唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第42号  昭和56年10月1日発行
発行人 戸川 省吾
編集人 戸川 惟継
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
唐 津 神 祭
十月 九日      初供日奉告祭
十月二十九日  本殿祭 神輿飾りの儀 
総行事 新町・江川町
十一月二日   宵祭
十一月三日   神幸祭
十一月四日   翌日祭
十一月五日   神輿納めの儀 
本町・呉服町

四季の祭り

祭りのしくみと意味

   
はじめに
 私達のまわりには、たくさんの祭り(まつり)があります。全国には、約八万の神社がありますので、祭りの数は、たいへんな数になるでしょう。特にめずらしい祭礼については、最近テレビや雑誌等で、よく紹介されるようになりましたので、その祭礼については、多少の知識をお持ちの方もいらっしゃいます。しかし、それらの祭りの、本来の姿については、なかなかわかりにくい部分が多いと思われます。うっかりすると、日頃慣れ親しんでいる氏神様の祭りでさへ、見過ごしている部分が多いのかも知れません。
 祭りは、私達の祖先が大切にはぐくみ、代々伝えてきた、かけがえのないものなのです。毎日の生活に折目をつけ、活気に満ちた営みにしてくれるものです。ここでは、その基本的な事がらを説明してみます。
 一口に言って神社には、一年間にたくさんの祭りが執り行われます。「年中七五度の祭事」等とも言われるくらい、その数は大変なものです。そして、その多くは、神官だけで執り行われますから、多くの人の目に触れることはありません。氏子のみなさんが参加して、多くの参拝の方があって、盛大に行われる祭りは、年に一度か二度位でしょう。普通これを、例大祭(れいたいさい)といって、その神社の最も大切な集札である場合が多いのです。
 この例大祭は、それぞれの神社の由緒や御祭神などの事情によって、いろいろ形態が異なっています。春夏秋冬いずれの季節にも行われるのですが、ここでは、それぞれの季節に行われる祭りの「しくみ」と「意味」 について述べてみることにします。

  
まつりのしくみ

 ものごとには、なんでも準備→本番→終始末の三段階があります。祭礼の執行についても、同じことが言えます。祭りを奉仕するものは、第一に身が清らかでなければなりません。神社の杜は、常に緑の木々につつまれた清浄を旨とする所ですから、当然のことでしょう。そのため、長い間参籠(おこもり)をして、俗生活との交りを断つこともあります。この時は、別火(忌火)といって、特に浄らかな煮たきをします。又、水(川・海等)で身を清める「禊=みそぎ」も行います。結婚式や地鎮祭等の祭典の始めに、修祓というお祓いをしますが、これも、参籠や禊と同じ意味のものです。
 こうして、すべてのものが清浄になったら、いよいよ神様をお迎えすることになります。社殿内での祭礼では、普通これを開扉(かいひ)といいます。神殿の御扉を開いて、神様にお出ましを願うことであります。
又、例大祭等に限って、お旅所という、神社の特別の縁地へ、神様をお迎えすることがあります。神社からお旅所へ神様がうつられたり、かえられたりする事を神幸といいます。神輿(みこし)に乗って行かれるので、人目にとまりやすく、特に神幸祭と呼ぶ所も多い様です。お旅所では、かがり火を焚いたりする祭礼もあります。又、能登半島地方で行われるアエノコトという田神さまの祭りでは、主人が田神様を風呂に入れてさし上げたり、箸を取って食事のお世話までする神事があります。
 そこで、次は御馳走のことになります。神社では、これを神饌(しんせん)といいます。御饌(みけ=米)・御神酒・魚・鳥・野菜・果物・塩・水等、海や川、山や野にとれる様々な味物(ためつもの)をお供えいたします。季節のものを始め、神様にゆかりのものも供えます。そのため、甘酒祭・里芋様・生姜祭などという、お供へものが、そのまま祭りの名前になったのもあります。
 神饌を供えたところで、神様に日頃の御加護の御礼や、願い事を申し上げます。これを祝詞(のりと)といいます。今日、祝詞は神様に御礼や祈願の言葉を申し上げるだけが多いのですが、古い祝詞の形式などから推察致しますと、神様のお言葉をきく機会でもあった様です。
 祝詞に引続き、神楽(かぐら)や様々な芸能などが行われ、神様をおなぐさめ申し上げます。獅子舞や、太鼓踊り、巫女舞など全国各地にたくさんあります。地方によっては、相撲や綱引き・競馬などの伝統的な競技も行われます。祭りと言えば、こう言うものを思い浮かべられる人もたくさんいらっしゃるに違いありません。又、祭りの時に行われるこれらの競技の勝敗によって、その年の吉凶を占なうことも多いようです。
 行事がひと通りすみますと、神様をお送り致します。神輿で、お旅所にお出かけの場合は、御本杜へお戻りになるわけです。神社での祭りであれば、閉扉(へいひ)と言って、御本殿の扉を閉めるのです。
 このあと直会(なおらい)といって、先ほど神様にお供えしたものなどを、参列者一同でいただく儀式を行います。神人共食(きょうしょく)といって、もともと、直会が祭りの中心であったという説もあります。
 以上、祭りのしくみについて、順を追って説明致しました。昔から伝わっている祭りの中には、今日でも多くの人の目にふれぬ所で執行される「秘儀」であったり、夜の行事が多く、なかなかその全容を知ることが難しいようです。私達の目にふれているのは、ごく一部であったりすることも多いようです。そのため、多くの人々の目にふれ、印象に残るものが、祭り全体の名を決するようになりました。夜祭り・裸祭り・火祭りなどがこれの好例と言えます。これらの祭りでも、これまで述べて来た事が行われています。私達の印象に残っている祭の部分を考えていただくのも有意義な事ではないでしょうか。
 さて、それでは、これから各季節に行われる祭りの意味について考えてみましょう。

 
春のまつり

 日本の古い名前を「豊葦原千五百秋之瑞穂国=とよあしはらのちいはあきのみずほのくに」と言ったり、単に「豊葦原瑞穂国=とよあしはらのみずほのくに」と言いました。みのり豊かな、たくさんのお米がとれる国という意味でしょう。日本は、昔から稲作を中心とした農業国でした。そのため、春の祭りは、豊作の祈願が中心となっています。
 又、此頃、山神が里へ下り山神となって、その年の田作りの守護神となるという信仰が根強く残っています。
 春には、村々の神社の多くで「お田植祭」が行われます。お田植祭は、大きくわけて二様類あります。 正月、あるいは二月初旬、北国では、まだ雪が残っている時期に、祭りのにわ(斎庭)で一年の田作りを、順を迫って演戯してみせるものがあり、田遊びとも言われるものです。村々の神社では祈年祭にあわせて行われるところも多いようです。
 祈年祭(きねんさい)は、いわゆる「としごいのまつり」のことで、奈良の平安時代の昔、神祇官(じんぎかん)という朝廷の祭りを行う大宮人によって執行された祭礼です。この祭礼は、同時に伊勢神宮を始めて、全国で三千余座の神々に幣帛が奉られました。その後、中央政府の行う祈念祭は、だんだん衰微して、中世の戦乱期には、ほとんど行われなくなってしまいます。しかし、この伝統は各地の神社に伝えられて、明治期に復活され、全国の神社で斎行されています。
 今日では、祈年祭即ち春祭りのことと考えて、さしつかえありません。
 田植祭は、この他、いよいよ本当の田植が行われる頃になって行われる神社もあります。神田のお田植がすむまでは、村の田植もできません。ですから、この祭りは農繁期を迎えて、非常に活気のあるものが多いようです。五月晴れの水田に、あかね襷に、紺がすり、菅笠の早乙女たちが、お囃の音に合せ、一斉に田植するさまは、見事と言う他はありません。
 この他、歩射祭・的射祭など、弓で的を射て、年の吉凶を占なう祭りもこの頃行われます。
 いずれにしても、春祭は、天候に左右されがちな米作りへの、農民の切なる願いのあらわれといってよいでしょう。

  
夏の祭り

 夏祭りの代表的なものとして、京都の八坂神社の祇園祭りと、愛知県の津島神社の祭礼があります。この二つの祭りを参考にして、夏祭の意味を考えてみることにします。
 祭日は、旧暦六月十五日、新暦では、一月遅れの七月十五日を中心に、その前後になる所が多い様です。
 八坂神社も津島神社も祭神は「素戔鳴尊=すさのおのみこと」です。古伝によりますと、素戔鳴尊が南国の娘と結婚するため、旅を続けている途中、あるところで日が暮れてしまい、一夜をあかさなければならなくなりました。そこには、蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)の兄弟がすんでおりました。弟の巨旦将来は、倉をたくさん持っている大金持でしたが、宿をかしません。兄の蘇民将来は、たいへん貧乏でしたけれども、快く承知して、粟がらでお座わりになる場所をつくり、粟飯でもてなしたそうです。数年後、素戔鳴尊は、八人の御子連をつれて帰る途中、蘇民将来に御礼をしたいと思われ、将来に子孫があるかと尋ねられ、蘇民将来に娘や妻のあることを知らされ、腰に茅の輪(ちのわ)を、つけておきなさいと教えました。その後、疫病がはやって、茅の輪をつけていた者は、難を免がれたということです。
 以後「蘇民将来子孫也」と書いて、茅の輪を腰につけておけば、疫病にかからないということです。
 祇園祭りは、山鉾巡行であまりにも有名です。長刀鉾を始め多くの山鉾の絢欄豪華な巡行で、祭りの中心がここにある様な気がしますが、祇園祭りの本質は別なところにあります。
 神社での行事は、七月一日から、七月三十一日まで一ケ月も続きます。その中で、人目にふれるのは、ほんの一部といえるでしょう。七月十五日の晩、浄闇のうちに三其の神輿に、神霊をお遷しする儀式が行われ、十七日に四条通りのお旅所までの神幸祭が行われます。この時、山鉾の巡行があります。神輿は、お旅所に二十四日まで御駐輦、神事の後、本社へおかえりになります。
 津島神社の夏祭りは、京都の山鉾巡行を水上にうつしたものと言えます。この祭りは、準備から終るまで、約ニケ月にも及びます。祭りの中心は、お旅所の神輿のところへ、天王川を五艘の車楽船(だんじりぶね)が津島囃子を奏しながら参詣するところです。これより前、神社では、神葭(みよし)を刈り取る秘儀があり、これを前年の葭と交換して本殿へ納め、古い葭は祭りの終了後、川へ流す神事も行われます。このような所にも、罪やけがれを、祓い清め流しやる夏祭りの本質があるようです。
 この他、各地の夏祭りは、茅の輪をくぐって祓をする神事や、那智や吉田の火祭り等があります。暑い夏を無事にすごそうとした昔の人の智恵が感じられる祭りが多いようです。

   
秋の祭り

 春の祈年祭に対応して、秋は、新嘗祭(にいなめさい)があります。一般には、秋祭りと言われています。新穀の収穫感謝が本義の祭礼です。伊勢神宮では、この祭事を神嘗祭(かんなめさい)と言って、神宮第一の厳儀となっています。古くは、九月十七日に行われましたが、現在は十月十七日に行われています。
 各地の秋祭りもこの頃が最も多い時期です。
 宮中では、今も昔も十一月二十三日に新嘗祭が行われます。現在、勤労感謝の日として、国民の祝日になっていますが、その根本は、この新嘗祭の思想が流れているのです。新嘗祭は、天皇陛下が皇祖天照大御神に新穀をすすめられるのと同時に、陛下御自身も食されるお祭りです.天皇陛下が御即位の時の新嘗祭を、特に、「大嘗祭=だいじょうさい」と申します。
 全国の神社でも、十一月二十三日には、新嘗祭が行われます。民間では、霜月(しもつき)まつり等と言って、同種同様の祭りが各地にあるようです。十一月末頃は、季節的には冬でしょうが、その祭の内容は秋まつりであると言えるものです。
 一口に秋祭りと言っても、祭日は、まちまちです。収穫が済んでからすぐ行われるものと、約一ケ月後に行われるものとがあるようです。どちらも、非常に古い伝統を持った祭りで、一方を本来の秋祭りと定めることは出来ないようです。神社神道の起源が非常に古いだけに、祭典も複雑になってきたのだと思われます。ですから、両方の祭りを行う神社も、全国にはたくさんあります。
 いずれにしても、秋祭りは、新穀の収穫感謝を本義とする祭札です。

   
冬の祭り

 お正月を直前に控えた、十二月になって例大祭を行う神社もあります。こんな時期に祭りをするのかと言う疑問があろうかと思いますが、簡単に言うと、冬の祭りは、お籠り(おこもり) に重点があるようです。来るべき春にそなえて、エネルギーをたくわえるわけです。一年間の活動を終了し、充分休養をとって、また再び春の活動が約束されるわけです。
 しかし、祭礼の所作を、正月までの短い期間に行うわけですから、祭りの焦点は、お籠りよりも、若々しい活力がよみがえる所作に中心があるようです。秋の新嘗祭にも、実はそうした意味があるともいわれています。
 明治の改暦以後、神社の祭日には、多くの変化がありました。しかし、この種の祭りだけは、どうしても正月前に執行しなければ、意味がないと言って、それを守っている神社は、たくさんあります。
 冬の集りば、来るべき春の活動のための準備、又は、一陽来福の春が早く訪れるよう願いをこめた祭りと言えます。

   
むすび

 以上、簡単に季節ごとに執行される祭りの「しくみ」と意義について説明してみましたが、祭りは、このような形態だけに限るものではありません。祭りは夫々の土地で生活と密接につながっているものです。ですから地域ごとに、少しづつ形を変えて執行されていますので、今までの説明が「祭り」についての全てではありません。
 御承知のように、日本は南北に長い国土ですから、同じ稲作にしても栽培期間がだいぶずれています。二期作が可能なところもあれば、一年の大半を雪にとざされた地方もあります。こうした所で、季節ごとの祭りの意味が少しつつ変化していくのは、当然のことと言えます。それにもかかわらず、大体日本中で同じような祭りが行われてきているのは、昔から日本が一つにまとまっていたからなのでしょう。
 祭りは、非常に長い間、祖先から子孫へと代々継がれて来た、かけがえのないものです。このかけがえのない大切なものを、今の代で意味のわからないものにしたくはないものです。
 祭りの伝続や心を正しく理解し伝えて、ますます祭りが盛んになるようにしたいものです。それは、家族の幸福、地域社会の繁栄、ひいては、国家の安泰へとつながるものに違いありません。

曳山塗替え
 唐津曳山のうち、五番曳山魚屋町「鯛」(弘化二年・一八四五年製作)は、今、曳山会館の修理庫で全面塗り替中である。昭和三十四年に全面塗り替えをしており、今年は二十二年ぶり製作以来五回目の塗り替えである。
 御承知のように「鯛」曳山は、昭和三十九年「美しの日本博」に「源義経の兜・呉服町」「珠取獅子・京町」「七宝丸・江川町」と共に、兵庫県宝塚に出動、昭和四十九年には、「日本の祭り」に「金獅子・本町」と共に出動、更に昭和五十四年には、フランス国ニースのカーニバルに出動、唐津曳山の名を、内外にひろめた曳山である。
 漆塗りには、適度の湿気が必要とあって、梅雨時期が重要な時期だそうです。今でも修理庫内には、濡れ筵が張り廻らされております。
 先づ、前に塗ってあった漆を剥ぎ、その後何回も漆を塗り重ねて、その上に、あの目にも鮮かな、仕上漆に、金銀を施す工法で約半歳を要すと言われています。漆工芸の技術保持者は、唐津市内に数人だそうで、「鯛」曳山は、江川町の宮口鍛氏によって塗り替えが進められています。
 この秋には、ひときわ美くなった鯛が、唐津町中を元気に泳ぐことでしょう。 尚、曳山の塗り替えは、このあと、中町・平野町・京町等でも計画中とのことで、ここ数年は、毎年、新しく生れかわった曳山が見られそうです。


初 供 日

 初供日は、来るべき唐津くんちに備え、曳山の清掃、車の調子の点検等をし、又、本日から、曳山囃稽古初めを神前に報告し、大御祭りが無事円満に遂行するよう祈る祭です。この日は、祭典の後、囃保存会を始め曳山十四ケ町の囃子の奉納があります。
◎十月九日午後七時斎行
◎唐津神社社頭


総代異動

新 町 中山仁太郎 帰幽
弓鷹町 尾島 繁一 退任
弓鷹町 山本 正  就任
西城内 交野 忠  帰幽
山下五 下尾新八郎 帰幽
富士見 小杉政次郎 退任
富士見 坂本 陽一 就任
木綿町 (名誉総代)
     牧原 繁蔵 帰幽
西城内 桑原 掬治 就任