唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第95号  平成19年10月1日発行
発行人 戸川 惟継
編集人 戸川 忠俊
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
唐津神祭
十月九日(火)
 ◎午後七時 初供日奉告祭

十月二十九日(月)

 ◎午前九時 神輿飾ノ儀
  一ノ宮 材木町
  二ノ宮 京町
 ◎午前十一時 本殿祭

十一月二日(金)

 ◎午後七時三十分 宵曳山曳出
  各町曳山万灯をともして社頭勢揃(午後十時頃〜)

十一月三日(土・祝)

 ◎午前五時 神田獅子舞奉納
 ◎午前九時 発輿祭
 ◎午前九時三十分     ☆御神幸発輿
 (煙火五発合図−市内一巡)
 ◎正午 御旅所祭
 ◎午後三時 還御     ☆御旅所発輿
 (煙火五発合図−曳山は町内へ)

十一月四日(日)

 ◎午前十時三十分 翌日祭
  曳山社頭勢揃の後曳出
 ◎午後二時三十分 米屋町曳出
 ◎午後四時 江川町通曳出
 ◎午後五時頃 曳き納め (曳山展示場へ=煙火五発)

十一月五日(月)

 ◎神輿納ノ儀
  一ノ宮 刀町
  二ノ宮 米屋町
あれから二十八年   禰宜 戸川忠俊
 そもそも、曳山が唐津市外に出るのを「出動」と言うのはナゼなのかご存じだろうか?これは昭和二十六年、初めて唐津の曳山が他所(この時は福岡県)へ出ると言うことで、そのことを何と呼ぶのか、「派遣」にするのか「遠征」にするのか等々、いろいろな案が出てきた中、曳山取締会の会議の席上で「出動でよかっちゃなか」という声が上がり、一同納得して、曳山が唐津市を出ることを「出動」と呼ぶようになったのである。これについて先代の宮司(戸川省吾)は、『曳山の組織が、元々は火消し組の組織を元にしたところから、消防用語でよく使われる「出動」で、みんな納得したのだろう。』と話ていたことを今も記憶している。
 その先代の宮司がよくしていた話の中に「初の曳山海外出動」の話がある。これは言わずとしれた、昭和五十四年、五番曳山「鯛」がニースのカーニバルへ出動した時の話しである。
 戸川省吾は『カーニバルに曳山ん出発する前に、安全祈願祭ばニースの街角で唐津から持って行った祭壇ば組み立て、祭典したばってん。その時唐津から玉串(たまぐし…神様にお参りする時に使う常緑の枝。主に榊を使用する。)ば持って行ったとばってん、移動中枯れたらいかんけん、地元で「ミモザ」の木の枝か何かば準備してもらったとよ。結局は唐津から持って行った榊で玉串奉奠できたとばってんね。』 と語る。
 このように曳山の話には、その一つひとつに面白いドラマがあるのだが、それを一つひとつ今ここに書いていくとなると、残念ながら話の前に紙面が尽きてしまう。そこで、今回はこの「ニースのカーニパルへの出動の話」から、「カーニバル実行委員会と曳山関係者の事前の話し合いの記録」をご紹介したい。この記録は、戸川惟継宮司(当時は権禰宜、ちなみに私は四歳)が、フランスの地に事前調査に行ったおり、地元のカーニバル実行委員会と曳山関係者とのやりとりを記録したメモで、それぞれの想い(こだわり)が詰まった記録である。
※以下、メモより抜粋
  一月二十六日(金)
 ニース着。ホテルに荷物を預けてハレビーという旅行会社に行く。ここのM.ビトウ氏の案内にてカーニバル委員会Med.ルミーを訪問し、詳細打ち合わせを始めた。しかしM.ビトウ氏のフランス式イングリッシュの通訳ではラチがあかないので、明日日本人通訳と改めて出直すと回答して別れた。この時、Med.ルミーより連絡を受けていたニースの運送会社ゼネラル・コーポレイト社の社長が現れ、彼の事務所へ行き、こちらの要望を伝える。
【曳山からの要望】
 @四キロ離れたメゾンドカルナパル(保管庫)からの出入には、当方として納得しかねる。
 A保管庫に代わる物件をパレード会場近くに設定されたい。
 B日本通運パリ駐在所と連絡をとられたし。
 C十屯クレーン車等の手配を日通パリと連絡を願いたし。
以上、四点を要望して別れる。尚、第二点については露天でも一夜なれば可能であるとの要望は付加した。
 この日にパレードコースを歩く。三十分〜四十分かかる。工事中のビルが右手にある附近から若干登り坂になっている。ほとんど感じない程度であるが、教会あたりから見るとパレード広場を見下ろす感じがする。
一月二十七日(土)
 午前九時、現地通訳の若林氏と会見し、本日のMed.ルミーとの会談の打ち合わせをする。午前十時、委員会Med.ルミーと面談。昨日M.ビトウ氏との会見で得た感触の通り
 @四キロ離れたメゾンド カルナパル(保管庫)へは、曳山を入れなければならない。
 A保管庫が潜在的パレード出発点であること。
以上二点を確認させられた
 こちらの要望を伝える。
 @保管庫まで往復八キロは負担になるので、近くに(パレード会場)確保されたい。
(回答)それでは自動車で引っぱってやる。
(返答)それは人力が頼りの曳山であり、ハンドルもブレーキもない構造だから不可能である。
(回答)それでも保管庫に入れてもらわねば、ニースカーニバル委員会として全く責任が持てぬし、潜在的な出発点を考慮されたい。
(返答)話しは判るが、往復八キロについては、納得できない点がある。露天(注@)に一夜であればおいても良い。
(回答)当日は酔客等も多く、ポリスの手配もつかないし、貴曳山関係者で警備するとしても、もし現地人とのトラブルがあれば、両市両国間に良くない結果を招くとも限らないので承知できない。
等の問答を繰り返し、絵を措いて曳山の構造を説明しても、ニース作成の出し物の感じしかなく、全く理解されなかった。そこで運輸関係を改めて考慮することにして、委員会の指示通り四キロ離れた倉庫をしぶしぶ承認した。尚、この日の会見で、国情の相違、国民性の違いを痛感した。
 (注@) カーニバル会場中心部に鯛曳山が収納できるぐらいの高さの上屋根付き(夜露がしのげるほどの)建造物があり、その下へ保管できぬかと問答した。しかし、その場所はカーニバルにとって大事な場所だから「ダメだー」と言われた。
 さて、まだまだメモは続くのだが、紙面がつきそうなので今日はここまでとしたい。しかしながらメモの中で「絵を描いて曳山の構造を説明」とあるが、おそらく四角を描き、その前に長い線、後ろに短い線を描いて、それを指し示しながら、綱を引く身振りや、梶棒を押す手振りをしながらフランス人に曳山の構造を必死で説明している姿が眼に浮かんできて大変おもしろい。
 戸川惟継宮司はその時を振り返ってこう語る
 「うんにゃ、あいどん(フランス人)達の山車(カーニバルに使用する車両のこと)は自動車に花飾りして、ソイの上かい手ば振るだけやっけんが、曳山ばソイと同じぐらいに思うちょるっちゃんねー・やっけんプル!プル!(「プル」は英語で「引く」)て言うてん分からんとさい!ほんなごて!」
 で、この話は、結局どうなったのかと言いますと、この「曳山格納庫並びに移動手段問題」は、専用のトレーラーに曳山を積み込み、格納庫とパレード会場を移動することによって解決したらしい。
 この海外出動については多くの話や伝説(?)を聴いてきたが、実は、こんな隠れたエピソードもあったのである。     Fin
 
唐津神社の一年間のおまつり
一月一日
 歳旦祭(さいたんさい)
 一月一日の元日は新しく年を数える日であり、昔は「数え年」といって、元日に一歳年を取りました。歳旦祭(さいたんさい)は、新しい年・月・日をむかえられたことを、神さまに感謝し、神さまに皇室や国家(私たちの住む国)、国民・氏子・崇敬者(唐津神社のある地域に住んでいる人や、唐津神社によくおまいりに来る人)がことしもよい年をおくることができるように、神さまにお願いするおまつりです。
一月六日
 新年祭(しんねんさい)
 年の初めの歳旦祭(さいたんさい)といっしょですが、元日はゆっくりしたおまつりができないので、唐津神社では一月六日に氏子(唐津神社のある地域に住んでいる人)のみなさまに神社に来てもらっておまつりをします。
二月三日
 節分祭(せつぶんさい)
 立春の前日、冬の季節が終わって春の季節が始まる日に行われる行事です。鬼の進入を防ぐ日ということで、「鬼は外!福は内!」と豆をまきます。また唐津神社では、弓の弦を鳴らして鬼をおいだします。
四月二十九日
 春季例大祭(しゅんきれいたいさい)
 唐津神社の春祭りです。日本人の命の基である「稲」(イネ=命の根)が今年もたくさん取れますように、そしてその他の魚や野菜もたくさん取れますように。また、いろいろなお店がにぎわいますように、モノを作るしごともにぎわいますように(農業・工業・商業のすべてがにきわいますように)と神さまにお願いするおまつりです。そして氏子(唐津神社のある地域に住んでいる人)のみなさんが安全で楽しい一年をすごして、秋には「稲(お米)」がたくさんとれて、楽しく元気にからつくんちができますようにとお願いするおまつりです。
七月二十九日
 大祓・夏祭(おおばらい・なつまつり)
 茅の輪くぐり神事
 唐津神社の夏祭りです。
半年間生活してきた中で、イヤなモノを見たり、イヤなことをしたり、されたり悪いことを考えたりしたことをお祓いして、きれいな心をとりもどすおまつりです。紙の人形(人形)に自分の悪いところをうつしたり、草(茅)で作った大きな輪をくぐったりしてきれいな心をとりもどします。
十月九日
 初供日奉告祭(はつくんちほうこくさい)
 からつくんち最初の行事です。唐津神社の神さまに唐津曳山囃子保存会と、曳山のある各十四ケ町からお囃子が奉納されます(神さまに聞いていただきます)。また、今年のからつくんちが事故もなく無事におわるように神さまにお願いするおまつりです。
十月二十九日
 唐津神社本殿祭(からつじんじゃほんでんさい)
 前は(昭和四十年頃までは)この日(十月二十九日)にからつくんちが行われていました。その日に合わせて、まずは神輿(神さまが乗られる乗り物)を神社にお飾りします。そのあと、氏子(唐津神社のある地域に住んでいる人)のみなさんや、からつくんちに関係のある人たちに神社に来てもらい、からつくんちの準備が整ったことを神さまにお知らせして、今年のからつくんちがケガもなく、無事に楽しく行われることをお願いするおまつりです。
十一月二.三.四日
 唐津神祭(からつじんさい)
 からつくんち
 からつくんちは、神さまと唐津の人たちがいっしょになって、楽しむおまつりです。秋に収穫されるお米や野菜、果物、また魚やお酒を神さまにおそなえして、自分たちが自然の恵みで(太陽や川の水や土や風といった自然と、そこで取れる食べ物のおかげで)自分たちが生活できていることを神さまに感謝して、そして神さまといっしょになって、たくさんの食べ物が取れたことや、健康で元気に生活できていることを楽しむおまつりです。
 からつくんちは十一月三日の御旅所神幸(おたびしょしんこう)が一番大切な日ですが、その前の日に曳山を出して町中をまわり、町中にからつくんちの始まりを知らせる行事です。
十一月三日
 御旅所神幸(おたびしょしんこう)
 唐津神社の神さまが、神輿に乗って町中をまわられる行事です。神輿は十四台の曳山に守られながら御旅所(おたびしょ・むかしの大成小学校)にむかいます。御旅所では「御旅所祭(おたびしょさい・曳き込みが行われている時に行われているおまつり)」というおまつりがおこなわれ、春の春季例大祭(しゅんきれいたいさい)でお願いしたとおり、今年もたくさんのお米が取れて、氏子(唐津神社のある地域に住んでいる人)のみなさんが安全で楽しい一年を過ごすことが出来たことを神さまに感謝するおまつりがおこなわれます。
(からつくんちのビデオなどで曳き込みの場面があると思いますが、注意して見てみると、刀町や中町が曳き込みをしている後ろの、御旅所の真ん中に一段高くなっているところ (明神台‥みょうじんだい)でおまつりをしている神主さんが見えるかもしれません。)
 また曳き込みが終わったあとには、十四台の曳山のえらい人たちが、神さまに感謝するためにあつまっておまいりをされます。
十一月四日
 町廻り(まちまわり)
 十四台の曳山が町をまわります。一年間で三日間しか曳山を曳くことができないので、最後の最後まで楽しみながらからつくんちを唐津神社の神さまといっしょに楽しみます。
十一月五日
 神輿納めの儀(みおこしおさめのぎ)
 からつくんちが終わった次の日、からつくんちで神さまがのられた神輿を、来年もきちんと使えるように、きれいに掃除してから神輿蔵(神輿を一年間置いておくところ)に納めます。だから、来年のからつくんちの準備はこの日からはじまります。
十一月九日
 新嘗祭(にいなめさい)
 からつくんちも秋の恵みに感謝するおまつりですが、この新嘗祭(にいなめさい)も秋の恵みに感謝するおまつりです。新嘗祭(にいなめさい)ではその年に取れた「稲穂(お米)」を神さまにおそなえして感謝します。むかしから「お米」、つまり「稲(いね)」は「命の根」と言われて、私たちが生活するのに必ず必要なものとして、わたしたち日本人はとても大切にしてきました。この「お米」が毎年たくさん取れることはあたりまえのように思っているかもしれませんが、たとえば、雨の日が続いて太陽の光があまり当たらなかったり、強い風が何日間もふいたり、水が冷たかったりしたら「お米」は取れません。(このような「お米」作りの難しさは、「お米」を作っておられる方に聞いてみるとよいでしょう。)私たちが毎日たべている「お米」は太陽や土、そして水や風といった、たくさんの自然の恵みのおかげで大きくなって、私たちが食べることができるのです。
 ですから、太陽の神さまや土の神さま、水の神さまや風の神さまに、「今年もたくさんのお米をつくっていただいてありがとうございます。」と感謝するのがこの新嘗祭(にいなめさい)というおまつりです。
十一月十五日
 七五三祭(しちごさんさい)
 三才の男の子と女の子。五才の男の子。七才の女の子がきれいな着物を着て、家族といっしょに神社におまいりして、これまでの子どもの成長を神さまに感謝し、これからも元気に成長することをお願いするおまつりです。
 七五三(しちごさん)は昔の日本の風習(長いあいだ伝わってきた行事)からできてきたもので、三才の「髪置‥かみおき」五才の「着袴‥はかまぎ」七才の「紐解‥ひもとき」のお祝いから七五三(しちごさん)の行事ができました。
 三才の「髪置=かみおき」は、男の子、女の子いっしょにする行事で、それまで剃っていた髪を、三才になると伸ばし始めたとされています。
 五才の「着袴‥はかまぎ」は、五才になると男の子は袴を着け始めたとされています。
 七才の「紐解‥ひもとき」は、それまでヒモで着ていた着物から、帯でしめる着物にかえたとされています。
 七五三をすませると、すんでいる町のみんなのなかまとして、みとめられるようになったといわれています。
十二月三十一日
 除夜秦(じょやさい)
「今年一年無事にすごさせてもらってありがとうございます。また来年も無事にすごすことができますように。」と神さまに感謝とお願いをするおまつりです。
 また、大祓・夏祭(おおばらい・なつまつり)から半年がたって、その間にたまった悪いモノを、紙の人形(人形)にうつして、きれいな心で新しい年をむかえられるようにおまつりもおこなわれます。

この稿は、神社のおまつり等について、小学生に説明した時に使用したものに、加筆したものです。

総代異動
魚屋町 坂本 三郎 退任
    坂本 京子 新任
元旗町 坂本  伸 退任
    金丸 和男 新任
東城内 吉田 正人 退任
    竹本 悌二 就任
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