唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第25号  昭和47年10月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
 大神のいでましの日の供振りを
  今日はならさんはじめなりけり

 この歌のように・十月九日の初供日祭の囃初めをかわきりに、唐津くんちがはじまります。
 おみゆきが十一月三日に変更されてから、もう五年目を迎えました。今年も氏子のみなさまのご奉仕と、ご協力により盛大にとり行われます。
◎ お祭り
 十月  九日  初供日祭
 十月二十九日  みこし飾
  〃       本殿祭
 十一月 三日  移御祭
  〃      渡  御
  〃      還  御
 十一月 四日  翌日祭
 十一月 五日  みこし納め
  総行司 紺屋町 魚屋町
◎ 御神事 三日
 お下り
     お供揃 午前八時半
     発輿祭 午前九時
     発 輿 午前九時半
     お旅所祭 正午
 お上り発輿 午後三時
◎ 曳山巡行
  宵山曳   二 日  午後九時
  神事供奉  三 日  年前九時半
  翌日祭   四 日  年前十時
唐津神祭行列図 市重要民俗資料に
 唐津神社の「唐津神祭行列図」が九月一日唐津市重要民俗資料に指定された。
 この絵は市内本町の富野淇園氏が魚屋町の酒造家西の木屋山内家の依頼で描いたもので永らく山内家の家宝として伝来されたが、昭和三十年に唐津神社一千二百年祭記念として同家から神社へ奉納された。
 これは、藩政時代の風俗を作者自身が実見して来た記憶をそのま〜に再現したもので、チョンマゲ時代の「おくんちの」の模様が活き活きと画き出されており当時の民俗を識る上からも貴重なものである。
 作者の富野氏は丹倫斎と号し、本町に居住し、その家が旧藩時代使者の宿であったので、お使者屋の先生で通っていた。自宅に塾を開いて、市内の良家の子女に学問を教え絵画を描いておられた。
 この作品は明治十六年五十四才の時のものである。
 富野氏はその後佐賀師範学校の絵画の教師をされたが、明治二十年五十八才で亡くなられた。
 実物は曳山展示館に公開されており、この画面には実に沢山の、当時のあらゆる階級の人々が描かれており、正確にはその人数を知ることが出来なったが、今回の民俗資料指定に当って市教育委員会の伊藤職員が丹念にかぞえ一晦毎に計算された。それによると、
第一幅二三一人、第二幅二一四人、第三幅一五七人、第四幅二〇三人、第五幅三一四人、第六幅三二四人 、第七幅一八六人で合計一、六二八人である。又文化会館大ホ−ルの鍛帳はこの絵を写したものであることは御承知の通り



明神ビル排水溝
  設置方陳情

 もとの小舎時代昭和十五年明神小路両側に小さい乍らも溝が出来た。その時はそれで結構間に合った。
 昭和三十五年曳山格納庫に改築の時には種々事情ありて溝はとりつぶされた。
 今度明神ピルとなっても溝を復活することなしにモーターパイプを用いているので、時々詰ってモーターは空廻りして焼けて故障が際々くるので大層困っている。
 そこで宮司以下総代、委員、店舗主人連署にて早急に排水溝施工方を陳情することとなり、井上貢総代兼委員その案文を練り書類を作成、宮司、総代、委員、主人の署名捺印を得べく奔走して、九月十五日宮司を連れ市長、議長へ書類を奉り陳情する処があった。

花生展示台新調
 従来春祭に際して、池ノ坊唐津支部より生花を奉納して社頭に精彩を加えつつあるが、其展示台も明治初年に作られたもので百年近くになり大分痛んで居り、今年はその新調を思い立ち満島木材店に後援をお願いし、池田棟梁の工事にて四月初旬着工、春祭には間口四間、奥行一間半、屋根・床付の従来のものに勝る見事なる二軒の展示台が出来上り、池ノ坊の人々も大喜びで生花を奉納された。尚此事の一切の事務は北城内の皆良田伝吉、吉野小糸蒲原小一の三氏子総代に相煩わし、池ノ坊唐津支部よりも後援を頂き、前記満島様と共に厚く感謝の意を表す次第である。

四月十五日の
虹ノ松原の合同慰霊祭

 従来このお祭りは招魂祭と称えて神仏両道隔年に行ない来り今年は仏教の順番に当っていたのであるが、政教分離の声又高まりて種々、都合により市御当局も無宗教の形式にて、又今年も雨の為に文化会館にて営まれたが、市民感情の上からも伝統久しい神仏両式を以って、相成るべくは虹の松原にて小雨決行と言うことで執り行なわるる様お願いする次第である

五月三日の春祭
 五月三日午前十一時戸川宮司以下委員、氏子総代、来賓多数参列又佐賀県神社庁より加志田副庁長献幣使として参向修祓開扉、献饌祝詞奏上といとも厳かに進み、やがて戸川宮司献幣使玉串を奉りて拝礼、今年の豊作と安全を祈り後社務所にて直会。此頃より折柄の城まつりも最高調に達し、参拝者ひきもきらず各種催し物社頭に殺到し、又別記生花台二軒も新設されて社頭に精彩を加えつつ終日賑わった。

決算報告氏子総代会
 六月十七日氏子総代参集して、別記昭和四十六年度社費歳入歳出収支明細書及基本財産に付決算報告を行なった。


 氏子各町の夏祈祷
 毎年旧暦五月五日の端午の節句が過ぎると、各町吉日を選び宿を定めて祭壇を設け、町内全部寄集いて夏病気いをせぬ様夫々御祈祷を行なった。

広場に鉄柵
 朱の玉垣の下の広場には近頃無断駐車場と化したる為に、六月中旬鉄柵を施して社頭の尊厳維持に務めつつあり。

唐津神社由緒 国史大辞典登載
 東京の有名書肆吉川弘文館にては今般国史大辞典を再出版することとなり「力行」の部に香椎官等と共に我が唐津神社の由緒縁起を僅かではあるが登載さるることとなり、その執筆方を福岡県文化財専門委員郷土史家筑紫豊氏に依頼あり、依って同氏より唐津神社戸川宮司宛此事に関し照会、去る七月に其の資料を送り只今執筆中である。尚同氏は筥崎宮の社家の出である。

境内の松が枯れる
 今夏唐津地方に於ける松の虫害甚だしく、我が唐津神社にてもその例にもれず境内入口の石段上の一番の景色の処にある相生の松とも云うべき左の松が枯れて来たので、辻村福蔵総代は逸早く薬用撒布をなし、又神社も魚屑を施す等手を尽したが、遂に枯れてしまったので、やむなく切倒して後に補植することとした。

 氏子総代研修旅行
 九月二十日氏子総代研修のため福岡県前原町へ旅行を行なった。参加者四十九名で午前九時出発、前原町川付の宇美八幡宮に至り参拝、武内宮司の御好意で由緒縁起などを拝聴する。当社は元県社で、八幡大神息長足姫命、気比大神をお祀りした地方の古杜で、現在の社殿を改築される時、昭和十五年に総代さん等が唐津神社へ視察に来られたこともあった。次は前原町支登支石墓出土品展示館に至り、係員の解説により見学し、古代文化をしのんだ。その後大入にて会食、牛後四時帰社した。