平成24年10月31日
道囃子について尋ねられました。勉強不足を痛感しました。
現在は11月3日9:30に火矢が上がり御旅所神幸が始まります。先頭の刀町がしずしずとこの道囃子を奏でて参道を下っていきます。
どこで競り囃子に変わるかは今年のピープルの映像で確認したいと思います。(エスポアール辺りではないかと思っていますが。他所の曳山のことは全く知りませんのでご勘弁を))
ここにこれまでの記述を纏めてみました。
考察はおくんちが終わってからゆっくりしようと思います。
「唐津歴史空間 まつり再発見」 (財)唐津市文化振興財団 1994年3月出版
唐津曳山囃子保存会
曳山行事は地元の口伝によれば寛文年間(一六六一〜一六七二年)に始まったといわれ、曳山囃子も江戸末期の漆塗り本造り曳山時代に成立していたと考えられます。
それ以前は平松文書(安政六年、一八五九年)にある江川町(鳥居)、塩屋町(仁王)、木綿町(天狗面)などの仮造りの曳山「走りヤマ」 の時代があり、福本文書(宝暦十三年、一七六三年)の「傘鉾ヤマ」の時代が知られています。曳山囃子が「走りヤマ」時代や「傘鉾ヤマ」時代、あるいはもつとさかのぼるかどうかは定かではありません。
しかし、鏡や唐房などの山笠に山笠囃子が伴っているところから、江戸時代中期の土井藩時代の「傘鉾ヤマ」には曳山囃子が成立していた可能性があります。
このようにして成立した曳山囃子は、豪華けんらんな十四台の曳山に、生命の息吹きを与えて躍動させ、唐津神祭を我々に強く印象づけてくれます。
正月の囃子初めに始まり五月の春季例大祭、七月の幕洗い行事、十月の初くんち、十一月の宵曳山、御旅所神幸、町回りと続き曳山囃子とともに祭りは盛り上がってゆきます。
囃子には立曳山囃子、道囃子、せり曳山囃子の三種類があります。
立曳山囃子は、曳山が停止している時にはやす囃子で、曳山が町内で休憩のため一時停止したり、西の浜の御旅所で休んでいる時などに演奏されるものです。
道囃子は普通の速度で曳山を曳く時の囃子で藩政時代では唐津神社前から大手門までの、三ノ丸武家屋敷(城内)を曳く時だけにはやされたといいます。
せり曳山囃子は、駆け足の早さで勢いをつけて曳く時の囃子で、神祭の曳山曳きではこの囃子がほとんどであり、一般に曳山囃子と呼ばれています。
唐津曳山囃子の保存会が結成されたのは昭和四年六月の熊本放送局の開局一周年記念行事に出演したことがきっかけといいます。この時は、萩谷唐津町長、太鼓・木下又蔵氏、鐘・佐々木初雄氏、笛・古館正二郎氏、西尾猪之吉氏、松尾清治氏、木下忠氏、市丸一氏、平田吾一氏、道囃子指導・高添藤五郎氏の十人でした。
さらに、昭和二十四年には唐津神社主催で木下、市丸両氏を師範にして十日間の講習会が開かれました。習得者の中には宮田正二氏、一色高義氏、一色耕次郎氏、篠崎正義氏、戸川健太郎氏がおられ、その後の習得者の中には田中富三郎氏、宮田一男氏、堀c氏、福島資千氏、松本千代蔵氏、野田邦次氏、小島惣一氏などがおられます。
昭和四十七年には今日の曳山囃子保存会の後継者作りに貢献したとして市丸一氏(呉服町)が曳山囃子保存功労者表彰を受けられています。
昭和三十年ころには松下又彦氏が刀町の曳山囃子を採譜されており、楽譜の譜面で囃子をみることができます。
現在の保存会は、曳山総取締瀬戸利一氏、囃子委員長森修一氏の指導のもと、会長田中勝氏らを中心に活発な活動を続けておられます。
次に唐津六大資料から道囃子の記述を探ってみました。
その1
神と佛の民俗学 唐津のヤマについて
飯田一郎著 1966年9月30日初版
(五) 山囃し
豪華けんらんたる十四台のヤマもさることながら、これに生命の息吹きを与えて躍動させ、唐津神祭の印象を強く特徴づけているものは山囃しである。山囃しの或は急に或は緩になるにつれて、若者達は或は勢を増し或は力を抜いて休む。遠く其の旋律を耳にすれば、見物の人々は其の方向に足を早め、近づくに従って人々の脳は其の旋律に共鳴して次第に高鳴って来るのである。
この山囃しは十月九日初供日の日各町内のヤマの引初めに続いて夕刻から神社前に集って囃し初めの儀が行われ、それから後は町々で毎晩夜おそくまで囃しの稽古が行われる。こうして次第に町を挙げて神祭気分が高まってゆくのである。楽器は笛が三本か四本、大太鼓・しめ太鼓(小太鼓)・鉦(正しくは鐘)が各、一つずつ。そしてこの外には何も使わない。囃しの旋律には大別して、道ばやし・セリヤマ囃し・タテヤマ囃しの三種がある。道ばやしは普通の速度でヤマを引張ってゆくときのはやしで、セリヤマ囃しは駆け足の速さで勢をつけて引張るときのはやし、そしてタテヤマ囃しはヤマが停止しているときに囃すはやしである。これらの三種は卒然として聞けばどの町のものも同じように聞えるけれども、よく注意して聞くと、町々によって夫々に特徴のあることがわかって来る。道ばやし・セリヤマ囃しに於て、特にそうでヤマの大きな町のは大太鼓を多く打ってしかも調子がやや急であり、ヤマの小さな町では大太鼓を少くして調子が軽く緩やかである。
こうした特徴のある旋律を有った山囃しは各町内で長年にわたって伝承され、之を得意とする古老から次の人達へと教え込まれるのである。併し、例えば共同で椿古するような場合には、一番ヤマをもつ刀町のそれを一応の基準とする例である。先年東町の松下又彦氏がこれを採譜したものがあり、関係方面に紹介されてる。大太鼓はベテラン木下又一氏であったが、昨年惜しくも物故されてもうその実演を聞くことが出来なくなった。
その2
曳山のはなし 古舘正右衛門著 昭和60年2月10日発行(昭和54年までの遺稿)
(12) ヤマ囃子
ヤマ囃子(はやし)一
曳山(ヤマ)を曳かずに集団して歩きながら囃して行くのを「ミチバヤシ」「セリバヤシ」という事がある。此等と区別するため唐津では、すべての囃子に、ヤマを頭につけて「曳山囃子」「ミチヤマバヤシ」「セリヤマバヤシ」「タテヤマバヤシ」と呼ぶべきだ。
ミチヤマバヤシ=藩政期から明治二十 八年明神小路と国道を結ぶ濠堀の上に橋ができるまでの間の約七十六年間、つまり、大手門内の武家家敷町で囃された静かな音律である。一説には刀町の曳山だけ囃したともいわれる。
セリヤマバヤシ=競りヤマバヤシ、迫りヤマバヤシであるかは定めがたい。曳山が走り出すときに囃すものである。
タテヤマバヤシ=大言海には、タテヤマとは禁山、留山と書く。なお、越中立山にはヤマバヤシはない。
曳山囃子の笛
寺村次男氏の説によると、昔の笛は今の竹よりかなり太かった。笛の音も太く、高い音ではなかった。それが、竹が太いと活息(いき)が多量にいるので段々筒竹が小さくなった。それで吹き易すく馴れも早い。それだけに音も高音となり、ピーピーの音が多くなった。随って太鼓と笛の音調が不協和になり勝ちとなった。
刀町の囃子が先頭曳山だから一番ゆっくりしているが、続く曳山の囃子は段々と高くなり、調子も早くなりがちである。
平田常治・市丸一氏らの使用した笛は確かに太かったと思う。
なお、古くは祇園山や浮立の祭の囃子を持つ他町村の笛吹きがヤマバヤシの加勢に来てもらった町が多かったので、今のように笛の音律が揃うていなかったと思う。ただ、応援を受ける笛吹きの部落はきまっていたので、同じ町で、年ごとに音律が変ることはなかった。
ヤマ囃子二
曳山(ヤマ)囃子には「みちヤマばやし」「せりヤマばやし」「たてヤマばやし」 の三曲がある。
たてヤマばやし(立山ばやし)
越中立山富士山……という歌詞に合せてやまばやしを符合させたため、立山ばやしといったものだと思うが、田中冨三郎の話では立山にそのようなはやしは残っていないという。上場地方には石曳歌として其の歌詞が残っているそうである。大言海の立山の項を見ると、禁山・留山(トメヤマ)と同じと記し、とめ山の項には狩猟伐木等を禁じ置く山と記しているので、仮名で「たてヤマばやし」と書く方が無難である。この曲は曳山をとめて休息のさい、はやす静かな音調である。
せりヤマばやし
競り曳山囃子か、迫り曳山囃子か、問題であり、仮名で「せりヤマばやし」が無難である。この曲は曳山の曳子が勢いついてせる時に合わせる勇壮なはやしである。
観光協会で宣伝用に作ったビデオ・テレビには、「せりばやし」といい、同好会のビデオ・テレビでは「せりヤマばやし」と違ったいい方をしている。このはやしも必ずしも曳山がせり出す時だけに用いるのでなく、歩くときも用いるので「せりヤマばやし」と統一した方がよい。
みちヤマばやし
道ヤマばやし・路ヤマばやしと書くが、唐津の場合は後者が良い。テレビ放映で、歩行しながら曳いている曳山の進行に合わせて奏されている囃子の群の状景の説明に「みちばやし」とあったが、みちヤマばやしといった方がよいと思う。昔は、このみちヤマばやしは城内の明神横小路・大名小路を通るとき、このはやしの静寂優雅な音調を奏したものである。それが明治二十八年から昭和五十三年まで八十四年間奏されることはなかった。それを昭和五十四年に刀町の曳山が復活させている。
其の他
現在のはやしはどこの曳山でも同じように感ぜられるが、昔は各町独特のものであった。昔は笛を吹く者は浮立をもっている在郷の人々が応援してくれたもので、在郷の浮立の笛の違いによって、曳山のはやしも少しづゝ違っていて、その笛の音を聴くことにより、何町のヤマばやしかがわかったものであった。昔のように各町の個性をもったはやしの方がよくはないかと思う。
また、太鼓の打ち方も昔は身体で覚えたもので、現在は腕だけでたたいているように思えてならぬ。もっと、幼ない時から覚えさせておく必要があろう。
(13)ヤマ囃子唄
一、玄界灘を ゆりかごに ゆりかごに
ゆりかごに ゆりかごに
まつうら嵐を まつうら嵐を
子守唄 子守唄
育ったおいらは 唐津ッ子 唐津ッ子
ア エンヤ エンヤ
二、唐津くんち ドンチキチ ドンチキチ
ドンテッテ ドンテッテ
曳き出せ 曳き出せ
せりやまばやし
ドンドンドンドーン コテッテ
ヤマ曳くおりどま
唐津ンもん 唐津ンもん
ア エンヤ エンヤ エンヤ エンヤ
※ 岩下正忠氏によれば、この唄は刀町紺屋鶴田某の作という。また、松下又彦氏によれば、この歌詩に一行加えると、やまばやしの譜に一致する。
その3
唐津神社の神祭と曳山に関する抄録 戸川鐵著
16 曳山囃子について
(昭48.1.15記)
筆者は、次に述べる唐津くんちの曳山囃子についての情報を、唐津観光協会、唐津曳山取締会、曳山囃子保存会の三者から得ることができました。
唐津くんちの曳山囃子は、笛、鉦(かね)(正しくは鐘)、太鼓による三ツ囃子であり、古く江戸時代から次の3種類が残っています。
(1)競り囃子
優雅で勇壮なこの旋律は、唐津っ子の血を湧かせ、胸を弾ませる調べです。唐津神社の秋祭り、すなわち唐津くんちの山曳きでは、ほとんどこの囃子が用いられ、一般には「山囃子」と言われています。この囃子は、曳山が製作された当時から今日まで、曳山とともに伝統を守りつづけています。14力町とも旋律はほとんど同じですが、鉦(正しくは鐘)と太鼓の打ちかたには各町ともそれぞれ特徴があり、各町の気風がそのまま大切に受け継がれてきています。
10月9日の初くんちの儀式に囃し初め(唐津神社での初供日囃初ノ儀)を行い、各町がそれぞれに練習を始め、大人も子どもも近づく唐津くんちを楽しみに待つのです。
(2)道囃子
現代風の表現をするなら、道囃子は前奏曲と言うことができましょう。この囃子は、大陸からの影響を受けた雅楽に基づいた囃子ではないのかとも言われるほど、静かで奥ゆかしい調べです。
かつて藩政時代には、曳山が唐津神社前から大名小路を通り、大手門までの武家屋敷が並んだ城内を行くときだけこの囃子が囃され、やがて大手門をくぐって町に出てからは賑やかな競り囃子に変えて囃された、と言われています。この道囃子は、明治の中頃まで一番曳山の刀町「赤獅子」で囃されていましたが、大手門がなくなり、堀も埋めたてられ、曳山のコースも変わったリしたために、いつのまにか囃さなくなり、長い間忘れ去られていました。
ところが、昭和4年の6月にNHK熊本放送局が開局され、その民芸大会に当時80歳に近かった刀町の高添翁が出演されたとき、この道囃子を覚えておられました。翁は、次代を背負う師匠連にそれを伝授されました。この道囃子は、その伝授された数人の師匠たちによって、辛うじて伝えつづけられてきたものなのです。
現在では、この道囃子は10月9日の初供日の夜の囃子初めのときに奉納される程度であり、唐津っ子にもほとんど知られていませんが、唐津観光民芸としては時折紹介されることがあります。
【付記20】雅楽
@正しき音楽、みだらならざる音楽。
(昭48.3.24.「広辞林」より)
A平安朝およびそれ以前の音楽、声楽には神楽歌、久米歌、東遊、催馬楽、朗詠、器楽には本邦の楽および唐楽、狛楽、伎楽、楽器には三絃、三管および鼓類あり。
(3)立山(たてやま)囃子
曳山が各町で休憩のために一時停まっているときや、西の浜の御旅所で休んでいるときに、よく囃されている囃子です。
元歌は江戸時代の民謡で、「越中立山富士の山」とも言われています。しかし、唐津藩は徳川300年間に6代も藩主か変わっており、今から約200年ほどまえに土井藩主と交代した水野藩主が、愛知県岡崎から国替えになったときから伝えられていたのではないかとも考えられます。
【付記21】曳山囃子保存功労者の表彰−市丸一氏−
(昭46.10.1.「社報第23号」より)
曳山囃子は、長い間伝統を受け継いできたものなのですが、その数曲の中でも、道囃子はもっとも優雅で優美な曲目なので、その演奏は難しく、演奏の習得はなかなか困難です。明治以降は唐津くんちにも演奏されることがなくなり、幻の山囃子になろうとしていました。昭和初年にこの囃子のただ一人の演奏者としてこの秘曲を保持しつづけておられた刀町の高添氏から伝授された数名も、戦中戦後の混乱期を経て、再びこの囃子が絶え失せようとしていたとき、呉服町の市丸一氏が鋭意後継者養成に力を尽くされたおかげで、今日のような陽の目を見るに至ったわけです。神社では彼のこの大きな功績に対して、昭和47年5月3日の例大祭の神前で表彰を行いました。
18 道囃子について
(平9.1.31.記)
(昭44.10.3.社務所にて水主町の田中冨三郎氏の話)
現在、唐津の曳山が囃しているのは「競り囃子」と言って、曳山を急いで曳くときの曳き山囃子です。古い時代の神祭で、曳山の曳き出しから大手口に出るまでの様子を、以下に述べます。
藩政時代から明治6年にかけては、神輿の出発に伴う曳山の曳き出しから大手口に出るまでは、本来の「道囃子」が囃されていました。道囃子とは、曳山が停まっているときや静かに動いているときの曳山囃子のことです。
それは、次のような道路事情があったために、かなり慎重になされたようです。昔は、城内が城の外濠である肥後濠でとり巻かれていたので、現在の明神小路は大手口に通じていませんでした。ですから、明神社前を出発した曳山は、大名小路を通り、大手門をくぐって大手口に出ていました。大手門は現在の大手口広場の東の奥に立っていて、当時はそれがお城への入り口でした。
大名小路は大名をはじめ多くの身分の高いお方が見ているので、ことのほか曳山囃子もていねいに奏し、曳山を緊張して曳いたそうです。また、曳山の装いも充分に凝らし、垂れ幕は隙間なく張り、囃子に合わせてしずしずと進む姿はいかにも厳かで華やかであったということです。曳山はこのようにして大手門をくぐって大手口に出たわけですが、大手門をくぐる前後には囃子に合わせて曳山を低くしたり高くしたりしたそうで、その妙味もまた一入であったことでしょう。
そして、大手口に出た曳山は囃子を「競り囃子」(現在の通常の曳山囃子)に替えて城下の16カ町を廻り、西の浜の御旅所に向かったのでした。当時はまだ現在の国道か開通していなかったので、各町を廻ってきた曳山は名護屋口(現在の下町坂、浄泰寺の西)から近松寺のまえを通り、坊主町を経て西の浜に向かったそうです。
明治26年に肥後濠を埋め立てて明神小路が大手口の西入口に通じてからは、明神小路の入り口には第一の鳥居や石の幟柱や燈籠などが設けられ、曳山は大名小路を通らずに、出発後に直接大手口に向かうようになりました。それ以来、曳山囃子は曳き出しのときから「競り囃子」を奏するようになり、「道囃子」はしだいに姿を消していったのです。
参考
大手門時代の様子は次をご覧下さい。
曳山コースの変遷
先ずは資料を羅列してみました。(2012.11.1)