唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第26号  昭和48年4月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
氏子総代変更

 氏子総代の変更お知らせ
 富士見町
   井口四雄造氏退任
 北城内
   村島賢士氏退任
 北城内
   成瀬キク氏就任
 東城内
   大田尾隆蔵氏帰幽
 東城内
   川原徳三郎氏就任
 本町
   大西儀三郎氏帰幽


唐津神社権禰宜に戸川惟継就任

 四月一日付を以って、当社権禰宜として戸川惟継が就任しました。
 宮司戸川健太郎の長男で国学院大学神道学科を卒業後奈良県橿原神宮権禰宜として奉務中のところ、このたび父祖伝来奉務の当神社に御奉仕が叶いました。何卒氏子皆さまの御指導をお願い申上げます。

曳山″に 名称変更を出願
 曳山は昭和三十三年一月 二十三日付で佐賀県重要民俗資料に指定されているがその名称が「唐津山笠」として登録されているため、これを「唐津曳山」と変更するよう佐賀県教育委員会へ陳情書を提出した。
 唐津のヤマに対して山笠というのは不適当であり、曳山とするのが適当であることは、学問的にもいわれることで、くわしい理由づけは当社報の第八号に掲載の通りである。

 春 祭
   五月六日斎行
 唐津神社春季例大祭は、五月六日午前十一時より佐賀県神社庁より献幣使が参向されて執り行なわれます。
 当日は城まつり″第二日目で各種の催し物もあり盛況が予想されます。


唐 津 神 社 春 祭
曳山社頭勢揃
五月六日 年前十一時
五穀豊穣・産業繁栄祈願
献 幣 使 参 向
○奉納生花池ノ坊唐津支部
○奉納演芸唐津まつり振興会

曳山資料あさり

 別項「山笠」の名称より「曳山」の名称に改むべくこのほど願書を認め、其の筋に提出するに当り、之に資料を添付せねばならなくなったが、幸い終戦後より曳山に関する古記録や古伝説などを折にふれて漁っていたことが今度はちょっとばかり役にたった。
 御一新前の唐津神祭の一端をうかがうことも出来た。
 昭和三十三年十一月二十九日九州史学会が唐津に於て開催され、その中に九州大学教授桧垣元吉先生の「唐津藩政史」と題しての公開講演があり、その内容の一として「平松文書」を手にされて、唐津の城下町のこと及び唐津の曳山のことなどを少しばかり話された。そこで小生もこの「平松文書」の中には「山」のことが沢山載っているのではないかと思い、是非一度拝見したいものだと念願し、同年十二月十三日当時唐津史談会副会長にして桧垣先生と最も親しき岩下正忠兄にお願いして、福岡大濠なる先生のお宅を訪れ、この平松文書を拝見して先生より有難き御指示を拝聴し、唐津神祭及び山のことに関する沢山の資料を写させていただいた。
 旧藩時代の書体で読みにくいものだったが、次にその一部を紹介する。
 引山順改正
 御巡幸先年悪疫流行により当年迄二年目
当受持刀町には付出役(中略)大手前御輿御休、魚屋町橋の上にで御休、江川町にて御休、七ツ半より御立 (後略)
 安政六年九月二十六日
 引山順
 一ノ宮    二ノ宮
 江川町     刀 町
 塩屋町     中 町
 木綿町     材木町
 京 町     呉服町
 米屋町     魚屋町
           大石町
          新 町
          本 町
右之通りの順番に有之候間当日朝六ツ半時社殿へ相揃候様御取計可被成候
 これは大町年寄から各町年寄へ配布された唐津神祭神幸曳山打合せの決定事項であろう。
 さて今を去る五十有余年前大正の昔、小生幼少の頃当時七十三、四才にもなっていたであろう祖母から藩政時代の唐津神祭曳山のことに付次のようなことを度々聞かされたものである。
 曰く
 「俺ナズノ子供ノ頃ノ山ハ高クテ、囃モユックリト其ノ曳キ方モ大名小路ニ出ルマデハ道囃デ静カナモンダッタゼ。
 今ハ電線ノタメニ低クテ見苦シクテ、囃モ忙ガシク道囃ナンザ、近イコロ聞イタコトモ無インナ。無クナッテシマッタノカイ。ソウハ言ウモノノ今ノ漆塗リノ囃付ノ山ハ赤獅子、青獅子、鯛、船、飛龍トソシテ金獅子迄ダッタノサ。真先ニ江川町ノ鳥居、次ニ一宮ノお神輿サマ、次ニ塩屋町ノ仁王サマ、次ニ木綿町ノ天狗ノ面デお神輿サマハ本塗デ金具モツイデソレハ立派ナモンダッタガ鳥居卜云イ、天狗サマト云イ、仁王サマト云イ、ソリャオ前粗末ナ仮作リノモノデ、粗末ナ台車ノ上ニチョット載セトルト云ッタ工合ノモノダッタンダンナ。
 曳クトキニモ、曳子ハハッピナドデナク、フダンギデ尻ハショッテ大声デ走り曳イテ、途中デ時々ヒックリカエッテ間ニ合ワセノ修繕ヲスルチュウ風デ、マアヤート大声ヲハリアゲテ車ノキシリモ悪ク、ヒックリカエッテ、ガタンヒッチン山ト、コワレテバラバラニ散ラバルト、サア金槌持ッテコイ、ソレ釘ダトコツコツト打ッツケテ又走り出ストイウ、ソリャオ前、何トモ云エヌオカシナモンダッタサ。
 ソノ後ニ京町ノ屋台デコレハ車ノ上ニ舞台ヲ作リ、町内ノ娘ノ手踊リナドシテ三味線ヲヒイテ静カニ曳イタモンダ。
 ソノ次ニ二ノ宮ノ御神輿サマトナリ、ソノ後ニイヨイヨ真赤ナ本漆塗リノ刀町赤獅子ガドンチキ、ヒューヒユートオ囃ヲシテ、曳子モハッピヲ着テ曳イテクルノデ、ソレハソレハ見ゴタエアル立派ナモンダッタゼ 同ジク青獅子、次ノ亀ノ上ニハ浦島太郎デナク法子ノ玉デ、兜ニモ高イ幟ヲツケテ勢ガアリ、鯛モ飛竜モ高クテ見栄エガシタゼ。船ナンザ、マットナガカッタケレドモ曳キニクイモンダカラ切ッタノサ。
 本町ノ金獅子モ初手ハ右大臣、左大臣デ、天狗ヤ仁王サマニ粗末ナ走山ダッタンダンナ。

以上祖母の話と平松文書とは多少の喰違いはあるが大体符合するようである。
 祖母は嘉永二年の生まれで、この古文書の年号安政六年の頃には十才に達していて唐津神祭の一番面白い年令、自分自身中々の御機嫌で初孫の小生に話してくれた。
 本造りと仮造りの山との併用時代の場面がうかがわれて興味深いものがある。
それにしても紺屋町と平野町と水主町はこの文書にも見当らず、祖母の話にも出てこないので山を造る段取りになっていなかったろうし又米屋町はこの文書は仮の山として載っているが、これまた祖母の話にも出て来ずどんなものだったのか知る由もない。
 間もなく黒獅子が出来、木綿町の天狗の面も信玄の兜に、平野町は上杉謙信の兜に、米屋町は酒天童児に京町は屋台囃から玉取獅子に、江川町は鳥居から七宝丸に、水主町は鯱にと明治九年にして十五台の本山が出揃う次第である。
 今般の「曳山」という資料あさりに因んで、昔の唐津神祭の一端を紹介した次第である。

宮司 戸川健太郎記