唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第3号  昭和36年10月1日発行
発行人 戸川 顕
編集人 戸川健太郎
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
まつりの心
一代の文豪島崎藤村が、嘗つて故郷に錦を飾ったとき、村人は藤村の話を聞くために、小学校の講堂に集ってきた。藤村は演壇に上るや、
 血につながる故郷
 言葉につながる故郷
 心につながる故郷
と三つの言葉だけを静かに述べて、壇を下りた。満堂の村人は、この僅かだけれども、心の琴線に触れた言葉を聞いて、粛然たる気持に打たれたということである。
 日本の祭というものも、私共の先人が何百年も、何千年もの昔から、故郷の鎮守の社を中心に、人々の魂に触れ、伝承を通じて、生きつゞけて来たものである。そして神社の殆ど総ては、村の初まりから祭られて来たもので、神社の歴史は、それがそのまゝが、村の歴史であり、村人の歴史であるとさへ言える。その意味で鎮守の社殿、宝物、森林に至るまで、これらは総べて、村の先人の魂に触れたものであり且つ魂のこもったものである。
 神社の祭は、村人がその生活上、喜びにつけ、悲しみにつけ、共にこれに祈り感謝の気持を以て、営んで来たものである。村の祭を見るものは、そこに現われて来る特徴の一つ一つについて、その意味を考えることが、祭を生かすことになる。村人全体がこれに参加するということは、村全体の協同精神を発揮するためのものであることを物語りこの日晴着に着換えることも、この日が平素とは心の持方を換え、新しい活動に入る日であることを知らしめる。
 こゝに祭というものゝ一面が、気持を新にして全部が協同、団結の精神を昂揚し、平素尊信している氏神様の御心に叶うようなものになることが、大きな要素になることに気がつく。

神のみ心
 祭が神のみ心に叶うために、行われるのであるならば、一体神のみ心というのは、如何なるものかが知りたいことである。神典(古事記、日本書紀)は、日本人が拝んで来た神々のみ心が、如何なるものであるかをつぶさに教えている。その結末の一、二をいうと、神のみ心は「清く、正しく睦まじく」生きるにあるといえる。
 言葉は簡単であるが、これを日常の自分の心の持ち方、家庭、村の交際について反省してみるとき、果してこの神のみ心の通りに、行動しているであろうか。叉日本の現状、世界の現状が、神のみ心に叶うように動いているであろうか。顧みて他をいうことなく、先づこれでは駄目だと思うものから、実行に移して行くのでなければ、いつの日に神のみ心に叶った自分、社会というものが、作り上げられるであろうか。
 神社の祭りというものはこの精神を神に誓い、この心を以て村人が一致協力しこれを実践に移すにある。その神賑の行事は、これが実践を盛大に、且つ色々の行事を通じて、活発に表現したものである。後世段々と本来の精神を忘れ、お祭騒ぎの方に流れることは、祭の本旨に顧み、反省さるべきことの一つである。

家のまつり
 村全体というものは、個人、家庭の生活と離れては存在しない。同様の意味で家庭の神というものも、村の神社の神と不離一体の関係にある。家の祭は、いわば神社の祭を小形にしたものである。それであるから家の祭も、そこに祭られる神のみ心については前述のものと少しも変る所がないといえる。
 たゞ私共が家の祭を強調するのは、家庭生活が、人生に於ける最小の場であるため、ここを一つの道場として、喜怒哀楽を共にすると共に少しでも社会に役立つ人生観を練り合う場としたいからである。それと共にそこに置かれる中心は、眼に見えないものにも恥じない人生観、社会観を築かせるに足るもの、即ち神に中心を置くことが、最も望ましいことである。
 「清く、正しく、睦まじく」お互に助け合い、伸ばし合うと共に、進んでは、眼に見えない神に向っても恥かしくない行動のとれる人を作ることが、この世の理想でなけれはならない。「神と共にある」と云う生き方は、お遍路さんが「仏様と二人づれ」といった心境に通ずるものがある。私共は世捨て人ではない。それ故足もとの家庭を先ず強く、正しく作り上げて行くべきである。自分の家庭さえ円満にやって行けないようなもので、どうして広い社会のことに口出しすることが出来ようか。
 家庭の生活が、朝起きた時から夜寝るまで、円満で正しくあるためには、朝起きた時は、「今日一日を正しく生き抜こう」との誓いを立て、夜寝るときは「今日一日中、正しく過したであろうか」と、反省することが大切である。その意味で、口を漱ぎ、顔を洗ってから、家の神棚様に拝礼をして誓いを立て、夜寝る前に、同様の拝礼と反省を繰り返えす生活は、必ずや心に光明を与えよう。

神棚さま
 神棚に集られている神さまは、日本国中を通じて、大体一定の型を持っている。普通その中心に祭られるのは、伊勢の皇太神宮のみしるしである。伊勢の皇太神宮は御承知のように、皇室を初め日本国民の総御祖先の神様である天照大神をお祭している。私共はこの大神様を自分達の最高、最貴の祖神とし、こゝに日本人としての信仰の根本を置いている。この大神様こそ、先に述べた「清く、正しく睦じく」生きる生き方を教えられた根本の神である。
 次に神棚の中に祭られる神さまは、土地の氏神さまのみしるしである。氏神さまは一つには産土神(うぶすながみ)とも鎮守の神ともいわれているように、その土地や人々の守護神を指していう。
 祖神である天照大神さまとの関係から見れば、氏神さまは何れも、大神さまのお働きを持ち分けている神さまだといえる。
 日本の神社信仰では、祖神である天照大神を根本神とし、この神のお働きが八百萬神となって総てのものに現われ、総てのものを生かしている。それ故天照大神と氏神との関係は、中心と分派との関係に譬えられる。中心あっての分派であり、分派があって初めて中心が求められるという関係が、こゝに見られるのである。私共も中心から出た分派の一つである。こゝに天地萬物は祖神から出た八百萬神であるという神社信仰が存する。
 郷土には郷土の守護神が存するというのは、親神の御心が郷土には、郷土に通するような形で現われているということを意味する。海川山野にそれぞれの神が居られるという見方も、こゝにその基礎が見出される神は一つであるが、そのお働きは色々に現われているという考え方である。それは丁度、日本人は誰でも同じ日本魂を持っているが、その魂は色々の形をもって、色々の性質形態の人を産みなし活動せしめているのと同じだといえる。
 この共通した信仰が、神としては天照大神にその根本の拠りどころを見出し、これが色々と異った姿で、その土地に叶うように生れ出て活躍していられるのがそれぞれの氏神になるわけである。この本体と表現の関係を有難く頂かしめて下さるのが、この神棚様だといってよい。私共はこの神棚さまにまつる天照大神と氏神とを通して『清く、正しく、睦まじく」生きる生き方の根本と、その実際の在り方とを知り、進んでは自分の毎日の言行に照らし、反省するようにというお悟しを、こゝに見出してゆきたい。

一生のまつり
 人がこの世に生を得たということは、両親のお蔭はもとより、眼に見えない神のお働きがひそんでいる。人の一生を通じて見ても、自分の努力で築き上げた部分にしても、その力の本源は神から与えられたもので、そのことの成否には測り知れない神の摂理と神秘さがひそんでいる。
 その意味で、自分の運命を開拓すべき努力は当然なさるべきである。そのほかに神のお蔭、人のお蔭の加わっていることを知り、これに、謙虚に感謝出来る人は、自分のあるべき姿をほんとうに知った人として尊敬に値する。この感謝に対し更に総てを正しくあらしめたいという希望が、祈願となって現われる。
 人の一生についてみると懐妊に当っては、その出産の安からんことを祈り、安々と誕生をみては、その命名、初宮詣(普通は生後、男児は三十二日、女児は三十三日)によって、感謝の意を表する。
 次いで七五三の祝(男女三歳の髪置き、男児五歳の袴着、女児七歳の帯解の祝)はその児の生育の健全を祈り喜ぷ祭で、三月の桃の節句と共に、子供の祭として祝ってやりたいものゝ一つである。
 やがて入学、卒業の関門と共に、成人の日を迎える。昔は子供組から若者組に更に大人組という順序で、村には村としての社会的な団体訓練があった。今でも学校教育だけで、人間の完成は計れないのですから、家庭と町村社会の団体訓練は昔の子供組、若者組、大人組に匹敵する少年団、青年団、消防団といった形で、それぞれの切目に、家庭で又神社で全部が集ってこれが報告祭を営むことは、これが訓練の達成を眼に見えない神に誓う意味で、考えられて良い。
 更に就職結婚によって、生活戦線に出発する際にも又還暦(六十一歳)古稀(七十歳)喜寿(七十七歳)米寿(八十八歳)、といったお目出度い年を迎えた祝についても、これを神棚さまにも、神社にも報告参拝し、多くの人々と共に喜びを頒ち合うことは、人生の喜びの裏に、神のめぐみを知るものゝ、当然考えるべきことである。

おつとめ
 人生も一生懸命努力し、働かねば稔りが得られないように、信心も神心になり切る努力を重ねるのでなければ、深味のある人にはなれない。心の持方一つで、自分の家庭が救われたという色々の体験談が、物語って呉れるように、信仰心が強ければ強い程、その人の心のうちにも仕事にも、真心がこもってゆく。初めにいったように、神のみ心は「清く、正しく、睦じく」生きることを第一とするを以て、神さまを拝む仕方もこの神のみ心になりきり得るように心に誓い、これを本当に実行するより外に道はありません。これが氏神さまに対しても、神棚さまに対しても、おつとめの根本でありまして、朝晩の祈りは、必ずやあなたの心に明るい燈火と生きぬく自信とを植えつけてくれよう。このおつとめの理を信ずることが、自らを生かし、人を生かす信仰の第一歩です。
 家庭にあっては神棚さまで、村にあっては氏神さまで、あなたの心を神さまのみ心に照らしながら進まれんことを。真実は常に一路です。

神社神道の信条
 神社神道を、一口で言い表わすならば、それは日本人の道統であり、日本人の生活文化であるということが最も適切である。日本人の道統であるということは日本人の継述した生活の原理であることに外ならぬ。生活原理である以上、その根底に必ず確たる世界観がなくてはならぬ。その世界観とは一体何であろうか。神社神道の世界観の一本の支柱は宗教的宇宙観としての生命観的生成観であり、もう一本の支柱は生命観的生成観に基く人類同胞の倫理観である。
 「神道は正しい生命的生成観によって、世界の同胞体制を達成すべき天神の道である。」ということが出来る。
 従って神道の究極の目的は、人づくり、村づくり、国づくりを通じて同胞制世界を具現するにある。
 神道的人格とはこのような世界観に徹した人のことで、これを神道では「みこともち」と称する。
 こうした神社神道の世界観に根ざして、次の五ケ条の信条を神道的実践の拠り処としたい。

一、神は生命の玄元にして万神と現ずる。時々刻々不息の生成化育は、すなはち神の手振りである。(神観)
二、人は神の生みの子であり、霊は不滅である。神性の自覚によって神につながり、神意の奉行によって化育に参ずる。(人間観)
三、万物は同根であり、人類は同胞である。神の秩序に従い、神の調和を保って、万物を生かし、万人にところを得しめる。(倫理観)
四、まつろい、やわらぎ、むつびは祈りである。神への祈りがまつりであり、社会への祈りがまつりごとである。(政治の理)
五、滞(たま)りと邪悪とはけがれである。けがれをはらい清めて国と世界にまことを顕現する。(神国現成の理)

新嘗と供日と饗応
 神社の三大祭と言えば祈年祭、新嘗祭、例祭のことである。祈年祭は二月十七日にその年の五穀の豊穣を祈り、秋の収穫に当っては、その初穂を神に供えて新穀感謝の誠を捧げるのが新嘗祭である。例祭はその社の創建鎮座を記念するお祭で、社によっては神輿渡御が行われるところもある。
 祈年、新嘗の祭は、いつか春祭、秋祭といわれる様になったが、それでも明治の王政復古の精神により、古儀が復活され、上代の通り祈年、新嘗の古い型で今日まで執り行われているのである。
 さて神社のお祭には必ず神饌をお供えして、之を又吾等も頂くと言うのが日本の祭の仕来りである。とりわけ宮中に於ける新嘗祭には、天皇神嘉殿に於て、皇祖天照大神をはじめ、天神地祇の大前に、当年の新穀をお供えして御親祭遊ばされ、天照大神をはじめ諸神と共に、天皇親ら新穀を聞食されるのであって、十一月二十三日夕刻より翌二十四日の明方まで続くのである。天皇が皇祖をはじめ諸神と共に聞食されると言うことは世界に類例のないことで、実に重い祭典である。
 こうした国振りであるから一般神社でもその年の初穂をはじめ、種々の収穫物を、又その新穀の一部はカミナシて酒に作り、これを神に供えて今年の稔りを感謝し、これを又お下げして頂き食い、飲んで神も君も民も相共に祝うことが秋祭であり、供日であり、従ってその日に饗応することもこの新嘗聞食すと言う心に外ならない。
 唐津神祭はその御鎮座を記念する例祭と、秋の初穂を供える秋祭とが重って、お神輿も出て、叉豪華な山笠もお伴して、しかもこの新嘗の心を以て、氏子一同が酒肴を供するから供日即ち神に供える日、又民に供える日と言う供日たる所以も相俟って大賑いを呈する次第であろう。
 近時この饗応については中々八釜しいが、やはりこれは新嘗聞食すと言う国振りであるから、むやみに自家の権勢を誇示したいり、虚栄の綺羅を競うこと等は好ましくないにしても、応分の饗応は止めたくないものである。

唐津山笠の提灯

 昨年の唐津神祭の三十日には朝の間雨に崇られて山笠の曳出しが後れたので、勢い還りもおそくなった。暮れやすい秋の日のこととて各町山笠が坊主町から国道沿にかかる処で夕闇にせまられ、十四台全部の山笠は一斉に提灯をつけることとなり、大変な美観を呈し見物の人々も帰りをのばしして、しばしこの提灯山笠に足を止めたと云う。尤も十月二十九日午前一時頃の宵山には必ず提灯は付けるものの、それは各町思い思いに曳廻ることで十四台ことごとくと言う様な美しさはない。
 十四台挙って提灯をつけたと云うことは明治の中頃以来のことで、今年もこの提灯の議が関係者の中で考えられていることは嬉しい限りである。
 ところでこの提灯には各町の標識である絵模様が誌されてあって、山笠順に云えば、刀町の刀の柄模様、中町の中ノ字模様、材木町の三桝、呉服町の呉に因んで五線、魚屋町の鯛(それ以前に何かあったらしい)大石町の町内和親提携を表す金輪、新町の三階菱くずし(又は稲妻か)、本町の左巻、紺屋町のコノ字模様、木綿町の武田菱(又は鎖とも云う。昔の火消組の時木綿町は鎖を待った曳倒し組であって之によるものか).平野町のヒノ字模様、米屋町の米から藁に因んで七五三縄、京町の京ノ字模様、水主町の水ノ字くずし、江川町の七宝丸に因んで宝珠の玉と言った具合であるが以上の中、材木町の三桝や新町の松葉(或は稲妻模様か)、本町の左巻き等は、その由来を未だ詳にしないけれども、之等は皆其町の貴重なる標識であったことは疑いのない処であるが、だんだん調べているうちに二、三の例外はあっても概して此の模様は山笠製作以前のもので各町に火消組が出来た頃からのものらしく思われるフシがある。と言うのは、徳川八代将軍吉宗公は時の名奉行大岡越前守の建言を容れて享保五年江戸市中火災防止の為に、いろは四十七組の火消組を編成したことは史上に明かなことで、中央がそうであれば地方もそれにならい、我唐津城下でも元文、寛延の頃には次第に火消組が整っていったのでほなかろうか。
 当神社々記録には九月二十九日の神祭神輿渡御に際し宝暦年間惣町より傘鉾山を出したとあり、又社伝には同じく唐津神祭に際し、宝暦以前には火消粗が警固供奉の任に当ったと言うことである。それらの日には我唐津の城下惣町でも江戸と同様にいろは十六組が編成された様で、即ち城下町成立の順番に〃いろは〃を付して、い組本町、ろ組呉服町、は組八百屋町、に組中町、ほ組木綿町、へ組材木町、と組京町、ち組刀町り組米屋町、ぬ組大石町、る組紺屋町、か組新町、よ組江川町、た組水主町と云う具合に出来上ったのであろう。
 以上の中、刀町の「ち」組、米屋町の「り」組、平野町の「わ」組、江川町の「よ」組、本町の「い」組八百屋町の「は」組、木綿町の「ほ」粗、京町の「と」組と以上八ケ町は、火防道器の頭巾や袢纏や龍吐水や纒等に之等の仮名文字が確に話してあったと各町の古老の方々より親しく承った。
 こうして纒や鳶口や高張提灯龍吐水等が次第に整えられて唐津城下惣町の火消に当り、又当社火伏の霊験に対えて、唐津神祭には火事装束に威儀を正して神輿のお伴を仕ったのであろう。
 そして此の頃に今日伝わる前記の提灯の絵模様等も考案されたであろうが如何なる発意によるものかは明かにしないけれども、之が第一に纒の頭に付けられ、火消しの意気を示し、延いては町民の心のまとまりを示すしるしとなったであろう。こうした火消組のお伴から前記の傘鉾山になり、降って水野公の享和文化の頃よりは走り山となった。これは囃しもなく掛声のみで荒々しく曳き走るのみで途中で破損して大急ぎでカッチンカッチンと叩き修繕をして又走り出すと言う殺風景なものであったが、それでも江川町の鳥居、塩屋町の仁王様、木綿町天狗様、本町の右大臣左大臣、京町の踊り屋台等見るべきものもあった。
 それから後小笠原公入部の翌年文政二年初めて刀町の赤獅子が出来て、中町の青獅子、材木町の浦島、呉服町の兜、魚屋町の鯛と出来上り、此頃までは走り山と併せて曳出されていた。こうした走り山も次第に廃せられて今日の様な本山笠になって行ったのであるが刀町の赤獅子創始の頃此の火消組の標識の模様を山笠の提灯に移して、之が今日にも残る山笠の提灯の絵模様である。
 こんな具合で火消の心意気と山笠曳の気分とは何か相通ずるものがあって、我唐津では「山笠と火事のことなら俺に委して置け」と言った様な勇み肌の、それこそ江戸腹掛の似合う兄ニィ〃連中が町々には必ず居るものだ。之を「火事山進」と称す。火事も山笠も「若ッかし」の独壇場だ。それかあらぬか、この提灯にも必ず町の頭文字をとり「何若」と誌してある。
 さて又話は宵山のことになるが、私共幼い頃は曳出しが夜中の一時頃で町々は暗く叉静かでもっと寒かった様に思う。山囃や提灯の趣を味あうには格好な雰囲気であった。それに栗強飯の香りもして私共嬉しさと寒さで歯の根も合わず宵山を見に行った。大人になって、町々も明くなり騒々しくなってもこの気持には変りはないが。

 こうした宵山の提灯にも各町それぞれの付け方があって、例えば刀町、材木町は高張りを用い、呉服町は錣の下に一列に、大石町や江川町は船と屋根の二段付け、又刀町や中町は一本の青竹を幾つにも割って多くの提灯を付けて、それは美しいもので、こうした提灯のつけ方と囃とで山笠の姿は分らなくとも何町の山笠だとすぐ分る様に中々興味深いものである。
 山笠その物に先人の血のかようものであることは勿論のこと乍ら、それより以前から長い伝統と、祖先の貴重なる心意気が此の軽い提灯に残っていると言うことは何か奇異の感がしないでもないが、私共唐津人にとっては此の山の提灯も又山笠と共に実に尊い存在であると思う。
 山笠関係の方々のお骨折で昨年同様今年も十四台の山笠に挙って提灯をつけ、丁度今年は山笠の中でも豪華な大石町の鳳凰が塗替したことでもあるし、唐津山笠に一段の光彩を放つ機会をお作り下さらんことを切望する。

明治初年の神道説教
 明治初年全国的に、神職で教導職にあるものは大衆を見当に神教の徹底的宣布を図ったもので神社の社頭は勿論時には民家をも借受けて熱心に神道精神を講明し之を説教と公称した。
 我唐津でも十人町伊勢屋の教会所に於て前宮司戸川俊雄等も教導職として盛んに之に携ったらしく、その講録と言った様なものが見付ったのでその二、三を紹介しよう。

福の神と貧乏神
 今日は福の神と貧乏神のお話しを致しまする。一体人々は総じて欲張りが多くどうすれば福神が来るかと考えるのでござるが、貧乏神が来た時の覚悟をしている人は少いのでござりまする。
 或る怠け者が福の神の入来ばかり祈って居りますと或日他出して帰りがけに福の神と途中でバッタリ出合いました。そこで喜び勇んで「何卒私方へお越し下さりませ」と言うと福神は「イヤ実はお前の所から出て来たのだ」と仰せられて姿は見えなくなりました。驚いて呆然としておりますると後からポロボロの姿をしたる貧乏神が出て来てボンと肩を叩きながら「これからお前の所へ厄介になるよ」と言いました。
 貪乏神を退散することも取持つことも心得のない怠け者で、福の神の入来ばかりを考えていたので次第に落ぶれて身を損いました。
 それとは逆に働き者なれども貧乏から免るることが出来ざる者ありて、その者ふと思いつき、俺は一ッ人の嫌う貧乏神を祭ってやろうと藁人形等を材料として見苦しい限りの貧乏神を作り上げ、元旦から七日の松が取るるまで饗饌を供えて心を尽して祭りますと、貧乏神はあまりの嬉さに其者の枕の上に立って「自分は到る処で迫害を受けて来た金持の家は嫌いで、始終貧乏人の家ばかり廻っているせいか知らぬが殆んど顧られたことはござらぬ。ところがお前は感心に貧乏神の俺を親切に祭って呉れた。此の恩賞にお前の貧運を、己のみの驕奢に耽って他人の貧苦を察せぬ無慈悲なる金持に譲って、お前を其の代りに金持にしてやろう」と託宣してから、此者十年にして千貫目余の分限者とはなりぬと申しまする。
 皆様貧乏神をも、持てなすことが肝要でござりまする。

権利と義務
 今日は権利と義務との訳を聯か演舌に及びまするが此の条は至って大切なる事にて人道を明かに致すの一端ともなる事故、コリャ大切に弁えて置かねばなりません。
 人とある者はお互に此の義務がある許りでなく、権利も行わるると申すものながら、又義務がなければ権利は決して行われは致さぬでござりまする。
 そこでこれを物に譬えて申さば、丁度天秤に分銅の添えてあると同じことで、天秤が権利で分銅が義務の様なもの。ソコデ彼の天秤に物体を一ッでも掛けんとするには、其の程々に分銅と言う重りがなければなりませぬ。これがない時は物体一ッ掛くることのならぬばかりでなく、天秤は逆立ち致すのでござりまする。
 さて人の上も丁度これと同じことにて、人にも義務と言う分銅がなく只身勝手に権利のみを致そうとすると丁度天秤が逆立ちする様に人間が逆立ちする様なことが出来るのでござりまする。
 そこで恐れ多いことながら天皇様をはじめ義務を先に遊ばされて後に権利があらせらるる次第でござりまする。ソリャ天子様の権利義務は如何なることかと云うに、先ず今日上納や、租税を御取立て遊ばさるるは 上天皇様の権利と申すもの。其代り天下万民が安穏にて暮す様にと思召して大政官諸省を始め国々には県庁、扱所、警察等を置いて諸人の危害を救わせらるるが故に今日強いが弱いをいぢむる恐れもなく、夜も枕を高うして薄板囲いの中に安楽に寝る事の出来るのでござりまする。コリャ上様の有難き義務のお蔭にて、これ即ち上様の権利義務でござりまする。
 叉下々にも権利義務があって、先ず農業渡世の者の上で云うと、吾が持地の田畠には米を作ろうとも、麦を作ろうとも勝手次第、又其米や麦は食うとも商うとも、低くも高くも皆己が勝手に致すは農夫の権利と言うものでござりまする。
 ソコデ之に均り合う義務と言う分銅は何ぞと申さば今日上納や租税を致すが則ち義務と申す訳でござる。然るに尽すべき義務を忘れて租税賦役のことを彼是申す者もないとは言えぬが、能く思って御覧。おのおのが義務にて納むる処の上納租税が則ちおのおのの権利の種子と相成るのでござる。
 ナゼと申すに、ソレ今日租税賦役と致さずに於て御覧じ。朝廷の御政事も立たぬ様に相成るは必定。左すれば今日国々に切取り強盗がはびこりて人の物も叩き落して取る様に相成ると権利どころの咄しじゃない。夜も枕を高くして寝ることも出来ず、人民如何ばかりか難儀を受くることでござろうぞ。けれども少々宛出し前の義務を致して置くとそれを朝廷の入費として、御政事の義務が有らせらるると申すものでござりまする。して見れば上様の権利は下々の義務となり、上様の義務は下々の権利となり上下合体致して富国強兵の基本とも相成ることでござりまする。
 そこで権利と義務は諺に申す提灯に釣鐘にならぬ様量りと分銅の如く平等に相成る様になければなりませぬ。
   × × ×
 以上は神道説教の一端を示したに過ぎないが、平易で通俗的に分りやすくかんで含くめる様である。しかも明治新政の一翼を担う気概も見えて勇ましい。
 九十余年を経た今日これを見れば、復古的な神職にして、よくも文明開化に調和したものだと、又この文体や語方等も現代のそれとは余程の隔りがあってくどくどしくはあるにしても、当時未だ封建余波の漂う中に用いにくかったであろう口語法によくこなして、神道宣布に努力したものだと思い、甚だ興味深い中にも現代の世相を思えば之に教えらるる処頗る大である。


神幸祭について
 本年の神幸祭は恒例により次の次第を以て齋行されます。
十月九日 初供日祭
   山笠行列図展覧
   山笠囃初めの
   儀各町奉仕
十月二十五日 神輿飾の儀
   総行司  一の宮中町
         二の宮木綿町
十月二十八日 宵宮
   神儀移御の儀
十月二十九日 宵山笠曳き
十月二十九日 神幸祭
   午前九時 発輿
   正午 御旅所祭
   午后 三時還御
十月三十日 翌日祭
十一月一日 神輿納め
   総行司交替

祭典行事報告
    自昭和三十六年四月一日
    至昭和三十六年九月三十日
四月一日 月首祭
 十五日 月次祭
 二十一日 天皇・皇后両陛下唐津へ行幸啓、西の浜にて山笠の天覧を賜う。
 二十九日 春季例大祭 奉納演芸、生花等で賑う
五月一日 月首祭
 七日 寿社例祭。鳥居天満宮春祭(境内社)
 十日 金比羅神社春祭(公園、坊主町鎮座)
 十五日 月次祭
 十九日 水天宮例祭(境内社)
 二十一日氏子総代研修会
 二十五日 天満宮春祭(西旗町鎮座)
六月一日 月首祭
 十五日 月次祭
七月一日 月首祭
 二日 八百屋町夏季祈祷
 十二日 御旅所問題につき委員会開催
 十五日 月次祭。八坂神社例祭(公園)
       呉服町夏祈祷
 十七日 平野町夏祈祷
 十九日 山笠囃大牟田市の九州芸能大会に出演
 二十三日 新町夏祈祷
 二十五日 粟島神社例祭(中町)
 二十九日 夏祭 茅の輪くぐり、形代流し。
 三十一日 社殿両側へ木扉及柵設置
八月一日 月首祭
 十五日 月次祭
九月一日 月首祭
 十五日 月次祭
 二十三日 神道家祖霊祭
 二十五日天満宮秋祭 (西旗町)


お宮へ参ろ
○お宮へ参ろ
 玉砂利 小砂利
 朝露ぬれて
 さくさくなるよ
○お宮へ参ろ
 親鳩子鳩
 ひなたによって
 くるくるなくよ
○お宮へ参ろ
 大杉小杉
 夕焼うけて
 きらきらたつよ


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