唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第38号  昭和54年10月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
唐 津 神 祭
十月九日午後七時
◎初供日祭 曳山囃奉納

十月二十九日午前九時
◎神輿飾ノ儀
 総行司 大石町、紺屋町

十月二十九日午前十一時
◎本殿祭

十一月二日午後九時
◎宵宮 各曳山万灯を付け社頭曳込
 総行司 一の宮 大石町
 総行司 二の宮 紺屋町

十一月三日午前五時
◎神田獅子舞奉納

十一月三日午前九時三十分
◎御神幸発輿 (煙火合図)
 市内一巡
 正午西ノ浜御旅所祭
 各町曳山勢揃
 午後三時御旅所発輿還御

十一月四日
◎翌日祭午前十時三十分
 各町曳山市内巡行
西参道開設
 鳥居社号標奉献
 去る昭和四十五年曳山展示場が開設され曳山が常時展覧出来るようになってから、展示館正面に社号標と鳥居を建て参道を開設することは年来の念願であったが、この春見事に竣工を見た。
 この中、社号標は、前曳山総取締平田常治氏の子息平田直広氏からの奉献であり、その他は曳山取締会が先に行った三笠宮妃殿下の歌碑建立、商工会議所百年記念東京出動、海外のフランスニースカーニバルの出動などの画期的な行事がいづれも盛大に、無事に修め得たので神恩を感謝しその奉賽記念として参道開設、鳥居建立、朱の透塀建設、幟石柱建設を計画奉献したものである。
 この計画に協賛して工事を担当した浜玉町下川重機社長下川従道氏は工事費の大半を奉納されるなど皆さんの熱誠あふれる御奉仕によって出来上ったもので、去る五月三日奉告祭のあと通り初めをして完成を祝った。
 因に、新鳥居は、明神鳥居で、玉島産石ミカゲ、笠木長四・九メートル、高さ三・四メートル、額束七〇センナ、四〇センチ、柱直径三六センチ。
 社号標、野北石、自然石高さ一・二六メートル。
 参道、ミカゲ石敷、長さ一二メートル、巾三・五メートル
 幟石柱、石ミカゲ一対、高さ一・五メートル
 文字は、鳥居額、社号標とも宮司戸川健太郎の揮毫による。

唐津曳山囃
   の写真から

 此の程標記の様な珍らしい写真が水主町の佐々木初雄氏のお宅にて発見された。発見者は只今曳山囃子師範たる田中富三郎氏である。それは熊本放送局JOGKの開局一周年記念行事として九州各地方民芸を放送することとなり我唐津の曳山囃も之に参加すべく其囃方を組織して熊本に出向、放送の大役を終え多大の成果をおさめたのである。此の事は昭和四年六月のことで我唐津神社々報にも載せたことでくどくどしくは云はないが昭和四年と云っても昨日のようしか思えないが何時の間にか丁度五十年と云う歳月がたっているので改めて当時の模様をおぽろげながらでも振返ってみよう。
 先づ写真説明に及び、右より笛の西尾猪之吉氏、水生町で蒲鉾を商う、三十五才。鉦の佐々木初雄氏、大工職、二十二才。唯一人の生存者。笛の松尾清治氏同じく水主町にて大工職四十四才、笛の古館正二郎氏、呉服町にて玩具商を営む五十三才、笛の木下忠氏刀町大手口にて木下愛文堂の若主人二十五才唐津町長萩谷勇之介氏、五十三才。太鼓の木下又蔵氏呉服町にて米穀商三十三才。道囃師範肥後屋目薬事刀町の高添藤五郎氏七十才笛の市丸一氏刀町大手口にて漬物商の若主人三十一才笛の平田吾一氏米屋町にて印刷業三十五才 初め局よりの要請にて町役場観光係落合勇一氏は萩谷町長の命を受けて大いに乗気となり右の如き顔触を招集し毎夜唐津神社彰敬館に集って熱心に稽古に励んだのであるが高添氏は当時七十才の高齢ながら尚**として進んで指導に当られた。と云うのは氏は当時既にまぼろしの秘曲と云はれた道囃しの唯一人の熟達者で御自分も兼々この秘曲を後世に残すべく心がけて居られたがたまたま此の催しに事寄せて、競囃しと同様にこの道囃を稽古してこれを復活完成させて放送しよう。それには自分も一生懸命になって指導に当るので皆も六ケ敷いものであろうが私と一体となって是非習得して貰らいたい。私が若しものことがあったらもうこの曲は再び日のめを見ることもなかろう。と言った工合であったから皆全力を尽くしてこれを全うし唐津地方へも初めて電波に乗ってラジオ放送と言う当時明い話題となった。そしてこの道囃の生命が受継れたと云わざる得ない。
 それから二十年たった昭和二十四年には唐津神社が主催して前記木下、市丸両氏を師範に仰ぎ唐津神社彰敬館にて十日間の講習会を開き宮田正二、一色高義、一色耕次郎、篠崎正義、戸川健太郎の習得者が出来上りその後田中富三郎、宮田一男、堀c、福島資千、松本千代蔵、野田邦次、小島惣一氏等次々に現れてお務めになっていることは誠に喜しい限りである。
 所で再び写真を見て二三の方々を紹介に及びたい。第一に萩谷氏は時の唐津町長で初め警視庁巡査となり当時政友会の権勢並なき大島破竹郎佐賀県知事の推薦にて鳥取警察署長より唐津町長に迎えられ当時町村合併大唐津建設の声かまびすしき折柄よく民芸にも意を用いやがて町村合併市制執行の後一時野に下りしも助役となり昭和十三年には目出度く第三代の唐津市長となった市政の大功労者である。古館氏は呉服町で玩具を商う曳山の古儀に詳しく殊に錣と結び方に精通す。笛の名手として深く天理教を信じられた。此店には笛の竹紙があった一寸四方の紙折の中に五六枚入っていた。その表には漢文にて竹紙の能書が書いてあった。もうそんな店もなくこの竹紙が懐しくてたまらない。木下又蔵氏は太鼓と笛の名手で体格抜群呉服町にて米を商い強い力持ちで家業に精を出されたので商売繁昌であった。
 特に、太政はよくなりひびいたのであるが、そして又一方希に見る達筆で高添師範よりおそわった秘曲を御自分なりの楽譜を考案し清書して所持された。市丸氏は大手口の真中の市丸漬物店の若主人で更に笛のみに止らず尺八、バヨリンも上手で前記の如く後進生養成の為に努力された。木下忠氏はこれも大手口木下愛文堂の若主人。この人も笛のみでなく尺八、バヨリンはもとより油絵をよくし八ミリ映写機等も当時既にものして居られた。愛文堂より大手ビルと発展途上にて早世されたのは痛惜の至りである。大手口ビルは戦後まいずると更に発展してその社長夫人の厳父であることは人のよく知る所である。

曳山二台出場
NHK ひるぷれ″
和田アキ子の西九州の旅
 NHKでは去る八月十日全国放映の「ひるのプレゼント和田アキ子の西九州の旅」に曳山材木町と本町が協力することゝなり、七月十二日午後二時から西の浜辺の海とお城を背景に勇壮な山曳きと彼女の得意の歌いぶりを二時間に亘って録画した。
 この日は好天に恵まれ、久しぶりに海の見える美しい砂浜に山を曳き入れ存分に曳き回り昔の神祭の御旅所風景を再現した。


本殿・千木
 勝男木を改修

 「高天原に千木高しりて」と神前に唱えるのりとの文句にもある社殿の屋根の上に天に向ってそそり立つ千木、勝男木はお宮のシンボルで神社建築にはなくてはならぬものである。
 唐津神社本殿の千木と勝男木は、昭和十三年改築の際のもので、この四十年の風雪に耐えきれず東側のもの各一本が朽ち果てて落下せんばかりになったため池田年行氏の手で復元工事を行いこの程見事に完成を見取付けを終り、去る八月二十六日奉告祭を行った。