唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第22号  昭和46年4月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
春まつり 五月二日執行
 恒例の唐津神社春祭りは来る五月二日午前十一時神社本庁より献幣使の参向を得て執り行なわれる。
 この春祭りは、秋のおくんち″と対照的な祭りで季節のはじめの春に神明に五穀の豊穣と民生の安定を祈願する祭りである。
 今年もこの春祭りは、第五回城まつり″と同日に行ない、神賑行事として曳山の展示や各種の催物が奉納され、その盛況が予想される。

曳山渡座祭

 新曳山展示館に曳山を納める儀には先づその名称を種々考慮中であったが、昔は落成式のことを「わたま」と言ったので、その由来を探ってみると、新しく御殿が出来上り神様又高貴なお方がそこへお入りになることを「わたりまし」と言う意味らしく、漢字としては移徒又は渡座とあてはめてあることから考え出し、曳山も貴いものとして展示館も御殿になぞらえ移徒をとらず、渡座祭とは名付けた次第である。
 その期日も十月十八日と決め、当日一旦山を各町内へ持参して顔見世をなし、午後一時米屋町の広小路に集まり文化会館前に勢揃いする。是れより先、新展示館玄関前に祭場を舗設して市長議長外氏子総代、曳山総取締以下曳山関係者全員の参列の上、先づ修祓、戸川宮司祝詞を奏し玉串を捧げて祭典を終れは、直ちに餅撒きをして、又祭場には四斗樽の鏡割をなし、威勢よく景気をつければ、刀町赤獅子は早くもお囃しをして勇ましく曳出せば、各町もこれに続き次々に見事に無事展示館に納まった。その壮観なること各町が競合いつつその囃も高調にて展示館に入る様は思いの外の見世場となり、神祭の最後を飾るに相応しいものとなること疑いなし。
 納め終りて各町場内のよき所に陣取り祝宴を開き、大いに気勢を揚げた。
 この日夜来の雨も上りて絶好の渡座日和に曳山は文化会館と相和して照映え、参観者又予想外に多く、唐津神祭の前奏曲の様で大賑いを呈した。


江川町より発見された
大明神扁額″及
七宝丸″の絵図
曳山展示館に納まる

扁額の奉告祭
 江川町より発見されたる郷土絵師雪塘の江川町曳山七宝丸の絵に付てはすでにこの社報にて発表したので省略するが、今般「大明神」の額が発見された。これは横一尺二寸縦二尺二寸の杉の板に「大明神」と刻みこんだもので、明和四年とあるから唐津藩主水野公入部から四年後となる。ここで曳山の沿革を調べると、もともと唐津神祭には氏子十六ケ町の火消組が神輿のお伴をして、その後舁傘鉾山となり、それから囃もなにもないまあ殺伐なる走り曳山となって、その一番先頭に江川町の鳥居が車に乗って曳かれて先祓の役を勤めた。その時の鳥居の額が今度の大明神″の額であることは略々間違いあるまいと言うことである。それは後年江川町が七宝丸の曳山を製作した後もある期間何らかの形で赤獅子の前に曳いていたものの如く、神祭図絵にあの鳥居が画かれてあり、その額の文字が今度の文字と同じものであるからである。ともあれ刀町の赤獅子よりも五十年も前から鳥居を出いていたことになり、今般この額が発見されたと言うことは、江川町町内発展の瑞祥なりと町内挙りて大いに喜び、川添駄在員、森町内会長以下役員に脇山曳山総取締も参加して、十一月十三日此の絵を唐津神社に持齋き奉告祭を執行、市長代理進藤収入役に目録を添えて現品を引渡し、市では展示館に目出度く納められたのである。
刀町の二十日 恵比須祭
 昔から刀町では町内の東西に恵比須様のお姿を各家順番に講を持ってお祀りしていたが、世の進みに連れて一月二十日町内主催の下に大手口の真中に二体のお姿を斎場を舗設してここに十九日夜より奉斎し、町内役員参列して厳かに祭典を執行し刀町に昔から伝わる 二十日恵比須の歌

二十日恵比須の売り物は
  はせ袋にとりばし
       銭がます
小判に金箱立烏帽子
  いれますさいづち
      束ね熨斗
お笹をかついで千鳥足
  アーコリャコリャ

と太鼓に合せて歌いつつ福引神酒披露をしてお守お供物を参詣人に授与したので、今年より初めての祭礼ではあり皆驚き且つ喜ぶと言った風景であったが、例年刀町大手口の年中行事にすべく町内大いに張切っていた。


 唐津神社境内社
 白飛稲荷
 火伏稲荷の初午祭

 二月二十六日は旧二月の初の午の日に当り、此日は稲荷の神の初めて此の世に現われ給うた善き日で、商売繁昌、諸職業の繁栄を願う多くの人々の稲荷詣りをする日である。
 唐津神社境内にも古くから白飛稲荷と称えて呉服町町内が斎き奉り、又火除稲荷と称えて本町町内が斎き奉る二杜のお稲荷様が鎮座しておられる。両社とも夫々呉服町本町から奉仕して大祭を執行して、参拝者には福引して接待する外お神酒、御守り、お供物を授与する等神徳発揚に勤めて終日参拝多く賑った。
明神ビル誕生
四月から店開き

 唐津神社の参道明神小路にあった曳山格納庫を貸店舗として改装中のところ、このほどその工事が終り、八店舗に貸付けて、その内装工事が終り次第明神ビル〃として華々しく店開きをすることとなった。
 この建物は去る昭和三十四年曳山格納庫として、市がこの貴重な文化財としての曳山を災害から保護する立場から建設したもので、以来その目的を充分に果して来たものであった。
 その後この曳山が観光の面でも大きくクローズアップされ、又唐津城の建設と相俟って唐津観光の二つのポイントとされるに及んで参観希望者が増して、常時参観の施設の必要に迫られたので、現在の曳山会館が文化会館施設の一環として建設され、昨年秋開館されたわけである。
 そこで、神社に於てはその跡の格納庫の建物を市より買収して神社の所有となし、早速氏子総代中より運営委員を選び運営委員会を結成し、花田繁二氏を委員長に推し今後の運営に当ることとした。
 協議の結果、今後は貸店舗として発足することとなり、昨年十二月以来改装工事を江里鉄工の手によって進めていたもので、このほど完成した。
 又一方、この新店舗の入居希望者の募集を進めていたところ、希望者が多いため、委員会に於て慎重審議の上、その選考をなし次のように決定した。
 菓子販売芳賀。理容ニュー大阪古賀譲。メナード化粧品山口初子。ハリウッド美容院中野繁。果物販売池田キクエ。喫茶店石狩那須宜子。民芸品わらべ江頑アイ。厨房器具販売東松浦米販

明神ビル落成式
 去る三月十七日午前十時より現地に於て、氏子総代、工事施工者、入居者等が参列して明神ビル店舗落成清祓祭を執行し今後の発展を祈念した。
 又午前十一時よりは会場を文化会館に移し、来賓に市長、議長、商工会議所会頭、曳山総取締等を招き落成を祝って簡素な祝宴を開き前途の発展を祝した。
曳山ばやし
   大阪出演

 第十回九州沖縄大阪観光展が去る二月九日から十四日まで、大阪市南区灘波の高島屋百貨店に於て、九州各県、琉球政府、国鉄九州総局が主催して開催されたが、わが唐津の〃曳山ばやし〃が佐賀県の代表として選ばれ出演した。メンバーは脇山曳山総取締を団長として十名で編成され、昨年の万博にも出演したベテラン揃いで、今皮も大阪のど真申で佐賀県と唐津市のために大いに張切ってその責を果して来た。この会期中佐賀県は十二日から十五日まで、毎日二回の出演。
 第一日目は到着するや早速在阪の唐津出身の婦人方十数名の歓迎を受け、旅のつかれもフッ飛ばして元気に第一回の演奏をする。
 この時は瀬戸市長も会場に姿を見せ采配を振って応接して下さる。
 会場の高島屋といえば何といっても大阪の真中で、入場者は一日五十万というからすごいもの、従ってその宣伝効果も大したものである。
 かくて三日間を通じて、他県に負けない好評を得て成功裡に終了した。

社 務 所
修築工事

 文化会館又曳山展示館の建設敷地の未決定中は社務所を境内に上ぐる計画もあるにはあったが、今般文化会館が現在地に建設され、神職氏子総代の大方の意見が社務所は現在地でよろしいと言うことになり、これには文化会館の設計助言者たる村野博士も文化会館の〃新〃と社務所の〃旧〃がよき対象で、殊に文化会館の上より眺めたる社務所屋根の姿は何とも言えぬ風雅にして古風なよい格好なりと有難いお褒めのお言葉を頂戴したこともあって、お宮の上に上ぐることは思い止まり、荒果てているこの社務所彰敬館を修理することとなり、先づ中庭の植木の植替、湯沸場、茶の間の新設、庭園樹木の植替、泉水の水漏り大修理、建具とり番え建付け直し、大玄関中玄関の大修理、押入れの棚造り等、それに社務所の南に着けてハイカラ乍ら今風の建物で三方、案薦等を格納し、又出し入れする祭器庫を作って礼典介助に便ならしめ、又便所を大修理して小便口を二つにする等日日の業務に便利にする様にした。
 ついで拝殿又后拝口の照明器を改め、又スイッチを新にとり付けて一昨年の燈寵新点燈と相俟って見事なものとなった。
 右工事は十二月初めに始めて年越して二月の初めには全く成り節分祭に間に合い、多くの人々の参加するこの大祭に大いなる効果をみたのであった。

花田繁二総代
   逝去さる

 唐津神社筆頭氏子総代花田繁二氏は去る四月一日逝去された。八十才。
 氏は昭和二十六年氏子総代に推され、兼ねて曳山総取締の役にもあり、戦後の荒廃した曳山の塗替修理に要する経費の公費による支出を始め曳山の博多に於ける九州観光祭への出展、又大阪宝塚出動等を推進し、その間、格納庫の建設、明
神台神幸場の確保、唐津神社御鎮座一千二百年祭記念事業、神饌所御屋根修覆工事等に専心奉仕された。
 この功績により佐賀県神社庁長より、又神社本庁総裁よりの表彰の栄誉に預った。
 こゝに御生前の御功績を感謝し、御冥福を祈る次第である。

氏子総代異動
 責任役員花田繁二氏逝去に伴い、その欠員補充として平田常治氏が推薦された。 その他大名小路松岡伊三治氏が就任した。