唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第84号  平成14年4月1日発行
発行人 戸川 惟継
編集人 戸川 忠俊
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
 慶祝
 皇太子殿下同妃殿下には平成五年六月九日に御成婚になられ、このたび内親王殿下がご生誕になられました。心よりお慶び申し上げます。
 内親王殿下の御称号と御名は、天皇陛下より宮内庁長官を経て、内親王殿下の御枕元に御名を記した「明記」が奉られ、敬宮愛子(としのみやあいこ)内親王殿下と命名されました。
 御命名に際しては、中国の古典『孟子』の中からお採りなったと承っています。『孟子』は、春秋時代(約二五〇〇年前)の思想家の孟子の言動や思想を、その弟子たちと共にまとめた書物で、『論語』などとともに「四書」の一つにも教えられ、我が国の歴史や文化にも影響を与えてきました。
 その書物は知らなくとも、著者の孟子に因んだ「孟母三遷」や「五十歩百歩」といった言葉は、ご存知の方も多いと思います。
 御称号と御名を決定するに際しては、両殿下のご意向を大変尊重されたそうです。私たちは「仁者は人を愛し、礼を修むる者は人を敬うものである」とするこの御名の意味にあやかって、 「敬愛」の心を大切にしてゆきたいものです。
 四書=大学・中庸・論語・孟子という書物のことで、儒教の基本文献ともなったものです。

◎佐賀県神社庁と佐賀県神社総代会では、神社本庁との共催で、去る三月二十四日に、佐賀市で奉祝の旗行列と講演会をしました。約八百名が参加しました。

 辞令
 ◎禰宜補命
 唐津市南城内四−六三
       戸川 忠俊
 唐津市南城内三−十三
 唐津神社禰宜に任ず
  平成十四年四月一日   神社本庁
雨の教訓   宮司 戸川惟継
 今年の春は、例年より約二週間も早くて彼岸の頃に桜の開花が聞かれました。地球の温暖化というには、いささか言いすぎかも知れませんが、天変地異の前兆ではないかと少々不安になります。
 さて間もなく春祭です。昨年の春祭は、小雨の中でしたので曳山社頭勢揃が出来ずに、少し勢いを欠いた祭りとなりました。春祭は、祈年祭とも言い、日本人の主食である「米」の順調なる生育を願い、合わせてその霊力をいただいて、諸業の安全、隆昌への祈りと言えます。その祭礼での雨でしたので、慈雨に通じる吉兆であったのでしょうが、祭礼の勢いから言いますと残念な雨でした。この春の慈雨が、秋の神幸祭につながらなければと思いました。
 神道の理念は「何事も自然との調和の中に」ですので、雨には雨に相応しい、晴天には晴天に合わせて祭礼祭儀を奉仕できてこそ、神道の本義なりと感じつつ春祭を納めました。
 春の慈雨のせいもあってか、昨年の神幸祭は昭和八年の雨の神幸祭以来の大雨となりました。と言いましても、宵曳山は降雨を心配しつつも、雨を感じることなく盛大に社頭勢揃(その後の降雨を心配して、曳山は全町とも曳山展示場に納める。)ができましたし、十一月四日の翌日祭は、好天に恵まれ、昨日の雨の神幸祭の元気も手伝って、大変な勢いでした。
 さて、宵曳山曳き納めの後、彰敬館に曳山役員が参集し、明日の神幸祭の挙否について協議がありました。その内容は、先ず最悪の場合を想定し、いつ・どこで・どういう方法で神幸を進めるか?中断するか?ということでした。そのほかのことは随時判断しようということでした。その際、神社(神輿)の出御についてのことが問われました。最悪の場合神社としては、『神輿は、大手口まで神幸し、それよりただちに神社へ引き返し、そのまま拝殿に納め、神社拝殿で唐津神祭神幸祭(お旅所祭)を斎行します。これが通例であります。』と伝えました。曳山役員の方々も、そのように伝え聞いている等の発言があり了承されました。更にこのことに応えて特に刀町より発言があり、『その場合、刀町曳山は、神輿を先導供奉し大手口に至りて、再び神社へ戻るのが刀町一番曳山の通例である』と伝えられました。一同感激のうちに了解されました。伝統の重みを有難く感じつつ、非常時における神幸の挙否を確認しました。
 明けて十一月三日は、早朝(午前五時)の獅子舞奉納(神田区青年団の奉仕=この年は久しぶりに団員が増加し、勢いのある獅子舞の奉納でした。)から、午前七時の一報の火矢の頃までは、神幸可能なりを思わせる空模様でした。その後ボツリボツリと感じるようになりました。定刻午前九時の発輿祭−これなら神事可能ということを感じながら祭典は進行しました。午前九時三十分の発輿で神幸が始まりました。神輿が大手口を巡行している頃から弱い雨足を感じるようになりました。やがて、第一休憩地点(一の宮神輿=礼の辻橋西側手前付近)に達した頃には、このままでは本降りになるという雨足でしたが、見上る空はまだ明るくて、もしかしたら通り雨かという気もしました。小雨の中、材木町を東進し、第二休憩地点=一の宮神輿=旧・日之出館前付近)に達した時は、神輿伴揃・総代も簡易雨具を着用し、雨宿りが必要な雨となっていました。でもまだ空は明るく雨足は弱まるかもと少し期待しつつ神幸は進行し、水主町通りから、第三休憩地(一の宮神輿=大石町の福島善三郎氏後援会事務所前付近)に到着し、各員雨宿りしつつ小休止に入った時、神幸中断の旨伝達がありました。これよりは神幸巡路に従い、途中第四休憩地点=一の宮神輿=中町サンタマキ前付近での小休止は省略し、東へ右折する材木町曳山を見送りつつ、眼前には競り囃子で待機している中町曳山に見送られながら、大雨の中、大手口から明神小路を経て神社へ還御しました。時に午前十一時二十分頃だったと思います。
 さて、大石町通りで神幸神事の中断の報を受け、先ず御旅所の準備隊へ連絡しました。「神事は中断したので御旅所へは行かない。御旅所祭は神社で斎行する。直会は、彰敬館で」等々と連絡しました。御旅所準備隊は、午前十時頃に御旅所へ至り、御旅祭の諸準備をしていた最中に、先導車輌の案内放送で御神事の中断を知り、連絡がとれた時はすでに撤収作業中であったそうです。神社への道中、神輿伴揃の神田区の方々から、神社着御後すぐに神輿を拭くので、しかるべく用意されたしと申し入れがあり、電話でその旨連絡しました。着御後、神輿はすぐにきれいに拭き清められましたので、恒例により直ちに御旅所祭ということになるわけですが、祭典準備はすぐに整わず、あるべきものが見つからず、種々不具合・不ぞろいがあって、社殿は大混乱状態でした。しかし短時間のうちに正常に機能し始めました。この時は、携帯電話の威力・便利さを有難く感じました。
 拝殿での御旅所祭は例年の参列者に伝達が行き届かずでありましたが、厳粛に祭典を斎行することができました。その後、各町曳山のことであちこち連絡調整中だった曳山幹部も、神社へ集合し、恒例の曳山参拝の儀を執り行い、例年通りの神幸祭の諸儀を大雨の中執り納めました。
 引き続き彰敬館で直会の儀ですが、伴揃・曳山・総代の三者がそれぞれに直合を始めました。雨でズブ濡れで皆大変だった筈ですが、気がつけば着衣は何んとなく半乾きになっているくらい、それぞれが一生懸命に雨儀の事に当たっていたということを、改めて実感しました。
 その後、神職だけで社頭奉務の儀を納めて、通常の神幸祭の状態に復しましたが、いかんせん大雨のために常ならざることばかりで、彰敬館・社頭・自宅を行き来しつつ、何をどのようにしたら良いのか、とまどいつつ夕刻までを過しました。夕刻になりますと、やっと平常心と言いますか、明日のこと、平常の社頭のことを考えるだけの余裕ができたようです。
 それにしましても、昭和八年以来という昨年の大雨の神幸祭でしたが、時間や人員等に多少のズレがありましたものの、例年にさして変わることなく、祭典請儀を執行し、また次の年へくんちの歴史をつなぐことができましたことは、曳山、曳子、総代、伴揃、出店、そして参拝者を始め、各関係要路の方々の臨機応変の対応によるものと感謝申し上げますとともに、伝統・歴史の重みを有難く再認識しているところです。
 非常時に於ける神祭の遂行に、有難い教訓であったと思っています。このことに関して、曳山各町の曳山関係者(正・副・若者頭等)より、曳山の神幸中断の時の対応について、いっぱい報告書を頂きました。別稿で、中町からの報告書を掲載します。又、次号以降に各町の報告書を掲載して、平成十三年雨の神幸祭の記録とします。
 この報告書の中で、これまでのくんちは、自分達のくんちという曳子の姿が一般的でしたが、観光客等にも配慮があることが、明確になりました。現状を見れば当然とも言えますが、くんちを大事にする意気込みの中に、第三者をも見据えているということは、くんちの発展に新しい力になるものと感じています。
 ついでながら記しておきますと、十一月五日は神輿納め儀を斎行しました。拝殿前で、一の宮・二の宮それぞれの総行司町より、次の総行司町へ受取渡しの書類を確認し、殿内で神輿の御道具類の員数確認をし、清掃しました。そして西側の神輿庫へ神輿を納めようとしたその項から、雨が降り始めました。庫より覆いを殿内に持って来て、神輿に殿内で覆をかけて庫へ移動しましたが、くんちの残り雨かなんかのか、ドシャ降りの大雨の中の神輿納め儀でした。総行司町の人達は、それこそビショ濡れで御奉務いただきました。感謝申し上げます。
からつくんちの雨
   
中町曳山の一日       中町副取締 平山博久
 前日十一月二日の宵山巡行途中で翌日の天気を確認したところ見事に雨。本部からの指示により曳山を展示場に入れる事となったが、この時点ではまだ翌日に曳き込みが、中止になる事など頭の片隅にもなく、翌日、はじめから元気よく曳き出せるように、との考えから曳山を通常とは反対向きに納める事とした。その後、片付けをすませ、中正会(若者)は、恒例により、中町のうどん屋「角兵」に場所を移し、蒲鉾やうどんをつまみに宵山の反省会と称した飲み会を行い、午前二時頃まで酒を酌み交わす。一旦解散はしたものの当日の天気が気になる面々は天気予報をつまみにもう一杯、降水確率の変動に一喜一憂しながら時をすごし、結局、全員が床についたのは午前四時前だった。当日朝、目を覚ました時点での空模様は曇り。何とか曳山を曳けそうな雰囲気だった。若衆は、「少しでも曳山を曳きたい」との一心から早々と準備を済ませ、展示場にて本部からの指示を待つ。午前九時前、決行の知らせを受け、赤獅子移動の後に青獅子を定位置に移動し、小林正取締と共に本殿での神事に向かう。神事を終え、青獅子前に到着したころには少量ではあるが雨が降り出していた。しかし、定刻どおり赤獅子に引き続き神社参道を出発。この時点では皆、曳山を曳けた喜びで一杯だった。神社参道から大手口を走り抜け材木町にて休憩。まだ雨は小雨程度であった。このとき警察無線により、大石町での休憩時に会議をして最終決定を行う、旨を知る。翌日の事も考え、全員肉襦袢を脱がせ、もろ肌とし雨に備えて、材木町を出発。
 宮島のヘアピンカープも、いつも通りに走り抜け大石町の藤井内科前の定位置に青獅子を止めて裁定を待つ。出発時間の三分程前に警察無線により、お旅所曳き込み中止、の報を聞く。その時点で取締との協議開始。まずは、そのまま展示場にいれるか、京町アーケードにお世話になるのか二者択一だった。結論はくんちの雰囲気を大切にしたいとの思いから京町にお世話になるとの事で一致。残りは方法論だった。ここで浮上したのが、直接京町アーケードに入れるという案と、一旦中町通りを通過して青獅子を定位置に据え、後続の曳山が通過するのを待って京町へ戻すという二案だった。曳山のことだけを考えるならば当然前者を選択すべきであるが、曳子の雰囲気や若者の心意気を考えるとそう簡単にはいかなかった。そんな中、二人が後者を選択するのに時間はかからなかった。「一年に一回の事、一時間濡らすも一時間二十分濡らすも一緒。曳子の心が大事。後でしっかり手入れをしよう」と言うのが共通の意見だった。その事を中正会幹部と二番組(カジ棒)に説明、意見を統一して大石町を出発。残りは中町牟田商店横までの短い区間であったが、十一月三日の全てをそこに集中させ普段より元気よく青獅子を動かした。牟田商店横の定位置に青獅子をえた後は、曳山を最期まで曳けなかったウップンを晴らすかのように囃子を止めることなく最期の江川町が通り過ぎるまで雨の中を全員一丸となって競り続けた。問題はこの後であった。中町は今年から浜弁当を計画していた。京町アーケードに青獅子を納めた後、解散してもよいが、準備していた料理をどうするかが最大の問題となってしまった。そんな時一つの案が浮かび上がった、「青獅子の前で弁当を食べる」との事だった。
 しかし、京町が承諾してくれるかが問題。すぐに小林取締が京町古賀取締のもとへ承諾を受けに走られ快諾を得られた。こうなったらとことんやるしかない。「最大限に雨のくんちを楽しもう」これを合言葉とし、牟田商店横から京町アーケードまでを全員一丸となり威勢良く走り抜け、午前十一時前に西日本銀行横の所定の位置に青獅子を納める。曳山を止めた後、小林取締と共に迷惑をかける旨挨拶をしてまわり近所の理解を得る。その間もウップンのたまった若手曳子たちは囃子を止める様子も無く、勢いそのままに競りつづけた。
 周りには、雨で行き場を失った観光客も多数訪れごった返した。一時間ほど経過した十一時五十分頃、京町の若頭吉富氏より「そろそろ止めてもいい時間では?」とクレームが入ったが 「まだ、曳込みが終わっていない時間だ」と何とも訳のわからない言い訳をしながら、とりあえず曳込み時刻の十二時十分をめどに囃子を止める約束をし、その場をしのいだ。結局は約束の時間を五分ほどオーバーし十二時十五分囃子を止め、青獅子手入れ班と弁当準備堆の二手に分かれ昼食の準備に移る。昼食の準備には、町内でおくんちをしない家庭より奥さん達も五〜六人手伝いに来て頂きスムーズに準備も完了。座には、おでんに卵焼き・から揚げ・おにぎり・刺身などが並び、全員が曳山正装のままで座につく、観光客にとってはその光景も珍しいらしく、遠めに眺めたり、カメラに収めたりと、周囲は再度人だかりとなってしまった。当初は、道路上で、しかも人前での食事ということで照れもあったが酔うほどにそれも忘れ、通りがかりの知人や見物客を招き入れ、酒やおでん等を振舞い、しだいに打ち解けて行った。そんな折、先程クレームを付けられた、京町吉富氏が通りかかられる姿を発見。当然のごとくある作戦に打って出た。吉富氏をゴザの中心に招き入れ次々に酒をさし接待攻撃を仕掛け、とうとう囃子の再開を承諾させてしまった。その言葉さえ聞けばこっちのものである。
 午後三時、曳き出しの時間になると同時に雨で濡れた青獅子の再度の手入れと鉢巻の巻き変えに加え、同時進行で一旦家に戻った青獅子会(中町の獅子の会)の子供たちを呼び寄せ囃子再開の準備をする午後四時前青獅子の手入れを終え、全員が元の座に戻ったのを見計らい、まずはタテヤマ囃子を奏でながら風流に酒を酌み交わす。曳山の前で座をくみ、囃子を肴に酒を酌み交わす。しかも曳山正装。唐津っ子にとっては至福の時間である。この時も、囃子の音を聞きつけた観光客で周囲はまた人だかりとなっていた。嗽子が道囃子からセリ囃子へと移るころには全員が興奮状態。酒が多めに入っていたせいもあってか 「エンヤー・エンヤー」の大合唱となり、観光客を巻き込んでの競りはとどまるところを知らなかった。結局、囃子を止めたのが午後五時二十分。普段の十一月三日の終了時間と変わらなかった。その後は、恒例のおくんち同様に町回りをし、雨のくんちは、雨のくんちなりに恙無く有意義に過ごす事が出来た。これも、勇気ある判断と決断をし、また我々中正会を温かく見守り、ご指導頂いた小林取締のおかげと深く感謝するとともに、長時間のアーケード占有に理解を示して頂いた京町区の皆様の唐津っ子ならではの心意気に深甚なる感謝の意を表す次第です。
最期になりますが、益々の唐津神祭の発展と興隆を祈念致しまして平成十三年十一月三日の報告とさせて頂きます。
春季例大祭
4月29日(みどりの日・祝日)
午前11時30分執行

奉納神賑行事
曳山社頭勢揃・池坊生花・浦安の舞

 行事予定
四月
 二十九日 春季例大祭
五月
 七日〜九日
  九州各県神社庁連合会 神職総会 (於・沖縄県)
六月
 初旬 伊勢神宮  協議員会議
 中旬 総代研修会
七月
  一日 海開式
 二十九日 夏祭  茅の輪神事
八月
 三十一日 海閉式
九月
 中旬 神社庁・総代会 合同研修会

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