太平洋を越えて@    唐津新聞 昭和56年4月7日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

旅立ち

夜ふけに羽田発

  保利代議士の激励受けて


 三月二十六日、咲き初めたサクラに名残りを惜しんで旅立った「唐津曳山米国派遣団」の一行は、日米親善と「観光のまち・からつ」PRの大任を果たして全員ぶじ四日に帰唐した。文化会館前でパスを降りた団員たちは、出迎えの家族たちと、たちまち笑顔で話がはずむ。一行を待ち受けでいたのは家族たちだけではなかった。それは日本が世界に誇る満開のサクラであった。一行が望んだ抜けるように青い南カリフォルニアの春の空、そしてさまざまな色の変化を見せる常夏の島ハワイの海。
その楽しかった十日間の足跡をペンとカメラで追ってみよう。

 元気で唐津出発

 「さあ出発」三月二十六日午後零時すぎ唐津市文化会館前をパスが発車する。
 「元気でね。お土産はミッキーマウスのTシャツだよ」
 「わかった、わかった体に気をつけろよ」
 「父ちゃんこそ気をつけてね」
 家族との間でしばしの別れのあいさつが交される。
 バスは一路、海岸ぞいの国道を福岡空港へ。
 みんなの心はもうディズニーランドに飛んでウキウキ。バスの中で会話と笑顔が。やがて空港到着。一足先に唐津シーサイドハイツ前を出発した「アメリカ西海岸・ハワイ十日間」ツアー組が到着していた。派遣団員たちは「曳山派遣団」の四角なバッジ、観光団は「昭和自動車」のマーク入りU型の標識をそれぞれ胸につけている。
 添乗員の案内で二階の出発ロビーへ集合する。
 午後三時四十分発の全日空機で羽田へ。羽田には同五時十分到着したが、東京発は同九時五十分の予定なのでいちおう解散して、それぞれ夕食をとりに外へ。

  中華航空機で

 出発ロビーに保利耕輔・美崩夫妻が長女の順子さん(二〇)=上智大外国語科二年=と二女の祐子さん(一八)=立教大仏文科一年=を伴って一家総出の見送り。
 「道中ご無事で」と一行が激励を受け、脇山団長、中野、瀬戸両副団長、金子唐津商工会議所会頭
らが「元気で行ってきます」と固い握手。
 やがて塔乗時間。羽田の国際空港ロビーは中華航空公司だけの使用なので広すぎてガランとした感じだ。
 同十時十分離陸。スチュワーデスは赤いチャイニーズ服と青と黄色の洋服の二組に分かれ、いずれも美人ぞろい。日本人そっくり。開くところによると中華航空公司のスチュヮーデスは台湾女性のなかでも選りすぐった教養のある女性だそうだ。
 飛行機の横ゆれがひどい。同十一時すぎスチュワーデスが深夜食を配る。
 サンドイッチ三切れとトマト、サラダ、ソバ、パセリ。そして「ティー?」「カフィー?」と聞いて紅茶とコーヒーをカップに注ぐ。
 同十一時四十二分に機内アナウンスがある「気流の悪いところがございますので安全ベルトをお締めください」

 「おやもう朝だ」
 時計の針は二時三十分を指している。ところが日付変更線を通過したので前日の午前七時半なのだ。そこで朝食が配られる。窓外はもう青空だ。
 「もうメシバイ」
 「まだよく眠っとらんとに夜明けバイ」
 朝食は丸パン、マカロニ、オムレツ、ナツメ、パインアップル、黄桃、バター、マーマレード。
.機内アナウンス「ホノルル到着予定時刻は九時二十五分となっております。ホノルルはいま気温二十七度。曇り」
 そして最後の機内アナウンス「間もなくホノルル国際空港に到着致します。ただいまの時刻は九時十六分です。このたびは中華航空をご利用頂きましてありがとうございました。またのご利用を機長以下二十八名の乗員心からお待ち申し上げます。皆さまベルトをお締め下さい。ありがとうございました」
 機はしだいに高度を下げた。窓からひとみをこらしていると突然特徴のある山が視野に飛び込んだ。
 「ダイヤモンドへッドだ」と心で叫んだ。機はダイヤモンドヘッドを左側に見なから海から一直線に海岸の飛行場へ降下していった。 
 太平洋を越えてA   唐津新聞 昭和56年4月8日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

ロズ到着

すぼらしい夜景
   「世界一だ」と添乗員たち


 あわてる愛煙家

 ホノルル国際空港ロビーは冷房が入り、豪華な雰囲気を漂わせていた。床張りで二階が吹き抜けになって広い空間があった。日本から来た人たちは、もちろん背広姿で、なかにはコートを着ている人もいた。この、ロビーで三時間ほどを過ごして次のロサンゼルス行の中華航空機を待つのである。やれやれと疲れた体の一行はソファに腰を下ろすと、まず一服と、たばこをすい始めた。皆「おやと、あたりを見回した。吸いがら入れがない。床が、じゅうたん張りなので灰を落とすわけにはいかない。「吸いがら入れがない」と皆あわてだした。吸いがら入れは中央のところに置かれていた。皆のみかけのたばこの灰を床に落とさないように注意しながら吸いがら入れのところへ急いだ。
 ところでこの様子を見て一人ニンマリ笑ったのは唐津商工会議所総務課長の尾花明さん。ちゃんと携帯吸いがら入れを持参していたのである。尾花さんは「外国旅行をするときは、エチケットが大切バイ」と、やせた体で見えを切って男をあげた。尾花さんの回りの数人が、この吸いから入れ≠利用した。皮製で、小銭入れのような形をしていた。

 海の色がきれい

 やがて出発が迫まる。ホノルルからロサンゼルスまでの所要時間は五時間十分。しかし時差が二時間あるので、ロサンゼルス到着は午後七時ごろの予定だ。
 添乗員に頼んで座席を窓際に変えてもらった。添乗員たちがロをそろえてロサンゼルスの空から見る夜景は世界一と言ったからである。
 午後零時三分、中華航空のジャンボ旅客機はホノルル空港を離陸した。
飛行場には日航機や、オーストラリアのカンガルーの絵を尾翼に描いたカンタス機、赤・黒・白に塗った機体で尾翼の黒地に黄色で鳥の絵を図案化して描いたシンガポール航空機などが翼を休めていた。
 日は差していたがホノルル市街のあるオアフ島の山々の頂は、さして高くもないのに雲に包まれていた。海の色がすぼらしかった。淡いグリーンで波の白さとマッチして絵のよう。海の色は深さを増すのと正比例して色を濃く変えていた。真珠湾を捜したが見当たらなかった。反対側に飛び立ったためだ。ハワイは大きな島が八つある。高度を上げて雲の上に出た。
下に島が見えるが、どの島か地図を開いて見てもわからない。島の海岸は打ち寄せる波で白い線が書かれていた。
 「ビールはいかがですか」とミラー″というアメリカ製のかんビールをスチュワーデスが配ってきた。零時四十五分機内アナウンスがある。
 「ただいま三万五千フィートの高度。ロサンゼルスの天候は曇、気温は十五度」

 乗客が目を切る

 添乗員同士が、あわただしい会話を始める。聞くと昭和観光ツアー組の女性がコンタクトレンズで目を切ったというのだ。
添乗員の一人が、ロスに着いたらすぐ病院に急行しなければ、と顔をくもらせた。添乗員もこんな事態が起こるから大変だなあと同情する。
 後日、この患者のことを添乗員に開いたら、応急手当の結果、旅行には支障なかったということでホツとした。飛行機は同じでも観光団と派遣団はホテルも違うし、なかなか一緒になる機会は少なかった。外国旅行するのにコンタクトレンズは危いなと思った。

 さあ着いたゾ

 だんだん夕方のもようとなった。雲が夕日のため赤く染まって、まるで遠くで火事があっているように見える。日本の秋のつるペ落とし″のように、あわただしい夜の訪れである。六時四十五分を時計は指している。
 横に座っていた添乗員が「ほらロスですよ」と指さした。すぼらしい光の海に目を見張った。着陸寸前まで長々と、しかも碁盤の目のように整然と続くその光の海は、まるで夢の国にやってきたような錯覚を起こさせた。
 ガタン、ガタンと機が振れた。着地である。二十六日牛後六時四十九分、一行はついに米大陸に一歩を印した。
 「着いたぞ、着いたぞ」
椎かが大声で叫んだ。皆着いたという実感がこみあげ、お互いにうなずきあっていた。

太平洋を越えてB   唐津新聞 昭和56年4月9日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

市内見学〈上〉

うまいジュース

お天気続き・乾燥の町


 二十七日あさ七時、電話のベルで起こされた。前夜はおそくまでホテル一階のレストランで、いろいろのものを食べたり飲んだりした。内容がよくわからずにメニューを見て想像で注文するので、とんでもないものか運ばれてきたりして大騒ぎ。
みんなの心がはずむのは宿舎が最高級といわれるロサンゼルス・ヒルトンホテルなので、大いに満足したからであった。
 前夜渡されていた食券を持って七時半ごろ相部屋の山岡*延(たかのぶ)さんと一緒に一階の日本料理店に行った。
 団員は皆二人一部屋で終始同じメンバーだったので、二人ずつ同一行動をとる組が多かった。
 朝食のメニューは味付ノリ、生卵、ミソ汁、つけ物、チリメンジャコ、甘塩でやわらかい鮭(サケ)にレモンの輪切りが添えられ、カリフォルニア米はもともと日本原種なのでおいしかった。
 店の造りも豪華にできており、ランカンなどが設けられ御所車の絵が壁に掛かっていた。大きなガラスのいけすには魚が四尾泳いでいた。魚の名はわからなかった。一流ホテルにゴージャスな日本料理の店が入っているのは、なによりもこのホテルに日本人宿泊客の多いことを物語っていた。同ホテルにはもう一軒日本科理レストランがあり室数は千三百。

 午後から三班に

 さてきょうの予定は午前中が市内観光.午後からは三班に分かれてそれぞれの行動がとられる。
一つはロサンゼルス郡アナハイム市長訪問班、一つは曳山の組み立て班、もう一つが再び市内観光を続ける班である。
 朝食を終わると一行はロビーに勢ぞろい。市長代理としてアナハイム市長にメッセージと記念品を渡す議会事務局長村上良泰さんは紋付はかまに威儀を正して整列した。
 ガイドは現地の日本人で、マイクで説明を始めた。
 「みなさんお早ようございます。時差ボケはありませんか。日本とは十七時間の時差があります。
きょうは、スモッグもなく−」
 ゆうべは空港からサンディゴ高速道路を北上、サンタモニカ高速道路に入ってダウンタウン(中心街)のホテルに到着したのだが、夜間のため景色ははっきりしなかった。
 車窓からながめると、やはりきれいな町だという印象が強く感じられる。
ジョギング中の姿が見受けられる。ヤングから老人まで男女さまざまだが、その数は大したものではなかった。日本車は多いと思った。太平洋岸だからとくに多いのだという。ガイドの話では、ここは車検がないので、お粗末な車も走っているという。

 車窓から出入り

 なるほどファーマーズ・マーケットに駐車していた車はひどかった。ドアは壊れており針金でしばりつけてあった。車に戻ってきた青年は窓から買ったばかりの野菜の袋をボンと投げ込むと、こんどは自分もその窓から車に入り込んだ。驚いてポ
カンと見守っていると、運転席に座ったこの二十七、八歳の青年は、「ビックリしたかね」というような顔でニヤリと笑ってみせた。

 農民が市を開く

 ファーマーズマーケットは三十分ぐらいの自由時間しかなかった。ガイドの説明によれば、大恐慌に苦しめられた郊外の農民が一九三四年に市を開いたのが始まりだという。南カリフィルニアで取れる新鮮な果物・野菜をはじめ、アイスクリーム、パン、肉などの食料品の店がいっぱい。中央は広場になって花屋、陶器店、銀製品店、ガラス製品店、世界各国の民芸品店など百六十店余りがぎっしりと軒を並べていた。
 一行はまず果物店で、ジュースをうまそうに飲んだ。ロサンゼルスは空気が乾燥しているので、すぐにノドがかわく。ホテルの部屋にもコップの水を少しこぼしておくように、とガイドから昨夜開いたばかり。生パインも立て割りの四つ切りに
して棒に刺して売っていたが、これもうまかった。屋外のテーブルについてアイスクリームや生ジュースを飲む気分はちょっと日本では味わえぬもの。

 日没が閉店時間

 屋外レストランもあり
メキシコ人の多いオルベラ街に劣らぬメキシコ料理の店だとか、中国料理サンドイッチがそろっていて、屋外テーブルは、にぎやかなものだった。
メキシコ料理なるものを一度食べてみたかったが生食は日系人の多いリトル・トーキョウに決められているし、また時間の余裕もなかったので断念した。
 ファーマーズ・マーケットのシンボルタワーは四角形で、四面に大きな時計が一個ずつ取り付けられどこから見上げても時刻がわかるようになっていた。やってくる買物客は一日平均三千人を超えるという。月曜は休み。朝九時開店だが、閉店時間は日没というのも面白かった。

 
 

太平洋を越えてC   唐津新聞 昭和56年4月10日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

市内見学〈下〉

大勢の観光客が
チャイニーズ劇場付近

観光のベスト3
 ロサンゼルスの観光ベスト3はトップがディズニーランド、次がハリウッド、三番目が高級住宅地として知られるビバリーヒルズといわれている。
 このほか訪れてみたかったのはロングビーチとサンタモニカの海岸保養地。ロングビーチはかつてミス・インターナショナル・コンテストとして知られたが、いまは海も汚れているという。しかしここに大英帝国のシンポルとして活躍した豪華船クィ−ン・メリー号(八万トン)が浮かぶ博物館≠ニして岸壁につながれているので興味があった。サンタモニカは太陽あふれるすぼらしい別天地だと開いていた。結局ビバリーヒルズ以下は行けなかった。

 ハリウッドへ

 二十七日午前中に回ったのは、きのう述べたファーマーズマーケットとハリウッドだった。
 ハリウッドの市街は、ロサンゼルス市のダウンタウン北西部にある。緑の亜熱帯街路樹が美しい。バスを降りると、そこはチャイニーズ劇場前で、かなりの人で混雑していた。劇場そのものよりも、ジャック二コルソンやエリザベス・ティラーなど一流スターの手型や足型、サインが広場のコンクリート路面に残されていて、これが名物だという。また歩道にはウォーク・オブ・フェイムが一列に長く刻まれている。各界の有名人やスターの名が星型のマークに入れられており、ハリウッドのスターだった早川雪洲の名もあるということだった。もっとゆっくりと見たいのだが、時間が限られているのでウロウロするばかり。

 たばこ娘が登場

 突然「ハロー」と後ろから若い女の声がした。振りむくと駅弁売り子″のように胸に大きなかごをつるした娘さんが二人立っていて、一人が細長い小さな箱を三つそのかごから取り出して差し出した。チョコレートでも
売りつけるつもりかなと思ってみると、どうも違うようなので黙って受け取った。空の箱みたいに軽く、箱の表には「ゴールデンライト」、裏には「この箱持参の人は二十五セント値引き」と書かれていた。
 ガイドに開いたところ箱にはたばこが四本入っており、これはたばこPRのために街頭で配っているという。
 日本と違ってアメリカのたばこは営。ところが、「たばこはガンの原因」とか「たばこの吸いすぎは健康によくない」などというキャンペーンが高まっているため、売り上げが落ち、そこでたばこ会社が巻き返し作戦に力を入れているのだそうだ。
 アメリカでたばこの売り上げがタウンしているのなら、いずれ日本へも波及してくるのではなかろうかとも思った。

 野外の大音楽堂
 チャイニーズ劇場前を出発したパスは坂道を登り、近くのハリウッド・ボウル下に着いた。約五十bの「動く歩道」があり、これに乗って登り、少し歩いて観客席中段横の入り口から中に入った。
 谷間にある野外大音楽堂で、丘陵を利用して造られ、一番下段中央のステージが小さく見えた。
ガイドの説明では六月から九月まで「星空の下のシンフォニー」が開かれ、星の輝く夜空の下で、この半円型のステージから流れてくる音楽を楽しむのだという。観客席が二万人も収容できると聞いて思わずタメ息が出た。
 七年前世界音楽祭が開かれ村田英雄も出演したし、日本から多くの歌手がやってきたと説明があ
った。


一万人の日系人
 ハリウッド・ボウルを出発したバスはリトル・トーキヨウへ向かった、
一万人の日系人が住んでいるというから大した町である。着いてみると建物の古いものがまだ多いが、再開発が大分進んでいるということで新しい高層ビルも多く、「みやげ店」とか「運動具店」「写真・印刷・コピー」など日本文字の看板が多く目についた。
 やがて私たちの乗る二台のパスは道路わきに停車した。一行は全員下車して昼食をとるためにレストランのある新しいビルにガイドの誘導で入った。

 

太平洋を越えてD   唐津新聞 昭和56年4月11日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

公式訪問

松露饅頭うまい
アナハイム市長が賞味



 アナハイム市へ 二十七日午後、昼食を終えた派遣団は三班に分かれた。アナハイム市長公式訪問班と現場下見・曳山組み立て班は一号車に、引き続き観光めぐりをする班は二号車に乗ってそれぞれ出発した。
 公式訪問をするのは瀬戸市長のメッセージを携行する村上議会事務局長と、中野陶痴作唐津焼曳山と松露饅頭を持つ脇山派遣団長、それに金子唐津商工会議所会頭、下尾市議会議員ら七人。
 バズはディズニーランドの所在地アナハイム市に向かった。同市はダウンタウン(中心街)からサンタ・アナ・フリーウェーを南東四十三`の地点にある。正確にはロサンゼルス郡アナハイム市だが、同市を知る人は少ない。
 バスはスピードをあげる。背の高いヤシがあちこちに見える。頂上だけに葉が手を広げた格好でついていてパームツリーと呼ばれており、これは一九三二年のロサンゼルス・オリンピックを記念してあちこちに植えられたものが生長したのだという。

 道ばたに春の花
 道ばたには白いボトルブラシの花が春の訪れを告げて咲いていた。よく見ると灌漑用散水のスプリンクラーが点々と置かれ水を噴きあげており、これがこの乾燥地帯に緑をもたらしている原因だとわかった。四月かち十二月まではとくに雨のない日が続ぐのだという。なるほどバスは大きな川を越えたが川床までコンクリートで固められ流れる水はほとんどなかった。
 このロサンゼルスの水はガイドから一九一三年シェラ・ネバダ山脈の東のオウエンズ湖から延々三百八十`にわたり水を引いたのをはじめコロラド川や、サンフランシスコよりも北を流れるフェザ一川から六百五十キロも用水道で水を運んでいると聞いてびっくり。

 メッセージ伝達
 パスはディズニーランドの裏にある倉庫群の入り口に着いた“下見・作業班だけ下車するとUタ
ーンして近くのアナハイム市庁舎へ。
 市庁舎はモダンな七階建て、正面は広々とした石畳になっていた。三本の旗がひるがえっていたが中央一番高くアメリカ国旗、その左右には白地に円く赤い花、緑の畑、雪を頂いた山、白い雲、青い空が描かれた美しいアナハイム市旗とカリフォルニア州旗がひるがえっていた。最上階の、七階の一隅に市長室があり、そこへ案内ざれた。
 ジョン・セイマー市長はにこやかに一行を迎えた。若々しく柔和な顔だった。背恰好は脇山団長と同じくらいに見えた。
 村上氏が漸戸市長から託されたメッセージを伝達したあと、曳山の刺しゆう絵を贈り、続いて脇山団長から大原と宮田の松露饅頭が贈られた。
 「さっそくいかがですか」と脇山団長が奨めると、包みをといて、饅頭を取り出し、口に入れて
ゆっくりと味わいながら
「べリグーッ」と大きくうなずいた。
 通訳によると「とてもおいしいが、おみかけのように太っているので、一人で全部食べるわけにいかないのが残念です」。
 そして「日本からのお客さんは、みなプレゼントを持ってきますね」と皆を笑わせた。瀬戸市長に小さな飾り物のプレゼントが村上氏に託され、同氏ら七人にはアナハイム市章の入った大理石の小さな文鎮が贈られた。
 市長は五人子供がいて、四十三歳、三回日本に行ったという。水戸市と友好都市を結んでいて、お祭りは東京の神田祭りと水戸で見たという。日本人は伝統を重んじ礼儀正しく日本に行くたびに、文化の高さが深く認識されると語る。
 アナハイム市を訪れる観光客は年間千五百万人だとこの町を紹介した。
人口は二十五万人。市議会議員はたった四人。市職員は約二千人もいるという。

 海路はるばると

 パスは再びディズニーランドの倉庫に着いた。
 「上杉謙信の兜」が大分組み立てを終わっていた。
 空から派遣団が一飛びして来たのに対し、この曳山ははるばると海を越えてきた。ほんとうにご苦労さん。この連載のタイトルを「太平洋を越えて」としたのも、曳山の労苦〃をねぎらったものである。
 夕暮れ近く、完成した曳山を倉庫に入れると全員バスに乗車、ロサンゼルスのホテルに向かった。  

太平洋を越えてE   唐津新聞 昭和56年4月14日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

日本祭 第1日〈上〉

成功祈りお祓い
「謙信の兜」が展示場へ

 外人客ビックリ

 二十八日午前八時、ロサンゼルス・ヒルトンホテル一階ロビーにぞくぞくと、ヤマひき姿の団員たちが集まってきた。平野町の赤い肉じゅばんが最も多いが、各町内の応援者の肉じゅばんが交リしかも花柳三祐さんたち女性十二人もおそろいの紫色で男性のなかに色をそえており、これらの姿には同ホテルの外人はもちろん日本人たちも目を見張った。三人連れの若い外人女性が二階の吹き抜けのロビーから見降ろして、しきりに感心して見ほれているのが目につく。
 戸川省吾唐津神社宮司は白衣に紫のはかま、黒の羽織の出立ち。
 人員点呼が終わると二台のパスに乗車、同八時半出発。はち巻の手ぬぐいを首にかけて「さあがんばって引くぞ」と意気盛ん。
 パスは昨日往復したサンタ・アナ・フリーウェーを走る。道路ぞいにレールが続いていた。貨車の列が見えたが古びた車両ばかりだった。ロサンゼルスとメキシコ国境のサンディェゴを太平洋岸沿いに結んでいる鉄道ではないかと思った。

 格納庫で神事

 やがてパスはディズニーランドの整備基地のゲートに到着、一行はパスを降りて格納庫に入った。神事が始まった。狩衣姿に威儀を正した戸川宮司が曳山行事の無事成功を祈る。一同「上杉謙信の兜」の前に整列して頭を下げた。お祓いが終わると脇山団長が訓辞を述べた。
 「曳山十四台を代表してきたこの一台に、唐津の意気を込めて統制ある行動をとろう。もろはだにならぬこと、ねじりはち巻きをしないことを守って下さい」
 一同に紙ヨッブが配られ清酒が注がれた。皆に行き渡ると高くあげて乾杯。
 午前十時すぎ外へ引き出された曳山は「おとぎの国」の「小さな世界」の前の広場に引き出された。そこまでは約八百bの割り合い長い距離で、一般の人たちは立ち入り禁止の区域。
 パレード開始は午後三時。それまで平野町の数人を山ばやしの演奏と警備に残して、あとはパレード開始の三十分前まで自由行動。数人ずつのグループに分かれて散って行った。各施設への入場パス券と昼食券をもらい子供のようにはしゃぎながら−。

 まず園内見学へ

 故ウォルト・ディズニーが一九五五年につくったこの「夢の国」は、やはりすばらしかった。多少の予備知識は持っていたつもりだったが「おとぎの国」がどこで「冒険の国」がどこで「開拓の国」「未来の国」の境界がどうなっているのかもうさっぱりわからず、足の向くままに歩いていると、「冒険の国」のカリブの海賊館≠フ入り口に並んでいた。底の平らなポートが五列に仕切られ、三人ずつ座れるようになっている。まずこれに乗った。.ポートは真っ暗ヤミの中に吸い込まれて行く。前のポートに乗っている人たちの悲鳴が聞こえてくる。海賊がフイに刀や鉄砲をもって現れ、ポートめがけて襲いかかるのである。いろいろな仕掛けがしてあり、ポートが進むにつれて海賊たちの住家、美しいお姫さまが捕えられた姿、宝石の山、がい骨の人間などが出てくる。子供も大人もそろって楽しめるようになっていた。
 「テイキルーム」もおもしろかった。南国ムードいっぱいの小屋の中で本物そっくりの大小の鳥たちが電子装置でいっせいに歌ったり、しゃべったり体や目、口を動かすのだが、まあよくも精巧に作ったものと感心してこれは二回も見た。
 マーク・トウェイン号蒸気船にも乗った。三階建てのこの白い船は静かに人造湖を一周して帰ってくるが、途中インデアンの国やジャングルの中を通っているうちに「ああここは開拓の国≠セな」と気がつく。
 やがて正午、大きなレストランに入るとバイキング料理。肉と果物に人気があったが、いなりずLや米の飯も準備されていたのは日本祭≠セったからであろう。
 昼食のあと「アメリカは歌う」のパビリオンに入り三六〇度画面いっぱいに全米各地紹介の映画を見たり、「月世界旅行」をしているうちに、いよいよ集合時間がきた。

 
 

太平洋を越えてF   唐津新聞 昭和56年4月15日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

日本祭 第1日〈下〉

さあ走れ、走れ
唐津っ子の意気を示す


 車輪の跡が残る

 スタートを前にして派遣団側とディズニー側との間にトラブルが起きていた。格納庫から引き出され展示場に引かれていく曳山がコンクリート舗装の道に鋭い四条の車輪の跡を残した。これを見てディズニー側の兼任者が目をむいたのである。
 「これは大変だ」コンクリート道でさえこんな傷跡がつく。ランドの中のきれいな濃紺のアスファルトにこの傷跡がつけば、せっかくの舗装が台なしになる。それにこの重量感あふれる曳山が猛スピードで走られたら、直線コースはよいが、カーブでは曲がり切れずに入園者にケガ人が出そうだ。
 青くなった責任者は脇山団長に「スピードを出してはタメ。カープはベニア板を敷いて、その上を進んでほしい」と申し入れをしたのである。
 「それは困る」脇山団長は首を横に振った。東京での話し合いのさいもディズニーランドの中はきれいに舗装ができているから、走ってもOKと言ったではないか。曳山がぺニア板の上を進むなんて前代未聞だと強く抗議した。
 しかしディズニー側はまさかこんなデッカく重いシロモノがタイヤではなく鉄輪で、しかもこれをスピードをあげて人が引きまくるとは夢にも思っていなかったようである。
 世界一のスケールを持つディズニーランドとはいっても個人企業、ケガ人でも出ると日本では考えられぬほど高額の補償金が要求されるとあって、譲らず、ついにノロノロ行進やむなしの結論となった。

 パレードが開始
 午後三時、華やかなパレード開始。スピーカーから日本の祭りの歌のメロティーが高く流れる。
 先頭を切って進んでくるのは全日本鼓笛パンド連盟のメンバー。全員女子高校生のようだ。横浜学園高校バトンクラブの女生徒たちも緊張の顔。

最後から曳山の出番。
「エンヤ」 「エンヤ」の掛け声があがるが、ゆっくりとした行進なので、あの威勢のよい、たたみこむような急テンポの声が聞かれない。
 それでも曳山の登場は沿道の人は大満足だ。唐津から二万枚用意していったカラー印刷、英文で説明文の入った曳山の紹介ビラが配られる。
  パレードは約千bの正面入り口付近が折り返し点。ここで休憩して花柳三祐さんたち十二人の曳山踊りが始まる。

  これを見守る駐米ロサンゼルス総領事の田中常雄・弥生夫妻。
  昨年六月タイのバンコクから着任したので、この日本祭に出席したのは初めてという。
 田中総領事は脇山団長に握手を求め「大変な人気ですね。パレードの最後から曳山が進んできたのを見て、いいなあ、これがあったればこそ日本祭の大成功だと感激しました」と語った。
 弥生夫人も「私たち東京出身ですが、こんな立派なものが唐津に十四台もあるのは知りませんでした」とニッコリ。

 あきらめられん

 再びパレードの開始
いま来たコースを出発点まで引き返すのである。
 そして最後の五百bの直線コースに出たときである。ハプニングが起きたのは。
 「このままじゃ、身ゼニを切って来たカイがなかバイ」
 一人の若い衆が叫ぶ。
 皆の気持ちは同じであった。
 「走ろうか」
 「走ろう!」
 「団長、走りましょう!」
 脇山団長は言った。
 「よし!」
 突撃開始である。
 脇山団長の釆配が上がった。
 「エンヤ、エンヤ」
 笛、太鼓がひときわ高く響いた。
 ガラガラと鉄輪が音を立てて走る。スピードが上がる。
 「エンヤ、エンヤ」
 観衆は驚いた。そして大喜びだ
・ゴールインした団員たちの顔が汗に光った。
 「これでスキッとした」
 「エークソパラで走ったパイ」
 見上げる空は抜けるように美しい青さだった。


 

太平洋を越えてG   唐津新聞 昭和56年4月16日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

日本祭 第2日〈上〉

話し合いが成立

直線コースを突っ走る

 広い広い駐車場

 三月二十八日夜はディズニーランドホテルに泊まった。ディズニーランドとホテルはモノレール
で結ばれている。モノレールに乗って走って驚いたのは、駐車場の広さであった。一万二千台が駐車できるというその上をモノレールの軌道が通っていて見おろすと乗用車はもちろんキャンピングカーだけでも数百台が駐車していて壮観だった。
 ディズニーランドホテルもなかなか趣好がこらされ中庭はパームツリーも高く伸びて南国ムードいっぱい。プールもあってもう泳ぐ人たちの姿が見られた。ティズニーランドホテルは市街からは孤立していて、ホテルの中のレストランや土産物店などがにぎわっていた。

 曇り空のお天気

 二十九日、いよいよ日本祭二日目、天気は昨日と比べると雲が多く、雨の心配はないが、青空はあまり期待できない状態である。
 ヤマ引き姿の団員たちは二階の広い食堂でバイキングの朝食。一番前に置かれているオレンジジュースは何よりもうまくコップで二杯も飲む人もいた。野菜の煮たのはどれがうまいのか全くわからず大休の見当で大きな皿に自分たちの手で盛った。
 食事がすむと勢ぞろいして再びバスで曳山が格納されている倉庫へ向かう。脇山団長はバスの中で午前十時からディズニー側と交渉し、曳山を引いて歩くのではなく走らせてほしいと申し入れると語った。

 曳山を展示場へ

 格納庫から引き出された曳山は展示場へ行進、すべてが前日どおりである。「小さな世界」の前の広場に曳山を置くとまた自由行動。昼食券と施設の入場パス券をもらって、あちこち思い思いに散った。
 さてきょうは何に乗りどこに入ろうかなと考えた。もう二度と来ることもなかろうと、園内あちこちをカメラに収めた。
 昭和観光団の人たちと会った。聞くと昨日はサンフランシスコ組とラスベガス組に分かれて観光
してきたが、どちらもよかったという。
 ディズニーランドのほうも、とても一日では回りきれず数日はかかるので曳山と共にここで過した二日間は結構楽しかった。
 昨日と同じようにバイキングレストランに行った。献立もまた同じであった。ほかの団休も押しかけてくるので長い列ができた。食事をしていると派遣団員の数人がテーブルに来て「さっき行列の後ろについて順番を待って建物の中に入ってみると、なんとレストラン、あわてて出てきましたけど貴重な時間をムダにして残念」と笑って言った。
 スカイウェイにしても乗り場を探すのが一苦労。おまけに並ばねばならない。東京・日比谷公園の約ー.九倍の広さなのだから歩く距離だけでも大変だった。

 胸を張って出発

 やがて時計は午後二時を過ぎた。曳山展示の場所に行った。ディズニーランド側と話がつき、パレード隊の行進の前に前日走った直線コースを往複して走ることになった。
 こんどは天下晴れて、走れるのである。しかし直線コースだけでなので、中心部にあるプラザの先まで、昨日の半分の距離だったのは残念だった。
 これはこのプラザから正面入り口前の広場までの道路には電車のレールが敷かれているので、やはり危険だということらしかった。
 さあ出発。曳山は「エンヤ、エンヤ」の掛け声も勇ましく走り始めた。 唐津で聞きなれた曳山ばやしのメロディーを遠い異国で改めて耳にすると、なんともいえぬノスタルジアを感じさせた。昨年のくんちで来唐したNHK交響楽団正指揮者の外山雄三氏が「曳山ばやしのメロディーは哀調を帯びていますね」と語った言葉が思い出された。
 沿道を沸かせ、プラザ前で三祐さんたちの踊りが始まる。カメラの放列だ。踊りがすんだ。曳山が引き返していく。昨日のコースで先までパレードすればと思うが、こちらばかりの主張を通すわけにもいかず、これで曳山の任務は終わった。
 同七時からディズニーランド主催でロサンゼルス日系人の出演団体も含めての「ジャパンナイト」が同ホテルの大ホールで開演される。それまでは自由行動となった。
 

太平洋を越えてH   唐津新聞 昭和56年4月17日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

日本祭 第2日〈下〉

スライドに歓声

和気あいあい ジャパンナイト

全参加者を招待

 ジャパンナイトが二十九日午後七時からディズニーランドホテルのホールルームで開催された。
これはティズニーランドが日本からの参加の全員とアメリカ在住の日系人グループの代表者を招待するもので広いホールはこれらの人たちで埋まった。先着順とみえて、曳山派遣団が入ったときは一番奥の席があいているだけだった。丸いテーブルに十人ずつ座れるようになっていた。真っ白い布がかけられたテーブルの中央に竹筒が置かれ、白い扇子が二つずつ飾られていた。扇子の中央の赤い日の丸は中に1981・フェスティバル・ジャパンの文字が英語で白抜ききれていた。竹筒には白と紫の花ショウブが生けられ、いかにも日本祭≠ニいう雰囲気がホールいっぱいに漂っていた。男は全員ヤマ引き姿、そして三祐さんたちはきらびやかな日本衣装にへンシンしていた。
 三祐さんたちは踊りの名人ぞろいのこととて、いつでも踊れるようにテープも準備していた。
 ジャパンナイトの想像は立食パーティー式のもので簡単なステージがあって、まあ大したものではなかろうと思っていたのだが、案に相違してなかなかすばらしいものだった。
 まずワインがコップに注がれる。美しい日本人の妻を持つダフイ総支配人が「皆さん、ご苦労さま」とあいさつした。
 ディズニーランドの社長と副社長の名を係の米人に聞いた。社長はカード・ウオーカー氏、副社長はロン・ドミンケス氏とローマ字で手帳に書いてくれた。

 楽しさいっぱい

 日本人は気が短くてセッカチだといわれているが、とくに食事の場合がそれである。しかしなかなか料理をテーブルに運んでこない。中央のステージも幕が降りたまま。
 「時間がもったいなかバイ。はよう三祐さんたちが踊られるごと交渉ばせんかい。いったいどうなっとるとや」
 曳山行事が終わって、みんなの顔はホッとした気分でリラックスしていた。「上杉謙信の兜」を引いて格納庫まで帰ってきたとき「万歳」が高らかに三唱された。胴上げで、まず脇山団長の体が躍り、続いて中野、瀬戸両副団長の体が宙に浮いた。今度は三祐師匠だった。ヤマ引き姿なので、恥かしがることもなかろうと引っ張り出されたのである。「女を胴上げですか」と言う三祐さんも「よいしょ」「よいしょ」の掛け声で高く上げられた。いくら踊りの場数を踏んだ三祐さんでも、空中で舞ったのはおそらく初めてであったろう。このあと平野町の人たちは曳山の荷造り作業にとりかかり、すべて終わって、このジャパンナイトの会場に駆けつけたのである。

 曳山は世界一!

 「お待たせしました。ではこれから二日間にわたる皆さまの熱演ぶりをカラースライドで紹介致します」
 アナウンスが終わると、スライドの上映が始まった。一コマ、一コマに出演チームから「ワーッ」と歓声が上がる。出演順なので曳山の出番はなかなかやってこない。やっと順番が回ってぎた。
 リラックスしているうえにホロ酔い気分とあって大きな声があがる。
 「世界一!」
 叫んだのは言うまでもなく平野町の人たち。大きな柏手。大歓声。ジャパンナイトの広い会場をしばらくは占領≠オた恰好だ。
 各テーブルには日系アメリカ人グループの代表やディズニーランダースたちも同席して友情を温め合って和気あいあい、またグループ代表ごとに感謝状が渡された。参加者一人ひとりにも同じ日の出を図案化した参加証とミッキーマウスの男女の着物姿をデザインしたメダルが贈られた。
 三祐さんたちの踊りは結局認められなかった。今夜はティズニー側の招待なのでお客さんに出演して頂くのは失礼になるというのが理由だった。
 ステージの最後を飾って呼びものの「キッド・オブ・キングダム」のショウはすぼらしく、ミッキーマウスなどのぬいぐるみも登場、三十分以上も続いた。しかし連日の疲れと酔いも加わり半数近くの団員がコックりコックリ。十時近くに華やかな幕切れとなった。

太平洋を越えてI   唐津新聞 昭和56年4月18日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

 日本祭 花柳三祐社中

彩り添えた12人

しおれる男性軍にカツ

 取締会の要請で

 花柳三祐社中十二人が派遣団に加わったのは曳山取締会の要請によるものである。唐津市が曳山渡米について千五百万円の補助を、議会の承知を得て決めたことから二月四日、唐津神社彰敬館で臨時総会が開かれた。席上、踊りも加えてほしいという主催者側の希望が伝えられ、花柳三祐社中が最適任だということで、三祐さんに連絡がとられた。
 三祐さんは「私ひとりでは返答できないので社中の人たちと相談したうえで」といちおう返答を保留した。
 師匠から連絡を受けた門下生たちは積極的で、相談の結果、師匠を入れて十二人の参加が決まった。
 派遣団は平野町が三十人、各町が三人ずつ三十九人、本部六人、そのほかだったが、ちょうど三月の決算期と重なり、町によっては参加ゼロのところもあった。それだけに花柳三祐社中の参加は彩りを添えるだけではなく、人員構成のうえでもプラスとなった。いやいやプラスどころではない結果的には大きな力となった。

 走ることならぬ

 「走ることまかりならぬ」というキツイお達しで、ヤマを引く団員は、半分投げやりの様子だった。
 「これではいけないと思いました。せめて女性たちだけでもがんばらなくてはとね」
 三祐さんはお弟子さんたちにハッパをかけた。
 「笑顔を絶やさないように。ヤマの人たちの心情がよくわかるだけに、私たちが男になりましょう」
 一日日の帰り道に、派遣団が造反を起こして「エンヤ、エンヤ」と突っ走ったのは、すでに述べたとおりである。
 「ジャパンナイトのとき、着物に着替えて行くと、みんなが三祐さんシオラシカ=@女らしか≠ニひやかすので、あんたたちの代わりを務めたから″と言ってやりました」

 話題の女性たち

 さて一行の中で話題が最も多かったのは浜玉町横田の有馬宏子さん。まず社中のなかに一人外人さんが交っているとささやかれた。エキゾチックな美人の有馬さんが外人と間違われたのである。
日本祭二日目、午前十時から午後二時半まで自由行動となったとき、有馬さんらは、まずスリルナンバーワンといわれるジェットコ.−スターに挑戦した。ところが有馬さん一人だけみごと失敗、失神状態となった。さあ大変、みんなで休憩所へ担ぎ込んだ。有馬さんがやっと元気を回復したときはすでに自由行動の時間は終了。せっかくの見学がフイになった。もう一つの話題はハワイに飛んでから。
 「カウアイ島一日観光ツァー」で、遊覧船に乗ってシダの洞くつに行く途中、現地のアロハ娘の踊りと共演したのである。
観光客たちは本物のアロハ娘は見向きもせずに有馬さんだけをカメラでパチリ、パチリ。
 これについて同乗した戸川省吾唐津神社宮司の鋭い感想は−。
 「あれはなかなかうまかったが、同じフリが多かったところをみると即興に違いあるまい」
 最年長は河野美津子さん(五六)で最年少は筒井三喜さん(二二)、また吉岡優子さんは三月十五日に結婚式を挙げたばかり。新婚旅行を近くですませ、主人を置き去りにしての同行だった。ハワイのワイキキで泳いでいると吉岡さんが近寄ってきた。「私新婚です」と前置きして今度の旅行のいきさつを話した。最後に「新聞には書かないで」と言い残すと沖へ泳いで行った。
 海岸は日本からのハネムーン組がワンサといた。なんとなく寂しかったのかなと思った。帰国するとすぐ新居の名古屋市に行ってしまったので書くことにした。
 辻節子さんの思い出はハワイのオアフ島のパリ峠。物すごい風に片手で胸と頚の髪を、片手でスカートを押さえているヘンテコリンのポーズを団員から写真に撮られた。女性軍もさまざまな体験をした。
 脇山団長は「パレードが停止すると、三祐社中が踊りを始めるので、曳山の興趣をさらに盛り上げることができた。深く感謝しています」と語っていた。
 

太平洋を越えてJ   唐津新聞 昭和56年4月20日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

日本祭 最年長と最年少

大張り切り 由中さん

堀さんは親子3人で参加

 来てよかった

 派遣団員の最高齢者は唐津市水主町の田中冨三郎さん(七五)、最年少は同市平野町の堀かつこさん(一二)と同市京町の木下亜樹子さん(一二)だ。
 かつこさんは父親のc(あきら)さん(四一)と兄の和夫君(一四)と共に参加、亜樹子さんは親友である。
 田中さんは曳山取締会の長老である。相談役で副総取締も務めた。
 昭和二十六年、刀町の「赤獅子」が福岡に行ったときは唐津に住んでいなかったので一緒について行かなかったが、三十九年、宝塚遠征のときはついて行った。フランスのニースへは同行、そして今度もディズニーランドにやってきた。
 「この年になって、フランスにも、またアメリカにも、ヤマ引き姿で参加できたことは本当にうれしい。ニースのあの思い出はまだ鮮明だし、ディズニーランドは、ニースとはまた違った思い出として残るでしょう。今度もやっぱり来てよかったという感慨です」
 田中さんは元気者。 今度の役目は鐘と太鼓、鍛えあげた腕で力いっぱい叩いた。疲れはしたが、体の調子は何ともなかったという。

 姪と懐かしの再会

 ティズニーランドで貴重な力となった田中さんのハワイの休日″は楽しかった。姪の見枝子さん(四三)と再会できたからだ。見枝子さんは上京して芸能界に身をおいていたとき二世の伊東ジョージさん(五一)と会って結ばれ、唐津で結婚式を挙げハワイに連れ立った。ジョージさんはホノルル郵便局に勤め四人の子がある。長男はハワイ大学三年生で次男は高校三年生。この二人は日本語を話すが下の二人はもう英語だけしかしゃべれない。
 「見枝子は私の妻の姉の娘です。ジョージ君が福島県に先祖の墓参りに来日して東京で見枝子と知り合ったのです。これも緑でしょうね。一家幸福に暮らしているのを見て安心しました」

 多忙だったけど

 堀cさんはガラス店を経営している。やはり店が忙しいので行くつもりはなく、身代わりに春休み中の和夫君をやることに決め笛の特訓を始めた。
 和夫君は百bの選手である。11秒7で走り、県下でも優秀な選手だ。cさんは、アメリカの土を踏ませることで、いっそうのファイトを燃やさせたいのが同行させる主な目的であった。「お兄ちゃんが行くなら私も行きたい」とかつこさんが言った。そこで兄妹二人をやることにした。ところがかつこさんの親友の亜樹子さんの母親孝子さん(四〇)が「私もニースのときは観光団に加わって一緒に行きました。子供のときに有意義な海外旅行の体験をさせるのは将来の大きなプラスになるから亜樹子もぜひ連れていって」とcさんに頼んだ
 cさんは考えた。子供たちだけ三人行かせるのは、みんなのめいわくになる。笛を吹く人も少ないようだし、それなら店は忙しいが行くことにしよう。
 こうしてcさんも行く決心をした。もちろん妻のヤエ子さん(三五)が「あとは心配しないで」と言ってくれたからだ。本当は末っ子のかおるさん(一〇)=志道小四年=も連れてくればよかったとcさんは語った。
 でもこれ以上連れていけば皆の足手まといになるし、アメリカに行ってもし「家に帰りたい」と言われたら大変なので断念した。でもディズニーランドは来てみると、これは大したものだ。連れてくればよかったと思った。
 cさんはディズニーランドホテルで語る。
 「私はほとんど旅行はしません。でもヤマの遠征にはついて行きたい。そう思ってニースに引き続いてまた来ました。ヤマ引きの仲間たちと一緒の旅は最高です。笛を吹く人が少ないのは引っ張る方がラクだからです。私は中学生のころから習い覚えました。ここでは松本幹治郎君と一緒に笛を吹きました。力いっぱいにね。和夫とかつこには大きなプレゼントになりました。店は忙しいだろうなと妻とかおるのことが、やっぱり気がかりです」
 

太平洋を越えてK   唐津新聞 昭和56年4月21日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

日本祭  再会〈上〉


やあお久しぶり

ミラー夫妻と加藤さん

 青い目の男交る

 パレードで「上杉謙信の兜」を引く派遣団員に交って洋服の上から肉じゅばんだけを着た大きな外人の姿が目を引いた。
トーマス・ミラーさん(三九)だ。夫人の名は昌子さん(三六)。派遣団添乗員の昭和自動車長崎案内所所長加藤俊雄さん(四九)=唐津市大名小路二丁目=の妻泰子さん(四一)の実妹である。
 ミラー夫妻と加藤さんは一年ぶりの再会。加藤さんは昌子さんの両親、大石喜代次さん(七一)と睦子さん(六〇)を連れて昨年三月に渡米、ミラー夫妻の住むニューヘブン市に行き一週間ほど滞在した。

 唐津西高を出て

 昌子さんは唐津西高を卒業するとすぐ上京してデザインスクールに通う傍ら英会話学校で勉強した。このときアルバイトで教師をしていたミラーさんと熱い恋に落ちた。東京で結婚式を挙げたのは十三年前だった。
 昌子さんはいま三人の子の母親である。長女はスミレさんでハイスクール一年生、長男がタロー君(一三)で中学生、二女のマリカちゃん(一〇)は小学生だ。
 スミレさんは昨年夏、まだ中学三年生のとき、唐津ヘの一人旅をする予定だった。しかし出発の日が近づくにつれて、日本語もあまり話せないし、一人旅が不安になってついに取り止めてしまった。

 加藤さんが通知

.加藤さんが唐津曳山と同行してロサンゼルスに行くと、ミラーさんに知らせたとき、ミラ一夫妻はすぐロサンゼルスで再会したいと加藤さんに返事を送った。
 そこで加藤さんは曳山取締会魚屋町副取締の大黒屋和楽器店の前田健一さん(四七)に肉じゅばんの提供を頼んだ。前田さんはさっそく「若鯛会」会長の小官剛さんに相談、若鯛会で保管していた肉じゅばん一枚を「ニース出動のとき加藤さんにお世話になったから」と譲ることにした。加藤さんはこの肉じゅばんを持参したのである。

 唐津を懐かしむ

 こうしてニューヨーク市近くの故郷から飛んできた電子工学技術者のミラーさんは二十八日「エンヤ、エンヤ」と曳山を引いた。八十人の派遣団員に交って、たった一人青い目で引く夫を見守る昌子さんの顔は晴れやかだった。
 また昌子さんは平野町の駐在員、徳永健次さん(七〇)に、小学校から中学校まで仲よしだった竹内洋子さんの消息を尋ねた。
徳永さんは近くに住む竹内さんの近況をくわしく話した。昌子さんはさっそく徳永さんに手紙を書いてことずけた。
 「徳永さんとアメリカでお会いしました。私も元気で主人とヤマ引きに参加しました。あなたの近況を徳永さんからお聞きして懐かしい思いがします」
 昌子さんも曳山や唐津の人たちを見て唐津の町の恋しさが、ひとしお募ったようだ。スミレさんが初のママの母国訪問を中止したとき、そのかわり一家そろって、チャンスをつくって日本へ行こうと話し合った。だから一家の唐津訪問の日もそう遠くはないはずである。

 泰子さんも待つ
 一方、昌子さんとの再会を待ちわびているのが泰子さんだ。
.サガテレビはニースに続いて、ディズニーランドへも特派員を送った。ディズニーランド日本祭のもようは十九日の日曜日に放映され、泰子さんはビデオに収めた。
 泰子さんは踊りの師匠で藤和会を主宰し、芸名は藤間光富美さん。曳山がニースに行ったとき、お弟子さん十四人を連れて同行した。奥さんたちは黒紋付、娘さんたちはあてやかな振袖で、大テントの中の舞台で踊った。
ディズニーランドは日本祭なので、日本からの舞踊の団体もいくつか来ていたし、ロサンゼルスの日系の人たちも出演したので、さして日本舞踊は珍しくはなかったが、ニースの場合の日本舞踊は藤和会社中だけだったので好評を受けた。テントの見物客は千人や二千人ではなかったという。泰子さんはサガテレビが放映したニースカーニバルのもようもビデオにとっている。

 実妹とは思えぬ

 ロサンゼルスのホテルで昌子さんを加藤さんから紹介されたとき、泰子さんの実妹とはどうしても思えなかった。一月十八日、シーサイドハイツで開いた初舞会での泰子さんを見ていたからである。あまりに日本的な姉と、すっかりアメリカナイズされた妹 −。
 もう十三年間、全く会っていない姉妹が、唐津での再会の日は、どんな会話がはずむのだろうか。昌子さんも、夫のトーマスさんも、ディズニーランド日本祭のことをいろいろと話すことだろう。
泰子さんが収録したビデオをながめながら−。

 

太平洋を越えてL   唐津新聞 昭和56年4月22日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

日本祭  再会〈中〉

やってきた故郷

「胸が熱い」と石井実さん

 首を長くして

 「ディズニーランド日本祭に唐津曳山が出演」のニュースを大喜びで開いたのはカリフォルニア州ブエナパーク市の米国の会社に勤務する石井実さん(五三)だった。
 アメリカで生まれたが九歳、小学校三年生のとき、父親の太平治さんら両親兄妹と唐津に引き揚げて南城内に住んだ。実さんは唐津小学校に転入して唐津中(いま唐津東高)から福岡、外事専門学校に進んで卒業した。アメリカに渡ってきたのは昭和二十四年、二十一歳のとき、ロサンゼルスに住む姉の光子さんらを頼って来たという。
 石井さんは小学校と中学校時代のクラスメートの古舘鴻舗さん(五三)と一級下の大原令光さん(五二)の二人が曳山派遣団に加わっていることを聞き、一日千秋の思いで待った。

 ホテルで再会

 二十七日夜、派遣団員がロサンゼルスヒルトンホテルに着くと、懐かしい再会をした。このときのもようを古舘さんは次のように語る。
 「石井君は全然変わっておらず、顔を見たとたんああ石井君だ≠ニわかりました。四年前に唐津にやってきたのですが私はちょうど唐津にいなかったので会えなかったのです」
 二十八日の日本祭第一日目、石井さんはディズニーランドに行き、こんどは曳山と再会した。パレード開始を正面入り口付近のロータリーで待った。ここは駐米田中ロサンゼルス総領事ら日本人日系人の人たちが大勢詰めかけている場所だった。
 「エンヤ」「エンヤJと近寄る「上杉謙信の兜」を見守る石井さんの顔は渡米いらい最大の輝をみせた。感想を聞くと、ただ一言「胸が熱い」と答えた。

 懐かしい人たち

 はるばる太平洋を越えてやってきた曳山。そして懐かしい唐津から来た大勢の人たち−。
 傍らにいたミツ子夫人(四五)は小城町の出身。やはり佐賀県出身だけに、曳山や唐津の人たちは懐かしい存在だった。
 古舘さんは石井さんと一緒に石井さんの自宅に案内された。なかなか立派を邸宅だったという。二十二歳の娘さんがいたが、ロングビーチ大学生で成績も優秀だそうだ。

 唐津時代に引く

 四年前、実さんが日本を訪れ、唐津に行ったが泊まった家は木綿町で質店を営む石井隆司さん(五〇)方だ。隆司さんとはイトコ同士、つまり太平治さんの兄が隆司さんの父親の磯太郎さん。磯太郎さんも太平治さんももう早くこの世を去っている。
 隆司さんによれば、実きんは木綿町のヤマ「武田信玄の兜」を少年のころから引いていたという。
 隆司さんも、ヤマを引く。初めディズニーランドから出演の申し入れがあったとき、名乗りを上げたのが、上杉謙信の兜と武田信玄の兜だった。
けっきょく唐津神社でクジの結果、川中島の合戦同様、上杉か勝ち、武田が負けた。
 「もし武田が勝って渡米したのならば、私も喜んで曳山について行ったはずです」と隆司さんは笑う。武田信玄の兜が勝ってもし行ったとすれば実きんの喜びも少年時代に引いただけに倍加したであろうし実さんと隆司さんも四年ぶりの再会を喜び合えたはずである。
 実さんは「とにかく唐津の曳山が、こんなところに来ようとは夢にも思わなかった」という。四年前、唐津に行ったときは十月で、もう町並みの路地のあちこちから曳山ばやしの笛、太鼓の音が流れていた。隆司さんは、せっかく来たのだから、くんちまで滞在するように実さんを引き止めたが、実さんは予定が詰まっていたためにくんち≠ワでは滞在できなかった。
 ディズニーランドで石井さんを取材して、写真を撮ったとき石井さんが言った。
 「新聞に私のことが掲載されましたら、ぜひ一都送ってください」
 そうして住所と氏名を記者メモ帳に書き込んだ。曳山のくるのを首を長くした石井さんは、こんどは自分のことが載った唐津新聞が太平洋を越えてくるのを首を長くして待っているはずである。
 

太平洋を越えてM   唐津新聞 昭和56年4月23日

「唐津曳山米国派遣団」同行記


日本祭  再会〈下〉

目的達せられなかったが

村上さんは満足

 お土産持って渡米

 市長代理で派遣団に同行した議会事務局長村上良泰さんは、ジョー・クーシャンパンさん(二六)との再会に期待をかけていた。オハイオ州クリーブランド市に住んでいて父親は弁護士。
 村上さんはジョーさんに曳山のアメリカ日程表と、自分が同行するむねの便りを送っていた。もし彼女がロサンゼルスにやってきたら渡そうと、日本からチリメンのふろしき、お茶の懐紙入れ、ふくさ、小ぶくさ、梅ジョウチュウをお土産に持ってきた。
 ヒルトンホテルでソワソワ待つ村上さんに市議会議員の下尾勝馬さんは言った。
 「来るといいけどね。でももし来なかったら梅ジョウチュウは、まさか持って帰るわけにはいくまいから私が引き受けるよ」
 村上さんは「日程表を送っただけだし、相手の都合も聞いていない。だからアテにはしていないよ」
 と答えたが、何とか連絡ぐらいはあるだろうと思った。

 51年に唐津へ

 ジョーさんは世賀国休が開かれた昭和五十一年に唐津にやってきた。日本に来た目的は焼きものの勉強をするため。博多駅で、ジョーさんが「唐津に行きたい」と駅員に言っているのを開いて唐津市松南町の上杉芳夫さんや市職員の脇山秀秋さんらが東唐津駅まで案内してきた。「どこか泊まるところを世番してほしい」と頼まれたため、村上さんのところがよかろうということになって、村上さんもOK、彼女はワラジ≠ネらぬクツを脱いだ。
 間もなく七月一日に国体の開会式が佐賀市で開かれたが、水泳が好きだというので佐賀まで連れていった。

 ゴマすり娘さん

 家は裕福だがなるペく親に面倒かけないようにと、すべてが質素で、食事に初めパンを出したら「ごほんとミソ汁でよい」と緊張した顔で言った。村上さんは当時のジョーさんを「ゴマすり娘でしたよ。私にミジン切りのおかずをつくってくれたりしましてね」と亨っ。
 ヒッチハイクが好きであちこちへ出かけた。帰ってくるとバス代がいくら浮いたといってその分でおみやげを買ってきた。
 「ヒッチハイクは危いよ」
と言うと「日本の男は紳士、大丈夫」と笑っていた。
 焼きものの勉強は東松浦郡鎭西鎮西町岩野の太閤三ノ丸窯で始めた。そして近くの花菱食堂に下宿、村上さんの家には土曜日と日曜日に来るようになった。ジョーさんは花菱食堂でも随分かわいかられたという。
 焼きものは唐津にやってくる前に岡山の備前焼と埼玉の益子焼を勉強してきた。

 電話でカミつく

 一度こういうことがあった。ある日曜日、そろって外出しようとしたときに、予算査定のことですぐ市役所に出てくるようにと電話がかかってきた。ジョーさんは市長に電話をかけて「日曜日に職員を働かせるとはどういうことですか」と抗議、これには村上さんも参ったという。
 ジョーさんが留守番をするときはおフロも沸かしてくれた。
 お母さんが病気になったという知らせで一月二日に帰国した。ちょうど唐津に半年いたことになる。
 帰国して、しばらくして手回し式のミキサーを送ってくれた。ガンの手術をして食べものがかめない村上さんのために。

 電話かかり花束が

 ヒルトンホテルに電話がジョーさんからかかった。そして近くの花屋さんから花束が届いた。ジョーさんからだった。
 「いまここで焼きもの展覧会を開いているので残念ながら行けません。かわりに花束を届けます。私は二、三ヵ月のうちに訪日して唐津に行きます。いまからやわらかいアメリカの食べものの名を言いますからメモしてください」
 梅ジョウチュウは残念ながら下島さんの手に渡った。けれど花束を眺め日本から持ってきた思い出のミキサーを回しながら夕食をとる村上さんの顔はさわやかだった。
 

太平洋を越えてN   唐津新聞 昭和56年4月24日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

ロスの休日

ユニバーサルスタジオ見学

大きいスケール

だが免れぬ斜陽化産業

午前中は自由行動

 三月三十日午前七時にヂィズニ−ランドホテルの部屋の電話のベルが鳴る。受話器をとると「お早ようございます。起床の時間です」、とモーニングコ一ル。朝食はバイキングで、昨日と同じ。同七時四十五分にレストランへ。午前中は自由行動。平野町からの派遣団員は、曳山につきっきりの者が多く、あまりディズニーランドのパビリオン見物をしていないので多くがホテルからランドへの無料モノレールカーで出かけた。しかし日本祭は咋日で終わっているので、今日入場する者は料金を私わねばならない。入場料は大人七ドル(千五百円)子供=三歳〜十一歳三ドル(六百五十円)同十二歳〜十六歳五ドル(千百円)

 レ大統領撃たれる

 昼食も同ホテルのレストランですませて、午後二時すぎいよいよ出発。ところがパスに勢ぞろいしたところ添乗員が「皆さんにニュースを申し上げます」さっきレーガン大統領が撃たれました」パスの中が騒然となった。
 「犯人は逮捕されたもようです」
 バスは、いよいよディズニーランドホテルにお別れ、二台でユニバーサルスタジオへ向かう。サンタ・アナ・フリーウェーを北上する。ハリウッドフリーウェーに入り、ランカーシム通りに入った右側にユニバーサルスタジオがあった。
 女性のガイドが「ようこそ、このスタジオにお出くださいました。、私の名はミドリ、運転手はジミイです」と言った。日系の女性であった。柏手が沸いた。車はディーゼルカーのように四台がつながれて走るようになっ
て、それぞれの車には、往年の名画を生んだ出演スターのブロマイドが天井にたくさん飾って張られていた。

 日本も米国も

 昨年六月、鎌倉の松竹大船撮影所を見学したさい「映画産業の斜陽化で敷き地を、こんなに工場用地に売ってしまった」と聞いた。 このユニバーサルスタジオでもガイドの、ミドリさんは「このスタジオの広さは一・七平方キロですが、映画産業の斜陽化で多くの敷き地を売りました」と松竹撮影所と同じようなことを言った。それでも三年後のオリンピックにそなえて谷間を埋める大きな工事が進められていた。

 いろいろな仕掛け

 最初に入ったのは宇宙船の内部で、宇宙服を着た人間が出てきて火炎放射器の火を噴かせたりして、まず見学者のドギモを抜いた。手軽なスタジオ見学のツアーである。
 家が突然火事になったり晴れていると思うと急に嵐になったり洪水になったりするセットが体験できる。圧巻は遠くから見ているとバスが池の中に沈んで走る仕掛けで、池の中の両側を仕切り水を抜いた底をバスが走るわけで、その規模の大きさにビックリ。
 西部劇の野外劇のスタンドがあったが、これは時間がなくて断念した。休憩の場所には、土産品店、撮影所内の骨とう品などの陳列館もあり、大きな古伊万里の花ぴんが二個目についた。車はターザン映画のとき使った密林や小さな∃ーロッパの町並み、メキシコの町アノリカ西部劇の町などを通った。西部劇の町は人間を大きく見せるためドアの入り口はワザと小さく作られていた。雪のトンネルを通り抜けるとき、車がひっくり返るようなトリックがしてあって、女性組からは「キャア」と悲鳴があがっていた。同四時五十三分、見学は終わり。

 道路の正面に落日

 撮影所を出たバスは夕食をとるためサンセット大通りを西へと走った。
この通りはハリウッド通りのニプロック南側を平行して走るものでロサンゼルスの代表的大通りである。ダウンタウンから太平洋岸まで延々三十五`も続いている。日が落ちてから、その素顔を見せるというサンセット通りを車はさらに西へ進む。同五時五十三分、名前の示す通り美しい夕日が、道路の正面に、運転席の窓からバスの中いっぱいに光を差し込んでキラキラと光りながら沈んでいった。アメリカならではと思った。

 レ大統領の写真

 車窓から店頚いっばい映画スターの写真を飾ったブロマイド店が見えた。中央の大きな写真はレーガン大統領であった。前カリフォルニア州知事で映画スターだけに、この地方では熱狂的な支持者ばかりである。大統領の生命は大丈夫だろうかと案じた。
 

太平洋を越えてO   唐津新聞 昭和56年4月25日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

ハワイへ

中華航空


深夜のロマンも

機内食・眠れぬ人たち

 中華レストランへ

 三十日午後六時すぎ二台のバスはロサンゼルス市のビバリー・ヒルズの中華料理店前に着いた。
この地区はホテルやレストランが軒を並べており世界中の科理がそろっている。値段も驚くほど安いという。この地区の山の手はアメリカ有数の高級住宅地。豪華なことはとても東京の田園調布の比ではないという。
 わたしたちが入ったレストランは一流の店「獅子林」といった。しかし派遣団員全部が一堂には入れず一階と二階にわかれた。
 添乗員に唐津新聞に原稿を送りたいので、ここの電話を借りたいと言うと、すぐ事務室に行って交渉してくれた。0Kということで事務室に入った。女性のマネージャーは日系で、日本人と変わらないほど日本語がうまかった。ひょっとしたら日本人かも知れないと思った。
 唐津の本社はすぐに出た。まるで市内電話のようにハッキリ間こえる。ロサンゼルスは三十日午後六時半だが、日本は三十一日の午前十一時半である。
 原稿を送り終えてホッとした。通話時間は十分だった。

 ロス最後の食事

 皿に盛った料理がつぎつぎに運ばれてきた。味はよかった。酒とかビール、ウイスキーの飲みものだけは注文してテーブルに持ってくると、その場で現金を払う仕組みになっていた。
 この夕食でロサンゼルスの食事は終わりである。いろいろなものを食べたが、ディズニーランドホテルの中のレストランで食べたビーフステーキが最高だった。メキシコ料理はティズニーランドのレストランで食べた。あとでメキシコ料理とわかったのだがあまりおいしいとは思わなかった。でもメニューによってはうまいのもあったかもしれない。
 全員バスに乗った。行く先は国際空港である。

 パチリと一枚

 中華航空ジャンボ旅客機CIO07は午後十時十分、ロサンゼルス空港を離陸した。座席は唐津市大石町の江口金治郎さん(七二)と尾花明さん(唐津商工会議所)と三人で並んだ。私が窓側だった。
 離着陸のときだけスチュワーデスが私たちと正面向きに座席にすわる。
 尾花さんに「スチュワーデスの写真を撮りたいけどいいでしょうかね」と尋ねると尾花さんはすぐスチュワ−デスに「写真一枚撮っていいですか」と叩いた。スチュワーデスは日本語がわかるとみえてニッコリ笑ってうなずいた。カメラを向けてもその笑顔を消さなかった。
 また窓側に座ったのでロサンゼルスの街の灯をながめようと期待をかけた。ところが今度はアテがはずれた。旅客機は真っすぐ西の海の方へ離陸するともうそのまま直進してしまった。

 カモ肉のパイ

 ホノルルには五時間余りだが、一時間ほどすると軽食が出る。メニューは果物甘煮、カモ肉入りパイ、ハム入りクロワッサン、タマネギ入りパイチーズとベーコン入りパイ、それに紅茶かコ〜ヒー。乗客はほとんど満席だから夜食を配るスチュワーデスも大変だ。酒もあるがメニュー表には酒だけは英語と中国語だけで日本語では書かれていない。裂酒はリキュール、鶏尾酒はカクテルといったぐあい。ビールが口卑酒、ソーダ水が蘇打水、ジンが琴酒、チェリープランディーが桜桃白蘭地、赤ワインは赤酒、白ワインは白酒。食事を終わるとすぐ眠った。
 
 ホノルル倒着

 目か覚めると周囲がざわめいていた。午前一時半。もうすぐホノルルに着陸するという。時差が二時間なのでまだ深夜だ。
 傍らの江口さんに「眠れましたか」と聞くと、「全然眠れませんでした」と答えた。尾花さんは「東京からホノルルのときも、いっちょん眠られんやったが今度も眠られんやった」とポヤいた。
 唐津市弓鷹町の友永大穂さん(三五)はビデオを持参して記録撮影にもディズニーランドではがんばったが、この機内では眠るどころか「スチュワーデスの張城田さん(二五)と伸よしになった」とご満悦だった。
 間もなくホノルル空港に着いた一行は眠い目をこすりながらホテルへ向かった。

太平洋を越えてP   唐津新聞 昭和56年4月27日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

 ハワイの休日 〈上〉オアフ島観光

澄み切った空気

すばらしい景観に歓声

 眼前に緑青の海

 目が覚めた。ここはどこかな?としはらく考える。ああハワイだ。空港で待たされ、やっと宿舎のワイキキリゾートホテルに到着、五階の部屋に入ったが、スーツケースが部屋の前に届いたのが午前三時、三十分ほどしてまたノック、こんどはロサンゼルスで買った土産の包みが届く。それからやっと眠りについたのだった。
 窓のカーテンを開けた。思わず「ウーン」とうなった。海の色である。三月二十六日朝、いったんホノルル空港に着陸してロサンセルスへ向けて飛びたった旅客機の窓から見た美しい海が、今度は目の前に展開していた。海岸近くの海の色は緑青で沖に出るにしたがって納戸、紺、そして水平線はルリ色に変化している。沖を白い旅客船が東へ進み、午前六時すぎ、すでにサーフィンを楽しんでいる人の姿が見えた。

 アロハを買う

 午前九時ごろ同室の山岡*延さんとアロハを買おうと一階ロビーにある売店に行く。高級ハンドパックや宝石から缶入りジュースまでいろいろな品物がそろっている。いま絵具箱からしぼり出しましたという感じの赤い模様のアロハを二十三ドルで買った。山岡さんも茶色のものを買った。
 遅い朝食が始まる。バイキングである。さすがにパインアップルの小片がたくさんあった。ミソ汁もあり、ワカメと豆腐とジャガイモが入っていた。このホテルは韓国人の経営とみえてハングル文字が目につき大韓航空のパイロットやスチュワーデスが出入りし、韓国系の新聞もあった。米飯はおいしかった。
 昼食を兼ねた朝食が終わるとそれぞれ自由行動∧市内観光は午後からである。山岡さんとひとまず部屋に戻った。バルコニ
ーにハトやスズメや、その中間ぐらいの大きさの小鳥が遊びに来る。山岡さんが缶入りの木の実をやると喜んで食べた。唐津市中町の石崎七五男(しめお)さん(六三)が部屋に来た。
 「いやあ、あんたたちの部屋はよかバイ、海の見えて」と、やはりパルコニーでハトにエサを投げ始めた。石崎さんは山岡さんに言った。
 「ほら、ニ−スのホテルでも、何もすることがなく退屈しのぎに、こうしてハトにパンをやって時間をつぶしたなあてあのパン、囲うして私は食べられんやったバイ」

 ホノルル観光へ

 観光バスに乗り込む。女性のガイドは原田千Iさんで伊万里高女の出身。
「お懐かしい唐津の皆さん、私はもうハワイに渡ってきて三十年になります」とソフトな声で第一声。次いで伊万里弁であいさつした。年齢からみて「戦争花嫁」ではなかろうかと思った。もう孫もいるという。
 パスは海岸に沿って有名なカラカウア大通りを走る。松並木を通る。松といっても日本のものとはちょっと種類が違い、昔日本の移民が植えたものだそうだ。行く手に絵葉書や映画でなじみ深いダイヤモンドヘッドが海に迫まって見える。ガイドによるとこの名の由来は「昔タイヤモンドのように山の若肌が太陽や月の光で光るのでつけられた。しかし実際に掘ってみると方解石だった」。
 バスはカラカウア大通りから左折、住宅街に入る。ハワイ州花のハイビスカスの花が咲き乱れている。白、桃、紫、紅、赤、黄とそれこそ色とりどり。このハワイでとくに改良が進められているという。

 世界三大強風地

 縁に包まれたハワイ大学は楽園のようでハワイ唯一の総合大学、学長は日本人だという。カメハメハ大王がハワイ諸島を征服した古戦場のヌアヌパリに登ってここで休憩となった。世界三大強風地といわれるだけに風はものすごく、とくに女性の髪は乱れ、スカートのすそは乱れて、男性はニヤリ、ニヤリ。
 ついでパンチボールの丘へ。すりばち型の火口跡につくられた太平洋国立記念墓地。広大な芝生陰を落とす大樹、そしてここからの展望は、すばらしいの一語に尽きた。ダイヤモンドヘッドも、水平線も、ホノルルの市街が一望できた。バスはイオラニ宮殿、カメハメハ王銅像などの前を進み、海岸の公園で記念撮影、ホテルに近い免税店前で解散となった。

楽しいパーティー

 夜はホテルで本部差し入れのウイスキーで夕食会。初め観光団の人たちも合流してと脇山団長は希望していたが、ホテルが違っているため、ついに実現しなかった。派遣団だけでディズニーランドの成功を祝って、楽しいひととき、団長以下隠し芸かつぎつぎに飛び出し最高の夜″となった。
 

太平洋を越えてQ   唐津新聞 昭和56年4月28日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

ハワイの休日〈中〉カウアイ島観光(上)

さすが庭園の島

ブーゲンビレアも七色

 9人だけ別行動

 四月一日、終日自由行動だが、カウアイ島一日観光に希望者だけ参加することになった。費用は昼食付で二万五千円。団員八十人のうち四十三人が応じた。三十四人は午前六時起床、同七時朝食同二十分出発、ほかの九人は午前七時起床、同八時に朝食、同九時に出発して帰りは一足早く午後六時四十分。これは不公平だ、抽選で決めようということになって柚選した結果、私も九人のなかに入った。
 九人は飛行機も別で、カウアイ島では大型パスではなくマイクロバスに乗るため行動が早く遅く出かけて早く帰れる仕組みだった。日本からハワイへのハネムーン組は驚くほど多く日本からの観光客の約九〇%は新婚サンだと思った。飛行場に向かう途中バスのガイドが「飛行機の右側の窓際に座ると真珠湾が見える」と教えてくれた。みんな塔乗ゲートから飛行機まで約三十メートルのところを走って乗り、また翼の先まで急いだ。先頭を切っていた尾花明さんが 「もうこのへんならよかパイ」と言いチャッカリと九人はタテ九列、窓側を占領して座った。機種はDC9で左側は二人掛け、右側は三人掛けだ。新婚サンは全部花嫁サンを窓側に乗せる。だから九人とも左側には花嫁さんが座る幸運に恵まれた。

 眼下に真珠湾

 ハワイアン航空機は尾翼に赤・紫・ピンクのハイビスカ久の花が描かれ機体も白を基調に赤・紫・ピンクの線が流れるように入っていた。機内はソフトムードの軽音楽のメロディーが流れ、スチュワーデスはもちろんアメリカ美人、中華航空機ばかりに乗っているので、やっと飛行機ではアメリカ気分≠ノなれた。
 やがて離陸。ホノルル空港を飛び立ったDC9はクルリと右旋回すると真珠湾を右手に見て進んだ。海は風が強いとみえて白波が立ち、ゴミをいっぱいまき散らしたように見えた。二十六分でオアフ島から隣のカウアイ島東端のリフエ空港に着いた。

 シダの洞窟へ

 空港にマイクロバスと共に待っていたのはガイドの日系二世・下西勝(まきる)さん(七二)。まず近くのワイルワ川の川岸まで私たちを運んだ。ここからハワイアン・バンドつきのポートで川をさかのぼってシタの洞窟へ行くのだが帰り着くまで約一時間。船に客が五十人ほど乗ったが私たちのグループを除くとほとんどが新婚カップル。ジャルパックの「スイート・ハネムーン・ハワイツアー」の一行に違いなかった。
 その昔、いろんな理由で結婚を許されなかったカウアイ鳥原住民の若者たちは、この洞窟にやってきて二人だけで神に誓い、式を挙げたという。
洞窟の大井からは無数の長い黄緑色のシタが流れるように下かっている。
かつて祭壇のあったところに立つと、下方で歌ってくれるハワイのウェディング・ソングが見事に共鳴して自然の大音楽堂に一変した。日本人のほとんどか新婚カップルだけに私たちはなんだか場違いの人間にみえて苦笑させられた。
 この島は箱庭のように美しいので「ガーデン・アイランド=庭園の島」と呼ばれている。
 船の中ではフラダンスの速成講習か始まった。
「みなさん手を腰にあててください。ヤーレン、ソーラン、ソーラン、ソーラン、この調子でやればいいのです」
 日系の中年の女性だった。
 
 色とりどりの花

 船から降りると、下西さんが待っていた。いまから昼食のレストランへ案内するという。
 レストランはシャレた建物で、車で走って近いところにあった。ここもバイキング料理だったが建物の造りが原始的な雰囲気を漂わせていた。ここでは果物と野菜サラダを主に食べた。でもパインアップルはカリフォルニアに比べて酸っばかった。下西さんに聞くと「まだよく熟していないうちに収穫しているからですよ」という返事だった。
観光案内もさることながら、この七十二歳の日系二世の人生観を聞くほうが興味があった。今を盛りと咲き誇るハイビスカスの群生したところで車を停めてくれたりした。キョウチクトウも七色に咲いていた。一枚の葉だけつき、それが造花のように真っ赤なエントリアム、そして荀葉が赤・紫・白七色のブーケンビレア.レイに用いるブルーマリア、花の美しさに心も洗われる思いの「庭園の島」であった。

太平洋を越えてR   唐津新聞 昭和56年4月29日

「唐津曳山米国派遣団」同行記

 ハワイの休日〈下〉

カウアイ島観光(下)


苦労話つぎつぎ

老日系二世ガイドが語る

 苦労した一世


 私たち九人のガイドを務めた下西勝さん(七二)はこのカウアイ島の生まれである。下西さんの父親は広島県三原市の出身。十人の子供を持った。勝さんは五番目である。長兄が八十二歳でまだ健在。六番目、つまり勝さんのすぐ下の弟はいま六十歳で三原市に住みタンスなど家具を製造しているという。小さいときに日本に帰り、日本籍になって太平洋戦争では兵隊にとられ中国の北部にやもれていた。勝さんたちは空軍基地の大工として働かされたが、給料はよかった。仕事は兵舎や軍のバラック住宅の建築だった。子供のときはナマズを取ってよく食べた。「私の父はサトウキビ畑で働いたがドレイと同じ、粗末な住宅に入り炊事場は屋外にある小屋で床はなくクツをはいての立ち働き。女がいちばんつらい仕事をした。パインアップルは買ってたペたことはなく畑から盗んだ。たまに食べる魚のアジが、ごちそうだった」と語る。

 二世も同じ苦労

 二世も苦労した。一日一ドルで働いた。下西さんは十五歳のときは一日九十セント、十時間労働だった。
 いまは製糖工場で働く日本人はいない。フィリピン人が主体だが一日八時間、週休二日、一時間六ドル二十五セントでユメのように変わってしまった。と下西さんの感慨。

 ミソ汁が好き

 下西さんは、ミソ汁が好き。でも毎朝はつくってくれない。豆腐とネギの入ったミソ汁、それにワカメが好きだが、日本から輸入するので高く「うちの女房はケチでね。食べさせてくれない」と笑う。
 下西さんは花の名前をひとつひとつ教えてくれたが、とにかく花いっぱいのカウアイ島だった。
 リトル・グランドキャニオンと呼ばれるワイメア渓谷は高さ一千メートル、ここか小さな島とは思われぬほど雄大な景観であり、海岸の潮吹きの穴岩も珍しかった。
 最後に下西さんは「浅太郎月夜」を歌ってくれた。しがないよ、赤城の月、影もやつれた浅太郎。意地と情けについはさまれて、泣いてくれたよ、男(おとこ)紅緒(べにお)の三度笠″
 日本人より日本人的な日系二世の姿がそこにあった。

 機内誌見て驚く

 カウアイ島のリフエ空港を午後五時四十分離陸したDC9は一路東のオアフ島に向かった。機内放送で「ウイスキーやビールはいかがですか」と日本語でアナウンスされるが、この旅客機は有料なので、だれも注文しない。それにわずか二十六分で到着するので、みな知らぬ顔だ。帰りはまた九人とも、こんどは左側にすわった。真珠湾が見えると、やはりあの日本軍の奇襲が思い出される。
 ハワイアン航空機内誌の「ハワイ」四月号が、座席の前のアミかごの中に入っていたので手に取ってみて驚いた。
 戦艦「アリゾナ」が日本空軍の攻撃を受け横倒しになっている写真が見開きで載っているではないか。文は英語で一九四一年十二月七日年前六時オアフ島北方二三〇マイルの航空母艦から発進した日本空軍は三菱ゼロ戦の護衛を受け計三百六十機で真珠湾に奇襲をかけた。とある。
 この記事や写真を日本からの新婚組はどんな気持ちで見るのだろうか。
 

太平洋を越えてS   唐津新聞 昭和56年4月30日

「唐津曳山米国派遣団」同行記


帰 国

残した男の紋章

唐津っ子の意気で成功

 見学組、水泳組

 四月二日、いよいよハワイとのお別れである。一日自由行動だが、希望者二十数人はポリネシア文化センターを見学した。ポリネシアの島々の生活様式などが知れるし、フラダンスの腰の動きはさすが本場だけに迫力満点ということで踊りの勉強にと花柳三祐さんも門下生を誘って参加した。
 ほかの人はホテルの中でノンビリ過したり、近くのワイキキの浜に出かけて泳いだり、市内見学などをして最後の一日を楽しんだ。

 ゴルフを楽しむ

 大原令光きん(五〇)と平野津二郎さん(四九)は、昨日に続いてゴルフに汗を流した。常夏の国で芝生の生長がよく、この上を電気自動車が走った。日本のゴルフ場なら芝生は枯れてしまうだろうと思ったという。ゴルフ場は最初の日が陸軍の所有、二日目は海軍の所有へ行った。どちらも十八コースで、一般の人たちは入場できない。初めの日は高田照男さん、福本芳三さんと、二日目は金子勝商夫妻と高田さんが同行した。
 平野さんはディズニーランドで、いとこのゴッフ恭子さん(四八)と三十五年ぶり懐かしの再会をした。幼な顔の残る恭子さんは浩二郎さんの父親の妹の子である。恭子さんはカルフォルニア州のサンぺトロ市に住み、夫は電力会社勤務。あと五年したら定年になるので一緒に訪日し、唐津に足を延ばすのを楽しみにしていると語った。

 ハワイ最後の夕食

 食券をもらっていたので朝は一人でホテル近くの「舞妓別館」に行く。献立は焼いたやわらかいシャケ、納豆、ご飯、豆腐とネギの入ったミソ汁 ノリ、タマゴ、ヒジキ、漬けもの、味は全く日本と同じ、知床の岬に≠フ森繁の歌のメロディーが流れ、掛け軸は「風」と日本調。ただし生け花は真っ赤な一枚葉のエントリアムだった。昼も一人で三越デパートの「鳥ぎん」に入った。釜飯を食べた。本店が東京なので味は日本のものと変わりなかった。夜は山岡さんらと、ちょっと遠いアラモアナ大通りの「神戸ステーキ」に行こうと出かけたが、疲れたためカラカウア大通りの「ニュートウキョウ」に入った。
ちょうどハワイアンタンスが奥の大広間のステージで実演されていた。結局ステーキを食べた。肉は割り合いよかった。

 午前3時すぎ出発

 三日午前零時、ホテルのロビーに集合、みんなもう疲れの色が濃い。バス二台に分乗した一行はホノルル空港に向かった。
中華航空CIO07が飛び立ったのは午前三時二十五分だった。映画が始まった。もう見る元気もない。スナックが運ばれてきた。ビーフロースト・七面鳥・ハムのサンドイッチとコーヒー、紅茶。ハラが満ちて疲れと共にすぐ眠った。眠っている間に旅客機は日付変更線を越えた。だから東京羽田に着いたときはもう四日の午前七時だった。

  満開のサクラ

 東京を九時十五分発の全日空で発ち、気流の悪い雨の福岡に同十時五十五分着陸、専用バスは唐津に向かった。途中の道ばたの満開のサクラが私たちを「お帰りなさい」と歓迎しているようだ。
 「十日間の旅」は終わった。ヤマで結ばれた唐津っ子の大集団の旅だけに楽しさも大きかった。
 添乗員であった日本通運東京大手町航空支店の岡崎正則さん(二七)の言葉を借りてこの連載を終わりたいと思う。
 「走らせよ∞走っては困る″。脇山団長は巨大なディズニー側に一歩もひかず、曳山はディズニーランドを走りました。格納庫からランド入口までコンクリートに刻まれた車痕は男の紋章・唐津っ子の勲章″です。将来.またディズニーを訪れる日があることと思います。そのとき私は男の紋章≠見てきっと曳山を懐かしむことでしょう」  (おわり)