唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。 |
唐津神社社報 第39号 昭和55年4月1日発行 |
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂 |
春まつり
五月五日午前十一時半
献幣使参向
春まつりは、秋の収穫感謝のまつりに対して、豊穣祈願のまつりである。
唐津神社の春まつりは五月五日で、今年も城まつりと同日に盛大にとり行われますが、唐津神祭との春秋の二大例祭は右のような意味のもので、典型的な祈願、奉賽の一対のまつりで、日本のまつりの中心をなすものであります。
祭典は午前十一時半より鍋島朝純佐賀県神社庁長が献幣使として参向し、唐津市長始め氏子総代来賓等が参列して宮司以下十名が奉仕して厳粛に斎行されます。
この春まつりには神賑行事が賑やかに奉納されますが、今年は曳山行事が国の重要無形民俗文化財に指定されたのを記念して全曳山の奉祝曳出しが予定されています。
曳 山 巡 行
奉納生花池ノ坊社中
奉賛神賑行事 城まつり振興会
“唐津くんちの曳山行事”
国の重要無形民俗文化財に指定
唐津神社の秋の神幸祭、いわゆる唐津くんち≠ェ文化財保護審議会の答申に基き、文部大臣により、重要無形民俗文化財に去る一月二十八日付で指定され、二月一日文化庁長官から交付された。
曳山十四台は既に去る昭和三十三年佐賀県重要民俗資料の指定を受けているが、今回は広く供日の祭の行事全体を指定の対象としたもので一層意義深いものとなっている。
この指定交付式は、二月一日午前十一時から東京の国立教育会館で行われ、この指定の対象者たる脇山英治総取締に中野陶痴副総取締と神社から戸川省吾祢宜が同行して参列し親しく犬丸直文化庁長官から交付を受けた。
長官は、その式辞の中で「日本の総ての伝統文化は、実に祭によって生れ、祭によって支えられ、祭によって伝えられたといっても過言ではない」と言われた。
昨年から始められたこの大規模指定の対象となった、京都の祇園祭、高山の屋台祭、博多山笠、長崎くんち又今年指定の戸畑提燈山笠などそのすべてが神社の祭に奉納される神事芸能ばかりである。
今回指定を受けた神社並曳山関係者は勿論市民こぞってこれを喜び、この伝統行事の運営、管理、保存についてはこれを機会に再検討を加え、改むべき点は勇気をもってこれが実行を図るなど正しい伝統の保持に一層の決意を示した。
尚、市に於ては、この指定を祝って二月二十日付の市報に指定書や曳山の写真とともに市長の喜びの言葉を掲載して市民とその喜びをともにした。 |
文化財指定記念祝賀会
三月八日盛大に
今回の文化財指定を記念して、唐津市長、唐津神社曳山取締会が主催してその祝賀会が三月八日午後三時から唐津シーサイドハイツグリンホールに於て盛大に行われた。
この記念祝賀会は、官民、氏子総代、曳山各町有志又、昨年鯛山のニースカーニバル出動に協賛した四十名の人々を加え実に五百三十名に上る大人数にさしものグリンホールも満席となる有様。
式典は二部に分かれ、第一部は、瀬戸本部取締の司会で、中野副総取締の開式の辞から始まり、瀬戸唐津市長の式辞、香月佐賀県知事の祝辞(県教育次長)、小原佐賀県議会議長(亀井県会議員)につゞいて、谷垣専一文部大臣、犬丸直文化庁長官、保利耕輔衆議院議員、山口淑子参議院議員香月熊雄佐賀県知事、小原嘉登次県会議長、香月義人佐賀銀行頭取、市場直次郎県文化財保護委員各氏からの祝電披露があり、次に主催者の謝辞を戸川健太郎宮司と脇山英治曳山総取締とが申述べて一旦幕を降し、舞台から静かに山囃子が流れ、やがて勇壮なせり囃子が会場にこだまして山曳き気分が会場に満ち溢れくんち情緒が盛り上り第一部式典の眼玉となる。
やがて、趣きを違えて藤間千勢師匠による祝舞を披露して式典最終の華を添えた。ついで中野副総取締の閉会の辞で第一部の次第を終え第二部へ移る。
第二部の司会は藤野本部取締の担当で進める。
先ず、金子勝商唐津商工会議所会頭の音頭で今度の指定を祝って乾杯して祝宴に入り、神酒がまわるにつれて舞台ではめづら会師匠連の踊りや、楢崎直次郎氏の漢詩による祝辞、飛び入りの余興が次々に舞台を賑わせ最後に田中佐十次副議長の発声で全員で力強く万歳を三唱して大盛況の裡に午後五時半閉会となる。
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佐賀県知事祝辞
唐津供日の曳山行事が重要無形民俗文化財の指定を受け、その祝賀会が催されるに当り一言ごあいさつ申し上げます。
すでにご存知のとおり 「唐津曳山十四台」は県の文化財として指定をいたしておりましたが今回「曳山行事」そのものが国の重要無形民俗文化財ということで指定を受けたわけでございます。
これは、国の方で最近進めております「大規模なまつり行事」の保存顕彰施策の一環でありまして、青森のねぶた、秋田の竿灯、戸畑の祗園大山笠行事等と共に、地域的特色が豊かで規模の大きい民俗行事として今回の指定となったわけでございます。
申すまでもなく、民俗文化財は、我々の祖先が汗にまみれ、土にまみれて育て伝えつゞけた行事でありまして、日本人の生活と切っても切れないものであります。
このような、身近かな生きた文化遺産も、戦後の生活様式の急激な変化に伴ない、衰亡の危機が叫ばれているのでありまして、今、保護、保存、伝承の手を加えないと取かえしがつかないと言われている所以であります。
昨年、開館されました本市の歴史民族資料館と合わせて、今回の唐津供日の曳山行事の指定は、その意味でも意義深いことでございますし、又、ふるさと唐津を愛する人々をはじめ佐賀県民の誇りである民俗行事の価値が国によって公認されたことは、まことにおめでたいことと申さねばなりません。
唐津ッ子の血をわかす曳山行事が、今回の指定を契機として、後継者の養成をはじめ、皆さんの御努力により、ますます盛んになり未ながく伝承されることを祈念いたす次第であります。
最後に今日の良き日を迎えるにあたりまして、永年にわたって種々ご苦労いたされました各町の取締の皆様をはじめ、関係者の方々に対しまして、深甚の敬意を表し、お祝いの言葉といたします。
昭和五十五年三月八日
佐賀県知事香月熊雄
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唐津神祭御旅所の
奉遷建設をめざして
関係機関への要望書から
●神幸祭の由来
天平の昔、唐津大明神と詔命を賜った旧暦九月二十九日を古来例祭日と定め、寛文年間より神幸祭を行って参りましたが、大正二年時勢の推移に鑑みて陽暦に直して十月二十九日と改め唐津供日と称して、唐津人には親しみ深く定着して居りましたが、近時世情繁多となり、この一大祭礼行事を月末に行うことは市民の経済運営の上に支障が多く、又氏子児童、生徒の山曳き参加のことなどもあり、五十年間親しまれた十月二十九日を本殿祭とし、神幸祭を十一月三日、四日と去る昭和四十三年から変更して斎行されていますが幸い年々賽者も増加し益々盛大となって参りました。
さて、松浦の海浜に住吉の三神を祀った処が即ち西の浜御旅所でありまして、俗に明神台といわれた処で由緒の深い、この時と処を忘れず二基の神輿が渡御されるのであります。
これには、氏子十四の町々から出される曳山が神輿の前後を奉護して盛大な曳山まつりが展開されることは御承知の通りであります。
●御旅所の変遷について 古記録によれば、御旅所のはじめて設けられたのは、神幸祭の創められた寛文年間のことで、その位置は現在仮設のものの設けられる辺であります。
西の木屋山内家より奉納の神幸行列絵図に描かれているのがそれで、その有様がよくわかります。
その後大正十年九月氏子総代会で移転改築が決議され、十月に完工しています
位置は、旧地より南方へ四十三間の処とし当時の県立唐津高等女学校に依頼した高台の海面を一望に臨む景勝の他にあり、その構造は高さ四尺の花崗岩の石垣にて面積六十坪、工費七百余円は氏子の浄財を以て賄われた。とあり、又この記録には
一、御旅所の向は「海岸臨御の意を体し北方を正面とすること。」
一、神輿は西側に一の宮を東側に二の宮を安置すること古来の例なり。
一、山車は、南部を上位とし刀町より新町まで七台は西側に一列に、本町より江川町若しくは水主町までは東側にこれも七台一列に整列するものなり。
とあります。
この御旅所はその後昭和三十二年まで存在しました。
然るにこの年県立唐津西高等学枚の運動場拡張のため、海岸寄りの旧地のあたりへ移築を余儀なくされましたが、やがて又、昭和三十五年には市立大成小学校々舎の建設に伴いその敷地となるため市の要請により、昭和三十七年遂にその施設を全く撤去せざるを得なくなったのであります。
この時市当局と契約を結び、仮設組立式の御旅所を毎年その都度建設撤去すること。その費用は市が負担すること。又今後いつの日か時機到らば海浜の浄地に昔の形の御旅所の建設を約して今日に至っているのであります。
●新御旅所建設のお願い これまで、神幸祭の由来御旅所の変遷などを申し述べましたが、吾等氏子一同はその由緒に基く、古来の仕来のまゝの正しい形の建設を念願しながら早二十年の歳月が経過しようとしています。
この間現地の海浜の地形も漸時変容し、富士見町の海岸は砂地も相当広範囲に亘り堆積するなどして居り市におかれても、旧松原の復活なども計画され、既にその一帯に松の苗木を植えられたと聞き及んでいます。
かゝる景勝の地を造成される中に、その一環として
新御旅所の設置を計画に入れて、旧態に復した施設の新設と曳山勢揃いの大広前の整備とをお願いして、天下に冠たる唐津供日の一大祭礼絵巻を展開することが出来ますならば、氏子一同これに優る喜ぴはありません。市御当局に於かれましては、以上の維緯を充分御賢察の上この際新御旅所の建設に格段の御配慮を賜わらんことを懇願して止みません。
新町奉斎
白玉稲荷社鎮祭
新町区より奉斎の白玉稲荷牡は、社殿が古くなり、新鎮座地を唐津神社境内に求め、先に地鎮祭を行い、船越建設の工事によってこのほど見事に竣工した。
新社殿は、境内西側に東面して建てられ、素木入母屋造銅板葺である。
この神社はその昔、佐志黒崎観隆院の観達と云う人が始めて新町の他に勧請した杜で、その子孫の上田氏が神主として奉仕し、町内はもとより、遠近よりの信者により篤い信仰が捧げられ効験あらたかな神徳がある。
近年社殿の衰損が劇しくその上、鎮座地も市街の繁華地で適地でないので新地への遷座が決まったもので四月十三日の佳日に御造営遷坐の祭典が盛大に執り行われた。
氏子総代会議
三月二十四日総会を開き次の事項につき協議した。 今総会は改選後初めてのもので、新総代七十三名の紹介にはじまり予算その他を審議した。
一、 昭和五十五年度社費歳入歳出予算
今年度より氏子奉納金の増額が認められ年間一戸当り二百円の増額となる。
別面参照
一、 春祭執行の件
別掲の通り、五月五日執行のこと
一、 総代表彰の件
二十年勤続奉仕の氏子総代、辻庚一、中山仁太郎、蒲原小一、藤原藤吉、 井上貢の五氏を春祭当日表彰すること。
一、神輿台車格納庫建設の件
従来のものは狭隘で不便なため、二車同時に格納出来るものを建設すること。
一、新御旅所建設の件
別掲の如く新御旅所の建設を期して鋭意進行中のこと。
氏子総代改選
今年は当神社の氏子総代の任期満了による改選が行われて、各町よりの推薦と、第一区内町、第二区域内、第三区郭外よりの推薦との全員七十三名が決ったので去る三月二十四日初総会を開き、就任奉告祭の後宮司より委嘱状を交付して、今後四年間の御奉仕をお願いした。
新総代の氏名は次の通り。
唐津神社氏子総代一覧
(本 町) |
平岡 清一
牟田 岩雄
竹本 忠 |
(呉服町) |
三根 勇
前田 政美 |
(八百屋町) |
関 一雄 |
(中 町) |
古川 軫三 |
(木綿町) |
正田 歳夫 |
(京 町) |
岩下 忠正 |
(刀 町) |
太田 庫造
辻 庚一 |
(米屋町) |
平田 正廣 |
(紺屋町) |
田口喜代治 |
(魚屋町) |
鶴田 耕太
脇山 英治
正田 定見 |
(平野町) |
袈裟丸春雄 |
(新 町) |
中山仁太郎 |
(弓鷹町) |
尾島 繁一
永田 千里 |
(高砂町) |
高仲 重喜 |
(東城内) |
近藤 隆
江藤正次郎
木村 勝
岸川 欽一
常安 弘通 |
(大名小路) |
石河 博介
北島 辰助
松岡伊三治 |
(西城内) |
桑原 末男
中野 英敏
井口四雄造
吉岡 勝行
向 実 |
(南城内) |
永富 納
吉田 仁一
鈴木 哲男
村瀬めぐみ
平松 栄一 |
(北城内) |
皆良田傳吉
蒲原 小一
九鬼 勉
成瀬 キク
落合 秀明 |
(坊主町) |
藤田 文雄
古賀 柾雄
加勢田喜代美
鶴田 英俊
沖本 冬士
田中 松治
浦田 政夫
鈴木 豊 |
(坊主町山下一丁目) |
松本常男
藤原 藤吉
原口 光雄 |
(山下一丁目) |
田辺 正次 |
(山下二丁目) |
成村 光好
井上 貢 |
(山下三丁目) |
戸川 鐵
山崎 一郎 |
(山下四丁目) |
繁田 進 |
(山下五丁目) |
下尾新八郎 |
(桜馬場) |
中山 次雄
山浦 正
草川 展二 |
(西旗町) |
吉田常五郎 |
(元旗町) |
菊地 義國 |
(西浜町) |
和田 正也 |
(富士見町) |
小杉政次郎
外尾 兼利 |
(南富士見町) |
佐々木常太
梅村 弘司
小柴 利幸 |
名誉氏子総代 |
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(北城内) |
竹尾 彦己 |
(京 町) |
大塚幸二郎 |
(木綿町) |
牧原 繁蔵 |
(西旗町) |
野田 久八 |
(呉服町) |
白井 新作
大橋 喜一 |
(大名小路) |
石田安智賀 |
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