唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第47号  昭和59年4月1日発行
発行人 戸川 省吾
編集人 戸川 惟継
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
春季例大祭
5月5日 午前11時30分斎行
御鎮座壱千弐百参拾年式年大祭
昭和60年4月29日斎行・記念事業…神輿二基総塗替、神輿庫新築ほか
70年ぶりの塗り替えを待つ神輿 (神祭神幸の途中 大手口で)
唐津神社神紋
昭和六十年四月

唐津神社千二百三十年
 式年大祭斎行にあたり
 
宮 司 戸 川 省 吾
 式年祭を迎えるに当り、御挨拶を申し上げます。
 唐津神社は、天平勝宝十年御鎮座より、明年昭和六十年には千二百三十年に相当りますので、式年大祭を斎行せねばなりません。
 式年と申しますのは、長い年月の間で、区切りのよい節目に当る年に大祭を奉仕することでございまして、その典型的な例は伊勢神官の式典でございます。
 この祭は、遷宮が主体となって執り行われるものですが、その祭の心は、御社殿を始め、装束、調度、御道具など凡てのものを二十年に一度改め造り備えて、そして新社殿に神儀をお遷しして鎮め奉る集りでございまして、物と心の更新によって、新な神の恩頼をいたゞく、即ち、物と心のよみがえりによる生きかえりによって、新な生命力を促し、そのお陰をいただこうというのが式年祭の祭の心でございます。
一般の神社に於きましては、これほど完全なことは勿論及ぶべくもありませんがその祭の心は同じでございます。
 そこで、唐津神社に於きましても、過去何回も式年祭を斎行して参りましたが、旧藩時代の記録もありますし、又明治になりましても行われました。
 最近のことを申し上げますと、昭和三十年には千二百年祭に当りますので盛んに行いました。戦中戦後の苦しい時代を経て、社頭も淋しく、貧しく、社殿の荒廃も目立っていましたので、氏子皆さまの御協賛をいたゞきまして、当時二百万円をもって、手水舎の新築、社殿の修覆、神輿金具の補修、境内整備などいたして面目を一新いたしました。
 又その後、昭和四十一年には、神饌所のお屋根葺き替えなどを行い、又昭和五十年には、境内社務所の新築をいたしまして、夫々式年祭を奉仕して参りました。
 このように、最近は十年毎に年祭を行い奉賛の誠をつくして参りました。
 そこで、明年は、昭和も六十年と区切りのよい年を迎えるわけでございまして式年の大祭を春に斎行するに当り、この際、神輿二其の総塗り替えを始め、別掲趣意書の如く、記念の事業をも併せて計画いたしたのでございます。
 何卒氏子皆さま方の絶大なる御協賛を賜わりますようお願い申し上げる次第でございます。


唐津神社神輿物語
 神輿は、シンヨ又はミコシと称し、神幸の際に神霊が乗り坐す輿のことである。
 普通は、木製黒塗で台と胴と屋根との三部から成り、その形は四角形、六角形、八角形などがある。屋根の中央には鳳凰を置き、台には二本の棒を縦に貫き取りつける。その起源は不明であるが、奈良時代には用いられたと考えられる。
   ◇
 さて、唐津神社の神幸祭に出で坐す二基の神輿は、今から一九八年前の天明六年の作で、古い型の鳳輦型と呼ばれるもので、大阪の住吉神社の御用品であったものを譲り受けたものといわれていて、当時の一流品と思われる。造りは簡素の中にも品格のあるもので、その時期どういう経緯でこんなものが手に入ったものか記録も全くなく、詳しいことは皆目わからぬが、当時のこととて、はるばる上方から舟使で送られたものであろう。
 材木町の大年寄の平松家の文書の中に、この神輿の塗香えや、金具の取付けなどについて安政六年の記録が断片的に記されているくらいである。七三年後のことである。
 当時は、供日のみならず世の中の不景気や、凶作の年や、雨乞いなどの時は御祈祷のため神輿を出したり曳山を曳いたりしてお祭が行われていたようだ。
    ◇
 この神輿を飾りつけるには、色々の附属品がある。神鏡、鳳凰、力綱、締布、鈴縄、擬宝珠、几帳、瓔珞燕などがあり、その他威儀物として、大榊、社名旗、紅白旗、赤青鉾面、胡竹録、薙刀、大傘、槍、剣、太鼓賽銭箱などがある。 この中で薙刀、槍、剣は終戦の時アメリカ進駐軍の命令で接収され今は欠けたまゝになっていて歴史を物語っている。
     ◇
 毎年供日前十月二九日は本殿祭が行われるが、それに先立って当日朝“神輿飾りの儀″がある。
 旧城下町の十六町より年番順で二町が総行司となり一の宮、二の宮の飾付けを奉仕し当年の神幸の責任町となるのである。
 総行司というのは、藩政時代城下町の世話をする当番町のことで、当時は只に供日のみならず世俗的な一切を取りしきっていたものである。
 こういう古い習慣がこのような進んだ世の中に連綿として受継がれて、生きて残っているのは珍らしく、神事伝統として尊いものといえよう。
 因みに、十六町とは、本呉、八、中、木、材、京、刀、米、大石、紺屋、魚、平、新、江、水の順でこれは築城当時城下町の出来た順といわれている。
 神祭当日この神輿を担いで実際に奉仕する“伴揃い”は昔から神田区からこれに当ることになっている。総勢六十名で、これは神田が唐津のルーツであり、二の宮の御祭神神田五郎宗次公の子孫が即ち神田の住人であるということから、現在でも全神田を挙げて奉仕される。
 従来は一基に八人の肩によって神幸が行われたが去る昭和四十六年からは、元氏子総代、曳山総取締であった花田繁二氏の華麗な御所車の奉納によって行列の様も整い面目を一新した。
 今回、式年大祭記念事業での塗替えは、前回、大正二年より、七十年ぶりの総塗替えになる。

  神 輿 庫
 神輿は、神霊を乗御するものであるので、神聖な専用の庫に納めるのが本儀である。
 唐津神社では、藩政時代の古文書に「御輿蔵三間に三間、但産子普請」としてあるように、境内東北隈現在の中町粟島神社の敷地に在ったが土蔵造りの建物も老朽化して昭和十三年神殿改築の際取こわしとなり、旧拝殿の一部に他の雑用品と同居の止むなき有様で、既に四十年にもなり畏れ多いことで、今回は記念事業として是非復興したいものである。

氏子総代改選
 本年は、四年毎の氏子総代改選期に当り、二月初旬より手続を開始し、二月十八日の総会で、氏子区内二十七ケ町内合計八十名の新しい総代様が決定いたしました。向後四年間、神社の奉護を中心に、特に本年から来年にかけては、御鎮座一二三〇年式年大祭の諸事万端にわたり、お世話をいただくことになります。
 尚、今改選で退任された方も紹介します。大変お世話になりました。弥栄をお祈りいたします。

 氏子総代
本 町
 平 岡 清一 重任
 竹 本  忠 〃
 中 野 陶 痴 〃
 牟 田 岩 雄 〃
呉服町
 三 根   勇 〃
 前 田 政 美 〃
八百屋町
 瀬戸口 大 助 〃
中 町
 古 川 軫 三 〃
木綿町
 正 田 歳 夫 〃
京 町
 山 口   哲 〃
刀 町
 太 田 庫 造 〃
 辻   庚 一 〃
米屋町
 平 田 正 廣  〃
紺屋町
 田 口 喜代治  〃
魚屋町
 中 里 敬 一  〃
 脇 山 英 治  〃
 正 田 定 見 〃
平野町
 徳 永 徳 次 〃
 瀬 戸 利 一 〃
新 町
 松 本   強 新任
弓鷹町
 山 本   正 重任
 前 田 幸 男 新任
高砂町
 高 仲 重 喜 重任
東城内
 宮 後 嘉 市 〃
 山 田   稔 〃
 近 藤   隆 〃
 木 村   勝 〃
 山 口 和 夫 新任
 緒 方 鐵 雄 〃
大名小路
 岡 上 正 明 重任
 石 河 博 介 〃
 松 岡伊三治 〃
 佐久間 次 彦 〃
 古 舘 鴻 輔 新任
西城内
 桑 原 末 男 重任
 野 中 寛 治 新任
 桑 原 掬 治 重任
 中 野 英 敏 〃
 吉 岡 勝 行 〃
南城内
 阿 部 晃 〃
 吉 田 仁 一 〃
 戸 田  陞 〃
 鈴 木 哲 男 〃
 村 瀬 めぐみ 〃
 平 松 栄 一 〃
北城内
 木 下 徳 三  〃
 森   勝栄 〃
 蒲 原 一 枝 新任
 成 瀬 キ ク 重任
 坂 本 初 野  〃
坊主町
 藤 田 文 雄  〃
 古 賀 柾 雄 〃
 加勢田 喜代美  〃
 鶴 田 英 俊  〃
 山 本 義 雄 新任
 田 中 松 治 重任
 浦 田 政 夫  〃
 鈴 木   豊 〃
 松 木 常 男 〃
 藤 原 藤 吉  〃
 原 口 光 雄  〃
 田 辺   厚 新任
 森 本 二 郎 新任
山下町一丁目
 久 田 邦 俊  〃
山下町二丁目
 成 村 光 好 重任
 井 上   貢 〃
山下町三丁目
 坂 田 善 継 新任
山下町四丁目
 繁 田  進 重任
山下町五丁目
 嶋 本 林 信 〃
桜馬場
 中 山 次 雄 〃
 鈴 木 俊 煕 〃
 稲 富 政 雄 新任
西旗町
 山 口   優  〃
元旗町
 菊 地 義 國 重任
西浜町
 福 島 長五郎 新任
富士見町
 坂 本 陽 一 重任
 外 尾 兼 利 〃
南富士見町
 桜 井 博 美 〃
 佐々木 常 太 〃
 小 柴 利 幸 〃

◎名誉氏子総代
 竹 尾 彦 己
 白 井 新 作
 大 橋 喜 一
 石 田 安智賀
 皆良田 伝 吉
 岸 川 欽 一
 山 崎 一 郎
 常 安 弘 通

◎今期で退任された方
 舛元猪佐雄 新 町
 江藤正次郎 東城内
 井口四雄造 西城内
 蒲原 小一 北城内
 九鬼  勉  〃
 沖本 冬士 坊主町
 田辺 正次 山下町一
 戸川  鐵  〃 三
 山浦 正 桜馬場
 井本 継太 西旗町
 川口富太郎 西浜町
 永田 千里 弓鷹町

曳山塗替
 このところ毎年、曳山塗替が実施されている。これは、どの曳山も前回塗替より平均して二十五年〜三十年を経過し、又、製作以来百年以上になるところから、今後の保存上、大補修をも含めて進められている。本年は、中町(青獅子)・木綿町(武田信玄の兜)の二台が、福岡県八女市・近松商店=中町○福岡市・梅谷仏具店=木綿町で塗り替えられている。これで最近五年間で六台の曳山が塗り替えをしたことになる。

町々のまつり
 初午祭…旧歴二月の初めの午の日。稲荷社の例祭。境内には、本町奉斎。呉服町奉斎。新町奉斎の三社の稲荷社があり、初午の日は、赤色の幟が立ち並び、参拝者が終日続く。

 粟島祭…七月二十五日が例祭日だが、近年は、土曜日曜を中心に、中町通りで盛大に行われる。

 天神祭…木綿町奉斎の鳥居天満宮の祭日は、春秋二回で、全町民こぞって祭礼が行われる。餅つき等の催しもある。又、天神様は、学問の神様とも言われるところから、児童生徒の参詣も多い。例祭は、二月と九月の二十五日前後の日曜日。

 恵比須祭…刀町奉斎の廿日恵比須神社の例祭で、一月十九日の宵恵比須から二十日の本恵比須まで、夜を徹して参拝がある。昨年までは、大手口で行われていたものを、社殿新築により本年からは、境内で盛大に行われている。

 水天宮祭…旧四月五日の久留米水天宮本社の旧祭日を中心に祭典がある。在唐津の筑後地方出身の縁故の方々の奉斎である。

 寿祭…寿社は唐津神社の末社様で、旧暦三月二十三日が例祭日である。首から上、頭・目・耳・鼻・口等に霊験ありと伝えられ、境内社と同じく、日々の参詣者も多い。

 このように、各町・各団体奉斎による祭礼のほかにも、京町の若宮祭(五月五日)八百屋町・平野町・新町の町内夏祈祷、魚屋町の稲荷祭等の集札が行われている。

神社庁支部の神社案内

 唐津天満宮…西十人町鎮座。例祭・一月七日
  「追難祭」

 湊八坂神社…湊岡鎮座。 例祭・旧暦一月十五日
  「灰振り祭」  湊・疫神宮とも称す。

 猿田彦神社…見借鎮座
  例祭・旧一月以降の初庚申(かのえさる)の日。庚申様とも称す。

 満島八幡社…東唐津鎮座
  例祭・三月下旬(百手祭)

 大石大神社…元石町鎮座
  例祭・四月五日  権現さんとも称す。

 妙見神社…藤崎通鎮座
  例祭・四月七日(西唐津くんち)

 金刀比羅神社…東町鎮座
  例祭・四月十日

 佐志八幡神社…佐志中通り鎮座。例祭・四月十三日

 熊野原神社…西寺町鎮座
  例祭・七月十五日 (祇園祭)祇園様とも称す。

 大島八坂神社…東大島鎮
  座。例祭・ 月  日

 住吉神社…神集島鎮座
  例祭・ 月  日

 二夕子神社…二夕子鎮座
  例祭・ 月  日

 塩屋神社…高島鎮座
  例祭・十月十九日

 御嶽神社…竹木場鎮座
 例祭・ 月  日

 田島神社…唐ノ川鎮座
  例祭・ 月  日

 天満神社…和多田鎮座
 例祭・十一月二十五日
唐津曳山取締会
役 員 改 選
(昭和 58 年11月18 日 改選)

総取締  瀬 戸 利 一
副総取締  花 鳥 一 夫・山 岡 * 延・福 本 芳 三

町  名 本部取締 正 取 締 副 取 締
刀  町 花 田   宏 山 田 耕 三 草 場 忠 男
中  町 桑 野 安 二 藤 川 末 義 古 川 寿 男
材木町 田 口 清太郎 岡   了 吉 田   宏
呉服町 宮 田 一 男 市 丸 弘 治 堤   新
魚屋町 小井手  巧 前 田 健 一 多久島 聖 吾
大石町 原   好太郎 牧 川 洋 二 小 宮 弘 資
新 町 中 山  稔 古 川  勉 高 崎 耕 一
本 町 大 西 康 雄 牟 田 雄 毅 田 村 勝 利
木綿町 長 野 推 計 正 田 諒一郎 福 島 資 千
平野町 佐々木 登己夫 井 上 正 介 宿 谷 祥 吾
米屋町 浜 辺 繁 美 河 瀬 善 弘 平 田 正 廣
京 町 大 塚 和 夫 山 田 信 夫 山 田   滋
水主町 高 田 照 男 与 田 元 紀 田 中 次 男
江川町 森   修 一 森   修 一 小 野 英 雄

(総 務) 尾 花   明  山 田 国 男  戸 川 惟 継

 委員会構成表
  運営委員会
    宮 田 一 男・佐々木 登己夫・大 西 康 雄
  実行委員会
    中 山   稔・桑 野 安 二・花 田   宏
    各町正取締
  囃子委員会
    小井手   巧・高 田 照 男・大 塚 和 夫
  管理委員会
    田 口 清太郎・長 野 雅 計・森   修 一
    各町副取締
  広報委員会
    浜 辺 繁 美・原  好太郎