳申達候は、早速救米可相渡事 一、人売買之儀は前々より御禁制候故に今曾て無之趣候得共、彌々右躰之儀無之様可申付事 一、百姓諸作人の子供は出家・山伏・保佐・商人・浦人に成間敷事 (此間十三條省略) 一、当歳より五ツ迄之百姓之子を養立候者は年廿五歳迄可召仕候。六ツより十を迄養立候ものは年廿迄可召置事 一、罪科之者一命を助、家中の者下人にとらせ候はば百姓筋にても永々其者に仕可置事 (此間十二條省略) 一、御領分中宗門改之儀春夏両度宗門奉行被差廻踏絵見届、紛敷儀無之通相改候様被仰付候、総て共懸之村之増減・出入等明細に相糺、郡代申承届可申達事 一、田地高守之儀は土地の善悪を上々一段、上一段、中一段、下一段、下々一段、都合五反に分け、左の通り高を守(もり)可申候 上々田一反高三石、上田一反高二石五斗、中田一反高二石、下田一反高一石五斗、下々田一反高一石 右之通古来より相極候も必竟上々之田地一坪に出来籾一升二合と定有之、一反に付三石六斗、三ケ二上り米一石二斗、四ツ物成極候時高三石に当り候故、右之割を以て推及、高之守高を定めたる事に候得ば、水旱風虫之害無之節は三ケ一は作人作徳に相成候、増而手入を能致、土地相次第に宜敷成行候得ば一升二合の出来籾は二升にも三升にも可相成、左候得ば作人共お手前迷惑之筋無之道理に候條、右之則りに不違様、高守可仕候、尤土地之善悪次第之差別右五段にも限間敷に就、其余は右五段之節を規矩に致し、夫より割崩候て、其土地相応之高守候様、可相心得事 一、田方年貢之儀は新吉之無差別、前々より左の通定候事 田高一石に付四つ物成に〆 米四升 口米一升二合 但物成米一石に付三升懸り 欠(かん)米二升六合六勺 但物成米三斗入一俵に付二升懸り 一、田地無高は見取物成にして其坪に出来候籾、諸毛見立之内三ケ二上り、口米・かん米・本物成同前可相納候、尤高懸無之田地にても本物成不出来地は、見取物成可相納之事 一、地方にて被下候知行所かん米は、物成米一石に付五升宛納させ、口米は知行主に被下候事 一、新田開発之儀 己前は三年作取為仕、其上にて土地之上中下に応じ相定通之高守年貢相納来候得共作人少にても勝手之為能様に迚、其後開発之田地開き候年より六年作取仕、七年目より致検地、其土地相応之高之半高を守り、口米・欠(かん)米共年貢相納候様にと被仰出、則高之守高左之通 上土地 一反高一石二斗五升 中土地 一反高七斗五升 下々土地 一反高五升 右之通相定居候間違乱無之様可相計候 (下略) (此間八條省略) 一、畑地高守之儀は土地之善悪を一村限に上々村一段、上村一段、上ノ中村一段、中村一段、中ノ下村一段、下村一段、下々村一段 都合七段致差引、左之通高を守可申事
(此表は原文に拠て筆者が作成したものがある) 一、畑方年貢之儀、新古之無差別前々より左之通相定候事 畑高一石に付四つ物成〆 米納四斗 夏二ッ四歩、秋一ツ六歩 口米、カン米、懸け様田方同前、但米其外雑穀は何品にても相定通、米引積を以可相納事 一、畑年貢之儀、見分之上土地能年々作出来本畑同前之所は四歩一上り、新開畑不宜所は五分一上り、所に依り作人手柄を以てやしない宜(よく)致候所は六歩一上り、村に依り本畑不足に付地畑開候土地も無之、遠き所に打開き致候は七歩一上り、見懸帳四段に致分、庄屋・指頭立合、入念畑内有物明細に諸毛にて見定、其上を代官致目利、平等に有之候様仕置、夏秋免奉行罷越候節、右見懸帳指出、上納算用極候様被仰付候得共、右之通にては年々打開候切畑多有之候得は、右畑に紛敷所有之に就、其後新畑定物成に被相極、年貢之納方左之通 一、上畑一升蒔に付上り米一升六合 内九合六勺 夏 内六合四勺 秋 一、中畑一升蒔に付上り米一升四合 内八合四勺 夏 内五合六勺 秋 一、下畑一升蒔に付上り米一升二合 内七合二勺 夏 内四合八勺 秋 一、下々畑一升蒔に付上り米一升 内六合 夏 内四合 秋 一、三下畑一升蒔に付上り米八合 内四合八勺 夏 内三合二勺 秋 右之通相定居候間違乱之儀無之様可相計事 一、百姓本役 月薪拾弐〆、壱〆代三分、茅畳一枚代七分五厘 一、大工・桶屋・木挽・本役年中七日二歩、一日一匁八分宛 一、鍛冶本役 銀九匁 一、染屋本役 銀七匁五分 一、百姓外田畑仕候者は、脇間人・内給人之無差別 一、茶運上 一升代一匁五分 一、桑運上代一石代羽綿拾匁 一、羽綿直段之儀は綿百目に付、上綿銀十二匁、中綿銀十匁五分、下綿銀九匁 右之通前々より相定居候間、中下綿相納候はば、上綿代銀に応じ候程相納させ可申候尤桑運上に相納残る分は相定銀可相渡事 一、藁運上之儀は田高十石に付、捷藁十把宛、一束代一分五厘 (以下四條省略) 一、田方検見之致方は元年貢之極方、其坪々に出来候米三ケ一を其作人徳分にして残三ケ一を上納と極め、此米を坪々之高に割付、四つ物成と碇と相定居候得共、水旱風虫の害有之損毛之節、四つ成無之所にては検見之上、免を極申事候、一免限に定候節は高何百石有之免にても、免中之籾見積り、三ケ一引残を以免幾つと相極、又一作人限に免極候節は、其者免越に作り候得共、其坪々を寄せ致毛取、有物を見極可申候、惣て作毛之善悪五段に取分け、上々一坪之籾一升二合と相定候得共、所に依り其も出来候免にては上々一升四合にも可相極候、上は一坪に一升、中は一坪に八合、下は一坪に六合、下々は一坪に四合と極、田地一反三百坪、米八升蒔、一畝を参拾歩と極、米八合之積を以、仮へば検見之田一坪一反有之内にても、出来毛不揃坪は何畝、上何畝・中何畝と幾段にも見極置、其米を集め、三ケ二を以て高に割合、免合可相定事 一、畑方は作毛半分作人徳分にして、残り半分を以て四ツ成上納仕様高を極有之候得共秋作計(はかり)にて上納 致侯儀成難に就、四ツ成を四歩六歩に分け、夏定めニッ四、秋一ツ六と相定居候、乍去年に依り定め難納、所々検見望候は有物見計(はからい)、免差引仕候、其致方は仮へば畑方何之免は一畝に大麦何程出来にし、前半分上りに〆定め可有之哉と相考、又は所に依り春畑多き村は何歩一春畑可有之と積り可致候、秋は麦後より雑穀色々作り、秋免方前に収納候ものは代官・庄屋見積り置、大小豆出来之様子次第、免可相極事 (此間四十三條省略) 一、村々郷普請出来候節は前々より相定通一人前三日宛之点役に相勤、四日以上は相定扶持方一日一人米八合宛可相渡候、尤他村より召寄普請申付候は二合五勺之賃米、都合一升一合五勺宛可相渡、三日点役之儀は田畑作り候者不残普詣差出、侍分之者は下人を出可申候、下人無之歟又は侍浪人は其分限に随て下奉行相勤させ候歟、裁判に出可申候、足軽・中間・空人は自分普請相勤させ、家中又は侍分並に徒士組足軽・中間之差別を以、其者相応之儀可申付事 一、寺社・山伏・保佐・組頭・町人・塩焼・諸職人に至る迄田畑作候者は右之通三日宛点役相勤させ可申事 一、御先手御弓之者足軽之儀は御城下へ無間も相話候故、三日点役之外は指免可申事 一、百姓外耕作不仕ものは普請役指免申事 一、空人或は老人・病者・人頼にて耕作仕渡世成兼候者は三日点役之外普請方可指免事 (此間五條省略) 一、村中惣出入之儀は上使御馳走、朝鮮人御馳走、殿様御通・御大名方御馳走、或は大橋懸け・水損等にて田・畑.堤・新田・土肥・道橋・大崩有之節又は御用之大水下し、小人数にて難成公用之節、惣人数出候事 附 廻國上使御通行之節在方へ居候御家中譜代之者、御同苗年寄中家来に至る迄宗門絵外踏之者は一統に脇指一本にて、荷物夫に可罷出候、尤駕昇並踏物等は為持間敷事 一、虫追浦岡水火之難有之節又は御茶屋作事、庄屋普請之節は百姓不及申、足軽・空人己下脇間者・家中家来・宗門絵外踏之者不残指出可申事 (此間二十五條省略) 一、衣服之儀 致絵踏候は男女共木綿を可相用候、絹類は不依何品堅可為無用候、徒士組以上踏絵御免之者は帯裏絹下着之分勝手次第可仕事 一、女髪飾・カウカヒ・カンサシ之類金銀は勿論、水牛・鼈甲之類堅可為無用事 一、奉行人之外百姓帳面之者、合羽・傘・下駄・足駄・雪駄・裏附草履不可用事 一、縁組相極候時結入等遣候儀不依何品無用に可仕事 一、嫁娶之時盃にて酒三献取肴にて祝可申候、此外料理吸物可致無用、但人に依り料理をも可仕身体之者は其前役人へ申達可仕指図事 一、聟入・舅入之時、何にても持参物可為無用事 一、媒之者並嫁を連れ参候者に引出物等遣候儀何品にても無用之事 一、伊勢参宮送迎酒盛之儀曾て仕間敷事 一、氏神祭り之節、遠所之親類他村之傍輩共寄合酒盛等致候儀可無用、寺社・山伏・保佐・座頭等へ相頼候はば、供物・布施・初穂等も至て軽く致し、一汁一菜之料理を出し、仲間中相伴仕候儀可無用事 一、寺社・山伏・保佐・座頭猥に祈祷・祈念を進め、諸氏をまどわし、又は内証勧化等仕貪ケ間敷儀有之におゐては、所の役人心を附曾て仕間敷候、万一承引不仕候はゞ早速可申達事 一、葬礼之儀其所其所にて仕来通、尚又質素に可仕候、其節合力に参候者へ酒食饗応候儀堅可為無用事 一、葬之節 村中に有合の出家参り候儀可為無用、旦那寺之僧斗可参事 一、葬候場所前々より有来免許之外新地取立候儀堅相禁候、萬一心得違致し免許無之地に葬におゐては顯次第堀崩せ候上、其者曲事可申付事 一、弔は前々より相定三日、三十五日、百ケ日此外年忌毎々可弔候、其節も旦那寺之僧を呼、身近き親類計寄合、一汁一菜之斎を出し可申候、布施軽く可仕候、勿論貧乏者寺へ軽さ布施物遣、似合追善可仕事 以上 (平戸藩史考より抜翠) 第三章 平戸藩に於ける天主教と外國貿易 一、ポルトガル人の来航 ポルトガル人が初めて我国に来航したのは天文十二年(一五四三)八月薩摩の種子島に漂着したのに始まるとされているが、実は之より以前の事であろう事は幾多の記録によって推定される。(竹越与三郎氏日本経済史第二巻第一章参照) 越えて天文十八年(一五四九)七月フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て領主島津貴久の歓待を受けたが、翌十九年夏ポルトガル船が平戸に入航したのを聞いて、転じて平戸に来た。 二、キリスト教の伝播 平戸は古くより海外貿易の有利なことを知っていたので、領主松浦隆信(入道道可)はポルトガル船の来泊を許していた。それでザビエルが平戸に来ると隆信は大に之を歓待した。ザビエルは滞留一ケ月にして鹿児島に去り、間もなくまた平戸に来り、九月下旬博多に出で、山口を経て京都に至り、復々平戸に引返し、更に準備を整えて山口に赴き、大内義隆に謁し、それから我國を去りシナを経て印度に帰った。彼の平戸滞在は僅に数ヶ月に過ぎなかったが、天主教の平戸領に於ける伝播は驚くべき速度で、天文二十三年(一五五四)には二百名、翌弘治元年には五百名、永禄元年には平戸附近の島々を併せて実に千五百名の多数を算するに至った。之は僅々五ケ年間の帰依者である。また永禄六年(一五六三)には生月島にて八百人、度島にて三百五十の島民全部が信徒となり、異教徒の来宿を許さないようになった。翌七年一ポルトガル人が日本よりシナに在るバートレ・フランシスコ・ベレスに贈った書翰に ドンアントニオの二つの島即ち度島及び生月には聖霊ありと信ず、此地は是まで発見せられた中、最も遠き異教徒の國なるが、其の信仰及び誠の教に帰依したる状は見たる者に非らざれば何人も之を語ること能はず、予は此の如き純潔のキリシタンにして此の如く悔改めをなす者を嘗て見たる事なし度島には全島中一人の異教徒なく、異教徒は一夜も此所に泊ることを許さず、バートレが金曜日にダイ二アを唱ふる時、諸人皆度島の会堂に入り、バートレがミゼレ・メイ・デウス(デウス吾を憐み給へ)と唱へ始むれば、キモノ即ち衣服を脱ぎ.父も子も大なるものも小なるものも、各其のヂンビリナを取り、ラタイニヤを唱ふるに連れて己を鞭ち、大なる信心と涙とを以て之を行ふが故に、石をも動かして泣かしむべし、而して一年中之を行ひ、又男女のキリシタン中共家よりキリシタンを葬る小山に在る十字架の許まで跪きて進む者多し。彼等の祈り又断食するところを見る時は僧院も励行派も之に此ぶべからず、彼等の口に唱ふるは悉く我等の主、聖母並に降誕の話及び歌なれば、予は彼等に比すれぱキリシタンに非ることを発明せり。又彼等は我等の如く度々呪の言を発する事なし。彼等の讃事は盡くる時なかるべきが故に此上述べず、予は此島には聖霊並に守護の天使ありと信ず、然らざれば此の如く有徳なること能はざるべし云々 (長崎叢書第二巻より) とある。此の記事には仮令誇張の処ありとしても、以て其の熱狂的信仰の様子を窺うに足るであろう。 三、平戸に於ける仏耶両教徒の争闘 初め道可公隆信はポルトガル人より銃砲などを得、之に用うる火薬製法の伝授を受くるため、生月の領主一部勘解由と度島の領主籠手田左衛門に命じてキリスト教徒たらしめたので、純朴なる島民は領主に倣い真心から帰依するに至り、此の両人も亦遂に熱心なる信者となるに至った。此のキリスト教徒は宣教師の教に従い、仏教を以て邪教となし、僧侶を目して虚偽欺*(目ヘンの滿)の悪魔とし、大小の仏像を悉く破却するに至った。是に於て仏耶両教徒の間に激烈なる争闘を惹起するに至った就中永禄四年(一五六一)平戸宮の前の騒動は最も激烈で、宣教師・船長以下乗組員三分の一のボルトガル人が殺された。是に於てポルトガル人は怒って平戸を引揚げ、大村領の横瀬浦に移った。大曲記に 大村殿をして横瀬浦に町立て、南蛮船を呼び取被成候、大村純忠キリシタンに御成候間、諸國のあきない船も平戸の瀬戸を打通り、よこせ浦へとなをりければ、知下に居住の旅人も横瀬浦へとなをり候間、平戸は大方物さびしく成候事も仔細ある事にて候 云々 とある。以て平戸の蒙った打撃の程を知る事が出来よう。 四、横瀬浦の開港と大村氏の内訌 大村純忠が横瀬浦を開いて貿易場とし、港内二里四方を免税して居留地となし、大にポルトガル人を優遇したのは、平戸が列國貿易の利を獨占し、外来の新武器を得ているのを見て羨望に堪えず、自らキリスト教に帰依し、依って以て彼等を招来して富國強兵の実を挙げようと考えたものと思われる。処が横瀬浦に於けるキリスト教徒の言動は此処でもまた仏教徒の反感を買い、大村氏の内紛に絡んで排斥を蒙るに至った。 もともと大村純忠は島原城主有馬晴純の次男で、大村嘉前の養嗣子となったものである。処が純忠の兄貴明は前に武雄城主後藤維明の養嗣子となっていたので、大村家の家臣中には此の貴明を迎えようとする一派があった。されば純忠には有馬方の有力な後援があるので、貴明は佐賀の龍造寺隆信と平戸の松浦隆信との後援を求めた。平戸では横瀬浦の繁昌を悪んでいる時であり、直に之に応じた。かゝる内情を知った仏教徒は此の機に乗じて暴動を起してキリスト教を排撃し、貴明も亦兵を出して横瀬浦を占領し、キリスト教徒を放逐して終った。之は永禄七年(一五六四)八月のことであった。 此の頃来航したポルトガル船は横瀬浦に入ることを知らずに平戸港外に碇泊した。隆信は平戸貿易の復興を希望したので、彼等の願を納れ、生命財産の保護と教会堂の建立を認め、斯くして間もなく天門寺が建てられた。之は同じ永禄七年十二月のことであった。之よりキリスト教は領内各地に弘布すると共に平戸埠頭には復々ポルトガル人の姿を見るに至った。 一万横瀬浦を逐われたポルトガル人は大村氏の保護の下に一時福田浦に居り、後元亀元年(一五七〇)長崎浦に移った。 五、秀吉・家康の天主教禁遏 織田信長は天主教の布教を許したが、秀吉は之が我國に害あることを認めて次のような禁令を発した。 定 一、日本は神國たる処 キリシタン國より邪法を授候儀太以不可然候事 一、其國郡之者を近付門徒になし、神社仏閣を打破らせ前代未聞候、國郡在所地等給人に被下候者、当座之事候、天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処、下々として猥義曲事候事 一、伴天連之知恵之法を以、心さし次第に檀那を持候と被思召候へば、如在日域之仏法を相破事曲事候條、伴天連義日本之地に置れ間敷候、今日より廿日間に用意仕可帰國侯、其中に下々伴天連に不謂族申懸者在之は曲事たるべき事 一、黒船之儀は商買之事候間、各別之條年月を経諸事売買致すべき事 一、自今以後仏法のさまたけを不成輩は商人之儀は不及申、何れにしてもキリシタン国より往還苦しからず候條、可成御意事 天正十五年六月十九日 朱印 (松浦伯爵家文書) かくて藤堂高虎をして長崎を没収せしめて直轄地となし、翌十六年(一五八八)鍋島直茂をして長崎代官たらしめ、単にポルトガル船の通商のみを許すことゝした。ついで文禄元年(一五九二)鍋島氏の代官を免じ、寺沢廣高をして之に代らしめた。秀吉の薨去後は徳川家康も亦同じく通商のみを許し、キリスト教の布教は禁止した。 六、和蘭人の来航 平戸に於ては早くよりポルトガル人に対して通商を許していたが、天正十五年(一五八七)イスパニヤ人が平戸に漂着するや、松浦隆信は又これを保護して貿易を許し、越えて慶長五年(一六〇〇)和蘭船が豊後に漂着するや船を造って彼等を送還せしめ、日蘭貿易の有望なる事を告げしめた。此時和蘭の航海長ウイリアム・アダムスは我国に留まり、家康の顧問となった。 既にして慶長十四年(一六〇九)和蘭船二隻平戸に入港して前の好意を謝するや、隆信は大に之を歓待した。 和蘭人は之より駿府に至り、家庚に謁し、アダムスの斡旋によって通商の許可を受けた。これより和蘭人は平戸の崎方町に商舘を立て、バタビアと連絡して貿易を始め、爾来寛永十八年(一六四一)長崎の出島に移さるるまで三十余年間、平戸は実に日本唯一の貿易場として繁昌を続けた。左は貿易全盛のオランダ商館の模様を記したものである。 慶長十六年領主に願ひ町家廿二軒を毀して住宅及び倉庫を新築した。元和二年更に倉庫一棟を建て防波堤を築いた。同四年更に附近の家屋五十戸を取払ひ、増築工事を起し、本館倉庫二棟・門・長屋・鳩小屋・石造火薬庫・病室等数棟を増し、所謂オランダ塀も此時出来たのである。本館はオランダ塀の直下から井戸の一側に及ぶ大建築物であった。常燈の鼻には三色のオランダ国旗飜り、防波堤の一端又望楼高く峙ち、堅固なる数棟の倉庫は崖下と海岸に並立ち、恵比須の埠頭にはアーチ形の門が建てられた。オランダ塀は本館内の児透を防ぐ為に設けられたのである。其の他塀の上下にも宏牡なる建物が出来た。要するにオランダ商館の居留地は境域数町に跨がり建築壮麗を極め、宛ながら城廓の様であった。(平戸藷史考) 七、貿易品 平戸は我国に於ける主要な生産地でもなければ消費地でもない。されば此処は単なる中継貿易地たるに過ぎない。従って平戸の輸出入品は当時我国と諸外国=シナ・マカオ・マニラ・シャム・マラッカ・ジャワ・印度乃至イスパニア・ポルトガル・オランダ=と取引された品々と略同一であろうと考えられる、依って戦国時代に於て行われた主なるものを挙げることゝする。 輸入品 金 ポルトガル商船がシナから我国に齎しまたは我商船が直接フイリツビン方面に到って獲得したものである。 鉄・鋼鉄 当時最も重要な輸入品であった。鉄は鉄砲や刀剣等の製作に使用されたもので、南蛮鉄と称するは此の輸入品である。 水 銀 主にシナから輸入され、鍍金用、また銀鉱製煉用として用いられた。其の価はシナで百斤につき銀三四十両のものが、日本では三百両にも販売された。 鉛 重要輸入品の一で、主に鉄砲玉または精錬用として用いられた。シナやシャム・太泥方面より舶載された。百斤が銀四十五匁乃至六十匁に価した。 滑 石 火薬の原料として用いられた。シャム産のものは特に良質で、慶長十二年頃は一斤が銀二匁二分に価した。 鹿 皮 フイリツピン・台湾・印度シナ・殊にシャム方面から輸入された。慶長十八年アユタヤに渡航した日本商人は鹿皮十二萬枚を買入れたため、オランダ商館が大に取引を阻害されたという事がある。之によっても我が商人の活躍の一斑を知ることが出来る。 鮫 皮 刀剣のつかを弉うために用いたもので、印度シナ方面から舶載されたものである。 蘇方木 此の木の煎汁に明磐を加えて赤色染料として用いるもので、シャムの特産で百斤五匁での仕入れが、日本では廿匁乃至廿六匁で売られた。(東西交渉史論上巻参照) 生糸・真綿 シナよりの輸入品中の主位を占むるものであった。毎百斤の価は銀五六十両で、日本で分売する時は五六百両に上った。次に糸綿即ち真綿で毎百斤が銀二百両に売られた。 其他シナよりは、銅銭・薬草・陶磁器・漆器・書画等、イスパニヤ・ポルトガルからは羅紗・硝子器・革製品・銃器・弾薬等の輸入があった。(竹越与三郎氏日本経済史第二巻第一章参照) 輸 出 品 我国よりの輸出品は之を詳に知る事は頗る困難であるが、当時の事情と諸記録に依って想像すると次のようなものであろう。 南洋方面に対しては南蛮人の食料となるべき麦粉・乾魚・塩豚肉や造船材料として鉄釘・鉄板・木板等の輸出が考えられる。 シナ方面に対しては刀剣鎗矛などの武器・鋼・銀・硫黄・箕黄や漆器・磁器・扇子・屏風・瑪瑙・琥珀・真珠・珊瑚・蒔絵・石王寺硯などの品目が数えられる。 而して貿易の利益如何を考えてみると、扇子一本が翰墨全集一部に替えられ、太刀一振八百文乃至一貫文の品が五百文に価し、一駄の代十貫文の銅半駄(五貫)が明州・雲州では生糸四五十貫文に替えられ金一棹十両=三十貫文のものが、生糸に替われば百二十貫文乃至百五十貰文となり、概して五倍乃至十倍となっている。(渡辺世祐著 室町時代史第十四章参照) 第四章 徳川幕府の天主教対策 一、徳川氏と天主教 徳川家康は初め海外貿易の振興を希望していたので、天主教の禁遏は左程厳重ではなかったが、関ケ原の乱に天主教徒が多数西軍に味方したのを見て憎悪の情が強くなり、其処に旗本や後宮にも信徒が潜在しているのを知るに及び、遂に慶長十八年(一六一三)日本全国に対して天主教排斥の大号令を発するに至った。されば彼等が徳川氏を悪むこと甚だしく、大阪両度の陣中には秀頼を援くる者が少くなかった。幕府は天主教徒を根絶せしめ且つ国民をして一切教徒に接触する機会を得ること無からしめようとして、寛永十年(一六二六)朱印船の外は外國渡航を禁止し、翌十二年には外國人の来往を禁止し、同十三年には全く外國との通商を厳禁し、一方天主教徒の大検拳を行った。此の弾圧は多数教徒の居住する地方ほど峻厳であったため、遂に翌十四年十月天草・島原の大騒動となったのである。 此役に平戸藩では十二月六日に花房権右衛門が先発として雑兵二百人、同廿日に三浦市之丞が後続隊として二百人、同廿六日に松浦大学内匠が本隊として五百人を統率して平戸を出発した。乱は翌十五年二月平定して、幕府は之より一層天主教の弾圧を厳しくしたので、各藩は旨を奉じて信徒の改宗を迫り応ぜざる者は或は殺し或は海外に放逐した。 二、ジャガタラ文 幕府の天主教厳禁によって最も打撃を蒙ったものは平戸藩であった。寛永十六年には幕府は平戸の和蘭商館を長崎に移し、平戸居留の和蘭人六人、イギリス人及び其の子女十一人に退去を命じた。此時退去を命ぜられた日系婦人が後年海外より母國の同胞に寄せた書信はジャガタラ文と称し、史家の最も珍重する所で、其の故國を思う綿々たる心情は一読胸に迫るものがある。左に其の一を抄録する事にする。 千はやふる神無月とよ、うらめしの嵐や、まだ宵月の空も心もうちくもり、時雨とともにふる里を出しその日をかぎりとなし、又ふみもみじあし原の浦路はるかにへだたれど、かよう心のおくれねば おもひやるやまとの道のはるけさも ゆめにまちかくこえぬ夜ぞなき 御ゆかしきまゝ腰おれかき付参らせ候、前業とは申ながら、かゝるうき世にかひなき命ながらへ申さむよりは、ただ世になき身となり候はゞ、いかにうれしからましを、たまたま花の世界にうまれきて、此身となれるとし月をかぞふれば、十とせあまり四とせほどとこそおぼへ候に、かくうらめしき遠き夷の島にながされつゝ、きのふけふとおもひながら、はや三とせのはるもすぎ、けふは卯月朔日、東雲にあすは出船と人の聞えつるに、せめて筆の跡してもとぞんじ、なみだながら硯にむかひ参らせ候、いまだ夜ふかきほどにていたふくらければ、ともし火すごすごとかかげつつ、おもひ出る事共かきつくるに此文のうら山しくも古郷にかへるよと思へば、我文ながらありしよりげにものかなしくて 水くきのあとはなみだにかきくれて むかしをいかに人の見ましや はづかしながら筆にまかせ参らせ候、そこもとよりの御文、ことに御ゐんしんとどきまいらせ候、まづまづ御つゝがなく御座なされ候よし、めでたくぞんじ参らせ候、さてさてそこもとの御文、くりかへし見参らせ候へば、ひとしほひとしほ御なつかしさ、御すいもしなされくださるべく候、わが身はいまにつれなきいのちにて、ながらへゐ参らせ候、いつのとき日にか日本を出参らせ候や、いまはさだかにもわきまへがたふ、こなたのとしつきにはなぞらへがたく、たゞよるひるとなくふるさとの、ことつかのまもわすれやらず、おもひなぐさむひまも御座なく候、たまたま故郷にて見申たるにおなじものとては、月日のひかりばかりこそ、そこもとにかはらず候ゆへ、ひるは日の出るかたをながめ夜るは月の出るかたを打ながめ袖のかはくまも御さなく候、かゝる憂世にながらへてかへらぬむかしをこひしやとのみおもはんよりたゞ此世になき身ともがなとこそいのりまいらせ候へ、さりながら又うちかへし思ひかへせば世をも人をもうらむべきにては御さなく候、幾萬づの人が此世にむまれきたる中に我身いかなれば異団の人の子とむまれ出たる事も、前の世のむくひありてこそとおもひ参らせ候、しからば今さら世をも人をもうらみ申まじき事にて御さ候、もにすむ虫のわれからと、ねをこそなかめ世をばうらみじと、二條の后もつらねさせ給ひしと、承り候へば、いささか世をも恨み申さず、われからとなくより外は御さなく候、さりながら此のまゝにてはてなんとは存申さず候、ただ一たび神や仏の御あはれみにて日本へ帰申へしとこそおもひ参らせ候、たとへ三日をすぐし侍らで、きへ果参らせ候共いささかくるしからず候、とかくすへは日本のつちとなり候はんとぞんじ参らせ候、あはれあはれ神や仏の御はからひにて、今一度御けんに入申たく候と、くれくれ念願にて御さ候、もしも又此世にて逢申さず候はば、わが身かねかね申たるごとく、友だちは七世の契と承り参らせ候へば、かならずかならず来世にてはめぐりあひ申べく候、げにげに御かたみの短尺、又おし鳥の羽など、かた時も身をはなし申さず持参らせ候、必ず必ず来世にてはこれをしるしにてめぐりあひ申すべく候、又ぞやわが身花だんのはなと仰せられて、御みせなされ候こそ、しづこゝろなくきへかへり参らせ候、此花のさかりには、そもしさまとこそながめまいらせ候に、かれかれになりはてゝ、ひとりながむる山ぶきの、とへどこたへぬいろなれば、そさまの花の袖の香に、おくれし夢の面影を、見ることだにもまぼろしに、あふはあふかはもろ共に、つゐに消なん露の身のわれや先だつ、人やおくるゝ、うらめしやありし世にだに恋しきを、めがれなく契参らせ候はで、今は何事も、みなあだことゝなり行、むかし語と成参らせ候事こそ、ふかきおもひのたねとあこがれ参らせ候、あらこひしのそさまや、しのばしの友人やひとへ二重の色のみか、やへ山吹をおくり玉ふ情のいろくちはてずおもへとの御心のうちとこそおしはかられ参らせ侯 山ぶきの花の千しほはかはるとも いはぬいろをばわれわすれめや われらこゝろの中いささかはりなふくれふくれおもひ参らせ候 もろともにうへてながめし山ぶきの ちりてもはなのおもかげぞ見る なつかしやこひしや、古郷を出しは、いつの時日にやと思へば袖のかはくまも御さなく候、いやしき夷の島にすみ参らせ候とても御おもひすてくだされましく候、わがみの露は秋の田の、穂の上てらすいなづまの光のまもわすれ申さず候、折柄雨風のそよぐにつけても、御なつかしきおぼしめしやられくださるべく候、あまり日本のこひしくてやるかたなき折ふしは、あたりの海原をながめ候より外は御さなく候、けにや古き歌に、大そらはこひしき人のかたみかはものおもふことにながめこそすれと読し人まで、身の上におもひあはせ参らせ候、又すぎにし彌生三日の日、家の中の女ばう達みなみなあそぴに出られ候に、わが身もさそはれ候へ共、参申さず候、それにつけても、そのもとの御事共おもひ出参らせ候、そもじ様へかやうにわかれ申事かねてより存まいらせ候はば、よるひるとなく離れ申さず、なれむつび候はんものをいつでもと思ふものから、有のすさびにもてなし参らせ候こと、今さらさら心にかかり参らせ候、わするべき時しなければむば玉のよるはすがらにゆめに見えつつと、古ことの葉におしはかり下さるべく候、細く申入たき事、浜の真砂のかずかずに候へ共、あまりあまり心乱れ、あとさきわかちかね候まゝあらまし申参らせ候、助右衛門様九郎様同じことに申参らせ候又ぞやこうぜん町おかた様へ文まいらせたく候へ共出船いそぎ候まゝそへ筆申参らせ侯、おたつ様へ申入候、何とて御文こまこまとあそばしくだされず候や、心もとなく存参らせ候、かならずかならず此舟のかへさには、御文くはしくあそばし下さるべく候、まことに我身居申時とおぼしめし、きくを御見捨くだされまじく候、かならずかならず秋の頃はこまこまと御文まち入参らせ候、何ぞゐんしん申たく候へども、めづらしき物も御さなく候まゝ、その儀なく候、心ざしばかりにわび一すぢおくりしんじ参らせ、もはや日本の花などはみなみなわすれ候てあらましおぼへ候、ものばかりぬい参らせ候、もし人の笑ひ申候はゞ絵そらごととおほせ被降候、又々平吉様へ申参らせ候、御無事のよしめでたくそんじ候、ことに御文うれしくおもひ参らせ候、しかれば何とて毎年御文くだされず候や、それのみふしんに思ひ参らせ候たとへそれがしかたへ文たまひ候はずとても、御心かはりとは存申さず候、かまひてかまひて此便には御文こまこままち入参らせ候、かやうに申候もせめて御筆の跡成共とぞんじ、ながめ参らせ候はんまゝ、こまこまとあそばし下さるべく候、あらむかしこひしやかしこ、一おたつ様へ申参ら候、爰もとあつき國にて候ゆへ、それより少持わたり参らせ候を、皆々つかひきり候まゝひよぶきやう一かい、此便にたのみ参らせ侯、細々申たく候へ共、筆にはつくしがたく候、下のうばへも申参らせ候、ずいぶんずいぶん息才におはし候へ、わが身もやがて帰朝いたし、御けんもじにて申まいらせたく候、あら日本こひしやゆかしやなつかしや見たや見たや 一松かさ、この事がしわのたね、杉のたね、ほうきぐさのたね、御ゐんしんたのみ参らせ候、かへすかへすなみだにくれてかき参らせ候へば、しどろもどろにてよめかね申すべくまゝ、はやはや夏のむしたのみ入候、我身こと今までは異國の衣しやう一日もいたし申さず候、いこくにながされ候とも、何しにあらゑびすとは、なれ申べしや、あら日本恋しやゆかしや、見たや見たや じゃがたら はるより 日本にて おたつ様 まいる (長崎夜話草) 右の文は日本婦人と和蘭人との仲に生れた、はるという当時十四歳の少女がジヤガタラに流され、此処より日本に来る唐船に托して故郷に送ったものである。此のハルはのち唐人の妻となり、子をも儲けて元禄九年頃まで長らへ、七十六七歳で死んだとのことである。 三、浮橋主水事件 平戸藩主壱岐守隆信は寛永十四年(一六三七)五月廿七日卒去した。時に隆信の殊遇を受けていた浮橋主水(佐志万市左衛門と云う)は藩の旧慣に従って当然殉死するであろうと予想されていた。 然るに主水には其の事が出来なかったので、痛く衆人の指弾侮辱を招き、居住に耐えなくなった。主水は之より藩臣を怨み、却って主家を呪い、私に江戸に奔り松浦家は熱心なる切支丹信者なりと、其の証拠をあげて密告した。是に於て幕府は品川東海寺の江月和尚を派遣し、その実情を調査せしむる事となった。実は平戸藩内にはなお多数の天主教徒が潜在していたので、藩の狼狽一方ならず、江戸藩邸の熊沢大膳・長村内蔵之助は暗中大に工策を廻らし、一方平戸に於ては勝尾岳に隆信の菩提寺正宗寺の大伽藍建立の大工事を起し、各所に三界万霊塔を建て、共同墓地に埋葬されていた外國人の遺骨を発掘して海中に投棄するなど、大に仏法尊崇の実を示したので、江月和尚は此の有様を報告した。是に於て主水は虚偽の密告をした科により、伊豆大島に流され、平戸藩は無事なることを得た。 第五章 平戸と密貿易 一、顔思齊・鄭芝龍・鄭成功 徳川幕府が貿易港を長崎一港に限定し、且つ貿易高を制限するや、一部の御用商人が利益を壟断するようになった。されば利を追うに勇敢な輩は比の埒外に立って密貿易を行うこととした。中でも元和の初め頃、平戸にいた顔思齊(福建省*(サンズイニ章)県の生)は我が八幡船と結托し、台湾を根據として近海に猛威を逞うした。此の思齊の部下に鄭芝龍(福建省泉州の生)という快男児がいて、天啓五年(寛永二年)愚齊の死後其の余党に推されて首領となった。芝龍は之より前、慶長の初め平戸に来て河内浦に居り、田川氏の女を娶り成功を生んだ。成功は後年台湾を取り此処に君臨した國姓爺である。 如上の事実は我が商人が平戸や五島の諸島を根據としてシナ人と結んで密貿易を行っていた事を物語るものである。 二、浜田彌兵衛 寛永五年(一六二八)浜田彌兵衛が台湾の和蘭人を懲らしたのも、其の原因は密貿易にあった。実は是より前に末次平蔵の密貿易船が厦門港外のヒヤン島に於て和蘭人のために掠奪を受けたので、平蔵は彌兵衛をして台湾に至り、此の復仇をなさしめたもので、此時弥兵衛は総督イツを捕え、交渉の上和蘭人の有する多量の生糸を購入して巨額の利益を得た。蓋し倭寇の慣用手段を用いたものである。(竹越与三郎氏、日本経済史第三巻第八章参照) 越えて寛永八年(一六三一)には伊藤小左衛門の密貿易が露顕し、次で延宝四年(一六七六)には末次平蔵が検挙された。 三、伊藤小左衛門 博多の商人で、長崎・平戸・五島に支店を置き数十艘の船を以て密貿易をなし、重に銑鉄を輸入し、刀剣其他鉄製品を輸出し、巨万の富を成していたもので、其の船が暴風のため対馬の鰐の浦に寄港して発覚し、小左衛門を始め其の姻戚に当る平戸の松浦庄兵衛の手代宗助其の他多数が厳罰に処せられた。(竹越氏前掲書参照) 四、末次平蔵 身は長崎代官の職にありながら陰に密貿易を営んでいたもので、事の発覚は平蔵より資金を借り日シ間の密貿易を行っていた泉州商人の船が厦門に至り海賊に掠奪されようとした時、此の船は末次のものであると告げたので、賊は之を其の主人錦舎に告げた。錦舎は鄭成功の子である。それで錦舎は厚く船員を優遇して放還した。此の事を見聞した唐船の船長が長崎に来て風説を散布したので遂に此の大獄となったものである。(竹越氏前掲書参照) 以上は特に天下の耳目を驚かした巨頭の検挙されたものであるが、小賊の処罰されたものも相当あるペく、また全く発覚せずして終ったものも多数あった事と想像される。兎もあれ密貿易と平戸とは切っても切れぬ因縁の連鎖で、かの明治新年に菅沼貞風が大志を抱いて南方雄飛を試みたのも、亦以て斯る歴史に育くまれた松浦男児の面目を明かにしたものと言うべきであろう。 第六章 平戸藩の農地開拓と海上開発 一、平戸藩の増石高 本来平戸領は多数の小島から成っているので、佐賀藩や柳川藩などのように年々筑後川の堆積土によって新地が生成してゆくのと違い、土地の干拓や開墾は頗る困難な事業であった。されど歴代藩主の督励によって、慶長九年(一六〇四)の書上高は六万一千七百余石のものが、五十二年後の明暦二年には十万四千八百九十五石余となり、実に四万三千石を増加し、更に八年後の寛文四年(一六六四)には約四千六百石を増加し、十万九千四百九十余石となり、明治維新(一八六八)直前には十一万余石となっている。左に其の開拓の主なるものを平戸藩史考より抄録することゝした。 二、早岐新田 松浦旧記によれば、承応二年(一六五三)の條に「早岐三枝より嶺ケ原まで長さ三百間の堤防を築き、同じく宮崎に二百五十間の築堤をなす。為に新田十二町余歩を生じ、人家四十余軒を建設す」とある。 三、川下新田相の浦新田 今の相の浦は戦國時代には相神浦、其以前には賎ケ浦また世子の里と言った処で、此地の干拓は明暦元年(一六五五)に起工し、同六年十二月竣工し、反別百町八反余歩、作付九十町歩を得ている。尤も工事全部の完了は寛文六年(一六六六)であった。此の干拓が始まるや、和泉の国人庄兵衛と言うものが農民三十戸家族百二十人を引卒して平戸に来り、新田耕作を願い出で此の相の浦に移された。時に明暦二年三月で、庄兵衛は小庄屋を命ぜられた。 比の他相の浦開拓につぎ、針尾・佐々・壱岐の谷江・左右松崎にまで開拓の手が進められた。 四、大潟新田 安政年間(一八五四〜五九)に草刈太一左衛門という実業家がいた。相の浦川下流大潟新田は此の太一左衝門の干拓によって出来たもので、其の面積七十町歩、安政四年十二月に起工し、八ヶ年を費し慶応元年(一八六五)に至って竣工した大工事であった。此の太一左衛門は山口村棚方・小佐々の村長浦に新田を拓き、紐差村の宝亀・太田・菜切などに荒廃地を改造して良田となした。 五、深江新田と土肥浦新田 今の江迎村と鹿町村一帯の地を古くは深江と言ったようである。藩主観中公煕の築造に係り、文化四年(一八〇七)工を起し、同六年十一月竣工したもので築堤千八百間、面積五十町余歩。 其他、歌ケ浦新田・大屋新田・大加勢田新田・太郎ケ浦田など何れも明治以前の埋築である。 (以上平戸藩史考より) 六、漁家の移殖 凡そ土地の開拓には限度がある。されば寛文以後明治維新に至る二百数十年間には殆ど開拓の見るべきものがないのも己むを得ないことであろう。是に於て平戸藩では方策を一転して海上の開拓に専念するに至った。蓋し僅かに六万石の小藩にして財政上の余裕綽々たるものがあったのは全く漁業上の収益から来たものであろう。即ち承応元年(一六五二)には平戸の田助に小値賀の漁家五十戸を移し、次で壱岐の郷の浦に七十戸の漁民を移殖せしめ、寛文三年(一六六三)には同国筒城村の堂崎を拓き、夕部浦の漁民三十戸を移し、山崎村を新に立てるなど、荒蕪地の開墾と海上の開発とを兼ね行った。 七、捕鯨業 平戸藩の水産業中特筆すべきものは捕鯨業である。捕鯨業は享保十年(一七二五)初めて益富又左衛門が生月の御崎に起した。初め船十二隻を以て鏘を使用して突取を始め、初年に七頭の勢美鯨を獲、其後八ケ年間は毎年十数頭を捕獲した。その後蜘珠の巣に掛った蝉が脱する事を得ないのを見て網を以て鯨を捕うることを工夫し、同二十年に三十七頭、翌元文元年(一七三六)には五十一頭を獲た。之より各地に漁場を拡張し、通道・仙崎(長崎)・廻浦(対馬)・蠣の浦・平島(西彼杵郡五島寄り)などに網代を設け、雇員三千人、船舶二百隻の多きに及び、一ヶ年の捕獲高概ね二百頭に上り、生月・前目・勝本の三ヶ所に於て諸税凡そ五十万円に上ったということである。 又左衛門正勝はまた生月の一部・壱岐の前目の海面を埋立て、三百余戸の市街を建設し、防波堤を築くこと七ヶ所,平戸・針尾・福島・佐世保に新田を開くこと八ヶ所など、私財を投じて土地開発を計った。 二代又左衛門正康は仙洞御所の御建造に金二万円を献じ、三代又左衛門正昭は生月に法善寺及び白山神社を建立し、四代又左衛門正真は幕命によりて蝦夷近海の網代の探検を試み、五代又左衛門正弘は鯨油を精製して点燈用・害虫駆除用に用うることを創め、黒田藩・細川藩の御用を兼ねるに至った。六代又左衛門正敬に至り、時は方に弘化・嘉永頃に当り、欧米諸国の遠洋捕鯨船が日本近海に出没し、為に鯨群の近海遊泳が頓に衰えたので、其の事業を廃止するの己むなきに至った。(平戸藩史考参照) 第七章 平戸藩の窯業 第一節 中野焼 巨 関 平戸藩主松浦鎮信は朝鮮陣より凱旋の際百余人の鮮人を伴って帰り、其の中巨関(帰化名今村彌次右衛門)頓六の二人が陶技に長じていたので、城下に一廓を与えて専ら陶器を作らしめた。のち巨関は中野村の紙漉に移り御用窯を立てた。其の製品は轆轤を用いず、箆を使って形作り、主に高麗風の刷毛目や粉吹手などの釉薬を掛けた。至って古雅のものである。 巨関は中野の陶土に満足せず、原料を朝鮮から取寄せていたと伝えられている。のち藩主の命により一子三之丞と共に陶土を探求して領内を踏破し、遂に東彼杵郡早岐村の権常寺と日宇村字東の浦・三河内免字吉ノ田及び相木場の四ヶ所に良質の陶土を発見し、三河内の葭の本に移って試窯を建てた。 第二第 三河内焼 1 高麗娼 朝鮮からの帰化人の中に高麗娼と称せられた陶工がいた。唐津領椎の峯に移り、中里茂兵衛に嫁し一子茂右衛門を設け、夫の死後之を伴って三河内の長葉山に移った。時に元和八年(一六二二)であると伝えられている。一説には高麗娼は釜山の神官の女で名を*(医殳女)と言い、早くより唐津に渡っていたとも言われている。最も陶技に長じ、今村一派と協力して三河内焼の興隆に努め、寛文十二年(一六七二)百六歳で歿し、釜山神社として崇められている。高麗娼が三河内に移った時と弥次兵衛が此処に来た時とは何れが先であるか、異説があって結局不明である。 2 今村三之丞 三之丞は父弥次兵衛と共に三河内に移り、高麗娼とも親しく談合し、遂に陶技研究のため高原五郎七を椎の峯に訪れると五郎七は既に去って佐賀領の南川原にいたが、三之丞は暫く此処に留って陶工福本弥次右衛門・画家山内長兵衛・前田徳左衛門らと交わり、かくて徳左衛門の女を娶り、此処を辞して南川原に五郎七を訪ね、妻をして彼の白磁の釉法を探らしめ、脱走して近隣の陶場を流浪するうち、針尾島の網代土を発見し、ついで大村領の中尾山に磁器原料を発見し、此処で磁器の焼製を試みていた。之を知った隆信は寛永十三年(一六三六)人を遣わして三之丞を迎え、三河内に帰らしめ、翌十四年長葉山に藩用の製陶場を建てしめた。是に於て三之丞は椎の峯より福本・山内・前田の三人を招聘し、大に事業の向上に努めたので、三河内窯は俄に隆盛に赴いた。三之丞は元禄九年(一六九六)六十七歳で歿した。 3 如 猿 本名を弥次兵衛と言い、幼少の頃祖父弥次兵衛(巨関)に伴われて黒髪山大智院にいた祖父の死後迎えられて父の下に帰った。藩主隆信は彼の陶才に多大の望を嘱し、大に陶技の研究を奨励したので、其の技愈々進み、寛文二年(一六六二)其の作品を幕府に進献するや絶讃を博し、各藩よりの注文も亦俄に増加した。依って藩主は彼を挙げて馬廻格となし、禄百石を給する事とした。越えて元禄十二年(一六九九)には禁裡御用を命ぜられ、同十五年には藩主より如猿の号を授けられた。 正徳二年(一七一二)に至り横石藤七兵衛が天草石使用法を発明するや、如猿も亦網代土に天草石を調合して純白の磁器焼製に成功し、之より三河内焼は天下随一の栄誉を荷うに至った。享保二年(一七一七)八十三歳を以て歿し、天保十三年(一八四二)に至り藩主煕公の命により如猿大明神として祭らるることとなった。 (肥前陶磁史考・陶器大辞典) 4 三河内焼の海外輸出 天保元年(一八三〇)三河内の中里利助・古川類蔵の二人は長崎に赴き、和蘭人に三河内焼を売込んだ。之が彼等の嗜好に適したので、平戸藩では長崎に平戸物産会社を設けて貿易を開始することとなり、天保八年(一八三七)には池田安次郎らが薄手純白の珈琲器を作り、其の声価益々高くなった。後年有田の陶業家が三河内の薄手物に有田の赤絵を附けて輸出するに及び、日本磁器に対する欧米人の嗜好はいやが上にも深くなった。 5 三河内焼の製品 松唐子絵・透彫細工・盛上細工・ひねり細工・染付・錦手・型物などがある。中でも唐子絵は平戸侯の献納贈進物としたもので、松樹の下に七人唐子・五人唐子・三人唐子などを画き、唐子の多少によって品の高下を定められた。概して精緻の地質、繊細の描画などは精巧を極めたものの、自由奔放の気分は失われ、器物其物の芸術味は少くなっているとの評がある。 第三節 三河内古窯址 一般に平戸焼と称せられるのは三河内焼のことで、其の古窯址の主なるものは左の如くである。 1 東 窯 染付の磁器が作られている。 2 山の神窯 染付の磁器が作られている。 3 西の窯 初め刷毛目の茶碗など陶器が作られ、後期には染付磁器となっている。 4 物原窯 染付の雑器が作られている。 5 杉林窯 刷毛目現川風の茶碗皿が多く作られ、元禄年間の椎の峯の分窯で、藩主の御用窯である。 6 潜石窯 刷毛目の茶碗皿の作品で、元禄以前とは見られない。 7 吉ノ田奥窯 初期は刷毛目、後期は染付の磁器となっている。 8 吉ノ田前窯 染付雑器などの諸窯がある。 (陶離大辞典) 第四節 木原焼 三河内の北方に当り折尾瀬村大字木原に多数の古窯址がある。此処の開祖は鮮人金久永で、慶長八年(一六三〇)先ず葭の元に開窯し、其の高弟朴正意が寛永三年(一六二六)柳の元に開窯した。朴は薩摩の帰化鮮人の子で、小山田に生れたので小山田佐兵衛と称した。また柳の元の東方に地蔵平窯がある。之は佐兵衛の開く処で、弟でしの権右衛門が経営していた、以上の三ヶ所は寛永頃の古窯である。(平戸藩史考参照) 爾来此の附近に幾多の窯が生滅している。其の主なるものを挙げると次の如くである。 1 村木窯 上波佐見村村木にある。慶安年間(一六四八〜五一)小山田佐兵衛の創業である。 2 百貫堂 承応頃(一六五二〜五四)小山田の弟子が創めた。 3 中尾山窯 慶安頃と思われる。作兵衛の指導と言われている。 4 三の股窯 中尾山窯と略同時代で佐兵衛の指導か、早く白磁が作られている。 5 稗山窯 稗木場下波佐見にある。開窯は後代のものである。 6 江永山窯 元禄八年(一六九五)頃木原の横石から分窯したもの。 7 牛石窯 坂井手とも言い、金久永の弟子が開くところで、数年で止んだという。出土品は葭の元のそれと同様で鑑別は困難である。 以上大体に於て木原焼は朝鮮風の陶器で、其の出土品は茶碗・抹茶碗・杓立・皿・徳利・油壷など雑器が主で、渋味のある面白いものである。(平戸藩史考参照) |
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第八章 平戸藩の教育 一、山鹿素行と高基 法印公鎮信以来歴代の藩主は克く文武両道を奨励し、就中静山公清・観中公煕・心月公詮は特に育英に心を用いた。而して藩の教育として特筆すべきものは山鹿素行の学統を伝えた事である。 山鹿素行通称は甚五左衛門、名は高祐、素行は其の号である。会津の生れで幼にして林羅山の門に入り、朱子学を学び、のち北條氏長について兵学を学び、之に自己の創意を加えて山鹿流を大成した。 当時の儒者がシナ崇拝に陥っているのを慨き、中朝事実を著わし、以て我が国体の尊厳を明かにし、聖教要録を著わして朱子学を排斥した。是のため遂に幕府の忌諱に触れ、其の志を伸ぶる暇なくして歿した。 素行の二男万助(藤助高基)は此時年漸く二十であったが、能く父の学統をつぎ、法印公の寵遇を得て平戸藩に仕えた。実は之より前、素行の同母弟平馬が法印公に重用されていたので、其の縁故によって是に至ったものである。爾来其の後嗣はよく祖業を継ぎ、代々平戸藩に仕えて幕末に及んだ。 二、庶民教育 藩では観中公煕が殊に庶民の教化に留意し、家臣城四方兵衛を京都に遣わし、心学の講師木村道志を招聘した。道意は公の意を体して平戸に来たり、壱岐・小植賀・五島・針尾の各地を巡回講演して多大の効果を収めた。是に於て藩は道意に命じて平戸町に心法舎なるものを建てしめ、町の男児八歳より十四歳までの入学を許し、毎朝五ツ時(午前八時)より七ツ時(午后三時)まで、心学の講義と併せて習字と算術を教えしむる事とし、一時は入学児童百名以上に達する盛況であった。然るに元治元年(一八六四)道意歿するに及び後継者なく、且つ幕末梶Xの時に当っていたので、継続僅に十八年にして廃絶に帰したことは実に惜しむべき事であった。 なお之とは別個に領内各地に於て僧侶・神職・山伏などが自宅に於て少数ながら希望者を集めて読書や習字などを教うる所謂寺子屋教育が行われていた。 三、教育者小伝 長村靖斎 名は鑒、通称は内蔵之助、靖斎は其の号である。 藩老長村三左衛門の子で、明和四年(一七六七)の生れである。夙に京都に遊び皆川棋園の門に学び、後江戸に出て佐藤一斎と共に学術を講究した。後年一斎を平戸に聘して維新館に大学を講ぜしめたのは靖斎の斡旋によるものである。靖斎はよく藩政を補佐し、築地の埋立、財務窮乏の打開、兵器の改良、沿岸防備の充実など、其の功実に顕著なるものがあった。また平素風流韻事を好み、詩歌文章書画など天稟の技を発揮し、名声嘖々たるものがあった。文政三年(一八二〇)五月廿一日五十四才を以て病歿した。蒙古寇記・東西紀行・春秋名医伝などの著がある。 山鹿高紹 山鹿藤助高祐、通称は万助、甚五左衛門素行の二男、万助高基の後である。嘉永年間(一八四八〜五四)吉田松陰に山鹿流を教えたのは実に藤助高紹で、当時に於ける斯学の大家であった。高紹は安政三年(一八五六)三十八歳で歿した。 山鹿流の学統は高基以来世々平戸藩に伝えられ、以て明治維新に及んだものである。 楠山端山 幼名は覚蔵のち後覚と改めた。夙に藩学に学び、のち江戸に出て佐藤一斎・大橋納庵に学び、学成って郷に帰り、召されて平戸藩の儒員となり、藩公の侍講を兼ねた。藩の子弟就いて其の薫陶を受くるものが多かった。学識醇高にして資性方正温和、諄々として教え、共に座すれば春風の薫ずるようであった。維新の初め権大参事に進み、度々時事を論じたけれども用いられず、のち郷里針尾島に退き、江西書院を設け徒を集めて道を講じた。明治十六年(一八八三)三月五十六歳を以て歿した。 |
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第九章 宗 教 白山妙理権現と志自岐神社 白山権現は安満岳(伏岳ともいう)西禅寺の奉祀する神社である。平戸藩では志自岐山と安満岳とを両山と称して最も藩主の崇敬篤かった神社で、寺領三百石を附けられていた。 志自岐神社は仲哀天皇の御弟十城別王を祀る式内杜で、肥前国四社の一である。此の神宮寺なる円満寺は藩主の崇敬特に篤く、社領百五十石を附けられてあった。 右両社とも明治維新の神仏分離の際に、神社のみは存置して寺は廃棄となった。のち西禅寺は平戸村の冷水に再興された。 是心寺・旧是興寺 南田平村野田にある。建武の昔松浦定(鬼肥州)が後醍醐天皇を奉じて忠勤を励んだけれども、足利尊氏が叛旗を飜すに及んで南風競わず、遁れて領国に帰ると弟勝(肥州公)が尊氏に属していたので、如何ともする事が出来ず、身を晦まし、自ら仏寺を創めて之に居り(一説には小値賀にいたと云う)卒して此の寺に葬られた。是即ち是興寺である。 其ののち寺は荒廃に帰したので。天*(广叟)公義(是興)の時に至り、之を再興して田平に移し、公自ら此寺に居り、卒して此処に葬られた。(三光譜録)其後寺はまた荒廃に帰したので、天祥公鎮信の時に至り、尾崎九郎左衛門が藩主に請い、その許可を得て法雲大仰禅師を請じて再興した。時に寛文三年(一六六三)であった。以後寺運振わず、明治維新の際一旦廃寺となり、同四年悦堂和尚が藩庁に請願して復々之を復興し海印山是心寺と改めた。 九郎左衛門は入道して宗是と号し、海外貿易を営んでいた巨商で、是心寺に現存する印度仏は彼が印度から齎したものであると伝えられている。 最教寺談議所 平戸町にある。大同中弘法大師が唐より掃期の途次駐錫された霊地と伝えられている。初め法印快源が浄刹を建てたが、年代を経るにつれて堂宇も廃頽し、僧侶も離散して終った。明応の頃(一六五五〜五七)覚翁公弘定が筑前国より金胎寺を此処に移した。幾くもなくして崎方に移り、跡には曹洞宗の瑞雲寺の往持輪叟禅師が草庵を設けて勝音院と名づけ、老後の隠居所とした。慶長の頃(一五九六〜一六一四)鯨宝龍呑という和尚が居住していたのを、法印公鎮信が此処に真言宗の寺を建てようとして龍呑には交換地を与えて立退を命じた。然るに龍呑が之に応じなかったので、鎮信は大に怒り、寺を焼却せしめ、新に最教寺を建立した。時に慶長十二年(一六〇七)であった。当時城西にあった真言宗の勧学道場は談義所と称して僧侶の会同、教義の研究、心身の修練などに充てられてあったので、鎮信はまた之を此寺に移し、大に道業の精進を奨励した。それで世人は最教寺をまた談義所と呼ぶようになった。(平戸藩史考参照) 伽山禅師 文政十年(一八二七)北松浦郡田平村字野田に生れ、幼にして両親を失い、江頭牧右衛門に扶養せられ、十歳にして平戸雄香寺に至り仏門に入った。爾来讃岐の玄要寺の綾河和尚・伊豫の長福寺の陽州和尚・山城の円福寺の五応和尚などに就いて益々修業を積み、帰って雄香寺に駐錫する中、陽州和尚の遷化に会い、遺言によって長福寺の後嗣となった。時に安政二年(一八五五)三十二歳であった。以後修業益々進み、慶応三年には綸旨を奉じて玉鳳塔主に昇叙せられ、のち東京の曹渓寺に修行場を開設するや、都下の名士の来って化を受くるもの多く、就中勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟・鳥尾得庵・品川弥次郎などは其の鏘々たるものであった。斯くて此のこと天聴に達し、明治天皇より内殿に於て拝謁を賜わるの光栄に浴するに至った。明治二十四年大徳寺派管長に招請され、同二十五年雄香寺開祖の二百年遠忌に請ぜられて平戸に帰り、同二十六年(一八九三)には円福寺の臨済会を開き、禅林参会するもの千余人に及ぶという盛況であった。同年九月七十歳を以て入寂した。 キリスト教 前に浮橋主水の事件あって以来平戸藩内の天主教に対する関心は一層尖鋭となったので、同教徒は表面従順なる仏教信者となり、陰密の間に其の信仰を続けて来た。 明治維新となり信教の自由が認めらるるに至り、茲に公然キリスト教に復帰する者あるを見た。 (おわり) (一九五五、一二、一二浄写畢 飯田一郎) |
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あとがき 長らく筐底にねむっていた「松浦史」の原稿が、こうして陽の目を見るようになりましたのを最も歓喜するのは、亡父茂三郎の魂だろうと確信いたします。 父がこの松浦史を書きましたのは戦時中からの事で、当時は他に県史編さんや、古墳調査や、史談会などにもたづさわって居りましたので、これはその片手間の研究ではありますが、文字通り夜を日に継いでの熱中で、自分の存命中に自費出版をするのだと忙しく書き続けておりました。しかし戦時中はこんな不急の本は出版おぼつかないことでありましたし、終戦後は母が長らく大病をわづらいましたので父のひたむきな出版急ぎを心ならずもさし止めるのが私でした。父は不満を抑えながら原稿整理をしておりました。 その父が廿八年の夏「松浦史」に心を遺して死にました際、孫娘の道子に「きつと出版してくれ」と言い遺しました由をあとで開きまして私はひとり胸をかむ思いを致しました。 それでも私は、こんな本が今頃何かの役に立つかどうか、そして読んで下さる人があるかどうかを思いまどいまして、出版をちゅうちょしつつ古びた原稿を眺めて三年忌をすませました。 この原稿を真先きに読んで下すったのが、飯田一郎先生でした。ためらっている私を励まして、御自分で原稿の整理に取りかゝり、かな遣いの訂正、原典の研究、校閲等々と、御多忙中を或は御家庭で、或は出張先きの宿舎でと、又もや夜を日に継いでの御熱中ぶりでした。更に又、史談会長龍溪先生、図書館長常安先生、商工会議所長岸川先生、一中の野中輝雄先生が早速にこの企てに細心の御援助を下さいまして順当に事が運びまして遂に茲に到ったのでございます。 尚且つ地方有志(刊行会有志)のかたがたや御病床の松尾禎作先生が序文を下さいました事は一層の光栄でございました。 私も皆様方の御援助によりまして、数年来の気懸りが晴れまして、不幸の罪を軽くして頂きました喜びと感謝を心から幾重にも申し述べさせていたゞく次第でございます。 お父さん、お喜び下さい! 道子よ、感謝しましょう! 昭和三十一年七月 酒 井 満 代 吉村茂三郎先生著述歴
右の外「佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告」に度々先生の調査研究の報告が掲載されている。 なお先生の遺稿に「唐津発達史」なるものが未刊のまゝで残されているが、これは今度出版になった「松浦史」と重複するところが多いように思われる。 (飯田一郎記) |
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