唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第87号  平成15年10月1日発行
発行人 戸川 惟継
編集人 戸川 忠俊
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
夏まつり
 夏まつり・茅の輪くぐり神事を、毎年恒例の通り、七月二十九日午後七時から執り行いました。氏子の町々より総代様方と、氏子内外より約百名の参列のもと、大祓・茅の輪くぐり・夏まつりを執行しました。
 写真提供
 (本町・中川邦彦総代)

く ん ち の 噺
●幕洗い行事のこと
 夏の夜、外に出てみると、密かな存在感を保ちつつ、遠くの方から曳山囃子が聞こえてくることがあります。こうなると、立ち止まって耳を澄まし、何かと理由をつけて見に行きたくなるのか唐津っ子の性というものでしょうか?
 先代の宮司、戸川省吾は戦争中、兵役で久留米の連隊におりましたが、十月三十一日の休暇を無理して漸く帰省したくらい唐津くんちが大好きで、そのときのことを「唐津に帰ってきたらサイ、新聞ガミ(当時は出店で商品を包むのに新聞ガミを使用した。)のあっつぁんこっつぁん舞いよって、な〜んもなかった。」と話します。これこそ『あとの祭り』を体感したと言えるのではないでしょうか?また、今の宮司(昭和二十一年生まれ)によると、バナナを食べられたのは病気の時と運動会と唐津くんちのときだけだったそうです。戸川省吾の話によりますと、終戦直後は兵隊も復員してきて人は増えたが、闇市には残念ながら供日に出す料理を作る材料が置いてない。当然、香具師の人も売るものが無い。しかしながら「店は出されんが、せめて灯りでも」と明神小路に香具師の皆さんが、当時貴重だった電球による照明をともしてくれたそうです。
 当時、夜店の照明はカーバイト(アセチレンガスを使った灯明)でした。直径が約15cm?ぐらいで、高さが約20cm?ぐらいの円筒のブリキ缶で、その本体より上に管が出ており、その先が二つに別れて、しかもその別れた口が互いに向きあい、そこが火口で、まるいパラボラアンテナの小さい形をした反射鈑がついて、そのほかに執手やら、笠かフタのようなものがついていた容器の中に、カーバイトという薬品を入れ、それに水を加えたら、アセチレンガスが発生し、ガスが管を通って二つの口から吹き出す=シューッでもないしボーッでもないし、なにやらうれしい音をさせながら=ガスに火をともすと、これがまさしく、くんちの夜店の灯りと匂いでありました。そのカーバイトではない本物の灯りを奉納してもらったということです。
 閑話休題。さて、そもそも幕洗いという行事は、その昔、曳山が出来てから明治中期のころまでは、曳山は夫々の町内に曳山小屋(格納庫)があり、曳山はその中に「センギ」を下ろし、飾りの御道具類もすべて取り外し、道具箱に収めて、曳山にもスッポリ覆いを被せて来るべき供日を待っておりました。そして夏、供曰に備えて御道具類や修理箇所の点検を兼ねて、格納庫より曳山・御道具類を出して「土用干し」をしておりました。この時、曳山町内の多くは、曳山の飾り幕や、御旅所で使用する幕を、町田川に持って行って洗っておりました。
 「御旅所で使用する幕」というのは、引き込みのあと、御旅所に幕を張って賑やかに宴を催す時に使用したもので、『御旅所神幸図』にもその様子が描かれておりますし、今でも行われております。
 さて、洗ったそれらの幕が乾く間、町田川の土手で町内の若衆たちは、供日の話を肴にささやかな酒宴をしておりました。町によっては、その日の慰労を兼ねて夕刻より場所を変えて酒宴をしたり、中には舟遊びに興じる町もありました。
 今日でも、曳山清掃を済ませた町内は、町の若衆を中心に各町趣向を凝らして、賑々しく「幕洗い行事」を行っています。

 ●初供日のこと
  「初供日奉告祭」は毎年の唐津くんち行事の最初の正式行事になります。その昔、この日は外町供日と称され、大石大神社の神輿が松浦岩(今の松浦橋付近にあるロッテリアの辺り)まで渡御していました。内町でも曳山の試し曳きが行われ、この試し曳きは、勝手曳きであったために、イザコザが絶えなかったようです。
 自分の町内の山車に誇りを持つのは唐津の人だけではなく、あるところのお祭りでは、家並みを狭んで一つ向こう側の道を行く山車が町辻にきて、横丁からその山車が10cmでも見えたら、下がる下がらないで大喧嘩をするところがあるようです。しかも、話し合いがついた後は自分の山車を下がらせるのが嫌なのか、可能であれば無理やり山車を傾かせて、もう一方の山車から見えなくするとのこと…。
 昔、唐津でも勝手曳きを行うとこの手のイザコザが多く、直線の道で曳山がすれ違うことができない場合は、どちらの曳山が退避できる町辻・空地まで近いかを検尺で計測したりと厳しかったようです。
 さて、その勝手曳きも外町供日もいつの間にか無くなり、戦後に至っては何も行事がなくなりました。そこで、初供日の日に囃子を奉納することで、近づく供日の気分を高めると共に、町の元気が出るようにと出来たのが「初供日奉告祭」です。
 この行事を作ろうと考えたのは先々代の宮司、戸川健太郎です。この戸川健太郎という人間は、先に紹介した省吾に輪をかけて唐津くんちが大好きで、曳山囃子の笛を覚えたら、早速見借の笛作り名人に頼んで一本作ってもらって、初供日の時にも飛び入りで笛を吹いていたほどです。自分でもかなり上手くなったと思ったある日、曳山の塗り替え祝賀の折に実際動く曳山の上で笛を吹く機会があったそうです。その時、 「ヤマん揺れるけんが吹き辛かヤマん上で笛ば吹く町衆は流石。」又、後日「ヤマの笛は腰で吹くもんだ」ということを聞いて、得心しておったようです。また、健太郎の口癖は「ヤマん囃子にゃ楽譜んなかけん口で教えるしかなか」というものでした。ですから、事あるごとに「ヒー、ヒャヒャーン、こいが道囃子」と言っておりました。私は今でも、食事中、ふと思いついたかのように箸を笛代わりに口拍子で「ヒー、ヒャヒャーン、…ヒャヒャーン、ヒー」と楽しそうに演奏していた祖父のことを覚えています。

 余談が長くなりました。
本題に戻りたいと思います。

 その昔は、境内に舞台のようなものを設営して(今の拝殿に一番近い鳥居の階段下辺り)、そこで囃子を奉納していたようです。当時は各町とも笛を吹くのは四〜六人ぐらいのもので、境内での直会(なおらい・いわゆる酒宴)もなく、今のような賑やかさを想像することも出来なかったくらい小規模なものだったそうです。しかしながら、今でもあるような各町の出席を示す提灯の他に、各町の曳山の絵が描いてある行灯が境内に灯され、秋の夜長、囃子を奉納しておられたようです。
 この「初供日奉告祭」には「初供日の日が晴れたら、本番の供日には雨が降らない」というジンクスがあるそうで、去年は残念ながらこのジンクスが外れてしまいました。そもそも、舞台で奉納していたものを拝殿で奉納するようになったのは「雨のせい」といわれています。奉納するところを拝殿に移し、その後、何回か囃子の講習会が開催され、囃子人口が増加し、今日の隆盛を見るようになりました。今では拝殿に入りきれないほどの町衆・氏子の皆様と共に、盛大に行事は執り行われております。
唐 津 神 祭
十月九日 (木)
 ◎午後七時 初供日奉告祭
十月二十九日(水)
 ◎午前九時 神輿飾りの儀
   一ノ宮 平野町
   二ノ宮 新町
 ◎午前十一時 本殿祭
十一月二日(日)
 ◎午後七時三十分 宵曳山曳出
  各町万灯をともして社頭勢揃(午後十時頃〜)
十一月三日(月)
 ◎午前五時 神田獅子舞奉納
 ◎午前九時 発輿祭
 ◎午前九時三十分 ☆御神幸発輿(煙火五発合図 市内一巡)
 ◎正  午 御旅所祭
 ◎午後三時 還 御  ☆御神幸発輿(煙火五発合図 曳山は町内へ)
十一月四日(火)
 ◎午前十時三十分 翌日祭  曳山社頭勢揃の後曳出
 ◎午後二時三十分 米屋町通曳出
 ◎午後四時 江川町通曳出
 ◎午後五時頃 曳き納め
      (曳山展示場へ=煙火五発)(他はいづれも煙火三発合図)
十一月五日(水)
 ◎神輿納めの儀
  一ノ宮 江川町
  二ノ宮 本町
 ▼行事予定
☆唐津神祭は別掲
◆十月
   六日 くんち会議
◆十一月
   九日 新嘗祭(祭典のみ)
 下旬−支部の大麻頒布式
◆十二月
 上旬−神社大麻頒布式
 二十三日 天長祭
 三十一日 古神札焼納祭
      除夜祭
<平成十六年>
◆一月
   元旦 歳旦祭
   六日 新年祭
  十二日 成人祭
◆二月
   三日 節分祭
  十一目 建国祭
◆三月
 二十一日 春季皇霊祭
      神道家祖霊祭
毎月一日・十五日=月次祭

曳山塗替
 昨年の唐津神祭のすぐあとより塗替工事を始めた、御神宝第五番曳山・魚屋町「鯛」は、順調に工事が進み、このほど唐津へ帰って来て台車に取りつけ、最終工事の微調整をしています。
 近年は、関係者の努力で国・県・市よりの補助事業として行われることとなり、各種事務量は増加したものの、文化財としての保存技術・修復工事は監督官庁の指導助言を得て、旧来工法若しくは、旧来工法に近づけて工事が進められており、一番最初に出来た姿に近づいているのではと思います。
 今年こそ、晴天青空秋陽の中、赤塗も鮮やかな「鯛」が、軒先を悠然と泳ぐ雄姿が見られるものと、晴天を祈っているところです。
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