唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第73号  平成8年10月1日発行
発行人 戸川 省吾
編集人 戸川 惟継
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
  大  祓  詞(おおはらへのことば)
高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以ちて  八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命は 豊葦原水穂国を安国と平けく知ろし食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りし国中に 荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし磐根 樹根立 草の片葉をも語止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき 此く依さし奉りし四方の国中と 大倭日高見国を安国と定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭 日の御蔭と隠り坐して 安国と平けく知ろし食さむ国中に成り出でむ天の益人等が 過ち犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 国つ罪 許許太久の罪出でむ 此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打ち切り 末打ち断ちて 千座の置座に置き足らはして天つ菅麻を本刈り断ち 末刈り切りて 八針に取り辟きて 天つ祝詞の太祝詞事を宣れ此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ 国つ神は高山の末 短山の末に上り坐して高山の伊褒理 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く朝の御霧 夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津邉に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く遣る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ速川の瀬に坐す瀬織津比賣と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根国 底国に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根国 底国に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を  天つ神 国つ神八百萬神等共に  聞こし食せと白す

唐 津 神 祭
十月九日 (水)
 ◎午後七時 初供日奉告祭
十月二十九日(火)
 ◎午前九時 神輿飾りの儀
 一ノ宮 新町
 二ノ宮 江川町
◎午前十一時 本殿祭
十一月二日(土)
 ◎午後八時 宵曳山曳出
  各町万灯をともして社頭勢揃(午後十時過ぎ)
十一月三日(日)
 ◎午前五時 神田獅子舞奉納
 ◎午前九時 発輿祭
 ◎午前九時三十分 ☆御神幸発輿(煙火五発合図 市内一巡)
 ◎正  午 御旅所祭
 ◎午後三時 還 御  ☆御神幸発輿(
煙火五発合図 曳山は町内へ)
十一月四日(月)
 ◎午前十時三十分 翌日祭
  曳山社頭勢揃の後曳出
 ◎午後二時三十分米屋町通曳出
 ◎午後四時 江川町通曳出
    (いづれも煙火三発合図)
 ◎午後五時頃 曳き納め
      (曳山展示場へ)
十一月五日(火)
 ◎午後三時 神輿納めの儀
  一ノ宮 本町
  二ノ宮 呉服町

神祭今昔譚 
 唐津神祭(からつくんち)は、唐津地方の総氏神様である唐津神社の秋季例大祭です。唐津くんちは、唐津神社御鎮座につながる重用な祭礼ですし、収穫を感謝し祝い合う祭礼という民俗的伝統神事でもありますので、御鎮座以来ずっと祭り続けられてきた祭礼と言えます。
 この祭礼が、どの時代から何がどのように変化し、だからどのように発展してきて、今日見られるような賑やかで勇壮華麗で、地方随一の祭礼といわれるようになったのか等については、残念ながら多くを知るべき資料がありませんので、断定できません。
 神輿渡御に昇きヤマ、走りヤマ、飾りヤマ等が供奉していた時代を経て、文政二年(一八一九年)刀町『赤獅子』が始めて、囃子曳山として神幸神事に供奉してより、町々から年々囃子曳山が奉納され、そこに新しいヤマ曳きの秩序も整備されつつ、今日の隆盛を見るに至ったのですが、特に旧藩制時代の町方の大変な勢いが結実して、その勢いが曳山を創り、祭りを振興してきた源泉であることは間違いありません。
 さて、唐津くんちは、長い伝統の中にあって、今も氏子民の心を一つにして年々賑やかに祭り続けられていますが、私共が物心つきましてからでも、祭礼曰・お旅所(明神台)・ヤマ小屋・神幸巡路・勢揃場所・休憩所・ひき込みの姿等々が、その時代の変化に合わせ、合わせられ、時代を先取りしたりしつつ変化が見られます。変っても良いもの・変えざるを得ないもの・変えてはならぬものを先人達の智恵で、上手く調整してきた結果が、今日のくんちの隆盛につながっているものだと思います。
 そこで、この社報の古いものと内容が重複するものもありますが、くんちの中で見られるものを、思いつくまま、今様神祭今昔譚として記し、くんちと共に生きている我々の生活の証しにしたいと思います。

 
一、御祭礼日
 御祭礼日は、唐津神社創祀の神話の中にありますように、御鎮座の旧暦九月二十九日が本来の姿です。旧暦(太陰暦)ですから、新暦(太陽暦)に置きかえますと、祭日は毎年変りまして、早い時は残暑を感じる頃であったり、遅い時は霰が降ったこともあったそうです。
 九月二十九日という日は、民俗学的に見ましても、重陽につながるような、祭礼には最良の日でした。
 明治の御維新で新しい御代が開かれ、新政府も旧暦から新暦への移行を積極的に進めました。都市部を中心に早々と祭日を新暦に改めた神社もあったということですが、地方はそうはいきません。稲作のことも、漁業のことも、すべての生活習慣は、旧暦(特に漁は月の動きが重要)主体でしたので、新暦移行は遅れ気味でした。
 そのような中で、唐津神祭は、明治〜大正と旧暦で執行されていましたが、いよいよ氏子民の新暦への慣れ、利便性、勧奨等もあり、種々協議(九月二十九日その日か、一ケ月遅らせて十月二十九日か)して、ようやく、大正二年(一九一三年)のくんちより、新暦十月二十九日を祭日と定めて執行することとなりました。この十月二十九日の祭日はその後五十五年続き、新時代の祭日へ引きつがれましたが、初心を大切にと、十月二十九日は本殿祭として今日も祭り続けられているのは御承知の通りです。
 さて、昭和三十年代に入りますと、生活が少しは豊かになってきたのでしょう、神祭の賽者も多くなり始めたように思います。又、この頃から戦後の曳山塗り替えが県重文の指定のこともあって、各町曳山の塗り替えが毎年のように行われ、曳山全体が大変綺麗になりました。戦時中から戦後の初期にかけては、それぞれが自分のことに精一杯でしたので仕方のないことですが、この頃より、曳子の数も多くなり、くんちに新しい勢いが感じられるようになりました。
 こうした中で、これまで親しましてきております、十月二十九日の祭礼日を移動しようという声が、市内のいろいろな方々や団体等から起こってきました。最初はささやき程度でしたが、いつしか大きな声となって、昭和四十年代に入りますと、本格的に新しい時代を感じざるを得ないほど大きな運動になりました。
 神社としましては、正式に申し入れがあったという時点よりも前から、このことにはしかるべく関係者と協議をしてはおりましたが、基本的には、神社の例祭日は気安く変更すべきものではないということで、特に慎重に事態の推移を見つめておりました。やがて、昭和四十三年、例祭日変更の声は具体的行動となり、神社・取締会を始め関係者は何回となく会議をし、変更しても、人々のくんちによせる思いは変らない・種種の分野で良い影響が期待できる・観客動員も期待できる・曳山、観客の安全にも支障はない等々の良い影響の方が多いとの見通しがつきましたので、例祭日の変更について、旧暦九月二十九日に近い祝祭日であるところの文化の日(旧・明治節)の十一月三日を神定しました。 さてこの年の唐津くんちは、変更後初めてのくんちということで、関係一同御神意にかなうか否やと、大変な緊張をして迎えましたところ、意天に通ずと申しましょうか、すこぶる好天の中、賽者も倍増といえるくらいの人、無事めでたく納めることができまして、新しい神恩奉謝のくんちとなりました。
 こうして、十一月三日の新しい祭礼が定まりましてより、時代の勢いがあったのだと思います。参拝者も年々増加し、種々報道も多くなり、国中の『からつくんち』になった感さえいたします。これからも、御神意御神恩に奉謝の誠を捧げつつ、唐津人の心を大切に守り伝えて行かねばと思っています。

行事予定
 ◎唐津神祭は別掲
九月
 二十八日 新町曳山 創建百五十年記念祭
十月
   六日 大石町曳山 創建百五十年記念祭
  十三日 歳博曳山出動
       ふるさと会館へ総出動
十一月
   八日 新嘗祭
   九日
   十日 七五三祭
  十五日
  十七日
 下旬 支部大麻頒布式
十二月
  初旬 大麻頒布式
 二十三日 天長祭
 三十一日 除夜祭
 ◎平成九年丁丑 (ひのとうし)の年
一月
   元日 歳且祭
   六日 新年祭
二月
   三日 節分祭
  十一日 紀元祭
三月
  二十日 春季皇霊祭
月次祭=毎月一日・十五日

大 祓 詞(簡訳)
 高天原にいらっしゃる親神様は、「此の漂える国を修理固成せ(つくりかためなせ)・清く正しく睦まじくあれ。」との意志をもって、多くの神様方を集められて、何回も何回も会議を重ねられて、「日本の国を皆なが安心して平和に暮せる国として治めなさい。」と、皇孫(歴代の天皇様)に御命令になりました。 そこで、この命令を受けて国の中を見ますと、不平・不満・乱暴者・その他諸々の悪事や、自然界にあっても、自然界の秩序がうまく行っていない。だから、何故そんなに荒ぶれているのか、どうしてそんなに悩んでいるのか何回となく問い直し、問ひ正して、その原因を明らかにし、その上でこれらを厳重に祓清めて、人も自然も全く清浄な状態になったので、皇孫は高天原の神座を出発され、偉大な霊力をもって雲々を別け
開きながら、親神様の御心を頂き受けて、この世の中にお臨みになられました。
 そこでまづ、日の光が大変豊かな所を国の中心とお定めになり、天津神・国津神の御心に通じるような御殿をお建てになり、天つ御親神様のお陰を受けて、その中にお入りになり、親神様の御加護のもとに、良い国づくりを始められました。
 しかし、人々や国土や自然の姿を乱すこと(罪)がたくさんあります。天津罪とは、人間が生きて行く上で大切な五穀の生産を阻害する罪(畔放、溝埋、樋放)・食糧を横領する罪(頻蒔、串刺)・神聖を犯す罪(屎戸)・人畜を殺傷するが如き罪(生剥・逆剥)を指します。国津神とは、この世の人間社会の不幸災厄・人間の道に反する行為をすること等を指しています。このように罪がいっぱいあります。
 ですから、天つ宮にいらっしゃる御親神様の御教えを以って、天つ金木(昔、御幣等作った木)の根本と先の方を切って、その真中の部分を、千座の置座(沢山の案−机−)の上に積んで、更には菅か麻の、もとと末を断ち切って、真中をとって、八つ裂きに割いて、(祓つ物を出し、罪の償いをしてから)天つ祝詞の太祝詞事を宣りなさい。

 ◎祝詞−現代では、神主が神様に申し上げる。
 本来は、神様の御言葉。昔は、神様の言葉が、その都度示されていた。
 ◎太祝詞事−一般的には親神様の御言葉「清く正しく睦まじく」「祓給、清給、守絵、恵給、幸給」等を指す。

 このように、神様の言葉の通りに、明確な誓いをたてて申すならば、天津神は御殿の扉を開き、雲があるなら、それを偉大な霊力でかきわけて、お聞きとりになるでしょう。又、国津神は高い山・低い山の朝もやや、煙等が立ちこめていても、それらをかきわけて、お聞になって下さるでありましょう。
 そうしたら、人がそのような気持になった時、すべての汚れというものは消えて行きます。朝のあやまちは朝のうちに、夕のあやまちは夕のうちに、直ちに科戸の風によって改められるでしょう。又、大きな港につなぎとめてある船の舳綱・艫綱を解き放ち(執着を断ってしまい)自由な身となり、繁っている木々は、焼き入れしたばかりの鋭い鎌で打ち払ってしまえば(自分に捉らわれていては、本当の自分が見えないので自分を離れて見る)きれいに向こうが見えてくるように、一大決心を以って祓のことにあたるならば、残る罪も全部なくなります。
 そのようにして祓清めるならば、罪や穢というものは、高い山・低い山の頂上から流れ出る早川の瀬に居られる瀬織津比売という神様が、流し去って下さいます。このように流し去られた罪穢は、次は、勢いの強に潮が、あっちから、こっちから押し寄せぶつかり合う渦を巻いている所に居られる、連開津比売という神様が、全部呑みこんで下さいます。こうして呑みこんで下さったら、息を吹き出す所に居られる気息戸主という神さまが、その罪穢を遠い地底の世界へ吹き去って下さいます。このようにして気吹き放つならば、地底の世界に居られる、速佐須良比売という神様が、さすらいの旅に出られるように、きれいに清めて下さいます。
 こうして、すべての汚れをなくしてしまえば、その時、自然も国も人にも罪穢というものはなくなってしまいます。
 どうぞこれからも、罪穢がなくなるよう祓清めていただきますよう(祓清めをいたしますので)、天津神、国津神を始めて、多くの神様達、お聞きとりください。
 大祓詞は このようにいたしますからと、皇孫が親神様にお誓いをされる形となっています。この誓いを自分もいたしますから、どうぞお導き下さいという願いによって祓の信仰は深められていきます。

 曳山情報
○囃子出動…現在佐賀県で開催されている、世界炎の博覧会(七月十九日〜十月十三日)の関連も含めて、出動が多い。

○本町曳山…ハワイホノルルフェスティバルに出動中の本町曳山は、四月に帰ってきた。

○曳山ソフトボール大会…五月十二日に河畔グランドで開催された。
  優 勝 − 新 町
  二 位 − 中 町
  三 位 − 材木町

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