唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第26号  昭和48年10月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
唐 津 く ん ち
11月3日・4日
 ◎お祭り
  十月九日       初供日祭
  十月二十九日    みこし飾
       〃      本殿祭
  十一月三日
 ◎御神幸
 お下り
 お供揃       午前八時半
 発輿祭       午前九時
 発 輿       午前九時半
 お旅所祭     正  午
 お旅所お上り  午後三時

◎曳山順行
 宵山曳   十一月二日午後九時
 神輿供奉   〃 三日午前九時半
 お旅所勢揃  〃 三日 正 午
 翌日祭     〃 四日午前十時

唐津神社由緒

 神功皇后三韓を征し給うや西海茫々として舟師向う処を知るに由なし。時に皇后「願くば一条の舟路を示せ」と住吉の三神に祈り給えば、奇なるかな間もなく風波治まり、海上忽ち光輝ありて皇軍を導くものの如し。依りて舟路を得、三韓を平治し拾う。凱旋の後、神徳著しきを感じ松浦の海浜に銑を捧げて住吉の三神即ち底筒男命・中筒男命・表筒男命を祀り給う。之即ち当社の創始にして一ノ宮とす。後此の処を明神台と称し御旅所となる。
 然るに其後数百年を経て漸く衰退し、社殿自ら廃滅に頻せんとする時、恰も孝謙天皇の御宇神田五郎宗次公一夕神夢を得て海浜に至れは、一筐の波間に浮び来るあり。之を採りて開けば一宝鏡なり。之正しく神功皇后の捧げ給いしものならんと驚き敬い、時の帝に奏聞す。朝廷神徳を感じ詔命を降し唐津大明神と賜う。時に天平勝宝七年九月二十九日なり。後此の日を例祭日と定む。
 爾来郷党の崇敬加わり、文治二年神田広公の時に至り社殿を再興し、祖先五郎宗次の功を追慕し其の霊を合祀して二ノ宮とす。
 文安二年波多三河守親公田地を寄進して尊崇す。
 慶長七年寺沢志摩守広高公唐津築城及城下町設立に際し現在地に社地を設定し社殿を改築して領内の守護神として崇敬せり。明治六年郷杜に列し唐津神社と改称す。其後境内拡張、社殿の総改築成りて昭和十七年県祉に昇格す。戦後社地社殿旧に変ることなく、四時祭礼怠らず、社頭愈々殷賑なり。
住吉大神、神功皇后三韓平定の舟路を導き給う

 唐津神祭
 前述の如く天平の昔唐津大明神と詔命を賜いし旧暦九月二十九日を例祭日と定め松浦の海浜に三神を祀りし処今西ノ浜御旅所にして明神台と称す。由緒深きこの時・処を忘るることなく一ノ宮・二ノ宮の二基の神輿はこの御旅所に神幸す。其の壮観なること今も昔も変ることなく益々盛大なり。
 茲に例祭日たる旧暦九月二十九日に付き一言せざるべからず。この九月二十九日たるや往昔よりのものにして明治に至り諸事陽暦採取の後迄行れつつあるも、他行事の陽暦にて執行さるるに付き支障を来たし、旁々以て其の筋よりの奨めもあり、大正二年より月後れの陽暦たる十月二十九日に改定断行し、以後六十年間唐津市民に親まれて定着せり。然るに昭和三十二、三年の頃より十月二十九日に此の大行事を行うに付、多忙なる月末の勘定日たる事、政教分離の建前より休日にあらざること、従って曳山曳子の取得に支障あること、外来観覧者の多きを計ること、其他交通取締上のこと等のことよりして日曜又は祝日に行わるるよう市内諸団体挙りて陳情せり。
 かくて神社も時代の推移、世の変革又諸般の状勢を考え旧暦九日二十九日に最も近き国の祝日たる十一月三日を唐津神祭日に定むと云うことに決定し、既に昭和四十三年より実行し好結果をおさめつつ本年六度目を迎えんとす。乍去くどくも申す通り、この十一月三日たるや唐津大明神の顕現なし給いし旧暦九月二十九日の謂なることは言を俟たざる次第にて氏子の皆様ここん処を篤と御了承なされ度く神社としては唯希望迄申添うる次第なり。
 扨てこの神幸は他に類例を見ざる氏子十四ケ町より十四台の曳山、神輿の前後を奉護随伴せるものにして先祓いと称する刀町、中町なる青丹一対の獅子頭を初め、材木町の浦島に亀、又呉服町の九郎判官義経、木綿町の武田信玄諏訪法性、上杉謙信は平野町、さては米屋町の頼光酒天童子、以上夫々の兜、それに魚屋町の鯛、大石町・江川町の龍頭鵄首の船、新町の飛龍、更には本町京町の金獅子玉取獅子、さては水主町の鯱鉾に至る迄総て十四台。皆漆塗の一閑張りにして金銀青丹精巧なる彫刻を施したるあり。珠玉をちりばめたるもあり。高さ一丈六尺。重さ五千斤。曳子各町百名文政天保の頃より明治九年迄の作成にして当時参千両を費せりと云う。
 十一月三日午前九時発輿行列中は秋天の陽光に相映じ燦爛目をうばうものありこれによりて沿道に堵列せる拝観の群衆益々多きを加うる真中を曳子若者等は「せりばやし」と称する鼓笛の囃に連れ精気撥溂とし駈り行けど然もその列を乱さず順を違えず氏子中を一巡して、やがて正午西ノ浜に練込み勢揃いせんとする瞬時こそは、壮観を呈する高潮の頂点にして其の囃の音律自ら活気漲り曳子の生気悉く曳山に依り憑り曳山の霊気曳子に射映し山か曳子か、曳子か山か、暉然融合して、豪華絢爛たる一幅の絵巻物の活画を展開せるさ中に神輿は御旅所に着御なされ、神明には此の壮観なる状を見行しつつ厳に御旅所祭を行うに依り拝観の群衆をして誠に感激せしむるに余りあり。
 尚此の日は新穀奉揃神恩奉謝の日に当りければ、唐津供日と称し曳山勢揃いの後この西ノ浜の白砂に各町幔幕を張り一重一瓢を携えて楽しくお籠りを致す外、全市各戸に酒肴を用意して曳子はもとより賽者拝観者の知る知らずに不拘饗応振舞をすれば、遠近の来集極めて多く、所謂無礼構にして又興行物・露店等社頭に雲集し、神人和楽の殷賑を呈すこと九州はおろか全国諸祭礼中屈指のものたるは世既に定評ある所なり。


 唐津神社に於ける神前結婚式について
 十月から椅子式に


 中古以来貴族階級の正式 の結婚式には先づ神坐を設けて伊ざ那岐、伊ざ那美( いざなぎ、いざなみ)の二神を勧請、その前で神酒改 めの式を行なう習慣がありました。
 それは神代の昔伊ざ那岐伊ざ那みの二神がオノコロ島に於て八尋殿(やひろどの)を見たてられ、トツギノワザをなされたと云う古事記・日本書記の神典の神話に基くものでありまするから、広く申せば神前結婚は我国の古風なる仕来りと申すべきでありまするが、現今の様式にて神前で行なうに至りましたのは明治三十五年、大正天皇の御成婚記念に、東京大神宮で行ない始めたのがもとであると言われ、さして古くからのことではありません。
 しかし近来は全国的に広まり、その数も非常に増加して参りました。
 凡そ結婚は人生の重大事であって、一生の幸不幸の分れを決するものですから厳粛に行なわねばなりません。従って真に夫婦一体となって苦楽を共にし、互いに手をとり合って世の荒浪を凌いで行こうとする覚悟を固むる上からも尊厳なる神社の大前に誓を父わし祖神の恩頼を将来の生活の上に仰ごうとする真の神前結婚式こそ最も日本人に相応わしい儀式であると思います。
 扨て唐津神社に於ける神前結婚式の歴史を尋ねてみますと、大正三年に初めて行なわれました。その第一号は現在当唐津神社の氏子総代である呉服町の白井新作氏御夫婦で今尚御健在の上、唐津の長老として御活躍中であります。誠にお芽出度い限りでございます。
 当時は年間数組の挙式しかございませんでしたが、年々この風か弘まり戦前戦後を通じ大層盛んになり、只今迄六十年を経て、その歴史の中に明神様の大前で結ばれた方々は相当の数に昇ることでございましょう。
 大正十三年に現在の彰敬館が新築されるや、結婚式は専らこの広前で行なわれる様になりました。
 この当時結婚式と云えば必ず夜に行なわれたもので双方の家々の人々は家紋の入った提灯をさげて嫁迎え等もあり春や秋のしっとりとした夜のひとときを燈りのゆらぐ清く静かな神前で契りの式が取り結ばれたもので、何とも情緒豊かな雰囲気でした。当夜此の盛儀を見んものと親戚縁者や近所の人々等が式場を取り囲んで見守り二人の前途を祝福する等それはそれは賑やかな光景も見られました。昭和十四年社殿の大改築があってからはこの新装の社殿で再び挙式が始まりました。やがて戦争の時代を迎えてからは若者は戦場へ征って式を挙げる人の数も少くなりましたが、それでも何組かはありました。そういう時期の服装は花婿は国民服や軍刀をさげた軍人さんに花嫁さんもモソペ姿で簡素な様式でした。
 この様な簡素な姿は戦後物が不足した時代の何年か続いてやがて国力の充実と経済の復興なるに連れて今日の様な姿となりました。
 従来それぞれの氏神様で行なわれていたのも次第に弘がり、ホテルや会館にも式場が出来て挙式から披露迄一貫して済まされる様な便利なものが沢山出来ました。
 こんな風潮の中で唐津神社の神前結婚では長時間板の間に坐わらせられ、足の痺れを我慢しての苦行だと不評を買うに至りました。
 そこで氏子総代様とも諮り椅子(胡床)机等を新調して腰掛式の謂所立礼式を採用することとして既に九月の挙式から始めています。
 今後は楽な姿勢で挙式が出来ますので、せいぜい御利用下さるようお知らせ致します。

 氏子総代異動

 本町平岡清一氏就任
 坊主町鶴田英俊氏就任
 東城内山口大司氏帰幽
 坊主町坂本光雄氏帰幽

春まつり賑う
大名行列に
総代さん出演


 唐津神社の春祭は五月六日午前十時より佐賀県神社庁長が献幣使として参向して斎行された。
 この日第七回城まつりも行われ、絶好の五月晴に恵まれ、県内外から連休レジャーをかねて、延べ十万人の人出で賑った。
 社頭には曳山が勢揃いし子供まつりの山ばやしも賑やかに、金銀青丹の曳山が五月の陽光に輝き見物の人を喜ばせた。
 この日の呼物の大名行列には、今年は唐津神社の氏子総代五十名が参加することとなり殿様には大総代の白井新作氏、伴侍には平田常治氏、井上貢氏の両人が扮装もりりしく、お姫さんには宇木の平島ミチ子さんがあで姿で出演し、沿道の観衆の拍手をうけた。
中町・呉服町曳山 式年を迎える

 二番曳山中町青獅子と四番曳山呉服町義経の兜は誕生以来百五十年と百三十年のめでたい式年の年を迎えた。
 中町は文政七年、呉服町は天保十五年に夫々製作し奉納されたものである。
 唐津神社のおくんち祭は寛文年中にはじめて神輿渡御が行われ、それから九十一年の後、宝歴2年から氏子の町々から傘鉾山がお供をした。又その後五十年を経て享和年中には走り山が作られたが、それから十八年後の文政二年に現在の刀町赤獅子が生れ、明治九年水主町まで五十七年間に十五台の曳山が生れた。
 寛文年中に神輿のおでましがはじまってから実に三百年を超える年月である。その中で中町と呉服町の曳山は、三番山材木町をはさんで二十年の隔りがある。
 当時はいわゆる化政文化が花ひらいた時代で、明治維新の変革期までのよき時代であったのであろう。
 今年このめでたい年を迎えた中町では十月十二日文化会館で披露をし、式年祭を執行し、その後曳山を中町に曳据え、町内で神酒を披露をして祝福した。
 又、呉服町は九月二十三日の秋分の日を卜して式年祭を執り行ない、文化会館に於て来賓多数を招いて式典を催し、曳山は呉服町へ曳出し町内式典を行った。

唐津神祭行列図絵巻物刊行

 文化会館のドンチョウなどでなじみ深い唐津神祭行列図が、今度は絵巻物として出来上り好評を得ているこの原画は、当社の御鎮座千二百年祭に際して、魚屋町西の木屋山内小兵衛氏より奉納され、現在曳山展示館に展示されている。
 作者は郷土の画家富野淇園先生である。
 幕末時代の風俗が唐津供日を主題として巧みに画かれている。
 今回の企画は平野書店主と美術出版界の大手東京誠文堂主小川誠一郎氏との親交の中から生れたもの。
 尚価格は絵巻物一、五〇〇円、略装一、二〇〇円取扱店大手口平野書店。