唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第41号  昭和56年4月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
春祭
5月5日午前11時30分
 献幣使参向


 春まつりは、秋の収穫感謝のまつりに対して、豊穣祈願のまつりである。
 唐津神社の春まつりは五月五日で、今年も城まつりと同日に盛大にとり行われますが、唐津神祭との春秋の二大例祭は右のような意味のもので、典型的な祈願、奉賽の一対のまつりで、日本のまつりの中心をなすものであります。
 祭典は午前十一時半より鍋島朝純佐賀県神社庁長が献幣使として参向し、唐津市長始め氏子総代来賓等が参列して宮司以下十名が奉仕して厳粛に斎行されます。
 この春まつりには神賑行事が賑やかに奉納されますが、今年は曳山行事が国の重要無形民俗文化財に指定されたのを記念して全曳山の奉祝曳出しが予定されています。

曳山社頭勢揃
池ノ坊生花奉納

宮司就任の御挨拶
唐津神社宮司
戸 川 省 吾

 このたび、戸川健太郎宮司のあとをうけまして、皆様の御推挙をいただき、こゝに唐津神社宮司を拝命いたしました。
 まことに光栄の至りに存じますと共に、その責任の重大なることを痛感いたし身の引き締る思いでございます。
 今後は至らぬ身ながら一生懸命に努むる覚悟でございます。何卒氏子皆様方の格段の御援助をお願い申上げます。
 そもそも唐津神社は、悠久の昔、神功皇后さまが御親ら御鎮銀祭遊ばされましてより、神田宗次公の篤い信仰心に支えられ、孝謙天皇の御代「唐津大明神」の神号を賜わりました由緒正しく且つ深いお宮がらでございまして、爾来この松浦地方の総鎮守として、郷党の崇敬を集め、神威、霊験益々いやちこに輝き亘り、今日に見る御社頭の隆盛を見ますことは、これ正に神明のお加護をいただきながら氏子皆様の終始変らぬ崇敬奉仕の賜ものと深く感謝申上ぐる次第でございます。
 又、降って、一身一家のことを顧みますれば、社家戸川の先祖である神田大蔵惟次の孫、神田甚太夫惟長が唐津大明神神主として、はじめて家督を継ぎましたのは、慶長十年のことでございまして、以来歳を経ること三百七十六年、代を重ぬること十三代と相成ります。
 初代は、あたかも寺沢広高公が初めて唐津城を築かれ、唐津大明神を藩の守護神として篤く崇敬された時と時を同じうしたと思われます。
 以来藩公も、大久保公代三十年、松平公代十四年、土井公代七十二年、水野公代五十六年、小笠原公代五十五年とつづく藩政の時代も、神主家は変ることなく二代寛文元年戸川和泉掾藤原長忠、三代寛文二年戸川内記惟忠、四代元文八年戸川民部惟則、五代享保二十年戸川民部惟高、六代戸川壱岐守惟雪、七代戸川安房惟寅八代文化八年従五位下戸川美濃守惟成、九代天保十五年従五位下戸川甲斐守惟誠十代慶応三年従五位下戸川美濃守惟俊と代を重ねて神勤を勤めて明治維新を迎えました。
 この藩政時代に於ける氏子の崇敬心はいよいよ篤く寛文年中には早くも祭礼の振興を期して、神幸祭を初めて実施してより、傘鉾山走山、流鏑馬(やぶさめ)などの神賑行事を作り出し順次その内容の充実を図りながら、やがて小笠原公入部の頃文政二年には氏子の意気を示して刀町が現在の一番曳山赤獅子を造って奉納するや氏子町内競って曳山造りに力を入れ維新後明治九年までに町内十六ケ町の内十五町が奉納するところとなったのであります。
 この事実は何としても見逃し得ない事実であって、氏神、氏子の絆の如何に堅く、太く、強いかということを如実に物語っているものであります。
 しかも、そのことは年と共に盛んとなり、今日見るような隆盛を来しました。
 さて、明治になりますや神社行政にも変革がなされ従来の藩の干渉も無くなり氏子は自由に社頭に詣でて感謝の言葉も申上げ又お願いごとをすることが出来るようになり、その親密度は一段と深くなりました。
 そしてそのことは次の事実がよく物語っていると言えましょう。
 そもそも明神さまは、当時城廊の中央に鎮座ましましておられるので、城下の町に住んでいる氏子の人々は城門の出入が厳しく、とかく不自由のため、滅多に神前へ出てお詣りすることも出来なかったのであります。
 維新後は逸早く大手門も廃止され、城中との往来は自由とはなったものゝ、町から参拝に行来するには尚不便なため、従来の参道の明神小路を拡張し、現在のまいづる百貨店の脇の城の濠を埋立てゝ一直線に大手口と社頭を結ぶ参道を新設せんと計画し、時の氏子総代前川仁兵衛氏らを先頭に各町の氏子一体となって毎日勤労奉仕をして延何百人という人々の尊い労力奉仕を以って美事に完成を見たのであります。時は明治二十六年のことでありました。
 翌明治二十七年には拝殿の改築を成し遂げました。
 この拝殿は、間口六間、奥行四間、千鳥破風付向拝唐破風造りで現在の拝殿より大型の結構で堂々たるものでした。
 その後大正三年には、年々盛んになる唐津供日に備えて、参拝人の増加に伴う危険防止又見世物小鼻の敷地の確保などのため社頭の民地六百坪を買収してこれに当て(現在の文化会館敷地及前庭)ました。
 又、大正七年には、その隣接地を買収しその三百坪の敷地に大正十三年社務所を新築して、広く氏子の集会にも利用して、こゝに会合して氏子相互の親密を図り乍ら、当時白蟻の被害で困っていた社殿の総改築の構想を錬り、やがて昭和四年新社殿建設予定地三百坪を買収しました。
 そして、昭和十三年改築工事を起し一ケ年を費し現社殿が新敷地に見事に完成を見ました。
 それから、昭和十七年には氏子待望の県社列格が実現し、時の佐賀県知事田中省吾氏が幣帛供進使として親しく参向し、国家神道制度下に於ける最高の祭典となったのであります。
 このように、明治、大正昭和と年代を追いながら、宮司も戸川惟俊、戸川顕とつづき、その間氏子の先輩等が莫大な浄財を拠出して民地の買収千二百坪、社務所の新築より社殿の総改築完成まで短期間にこれだけの変容、進展を見ましたのは、これ一重に先輩氏子総代さんを始め氏子皆様の格段の奉仕によるものでありまして、先人の遺徳を偲びますればたゞたゞ感激の極みでございます。
 これより、戦後の一大変革期を迎えましてからは、占領軍の「神道指令」に基く不当な干渉により、神道本来の営みも困難を余儀なくされましたが、わが唐津神社に於きましては、幸い戦火にも遭わず、氏子皆様の篤い崇敬心に支えられ国歩困難な時期にも拘らず順調に本来の姿を取戻して行きました。
 戦後の歴史をふりかえってみますと。
 昭和三十六年天皇、皇后両陛下行幸啓に際し曳山を天覧に供することが出来ました。
 昭和三十年には御鎮座一千二百年祭を行い、社殿の修覆工事も併せて進めました。
 昭和四十一年戸川顕官司退任、戸川健太郎宮司に就任し顕前宮司は名誉宮司の称号を神社本庁より戴ました。
 この年神饌所の屋根を銅板葺にするなどいたしました。
 昭和四十三年には、数年前より懸案となっていた神祭の期日変更の問題もようやく結論が出て、十一月三日、四日とすることに決まりこの年から実施に踏み切ることになりました。
 この年二月名誉宮司戸川顕は八十九才を以って帰幽いたしました。
 まことに一つの時代が終ったという感がありました。昭和四十四年大手口の参道上にあった大鳥居の移転又同時に社号標、木綿町より奉納の大燈篭の移転も行われました。
 昭和四十五年には市民待望の文化会館と曳山展示館が美事に完成し、社頭の景観は一変し賽者も頓に増加を見ることとなりました。
 昭和四十九年の唐津神祭に際し、三笠宮三殿下の御親拝をいただく光栄に浴しました。
 皇族の御参拝は未曽有のことにて永く当神社の歴史に遺るものでございます。
 つづいて、昭和五十二年には三笠宮妃殿下の歌碑を建立し、神祭当日親しく除幕式に御臨席を賜わりました。
 昭和五十年には御鎮座千二百二十年祭を執行し記念として境内へ守礼授与所を新築し、曳山取締会より奉納の鳥居より曳山会館前参道の開設で参拝者の便も良くなり幸いなことであります。
 今こゝに、宮司の重責を継ぐに当りまして、静かに歴史を振り返えり、私の知らない遠い時代から、そして眼の辺りに経験したことまで悠久の歴史の流れを貫く信仰の一筋を吾々は祖孫一体となって護って参りました。その永い永い鎖の一環をしっかり結びつけ完全なものにして次代へ譲らねばなりません。
 何卒今後も変らぬ氏子皆様の暖い御援助をいたゞきながら先輩諸賢の遺業に恥じない勤めを果したいと存じます。
 こゝに所信を申述べまして就任の初挨拶といたします。

御 挨 拶
名誉宮司 戸川健太郎

         私儀
 豫て関係の筋へ願ひ出ておりました処、本年二月五日付を以ちまして、「願により本職を免ずる」との辞令を載き、唐津神社宮司を辞任致しました。宮司在任中は、氏子総代様始め、各位の御芳情を賜り、お蔭様を以ちまして父祖伝来の大任を恙なく相納め、新宮司へ引き継ぐことができました。
 顧みますれば、一意専心、父祖伝来の神明奉仕を志し上京以来、特に終戦直後の混乱期に、国内全ての神社の存立さえ憂慮さるべき時代を乗り越 へ、今日の各神社の御社頭の殷賑なるを見ます時感概一入のものがございます。父、顕宮司にかわって唐津神社宮司を拝命してからは、唐津神祭の祭日変更を始め、一の鳥居の 移転と境内整備、文化会館建設による境内地の一部売却、曳山会館建設に伴ふ新規事業の着手、授与所の建設、新参道の開設等と、社務大禍なく遂行できましたのも、氏子の皆様始め関係各位の御高配の偽物と、改めて、有難く厚く御礼申し上げます。
 唐津神社の神主を拝命してから今日に至るまで、御旅所は三度ほど、位置や構造の変化を余儀なくされております。願わくば、近い将来、唐津神社御鎮座の縁深き、松浦の海辺の聖地への卸神幸が叶ひますよう、尚一層の御尽力をお祈りする次第でございます。
 宮司を辞任しましたものの、今回図らずも、関係の筋より、唐津神社名誉宮司の称号を賜り、感激も新に、御神思奉謝の意を強くしている所でございます。今後共、御神威の発揚を旨として精励する所存でございますれば、新宮司共々宜敷く、御指導御鞭撻賜りますよう御願ひ申し上げ、併せて、皆様方の益々の弥栄を祈念致しまして、宮司退任の御挨拶と致します。

唐津曳山
米国ディズニーランドへ


 唐津曳山第十番曳山平野町「上杉謙信の兜」は、アメリカ国カリフォルニヤ州ロスアンジェルス郊外アナハイム市と、同所ディズニーランドの招きを受け、去る三月二十八日〜二十九日に、ディズニーランド日本祭に出動しました。曳山本体は、二月二十六日唐津を出発し、太平洋を渡り米国へ、曳子は脇山英治=唐津曳山米国派遣団=団長以下総員八十名、三月二十六日に出発し、空路ハワイ経由でディズニーランドへ。
 到着翌日に曳山の組立、奉曳コースの下検分、アナハイム市長へ表敬訪問等準備完了。明けて、三月二十八日は、日本祭(フェスティパル・ジャパン)に参加。皆、くんちさながらに、ディズニーランド内を曳き、花柳三祐師匠以下の曳山踊りも花を添え、からつくんちが最高と大評判。
 三月二十九日(日)も、日本祭に参加、駐ロスアンジェルス日本総領事を始め、在米日本人又、在米唐津出身者及びその関係者等の来訪も多く見受けられました。この日は、日本祭終了後、曳山を解体梱包し、夜は、日本各地より参加していた約八百人の人々と、ジャパンナイトという、大夕食会に出席、ディズニーランドより参加賞が贈られ、からつくんちが絶賛されました。

鳥居天満宮献灯式

 木綿町奉斎の鳥居天満宮
は、本年御鎮座二〇〇年の
式年大祭を迎へ、町内より
大燈篭一対が奉献され、二
月二十日に、式年大祭並に
献燈式が執行され、記念餅
つき等で賑った。

氏子総代異動

西城内 交野 忠 新任
 〃  向  実 帰幽
名誉総代 大塚幸二郎帰幽