唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第32号  昭和51年10月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂

奉祝 天皇陛下 御在位50年奉祝祭春祭

昭和51年11月10日 午前11時斎行
唐津くんち
総行司 中町・木綿町
10月29日
11月 2日
11月 3日
11月 4日
 本殿祭
 宵 祭
 神幸大祭
 翌日祭
唐津神祭を迎えて
 宮司 戸 川 健太郎
 今年昭和五十一年は、突如起ったロッキード事件にて、与党、政府を煽動して政情不安の様相を呈するそのさ中に、赤機突然に飛来して我国土を侵犯する等誠に慨歓に禍えざる災禍の年と言うべきであります。
 これより先私共神職は昨年に引続き皇室国家の尊厳を守り、一世一元、国旗、国歌の法制化、靖国神社国家護持法、津市地鎮祭の達成等のため同志祀職と共に乍不及力を致しております こうした中に、我郷土にては、千戴一遇の国民体育大会が開かれることゝなり早や真の大会が行なわれこれに臨み給う皇太子殿下には護国神社にも御参拝頂き同神社では宮司以下関係者一同多数参列の上臨時大祭を厳粛盛大に執行ない、県内一同に多大の感銘を与へ大いに皇室の尊厳をお守り申し上げ、又、殿下よりは親しくお言葉を賜り、秋の国体目指して県民一同之が完遂の心組みも現われて、政情不安災禍の昨今に一縷の曙光を見出しましたることは誠に嬉しいことでございます。
 こうした吉祥を頂きつゝ我唐津神社にも秋の例祭が近づいて参りました。
 そもそも、秋祭とは、春の祈年祭即ち年ごいのまつりと言う、年殻の稔りを祈り延ては商工農工林漁業等所謂諸職業の繁栄を祈りて諸民此事に努力の甲斐あり大いにみのり、この稔りし米を神に供え、又、酒に醸みなして神に供えるという新殻感謝・諸職業繁栄御礼の祭りであり、神に供えますので、供日と言うわけも又、ここにありということであります。
 ところで、この祭を行なう日が旧暦九月二十九日に最も近き十一月三日という日で、この日はこの神社が松浦の海辺即ちこの浦の浜に初めて御現われ給い、唐津大明神と詔命を賜わった今を去る千二百二十一年前の天平勝宝七年九月二十九日という極めて由緒深い日でありますから、今も尚、この浦浜に御旅所を設けて
明神さまには、一の宮、二の宮と二基の神輿にて、この故地の海を臨給うべく御遊行になり、之に供奉する氏子十四ケ町の曳山は誠に見事なもので、殊に、御旅所練り込みは又、壮観なるものでありまして、唐津神祭と称えられておりまする意味は前記新殻供えの日と神社御祭神顕現の日という二つの意味が重なっていることによるもので唐津供日と言うて大賑わいを呈することは周知の通りでこざいます。
 所で先号でも申した通り一体神社の祭りの様相が包容的、公共的で神社が法制的には一宗教として取り扱かわれている現在とは申せ全国的にその地域全体のお祭りであり、例えは正月詣りと言えば宗教思想を超越して数千万の日本人が各自の氏神に参拝するのでありまして、我が唐津供日にも何十万の大衆が参拝し、一年中、心の中にこの祭りを楽しんでいるのであります。
 そして、今年も、この祭の中心となる曳山、曳子は一本の曳綱に力をこめて曳出し、又、采を振って世情不安を初め諸々の災禍を祓い清め放りやれと、又、何十万という参拝者にもこの心を以ってお祈りいただきたいものであります。
 責任役員の改選
 今般白井新作氏は責任役員を辞任されたので、去る七月五日総代会で脇山英治氏を推薦した。
 これにより、岸川欽一、平田常治、脇山英治の三氏が責任役員となった。
 尚、白井新作氏には総代会で名誉総代に推薦し今後とも神社の興隆に御尽力をいただくことになった。

 参道敷石を奉納
 京町区では、京町通りをカラー舗装にしたのを機にそれまでの道路の敷石(御影石)を奉献した。
 これは、京町氏子総代岩下忠正氏等町内皆さんの御尽力によるもので、神社では、これを機に参道を改修して敷石に改むるべく計画を進めている。

 曳山絵図を奉納
   大原 令光氏
 本町の大原令光氏には、今般、特製の『曳山絵図』を奉納された。
 これは、同氏が、事業繁栄を祈願して奉納されたもので、特殊写真版のため、一見すれば、陶版を思わせる出来栄で見事な額である。

 市丸 一氏 逝去
 唐津曳山囃子のうち、幻の秘曲となりつゝあった「道ばやし』を伝承され、曳山囃子の今時隆盛なるに貢献された市丸一氏には八月二十五日帰幽された。
 氏は刀町の出身で、唐津曳山囃子特別功労者として道囃子の伝承及び普及に当られた。
 尚、葬儀には、有志により曳山囃子が霊前に奉奏され故人にふさわしい葬送であった。