唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第46号  昭和58年10月1日発行
発行人 戸川 省吾
編集人 戸川 惟継
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
 この写真は、背景の建物のうち、山本タクシー商会・市丸漬物店、それに、まいづる百貨店の旧大手ビル(木下愛文堂)は、まだ建設されていない。又、軌道も廃止されていないし、刀町奉納の大幟は見えても、近くにあるべき鳥居(昭和六年宮崎家より奉納)は、まだ建設されていないようなので、恐らく大正末期から昭和初期のころかと思われる。それにしても、曳子の法被や、曳山の間隔、見物者の様子、見え隠れしている車力と、旧式の自動車一台−曳山風俗の証拠写真である。(写真二葉の提供は、坊主町・鶴田英俊氏)
 これは明神台が砂山の上にあった時の西の浜の全景である。なにかの理由からか、木綿町が見えない。水主町は、以前の曳山のようである。左上は文化女学校、左端は、お旅所用の鳥居で可動式であった。これがお旅所本来の姿です。いつの日か、再びこのような神祭をと願っています。

 京町曳山完成
 唐津曳山のうち、十二番曳山、京町珠取獅子(明治八年製作)は、塗替工事中であったが、このほど完成した。塗替は、伊万里市の塗師生田利明氏に依頼し、工事も、生田塗師工房で進められました。
 漆塗りとは、梅雨時の湿気が重要な役割をすると、いわれるように、デリケートな塗りです。このため、多くの塗師さんは、工房に″ムロ″と呼ばれる作業場を設置しておられるのですが、曳山ほどの大きいものは、自然界の梅雨時が最良の天恵だそうです。
 その上、珠取獅子等の緑系の色合は、色目とびがひどいと言われ、色合せに苦慮されたそうです。
 さて、もうすぐ唐津くんちです。道路、鉄道の整備等もあり、多くの方々の来唐が予想されています。神社では、八月から神祭関係事務を始めています。盛大になってきているだけ、事務書類の量も増大しています。今年も、安全で楽しいくんちでありますよう祈っています。

 刀 町
  恵比寿神社

 刀町奉賽の恵比寿神社(例祭は毎年一月十九日〜二十日)では、数年来の計画通り、新しい社殿を建設されている。新しい社殿は、唐津神社境内の、本町稲荷社と新町稲荷の間で、木造平屋建の神殿様式である。
 刀町の恵比寿社は、二十日恵比寿さまとも呼ばれ、もともとは、刀町区有志で恵比寿講を組織し、毎月、月当番の講元宅で恵比寿祭を奉仕していたのを起源とする。その後、毎年の初めの恵比寿祭に当る。一月十九日(宵恵比寿)、二十日(本恵比寿)の両日、刀町の然るべき所をト定して、誰でも参拝できるようになったものである。
 刀町区では、予てより、商売繁昌の守護神として、又、町内融和の象徴として社殿建設が計画されていたが、今回、ようやく実現したものである。
 これにより、神社境内には、呉服町・本町・新町の稲荷社、中町の粟嶋社、木綿町の天満宮、水天宮の唐津分社、末社の寿社、それに刀町の恵比寿社と計八社の境内社になった。
 尚、完成は神祭前の予定。

北原白秋の歌碑
 唐津地方でユニークな事業団として誉れ高い、松浦文化連盟では、今回、北原白秋作詞になる、唐津小唄の碑の建設を計画された。この碑の建設地として、唐津神社境内地にと、お話があったので、一番相応しい地であると確信し、お受けしましたのでお知らせします。
 場所は、曳山展示場参道の南側に、赤い塀を背にし北面して建設されることになっています。
 松浦文化連盟では、これまでに、郷土人、または郷土を訪れた著名文化人等が残した詩歌や俳句の文学碑を、夫々のゆかりの地に建設されており、これで、自南寺境内に建設される、富田才治句碑と合わせると、十四基目の碑となり、「唐津小唄」第一節が刻まれる。 

唐津松浦潟さぎ浜千鳥
       ホノトネ
 チリリ鳴きます日のくれは
唐津唐船とんとの昔
 今はおいさの山ばやし
 チャントナ チャントナ

唐津神祭

十月九日午後七時
 初供日奉告祭

十月二十九日
 午前九時 神輿飾ノ儀
 総行司一ノ宮八百屋町
    二ノ宮中  町
 午前十一時 本殿祭

十一月二日午後九時
      (煙火三発)
 宵 宮(宵曳山)
   各曳山万灯をつけ社頭曳込

十一月三日
 午前五時神田獅子舞奉納
 午前九時三十分(煙火五発)
     御神事発輿 市内一巡
 正午 西 ノ 浜
     御旅所祭
 午後三時(煙火五発)
     御 旅 所 発輿還御

十一月四日
 午前十時三十分(煙火三発)
     翌 日 祭

十一月五日午後三時
     神輿納ノ儀
 総行司一ノ宮木綿町
    二ノ宮材木町

総代異動
東城内 近藤  隆 新任
 〃   山田  稔  〃
旧藩小路名称碑のこと
 唐津ライオンズクラブは、その創立二十周年記念事業の一環として、旧蔵時代の城内地区の小路名称の石碑を建設された。これらの小路名は、藩制時代から、最近、住居表示が実施されるまで続いていた歴史的名称でもある。
 これらの名称は、城内地区に限らず、内町・外町・郭外地区の、町名の多くが旧薄時代から、現在に至るまで、歴史的・伝統的事実として呼び慣わされており、今でも最少の行政単位として息づいている。
 ところが城内地区では、早々と住居表示をすませたので、小路名称は、幻のようになってしまい、生活環境に微妙なズレを感じたりという話が聞こえてきたり、せめて名称だけでもということも言われ出していた時、ライオンズクラブの計画を承り、何かホッとしたものを感じたものです。
 この事業は、この後更に続けられ、市内数ケ所に小路名称の統合案内板の設置が計画されている。
 因みに小路名称は概ね、次の通りである。
 大手小路・明神小路・明神横小路・西ノ門小路・西ノ門横小路・松原小路・埋門小路(御太鼓小路・時打小路の別称もある。)・大名小路、 そのほか、城内地区の名称としては、二ノ門内・御検馬場・江戸部屋・御船入り等があげられる。


夏まつり前後
 唐津の夏は、七月一日の海開式で始まる。この日、午前十時より西の浜辺で神事を執行、やがて七月二十九日になれば、夕刻七時より、夏祭り茅の輪神事を斎行した。
 八月に入ると、夏季休暇中らしい若者や、盆帰りの家族連れ、特に今年は、烏島王国なる催しもあり、神社周辺は、海水浴客を見ることが多かった。花火大会や土曜夜市の時も人出がある。
 恒例の盆踊り大会が社頭大広前で開催され、又、これに合せて、茶道裏千家淡交会青年部により、ファミリー茶会が境内で催され、夏の夜の風情も、又格別なもので、気軽に参加できるとあって、久しぶりに社頭が賑う時でもある。
 秋に入ると、盆踊りと同じく、唐津新聞社の肝入りで、各流合同の観月茶会が開催され、境内は、遠近よりの茶人達でしっとりとした中にも、華やいだ雰囲気につつまれる。
 こうして十月に入ると、初供日奉告祭を執行し、町町には、曳山囃子が流れ、くんちの気分が除々に高まってくる。

旧暦九月二十九日
 旧暦の九月二十九日は、天平勝宝七年九月二十九日に、時の朝廷より、唐津大明神の称号を賜ったという記念すべき日である。
 爾来、唐津神祭(唐津くんち)は、旧暦九月二十九日に行われてきた。明治初期に暦法が改められ、現在の太陽暦が用いられて、各地の多くの祭礼も、新暦に改められた。唐津神祭は、大正初期に新暦に改め、一月遅れの十月二十九日に祭日を設定した。
 ところで、旧九月二十九日に神祭を執行していた頃は、非常に寒くて、みぞれを経験したとの話しがある。
 現在の十一月三日の祭日は、旧暦九月二十九日に一番近い祝祭日との思いを込めて、御神意を伺ってト定された神祭日である。
 暦を見ていて、本年が旧九月二十九日と十一月三日とが合致しているのを発見し、何か良い神祭になりそうだと心楽しくなってきた。皆が心楽しい神祭であって欲しいと祈るや切である。