唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第29号  昭和50年4月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
 由   緒
 神功皇后さまが三韓へ御渡海の折、舟路が 不明のため、住吉の三神に祈願され無事目的を達成せられて、御帰還の際、松浦の海浜に 鏡を捧げておいのりされたのが起源とされています。
 その後数百年も経って、その社殿さえわからなくなっていたとき、時の領主神田宗次公に、或夜神が夢枕に立たれ「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるをとりていのれ」というお告げをいたゞき、早速海浜に至れば波間に一つの箱があり、これ開けば正に宝鏡であった。
 宗次公はこれ正しく、昔神功皇后が捧げられし宝鏡ならんと、その神威を畏こみ、このことを時の帝孝謙天皇に奏聞せられたところ朝廷におかれてはその神威を感じ給い詔命を降して「唐津大明神」と賜ったのであります。
 その後幾星霜を経て文治二年その子孫神田広に至り社殿を再建して、祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二ノ宮としました。
 慶長七年寺沢公が築城に際しては領内の守護神として崇敬し、その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、総氏神として崇敬の誠を捧げました。
 明治六年郷杜、昭和十七年県社に列格、戦後は宗教法人として今日に至りました。
唐   津   神   社
御   鎮   座
一千二百二十年式年祭
五月五日午前十時
 奉 祝 行 事
◎社頭曳山勢揃
◎奉納生花
◎新町、大石町  曳山一三〇年祭
◎江川町、水主町  曳山一〇〇年祭
◎城まつり協賛
式年祭を迎えて
 宮 司 戸川健太郎
 式年祭を迎えるに当り、謹んで御挨拶を申し上げます。
 当神社は別掲の由緒の如く、そもそも、神功皇后さまの御創建によるものでございまして、その後神田五郎宗次公の神夢の霊告によって鎮祭せられ、天平勝宝七年神号を「唐津大明神」と賜った年以来、実に永い年月をこの松浦の里人の氏神さまとして尊崇せられて参ったのでございます。
 以来今年は恰も一千二百二十年という、区切りの年すなはち、式年の佳き年を迎えましたので、新緑の候五月五日を祭日と定め、厳粛なる祭典を斎行するものでございます。
 式年とは、永い時の流れを一定の期間に区切って、折目をつけ、その節、節に当った年をいうもので、その時にお祭りを奉仕して、新な神の恩頼(みたまのふゆ)を戴き、生命の再生を願うものでございます。
 みなさま御承知の伊勢神宮の式年祭が最も理想的な式年のお祭りでございます。
 神宮では、先ず、神さまのお住いである、御社殿の改築を始めて、一切の御調度品を新調して、ものみな新たにして、すがすがしい気分をもって、そして新たな神威をいたゞくわけでございます。
 当神社におきましては、そんな大規模な行事などは許されませんが、その式年祭の意味するもの、奉仕する吾々氏子の気持はすこしも変りありません。
 今年は又、天皇陛下の御即位五十年という年を迎えたことは、未だその例をみないことで、まことにお目出たい極みでございます。
 尚又、曳山の中で、新町飛龍、大石町鳳凰丸が百三十年祭、江川町七宝丸と水主町鯱がいずれも百年というこれ又目出たい年を迎えました。
 昭和五十年は、こんな目出たいことが、揃ってやって来ました。
 このようなわけで、この祭典は、氏子皆さま方の敬神の真心をもって、立派な意義ある、神恩奉謝と氏子の弥栄を祈願いたしたいと存じます。
 次にこの式年祭の記念事業として、境内に常設の神札授与所を建設することになりました。
 正月、春祭、おくんちなどの時活用させていたゞきます。
 なお、これに要する経費は別途積立金より充てることにしましたので御了承をお願いゝたします。
 今後一層の御協賛をいたゞきますようお願いゝたしまして御挨拶といたします。


 式年祭に際して
 氏子総代白井新作

 去る昭和三十年には御鎮座千二百年祭を、先代宮司や先輩総代方と奉仕し、そして又、今年千二百二十年祭の目出度い年を迎えまして、この五月五日には、式年祭が執り行われますことは、氏子一同のこの上ない慶びでございます。 年々歳々変らぬ祭事を重ねて、そして二十年に一度の式年を迎えることは、一見単調な年月の経過を無意味にすごして行くように思われますが、実はそこにはその時の流れに従って、常に修理固成、生成発展して止まない神理の発現があり神と人とのかゝわりの中に進展があるのでございます。
 かゝる意味から、今度の式年祭の奉仕を通じて神意を体し、平和で豊かな郷土唐津の発展と、氏子の康寧とを祈念するものでございます。
 氏子総代異動
坊主町 加茂好吉氏退任
  〃  浦田政夫氏就任
魚屋町 吉田 至氏退任
  〃  前田末之助氏〃
  〃  鶴田耕太氏就任
三笠宮殿下御参拝
唐津くんちにお成り

 三笠宮崇仁親王殿下、同妃百合子殿下、寛仁親王殿下には昨年十一月二日唐津神社に御参拝あらせられました。
 三宮さまにはこの日午前九時宿舎のシーサイドホテルより社頭に御到着、宮司が御先導申上げ、三の鳥居前にて権禰宜が奉仕する手水をおつかいになり、拝殿前で、禰宜の修祓をお受けの後、宮司がすゝむる太玉串をお執りになり、御昇殿の上、大御輿前に御奉尊御拝を賜わりました。
 それより菊展を御覧になり、再び御徒歩にて、商工会議所バルコニーの御立台に向われ、こゝで宵山社頭曳込みの模様を御覧になりました。
 明くる十一月三日の神幸祭当日は再び御立台より神輿渡御、曳山曳山しの光景を親しく御覧いたゞきました。
 このたびの宮さまの御参拝は、唐津市で全国レクレーション大会が開催され、その総裁として御臨席になったもので、幸いくんちと時期を同じくしたゝめ、関係の方々のお骨折りによって実現したものであります。
 皇族方が地方の神社へ御参拝をいたゞくことは数少ないことで、当神社の光栄とするところであります。
 関係者各位のお骨折りを感謝申上げます。
 最後に三笠宮家の弥栄を寿ぎ奉ります。
   
   
 
 
 







宮中歌会始 お題 まつり

 
三笠宮妃殿下お歌

 
我もまた
  祭りに酔ひぬ
   獅子の山車
  兜の山車と
   続きゆく見て


 
三笠宮寛仁親王殿下

 
祭の夜
  若者たちの
   輪に入りて
  郡上踊りに
   興ずる我は


 妃殿下のお歌は山曳きを御覧になられての御感動の御様子が伺えます。
 又、寛仁さまのお歌は唐津での宵まつりの宵、文化会館前の広場で、レクレーション大会員によるフォークダンス会がひらかれ、宮さまもおはいりになっての愉快な御様子が伺えます。
 このダンス大会の音楽が他地方の民謡ばかりであったゝめ、岩田教育長の機転によって、地元の歌を是非ともと、言うことで、急遽めづら会の名手を動員して郡上音頭や河内音頭に代って唐津音頭がうたい踊られて地元の面目をほどこしたという、こぼればなしもありました。