唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第96号  平成20年4月1日発行
発行人 戸川 惟継
編集人 戸川 忠俊
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
諸業繁栄祈願
春季例大祭
4月29日(火・昭和の日 祝日)
奉納神賑行事
浦安の舞・曳山社頭勢揃・池坊生花
五穀豊穣祈願
上段=旧・拝殿(間口六間・奥行四間)明治三十年頃建設。
  現在、神器庫として境内東南角に曳築。  人物は、第十一代 戸川顯宮司・右奥に新社殿が見える。

下段=新社殿(間口六間・奥行三間)  まだ、瑞垣・東階段は無く、境内の段構えや神城木なども皆無。
祝 社殿総改築七十周年      宮司 戸川惟継
 早いもので、平成の御代が開けてより今年は御即位二十年という年を迎えます。御皇室の弥栄をお祈り申し上げます。
 さて、唐津神社では今の社殿が竣工してから、今年は七十周年という節目の年にあたります。社殿の竣工が昭和十三年のことで、私は昭和二十一年生れですから知る由もありませんが、先代・先々代の宮司から聞いている事や、断片的な資料などから往時を振り返ってみます。
 それより以前、徳川期から明治御維新となり、神社のことは激変し、静かな城内の佇いから、活動的な神域へと変化し、今の原風景が形づくられました。同時進行的に、いくつかの大事業が進められたようです。
 まず、徳川期までの神仏習合の制度が廃止され、神仏判然令が発布され、別当寺であった「勧松院」は廃寺となり、それまで三家で奉仕していた御神前のことは、他の二家が職分を返上し現在の奉務の姿になりました。明治御維新からの神社の歴史を見てみますと、
一、参道拡幅
一、参道直結(主要道路へ参道を接続→お城の石垣を撤去、お堀を埋め立てて主要道路へ直結)
一、山小屋地買収(参道拡幅に際し、余った土地を将来的にと神主名義で購入)
一、現・社殿周辺地を買収。(現社殿の建立地・彰敬館建設地・市民会館前庭の社地等)
一、社務所(彰敬館)の建設。
と、数々の大事業を次々進めて、ようやく昭和十三年十月九日に、現・社殿が竣工しました。早速「県社昇格」=明治六年・神社制度新制定の時「郷社」、これを県社に昇格させるべく種々の要件を整えた。=に向って進み始めたところ、制度が変更され、今後は社殿に神饌所を併設せよとのことで、改めて神饌所建設の事業を進め、昭和十七年に県社昇格奉告祭を斎行することができました。
 昭和十三年十月九日に、遷座祭を齋行しましたが、十月二十九日が神祭ですので、それまでの二十日間で旧・社殿を曳いて移動させ新参道をつくって神祭を迎えたそうです。又、旧社殿は、日清戦争直後の建設ですから、、古くなってということではなく、白蟻害で大規模補修が必要なこともあって、又、将来的には県社昇格をも視野に入れての、総改築(新境内地に全面新築)が計画・実行されました。これらの事業のすべては、氏子各町各家庭からの奉賛金で進められました。このことは、このあとに続いて斎行された御鎮座千弐百年祭、又それ以降の各年祭も同様に、氏子各町各家庭からの御奉賛により、神社の事が進められています。誠に有難きことで、伝統の重みや深さをひしひしと感じています。
 このような時代を経て、本年は社殿総改築七十年の節目の年を迎えます。日々の御奉務の中で、大神様の大前の事々は、大事に大事に執り進めてはいますが、七十年という歳月の中、社殿のそこここに不具合が生じてきています。その中でも特に、拝殿正面の大扉は、台風の時には吹き倒されたり、けしからん者から蹴破られたり、風や挨を除けるためのアクリル板は後付けで不具合が生じやすく、止め金具で禍いがあったり、建て付けも悪くなり、今回その大扉を全面的に取りかえることにしました。
 ほかにも種々手を加えたが良い箇所もありますが、諸般の事情も考慮しつつ、これからの御奉務にも支障が無い部分は、後年に先送りすることにしました。
 本年、神域の一部(境内の最上段部分)の整備を進めています。風通し、陽あたりを良くし、桜・欅等を植栽し、憩いの神域になればと考えています。
 社殿捻改築七十年の年にあたり、改めて氏子の方々の御崇敬の篤さを思い、これからも氏子の皆様にとって、洗心の宮居でありますよう、奉務の心得を固くしているところです。
 これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
◎曳山関係
改選−本部役員の任期満了に伴い、諸手続きが進められている。
第二十五回唐津神社旗争奪曳山十四ケ町親睦ソフトボール大会−五月十一日・相知−天徳の丘運動公園で開催。(当番町・京町)
塗替−第十二番曳山京町「珠取獅子」=明治八年創建=直方市。はせがわ美術工芸で塗替工事中。

曳山取締会改選
 本年は、唐津曳山取締会の役員改選(任期四年)の年にあたります。本部取締以上の役職は取締会規則により任期四年(再任を妨げない)となっています。又、各町には各町ごとの定めがあって、その任期と取締会の任期と二重任期となり、手続が多少わかりづらいところもありましたが、三月までに各町より新本部本取締のお顔が揃い、このあと数回の会合を経て、新役員による新年度が始まることになります。

唐津城築城四百年
 今年は、唐津城築城四百年とのことで、一年を通じて種々催しがあることと思う。四百年前のことを見ていたら、慶長十三年(西暦一六〇八年)姫路城・慶長十五年(一六一〇)名古屋城完成とある。又、翌年にはオランダ人に通商許可、元和二年(一六一六)外国船寄港を平戸に制限。徳川家康公が七十五歳で死亡。翌年には日光東照宮創建などの記事が見えます。江戸期が始まったばかりの頃、築城できたのですから、この唐津、松浦の里は安定していたか−それとも、名護屋からつづく外敵への要衝の地としての意味だったのか、いずれにしても当初、十万を越える石高で藩政がはじまっている。
 唐津城下の民として生活が始まって四百年。先日、県立名護屋城博物館で開催されていた、城下町絵図展に行った。まず、名護屋城屏風絵図−各大名の陣屋名あり、生活風景あり、人物往来あり実に実生活風情豊かなものであった。
 さてその次に目当の唐津城下町屏風絵図−絵図面のそこここが、先代・先々代・十一代宮司や古い総代様達が話していたそのままと思われる街々・路地が眼の前にある。ためつすがめつ眺めては一休みし、又観る。すると、唐津神社鳥居横右上段に、鐘礫と鐘が描かれているのを発見した。これまさしく、別当寺「勧松院」のものならんと思うも、廃仏毀釈の際どうなったのか、鐘の存在さえ知らなかった。たった百四拾年位前のことですら判らないことばかり。
 築城四百年で更にいろんな発見があるかも知れない。楽しみにしている。

お旅所のこと
 平成二十年正月より、西の浜・明神台・お旅所の一部に、各種建設機械が搬入・駐車しています。又、建設資材も相当量の搬入搬出がくりかえされています。
 これは、産業道路沿いの各交差点の歩道改修工事の現場用地として、その請負企業に日限貸与しているもので、当初、十九年度末完了とのことでしたが、その後、追加工事が入り期間が延長されましたが、神祭には復原されます。
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