唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第59号  平成元年10月1日発行
発行人 戸川 省吾
編集人 戸川 惟継
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
総 代 異 動
魚屋町  脇 山 英 治  帰幽

 任・責任役員
    (七月二十九日総会)
本 町  平 岡 清一 再任
南城内  吉 田 仁一  〃
西旗町  山 口  優  新任
五月三日
 博多どんたく≠ノ曳出しを待つ曳山
     (写真・唐津市中町 原田晃氏)
曳山博多出動
よかトピアどんたく

 唐津曳山が初めて他所に出動したのは、昭和二十六年四月に、博多で行われた 「オール九州観光まつり」に、刀町「赤獅子」・新町「飛龍」・米屋町「源頼光と酒呑童子」の三台だった。あれから二十八年ぶりに、本年五月、福岡市からのお誘いもあり、開催中だった「よかトビア」に、そして「博多どんたく」に、中町「青御子」・材木町「浦島太郎と亀」・木綿町「武田信玄の兜」の三台の曳山が出動した。
 さて、今回の出動は、福岡市の二大行事に参加という、しかも三台揃ってと言うことで、近くではありながら、出動町内の労苦は、「どんたく」を曳き納めた後の解放感が全てを物語っていたようで、くんちの時にしか見ることのできない晴れやかな曳子の顔々が、福博の街にあった。
 五月一日早朝の雨をついて、曳山組立要員(町内若者が主力)が出発、次いで曳子が午前七時に出発、曳子隊がよかトビア会場へ到着した際は、既に曳山は先発の組立要員により、完全に飾り付けを終っているという手際の良さだった。この日は、中町・材木町が、よかトビアの会場を曳き、来園約五万人という人々の喝釆を浴びた。
 五月二日、曳山は飾り付けたまま、リゾートシアター内で一泊、曳子は再び午前七時に唐津を出発。午後より木綿町を会場で曳く。昼食時は、さながら浜弁当≠フ感であった。曳き納めたら、解体しトラックに積み込み、明日のどんたくのために待期する。
 五月三日、どんたく当日は最高の日和。先づ曳山組立のため、各町若者組が出発。続いて昼頃から一般曳子等順次出発。待期場所の松本氏の後援会事務所広場には、飾り付けを終えた曳山三台、それに広場に溢れんばかりの曳子等、定刻−どんたくパレード出発地点へ移動、祭典の後、いざ、どんたくへ、福博の街並は、この唐津曳山のために作られたのではないかと思えそうな、幅と人人人と見通しの良さ。やがて、福岡市役所西側広場に曳き納めて解体、トラックに積み込み帰路につく。
 約六百名という大勢の曳子等は、バス十五台に分乗し、満面に笑みをたたえながら、一糸乱れぬ行動で整然と帰唐した。
 曳山の歴史に、又新しい一頁が加えられた。
唐 津 神 祭
十月九日(月)午後七時 ◎初供日 奉 告 祭
十月二十九日(日) ◎午前九時 神輿飾ノ儀
     総行司 一の宮 江川町
           二の宮 本 町
             ◎午前十一時 本 殿 祭
十一月二日(木) ◎午後八時  宵曳山曳出
      (煙火三発合図)
          各町曳山万灯をともして社頭勢揃(午後十時過ぎ)
十一月三日(金)
 ◎午前五時神田獅子舞奉納
 ◎午前九時 発 輿 祭
 ◎午前九時半  御神幸発輿 (煙火五発合図 市内一巡)
 ◎正 午 西ノ浜御旅所祭
 ◎午後三時 還 御
   御旅所発輿 (煙火五発合図)
十一月四日(土)
 ◎午前十時半 翌 日 祭
  曳山社頭勢揃いの後曳出
 ◎午後二時三十分 米屋町通曳出
 ◎午後四時   江川町通曳出  (いづれも煙火三発合図)
 ◎午後五時頃   曳山曳き納め     (曳山展示場へ)
十一月五日(日) ◎午後三時 神輿納めの儀
         総行司 一の宮 呉服町
               二の宮 八百屋町
十一月九日(木) ◎午前十一時 新 嘗 祭

神祭と大嘗祭
    
はじめに
 昨年の神祭は、昭和天皇御不例で、全国各地の多くの祭礼が自粛する中、常ならざる緊張の三日間でございました。自粛すべき事由は、国家の一大事という非常の時ですから、日本国民として心情の然らしむるところでありました。このような中にありまして、日本人が皇統連綿として受け継ぎ伝えている「民族の命」を絶やすことなく、新しい平成の御代につなぎ得ましたことを、そしてそのことが祭りの本義であることを、極限の心情の中で再確認させられましたのが、昨年の神祭でありました。
 ここに改めまして、武蔵野御陵に鎮ります昭和天皇の大御前を拝し奉り、開け初めし平成の御代の弥栄を祈念する次第であります。

 
神祭の起源
 さて、神祭(唐津くんち)のことにつきましては、氏子の皆様の種々な御奉仕があって、今日見られるような九州屈指の一大祭礼になっております。これは即ち氏子の皆様方の敬神の賜であり、愛郷の証しでもありましょう。そこで神祭の起源について、少し触れておきたいと思います。
 唐津神祭は本来、旧暦の九月二十九日を中心に斎行されておりました。そしてこの日こそ、天平勝宝七年に朝廷より「唐津大明神」の神号を賜った、御鎮座記念の大事な日であります。神様の誕生祭というめでたい日なのです。
 旧暦の九月と言いますと、だいたい今の十月に相当します。つまり秋たけなわの頃であります。秋は、稔りの秋・収穫の秋であります。往古より日本人は、万物に生命の存在を感じておりまして、そのことが、今日の日本人の生命観の根本にあるわけですが、秋の稔りに感謝する心情の発露として、氏神様の祭礼がありました。収穫感謝祭としての祭りがあります。
 又、旧暦は太陰暦と言いまして、月の満欠を基本として用いておりましたので、一日や十五日や二十九日・三十日等は、月光の明暗の加減で仕事がしにくかったらしいと言う現実的な説明もありますが、古来より日本人は、このような日を神祭りの日として大事にしてきました。
 こうした「祭り」に対する種々の要件が、いくつも重なり合って、唐津くんちは、氏神様の大祭礼として毎年毎年脹やかに受け継ぎ斎行されているのです。

 
稔りの秋の感謝祭
 先にも申し上げましたように、秋の祭りは、収穫を神に感謝するという姿が根本にあります。その収穫の代表が「稲」であります。何故稲≠ェその代表なの、か、その謎解きをしたいと思います。
 それには、一寸難しそうな話をしなければなりませんが、ここに、日本民族の生きて行くべき姿が明確に記されていますので紹介いたします。
 日本初代の天皇陛下を神武天皇と申し上げます。その神武天皇以前、天孫降臨の時に、神代より日本民族の生活の根本として、神代より示きれた重要な言霊(ことだま)が三つあります。これを「三大神勅」と言います。

 一、天壌無窮の神勅
 「葦原の千五首秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就いて治せ。さきくませ。宝*の隆えまきむこと、まさに天壌と窮無かるべし」
 二、宝鏡奉齋の神勅
 「吾が児此の宝鏡を視まさんこと、まさに吾を視るがごとくすべし。ともに床を同じくして、殿を共にし、以て齋鏡と為すべし」
 三、齋庭の稲穂の神勅
 「吾が高天原に御(きこしめ)す齋庭(ゆにわ)の穂(いなほ)を以て、また吾が児(みこ)に御(まか)せまつるべし」
 この三つを三大神勅と言い、この稲穂こそ大嘗の齋庭に供されてきた、聖なる稲穂であり、この稲穂を皇祖大神に捧奉る精神の中に、新嘗祭があり、父祖に続く祭の根元があります。
 神社の祭祀(神道)は、これらの神勅をまともに承当し、胸に受けとめながら発展し、展開してきたものと言えます。(以下次号)

行事予定
◎神祭は別掲
十一月
   九日 新嘗祭
十二月
 二十三日 天長祭
 三十一日 除夜祭
一月
  一日 歳旦祭
   六日 新年祭
二月
   三日 節分祭
三月
 二十一日 春季皇霊祭
五月
   五日 春季例大祭
毎月一日・十五日 月次祭
刀町曳山塗替完成
 現存する唐津曳山十四台の中で、最も古い年代に創造された、第一番曳山刀町「赤獅子」は、前回の塗替え工事以来、二十四年の歳月を経て、色過せや、獅子毛の脱落、又内部構造等も補強するなどの総合的な、平成の大修理を行っていたが、この程完成し十月八日には、いよいよ試し曳きをして、氏子民に披露することとなった。
 今回は台車まで作り替えるという大掛りなもので、台車を製作した会社の人によれば、曳山創作時の木工技術の高さに驚かされたり、その工法に感心することが多かったそうである。
 秋光に輝くくんちの晴れ姿が待ち遠しい。
 尚、本体工事は、福岡県八女市・葛゚松岩吉商店、設計管理は、財団法人・文化財建造物保存技術協会、工費は釣千二百万円となっている。

脇山 英治総代
 唐津神社大総代(責任役員)・脇山総合食品椛纒\取締役社長・脇山英治氏は、昨秋頃より入院加療中でしたが、本年六月二十二日早朝帰幽されました。六月二十八日の告別式には、宮司が弔辞を捧げ謹しんで御冥福をお祈りしました。
 ・明治四十五年二月二日生れ、行年七十七歳
 ◎唐津商工会議所副会頭・唐津観光協会長・松浦信用組合理事長・唐津曳山取締会総取締・若桐同窓会長等多数の公職を兼務されていました。