唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第34号  昭和52年10月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
昭和五十年歌会初    御題『祭』
 我も
  また
  祭に
   酔ひぬ
 獅子の
  山車 兜の
     山車
         と
     続きゆく
         みて
 

お歌を拝して


宮 司 戸 川 健太郎

 去る昭和四十九年十一月二日、三笠宮崇仁親王殿下三笠宮百合子妃殿下、三笠宮寛仁親王殿下には、唐津神社へ親しく御参拝に相成
りました。
 当日は恰も唐津くんちの宵祭でございまして、御参拝の後は宵山の勇杜な社頭曳込みを、又翌三日の神幸祭には社頭曳出しの光景を親しくご覧いただきました。
 そして、その御感想を昭和五十年の新年御歌会始の御題「祭」に御詠進になりました。

 我もまた祭りに酔ひぬ
 獅子の山車
  兜の山車と続きゆく
  見て

 このお歌を拝しますと、唐津児が祭りに溶け込んでいるのを見て、はたの者までついその中へ引き入れられるその気持ちを実によく表現なされていて、まことに感激の極みでございます。
 今回、妃殿下のお手づからなるお歌を頂戴いたしまして、曳山取締会が事に当って歌碑となし、曳山展示場玄関前に建立して、永く拝誦することになりましたことは、誠に意義深いことでございます。
 ここに三笠宮家の弥栄を寿ぎ奉り、又このことにお骨折りいただきました皆様に厚く御礼を申上げましてお祝いの言葉といたします。



歌碑建立を祝して
  曳山総取締 脇 山 英 治

三笠宮両殿下並に若宮殿下が昭和四十九年十一月一日に唐津市で開催されました全国リクレーション大会に台臨になり翌二日の宵曳山と三日の本祭りの当日神社前の勇壮なる曳出しの様子を御覧になり妃殿下にはその折の御印象を翌五十年の新年宮中歌会初めの儀の御確「祭り」に

 われもまた祭りに酔いぬ
 獅子の山車兜の山車と続
 きゆく見て

と御詠進になりかしこき宮中を始め全国にまで御披露載きましたことは我々にとって無上の光栄であり感激の極みに存ずる次第であります。我々曳山関係者は此の喜びを後世にまで残す方法として瀬戸唐津市長の御賛同を得曳山会館前に歌碑を建立することになり妃殿下御直筆の御下賜について昭和五十二年二月五日折よくNHK主催の第一回全回郷土芸能祭典に新町飛竜出演のため上京の折佐賀県東京事務所長安元氏の案内にて市側から瀬戸市長、草場、大武の諸氏曳山関係から小生、中野陶痴、尾花の諸君と宮家に伺候致しました。竹中事務官を通じ一応書類を提出して帰りましたが思いの外早く請願が御裁可になり過日瀬戸市長上京の折拝受して帰られました。このことは近年に於ける曳山の歴史を飾る画期的な事業でありますので関係者一同心を浄め十月中旬完成を目指し専心工事の進捗に努めて居る次第であります。これも編えに市民各位の御愛顧の賜と衷心より厚く御礼申上げます。
 余談ですが宮家の応接間で竹中事務官と面談中我々としては予て切角御直筆を御下賜載くなら「山車」を「曳山」と書いて載きたいものだと身勝手な相談をして居りましたので少々勇気を出してその事を率直に申し上げましたるところジット設計書をみつめて居られた竹中事務官はやおら顔を上げられうつろなまなざしで我々一同を見廻しながら 「ハッ何ですか」と問い返されましたので再度一呼吸のあと更に勇気を出して 「山車を曳山と書いて載くよう妃殿下に御願いして下さいませんでしょうか」と申しましたら竹中事務官は 「一寸待って下さい」といいつつスーツと椅子を立たれて急ぎ足で別室に行かれ白い表紙の薄いとじ込みを持って来られ一枚一枚丁寧に頁をめくられて妃殿下の和歌の「山車」のくだりを強く指さし乍ら 「山車」と御詠みになって居られます。
 「山車が正しいのです」
と直裁明快なる御返事があり我々の微衷は見事にペチャンコになりました。
私は勿論ですが隣の中野陶痴さんも日項の唐津っ子の生のよさはどこへやら深々と頭を垂れて「ごもっともでございます」と見るも哀れなほど恐れ入ってしまいました。
 今更ながら畏こきあたりの深遠さをしみじみと感知させて載いた次第でした。

唐 津 く ん ち
10月29日  本 殿 祭
11月 2日  宵   祭
11月 3日  神幸大祭
11月 4日  翌 日 祭

 総行司  材木町・京 町

材木町曳山塗替成る
 唐津曳山のうち、三番曳山(材木町・浦島と亀=天保十二年製作)は、今年塗替を行い、最後の仕上が順調に進んでいる。これは、昭和三十年に塗替えられて以来二十二年振りのことで今年のおくんちには、若々しい 「浦島と亀」が見られる筈である。漆塗りには湿気を要する工程が多く、今夏のように暗天続きでは作業日程が難しいと、塗師の宮口鍛氏(江川町)は、雨待ち作業に気をもむことしきりとか。因に塗替費用は前回約八十万円、今回は、県・市の補助金だけでも軽く二百万円を超えているそうである。
 玉手箱を開けば、とたんに老人になるのが浦島の話ですが、玉手箱を開けたら若くなるのは唐津の浦島だけのようです。このように約二十年毎に、若々しい元の姿に若返るのは、日本人個有の精神で、吉事の兆しを願う姿と申せましょう。
お札を毎年配られるわけと古いお札の処理法
 神宮大麻をはじめ神社のお札は、何故毎年新らしく配られるか、また、お受けすべきかというに、元来神霊のやどり給うものは清浄にせねばなりません。そこで神社以外でお祭りをする場合、神の降りを願うために立てる神籬(ひもろぎ)などは、一度一度取り換えるのであります。だからお札もしばしば取り換えるのがよいので、殊に多くは紙で作られているので、一年もたてば包も古びてきますから、どうしても年末には一度は取換える必要があるのです。
 新年というのは不思議なもので、橘曙覧が
 春にあけてまづ見る書も
 天地のはじめのときとよ
 み出づるかな
と歌い、荒木田守武が
 元朝や神代のことも思はるる
と詠まれたように、日本人の心には、新年と神代とは切っても切れぬ関係を持っています。この年の初めに、日本国民の総祖神と申すべき天照大神をはじめ、氏神さまの新らしいみしるしを拝み、これによって心持を一層新らしくしてゆくことが、神のめぐみと祖先の思に感謝し、清き明きまことをもって世に処する自覚を強めるゆえんでもあります。
 古いお札は、地方によっては、それが多くあればあるはど、その家のほこりとしている所もありますが、なるべくは新らしいお札と入れ換えに取出し、清浄な場所で焼くとか、近くの神社に持参して焼納してもらうべきです。
 当唐津神社に於きましては、大晦日の夜氏子の家々から納められた古神札を山と積み上げ、焼納祭を泰仕して、忌火を以っておたきあげをいたします。
 年末煤払いの時神棚のお掃除をすませて、新らしいお札を納め祭り、古いお札は拝殿前の「古神札納め箱」へ納めて下さい。
 尚、この古いお札の焼納祭の清い火のほのほにあたれば無病息災、運気増進の御加護があるとして、参拝者が沢山あります。

  これからの祭典
 十一月   九日    新嘗祭
 十一月  十五日    七五三祭
 十一月二十七日    大麻頒布祭
 十二月三十一日    大祓・古神札
               焼納祭・除夜祭