宵山の変遷
平成25年広報部初年、宵山担当となりました。
宵山について勉強しておかねばなりません。
唐津くんちにおける宵山とは、@藩政大手門時代、A明治〜大正〜昭和37年まで、B昭和38年〜昭和58年 C昭和59年〜
まずは資料探し
戸川鐵さんの「唐津神社の神祭と曳山に関する抄録」より
18 宵曳山のことなど
−唐津神祭今昔譚2−
(平9.10.1.「社報第75号」より)
宵曳山が、今日見られるように統一奉曳されるようになって、約40年くらいになると思います。ここで、約とか、くらいとか、思うとか、不確実な言葉を使っていますが、残念ながら判然としない部分がありますので、このような表現になります。
宵曳山は、翌朝からの神幸祭にそなえて、それぞれの曳山を町内から社頭に勢揃いさせるのが目的です。その昔、曳山はそれぞれの町内に曳山小屋があり(町内の曳山小屋の位置については、昭和60年発行・古舘正右衛門書「曳山のはなし」に詳しく紹介されています。)、そこから社頭まで、曳山を勢揃させるため、多くの町々では曳山に提灯飾りを整えて町々で思い思いの時間(午前零時過ぎ〜)を目途に出発し、各町とも伝統の順路を廻り(勝手曳き)、社頭へ集まっていました。
祭礼日の変更(前号)等もありましたが、世情の激変の中で宵曳山も種々変化してきています。藩制時代、明治〜大正〜昭和、現代という時代区分をして、宵曳山の変遷を見ることにします。
@藩制時代
明治時代以前、つまり徳川時代です。曳山14台はまだ全部揃っていない頃です。曳山は、町内それぞれの曳山小屋に納められていた時代です。旧暦9月29日が神幸祭でした。(旧暦9日9日が初供日で、この日に曳山の試し曳きをしていた町内もあったそうです。)
さて神幸祭前日の昼から夕にかけて、提灯曳山の飾り付けをして、曳山は町内所定のところで宵曳山出発の時を待っています。29日午前零時を過ぎてから、各町は思い思いの時間に宵曳山行事に出発します。材木町は毎年、午前零時と同時に出発していました。各町の曳山は、各町それぞれ伝統の道順を廻って大手口へ到着します。ここからが現在と大きく違った順路になります。現在のように参道は大手口に直結しておらず、しかも曳山か通れるかどうかという道でした。又、お堀があって、曳山は大手門をくぐって社頭勢揃をしていました。(図1参照−財団法人久敬杜・大正14年8月25日発行「東松浦郡史」所載の城下町図を使用)
図1 江戸時代曳山社勢揃い・曳ぎ出しの図 |
大手門をくぐってからの道順は、大手小路(裁判所横の通り)北進→明神横小路へ左折西進という順路で、大広前−その当時は、神社の直く前の広場(春−植木市・秋−お化け屋敷等の広場)で、江戸時代末、明治初めの頃は図2のようだったと伝えられています。大手門は、曳山が自由に往来できる高さではなかったので、その都度、センギを上下させていたそうです。
尚、神幸祭当日の曳出の順路は、明神横小路を東進し、綿屋の所より大名小路へ右折し、商工会館角辺りを右折(西進)し、大手門より大手口−町へと曳き出して行きました。この時、城内部分を曳山が動く時だけ、刀町曳山だけが道囃子を奏しつつ奉曳していました。
図2 江戸時代〜明治 曳山社頭勢揃位置立図 |
A明治〜大正〜昭和
この時期は、曳山にとっては勿論、世情が激変した時代です。
先づ挙げねばならない一大事は、参道の開設です。@でも触れましたが、それまでの参道は狭く、しかもお城の堀の手前で行き止まりでした。そこで御一新(明治維新)を期に、氏子の人々が協議し、先づ参道を唐津の中心たるべき道路に直結し、更に拡幅するという大事業が行われました。県より公有水面埋立許可を得て、氏子民の労力奉仕により、大通りと参道が直接結ばれました。(埋立て部分と参道の拡幅した部分は唐津町へ上地しています。)
勿論、明治になってからのことですので、大手門は解体され、新しい時代と共に曳山順路も新しくなりました。新しい参道を通って曳山勢揃いが始まりました。
さて世の中は、どんどん発展して、これまで各町内にあった曳山小屋は、いろいろな理由で町の発展の負の要因(年中扉が締っているので商店街としての街並が止切れるとか、防災上出し入れが困難等々)のこともあって、移転して集団で管理することとなりました。つまりこれか、昭和36年頃まであった、明神小路の曳山小屋で、10ケ町の曳山が納められていました。この敷地は、参道拡幅に際しこのような事態に備えるべく神社が神社の境内地として確保していた縁地で、曳山町内へ貸与されていました。ですから、ここに曳山を格納していた町内は、この時から、神祭の際はここから曳山を町内へ曳き帰るという行動が一つ増えたことになります。ここに曳山小屋が出来てから、曳山勢揃はこの曳山小屋の前になりました。
(図3)
このころの宵曳山は勿論勝手曳きで、灯りは蝋燭提灯、曳子は法被の町内もありましたが、褞袍(どてら)に下駄履きも多かったと聞いています。又、夜遅くまでくんち用品を扱う町内の曳山は、さしたる宵曳山はせずに、神幸祭の朝を迎える町もあったそうです。
B現代
さていよいよ現代です。最初のところでも言いましたように、宵曳山が現在のような統一奉曳になった時期については、はっきりとしない部分があります。
そのきっかけとなったのは次のようなことです。
ある年の翌日祭は朝から雨でした。関係者種々協議しつつ時を待っておりました処、雨も小降りとなりました。そこで結局、午後から曳出と決し、所定の曳山全順路を曳き廻り、江川町休憩の頃は、夕闇か迫りつつありました。この時、いくつかの町内では急遽「提灯曳山」の飾りをして、曳き納めたことがありました。
宵曳山は、午前零時以降のことですので、知る人ぞ知るというように、一般的ではありませんでした。ですから多くの人が、始めて提灯曳山を見て、これまでとは違う曳山を見て、これまでとは逢う曳山の風情を再認識され、やがてそのことが、何とか皆んなで楽しめる宵曳山にしようということになりました。
最初の頃の宵曳山出発は午後10時で、順路も東半分というものでした。その後4〜5年試行錯誤的宵曳山行事を経て、安全面、神幸祭等々に配慮して、午後9時発、更に午後8時出発、蝋燭からバッテリー方式へと提灯の中身も変り、幽玄の中にも華やかさを加えながら、唐津神祭曳山行事の開幕を飾るに相応しい賑やかな宵曳山になっています。
21 前夜祭の宵曳山が
全道筋奉曳されるようになる
(平4.10.18.記)
昭和59年の前夜祭から、宵曳山か毎年所定の城下町の全コースを奉曳されるようになったのは、江川町からの提案要望によるものでした。筆者はこのことか決まった直後に、江川町畳屋商の松浦氏から承ったことかあります。宵山が時間と道筋を統一して曳山の順番どおりに巡幸するようになったのは、昭和37年の前夜祭からです。これは、筆者が休職の後に復職した年でしたから、よく覚えています。それから昭和58年までは外町と内町を廻って大手口に出て、社頭に曳込み、勢揃いとなっていました。
それまで、江川町をはじめ西の方の町内の者は、宵山を見物したいと思っても、老人や子どもやその他いろいろな都合で遠くまで見物に出かけられない者は、大変に残念であり、また不平の声も起こっていました。西の方の町にも江川町「七宝丸」の奉納曳山があるのだし、また前夜祭は唐津城下全町内の宵祭りなので、坊主町、江川町、朝日町の方面まで奉曳するべきであるという声が起こり、協議の末、昭和59年から江川町からの要望が実現されました。
22 唐津くんちの御神事に備えての
曳山集合所の移り変わり
(平4.10.30.記)
1 藩政時代から明治36年に明神小路が開通されるまで
昔は提灯をつけて、各町がそれぞれの道順を選んで大手門あるいは神社前に集合していました。昔は時間も道順も統制されていなかったそうですので、年によって各町の時間も道順も多少はちがったこともあったと思われますが、御神幸に構えて、何としてでも集合しなければならないという考えは、いつの時代も変わってはいないと思います。
明神小路が開通する以前は、曳山をもつ町は、それぞれ町内の適当な場所に曳き山小屋を設けて格納していました。戸川真菅翁か書いた「唐津神事思出草」によると、神社前の集合場所は当時の境内南側の広場であったということです。
2 明神小路に新しい曳山小屋ができてから
明治28年に、戸川家所有地を借用して総合曳山小屋が設けられてから、唐津くんちすなわち唐津神祭神幸祭の前夜は、各町が夜半になるとそれぞれが思い思いに曳き出して、新しい曳山小屋の前に集合することになりました。しかし、曳出しの時間はまちまちになり、戦後はそれがいっそう乱れて、統制がとれなくなってしまいました。
昭和37年から、曳出しの時間と道順が決められ、曳山の順番に東回りして、外町、内町、大手口から曳山小屋前に次々に集まりました。昭和37年の曳出しは、午後10時に大手口から刀町曳山「赤獅子」が出発しました。そして、そのときから神幸祭の前夜であっても、曳子は各町の揃いの法被と肉襦袢姿になりました。曳山が奉曳巡幸する途中の要所でもだいたいの通過時間が決められました。これは、交通上の安全規制が十分に考慮された結果の措置だそうです。このようにして、昭和44年までは、宵曳山は明神小路の曳山小屋前に集合しました。そして、昭和34年に曳山小屋は市建設の鉄筋コンクリー卜固めの近代的な厳重な格納庫に造り替えられましたが、昭利44年までは曳山の集合場所は変わりませんでした。
明治28年に明神小路に曳山小屋ができてから昭利44年まで、実に74年間、曳山は御神幸に備えて明神小路の曳山小屋前に集合していたのです。
3 昭和45年に文化会館の曳山展示場が完成してから
宵曳山は、所定の道順を廻ってから、刀町曳山「赤獅子」を先頭に文化会館前に東面して(彰敬館の方を向いて)北へ並列することになりました。
【付記7】宵曳山の曳出し時間の変遷
宵曳山の曳き出し、つまり刀町曳山の曳出しを、昭和37年の前夜祭からは時間を決め、刀町曳山が東進しなから各町の最寄りの地点にさしかかったときに、各町の曳山が曳き順どおりに宵曳山巡幸に加わって、奉曳することになりました。このとき、刀町曳山」は煙火の合図で大手口から曳出すことになりました。
昭和37年は午後10時に曳き出しましたが、その翌年から昭和58年までは、午後9時に曳き出しました。ただし、昭和49年は11月2日に三笠宮御夫妻か唐津神社を参拝され、宵曳山をご覧になりましたので、特例として午後8時の曳出しになりました。
昭和59年からは、宵曳山か坊主町、江川町、朝日町などの西の方の各町まで奉曳されるようになりましたので、午後8時の曳出しになりました。そして、午後10時過ぎには(遅くとも午後11時までには完了するように)社頭勢揃いをするようになりました。
古舘正右衛門著 「曳山のはなし」では
(5)宵曳山(よいやま)
明治二十八年、総合曳山小屋が戸川家所有地を借用して設けられてから、それまで提灯をつけて各町がそれぞれの道順を選んで大手門前、或は神社前に集合したのに代えて新曳山小屋前に集合することになった。しかし、各町の曳き出の時間もまちまちになり、戦後は一層乱れて統制がとれなくなった。そこで、昭和四十年から刀町の曳山の曳き出しをくんちの暁でなく、前日の夜九時と決め、東行する間に各町が曳き順通りに各町から一番近い場所で参加することとし、材木町から水主町・大石町と通り、新町から刀町・大手口を経て曳山小屋前に勢揃いすることにしていた。しかし、文化会館ができた昭和四十五年から刀町を先頭に東面して北へ並列することになった。
唐津神社社報
唐津神社社報 第3号 昭和36年10月1日発行
唐津山笠の提灯
昨年の唐津神祭の三十日には朝の間雨に崇られて山笠の曳出しが後れたので、勢い還りもおそくなった。暮れやすい秋の日のこととて各町山笠が坊主町から国道沿にかかる処で夕闇にせまられ、十四台全部の山笠は一斉に提灯をつけることとなり、大変な美観を呈し見物の人々も帰りをのばしして、しばしこの提灯山笠に足を止めたと云う。尤も十月二十九日午前一時頃の宵山には必ず提灯は付けるものの、それは各町思い思いに曳廻ることで十四台ことごとくと言う様な美しさはない。
十四台挙って提灯をつけたと云うことは明治の中頃以来のことで、今年もこの提灯の議が関係者の中で考えられていることは嬉しい限りである。
ところでこの提灯には各町の標識である絵模様が誌されてあって、山笠順に云えば、刀町の刀の柄模様、中町の中ノ字模様、材木町の三桝、呉服町の呉に因んで五線、魚屋町の鯛(それ以前に何かあったらしい)大石町の町内和親提携を表す金輪、新町の三階菱くずし(又は稲妻か)、本町の左巻、紺屋町のコノ字模様、木綿町の武田菱(又は鎖とも云う。昔の火消組の時木綿町は鎖を待った曳倒し組であって之によるものか).平野町のヒノ字模様、米屋町の米から藁に因んで七五三縄、京町の京ノ字模様、水主町の水ノ字くずし、江川町の七宝丸に因んで宝珠の玉と言った具合であるが以上の中、材木町の三桝や新町の松葉(或は稲妻模様か)、本町の左巻き等は、その由来を未だ詳にしないけれども、之等は皆其町の貴重なる標識であったことは疑いのない処であるが、だんだん調べているうちに二、三の例外はあっても概して此の模様は山笠製作以前のもので各町に火消組が出来た頃からのものらしく思われるフシがある。と言うのは、徳川八代将軍吉宗公は時の名奉行大岡越前守の建言を容れて享保五年江戸市中火災防止の為に、いろは四十七組の火消組を編成したことは史上に明かなことで、中央がそうであれば地方もそれにならい、我唐津城下でも元文、寛延の頃には次第に火消組が整っていったのでほなかろうか。
当神社々記録には九月二十九日の神祭神輿渡御に際し宝暦年間惣町より傘鉾山を出したとあり、又社伝には同じく唐津神祭に際し、宝暦以前には火消粗が警固供奉の任に当ったと言うことである。それらの日には我唐津の城下惣町でも江戸と同様にいろは十六組が編成された様で、即ち城下町成立の順番に〃いろは〃を付して、い組本町、ろ組呉服町、は組八百屋町、に組中町、ほ組木綿町、へ組材木町、と組京町、ち組刀町り組米屋町、ぬ組大石町、る組紺屋町、か組新町、よ組江川町、た組水主町と云う具合に出来上ったのであろう。
以上の中、刀町の「ち」組、米屋町の「り」組、平野町の「わ」組、江川町の「よ」組、本町の「い」組八百屋町の「は」組、木綿町の「ほ」粗、京町の「と」組と以上八ケ町は、火防道器の頭巾や袢纏や龍吐水や纒等に之等の仮名文字が確に話してあったと各町の古老の方々より親しく承った。
こうして纒や鳶口や高張提灯龍吐水等が次第に整えられて唐津城下惣町の火消に当り、又当社火伏の霊験に対えて、唐津神祭には火事装束に威儀を正して神輿のお伴を仕ったのであろう。
そして此の頃に今日伝わる前記の提灯の絵模様等も考案されたであろうが如何なる発意によるものかは明かにしないけれども、之が第一に纒の頭に付けられ、火消しの意気を示し、延いては町民の心のまとまりを示すしるしとなったであろう。こうした火消組のお伴から前記の傘鉾山になり、降って水野公の享和文化の頃よりは走り山となった。これは囃しもなく掛声のみで荒々しく曳き走るのみで途中で破損して大急ぎでカッチンカッチンと叩き修繕をして又走り出すと言う殺風景なものであったが、それでも江川町の鳥居、塩屋町の仁王様、木綿町天狗様、本町の右大臣左大臣、京町の踊り屋台等見るべきものもあった。
それから後小笠原公入部の翌年文政二年初めて刀町の赤獅子が出来て、中町の青獅子、材木町の浦島、呉服町の兜、魚屋町の鯛と出来上り、此頃までは走り山と併せて曳出されていた。こうした走り山も次第に廃せられて今日の様な本山笠になって行ったのであるが刀町の赤獅子創始の頃此の火消組の標識の模様を山笠の提灯に移して、之が今日にも残る山笠の提灯の絵模様である。
こんな具合で火消の心意気と山笠曳の気分とは何か相通ずるものがあって、我唐津では「山笠と火事のことなら俺に委して置け」と言った様な勇み肌の、それこそ江戸腹掛の似合う兄ニィ〃連中が町々には必ず居るものだ。之を「火事山進」と称す。火事も山笠も「若ッかし」の独壇場だ。それかあらぬか、この提灯にも必ず町の頭文字をとり「何若」と誌してある。
さて又話は宵山のことになるが、私共幼い頃は曳出しが夜中の一時頃で町々は暗く叉静かでもっと寒かった様に思う。山囃や提灯の趣を味あうには格好な雰囲気であった。それに栗強飯の香りもして私共嬉しさと寒さで歯の根も合わず宵山を見に行った。大人になって、町々も明くなり騒々しくなってもこの気持には変りはないが。
こうした宵山の提灯にも各町それぞれの付け方があって、例えば刀町、材木町は高張りを用い、呉服町は錣の下に一列に、大石町や江川町は船と屋根の二段付け、又刀町や中町は一本の青竹を幾つにも割って多くの提灯を付けて、それは美しいもので、こうした提灯のつけ方と囃とで山笠の姿は分らなくとも何町の山笠だとすぐ分る様に中々興味深いものである。
山笠その物に先人の血のかようものであることは勿論のこと乍ら、それより以前から長い伝統と、祖先の貴重なる心意気が此の軽い提灯に残っていると言うことは何か奇異の感がしないでもないが、私共唐津人にとっては此の山の提灯も又山笠と共に実に尊い存在であると思う。
山笠関係の方々のお骨折で昨年同様今年も十四台の山笠に挙って提灯をつけ、丁度今年は山笠の中でも豪華な大石町の鳳凰が塗替したことでもあるし、唐津山笠に一段の光彩を放つ機会をお作り下さらんことを切望する。
唐津神社社報 第5号 昭和37年10月1日発行
続 山笠の提灯
本紙前々号に山笠の提灯のことを載せたら二三の方方からこれは一寸面白いとのお言葉を頂いて赤面恐縮した次第である。だが唐津総町十六ケ町中八百屋町のものが判らず又魚屋町のものも現在の鯛の絵以前に何かあったらしく思われ心残りしていたが其後三人の方々よりお教えを頂いて次第に判明したので前々号の続きとして書誌す。
八百屋町のものは八の字構の中に百の字を入れて図案化したもので八百を現すと言う趣向である。去年の
神祭後の町内願成就の際八百屋町の区長であり氏子総代である山崎富雄様が教えて下さった。尤も供日前にお尋ねした時は御存知なかったが其後よく御気に留められて町内其他聞係者にお話しされたらしく、元八百屋町にお住居で今新町の野口様と云う方から聞いたと言う事である。野口様の話によると消肪組の提灯に確にこの柄が付いていたと言う事である。
尚八百屋町には三ツ尾金魚の山笠を作るべく其台だけは既に出来上ったが山の方はどうした訳か遂に作らずじまいとなったが若し出来ていたらこの提灯を付けただろに。
やはり去年の供日前に総町山笠取締会の時に魚屋町取締の坂本様から魚屋町の提灯の古い型の柄模様を教った。町内倉庫の長持の中にその提灯があって其の絵は確には覚えていないが現在の鯛とは違ったものであると言われたので矢も盾もたまらず翌日早速坂本様宅へに出掛けた処供日前で家業のお忙しいのにも不拘其儘倉へ案内されたが、倉とは何と東木屋の豪壮な二階である。梯子を掛けて懐中電燈で薄暗い部屋の中を照し乍ら長持の底の方から漸く件んの提灯を取出して下さった。それはウの字を横にして図案化したもので魚屋町の頭文字を取ったものであろう。昭和の初頃これを廃して現在のものになったと話して下さった。
これでようやく唐津総町十六ケ町の山笠提灯の柄模様が出揃った次第である。
でも未だその由来を詳にしないものが二三ある。材木町の三桝、新町の三階菱か稲妻か、本町の左巻、木綿の鎖か、武田菱か等で之等は又将来の調査に俟つとして、まあ一応は柄模様なりとも判明し唐津の昔を偲ぶよすがともたったろうか。
御教え頂いた山崎様野口様坂本様へ此の誌上より厚く御礼中上ぐる次第である。
唐津神社社報 第7号 昭和38年10月1日発行
一、宵山曳き 十月二十八日
午後十時大手口を曳出し各町は各自町より順に、行列に加わり、午前零時頃社頭へ曳込む。山は皆堤燈を掲げて、華麗な一大絵巻を展開する前夜祭の奉祝である。