唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第76号  平成10年4月1日発行
発行人 戸川 省吾
編集人 戸川 惟継
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
春季例大祭
5月5日(火)午前11時30分執行
奉納行事
浦安の舞・曳山勢揃・池坊生花
 春 祭
 春祭は祈年祭とも言われ、その年の始めに、農・漁・商・工等のあらゆる産業の発展を祈る祭典です。
 上古より今日に至るまで人間にとって不変の祈りは、「食」であります。ですから春の祭りは、穀物の安全な豊かな稔りを祈ることが根底にあり、そのことは又、神代につながる重要な儀式でもあります。即ち、稲(いのちのね)を育てることは、神代に習う手法であり、神の宿る稲を食し、人間としての生命を神からいただき、商・工等諸産業の興隆を図り、人間社会の安穏を祈り…という神話の世界そのままの姿がそこにあります。
 さて、唐津神社の春祭りは、元来四月二十九日でしたが(旧暦の関係で前後していた時期がある。)、唐津城完成(昭和四十一年)の後『唐津城まつり』が開催されることになり、日時変更の申し入れがあり、現在の祭日になりました。
 唐津城まつりは当初、五月三・四・五日の三日間、唐津城を中心として、パレード等もあり、大変な賑わいが続きました。それが四・五日の二日間になり、更に五日だけになり、とうとう城まつりは消滅してしまい、春まつりだけが、とりのこされてしまいました。
 祭りの本義に復せという神意かも知れません。種々考えねばと思っています。

 総代異動
東城内 市丸  徹 就任
坊主町 草湯 治義 帰幽
名誉総代
    吉田 仁一  帰幽
刀 町 浦田  巌 退任
 
 
   曳山役員異動  
  ◎退任
中町 正取締 水田 彰男
 〃 副取締 前川 和敏
材木町正取締 市丸 昌哉
 〃 副取締 上野 光国
京町 副取締 山本 雄三
◎就任
中町 正取締 小林 敏樹
 〃 副取締 藤川 一雅
材木町正取締 上野 光国
 〃 副取締 浦田 利夫
魚屋町副取締 青木 浩彦
京町 副取締 大塚 喜隆
 

神祭今昔譚B 

 神幸順路
 唐津神祭は、伝統的なものを守りながらも、時代時代の変化・発展と共に、少しづつ変化しながら今日に至っています。特に神幸の順路は、神祭の根幹をなす重要なものですが、道路事情等のために、修正・変更を繰り返しつつ、しかも祭礼の本質を失うことなく、現在のように曳き続けられています。
 前号で、藩政時代(江戸時代)からの曳山社頭勢揃と社頭曳出しについて、順路・場所等を紹介しましたので、今回は、それから先の町々での神幸順路を紹介します。と申しましても、時代的には相当前後していたり、一時的なものかどうか等々判然としない部分も多々あります。
 神幸順路を現順路に従って、(T、東廻り・U、中廻り・V、西廻り) と三分割して話を進めることにします。又、大まかな時代区分として大昔、少し昔、近年としました。文中、西進東進とか右折左折は、すべて曳山の進行方向です。

 
大昔のころ
  
T、東廻り
 町田川を境に、唐津城下町を東西につなぐ橋は、札の辻橋だけしかなく、新大橋は未だ無い頃。
◎大手口→八軒町(大手通り=左側は唐津城の堀(濠)で、柳堀と呼ばれていた。右側に八軒ほどの民家があり、このため八軒町と呼ばれていたようだ。)→本町通へ右折(南進)→京町通・札辻橋方面へ左折(東進)→札辻橋渡橋→魚屋町→大石町→水主町→宮島醤油先のX字を左大曲(西進)→材木町通→塩屋町(旧・通称=浦島通り)へ左折(南進)→魚屋町通へ右折(西進)→札辻橋渡橋→京町(西進)へ神幸。

  
U、中廻り
◎京町通(今の京町アーケード街・西進)→紺屋町→平野町→新町通へ右折(北進)→浄泰寺前(ここは、唐津城下と西地区−名護屋方面−とをつなぐ交通の要衡で、名護屋口御門があり、神祭の時は、ここの広場を中心にして、サーカス、出店があり大賑いだった。ここから近松寺方面へは階段があり、神祭の時はこの石段に土嚢を積んで曳山道を作った。)を左折(西進)→近松寺前角右折(北進)→坊主町通(北進)へ進み、神幸祭日はお旅所へ、翌日祭日は江川町へ神幸していた。この頃国道二〇四号線(市役所前→西行→朝日町通り)はまだ開通していない。又、済生会病院前から朝日町通りへの道も開通していなかった。

  
V、西廻り
◎@神幸祭
 坊主町通(北進)→西浜のお旅所へ(この頃、西浜お旅所の周辺は民家等は全く無く、大砂原であった。最初の三台(刀町・中町・材木町)は曳込競争をしていたようだ。お旅所での休憩は、各町それぞれに砂浜に幕を張り、曳山行列絵図にあるように『浜弁当』のお篭りをしていた。)
 さて、休憩の後、西の浜お旅所曳出→砂山の上にあった明神台(このことは次号へ)の西側真下を通り、今の福本税理士事務所前の通りを(南進)→江川町中央付近の変則五叉路より左折(東進)→江川町→坊主町通へ右折(南進)→近松寺角左折(東進)→浄泰寺前→各町へ帰る。神輿は大手口より大手門を経て神社へ帰る。(尚、お旅所から各町へ帰る時は、提灯曳山で曳いた。)
 ◎翌日祭
 お旅所へは行かず、坊主町角左折(西進)→江川町中央付近五叉路の道路上で大回転をし、後向きで藤生酒店方面の江川町西詰角まで一番曳山が西進し、二番曳山以降も、順次後ろ向きで(西進)=休憩=建制逆順で町内へ帰る。(この順路説明の概要は、田中冨三郎氏談を参考にした。)

 
少し昔のころ
 新大橋開通・国道二〇四号線(市役所前−朝日町方面へ)開通・富士見町通(通称−産業道路)開通・済生会病院前通り開通(産業道路と国道二〇四号線の朝日町との連絡道路)等々

  
T、東廻り
 大手口→大手通(東進)→新大橋渡橋→材木町(東進)→宮島醤油の先のX字角右大曲(西進)→水主町→大石町→魚屋町(西進)→札辻橋渡橋→
 というように、現在の順幸順路になった。
 尚、しばらくの間、宮島広場(宮島醤油の駐車場)を大曲りしていた時代が続いたが、旧来に復している。

  
U、中廻り
 札辻橋渡橋→京町(西進)→紺屋町→平野町(西進)→新町へ右折(北進)→浄泰寺前角右折(東進)→刀町通(東進)→大手口広場左大曲→国道二〇四号線(西進)…

  
V、西廻り
 国道二〇四号線坊主町角を右折(北進)→
 @神幸祭
 →西の浜(お旅所)へ曳込み。(この頃より浜には建物が建ち始めている。)
休憩の後=お旅所曳出し→明神台砂山の真下(斜め南進)現在の福本税理士事務所前通(南進)↓江川町五叉路左折(東進)→江川町(東進)坊主町へ右折(南進)→国道二〇四号線へ左折(東進)→大手口→各町へ帰る。
 その後、済生会−朝日町道路開通により、江川町五叉路を右折(西進)→江川町西詰角を朝日町方面へ左折(南進)→国道二〇四号線へ左折(東進)→朝日町通(東進)→大手口から各町へ帰るとなった。
 又、富士見町通開通の後数年間は、何台かの曳山が砂場に入るだけで、あとの曳山は道路上に据曳山だったこともある。
 更には、富士見通開通及び、砂山上の明神台移転等により、お旅所から江川町五叉路への神幸が不可能となり、 お旅所曳出→富士見町(通称・産業道路へ(西進)→西浜町入口角左折(南進)→済生会病院前通りを南進し→江川町西詰角左折(東進)→江川町(東進)→坊主町角右折(南進)→この時、田辺産婦人科病院前を通る曳山もあった。→国道二〇四号線へ左折(東進)→大手口→各町へ帰る。
 この頃、西浜町入口両角には、町内より大幟一対が建てられていた。又、神田区入口にも区より大幟一対が建てられている。
 翌日祭
 現・坊主町郵便局角左折(西進)→江川町(西進)=江川町西通で休憩=曳出→江川町西詰角左折(南進)→国道二〇四号線へ左折(東進)→朝日町通(東進)→坊主町信号機直進→大手口→各町へ帰る。

 
近 年
 大手口ネオン・京町アーケード・同カラー舗装・歩道橋・猫川架橋等々
 大手口に、広告ネオンサインが建設されることとなり、曳山通行に支障なきやと種々検討されたが、関係者の協議が整い、神幸に支障なきようになった。

  
T、東廻り
 現在とほとんど同じ。宮島醤油先のX字角大曲が、しばらくは、宮島醤油広場(駐車場)U字型右大曲となっていたが、近年再び、旧来の、X字角大曲に復している。

  
U、中廻り
 呉服町に続いて、京町にアーケードが建設されるにより、京町通の曳山通行が不可能になった。
 札辻橋→京町から町田方面への角左折(南進)→唐津駅前→平野町へ左折(西進)→新町へ右折(北進)→この先は、現在の通り。
 さて、猫川上に橋状が建設され、中町とつながったので現在のように、
 町田方面へ(南進)→京町方面へ右折(西進)→中央交番前通過→中町へ右折(北進)→中町通→中町北詰角左折(西進)→大手通→刀町→米屋町へ左折(南進)→米屋町→平野町へ右折(西進)→新町へ右折(北進)→浄泰寺前角右折(東進)→刀町(米屋町への角まで)=ここで、全曳山の米屋町入りの後、再曳出→刀町(東進)→大手口広場左大曲(西進)→国道二〇四号線(西進)となった。
 尚、京町通り、カラー舗装により、路盤維持のため初年だけ通行出来ず、札の辻橋→京町→本町へ右折(北進)→大手通りへ左折(西進)→現在のようにした年があった。

  
V、西廻り
 国道二〇四号線→坊主町へ右折(北進)→
 @神幸祭
 西の浜お旅所曳込み(休憩)の後、曳出。
 大成小児童のためを主目的として、歩道橋が建設された。曳山の高さだけの空間がなく、曳出し後、富士見町→西浜町入口→への神幸が不可能となった。
 曳出→産業道路へ左折(東進)→直近の角を坊主町へ右折(南進)→坊主町郵便局角右折(西進)→江川町(西進)→江川町西詰角左折(南進)→国道二〇四号線へ(東進)→坊主町信号機直進(東進)→大手口→各町へという、現在の神幸順路になった。

 ◎翌日祭
 国道二〇四号線を坊主町へ右折(北進)→坊主町郵便局角左折(西進)→江川町(西進)=休憩=曳出→神幸祭と同じ神幸順路で大手口へ。
 さて、昔は各町内にそれぞれ曳山小屋があり、大手口より、曳山は各町へ帰っていた。しかし、種々の事情で統一曳山小屋、さらには、現在の曳山展示場が建設されて、曳山が各町へ帰るのは、神祭前日(宵曳山出発まで)と、神祭当日の夕刻〜翌朝までとなり、翌日祭の夕刻の、曳山展示場への曳山の曳き納めで、唐津神祭の全ての曳山行事が終了する。
 このように、神幸順路は時代の変化や町の発展を見届けながら、少しづつ変化してきています。しかし、その中でも変わらぬものがあります。それは、曳山十四ケ町(総行司町であれば十六ケ町)の町々を、いずれかの方法でではありますが、すべて神幸するということと、西の浜お族所への神幸があるという二点です。
 これからも、神幸祭の本質を大事に守りながら、唐津の人々の心意気を唐津神祭に託して守り伝えて参ります。
 行 事 予 定
四月
  二十日 寿社祭
五月
   五日 春季例大祭
  十四日 神社関係者大会(祐徳神社)
六月
   中旬 総代研修会
七月
  一日 海開式
 二十九日 夏祭
      茅の輪神事
八月
 三十一日 海閉式
九月
   中旬 合同研修会
 二十三日 秋季皇霊祭
◎毎月一日・十五日
       月次祭
社務日誌
 自 平成九年十月一日
 至 平成十年三月三十一日
 【十月】三日−山口県北方八幡宮総代会参拝・五日−本町曳山百五拾年祭及び塗替完成奉告祭・合同茶会(唐津新聞社主催)・六日−唐津神祭神幸路下検分・九日−初供日奉告祭・十一日−刀町曳子説明会・十二日−立正佼成会お会式出発祭・十三日−唐津神祭関係者会議(市民会館四F)・十五日−神祭露店受付・十七日−曳山総会・拝殿大階段取替工事始祭・二十日−遺族会慰霊祭(虹の松原)・二十三日−神祭臨時灯取付工事・中町曳子説明会・二十四日−神祭挨拶廻り・二十六日−西旗町天神祭・二十九日−本殿祭
 【十一月】二、三、四日−唐津神祭・五日−神輿納め・六日−大分地区コンビナート会参拝・十日−新嘗祭・十一日−くんち仕舞祝(商工会館)・十五日−七五三祭・十九日−刀町恵比須神影像清祓・佐賀県神社庁で神殿例祭・二十一日−くんち仕舞祝(署)・二十二−熊野原神社新嘗祭・二十三日−筑紫旅行社参拝・和多田天満宮新嘗祭 【十二月】 四日−支部大麻頒布式・五日−唐津神社大麻頒布式・六日−正月用鈴取付・十五日−満島八幡宮月次祭・明神ビル会議・十八日−中町粟島神社社頭大整理・二十七日−門松等飾り付完了・三十一日−除夜祭
 【一月】一日−歳旦祭・三日−元始祭・六日−新年祭・七日−天満宮追儺祭・十日−恵比須祭・十三日−新春三社詣(筑後方面−神社庁、神青会共催)・十五日−成人祭・十九日−彰敬館屋根替工事奉告祭・十九日〜二十日−廿日恵比須祭(大手口広場)・二十三日−神社庁初寄・二十五日−東西松浦駅伝・二十六日−文化財防火デー(曳山展示場等で防火演習)・三十一日−神社庁三支部合同会議
 【二月】三日−節分祭・七日−京町恵比須祭(鎮座祭)・十一日−紀元祭、湊疫神宮祭・十六日−本町稲荷参道改修工事祭・二十日−彰敬館屋根工事完了・二十二日−能野原神社祈年祭・二十三日−小倉北区まちつくり会参拝・二十四日−熊本県人吉市青井阿蘇神社、王宮神社総代参拝・二十五日−北茂安町白石神社総代参拝・二十六日−彰敬館屋根工事竣工奉告祭・二十八日−初午祭
 【三月】一日−支部総会・四日−曳山委員長会議・六日−旧針供養祭・十八日−総代会・二十一日−彼岸祭、神道家祖霊祭・二十二目−天満宮祭、満島八幡宮百手祭・二十七日−熊本文化サークル参拝

 曳山情報
   出動予定
 @唐津神社春季例大祭−恒例により、五月五日午前十時〜午後三時を予定。
 A五月十日−朝日写真団撮影につき、一台出動予定。
 B十月十八日(日)−第十三回国民文化祭おおいた大会に、佐賀県代表として一台出動予定。現在、第三番曳山材木町「浦島と亀」を主として協議が進められている。

   諸会議
 @臨時総会−四月一日
 A全国屋台山鉾連合会博多総会−七月十二日(日)於・キャナルシティー

 神社庁情報
 神社関係者大会…佐賀県神社庁主催の平成十年度佐賀県神社関係者大会は、五月十四日に鹿島市の祐徳稲
荷神社参集殿で開催される。県内各神社の宮司・総代合計約五百名が参加する。
 支部総会…去る三月一日に支部総会が開催され、予算・決算及び、改選期に当り役員改選と年間計画が承認された。
 ◎佐賀県神社庁
唐津市地区支部
支部長  八島 弘直 唐津天満宮宮司
副支部長 鳥越 友彦 湊疫神官宮司
 ◎佐賀県神社総代会
   唐津市地区支部
支部長  宮崎  晃 唐津神社総代
副支部長 瀬川 金馬 熊野原神社総代
 尚、佐賀県神社庁唐津市地区支部は、唐津市のうち旧鏡村、久里村の全部と、鬼塚村のうち和多田地区を除いた地域の中で、神社本庁が認める神社(幣帛料奉納十七神社と各地区の産土神社約二十五神社)で構成されている。
 又、東松浦西地区支部があり、上場四町内の神社で構成されており、東松浦東地区支部は、三町二村と旧鬼塚村の和多田地区を除いた地区と、旧鏡村・久里村内の神社で構成されている。
 このような支部構成になったのは、支部設立頃の奉務神主の奉務範囲にも起因しているが、神社維持運営方法の類似型によるものである。

改 修 工 事
  
@彰敬館大屋根
 社務所(彰敬館)の大屋根の瓦の全面葺替工事を、一月中旬より約一ケ月間の工期で施行しました。彰敬館は、大正十二年に建築され、それ以来七十五年間の今日でも、唐津神社社務所として、社務全般の主たる事務取扱い所を始め、祭典時は斎館及び直会殿として、又、神社庁・総代会の支部の事務所として、更には、昭和十五年以降に現在の唐津曳山取締会が改組設立されてからは、本部事務所の所在地点として等々の役目を果たしつつ今日に至っております。
 中でも、現在のような市民会館や公民館等が無かった頃は、市内唯一の公共的会議場として、或いは婚礼の披露宴会場としても、多くの方々に利用されてきました。
 このところ、雨漏りがひどく、数ケ所にも及び、少々の小修繕では対応できなくなりましたので、屋根瓦の全面葺替工事をしました。一月中旬〜二月下旬という厳寒の時期でしたが、無事完了しました。
 ◎拝殿大階段
 先の彰敬館大屋根工事は、今年になってからのことですが、これより先、昨年秋口には、神祭に間に合うように、拝殿入口の大階段の修繕(改装)をしました。
 現在の社殿は、昭和十三年の建築ですから、建築後六十年になります。内部の傷みはそれはどでもありませんが、大階段は雨ざらし日ざらしの状態ですので、近年急に傷みが激しくなりました。建築当初の木材はタブの木だそうで、大きな丸太を原木のまま、二頭曳きの馬車が、唐津駅より、ようやく作業所に運び込んで製材したという大板です。
 丁度適当な材量が見つかりましたので、昨年の神祭前に工事をしました。

境内社の祭り
  ◎廿日恵比須祭
 廿日恵比須(はつかえびす)神社の例祭日は、一月十九日二一十日です。境内に社殿が完成してから、約十年間境内で祭典が行われていましたが、大手口広場が整備されましたので、町々の振興をとの願いも込めて、大手口広場で盛大に執行されました。
  ◎初午祭
 境内には、稲荷神社が三社鎮座しています。火伏稲荷神社・白飛稲荷神社・白玉稲荷神社の三社です。旧暦二月の初午の日(稲荷大神が京都三峰=伏見=に降臨になった日)が例祭日で、今年は、二月二十八日の初午大祭でした。
 境内のほか、舞鶴公園・江戸町・弓鷹町にも稲荷神社が祀られていますし、各家庭の初午祭もあります。
  ◎天神祭
 鳥居天満宮の例祭で、本来は旧二月二十五日(御祭神・菅原道真公の縁日)が例祭日ですが、約一ケ月遅れの新暦に改め、尚、近くの日曜ということで、本年は三月二十二日に執り行われました。

 このあと、寿社祭、水天宮祭、粟島祭、秋の天神祭と続きます。

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