唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第98号  平成21年4月1日発行
発行人 戸川 惟継
編集人 戸川 忠俊
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
境内社のこと
−寿社の今昔−

 唐津神社の境内には、御本社とは別に、合計八社の境内社(六社殿・二石祠)が祀られています。このうち六社殿二石祠は、歴史的な御由緒に深い繋がりを持つ、町内や故郷の氏神様の崇敬者により奉齋されている神社です。
 神社の御由緒書きに記載されているのを基本にして紹介しますと、
東側・北より鎮座順に、
◎白飛稲荷神社(社殿)
  (呉服町奉齋) 慶長の頃、京都伏見より飛来されたるにより同町にて奉齋、一時平野町木浦山に鎮座ありて千量院の奉齋せしが明治三十七年唐津神社境内へ奉遷す。町内守護神として崇敬す。
◎壽社(石祠)
  別に記します。
◎粟島神社(社殿)
 (中町奉齋) もと中町に鎮座あれど明治末年熊野原神社へ奉遷さる。其後、町内しきりに神徳を追慕し、夏越の例祭には年々怠ることなく町内にて執行ありしが、昭和三十二年熊野原とは別に、社殿を境内に新築して紀伊国名草郡加太浦の淡島本社より勧請せられるものなり。腰より下の病に霊験あり。七月の夏越祭盛大なり。
◎鳥居天満宮(社殿)
 (木綿町奉粛) 天明の頃、唐津の豪商、常安九右衛門が、太宰府天満宮へ唐金の大鳥居を奉献するに当たり、木綿町の鋳造場に、その成就を祈願すべく特に天満宮より勧請せしより鳥居天満宮の称あり。やがて無事奉献成り、社はそのまま木綿町の守護神と仰がれ給い、大正年中唐津神社へ奉遷す。春三月、秋九月、例祭を執行す。
※注…奉献された唐金の大鳥居は、戦前まで太宰府天満宮の参道にあった。戦時中の金属応召で供出され、その後は、台座だけが参道に残っていた。近年この参道が整備された時、台座も撤去され、今は残念ながらその面影など、何も残っていない。
西側・北より鎮座順に、
◎火伏稲荷神社(社殿)
  (本町奉齋) 文化年中、当唐津の首町たる本町の町内安全のため勧請す。この時、蜆貝に乗りて着き給うと伝う。火除の霊験有り。明治三十七年唐津神社境内に奉遷す。昭和二十六年コンクリート造りの近代的神社建設により総改築して、町内崇敬の誠を捧ぐ。
◎廿日恵比寿神社(社殿)
  (刀町奉齋) 江戸後期頃、刀町の各家で恵比須講をつくり毎年宮座を定めて尊崇す。その後、町内で祭礼をしていたが、御神徳著しきを感じ、昭和五十八年境内に奉遷す。一月十九日・二十日の例祭盛大なり。
◎白玉稲荷神社(社殿)
 (新町奉齋) 江戸末期頃、黒崎坊が町内安全のため奉祀す。その後、町内が奉齋するようになり、御神徳を感じて、昭和五十五年境内に奉遷す。
◎水天宮(石祠)
  (在唐津筑後人会奉齋)筑後の人達の郷土の守護神たる、久留米の水天宮の御分霊を唐津神社境内に勧請したるものにて、水難を救い給う神徳あり。例祭日・旧暦四月五日。
 右通りの、八社が鎮座しています。東側には、もう一社小石祠があります。昭和二十五年の刻字のある、猿田彦命社ですが、この小石祠は境内社としての列ではなく所管社として鎮座されています。
 ◎さて、先にも触れましたが東側・北より二社目の石組の上の石祠が 『壽社=通称・壽様=ことぶきさま』という神社です。境内社とは違い、唐津神社直属の神社である「唐津神社末社」として鎮座されています。
 この壽社の御鎮座の事は全くわかっていません。この石祠に刻字してある年月日・世話人様方等のお名前などから神社の由緒をたどるのが、唯一の手がかりとなっています。
 ◆石祠の正面の大屋根=棟に当たる部分に「壽」の文字が、二つ並んで、丸字にデザインされて刻字されています。石の扉が左右に観音開きで取り付けられています。
 ◆石祠左側(向かって右側)に、大正十一年七月再建の刻字があります。ということは、この石祠が大正十一年に作られたことを示していると同時に、これより以前には別の方法によって「寿様」が祀られていたということが推測されます。 (但、推測の域を出ませんが…)
 ◆石祠右側(向かって左側)に、世話人として上段にお三方のお名前が、台座部分にお二方のお名前が刻字されています。
 ◆石祠真後ろに、相談人としてお一人のお名前と、その左脇に当時の宮司(その当時地方の神社の宮司は社祠と呼ばれていた)の名前「戸川顕」が刻字されています。
 ◎この中で、お世話人と刻字されている合計五人のお名前の内、唯一その御後裔としてお家が判っているのが「大原家」様です。
 さてこの壽様の石祠は、私が知る限りでも三度ほど遷座されています。私がまだ幼かった頃、壽様は今の鳥居天満宮の直ぐ北隣に鎮座されていました。周辺は取っても抜いても草ボウボウの小さな原っぱで、生い茂った小さい草原からは、夏になると昼間には、のどかなキリギリスの声や、夜になると騒がしげに轡虫の合唱や、秋もくんち近くになるとコオロギ、そして可憐な松虫の鳴き声が響いてきていました。
 昭和三十二年、中町粟島神社が鎮座されることになり壽様は、少し北側へ遷座されました。今の神輿台車庫の真ん中辺りです。周辺もきれいに整備され草ボウボウからいきなり、神々しい神苑になったように見えました。このころ夏になると早朝、壽様神前で般若心経を唱える人がありました。
 昭和三十四年御篤志の方より唐津くんち御神輿の台車が二輌奉納されました。神輿台車は、道路に面した場所に格納するので、壽様のところが最適地と言うことで、少し西へ (前へ)遷座されました。しばらくの間、神輿台車は一柄はそのままで、もう一輪は分解して格納していましたが、種々利便を考慮し、二輌同列で格納出来るよう、神輿台車格納庫を拡張する事となり、更に前へ(西へ)遷座されました。この時初めて、上部に庇が取り付けられて今日にいたっています。
 さて、これら三度の御遷座の工事のほとんどは、今日のような、重機類など無くて、ヤギ柱を組んでロクロを回し、その後はチェーンブロック?で、吊り上げての遷座作業が主でした。このような工事の途中か、石の材質が耐えきれなかったのか、何時の頃からか石祠の大屋根の庇、先端部分に大きな傷が入っていました。どうにかせねばと思いつつも、なすすべも判らぬまま年々の祭典を奉仕しておりましたところ、昨年の壽祭の前に、唯一、お世話人として後後裔の御尊家より、大屋根を修復しましょうとの、誠に有り難いお申し出をいただきました。
 御尊家にすべてをお任せして工事が進められ、昨年七月七日の吉日に、新殿清祓祭・遷座祭・例大祭を齋行し、新・壽様の歴史が始まりました。
 御篤志を賜りました御尊家、大原家様には、ただただ有り難く厚く御礼申し上げる次第です。
 又、このことを記念して新しく神社掲示板(二箇所)をつくり、御神徳を広くお伝えしております。
※壽社(石祠)
 (唐津神社末社)少彦名神・国安命を祀る。往古松浦の海辺に神亀顕現の瑞祥を寿ぎて之の霊を合祀す。因に寿様と称す。この神、蜆貝を好み給い、首より上(頭眼耳咽喉鼻歯口等)に霊験有り。例祭日旧暦三月二十三日。
 近年は、学業成就・運気増進の守護神としての尊崇も広まっている。
 (宮司 戸川 惟継 記)

諸業繁栄祈願
春季例大祭
4月29日(水・昭和の日 祝日)
奉納神賑行事
浦安の舞・曳山社頭勢揃・池坊生花

五穀豊穣祈願 
 
社務社務日誌から
◎唐津神祭

 十一月二日(日・晴)
 早朝、木綿町・江川町・大石町・水主町・材木町の曳山が囃子をしながら町内へ帰る。露店興業等もほとんど整えられている。昼頃、各町曳山帰り、露店出店準備で明神小路及び神社周辺は大混雑している。夕刻、祭儀を奉仕し宵曳山へ行く。人人人の大賑わい。安全に安全にと祈る。
 ◆宵曳山は 黒山の人
  十重二十重 溢るる人を
  分け分け進む
 十一月三日(月・曇)
 宵曳山曳納め直後より降雨。だんだん激しくなる。各町とも、急ぎ曳山展示場へ避難する。刀町・米屋町は雨儀用具を張って、勢揃位置にとどまっている。午前五時神田区獅子舞奉納の頃、雨止む。発輿祭を定刻五分前に始めた。曳山曳き出しと発輿との連携がうまくいくように、来年は発輿祭を少し早める事も一考せねばと感じた。
 ◆雨音の 明け方早く
  止まりて 神田の獅子は
  清々に舞う
 ◆曇り空 降らず
  照らずも 天与なり
  違うことなく 神事は進む
 十一月四日(火・晴)
 快晴の中、翌日祭始まる。全町社頭勢揃いの直後、火矢上がる。火曜という普段の日だからと、人出を気にしつつ大手口へ出れば、人の波は多いと感ず。その人出午後より増えて、展示場へ曳山納めの頃は、神社・展示場周辺−例年の如く、いっぱいの人垣。夕闇迫る頃、江川町の曳山庫の大扉が閉じられ、くんち納めの火矢が少し悲しげに余韻を残しながら大空に弾けた。又来年と、弾けたような気がする。
 ◆今日こそは
  天の光をいただきて
  曳山姿 輝き進む
 十一月五日(水・晴)
 多くの町内で、さも何事もなかったように坦々として曳山清掃作業が進められている。午後より神輿納めの儀。大石町・紺屋町より多数出務ありて、神輿受取渡しの儀が終了。この瞬間から、この二ケ町が総行司として、正式に来年のくんちが始まったことになる。紺屋町からは、ご婦人方の出務も有り社殿清拭まで御奉務があって、社殿も大掃除であった。
 ◆御神輿を 庫に納めて
  今日よりは
  又来年のくんち始まる
◎七五三祭
 十一月十五日(日・など)
 古来より七五三祭は、この月この日であった。ところが近年、生活の多様化なのだろうか、十一月いっぱいの土曜・日曜が七五三祭の日になっている。良きことか悪しきことか?判らない。御参拝の数が減収気味である。少子化ということだろうが、用意した千歳飴・御守護は予想の範囲内での頒布であった。
 ◆わらわべは 着飾り
  おめかし 七五三
  お付きの皆も
   華やいで見ゆ
◎正月
 一月一日(木・雪、晴)
 午前零時、初太鼓。松尾総代方の「萬歳」の発声で境内に萬歳の声が響くも、時報係がうまく作用しなかった。これはNTTが、正月午前零時前後の通話をカットし制限したため、三分前に通話可能だったものが、先方より切られ通話不能となってしまったもの。そのため控えの電波時計の文字を頼りに時間を読んだので、萬歳の最前線まで情報が若干遅れてしまった。来年は良い方法を考えねばと思う。元朝は雪模様だったが、次第に晴天となり、例年より少し多めの元日の初詣であったように感じる
 ◆新玉の 年の初めの
  雪模様 清めのことと
  年を占う
 一月二日(金・晴)
 良い天気となる。初詣の人も多めに感じる。例年のように家族連れの人達が多く見られるが、ここのところ仲間連れ、グループなどの参拝が増加しているように見える。くんちの勢いのようなグループもある。正月の形が変わりつつあるのかも知れない。
 ◆良き光 宮居に差して
  お参りの 人波続く
  正月二日
 一月三日(土・晴)
 本日も好天。昨年もこんな正月だったように思う。還暦祭・厄除祭・家内安全祭・企業祈願祭など、正月祭典が始まった。例年四日から企業団体様の新年祭が多くなるが、本年は四日が日曜日なので、五日に集中して多い。迷惑がかからぬように時間配分等を再確認すべし。
 ◆庭燎は
  神札御守り納められ
  願いひとすじ
  煙立ち立つ
◎節分祭
 二月三日(火・雨、晴)
 朝の間、降雨ありて心配したが、午後より小止みとなり夕刻までには雨止む。年男・年女多くの御奉仕有り。近年、小学生の奉仕も多くなり、元気な声が嬉しい。昨年から「鬼」が豆撒きに出没し、鬼も一緒に節分祭を楽しんでいる。今年は特に「還暦同志会」がテントを建てての大賑わいがあった。
 ◆鬼は外 福は内でも
  鬼も来て 宮居に響く
  豆撒きの声
 曳山関係
 書籍=現在、「くんち・曳山」 の正史とも言うべき書籍が編纂されつつある。これまでにも曳山・くんちに関しては、多くの出版物がある。
 今回は、唐津曳山取締会が監修して、曳山の創建→歴史→現在、そして将来につながる展望を、史実に忠実に書き記したものになっている。
 唐津くんちの正史として刊行が待たれる。
 スポーツ大会=「唐津曳山親睦スポーツ大会」は、水主町が当番町となって企画が進行している。

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