唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第56号  昭和63年10月1日発行
発行人 戸川 省吾
編集人 戸川 惟継
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
 総 代 異 動
北城内 皆良田 芳 子 新任
名誉総代  常 安 弘 通  帰幽

◎第五十五号訂正
東城内 誤 宮 崎 嘉 市  再任→東城内 正 宮 後 嘉 市  再任
唐 津 神 祭
十月九日(日)午後七時 初供日 奉 告 祭
十月二十九日(土) 午前九時 神輿飾ノ儀
 総行司 一の宮 平野町
      二の宮 新町
 午前十一時 本 殿 祭
十一月二日(水)  午後八時
    宵曳山曳出
      (煙火三発)
   各町曳山万灯をともして
   杜頭勢揃(午後十時半頃)
十一月三日(木)
 午前五時    神田獅子舞奉納
 午前九時    発 輿 祭
 午前九時半   御神幸発輿
   (煙火五発 市内一巡)
 正 午 西ノ浜御旅所祭
 午後三時 御旅所発輿
  遷 御(煙火五発)
十一月四日(金)
  午前十時半 翌 日 祭
   曳山曳出(煙火三発)
 午後五時頃
  曳山曳き納め
    (曳山展示場へ)
十一月五日(土)
  午後三時
  神輿納めの儀
 総行司 一の宮 江川町
      二の宮 本町
十一月九日(水)
 午前十一時 新 嘗 祭
天皇陛下の御不例平癒祈願
 九月十九日夜の宮内庁発表によりますと、陛下には御不例との御事。日々の祭典には、御平癒を祈願しております。特に九月二十一日には、御平癒祈願祭を中祭式で執行しました。又、九月二十九日午前十一時より、建国祭奉祝会等による御病気平癒祈願祭があり、御病気御見舞の記帳を行った。
 陛下は、昭和二十四年の行幸啓で、初めて唐津へお立寄りになって以来、昭和三十六年、昭和六十二年と計三回御来唐されている。このうち、昭和二十四年の御来唐の時は、舞鶴球場(今の東高校グランド)で、お立台より親しく市民の歓迎をお受けになった。又、二回目の時は、当時の金子道雄唐津市長の私邸に御一泊、翌朝(正確には、昭和三十六年四月二十一日午前九時十五分、市長邸御発−午前九時三十分に)西の浜お旅所に勢揃いした曳山を御覧遊ばされた。
 三回目は、昨年の五月の植樹祭の帰路お立寄りになり、シーサイドホテルに御一泊、名勝虹の松原を散策されている。
 いづれの時も、御機嫌麗わしく唐津での一時を過されている。
 今は唯、陛下の一日も早い御平癒を祈っている次第です。又、九月二十五日に行われた裏千家御家元による献茶式でも、宗匠筋から天皇陛下御病気平癒の祈りをこめて献茶の儀を執行したい旨伝えられたので、献茶の儀にあわせて、陛下の御病気平癒祈願を齋行した。
水主町
 曳山塗替え

 第十三番曳山水主町の「鯱」(明治九年作−昭和三年改装)は、前回の塗替え以来二十年を経過し、漆塗り部分の色褪せや、木工部分の損傷もひどくなり、八女市の近松塗師のもとで、塗り替え中の処、十月中旬には、新装になって唐津へ帰ってくる。
 「鯱」は昨年十月、大阪御堂筋パレートに出動し、浪速の街並を曳いた曳山である。前後に大きく上下するので、木工取付部分は、特に頑丈でなければならず、しかも、旧来(古式)の技法が第一義であるため、工程は慎重を極めたという。
 目に見える部分の華やかさと、見えぬ部分の安全構造があって、曳山は将来につながる命を持っていると言えそうです。
行事予定 (来年春祭まで)
十月
 一日 月首条
 九日 初供日奉告祭
       午後七時
 十五日 月次祭
 十六日 合同観月茶会   唐津新聞社主催
二十九日 唐津神祭本殿祭    神輿飾の儀
十一月
 一日 月首祭
二・三・四日  唐津神祭
  五日 神輿納めの儀
  九日 新嘗祭
 十五日 月次祭  七五三祈請祭
十二月
 一日 月首祭
 十五日 月次祭
三十一日 古神札焼納祭 除夜祭
昭和六十四年一月
 一日 歳旦祭
  三日 元始祭
  六日 新年祭
 十五日 月次祭
二月
 一日 月首祭
  三日 節分祭
 十一日 紀元祭
 十五日 月次祭
三月
 一日 月首祭
 十一日 旧・初午祭
 十五日 月首祭
二十三日 春季皇霊祭
四月
 一日 月首祭
 十五日 月次祭
二十九日 天長祭
五月
 一日 月首祭
 五日 春季例大祭