唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第21号  昭和45年10月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
唐津くんち   十一月三日 神幸祭
今年の唐津くんちポスター
 「唐津くんち」は恒例により、来る十月二十九日の「神輿飾り」と「本殿祭」とによって始まることになります。
 このお祭りは遠く、寛文年中に始められたもので、当時より神輿が氏子中を神幸され、氏子町々から思い思いの出し物が奉納され賑々しく行なわれて来たもので、藩主も必ずこれに供奉して、祭りの奉仕を怠らなかったといわれます。
 十月二十九日は「明神様の御誕生日」ともいうべき日で、今から千二百十五年前の昔、天平勝宝七年九月二十九日に「唐津大明神」の神号を朝廷より賜った日で、この日が永く例大祭日としてつゞけられた日であります。
 さてこの日から「おくんち」が始まり、十一月二日宵宮祭、十一月三日神幸祭が行なわれ神輿の渡御があります。
 これは一般の祭りでは拝観することが出来ないのであって、氏子十四の町から「囃曳山」が供奉して行くもので、これを神様の「おわたり」又は「おくだり」等といわれ、これによって氏子は直接神様をお迎えしてその祝福をいただくわけであります。
 いづれにしても御神徳の更新、御神威の新らしい御発揚を信じ奉るものであります。
 ところで、この祭りの順路や曳山の曳込みの場所等について、今年は若干の変更がありますのでお知らせします。
 御承知のように文化会館がそれまでには完成し、開館され、神社々頭に一大偉観を現わすことになるわけで、これに伴ない、曳山はそれまでには全部曳山展示館へ移転を終え、おくんちにはそこから曳出されることになります。
 そこで、お祭りの行事の次第を順を追って見てみましょう。
  ○
 十月二十九日 午前九時 神輿飾りの儀  総行司 京町 刀町
 十月二十九日午前十一時 本殿祭
 十一月二日 午後九時 宵宮祭
 十一月二日 午後九時 宵山曳き、各自町より曳出し、町内廻りの後午後
          十時半社頭文化会館前へ曳込み勢揃い。
 十一月三日 午前五時 神田獅子舞奉納
 十一月三日
 御神幸
  発輿祭 午前九時半
 御発輿 午前十時  (煙火合図)曳山供奉して氏子中を神幸
  御旅所祭 正午
  西の浜明神台着輿、曳山勢揃い
 還御  午後三時
 着御  午後四時
   神輿は神社へ、曳山は各自町へ
 十一月四日 午前十時
 翌日祭
  午前十時曳山杜頭より曳出し、氏子町内巡幸午後四時曳山展示館へ
 十一月五日 午後三時 神輿納めの儀 総行司 米屋町、大石町

唐津商業甲子園出場   必 勝 祈 願
 甲子園出場と言う郷土斯界に於ける空前の大業を為し遂げた唐商野球部は、更に全国優勝を目指して出発に際し唐津神社に必勝祈願をした。
 八月三日五十嵐主将以下関係者多数参列、主将玉串を奉りて拝礼して必勝を祈った。
 第二回戦に相模高校より五対四にて惜敗せしも相手は優勝候補にて後優勝したのであるから、これを大いに苦しめて初出場の松浦健児の意気を天下に示した。


唐津曳山
 「鯱」と「七宝丸」の出生に付いて


常安弘道史談会長の主宰せらるる我唐津唯一の郷土史誌である「末盧国」第三三号の五月二十二日刊の第二面に佐賀県立図書館の岩松要輔先生が「唐津曳山の儀水主町は新調江川町は修覆」と題して我唐津曳山の歴史沿革の数少ない貴重なる珍らしい記録を解説して掲載して居られるのであるが、この「末盧国」と言う史誌は発行部数僅少にて広く行亘らないので、我唐津神社曳山各町のみならず広く氏子の方々へ郷土唐津人として知って置いて貰い度いと思い常安・岩松両先生の御許しを得で茲に転載する次第である。
 
 「末盧国」第33号、岩松要輔先生の「唐津曳山の儀水主町は新調江川町は修覆」を参照して社報に加筆しました。(吉冨寛)


 水主町曳山 竜王丸
  唐津曳山の儀
  水主町は新調
   江川町は修覆
 昭和三十四年佐賀県文化財調査報告書第八輯に、故飯田一郎先生が「唐津のヤマについて」という論題で報告書を作成しておられる。最近、この報告書に利用されていない新資料を見つけたので紹介してみたい。
 これは明治八年十一月に江川町と水主町の惣代がヤマの造換、新調について県に願書を提出したもので。これに唐津扱所の副書と県の指令書が一揃になっている。前掲報告書によると江川町と水主町のヤマはそれぞれ明治九年十月と十一月に完成したとされ、十五台の山のうち最後にできたものとして記されている。
 しかしどのような経過で作られたか知られていない。発見の資料によって種々此間の事情がわかって興味深い。
 
  曳山の義に付願

在来之曳山四ツ車台張子鳥居ニ御座候
                          江川町

是迄町内在来之引山大破二付、一同遂協議ヲ別紙図面之通り造リ換、天長節ヲ始唐津郷社神祭等ニ献供仕度此段、奉願候 以上
      第五大区四小区松浦郡江川町
             明治八年十一月九日
                惣代 山岡惣兵衛
佐賀県令北島秀朝殿

 奉納曳山ノ義ニ付願
                           水主町

天長節ヲ始唐津郷社江各町ノ通張子龍王丸別紙図面之通リ曳山候仕度、町内遂協議候ニ付御差支無御座候得バ被差免度此段奉願侯 以上
               明治八年十一月八日
       第五大区四小区水主町
               総代 高崎俊太  印
佐賀県令北島秀朝殿
 

 両通の願書とも文末に第五大区四小区戸長永渕主一と副戸長太田播衛の「本書之通リ願出候間則進達仕候也」という添書がしてある」この願書によってわかることば①飯田先生が前掲報告に述べられているように「曳山」「引山」とヤマのことを称していること。②江川町の曳山はこれまであった「四ツ車台張子鳥居」が大破したので造換であったこと。水主町は全く新調であったこと。③当時の曳山が天長節の唐津郷社の神祭に行なわわていわらしいことである。
 この二通の願書に唐津扱所が付した副書は次の様なものである。


 熊野原神社氏子 江川町
 大石天満社氏子 水主町
右二ケ町ヨリ唐津神社江奉納囃山新調仕度申願出ル、尤江川町者従来車台の鳥居引山有之候分ヲ外町囃山体裁ニ造作替仕候願ニ御座候得共体裁替ニ相成候ハバ矢張新調同様之儀郷社ト者乍申氏子違之神社江奉納願者不都合之次第殊ニ新調入費モ不尠冗費ニ属候間其費ヲ以テ当御体裁ヲ体認仕、学費或者救貧等ニ尽力の道相立候様惣代ヨリモ懇ニ教示、扱所ニ於而モ再応説諭相加ヘ候得共町内面立侯者共ヨリ引山目論見候ハバ、町内末々迄身分相慎之当御趣意違背不仕様談居、右一日之楽ミヨリ永々町内取締ニモ相成候旨申立候ニ付、其目途仕法書相添願出候様説諭仕候得共、其書面者相添兼全目途者相違モ無之次第ニ付、押而願立呉候様申立候、願書扱所ニ於而延滞可仕筯ニ無之、且説諭之情実副書仕候者人気如何ト存候条
願書面江者通常副書進達仕候条(加筆修正)、御聞置迄開申仕候也
     明治八年十一月九日
               唐津扱所 印
       渥美大属殿
   この副書によって次のような点が知られる。①ヤマのことを囃山とも云い江川町の在来のヤマの「車台の鳥居引山」は囃子山ではなかったこと②江川町は熊野原社、水主町は大石天満社の氏子であり、唐津郷社の氏子ではないと言う考えがあったこと③明治新政府の「当御体裁」が入費冗費を好まずヤマの新調をするくらいなら学費か貧困者の救済にあてるべきだと考えられたこと④町内の考えは引山により「一日之楽ミヨリ永々町内取締ニモ相成リ」と考えたことなどである。
 この江川町と水主町の願書に対して県は別々に次の様に指令している。

江川町の願書へ
 書面願之趣是迄市中ニ於テ曳山在来之分江加修覆候儀ハ聞置候得共造換等ノ儀ハ難聞届候事、但曳山ノ儀ハ郷社祭札日ニ限候儀ト可相心得事

水主町の願書へ
 書面願之儀ハ既二調整之分ハ差許置候得バ、自今新調之儀ハ難聞届候事、但曳山之儀ハ郷杜祭礼日ニ限候儀ト可相心得事

 これによって江川町は修覆、水主町は調製の分としてヤマの製作が許可され、今日の七宝丸、鯱となったのであろう。それに曳山の期日を唐津郷社の神祭の時に限っていることも注目される。

 以上の通りであるが、最近七月十九日満島八幡社夏祭の際に前記水主町の総代高崎俊太氏の後裔に当る方で、只今東唐津小学校の前に商業を富んで居らるる高崎啓一氏が突然奇しくも現われ名乗りを上げられ、当時の事情を次の様に補足された。
 それによると愈々山を作ることに一決して、高崎氏は北陸の輪島に至り塗師を頼むべく水盃にて家族と別れを告げ、途中名古屋に至り金の鯱を見、途中で気が変り龍王丸より鯱になったと言うことである。
 高崎家は元小笠原藩士で藩政時代迄は城内に居住したが、御一新後は水主町に移り商業を営まれ、その当時町総代の役を勤められていたのであった。
 何れにしても御一新後はチャンと其筋の許可を得て製作され、これが運営に関しても公共制を帯びることとなった次第である。

 


石の玉垣を社前に復元す
 明治三十六年本町の実業家吉村儀三郎氏は当時本殿の見事なる玉垣を寄贈され社殿の尊厳誠に見るべきものありしが、昭和十三年大改築の為、新に木製の朱の透塀が施設されたので、右の玉垣は裏口の塀として移動させていたが、最近社前の木柵が腐蝕して来た故、木柵を取除き石の玉垣を此処に移し、玉垣の跡には新にブロックの塀を作った。
 工事は四月二十三日より十日間にて後藤利一氏が献身的にされて完了した。この石の玉垣は元の処に復帰した訳で、先般此の所の燈籠に点燈したことと相和して社頭威容を添えた。

 小笠原祖霊
 四月二十日午後二時より常安弘通氏主宰して旧藩関係者多数参列して小笠原公の徳を追慕した。
 尚市より岩田教育長が参列した。

 社務所大屋根修理及庭園の手入
 近時雨天に際して社務所大広間の処が雨漏りするので山崎左官(八百屋町総代)を煩わして点検したる処大屋根の瓦が大分ズレていたので五月二十日より、梅雨前に修理して、大雨と雖もー寸も漏らなくなった。又これより先春祭を控えて社務所の庭園を手入して奇麗にした。

 氏子総代異動
 これまで西城内担当の蓮尾恭子様及桑原ムメヨ様御退任になり、その後任として長浜海造殿、田代アヤ子様四月二十九日付を以って就任され、新しく神社の為お世話を頂くこととなった。

 岩下定蔵総代  逝去さる
 京町岩下定蔵名誉総代には多年神社の為に尽し殊に大幟を奉納して崇敬されしが、七月七日八十八才の天寿を全うし逝 去されたので、茲に謹んで生前の御功績 を謝し冥福を祈る次第である。

鳥栖市に於ける
 佐賀県神社関係者大会
 五月十日午前十時より鳥栖市中央公民館に於て県内氏子総代千名参集して当面の神社問題を討議し、神社本庁岡田米夫講師の講演を聞き又郷土芸能獅子舞を観賞した。
 我唐津神社より大西儀三郎・柴田朝次郎・石田安智賀・皆良田伝吉の各総代に戸川宮司も参加し、更に満島八幡の山口栄次郎総代は神社経営に関して堂々と意見発表をなし、唐津総代の為に気を吐いた。
唐津曳山囃子
 万国博へ出演

 大盛裡に閉幕した万国博は全国主要なる郷土芸能には各県別に出演したが、佐賀県よりは鹿島の面浮立、基山の獅子舞等と相共に我唐津よりも曳山囃子が佐賀県代表として七月一日、二日三日、四日と出演した。
 七月一日は佐賀県の日で一千の観衆がつめかけくる中に自治体館脇の憩いの広場にて開会式が行なわれ、瀬戸唐津市長・竹尾商工会議所会頭・佐久間・富田・石井・宮崎の各県議、地元大阪唐津会長古川隆俊・同副前田康晴・同浜地藤太郎顧問・保利代議士夫人・知事夫人等百人が出席して、池田知事・小原議長・中尾佐賀新聞社長等次々に挨拶して県人会代表が祝辞を述べて、代表演奏は鹿島の面浮立と唐津の曳山囃子が選ばれ、会場には新調した十六本の各町曳山を表わす旗指物と赤獅子、青獅子、浦島を画きたるカラーパネルが目立ち、囃が〝競り″になると知事も市長も在阪代表も皆ステーヂに上り「エンヤー・エンヤー」と、又観衆も予め配られた采配を振って会場に唐津供日ムードがあふれ、万国博に大きな反響を呼んだ。以後四日まで毎日十時、一時、三時と三回出演した。
 曳山囃のメンバーは太鼓宮田一男・田中富三郎、鉦平田常治、笛一色高義・一色耕次郎・福島千資・小島惣一・松本千代造・野田邦次・戸川健太郎の諸氏である。尚是より先、太鼓・鉦を新調し、唐津神社にて入魂式を執行した。

曳山幕洗祈事
 恒例夏の行事曳山幕洗祈事は八月二十六日午後七時より各町舟を仕立て提灯をかざり、笛・太鼓・鉦の曳山囃も勇ましく町田川・松浦川を上り下って大賑いを呈した。今年は川舟が少なく当局に於いては其の調達に随分苦労したが何とか間に合わせた。

寿社例祭
 旧三月二十三日は境内社寿社の祭で好み給う〝シジミ貝″を供え、神亀顕現町の瑞祥を祝い、関係町呉服町・中町・木綿町の信者その他の有志出席して例祭を執行した。この神様は首から上の病を即ち頭・口・目・鼻・咽喉・歯等の病を療し給う。

唐津水天宮祭
 五月九日(旧四月五日)午前十一時より在唐筑後人会員五十名出席して唐津神社境内に奉斎する水天宮前に集まり、戸川宮司祝詞を奏し高田安一会長玉串を捧げ一同礼拝の後、社務所に於いて直会、水天宮の神徳を称え郷土筑後の国を偲んだ。

唐津神社 春祭賑う
 四月十九日午前十一時戸川宮司以下神職に佐賀県神社庁より加土田奠士副庁長献幣使となりて、又氏子総代、来賓多数参列して先づ本年の豊作次いで諸職業の繁栄を祈り、夫々玉串を奉奠して厳粛荘重裡に祭典を終る。
 昨年に引続き今年も助勤神職多数参加され、中にも隈本真由美宮司、本城徳子禰宜の顔も見えて祭典に潤いを添えた。
 境内の生花展と曳山勢揃いは例年の通りにて其他郷土民芸の浮立・大名行列等も参加して、境内の舞台では遠く直方市の納祖太鼓も奉納してお祭気分を盛り上げた。
 尚今年は中町より組立式舞台の奉納あり、生花展示台が古くなって使用致し難くなっていたので、これを改造して利用し好都合であった。
 又祭典終了後直会に先立ち総代出席の上、昭和四十四年度社費歳入栽出決算及基本財産並積立金の収支を報告した。
戸川省吾祢宜
  神職講習錬成会に参加

 戸川省吾禰宜には六月二十日二十一日の両日佐賀県神社庁主催にて県内五十名の参加神職と共に、又八月二十二日二十三日の両日には鳥栖四阿屋神社にて夫々講演鎮魂・禊等の錬成会に参加して身心を錬磨して神職向上に尽した。

唐津神社夏祭
 七月二十九日午後七時社前の茅の輪の処に宮司以下総代参集、戸川宮司大祓詞を奏し次に宮司と共に一同形代を行い茅輪くぐりをして昇殿、暑気禍事のなきよう祈願して後、社務所で直会を行ない午後十時散会した。今年は石の玉垣を拝殿正面に移し、燈籠に火が入りたる社頭の夜景を参詣者は賞しつつ参詣したのであった。


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